– 栗原貞子の思想と沼田鈴子の実践から学ぶべきもの –
以下は去る8月10日、武蔵野公会堂第1会議室で行った講演のために用意した講演概要に大幅に加筆したものです。ご笑覧、ご批評いただければ光栄です。
1)栗原貞子の生涯と反戦反核文学作品
2)沼田鈴子の生涯と平和構築実践活動
3)憲法9条と前文に象徴される栗原貞子と沼田鈴子の非戦平和思想・実践活動
4)記憶が芸術的表現を介して象徴表現化されるとき、その記憶は訴える力を持ち永続化する
5)結論:文化的記憶の創造を!
6)補論: 7〜8月の一時帰国を終えて、日本のメディア報道について考えること
1)栗原貞子の生涯と反戦反核文学作品
1913年3月4日:
広島県安佐郡可部町(現在の広島市安佐北区)の農家の次女として生まれる。旧姓は土居。大正デモクラシーの比較的自由な雰囲気の中で育ったこともあってか、読書好きの文学少女として育った。可部高等女学校時代には、短歌や詩を同人誌で発表したり中国新聞に投稿するなどの活動。
1931年(18歳):
女学校卒業の1年後、文芸活動で知り合った栗原唯一との結婚を決意。栗原唯一はアナキストで警察からマークされる存在。親はそんな唯一との結婚に反対したため、家出をして二人で四国を転々とするが、夫の実家に戻り、32年に長男を出産(2歳で死亡)。1935年:長女・真理子、39年:次女・純子誕生。
(アナキズムとは、人間の自由と尊厳を重んじ、あらゆる権力からの自由、無権力・無支配社会の実現を理想とする、ヒューマニズム獲得の思想。しかし、国家権力を認めないことから、「無政府主義」と訳され、「国家転覆思想」として危険視された。幸徳秋水、大杉栄、伊藤野枝らが殺害されたのも、無政府主義が「危険分子」とみなされたから。)
1940年:
夫の唯一が徴用されて中国に送られるが、脚気のためにすぐに送還された。唯一が中国で実際に見聞し衝撃を受けた日本兵の残虐行為について、バスの中で知人に話したところ、乗客に警察に密告されて起訴された。貞子は、戦時下、夫が秘蔵していたクロポトキンの『パンの略取』、『田園・工場・仕事場』、『青年に訴う』などのアナキズム関連の本を読んで、自由発意と自由合意にもとづく平和な無権力社会の実現を夢見ていた。同時に反戦の短歌、詩、エッセイなども密かに書き綴っていた。
1945年8月:
8月6日広島原爆無差別殺戮の3日後に、隣家の娘を探すために爆心地から4キロ離れた当時住んでいた自宅から市内中心部に入り、入市被爆。夫は三菱重工祇園工場に勤めていたが、工場から市内に家屋解体作業に出ていた従業員を救出するために市内に入って入市被爆。「黒い雨」にもうたれ放射能をかなり浴びたため、11月頃まで原爆症で苦しんだ。
1945年11月:
夫の呼びかけで、作家・細田民樹らを顧問に「中国文化連盟」を創設。60人が参加。
1946年3月:
文芸雑誌『中国文化』の創刊号「原子爆弾特別号」を、GHQの検閲を受けて発行。百人ほどが短歌、詩、散文を寄稿。栗原貞子は「悪夢」と題した12首の歌と「生ましめん哉」(後に「哉」を平仮名に変えて「生ましめんかな」)を寄稿。3千部を完売。同年7月、反戦・原爆詩歌集『黒い卵』を自費出版。『黒い卵』では、「戦争とは何か」を含む3編の詩と11首の短歌が検閲で削除され、自己規制で9首の短歌も削除。詩29編、短歌250首を収めた本となった。(1983年に、削除された作品も全部収録する形で「完成版」を出版。)
興味深いことには、検閲では、戦時中の1942年10月に日本軍の残虐行為をテーマに密かに作詩した「戦争とは何か」は削除され、原爆直後の出産をテーマにした「生ましめんかな」は削除の対象とはならなかった。おそらく検閲した占領軍検閲官は、「戦争とは何か」で栗原がとりあげた残虐行為を、単に日本軍のみならず、当時の占領軍が日本市民に対して犯していた強姦・強盗をはじめとする様々な犯罪行為への非難とも受け取れると考えたからではないかと推測される。この詩の中では、例えば、「殺人。放火。強姦。強盗。/逃げおくれた女達は敵兵の前に/スカートを除いて手を合わせるというではないか。…… 女に渇いた兵士達が女達を追い込んで/百鬼夜行の様を演じるのだ」といった表現が含まれている。その一方で、「生ましめんかな」には、原爆被害にあったにもかかわらず、産気づいた若い女性に「人々は自分の痛みを忘れて気づかった」のであり、「かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた」という表現に、原爆被害がそれほど酷いものではなかったかのような印象を与えているだけではなく、原爆にもかかわらず新しい生命が生まれるという積極的な面があると、米軍検閲官は理解したのではなかろうか。
ちなみに、「生ましめんかな」は、以前から小中高校の平和教育のための教材として使われ、現在も国語教材として一部の教科書に使われているが、1988年には、先生たちが赤子をとりあげた産婆の行為を「自己犠牲」の美徳として讃えることで、「修身道徳の美談として矮小化」してしまったと、栗原は嘆いている。(現在はこのような「美談」解釈は、幸いにしてなされていないようである。)
1950〜60年代初期:
1950年、5号までという少ない数であるが『ヒロシマ婦人新聞』を発行。戦争直後に多かった戦争で夫を亡くした寡婦の問題(「未亡人」という言葉の人権無視性を指摘)や男女平等問題について論評。その後、夫が発行する『広島平民新聞』と統合。
1951年4月に夫は町議会議員に、55年4月に県議会議員に社会党から立候補、当選し、3選される。貞子は夫とともに地域問題のために奔走。1958年の第4回大会から原水爆禁止大会に参加し、1959年9月に「原水爆禁止広島母の会」を仲間たちと結成し、機関紙『ひろしまの河』を発行。1961年第7回大会後の分裂問題で運動そのものよりも組織体制を重視する原水禁運動に失望して離脱。しかし、62年第8回大会では和英対訳のThe Songs of Hiroshima の詩集(栗原貞子と大原三八雄、米田栄作、深川宗俊らとの合同詩集)が配布された。
1960年代半ば〜60年代末:
米国のベナム戦争介入が本格化する65年代から、日本でも急速に高まったベトナム反戦運動に栗原貞子も深く関わるようになり、小田実や鶴見俊輔が率いる「ベ平連」に参加、「広島ベ平連」代表となる。68年9月から数カ月間は、ベトナム脱走兵・清水徹雄(広島出身、被爆者で米国滞在中に徴兵される)救出のため奔走する。
同時に、韓国人被爆者の存在と問題も知るようになり、「差別」批判の声も強めるようになる。この時期、こうした運動を通して、栗原貞子の反核・反戦意識は、「被爆国日本の基地が、ベトナム戦争の基地として使われ、それを許している日本国民の加害者であり、被爆者も軍都広島の市民として戦争に協力した加害者である」という、原爆被害者の戦争「被害と加害」の二重性を強く認識するようになる。
1970年代:
1970年、岩国米軍基地の200メートル沖に停泊する上陸用船艇に核兵器が複数貯蔵され、核兵器部隊も存続していることが判明。沖縄の本土化を危惧し、岩国基地への抗議デモ、基地撤去要求デモ、基地前座り込み、街頭宣伝などにも積極的に参加。1972年の沖縄全面返還により米軍沖縄基地問題にも関心を強めるようになった。1971年7月、「ヒロシマというとき」を発表。
当時の高度経済成長時代、水俣や四日市をはじめ日本各地で公害問題が発生すると同時に、石油危機、電力需要の高まりなどもあって、「クリーンなエネルギー源」として原発建設が急速に推進されるようになった。この状況を栗原貞子は深く憂慮。75年2月、東京の市民グループ「原爆体験を伝える会」での講演でも「エネルギー源としての核による新しい被曝者ができつつある」と述べた。同年、中国新聞が市民から募った懸賞論文「昭和50年代への提言」に応募した論考「核文明から非核文明」でも原発事故の危険性のみならず、原発稼働と核兵器製造が表裏一体になっていることを鋭く指摘。被団協を含め被爆者の大部分が「原子力平和利用」を支持していた当時、原発反対を公に唱えた被爆者は稀であった。
1980〜90年代:
80年10月、唯一が原爆後遺症の膵臓癌で死去。その後も、「広島・長崎への原爆投下は、人道上、国際法上許すべからざる犯罪である。しかし、その絶対性は、その誘発を許した国民の責任やアジア諸国民への加害責任を不問にしたり相殺したりすることはできない。被害と加害の複合的自覚に立つとき、初めて他国民間の連帯が可能になる」という信念から、多くの詩を創作。しかし、90年12月、栗原が当時常任理事を務めていた広島県原水禁のニュースに載った「問われるヒロシマ―被害と加害の複合的自覚を」が、被爆者は戦争加害者ではなく、原爆被害の実情を伝えることこそが使命と考える理事たちから反発を受け、栗原は常任理事を降りる。
栗原の憲法9条擁護思想は晩年になるほど強まっていき、1992年に「第九条の会ヒロシマ」が立ち上げられ、その年の8月6日以来ほとんど毎年この会は新聞に意見広告を出し続けているが、92年の標語、「憲法九条はヒロシマの誓いそのものです。再び、アジアの人々へ銃を向けさせまい」は、栗原が提案したもの。93年、94年の標語も彼女の案による。
91年2月、長女・真理子が安佐北区可部町の栗原家の墓地に、父母のために憲法9条「護憲碑」を設置。当時、貞子は78歳。
2005年3月8日死去。
栗原貞子は「詩人」として世に知られているが、私は彼女の評論を集めた数冊の著書もひじょうに鋭利な政治社会評論集であり、読まれ続けるべきものであると考えている。とりわけ、『核・天皇・被爆者』(三一書房 1978年)は、天皇裕仁と日本の戦争責任、米国の原爆無差別殺戮に対する責任問題を考える上で、ひじょうに重要な本であると思っている。
「生ましめんかな」
(『中国文化』1946年3月)
こわれたビルディングの地下室の夜だった。/ 原子爆弾の負傷者たちは
ローソク1本ない暗い地下室を / うずめて、いっぱいだった。
生ぐさい血の匂い、死臭。 / 汗くさい人いきれ、うめきごえ
その中から不思議な声が聞こえて来た。 / 「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。
この地獄の底のような地下室で / 今、若い女が産気づいているのだ。
マッチ1本ないくらがりで / どうしたらいいのだろう
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。 / と、「私が産婆です。私が生ませましょう」
と言ったのは /さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で / 新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな / 生ましめんかな / 己が命捨つとも
「ヒロシマというとき」
(「ヒロシマというとき」1976年3月)
〈ヒロシマ〉というとき / 〈ああ ヒロシマ〉と / やさしくこたえてくれるだろうか
〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉 / 〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉
〈ヒロシマ〉といえば 女や子供を / 壕のなかにとじこめ / ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑 / 〈ヒロシマ〉といえば / 血と炎のこだまが 返って来るのだ
〈ヒロシマ〉といえば / 〈ああ ヒロシマ〉と / やさしくは返ってこない
アジアの国々の死者たちや無告の民が / いっせいに犯されたものの怒りを噴き出すのだ
〈ヒロシマ〉といえば / 〈ああヒロシマ〉と / やさしくかえってくるためには
捨てた筈の武器を/ ほんとうに捨てねばならない
異国の基地を撤去せねばならない / その日までヒロシマは / 残酷と不信のにがい都市だ
私たちは潜在する放射能に / 灼かれるパリアだ
〈ヒロシマ〉といえば / 〈ああヒロシマ〉と / やさしいこたえがかえって来るためには
わたしたちは / わたしたちの汚れた手をきよめねばならない
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戦時中の日本の反戦詩(当然ながら、当時そのほとんど全てが未発表)には、栗原の作品だけではなく、他にもひじょうに秀れた作品がある。例えば、竹内浩三の「骨のうた」は、私はそうした秀作の一つだと考えている。
「戦死やあわれ/兵隊の死ぬるやあわれ/とおい他国で ひょんと死ぬるや/だまって だれもいないところで/ひょんと死ぬるや/ふるさとの風や/こいびとの眼や/ひょんと消ゆるや/国のため/大君のため/死んでしまうや/その心や/
苔いじらしや あわれや兵隊の死ぬるや/こらえきれないさびしさや/なかず 咆えず ひたすら 銃を持つ/白い箱にて 故国をながめる/音もなく なにもない 骨/帰っては きましたけれど
/故国の人のよそよそしさや/自分の事務や
女のみだしなみが大切で/骨を愛する人もなし
/骨は骨として 勲章をもらい/高く崇められ
ほまれは高し/なれど 骨は骨 骨は聞きたかった
/絶大な愛情のひびきを 聞きたかった/それはなかった/がらがらどんどん事務と常識が流れていた/骨は骨として崇められた 骨は チンチン音を立てて粉になった/
ああ 戦場やあわれ/故国の風は 骨を吹きとばした/故国は発展にいそがしかった/女は 化粧にいそがしかった/なんにもないところで/骨は なんにもなしになった」
傑作ではあるが、戦時中のこのような日本の反戦詩は、どれもみな自分の戦争「被害者」としての痛みと苦悩を謳うばかりで、栗原の「戦争とは何か」のように、加害の痛ましさ、加害と被害の重層性を謳っているものはほとんどない。
この観点からするならば、ベトナム戦争時代にボブ・ディランが作った、戦争で傷つき醜い身体になった兵士が故郷に帰ってきて駅で母親に会うという話の歌、「ジョン・ブランウン」は最高傑作の一つだと私は考えている。その一節に次のような歌詞がある。
「ああ、ぼくは戦場にいたとき、ああ、神さま、いったいぼくはここで何をしているんだと思ったよ/ぼくは人を殺そうと一生懸命になった、でなきゃぼくが死んじゃうと/でも本当に怖かったのは、敵の兵士がぼくの身近までやってきて、そして彼の顔をみたとき/ぼくとまったく同じような顔じゃないかと気がついたとき」 (余談であるが、ディランがノーベル文学賞を拒否するものとばかり思っていた私は、最終的に彼が授与を承諾したことに痛く失望させられた。)
2)沼田鈴子の生涯と平和実践活動
1923年〜:
沼田鈴子は、7月30日、大阪で生まれる。父はジャーナリスト。兄と妹がおり、5歳のときに父の仕事の関係で広島に移転。典型的な家父長制的、愛国主義的な教育を受け、天皇を崇拝する当時の典型的な女学生として育った。
1940年〜42年:
女学校を卒業し、しばらく父の助手として働くが、父がジャーナリストの仕事を続けるのが難しくなり、父は逓信局広島支局事務員となった。太平洋戦争開戦の4ヶ月後の1942年4月より、鈴子も逓信局広島支局事務員となり、兄も妹も同じ逓信局広島支局に勤務。
1943年秋〜44年:
父の親友の息子(27歳)と婚約、44年に結婚の予定。しかし、44年3月に婚約者が徴兵されて海外に送られたため、結婚延期(戦後、南太平洋で婚約者が戦死したことを知らされる)。
1945年8月6日〜47年3月:
爆心地より1,300メートル離れた広島逓信局ビル内で被爆。崩れたビルのコンクリートの下敷きになり、左足を負傷しながらも助かる。しかし、左足が腐敗したため、膝上から切断手術を受ける。その後、1年半の入院生活の間に4回も手術を受けなければならなかった。
1947年3月〜57年:
被爆後しばらくは精神的打撃から立ち直ることができず、自暴自棄になり、自殺を何度も考える。しかし、両親や妹の愛情に支えられながら、1947年9月には教員となることをめざして再び立ち上がり、51年に教員資格を獲得、安田女子高校の家庭科の教員となる。にもかかわらず、学生のときも、教員となってからも、身体障害者と被爆者に対する二重の差別に苦しめられるという苦い経験から、被爆者であることを隠し続ける生活をその後長年続けた。
1957年:
沼田にプロポーズした同僚の男性が、彼の親が被爆者との結婚には猛烈に反対したため、自ら命を絶つという悲惨な出来事が起きた。そのため、彼女は「もう再び人を愛することはすまい」と決意=多くの戦争/暴力犠牲者にみられる「感情的反応の心理的閉め出し」(ロバート・リフトンの言う「精神的麻痺」という現象)。
1979年3月退職:
教職を通しての学生との交流、教職を退いた後も原爆特別養護老人ホームでのボランティア活動を行ったことが、徐々に「人間関係構築」=「人間性回復」につながったと考えられる。
1981年5月:
入手可能となった1946年の米国戦略爆撃調査団制作フィルムを使って、広島の市民グループが映画『人間をかえせ』を制作する「10フィート運動」を展開。このフィルムに写っていた当時の沼田鈴子の映像を、沼田は編集段階で見せられた。切断された痛々しい左足をさらけ出した35年前の自分の映像と対面させられた彼女は、その公開承諾を初めは躊躇したものの、被爆者で当時すでに語り部であった坂本文子と出会い、彼女の「私もあなたも生かされている」という言葉に勇気づけられ、証言活動を始めることを決意(=ロバート・リフトンが「真に包括的な精神的再生」と称したものに近い現象を体験)。
1982〜83年:
映画『人間をかえせ』の海外上映隊に参加してヨーロッパ、カナダ、アメリカを訪問し、各地で証言を行う。帰国後の83年から、本格的に証言活動を始めた。証言内容は、自分と逓信局の職場の同僚たちが体験したすさまじく残酷な被爆状況を、涙を流しながら語るということに終始したものであり、一貫して「被害描写」に集中していた。
1983年11月:
大阪府立西成高校2年生220名の一行が修学旅行で広島訪問。在校生のほぼ4分の1が被差別部落出身、在日韓国人・朝鮮人、崩壊家庭、貧困家庭といった背景をもつ生徒たちで、彼らに対する根深い差別意識のために、学校は低学力、非行、校内暴力で荒廃していた。学生たちは、沼田を含む数人の被爆者から被爆体験を聴き、原爆で家族を失った悲しみや差別や病気の苦しみを乗り越えて生きているという証言に、自分たちがおかれている境遇との共通点を発見し、深く心を動かされる。この修学旅行の後、西成高校に大きな変化が見られるようになった=生徒たちと被爆者の間に「痛みの共有」、「他者の痛みの内面化」という現象が起きた結果。
1984年8月:
西成高校生徒の50名ほどのグループが再び広島を訪れ被爆者と再会。生徒たちは、このとき原爆病院に入院を余儀なくされていた沼田を見舞う。沼田は、若者たちとの「痛みの共有」を通して、自分自身が強く勇気づけられたと明言。
1984年12月23日:
沼田は日本キリスト教団府中教会にて洗礼を受け、キリスト教者となる。「洗礼」は、キリスト信仰を通して自分が精神的に生まれ変わる、すなわち「自己再生」という意味をもつものであり、このことも沼田の後の証言内容の重要な要素の一つである「命の再生」と、思想の上では深く関連していると思われる。
1985年3月:
在韓被曝者実態調査団に加わって初めて韓国を訪問し、韓国人被爆者と交流。1988年8月には「ヒロシマとオキナワを結ぶ市民の会」のメンバーとして沖縄を訪れ、沖縄戦で市民がなめた様々な苦汁について学ぶと同時に、米軍基地の実態についても直に自分の目で見ることになった。かくして沼田は、徐々に広島以外の戦争被害者と出会い、戦争関連の知識を精力的に吸収しはじめた。しかし、いまだ彼女の反戦反核思想の中心軸は「被害者」に置かれていた。
1986年4月:
チェルノブイリ原発事故が起き、原爆被害者も原発事故被害者も同じ放射能汚染の被害者であるという信念から、沼田は「反原発」を講演でしばしば言及。日本での原発事故の危険性についても予言的に語るようになる。当時、反原発を訴える被爆者は稀であった。
1988年8月15日:
大阪で開かれた市民集会「アジア太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会」に参加。ここに招かれた5人のマレーシア人の証言 - シンガポール・マレー半島での日本軍による10万人にのぼる大量虐殺 – を聞いて衝撃を受ける。5人は、マレー半島のネグリセンビラン州で抹殺された4千人を超える住民虐殺で親や兄弟姉妹を殺され、自分たちも銃剣で傷つけられた人たちだった。しかも、このマレー半島を侵略し虐殺に加わった兵隊たちの一部は、広島に本部が置かれていた第5師団歩兵第11連隊所属の兵員。このマレーシア人たちとの出会いによって、沼田は戦争行為が持つもう一つの局面=「加害」の局面に直面。
1989年3月下旬〜4月上旬:
沼田は、吉野誠(美術教師)夫妻と共に、マレーシアに慰霊と証言を聴く旅に出て、さらに詳しく「加害」の状況について学んだ。自分の「加害者」としての責任を自覚し、沼田は被害者親族に謝罪。そうした謝罪によって、沼田のそれまでの限定された「他者の痛み」への配慮が、一挙に深みと広がりをみせ、「いかなる人の人権も尊重する」という普遍的で根本的な原理に裏打ちされた「他者への痛み」への共感として、強く且つ深く彼女の思想の中に根を下ろしたものと考えられる。
1990年〜91年:
南京虐殺の犠牲者や重慶爆撃の犠牲者とも出会い、日本軍戦争犯罪行為の責任を認め、謝罪することによって、中国人被害者との「痛みの共有」にも成功。
1990年代初期頃から沼田の証言内容に変化が表れたように思われる。自分の被爆者としての痛みについての言及は必要最低限な情報提供におさえ、むしろ、その「痛み」と「苦しみ」から自分が学びとったもの、すなわち「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」といった点に重点を置くようになった。それらを表す象徴として、被爆青桐の話が沼田の証言に使われるようになった。おそらくは、1990年以前は、被爆青桐は、沼田の記憶の中ではそれほど鮮明に残っていなかった可能性がある。しかし、「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」といった要素が沼田の思考の中で重要性を増すにつれて、被爆青桐の記憶はこれらの要素と連結し、その意義を強調するような形で、記憶自体が彼女の中で鮮明にされ、高められ、説話化されていった可能性がある。沼田が被爆青桐に、私たちの誰にとっても重要な「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」という象徴性を持たせ、被爆青桐の種を発芽、成長させた苗の植樹運動、種の拡散運動を日本国内のみならず世界中に広めたことは、広島から世界に向けての「平和のメッセージ」発信という意味で、極めて重要なこと。
にもかかわらず、広島の被団協は、「我々は戦争被害者であって、加害者などではない」と主張して沼田を激しく非難し、事実上、彼女を被団協から追い出してしまった。
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「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」は、世界に共通する普遍的価値をもつ、我々人間誰にとって欠くことのできない要素であり、平和構築と維持にとって不可欠の要素である。それゆえ、これらこそ「ヒロシマの思想」の確立にとっての支柱となるべきものであり、広島市民が被爆体験から学びとり、継承すべき叡智であると私は考える。その意味で、沼田の証言・平和活動は、今後の私たち広島市民の反核・反原発・平和運動にとってのモデルを提供している。新しい人との「出会い — 感動 — 発見 — 出発」を通して、さらには「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」に努力することで、平和の絆は必ず広がっていくはず。
3)憲法9条と前文に象徴される栗原貞子と沼田鈴子の非戦平和思想・実践活動
*アナキストであった栗原貞子はなぜ、国家権力を正当化する日本国憲法の擁護を唱えたのか?
栗原は日本国憲法の全てを受け入れていたわけではなく、もっぱら憲法9条を重視し、その擁護を主張した。では、なぜ非戦・非武装を唱える憲法9条をそれほどまでに重要視したのか。おそらく栗原は、本来は憲法9条が内在化させている「国家否定」の思想を、無意識ながらも感知していたのではないか、というのが私の考えである。すなわち、栗原は、憲法9条には国家主義を超える普遍的平和主義の思想が根底に存在していることを感知していたと思われる。
9条は、本質的には国家性規定という国家原理、すなわち「国家権力」を、否定する思想を内包している。国家原理を否定する思想は、9条2項の最後の条文「陸海軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」の中に含まれている。なぜなら、「国家」は軍事力を保持し且つ「交戦権」を持ってはじめて「国家」としてその存在を他国から認められるという考えが、第二次世界大戦終結まで絶対的且つ支配的であったし、日本が1946年公布の自国の憲法で「交戦権否定」を表明したあと、現在も世界ではこの考えが圧倒的に支配的である。国際連合も、基本的には武力と交戦権を保持した諸国家の連合という形をとっており、ただ侵略戦争を禁止しているだけである。したがって、逆説的に言えば、「交戦権」を持たない武力組織は「国家」ではない、つまり「テロ組織」と見なされるわけである。その最も典型的な例は、イスラエルとパレスチナの関係であろう。イスラエルがパレスチナを断固として国家として承認しない理由は、パレスチナが独立国家として世界に承認されれば「交戦権」を有するため、その軍事力をイスラエルはもはや「テロ」扱いできなくなるという重大な問題が発生するからである。つまり、パレスチナが国家になれば、イスラエルとパレスチナの間の武力紛争は「戦争」となり、国連が介入することになるため、イスラエルはこれまでのように任意にパレスチナに武力攻撃ができなくなる。同じように、過激派イスラム・テロ集団が「IS(イスラーム)国家」と自称する理由は、「国家」を名乗ることによって交戦権保有を主張し、その武力活動を正当化することにある。
日本国憲法9条に、国家否定の思想の内在化を鋭く感知した人が、栗原のみならず、数は少ないにせよ、これまでにいたことは確かである。例えば、1950年代に次のように述べたアーノルド・トインビーがその一人である。「原子兵器が発明された今の時代では、もはや国家主義にふけっているわけにはいかない。日本人はそういった面を体験して生きぬいてきたのだし、痛ましい経験によって国家主義の限界を学びえた。」(A.J. トインビー『歴史の教訓』)<強調:田中>日本では、大熊信行、平井啓之、小田実が、同じように、国家主義否定の思想を9条に見ている。
*沼田鈴子が証言活動で唱えた「いかなる人の人権も尊重する」という普遍的で根本的な原理は、憲法前文で確認された、世界の全ての人々が持っている「平和的生存権」であった。
9条の絶対的な非戦・非武装主義は、憲法前文で展開されている憲法原理思想と密接に絡み合っているのであり、したがって、9条は前文と常にセットで議論されなくてはならない。とりわけ、前文の第1段落の「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意し」という文章と、以下の第2、第3段落部分が重要である。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
日本は天皇制軍国主義の下で、アジア太平洋全域で、文字通り「専制と隷従、圧迫と偏狭」を作り出してきた国家であった。これを深く反省し、その責任を痛感し内面化することによって、国家=政府が再び戦争を起こすことを国民がさせないという決意をここで確認している。その上で、人間相互の平和的関係を構築する上で国際社会に大きく貢献し、そのことで名誉ある地位を占めたいと主張しているのである。さらには、全世界のあらゆる人々(日本語の前文では「国民」となっているが、英語の原文はpeople である)が平和的生存権を有していることも確認している。つまり、この前文では、日本人が自分たちの政府に戦争を再び起こすことを許さず、世界のあらゆる人間が平和を享受する権利を持っているという認識に立って、国際社会で平和的な人間関係を創り出していくことに積極的に貢献していきたいと主張しているのである。ここには、平和とは人権の問題、生存権の問題であり、地球的・普遍的正義論の問題であり、国際協調主義の問題であることが唱われている。
その意味では、一国の憲法前文でありながら、普遍的、世界的な平和社会構築への展望と決意を展開しているという点で極めて特異な前文と言えよう。この点に注目して、小田実は、この前文を「世界平和宣言」であると主張した。第2次大戦後には、戦時中のホロコーストなどの大量虐殺と人権弾圧の反省から、「世界人権宣言」や「国際人権規約」が作られた。しかしながら、「正義の戦争」という旗を掲げて大量の市民を無差別殺戮(その典型が原爆殺戮)した戦勝国が主導して創設した国連では、「世界平和宣言」を作れるはずがなかった。ところが、日本国憲法の前文には、「世界平和宣言」と呼べる普遍的正義論が含まれている、というのが小田の主張である。憲法学者・樋口陽一も、この前文で取り上げられている「平和的生存権」に触れ、「平和のうちに生存する権利は、いわば、二一世紀的人権を日本国憲法が先どりしようとしたものとして、位置づけることができる」
と述べ、その先駆性を強調している。
このように栗原貞子と沼田鈴子の思想と実践には、国家権力を超えた「個人の権利」の重要性への確固たる信念が深く刻み込まれている。では「個人の権利」とは具体的には何か?加藤周一は、「その本質のひとつは、差別されないことです。たとえば、日本人か中国人か国籍に関係ない、ジェンダー・性別に関係ない、年齢に関係ない。『一人ひとりの個人に、これだけの権利が備わっている』というのが人権です。だから『個人の権利』は、『人権』とほとんど同じでしょう」と説明している。ところが問題は、日本人は観念的にはこれを理解していても、信念としてこれをしっかり身につけ、内面化していないといことを加藤周一は厳しく指摘して、次のようにも述べている。「<日本では>『人権』といっても、じっさいには『日本人権』でしょう。『人間』で想起されるのは日本人なんじゃないでしょうか。…… 私は日本の大衆の多くは国境を超える『人権』にコミットしていないと思います。『平和』なときはそれでもいいかもしれないけれど、戦争になったら何をするかわからないし、現にあの戦争ではそれが起きた。」(『ひとりでいいんです
加藤周一の遺した言葉』講談社 2011年から <強調:田中>)
最近の杉田水脈の「LGBTは生産性がない」というような甚だしい差別発言を聞くと、国境を超えるどころか、国内の人間に対してすら「人権」を認めない下劣な人間が国会議員になっている事実に、またそのような人間を議員候補に推薦した下劣な首相に、あらためてあきれかえると同時に怒りをおぼえないわけにはいかない。
この意味でも、栗原と沼田の二人は国境を超える「人権=人道性」にコミットした真に国際的な稀にみるヒバクシャであったと私は考えている。再度述べておくが、戦争の加害と被害の重層性とその責任問題を無視しては、国境を超える「人権」、「普遍的な人道性」にコミットすることは不可能である。
4)記憶が芸術的表現を介して象徴表現化されるとき、その記憶は訴える力を持ち永続化する
被爆者の平均年齢が82歳を超え、被爆者数も急激に減少しつつあるところから、
最近、「被爆体験の継承」ということが盛んに広島では議論されている。そうした「継承」運動の広島市の主たる取組みは、被爆証言者=語り部の証言内容を、戦後生まれの非被爆者ボランティアがノートに書取り記憶し、語り部が亡くなった後は、語り部に代わって証言を行うという役割を担う、そのような人間を育成するというものである。これは「継承」ではなく単なる「伝承」である。「伝承」は限られた人間の間でほそぼそと伝えつがれるものであって、「平和メッセージ」のような世界各地の多くの市民を対象としたものではない。「自分の被害」状況だけを一方的にほそぼそと語る内容の「伝承」であるならば、それは「共感」をよぶことは難しく、拡散されることもなく、遅かれ早かれ消滅していく。
真の「継承」、すなわち「語り」の内容が多くの市民の共感をよび、長年にわたってそれが人々の心を震わせ感動し続けるためには、「語り」の内容が「国境を越えた」普遍的要素を強く具えていなければならない。つまり、「普遍的要素」がなければ、そのメッセーシが拡散し永続化することは極めて難しい。したがって、「被爆体験の継承」には、沼田鈴子の証言活動に深く根づいていた「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」といった「普遍的要素」が欠かせない。沼田鈴子の証言・平和活動に、今後の私たちの反核・反原発・平和運動にとっての一つのモデルを見ると私が主張するのは、そのような理由からである。
しかしながら、被爆樹木の種を発芽、成長させた苗の植樹・拡散には、被爆樹木には「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」といった「普遍的要素」が象徴化されているというメッセージを同時に伝えていかなければ、植樹・拡散運動も遅かれ早かれ消滅するであろうし、運動としての力も最初からひじょうに弱いものとなってしまう。広島市当局が行っている植樹運動には、そのような象徴的メッセージが全く欠落している。ひじょうに残念ながら、したがって、生前に強い影響力を発揮していた沼田鈴子のメッセージは、いま急速に忘れ去られつつある。
一方、栗原貞子の詩には、戦争の「被害と加害の複合性」、「被害者と加害者の痛みの同時的内面化」、「痛みに打ち勝ち立ち上がる人間の感動的な力」が、文学芸術作品として強烈に象徴化された形で表現されている。よって、その「象徴化された表現」=「普遍的メッセージ」が、彼女の作品を読む者に深く強く迫ってきて、心を震撼させるのである。それが、英語に翻訳された彼女の作品が、いまも海外で読まれている大きな理由であろうと私は考える。
人間の記憶は、残念ながら極めて不確かで不安定で且つ短期的なものである。記憶を確実なものとして永続化するには、その記憶で伝えたいメッセージを凝縮させた核心部分を強烈に象徴的に表現し、その表現に触れる人間の魂を動かすことが必要である。そのためには、その表現が誰の心をも動かすような普遍性を内包していなければならない。
したがって、「記憶の継承」には必ずしも言葉は必要ではない。最も重要なことは、悲惨な歴史的事実の「本質」をいかに単純明晰に、しかし強烈な形=シンボリズム表現で伝え、情報を受け取った人間の心を深く強く打ち、いかにその人をしてその情報を他者にどうしても伝達したいと思わせるようにするかである。そのためには、「記憶」そのものが、時間と場所にかかわらず存続する「普遍性」を内包していなければならない。
そのような理想的な形での「記憶の継承」の具体例として、私は次の2つを指摘しておきたい。
1)「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑(ホロコースト記念碑)」
(地下が博物館)の2,711個の様々な大きさの長方形のコンクリートが並べられているベルリンのこの記念碑は、ピーター・アイゼンマン(建築家)とブロ・ハポルド(土木技師)による共同制作。名前も個性も消滅させられ「忘却の穴」へと入れられた老若男女のホロコースト被害者を悼む記念碑であるが、ほとんど何の説明もなく、2,700個以上いう数の長方形のコンクリートが並べられているだけ。しかし、なにも説明がなくても訪れた人の心を強く打つ、大量虐殺被害者への想いを強く深く想起させるシンボリックなオブジェである。このオブジェは、ホロコーストのみならず、広島・長崎原爆無差別虐殺、南京虐殺、マレーシア華僑虐殺、ベトナム空爆被害者、ボズニア戦争被害者など、あらゆる戦争における大量虐殺被害者を悼むものとして受けとめることが可能である。
2)ユダヤ博物館内の「記憶の真空」(高さ20メートルの空間)の床に設置された『Shalechet
(Fallen leaves 落葉)』
同じくベルリンにあるユダヤ博物館の一角には、1万枚の厚さ3センチほどの丸い鉄板が床一面に敷き詰められており、それらの鉄板1枚1枚に目・鼻・口を表す穴が開けられ、哀しげな人間の顔が表現されている。これらの顔は1枚として同じ形のものはない。これら人間の顔の鉄板を踏まずにここを通ることはできず、踏むたびに人間の泣き声のような大きな音が空間に響き渡るように作られている。この展示コーナーは、イスラエルの彫刻家メナシェ・カディシュマンによる制作であるが、ここにもほとんど説明書きがなく、これまたホロコースト犠牲者の「痛み」を強烈なシンボリック表現で我々に伝えてくる。しかし、これらの顔も、ホロコースト被害者という特定の被害ケースの記憶を超えて、あらゆる暴力被害者の「痛みの記憶」をシンボリックに表すオブジェとなっている。
(ドイツの「記憶の継承」方法については、当ブログの下記の拙論を参照されたし。
5)結論:文化的記憶の創造を!
日本の我々も、上記のドイツのような「文化的記憶」と称せるような形での「記憶の継承」方法を探り、それを大いに活用していくことを考える必要がある。例えば、丸木美術館所蔵の「原爆の図」、「南京大虐殺の図」、「沖縄戦の図」や、四国五郎の作品、中でも「黒い雨」シリーズの絵と「ヴェトナムの母子」シリーズ、「アパルトヘイト 否!」などをもっと広く活用すること。「原爆・戦争文学館」を設置し、栗原貞子、峠三吉、大田洋子、原民喜などの関連作品、ならびに世界各国の戦争・平和関連文学作品を蔵書とし、それらを活用する運動を展開すること、などが考えられる。また、「普遍的、人道的なメッセージ」を強く持つ絵画、彫刻、映画、演劇や音楽を新しく創造し活用することも考える必要がある。
あまり知られていないが、実は新作「能」にも原爆や戦争の加害・被害をテーマにしたすばらしい作品がある。例えば、被爆の残虐性、非人道性を見事にシンボル表現化した「原爆忌」と「長崎の聖母」、沖縄戦の地獄を描いた「沖縄残月記」、若い時代に強制連行で夫を失った韓国人老婆の痛恨の悲しみを描いた「望恨歌」など、多田富雄の新作能の作品である。多田の作品は、日本の戦争加害と被害の両面を取り扱い、能という芸術作品で「過去の克服」を見事に成功させている。(多田富雄の新作能に関しては、当ブログの記事を参照されたし:
最近の新聞報道によると、元駐日ポーランド大使であるヤドビガ・ロドビッチ氏は、ナチスのホロコーストの象徴であるアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所を題材に、東日本大震災への哀悼の念も含めた新作能「鎮魂」を作ったとのこと。私はまだ実際にこの新作能を鑑賞していないのでコメントできないが、このように新作能は「国境を超えた」芸術となっている。栗原貞子の詩を基にした新作能や、沼田鈴子の生涯を新作能にするという試みがあるべきだと私は考えている。
数百年、数世紀という長い時間での「記憶の継承」ということを考えるならば、ギリシャ神話が数世紀にわたって継承されてきたように、こうした新しい形での「文化的記憶」を創造し活用していくことが最も有効な方法の一つであると私は考える。
6)補論: 7〜8月の一時帰国を終えて、日本のメディア報道について考えること
例年のことであるが、7〜8月の3週間あまりの一時帰国中には、好むと好まざるに関わらず、この時期に新聞やテレビが大量に流す戦争関係報道を目にする。今年も私は、多数のNHKテレビのドキュメンタリー番組の中で、下記の番組を見た。
「ルソン決戦 “最期” の記録:ある衛生兵が見た戦場」
アメリカと被爆者「シュモーハウス: 被爆地に建った『平和』の家」
アメリカと被爆者 「赤い背中が残したもの『NAGASAKI』の波紋」
「船乗りたちの戦争:海に消えた6万人の命」
「私たちは見捨てられた:戦争孤児たちの戦後史」
この他にも、私が見過ごした番組を含め、ほとんどすべての番組が、日本人が被害となっているケースであった。毎年のことであるが、日本軍の加害問題に関するテレビ番組は稀にはあるが、ほとんど皆無と言ってよい。「私たちは見捨てられた:戦争孤児たちの戦後史」の番組は、ひじょうに心痛む番組であり、なかなかの力作だと思う。では、中国、フィリッピン、マレー等々、アジア太平洋の様々な地域でも日本軍に親を殺害された無数の戦争孤児がいるにもかかわらず、この人たちにも視点を同時に当てるような番組を制作しようという考えが、なぜゆえにジャーナリストやテレビ局には浮かんでこないのか。さらに、このような苦しい人生を歩まなければならなかった戦争孤児を生み出した責任はいったいどのような組織に、さらには組織内の誰にあったのか、という重要な問題には番組は全くタッチしない。責任追求が大切なのは、そのことによって、それが起きた原因の追求になるからである。原因が明らかにならなければ、同じ誤ちを繰り返す危険性はひじょうに高い。
8月17日のネット版朝日新聞は「戦争報道、マンネリ化していないか、記憶継承へ各社模索」と題した記事を載せた。この記事は、太平洋戦争に関する記事が、たとえば東京空襲を繰り返し載せることでマンネリ化しているのではないか、どうすれば記憶を継承していけるような記事が書けるのか、というような議論を、記者たちが集まって同月2日に行ったことを報告している。しかし、ここでも自分たちが書く記事がほとんど全て「日本人の被害」にだけ焦点を当てていることに、当の記者たちが全く気がついていないようである。空襲を問題にするなら、日本軍が上海、南京、重慶で行った無差別爆撃とその被害者たちと、東京、名古屋、大阪、神戸など多くの日本の都市空襲の被害者たちの両方に焦点を当てるような記事を書いてみようという考えが、なぜゆえに記者たちには思いつかないのか。日本人の加害行為で、いかにアジア太平洋各地の無数の人々が、どれほどの「痛み」を受けたのかについては、実に不思議と言えるほど彼らには関心がないのである。そしてここでも、中国に対する無差別爆撃殺戮の責任、日本に対する無差別爆撃殺戮の責任はいったいどこにあるのか、という問題についてはいつも、必ずと言ってよいほどノー・タッチである。
「私たちは戦争でこんなひどいめにあいました。たいへんでした。ですから平和は大切です」というありきたりのメッセージが、毎年繰りかえされるだけである。実際、こんな「加害責任を全く問わない自己哀悼」では平和構築などできるはずがない。この点では、敗戦直後に多くの日本人が強く持った「戦争はもうこりごりだ」という強い「厭戦気分」(「反戦意識」ではない)を、70年以上たった今も、戦争がどれほど惨たらしいものであるかを全く知らない人たちに向かって、ただ繰り返しているだけに過ぎない。マンネリ化するのもあたりまえであろう。いや、これでは、マンネリ化しないほうがおかしい。
自己被害者意識の視点にだけ立つ一国主義は、自国の加害行為で他国民がどのような悲惨な体験を強いられたかを全く無視するという意味で、「敗戦国ナショナリズム」と称すべきものである。これに対し、加藤周一が言う狭隘な「日本人権」観を克服し、「国境を超える『人権』にコミットする」形で、「加害と被害の重層性の観点」から様々なケースを取り上げ、そうした観点から責任問題を追及するなかで戦争の原因の本質に迫り、そこから平和構築に向けての積極的で力強い展望を模索しようという気概が、日本の新聞記事を読んでいても全く感じられないのである。
すでに見たように、加藤周一は、「私は日本の大衆の多くは国境を超える『人権』にコミットしていないと思います」と述べたが、この言葉は日本のほとんどのメディアにもそのまま当てはまる。なぜこんな情けないことになっているのであろうか。民主主義とは、言うまでもなく、主として「人権」の問題である。真に普遍的な「人権」にコミットできない人々に、強靭な「民主主義」を打ち立てることができるはずがないのは当然であろう。日本に民主主義思想が根付かないのは、まさにこの「人権」意識の希薄性の問題なのである。
- 完 -