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2020年7月9日木曜日

Shakuhachi - A Brilliant Tool for Meditation

戦争犯罪研究と尺八の音色

The following essay is written for the forthcoming News Letter of the Australian Shakuhachi Society.
日本語版は、英語版の後をご覧ください。

Shakuhachi - A Brilliant Tool for Meditation
My Childhood and Shakuhachi
  In 1949, four years after the Asia-Pacific War, I was born in a small country town in Echizen (Fukui Prefecture), not far from the large Zen temple, Eiheiji. Eiheiji is one of two head temples of Sōtō Zen, which was founded by Zen Master Dōgen in 1244. In my childhood during the 1950s it was quite normal to see small groups of trainee monks from the temple walking and begging for alms in the town. In winter, it was painful for a child like me to observe those monks walking on the cold snow with bare feet, wearing only a pair of zōri, straw sandals. Their toes were agonizingly red.
  Apart from those trainee monks, we also saw the occasional Komusō (mendicant priests of the Zen Fuke sect), standing in front of our homes playing shakuhachi. Up until the early 1960s, this was a common sight in many places in Japan. Unlike in earlier centuries, by this time the Komusō were always alone, never in a group. At the time, I didn’t think of them as Zen monks, rather as strange and somewhat scary (because of the straw hood) music entertainers. This was partly because, unlike trainee monks, they always received money, not food, as alms. Never did I imagine that I would learn to play classic (koten honkyoku) shakuhachi music that the Komusō played, although I always liked both Japanese and Western music. As a child, koten shakuhachi honkyoku seemed so remote and alien to my taste in music. Yet, I liked listening to taiko and fue (Japanese drum and flute), in particular as part of festival music. In fact, together with other children, I played taiko at local traditional festivals, and loved it.    

My Profession and Music
   By a quirk of fate, I came to Australia in 1979, and became a historian, specializing in war history and war crimes, in particular war atrocities committed by the Japanese and American military forces. People often ask me “What do you hope to achieve by revealing the painful and horrifying events like war crimes of the past?” My answer is “to master the past.” My father and his three brothers were all Japanese Imperial Army officers during the war, who were stationed in China. Fortunately all survived the war. I wanted to understand the wartime behavior of my father’s generation. This does not mean simply to comprehend the atrocities committed by the men of my father’s generation intellectually but also to exercise moral imagination. Moral imagination requires us to take responsibility for past wrongdoings and, at the same time, stimulates us to project our thoughts towards a more humane future through the creative examination of our past. This is what I mean by “master the past.”  
  I have been conducting research on this topic for almost 40 years. During those forty years I conducted numerous case studies on cannibalism; the slaughter and starvation of prisoners of war; the rape, enforced prostitution, and murder of noncombatants; biological warfare experiments; and indiscriminate bombing. I often had nightmares, in particular when I was writing a book and thinking intently about particular crime cases.
  When I was young, I managed to recover from such psychological trauma relatively easily simply by listening to my favorite classical music like that of J.S. Bach and Mozart. I also found that listening to shakuhachi music, in particular koten honkyoku offered healing. In the early 1990s, I also took shakuhachi lessons from Andrew MacGregor for a while, but it did not last long as I was busy teaching and conducting research. This also helped. However, as I grew older, it became harder to cope with the recurring nightmares.            
  When I was writing a book on military sexual violence against women in the late 1990s, I had nightmares almost every night. Each time it was basically the same frightening dream, where I found myself in a public place like a cafeteria, a train, or a lecture theatre, surrounded by people. I would suddenly realize that I was totally naked and had to run away and hide, being frightfully ashamed. I felt that I was in a psychologically vulnerable state. Fortunately, when I completed the book, the nightmares ceased.

Learning Shakuhachi for Joy
  In 2002 I moved to Hiroshima as I was offered a research professorship at the Hiroshima Peace Institute. There I started working on the next book on the history of indiscriminate aerial bombing. This time, I thought I should do something to preserve my mental stability before commencing the new book project. I joined a beginners’ shakuhachi class taking group lessons in Hiroshima. I enjoyed the lessons immensely and was determined that this time I would not give up learning this marvelous instrument. I met the Grand Master Mende Ryūzan, who lives and teaches koten honkyoku in Hiroshima and started taking lessons. He had a number of senior students who were roughly my age, so I felt comfortable in their company. Grand Master Mende was one of many students of the legendary Grand Master Yokoyama Katsuya; through Mende, I became familiar with the work of Yokoyama and his students, Grand Masters such as Furuya, Matama and Kakizakai.
  I retired from the Hiroshima Peace Institute in 2015 and returned to Melbourne. I now work as a freelance historian and continue to write and conduct lectures on war and war crimes. Here in Melbourne, Lindsay Dugan is my teacher, and I enjoy his lessons greatly. He has a vast knowledge of the shakuhachi and is an excellent teacher. Thanks to all these people of the Yokoyama School, I am free from psychological problems, and rarely have nightmares any longer. I am still not a good player, but I really enjoy the deep neiro tone of the shakuhachi, which works for me as meditation without sitting with eyes closed for a long time.    
 
Performance by Yokoyama Katsuya 
San An
Shika no Tōne by Yokoyama Katsuya with Aoki Reibo
   

このエッセー(英語版)は、オーストラリア尺八協会の次号ニュースレターへの寄稿を依頼されて書いたものです。

戦争犯罪研究と尺八の音色
子供時代と尺八
  私はアジア太平洋戦争が終わって4年後の1949年、越前(現在の福井県)の、曹洞宗本山・永平寺がある小さな田舎町に生まれました。永平寺は、1244年、道元禅師によって開山された禅宗の寺です。私の子どもの頃の1950年代には、若い修行僧のグループが、しばしば街中に出てきて托鉢に歩いているのを見かけました。真冬にも、冷たい雪の上を草鞋に裸足という姿で托鉢に歩く修行僧を見かけましたが、厳しい寒さで彼らの足の指が真っ赤に腫れ上がっているのを目にした私は、子どもながら痛々しい気持ちにさせられたものです。とにかく戦後の貧しい時代ではありましたが、それでも真冬に裸足で雪の積もった外を歩く人はほとんどいませんでしたから。
  こうした修行僧とは別に、私が子どもの頃には、時々、どこからか来たのか、虚無僧も町にやってきて、家々の前で尺八を吹いて歩くのを見かけたものです。1960年代の初め頃まで、数は少ないながら、こうした虚無僧を日本では見かけたように思いますが、それ以降は急速に姿を消しました。虚無僧は、永平寺の修行僧とは違って、いつも孤独で、しかも托鉢では米などの食糧ではなく金銭を受け取っていました。そのため、子どもの私は、虚無僧が禅宗の一派である普化宗のお坊さんであるとは考えたこともなく、ひじょうに変わった、しかも深編笠で顔をすっぽり隠しているので少々怖い、路上演奏家であるとしか考えていませんでした。
  まさか、将来、その虚無僧が尺八で吹いていた(数百年も前から吹かれている)古典本曲に魅かれるなどとは、そのときは想像もしませんでした。私は子どもの頃から音楽は邦楽も西洋音楽も大好きでしたが、そのときは、尺八の古典本曲は、子どもの私にはひじょうに奇異な、馴染みのない音に思えました。しかし、邦楽、とりわけ太鼓や横笛は大好きで、町の神社の春秋のお祭りでは、子どもの太鼓や横笛のグループに入って街を練り歩くのが大好きでした。神社の前で大太鼓を打つ大人の勇壮な姿にはいつも感動して、「大きくなったら、あれをやってみたい!」などと思ったものです。そんなわけで、今でも私は、太鼓グループの「鼓童」や、オーストリアの太鼓グループ「TAIKOZ https://www.taikoz.com/ 」が大好きです。
 




自己の職業と音楽
  不思議な運命の巡り合わせで、1979年にオーストラリアに移り、結局、戦争史・戦争犯罪史、とくに日米両国の戦争犯罪を専門にする歴史家になりました。しばしば、「過去の痛ましい、恐ろしい戦争犯罪を掘り起こしていったい何の益になるんだ」という批判的な質問を受けます。それに対する私の回答はいつも、「過去の克服」です。私の父と彼の3人の兄弟は、戦時中は全員が関東軍士官として満州に駐在しました。幸いにして全員、生きて帰郷しました。父や叔父たちの戦争体験を子どもの頃から聞いていた私は、自分の父親の世代が戦時中に何を考え、どう行動したのかを知りたいといつも思っていました。これは、父親世代の(日本軍だけではなく連合軍の)男たちが犯した残虐行為を単なる知識として理解するというのではなく、「倫理的想像力」を使って把握したいという欲求からでした。「倫理的想像力」を使うとは、過去の過ちに対する責任を自覚し、同時に、その過去の体験を、もっと人間的に豊かな将来を創り上げるために活かす目的をもって、検証するということを意味しています。それが私にとっての「過去の克服」という意味です。
  とにかく、私は、そんな目的でこの40年あまり、とても陰惨なテーマの歴史研究を続けてきました。40年間の研究で取り扱ってきた研究テーマは、戦時人肉食、捕虜の餓死・殺害、強姦・強制売春、市民殺傷、生物兵器の人体実験、無差別爆撃などです。「よくもまあ、次々とそんな残虐行為ばかりを平気で取り扱ってこられたものだ」と、他人からはよく言われます。正直なところ、決して平気でそんな研究を続けてきたわけではないのです。実は、悪夢を見るのが、とりわけ思考を集中して論文や著書の原稿を書いているときは必ずと言ってよいほど、悪夢を見るのが通常化していました。
  しかし若いうちは、そんな心的外傷から回復するのは、それほど難しくはありませんでした。大好きなバッハやモーツアルトの音楽に常に耳を傾けることで、しのぐことができました。また、古典尺八音楽も知るようになり、それをCDで聴くことで、ずいぶん癒されました。1990年代初めには、日本で勉強したメルボルンの尺八演奏家、アンドリュー・マクグレガーから尺八を習うということも始めました。しかし、このころは、メルボルン大学での授業の準備、学生指導の上に研究もあって、かなり忙しく、なかなか練習をする時間がなく気力も続かず、途中で止めてしまいました。
  しかし年齢をかさねるごとに、繰り返し見る悪夢に対処するのが困難になってきました。例えば、1990年代末に、私は軍性奴隷問題と戦時性暴力に関する英語本の執筆に専念していましたが、そのときは、ほとんど毎晩といってよいほど不思議な悪夢に悩まされました。その悪夢とは、必ず自分が公共の場にいるところから始まりました。場所は、喫茶店、レストラン、電車の中、大学の大講義室と、いろいろ違っていましたが、とにかく周りに大勢の人がいるところです。ところが、突然、自分が全裸姿であることに気がつき、猛烈に恥ずかしくなって逃げ出し、隠れるところがないかと探し回るという悪夢です。これが毎晩のように続きました。(連れ合いには内緒で、寝る前に、グッと好きな冷酒を一杯、ということもやってみましたが、全く効き目はありませんでした<苦笑>)このときは、自分でも「精神的にかなり危険な状況にあるな〜」という自覚をもちながらの生活でした。しかし幸いにも、不思議なことには、本の原稿を出版社に送るや、悪夢はピッタリと途絶えました。 

尺八演奏の喜び
  2002年に、広島平和研究所に研究職を得たため、広島に住むようになりました。広島に移って間もなく、次の研究テーマを「無差別空爆史」とすることにしました。しかし、このテーマでの研究を開始する前に、今度は、前もって自分の「精神的健康」を保つことをよく考えておかないと、かなり深刻な状態になるかもしれないと懸念。そこで、中国新聞が主催している市民向けの文化講座の中に「初級尺八」があるのをみつけ、それを受講するようになりました。グループ練習ですが、なかなか楽しい講座でした。尺八の良さが本当によく分かるようになり、以前のように途中でやめることはもう決してないだろうと自分でも思うようになりました。
  しかし、一応、基本的な技術を習得すると、やはり古典本曲をどうしても練習したくなります。幸いに、偶然、五日市にお住いの大師範・免出隆山先生にお会いする機会があり、古典本曲も教えておられると分かり、免出先生から個人的にお稽古をつけていただくことになりました。免出先生の教室には、私と同じ年代の人がかなりおられ、発表会でその人たちの演奏を聴くことも、お稽古をする刺激になりました。免出先生は、尺八界では超有名な故・横山勝也の多くのお弟子さんの一人であったため、横山勝也演奏もCDで聴き、古典本曲を心から味わうことを知るようになりました。また横山スクールの愛弟子である古屋、眞玉、柿界の大師範トリオの演奏もしばしば直接聴く機会にも恵まれ、尺八を心から堪能できるようになりました。   
  私は2015年に定年退職し、同年4月にはメルボルンに戻り、以来、フリーランスの歴史家、評論家として、執筆と講演活動を続けています。相変わらず、戦争史・戦争犯罪問題が専門です。今は、東京芸大で尺八を専攻し現在はメルボルン大学音楽学部大学院博士課程で尺八音楽について博士論文を執筆中のリンゼイ・ドゥーガン君が、私の尺八の師範です。彼は、伝統的な邦楽の音色に驚くほど敏感な耳をもっており、尺八の歴史にも詳しく、教えることもひじょうにうまいです。彼もまた、横山勝也の孫弟子にあたります。この数カ月は、コロナウイルス感染問題のため、ZOOMでのオンラインお稽古ですが、それでも私はひじょうに満足しています。  
  私自身はまだまだ下手で、「下手の横好き」ならぬ「下手の縦好き(なぜなら尺八は縦にしか吹けませんから<笑>)」ですが、そんなわけで、横山スクールの大師範や孫弟子の尺八演奏家のおかげで、この10年ほどは、悪夢からはほとんど遠ざかっています。奥の深い尺八の音色を味わうことで、辛い座禅を組まなくとも、瞑想できることは感謝です。
  好きな冷酒を飲んで瞑想できないかとも思うのですが、いつも「瞑想」ではなくて、「酩酊」して「迷走」に終わっています(笑)。
横山勝也
横山勝也の演奏
産安
鹿の遠音 山勝也+青木鈴慕
https://www.youtube.com/watch?v=YuJ27qc70_A

  

2019年11月24日日曜日

ドイツ旅行記(2019年11月)


ケルンのケーテ・コルヴィッツ美術館と聖アントニー教会を訪ねて

  10月31日から11月2日まで、ドイツのハンブルグで、私もメンバーになっている「武力紛争時における性暴力」研究プロジェクト・チームの出版記念会と研究会が開かれ、出席しました。私は、この研究プロジェクト・チームの研究会に出席するたびに、その機会を利用して、毎回、ドイツ国内の違った場所を妻と一緒に訪れるようにしてきました。今回は、11月4日から6日までの3日間をケルンで、7日から9日までの3日間をデュセルドルフで過ごしました。
  ケルンには以前からどうしても行ってみたいと思っていた理由がありました。それは、ケルンにはケーテ・コルヴィッツ美術館と、彼女の友人であった彫刻家エルンスト・バルラハの代表的な作品「空中に浮かぶ天使」が展示されている、聖アントニー教会があるからです。

繁華街の真ん中にあるケーテ・コルビッツ美術館

  ケルンのケーテ・コルヴィッツ美術館に収蔵されているケーテの作品の数は、ベルリンのケーテ・コルヴィッツ美術館よりはるかに多いということを、2015年7月にケーテのひ孫であるヤン・コルビッツを訪ねた折に、彼から聞いていました。ヤンはドイツ北部のシーズマーという小さな町に窯場を持つ、越前焼の陶芸家です(ヤン・コルビッツについては2015年7月16日のブログ記事を参照してください)。
  ケルンのケーテ・コルヴィッツ美術館は1985年に設置されたとのことですが、戦後長年経った1985年という時期に設置された美術館がなぜそれほど多くの作品を所有しているのか、その理由を私は詳しくは知りません。しかし、コルヴィッツ家の遺族たちが持っていた多くの作品がここに寄贈されたようです。ベルリンのコルヴィッツ美術館の場合は、独立した4階建の大きな建物全部が美術館になっているので、ケルンの美術館も同じような建物にちがいないと想像していた私と妻は、住所がケルンで最も繁華な商店街の真ん中になっているため、なかなか見つけられませんでした。それもそのはず、コルヴィッツ美術館は、レストランやお店が入っているショッピング・アーケードの最上階にあるのです。
  最上階の1千平方メートルあるフロワー全部が、展示室や講演のできるホールになっています。 美術館の案内パンフレットによると、ここにはケーテの初期の版画作品から最晩年の版画作品まで、さらには彼女の版画が使われているポスター(その多くが政治的なものです)を網羅的に所蔵しているとのこと。その中には、もちろん有名な「織工の反乱」(1893−97年)、「農民戦争」(1902−08年)、「戦争」(1921−22年)、それに「死」(1934−37年)といったシリーズ作品が含まれていますし、ブロンズの彫刻作品が15点あるそうです。
  また、この美術館では、ケーテと関係のあった芸術家たちの作品を紹介する特別展示をしばしば行っているそうで、私たちが訪れたときには、ワイマール時代の1910〜20年代のオットー・ディックス、ゲオルゲ・グロッスといった芸術家たちの痛烈な社会批評を込めた絵画の特別展「ベルリン市民のレアリズム」をやっていました。ナチが台頭する前の、ドイツの自由な雰囲気と芸術家たちの旺盛な批判精神が溌剌と表現されている展示会でした。
 
ブロンズ彫刻「ピエタ」についての私の考えは浅薄だった!

  展示されているケーテの多くの版画作品の中に、ベルリンのコルビィッツ美術館では見かけなかったような、これまで私が観たことがなかった作品が幾つかあることに気がつきました。数時間かけてじっくり多くの作品を鑑賞して、いろいろと考えさせられることがありましたが、そのことをゆっくり書いている時間的な余裕がいまはありません。そこで、今回は一つだけ、これまでの私のケーテ・コルビィッツの作品理解が極めて浅薄であったことを思い知らされた、そのことを説明しておきたいと思います。
  それは、彼女の晩年の彫刻作品「ピエタ」についてです。このブロンズ彫刻「ピエタ」のオリジナルがケルンのコルビィッツ美術館には展示されています。第1次世界大戦で戦死したケーテの次男ペーターを追悼するこの作品については、私は、今年5月に出版した拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』(三一書房)の323−25ページで、以下のように書きました。

  1914年に第1次世界大戦が勃発するや、息子のハンツとペーターが兵士志願。しかし次男のペーターは志願資格の21歳に達していなかったため、親の承諾が必要であった。コルヴィッツの夫は反対したが彼女が強く後押したため、夫も息子の志願に賛成するようになり、ペーターは入隊。ところが同年10月にペーターが戦死してしまう。この息子の戦死がコルヴィッツの思想を大転換させ、その後、彼女は徹底した反戦平和主義者、社会主義者となった。戦争で子どもを失う母親の深い心の痛みを抉り出すような感動的な版画(とくにシリーズ「戦争」)や彫刻を次々と制作し、第1次大戦後、反戦芸術家として高い評価を受けるようになった。………
…………
  コルヴィッツの作品「ピエタ」は、死んだ息子の死骸を母親が両足に挟み込んで、しっかり抱え込み、死んでも子どもを守りたいという悲哀、あるいは子どもを守りきれなかったという母の深い悲しみを強烈に表現したものである。「ピエタ(死んだキリストとマリア)」というタイトルがつけられているものの、ミケランジェロの「ピエタ」のような宗教性がほとんど感じられず、死者の「救済」といったメッセージは全く伝わってこない。伝わってくるのは「無惨な殺戮に対する母親の深い心的打撃」のみである。「ノイエ・ヴァッツヘ」と呼ばれる、元々は「(第1次)世界大戦戦没者慰霊館」(東ドイツ下で1960年以降は「ファシズムと軍国主義の犠牲者慰霊館」となる)が、1993年にドイツ連邦共和国中央慰霊館(通称「戦争と暴力支配の犠牲者に対する記憶と追悼の場」)となり、戦後は忘れ去られていた(オリジナルは小型の)コルヴィッツの彫刻「ピエタ」を拡大して、この慰霊館の中央に設置。

    私のこの文章では、ケーテがほとんどなんの迷いもなく次男の出征を後押しし、その次男が戦死したことで、すぐさま反戦平和主義者に思想転換したというような解説になっています。また、次男の死を追悼するブロンズ彫刻が「母の深い悲しみを強烈に表現したもの」としてしか理解されていません。
  ところが、今回、ベルリンの「ノイエ・ヴァッツヘ」の中心に置かれている大型の「ピエタ」ではなく、小型のオリジナル版を初めてケルンで真直に眼にし、じっくりとそれを観ることで、「どうも自分の理解は間違っているのでは……」と思うようになりました。というのは、このオリジナル「ピエタ」の母親の左手は確かに死んだ息子の身体を抱かえ込むような形になっていますが、右手は自分の唇と顎の間に置かれており、なにかを深く考えこんでいるような(ロダンの有名な彫刻「考える人」の手の置き方に少々似ている)形になっています。息子の死を前にただ悲しみに打ちのめされているだけならば、両手で息子の身体を強く抱きしめているはずでしょう。

ケーテ・コルヴィッツ作「ピエタ」
 


つまり、この母親は、息子の死を悼みながらも、「なぜ私は息子の出征を許してしまったのか、なぜ戦地に送ることに同意してしまったのか」と深く自問しているのだ、ということに気がつきました。ミケランジェロの「ピエタ」のような宗教性がほとんど感じられないのは、単なる悲しみの表現方法の違いからではなく、「息子を戦地に送って死に追いやってしまった自分の責任」、「母親の人間としての責任」を自問自答しているからではないでしょうか。なぜこんな重要なことに気がつかなかったのかと、正直なところ、私は恥ずかしくなりました。
  遅まきながらこのことに気がついた私は、ケーテがペーターの出征を「後押しした」その精神的な状況もそんなに単純なものではなかったのではないか、そのことをもっと知りたいと思いました。そこで、この点について詳しく書いたものがないか、ケルンのコルビィッツ美術館の学芸員の女性に尋ねてみたところ、アネッテ・ゼーラー(Annette Seeler)というベルリン在住の美術史の専門家が執筆した論考が英語に訳されているので、それを読んでみてはと勧められました。その論考は「もう死者はうんざり、もう誰も亡くなるべきではない:ケーテ・コルビィッツと第1次世界大戦」というタイトルの短いものですが、ペーターの死後、時を経るとともに、ケーテの微妙な心情変化が彼女の作品製作のアイデアの変化にどのように表れてきたかを簡潔に解説しているものです。
  この論考を読んで分かったことは、ケーテがペーターの出征を「後押しした」のは、戦争というものを彼女は憎悪していたにもかかわらず、愛する息子と精神的に常に一体でありたいという強い願望から、ペーターの希望に反対することに躊躇してしまい、最終的にはペーターの出征希望を受け入れてしまったこと。しかも当時のドイツ社会がひじょうに強い愛国的なムードで覆われてしまっており、ケーテもまた国家への忠誠が名誉なことであるという考えを他の多くの国民と共有していたのでした。
  したがって、ペーターの死の直後にケーテが製作しようと考えていた追悼碑もまた、ペーターの死が名誉なものであることを表明するような作品にすることを考えていたことが、作品案のスケッチから理解できるのです。アネッテ・ゼーラーのこの解説から私が想像することは、ケーテにとっても、息子を戦争で亡くした多くの両親と同様に、自分の息子の「死」にはなんらかの「価値」があった、つまり決して「無駄死に」ではなかったと思いたいという強い願望があったということです。誰とても、自分の親族の死を「犬死」などとは思いたくありません。しかし、戦争での「死」はそのほとんどがなんの価値もない「犬死」であるというのが残酷な現実で、しかし、その現実をなかなか人は心情的に受け入れられないとことが問題なのです。それを受け入れられないからこそ、国家権力によって常に悪用される「名誉の死」という神話のほうが容易に受け入れられてしまうという状況が、戦争が起きるたびに繰り返されるわけですそして、そのような弔い方が、過去の戦争だけではなく将来の戦争をも正当化するわけです。
  ところがケーテは、息子の死のほぼ2年後の1916年の8月の段階で、日記に「戦争はもう2年も続いており5百万人という数の若者が亡くなったし、以前よりもっともっと多くの人間が悲惨で困窮した状態に落ち込んでいる。こんな状況を正当化する理由などあるのだろうか?」と自問しています。その数週間後の日記では、「私は戦争に狂気しか見出せないが、こんなことを言うのは、ペーター、お前に対する不忠なのであろうか?」と書いています。つまり、彼女がここで言いたかったことは、「ペーター、申し訳ないが、お前の死に、もはや母である私はなんの価値も見出せないよ」と言っているのです。すなわち、ペーターの死が「犬死」であったことを彼女は認め始めているのですが、それと同時に、息子を「犬死」させた自分の責任を深く感じはじめていたことは、その後の彼女の追悼碑の製作案が変化し続け、最終的には1932年に「悲しみに打ちひしがれる両親」と題された彫刻に結実したことに表れています。残念ながら、その変化の具体的な詳細をここで書いている時間的な余裕が今ありませんが、いつか機会があれば紹介したいと思います。
  アネッテ・ゼーラーの論考は、「ピエタ」については全く触れていませんが、彼女のこの論考を読んでみて、私自身の「ピエタ」についての再考が間違っていないはずだという確信を得るようになりました。1937−39年の間に作られたオリジナルの「ピエタ」は、もう一度書きますが、息子を犬死に追いやった母が、悲しみながら自分の責任を自問しているものなのです。それを拡大したものが、現在、ベルリンの中心地にある 「ノイエ・ヴァッツヘ」という慰霊館に設置されているのです。ここには、戦地で亡くなった多くの若者を「英霊」として祀りあげることで、「犬死」したという事実を隠蔽している靖国神社、息子を亡くした両親や夫を亡くした妻の悲哀と多くの若者を死に追いやった責任を全く無視した靖国神社との対照的な違いが明らかに出ています。ドイツと日本のこの決定的な違いを、私たちはどう考えるべきなのでしょうか。

「表現の自由」を装った「表現の不自由」?!

  話は変わりますが、ケーテの「戦争」シリーズの版画作品の中で、今回私が初めて観た作品の一つに、1922年制作の「戦争未亡人II」というものがあります。死んだ赤子を胸に抱きながら、その母も死んでいるという悲惨な状態を描いた作品です。この版画を観たとき、すぐに、四國五郎の絵画「黒い雨」が私の頭には浮かんできました。四國はケーテのこの「戦争未亡人II」に心を動かされて「黒い雨」を構想したのではなかろうか、というのが私の想像です。「黒い雨」の場合は、生き残った子供が母の屍体を前に茫然としている状態であることから、私にはケーテの作品よりさらに悲哀に満ちたものに感じられます。その意味で、四國はケーテの作品のモチーフを用いながらも、「戦争の悲惨さ」をさらに強烈に表現することに成功していると私には思えます。

 
ケーテ・コルヴィッツ作「戦争未亡人 II」
 
四國五郎作「黒い雨」

 この数年で、四國の作品は急速に日本全国で知られるようになりました。各地で四國作品の展覧会が開かれ、来年は一年を通して広島の国立原爆死者追悼平和祈念館で四國の特別展が開かれるとのこと。それはそれでとてもよいことだと私も思います。しかし、その一方で、四國の原爆関係の作品のみを展示することで、広島を「戦争の被害地」としてのみ強調し、戦争を引き起こし多くの日本人を「犬死」させただけではなく、数千万にのぼるアジアの人たちを殺傷した日本国家と私たち日本人の責任を今以上に忘却させることに政治的に利用されないように、私たちが十分に気をつけ努力する必要があると私は思っています。その意味でも、上に述べたケーテの「ピエタ」の意味をもう一度熟考すべきだと私は考えます。
  他にも、例えば、広島市は、広島市の被爆者に対する長年の差別的な行政措置に対して写真集『ピカドン』で痛烈な批判をしていた福島菊次郎の傑出した作品被爆者である中村杉末に焦点をあてた写真 を、行政批判という意味をすっぽり抜きとった上で、最近改装した広島平和記念資料館(いわゆる「原爆資料館」)に展示しています。『ヒロシマの嘘』という本でも広島の戦争加害責任無視を痛烈に批判した福島菊次郎が、今も生きており、原爆資料館に展示されている自分の作品を眼にしたとしたら、どのように思われることでしょうか。
  「表現の不自由」ということがいま盛んに問題にされていますが、福島菊次郎のこの作品の展示を考えてみると、「表現の自由」を一見尊重しているように見えながら、実は、作者の本来の意図を全く削いでしまったやり方で展示するという欺瞞が堂々と行われているのです。それは、「表現の自由」を装った「表現の不自由」と称すべきものではないでしょうか。

聖アントニー教会の「空中に浮かぶ天使」

  ケーテ・コルヴィッツ美術館から徒歩で数分というとても近い場所に、小さなプロテスタントの聖アントニー教会があります。ケルンは、立派なケルン大聖堂があることからもわかりますように、カソリック信者が多い街ですので、プロテスタント教会は少ないようです(ケルン大聖堂は第2次対戦中に連合軍によるたび重なる空爆でかなり破損しましたが、戦後、長年かけて修復工事を行い、1956年に見事に修復完了。お昼頃行くと、30分ほど荘厳なオルガン演奏が聴けます)。
  ゴシック様式のこの教会の歴史は古く、14世紀半ばに建築が始まっていますが、1805年になってプロテスタントに移籍されたとのこと。「空中に浮かぶ天使」の歴史的な背景についても、拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』の第5章で説明しておきましたように、このユニークな彫刻は、ケーテと親しかった彫刻家エルンスト・バルラハが、ケーテの息子ペーターの死を悼んで、制作したものです。もともと、この彫刻はバルラハが住んでいたドイツ北部の小さな町グーストロウの教会に設置されました。天使の顔は、明らかにケーテの顔で、天使としてはとても哀しい顔に作られています。バルラハは、天使の顔として、コルヴィッツに代表される「子どもを戦争で失った多くの母の悲しみ」をシンボリックに表現したのでした。
  1937年8月、ナチスの命令により、この彫刻は教会の天井から取り外され、兵器製造利用のために溶解されてしまいました。しかし、その2年後の1938年10月のバルラハの死後、彼の友人や支持者が協力して、ベルリンの製錬所に保管されていた彫刻制作のための粘土の型から、もう一つ同じ彫刻を密かに作り、北ドイツのある小さな村に隠しておきました。戦後の1951年に、この彫刻はケルンのこの聖アントニー教会に設置され、彫刻の下に置かれた石には「1914-1918」、「1939-1945」という数字、すなわち第1次、第2次の両世界大戦の期間を示す数字が刻まれました。戦後の冷戦による東西ドイツの政治的摩擦にもかかわらず、1953年には「空中に浮かぶ天使」の3つ目の彫刻が作られ、当時は東ドイツ側にあったグーストロウに西ドイツからその彫刻が送られ、元々彫刻が置かれていた教会に再び設置されました。(グーストロウのエルンスト・バルラハ美術館への私の訪問記については、2015年7月16日のブログ記事を参照してください。)

 
エルンスト・バルラハ作「空中に浮かぶ天使」

  グーストロウの教会で初めて眼にした「空中に浮かぶ天使」を再びケルンで見たときには、グーストロウで初めて見たときの感動がまざまざと蘇ってきました。私たちが訪れたときは、誰も他には訪問者が教会にはおらず、管理人のおじさんも暇だったのか、バルラハの彫刻に私が興味があると分かるや、いろいろと親切に説明してくれ、「空中に浮かぶ天使」だけではなく、他にも2つの作品があることを教えてくれました。
  一つは、バルラハが第1次世界大戦直後に制作した「キリスト十字架刑の像」で、これは戦死した多くの兵隊たちを悼むためにバルラハが同じものを多数作って、多くの教会に寄贈したものであるとのこと。この教会に飾られているものは、そのうちの一つを所有していたある個人から、最近になって寄贈されたものだそうです。また、教会堂を入ってすぐ右側には「説教するキリスト」と題された、人間味のある、ほのぼのとした雰囲気が出ている、典型的なバルラハの作品スタイルと思われる木像彫刻が置かれています。「キリスト」というよりは、「好好爺」といった雰囲気の人物です。これも、最近、オークションで教会が入手したものとのことです。バルラハの作品を3つも所有している教会はドイツでもめずらしいのではないかと思いますが、訪問者が少ないところをみると、よく知られていないように思われます。
 
バルルラハ作「キリスト十字架刑の像」

 
バルラハ作「説教するキリスト」 
もしもケルンに行かれる機会がおありでしたら、ケーテ・コルヴィッツ美術館だけではなく、聖アントニー教会にまで足をのばされることを強くお勧めします。毎月1回、バッハのカンタータの中からの数曲を含む教会音楽会が開かれているそうですから、前もって調べて行かれるとよいでしょう。

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2016年11月6日日曜日

「四國五郎追悼・回顧展」と「シドニー・海辺の彫刻展」


先月5日から11日まで広島市内で「四國五郎追悼・回顧展」が開かれました。残念ながら私は鑑賞することができませんでしたが、大成功だった様子を、展覧会を企画された池田正彦氏が書かれていますので、ご本人の承諾を得てここにご紹介します。(なお、この報告は『詩人会議』の来年1月号に掲載予定とのことです。)また同じく先月の20日から11月5日まで、オーストラリアのシドニーの有名な浜辺ボンダイ・ビーチで「海辺の彫刻展」が開かれました。幸いにして、開会式に妻と一緒に出席する機会がありましたので、簡単ながら報告します。


四國五郎追悼・回顧展
四國五郎の創作の原点に迫る

池田正彦(広島文学資料保全の会・事務局長)

 四國五郎追悼・回顧展は、広島市内での開催は四度目。
今回は、反戦・平和を訴えつづけた氏の原点に迫る展示に心がけた。(10月5日~11日 県民文化センター)
 20歳で徴集されてシベリア抑留を体験。一九四八年に帰還し、一緒に絵を描こうと誓い合った最愛の弟の無惨な被爆死を、残された死の直前まで書かれた日記によって知る。(弟・直登さんの日記と氏の解説文をパネル展示)
 直登さんの日記、八月六日の冒頭は「廣島大空襲さる 記憶せよ」(中略)「左の足が焼けつくように熱い。左の足の裏をみれば木材でブチ割られてどくどくと血潮を吹き出している」と、逃げまどう様子を生々しく記録している。(しかし日記は八月二七日でぷつんと切れる)
 その衝撃は、絵と詩・エッセイで反戦・平和を訴える信念として、戦後を出発させた。
 その一つは、峠三吉等との協働で「原爆詩集」や「辻詩」などの活動を展開。官憲の目をくぐりぬけながら逮捕を覚悟しての行動だった。
 第二は、一九九四年NHKが募集した「市民が描いた原爆の絵」において、番組出演など先導的役割を担った。それは、弟・直登さんの無念さを背負った表現者としての責務ととらえたからである。(「私記」とした原稿と、「市民の原爆の絵」などを、パネル展示)
 第三は、高橋昭博氏(元・原爆資料館館長)の体験を基に描かれた証言紙芝居である。年齢的にも体験的にも弟・直登さんをオーバーラップさせ描いた。
 この原画はデジタル化され、「敗北を抱きしめて」の著者であるMITジョン・ダワー名誉教授が開設されたサイトに英語と日本語の解説を加え公開されている。また、ハノーファ市でもドイツ語版の小冊子が制作され、学校などに配布されるなど広く活用されている。
 会期中の10月8日、今夏「ヒロシマを伝える―詩画人・四國五郎」を刊行した永田浩三さん、息子・光さんを招きギャラリートークを行った。当初50人を予定していたが、狭い会場は100人を超える人で埋まり大盛会であった。そこで、息子・光さんは「直接被爆体験のない父が、表現者として反戦・平和を強靭な信念とした父の並々ならぬ覚悟を感じてほしい」と語った。
 四國展の大きな特徴は、美術館とはあまり縁のない、ごく普通の市民の皆さんがたくさん来場されること。アンケートの回収の多さにある。これは市民画家と市井の民とともに生きた四國五郎の誇りうる勲章だと思うのは私だけではないだろう。
 アンケートの内容はさまざまだが、多くは「原爆資料館の中にコーナーを作るべき」「平和美術館を」「常設の施設があるべきだ」等々、ある意味で、そのまま行政への要請書となっている。(アンケートは今回187通、トータルで1000通を超えた)
 アンケートの中には「毎年やってほしい」との要望が散見する。おりしも来年(二〇一七年)は峠三吉生誕百年。「駆け抜けた広島の青春・峠三吉と四國五郎」、並走した二人に焦点をあてた展示会を準備したい。峠三吉・四國五郎の仕事そのものが広島の貴重な文化・記憶遺産である。
永田浩三さんと四国光さんによるトーク・ショウ(大牟田聡氏撮影)
 
シドニー・海辺の彫刻展

 夏は多くの海水浴客で賑わうシドニー市郊外の有名な砂浜、ボンダイ・ビーチの南端から、次の海水浴用砂浜であるタマラマ・ビーチまでの約2キロ弱の距離、ひじょうに風光明媚な海岸の散歩道が続いています。毎年、この海岸線を使って「海辺の彫刻展」が開かれています。今年は、このユニークな彫刻展が始まってから20周年記念の展示会でした。年を経るごとにこの彫刻展は海外でもますます広く知られるようになり、作品展示を希望する彫刻家の数が増えているため、今では、「選考委員会」で選ばれた作品でないと出展できません。今年は17カ国から合計100人ほどの彫刻家の作品が選ばれた。日本からも10名(その内の数名はオーストラリアに移住した人たち)の彫刻家の作品が選ばれました。
 作品は、海岸線沿いの散歩道のすぐそばの岩場あるいは芝生地、そしてタマラマ・ビーチの砂浜に設置されているので、散歩道をゆっくり歩きながら作品を鑑賞できます。天気が良い日は、すばらしい紺碧の海をバックにした作品を楽しむことができます。第1日目の10月20日は、とても良い天候に恵まれたため、学校の先生に引率されてグループで歩いている、小・中学生とみられる子供たちの姿も大勢見られました。通常は美術館の屋内や庭園に置かれている彫刻が、遠くに水平線の見える広大な海辺を背景にして置かれているのを見ると、全く印象が違うので、感動します。
 実は、今年の4月28日に、彫刻家であった私の義母インゲ・キングが百歳で亡くなりました。そのため、「海辺の彫刻展」の組織委員会が、今年の彫刻展をインゲ・キングに捧げるという形にしてくれ、彼女の大型作品2点をメルボルンからシドニーまで運んで特別展示をしてくれるという、とてもありがたいお誘いをいただきました。その上、私の妻(つまり義母の娘)と私の2人も開会式に招かれ、大勢の彫刻家と芸術愛好家たちにお会いする機会を与えられ、とても感謝しています。日本から参加された彫刻家のうち、牛尾啓三、田辺武、平田隆弘、石野耕一(オーストラリア永住)の方達とは個人的にお話を伺う機会もあり、芸術に疎い私もたいへん勉強させていただきました。
なお、下記はこの展示会に関するSydney Morning Herald と朝日新聞に載った記事です。ご参考まで。
Sydney Morning Herald
http://www.smh.com.au/entertainment/art-and-design/sun-rises-on-sculpture-by-the-sea-as-it-celebrates-20th-year-20161019-gs5mb3.html
朝日新聞
http://www.asahi.com/articles/ASJBN3TRNJBNUHBI01M.html?iref=comtop_fbox_u09
 
生前、ケーテ・コルビッツを尊敬し、彼女の作品から多大な影響を受けていた四國五郎さん、同じくケーテ・コルビッツを尊敬し、彼女に直接会って芸術家になるための助言を求めた私の義母(義母はその後間もなくナチス政権下のベルリンを逃れて英国に亡命)、その二人の作品展示がほぼ同じ時期に広島とシドニーで行われました。ケーテ・コルビッツという女性がもたらした影響に、今さらながら感激します。                           

義母インゲ・キングの作品Celestial Rings I


彫刻を鑑賞しながら散策する人たち
私の好きだった作品の一つ イタリア人女性 Silvia Tuccimei の作品 Flower Power
今年の最優秀賞に選ばれた西オーストラリアの彫刻家 Johannes Pannekoek の作品 Change Ahead 2016
現代アートのように見える自然岩
 
義母インゲ・キングの作品 Link III