2020年10月22日木曜日

中曽根康弘合同葬を原子力・核兵器の観点から切る!

中曽根康弘合同葬半旗掲揚と「大学の自治」崩壊

 

10月16日の東京新聞によると、翌日に行われる自民党と内閣の中曽根康弘合同葬に合わせて、当日、半旗掲揚を行うよう国立大学82校に文科省が要請したとのこと。これに対し56校が弔旗や半旗を掲揚することを決め、19校は掲揚しないと決めた。16日現在で、いまだ検討中は3校で、4校からは回答がなかったとのこと。要請を受け入れた大学のうちの多くが、その理由を「文科省の通知を受けた対応」と説明。つまり、「お上から言われたことには、そのまま従います」という、全く無節操で無責任な対応。掲揚しないと決めた19校も、ほとんどが当日は「土曜日で休業日」のためを理由にあげたとのこと。

本当に情けないことであるが、「大学における思想、精神の自由をあくまでも守るため」に、一政治家の葬儀のために国家権力が1億円近い額の税金を使って(自民党負担額を含めると総額2億円)行う葬儀に合わせて半旗を掲揚せよなどという要求は、絶対に拒否するとはっきり表明した大学はなかったようである。本来ならば、「大学における学問の自由」=「大学の自治」を侵す抑圧行為であるこのような半ば強制的な「要請」に、大学側が徹底的に抵抗する強い意志を示すと同時に、このパンデミックで生活困窮に陥り四苦八苦している国民が大勢いるこの時期に、2億円もの大金を葬儀に使うことの国家的背徳性を大学が批判すべきなのである。しかもこの合同葬には、反対デモを取締るために警察のみならず大勢の自衛隊員まで動員し、日本が文字通り「警察国家」、いや「軍事体制国家」の方向へと急速に突き進んでいることは明らかである。

ちなみに、半旗掲揚の「要請」は日本全国の都道府県教育委員会にもあり、それを受けて広島では平和公園内の原爆資料館前でも日の丸と広島市旗の半旗が掲げられた。中曽根康弘という人物が、原子力・核兵器でいかに極悪な政策を推進した政治家だったのかを少し考えてみるだけでも、半旗を掲げるどころか、広島市は本来ならばこの機を捉えて、中曽根批判を通して日本政府の原子力・核兵器政策を徹底的に検証してみるべきなのである。ところが、広島市は、先日の「黒い雨」広島地裁判決を不服とする政府の控訴決定をそのまま受け入れたのと同様に、今回もまた「お上が言われたことには、そのまま従います」という何の自主性もない、実に情けない対応であった。

 


 

 

中曽根の原子力・核兵器への関与で大損害をうけた日本

 

詳しく述べている時間がないので、ごく簡単に中曽根の原子力・核兵器問題への関与をかいつまんで記しておこう。中曽根は、日本が戦争に負けた原因は科学技術(特に核技術開発)を蔑ろにしたからだと確信し、戦後の占領期にマッカーサー元帥に建白書を出し、原子力研究と民間航空機開発利用を禁止しないようにという要望を提出している。1951年4月に対日講和交渉のために訪日したダレス国務長官に対しても、同じように原子力平和利用研究と民間航空機開発の解禁を訴えた。この時期、中曽根の頭の中にあったのは「原爆と原爆投下を行った大型爆撃機B-29」であったものと思われる。「平和利用、民間利用」から始めて、最終的には核兵器と核兵器搭載可能な爆撃機の開発にまで到達したいというのが夢であったのであろう。

1953年12月にアイゼンハワー大統領が国連総会で「原子力平和利用」に関する演説を行うと、中曽根は一国会議員でありながら、翌年54年3月2日には突然「原子力予算案」(2億6千万円という当時では巨額の予算案)を上程。その後、正力松太郎(原子力委員会初代委員長、初代科学技術長官)らと協力して、修正予算案を驚くべき額の50億円にまで増大させている。これがその後の日本の原発産業の出発点であり、中曽根は、福島原発事故に対しても何らの責任も感じることなく、死ぬまで一貫して原発利用拡大政策を唱え続けた。悪運の強いことには、実は、原子力予算案を提出した前日には、米国のビキニ環礁核実験で第5福竜丸が大量の「死の灰」をかぶったのであるが、これがニュースになったのは漁船が焼津の母港に戻った3月14日以降であった。予算案提出がもう少し遅れていれば、「死の灰」の恐ろしさを知った議員や国民から猛反対が起こり、成立の見込みはなかったであろう。

1959年には第2次岸内閣改造内閣に科学技術庁長官として入閣し、原子力委員会の委員長にも就任して、原子力開発に引き続き力を入れている。このとき彼は、原子力利用政策の中に原子力潜水艦の開発の余地も残しておいたと後年述べている。ちなみに、岸は「日本国憲法では、自衛のためであれば核兵器使用も禁止されてはいない」と、将来の日本核兵器武装の可能性にまで言及した最初の首相である(その後、複数の歴代首相が同じ見解を述べている。岸の孫である安倍晋三もその一人)。

1970年には、中曽根は第3次佐藤栄作内閣で防衛庁長官となり、この時、「日本の核武装能力の試算」なるものを防衛庁内でやらせており、その結果は、核兵器製造には当時の金額で2千億円が必要で、5年以内で核武装が可能というものであった。ただし、日本では実験場を確保できないため、実際に核武装をするのは困難であると判断。しかしながら、この段階から彼は、日本がいつでも核武装が可能なように原発運転で核物質を確保しておくべきであるという考えを持つようになった。もっと具体的に言えば、原子炉の数を増やし常に稼働させることで、日本は原発でできる核燃料を使って核兵器製造がいつでも可能であるということを海外諸国に知らしめておくことで、「核抑止力」と同じ影響力を持つというのがその考えである。この考えが今も自民党の石破茂のような政治家に継承されている(石破は福島原発事故後の原発稼働停止に強く反対したが、その理由として「抑止力がなくなる」とはっきりと公言した)。ちなみに、日本のロケット開発も最初から、人工衛星打ち上げだけが目的ではなく、核弾頭利用の可能性を狙って始められた。

その一方で、中曽根は、1968年に佐藤内閣が正式に打ち出した「非核三原則(核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)」を閣僚として全面的に支持しているが、佐藤も中曽根も「持ち込ませず」が「建前」に過ぎないことを百も承知していた。実は、「持ち込ませず」という原則を含めるように佐藤に助言したのは中曽根であったと、後に中曽根自身が言っている。「持ち込ませず」は沖縄返還に向けて、国民ならびにアジア諸国に日本軍国主義復活の危惧を抱かせないためのパフォーマンスだったのであり、「持ち込む」に関しては佐藤栄作とニクソン大統領の間で密約を結んでいたことは今では周知のところ。佐藤はこの大嘘でノーベル平和賞を受賞した。後年、中曽根はこの密約について、「当然だろう。外には言えないことなので、その時には密約の必要があったんだ」と平気で述べており、恥ずかしいとも思っていない。ちなみに、本土返還後の沖縄への自衛隊配備を準備したのも中曽根であった。

1982年に中曽根は首相の座につくや「戦後政治の総決算」を掲げ、靖国神社公式参拝、防衛費GDP1%枠撤廃、戦後歴史教育見直し、日教組つぶしなど、次々と復古主義的な右傾化をすすめる政策を導入。広島との関係で言えば、1986年の広島訪問の際に原爆病院を視察したが、そのとき被爆者に対して「病は気から」と述べたとのこと。本人は被爆者を元気づけるつもりで言ったのであろうが、被爆者の病苦の実相に無知な、あまりにも無神経な発言である。首相在任中には、このほかにも、アイヌ民族の存在を無視した「日本は単一民族国家」、「黒人は知的水準が低い」といったはなはだしい差別発言をはじめ、米国のためにソ連進出を防ぐような意味合いで、米国に媚を売るために「日本は不沈空母」と称するなど、様々な問題発言を吐いた。国鉄・電電公社・専売公社の民営化と国労、総評つぶしなど、日本の労働運動に決定的な打撃を与えたのも中曽根であった。

しかし、原子力・核兵器問題の観点からするならば、中曽根が首相在任中に強力に推し進めた六カ所再処理工場(核燃料サイクル施設)設置計画を、私たちは決して忘れてはならない。もともと六ヶ所村は、石油化学プラントを中心とする「むつ小川原巨大開発計画」の場所として選ばれたが、この計画が頓挫するや、中曽根政権下で秘密裏にここに核燃料サイクル施設を設置する計画がすすめられ、住民投票すら行われずに、いつのまにか決定されてしまった。1973年のオイルショック以来、強力に推進してきた原発設置の結果、放射性廃棄物の処理・処分が問題となってきたし、使用済み核燃料の再処理によるウラン・プルトニウムの分離利用も展望に入れ、この両方をセットにして、六ヶ所村を「夢の核燃料サイクル施設」にしようという計画であった。「核燃料サイクル」とは、原発における核燃料使用済み燃料からプルトニウムを取り出し、それを燃料として利用することを繰り返すことで、無限のエネルギー源が得られるという「夢のプロジェクト」である。ところが、発電をしながら使用済み核燃料を高純度のプルトニウムに転換するという増殖炉計画を、商業用目的で実現させた国は世界中でどこもなく、文字通りの「夢のプロジェクト」。

日本はこの技術開発のために、核兵器用プルトニウムを生産してきたアメリカの軍事技術から学ぼうと、その軍事技術の日本への移転を米国に求めた。その日米交渉は、中曽根・レーガン時代の1980年代末から両者が退陣した後の90年代初期にかけて行われ、実際に技術移転が行われている。アメリカは、日本が核燃料サイクル計画で大量のプルトニウムを蓄積することは十分に承知していながら協力した。事実、現在、日本は47.8トンという大量のプルトニウム(核兵器6千発分)を保有している。NPT(核不拡散条約)加盟の非核兵器保有国の中で、高純度プルトニウム製造施設とこれほどまでの大量のプルトニウム保有量を持っている国は日本だけで、アメリカが特別に日本だけにこれを許しているのが現状。しかも、日本のプルトニウム保有量は、公表されていない中国を除くと、米露英仏の核兵器保有国に続く世界第5位である。日本は、その気さえあれば、いつでも核兵器を製造できるし、核ミサイルも配備できる。イランなどより、日本の方が余程危険な国なのである。なぜこのようなことをアメリカが日本に許したのか、その理由についての確証的な資料は現在のところ入手できない。その理由の推測については詳しく述べている余裕が今ないので、興味のある方は拙著「自滅に向かう原発大国日本(上)」(『広島ジャーナリスト』18号、2014年9月発行)を参照していただきたい。

六カ所再処理工場の建設、運転・保守などの総費用には、これまでに、なんと13兆9300億円(2018年現在)がかかっていると見積もられている。しかし、この数字は、工場が40年の間常時100%フルに無事故で稼働するという、あり得ない前提のもとに出した試算であるから、実際には、14兆円を遥かに超える費用がかかっているはずである。実際、六カ所再処理工場ではトラブルが続発しており、今後もますます費用はかさみ、最終的には19兆円になるという予想すら出ている。六カ所再処理工場では年間800トンの使用済み燃料を処理し、約8トンのプルトニウムを分離する。ところが、このプルトニウムをウランと混合させて作るMOX燃料が使える原子炉は4基のみで、プルトニウム消費量は全部合わせても年間で最大2トンほど。全く経済的に採算が合わない。プルトニウムを使う高速増殖炉の「もんじゅ」も「常陽」も、巨額の建設・運転費を投入したにもかかわらず、事故続発で廃炉状態。「夢の核燃料サイクル」は、実際には、完全に破錠している。こんな「悪夢のサイクル」を作り出した元々の責任者はいったい誰か!

危険極まりないプルトニウム製造にこれだけの巨額を投入し、原発事故では福島県民をはじめ多くの国民の生活を困窮に追い込み、家庭、地域社会を崩壊させ、その上に放射能汚染除去のためにこれまた巨額の税金を国民に使わせた責任の一端は、明らかに中曽根にある。その中曽根は、死んでも再び、自分の葬儀のために国民から1億円近い金を負担させた。こんな人物のために、半旗掲揚で哀悼の意を表せなどという政府の「要請」に、黙々と従っている多くの大学、多くの日本人!なんという情けない国なのか!不正不義、とりわけ政治家と官僚の不正不義に対する怒りを忘れた国民は、最終的に自分たちの社会共同体を崩壊させるだろうと私は思う。

 

「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」 田中正造