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2023年4月6日木曜日

(1) 続・漫画「はだしのゲン」削除問題を考える

(1)続・漫画「はだしのゲン」削除問題を考える

(2)坂本龍一の死から「小泉文夫の仕事」、そして「他大学への盗講」を思い起こす

 

 

(1)続・漫画「はだしのゲン」削除問題を考える

広島市の平和教育プログラムの教材『ひろしま平和ノート』からの漫画「はだしのゲン」削除問題について、314日のこのブログで、「広島文学資料保全の会」の池田正彦さんの鋭い批判を紹介させていただきました。これを読まれた池田さんの親友であられる笹岡敏紀さんが、東京新聞のコラム「ぎろんの森」の編集部宛に317日に送られた書簡を、笹岡さんご本人のご了承をいただき、ここに掲載させていただきます(東京新聞は、この書簡を掲載してはいないようです)。

笹岡さんは、学校用学習教材や教職員向けの教育書を出版している明治図書出版に勤めておられた経歴をお持ちで、原爆関連の文芸についても深い見識をお持ちの方です。土屋時子・八木良広共編『ヒロシマの「河」――劇作家・土屋清の青春群像劇』(藤原書店 2019年)にも「今、私の中に蘇る『河』――労働者として生きた時代と重ねて」と題した素晴らしい論考を寄稿しておられます。笹岡さんも、「中国新聞」37日付の3人の紙上討論が、「はだしのゲン」が世界各地でいかに広く受け入れられているのかという「現代的かつ歴史的意味」について全く議論していないことを厳しく批判されています。私も全く同感です。

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 「東京新聞・ぎろんの森」欄・編集部御中


                                      笹岡 敏紀

 

 前略 

 取り急ぎ、お手紙を差し上げます。

 

 この度は、貴紙の311日付「川柳」欄に掲載された1首の「川柳」から考えたことを、お便りとして差し上げます。

 その1首とは

 どの面でゲンを追い出しG7

というものです。

 この1首の意味するところは、広島市の教育委員会が「平和教育・教材」に長年採用されていた「はだしのゲン」を他のものに差し替えることの背景には、この5月に開催されるG7のことがあり、広島教委の忖度か何らかの圧力かが存在するのだろうと皮肉ったものですね。

 なぜ、「はだしのゲン」の削除とG7がかかわるのでしょうか。私はこのことを考える途上、あるブログを読む機会がありました。同封させていただいた資料1です。

 私は、このブログに書かれている分析が、基本的問題を鋭く指摘していると思いました。そして、冒頭紹介した川柳の持つ意味を、端的に解説しているのではないか考えたのです。

 そして、このブログの最後には、「はだしのゲン」削除問題についての論考を紹介するとして、資料2が載せられていました。

 この論考の筆者の池田正彦さんは、「広島文学資料保全の会」の事務局長として長年活動している人であり、私の長年の友人でもあります。上記の田中利幸氏は、池田さんのことを「広島文学関連資料の生き字引」と言っています。なお、「広島文学資料保全の会」が今進めている活動の一つに同封の資料3のようなものがあります。また、最近では資料4のような取り組みが地元の「中国新聞」(毎日新聞・広島版でも)で報道されています。

 

 さて、私がこのたび、「はだしのゲン」の問題でお手紙を差し上げようと考えたのは、貴紙「東京新聞」37日付夕刊に掲載された「『はだしのゲン』問題の本質とは」という川口隆行氏の寄稿文を読んだことによります。

 じつは、この川口氏は同じ37日に「中国新聞」にも2人の論者とともに、「はだしのゲン」の問題について寄稿しています。資料5がそれです。

 資料2の池田正彦さんの論考は、この「中国新聞」の3人の論者への批判です。

 私は、この3人の論者の意見を、不思議な思いで読みました。それは、「はだしのゲン」という作品の大切さについての考察がなされていないことです。「はだしのゲン」という作品が、日本国内のみならず、世界の「核廃絶」をめざす人びとにいかなる意味をもって受け止められているかという、現代的かつ歴史的意味をきちんと書かないまま、ただの「教材論」をいかように論じても意味はないと思ったからです。

 なお、「はだしのゲン」だけでなく、中学校の教材から「第五福竜丸」のことも削除するということは、まさにこの川柳が言っていることなのでしょう。

 なお、けっしてついでで申し上げるのではなく、池田正彦氏からのメールでは「先日亡くなったなった大江健三郎氏が『広島文学資料保全の会』の代表である土屋時子氏宛ての書簡(20149月)の中で、『広島文学資料』(に限らないのですが)の保存に触れ、「大事な資料は、公的な場所に登録した上で、パブリックな場所で公開されるべき」という趣旨のことを述べられていたそうです。

「広島文学資料保全の会」は、これまで機会あるごとに「広島に文学資料館を」と行政に要請しています。とりわけ、「原爆文学とその関連資料」は、日本だけでなく世界の遺産でもあるでしょう。それが、資料3にある運動の基底にある思いだと思います。

今回の「はだしのゲン」の問題は、ほんとうにさまざまなことを考えさせてくれます。

 

取り急ぎ、広島教委の「平和教育教材」からの「はだしのゲン」外しについての、私見を申し上げました。

草々

 2023317

 

資料 1 田中利幸氏のブログ(314日)

資料 2 池田正彦氏の論考

資料 3 広島の被爆作家の被爆直後の資料を「世界の記憶遺産登録に」を応援する署名

資料 4 「広島文学資料保全の会」の最近の取り組み(新聞記事峠三吉の「碑前祭」<毎日新聞・広島版 202338日付「平和を願い問うた詩 峠三吉 今何思う>

資料 5 「中国新聞」37日付 3人の紙上討論

 


 

 

 

(2)坂本龍一の死から「小泉文夫の仕事」、そして「他大学への盗講」を思い起こす

 

4月2日に亡くなった坂本龍一の生涯に関する「文春オンライン」の4月2日付の記事に次のような説明があるのを見つけた。

 

「藝大に入学した坂本龍一は音楽学部の雰囲気に猛烈な違和感を感じたそうだ。とくにクラシックを学ぶ同級生たちは品の良いお嬢さん、お坊ちゃん的な空気を纏まとう学生が多く、自分のようなタイプの人間はそこでは異質な存在と思えた。

<学校の外の路上では連日何十万人規模のデモ隊と機動隊がぶつかりあっているのに、音楽学部の中はお花畑のようで、安穏とした雰囲気の中でお互いごきげんようなんて挨拶している世界(笑)。なるべく近づかないようにしていました>

三善晃や小泉文夫など魅力的な教官とその授業はあったものの、坂本龍一の足は次第に音楽学部から遠のき、道を一本隔てたところにある美術学部のキャンパスに入り浸るようになっていった。………

授業はさぼりがちだったが、小泉文夫の民族音楽の授業、三善晃の授業はときに履修資格もないのに熱心に受けた。」(強調:田中)

 

この文章から、すっかり忘れていた小泉文夫(1927-1983)のことをマザマザと思い起こし、この数日、私も当時を懐かしく回想している。私は坂本とは2年ほど歳上だが、ほぼ同じ時期に学生生活をおくっている。私もほとんど授業には出ずに、学生運動にのめり込んでいたが、音楽が子どもの頃から大好きだったので、ラジオでは音楽関連の番組によく耳を傾けていた。

そんな番組の中で NHK-FM が放送していた長期連続番組の小泉文夫の「世界の民族音楽」は、私が毎回最も楽しみにしていた番組であった。私が聴き始めたのは大学紛争タケナワの1970年代初めであるが、この番組は1960年代から始まり、私が日本を離れ英国に留学した1976年にもまだこの番組は続いていたので、おそらく彼が56歳でなくなる1983年まで続いていたのではないかと推測する。

 

 

フィールド・ワークで録音中の小泉文夫(小泉文夫記念資料室)

 

とにかく、日本各地はもとより世界各地、とりわけアジアや中近東、アフリカと様々な地域をフィールドワークで直に訪れ、地元の人たちが歌い奏でる音楽の音を録音して日本に持ち帰り、それを紹介しながら、音楽の素人である私たちにもとても分かりやすく且つ興味を常にそそる解説で視聴者を魅惑した、素晴らしい番組であった。後年、オーストラリアに移住して日本に一時帰国した1994年、彼の著書の一つ『日本の音:世界の中の日本音楽』を買い求めて一気に読み通したことを思い出し、昨日、本棚の奥から取り出してまたあちこちを読み返している。ページのいたるところに赤線が引いてあったり、鉛筆でコメントが記してあるのを読み直してみると、当時、自分がどんなことを考えていたのかを知ることができて面白い。

それはともかく、坂本と同様に実は私も、藝大にモグリで小泉文夫の講義を盗講に行こうかと思ったほど、彼の番組の解説は面白かった。現在の学生たちの中に、自分が在籍しない他学科あるいは他大学に、有名な先生がやっている興味深い講義を、いかにもその学科またはその大学の学生であるかのように装って(つまり「モグリ」で)聴きに行くということをやる学生はいるのだろうか……

私は当時、とりわけ大学紛争が終息した後、多くの大学での授業が落ち着きを取り戻したときには、「他大学にモグリで盗講」を繰り返し行っていた常習犯であった。そんな幾つもの盗講授業の中で最も衝撃的だったのが、当時、国際基督教大学で西洋経済史を週一回教えていた大塚久雄(東大名誉教授)の授業であった。彼の名著『社会科学の方法:ヴェーバーとマルクス』を読んで、彼の授業を聴かなくてはと、新学期の初めての彼の授業に、こともあろうに堂々と教室の一番前の列に座って(苦笑)、彼の登場を待ち受けた。

そこに羽織袴姿で松葉杖をついた、凛とした老人が静に現れたその美しい姿に私はビックリ。若い頃に片足を病気で切断されたことは知っていたが、羽織袴姿とは想像すらしなかった。確かに、羽織袴姿だと片足切断ということが見えにくい。大塚が壇上の椅子に座ると、秘書のような大学院生が大塚久雄著作集(岩波書店)の一冊を机の上に置いた。しかし、大塚はその本を開けようともせず、90分間を滔々とよどみなく、しかしゆっくりと、学生に話しかけるかのように、その日のテーマに関わる様々な重要な問題に縦横無尽に触れて、詳しく解説していく。ときには例えば、講義とは全く関係のないような山本周五郎の小説の話になるのであるが、実は、講義の最後にはそれがその日のテーマと密接に関連していることに驚かされるということもあった。

 

 


 

私はこの最初の講義で、これはよほど勉強しないとついていけないと、完全に精神的に打ちのめされてしまった。しかも、毎回がこの調子で、大塚は机上の自著を一回も開けないし、講義ノートも全くない。常に直接話かけるように学生の顔を見つめている。そんなわけで、結局、大塚の講義を盗講するために、私は1年間、国際基督教大学に通い、同じ講義に出ていた本物の学生(笑)たちともすっかり仲良くなってしまった。それだけではなく、数ヶ月もすると、大塚に向かって堂々と質問までするようになった。今考えてみると、よくも恥ずかしくもなくやったと思うが……。彼も私がモグリだと気がついたようだが、何も問わずに、とても親切に質問に応えてくれた。

この1年の大塚史学へのノメリコミが、私の人生を文字通り変えてしまったのである。後年、大塚史学には決定的な弱点があることに気がつき、その弱点を自分の思考の弱点と重ねる形で克服することに努めたが、詳しくは、機会があれば詳しく述べてみたい。

 

 

 

 

2022年5月18日水曜日

心に静穏を求めて

― 戦争と殺戮のない世界を夢想し唄うことの意味 ―

 

世界が目の前で崩れていく中で

ウクライナ戦争は終わりが見えない状況で、このまま戦闘の泥沼化がズルズルと長引けば、ウクライナの(多くの人命、国家社会と自然環境)破壊はもちろんのこと、ヨーロッパ全域、さらには世界各地が、社会的、精神的、物理的なさまざまな面で深刻な影響を長期にわたって受けることを避けられなくなると思われます。

もちろん、現在の私たちの地球世界は、ウクライナ戦争のずっと以前から重症とも呼ぶべき状態に長年陥っています。例えば、紛争や迫害によって故郷を追われた人たちの数は、国連の発表によれば、2020年末の段階で8,240万人という膨大な数にのぼっています。そのうえ、コロナ感染症での死亡者数だけでも、少なくとも、これまでに630万人。コロナ感染症が引き起こしている経済問題が原因での失業数も大幅に増えており、ILOの発表では昨年の世界推定失業者数は少なく見積もっても2億2千万人とのこと。失業者だけではなく経済的に困窮している人たちの数も、これまた膨大な数になっているはずです。さらには、温暖化による世界各地での豪雨、旱魃、森林火災などもまた多くの被害者を出しています。こうした困難な状況に直面して、精神的に耐えられなくなり自死を選ぶ人たちの数も、世界各地で急激に増えているようです。

いったい私たちはどうしたらよいのでしょうか。古稀を過ぎた私のような年齢になると、将来の心配は、老い先それほど長くはない自分のことより、「自分たちの子どもや孫にとって、この崩れつつある世界はどうなるのだろうか。そうした若い世代の人たちのために世界の状況を少しでもよくするには、自分には何ができるのだろうか」と考えることが多くなります。しかし、いつも答えは「全く微力な自分には、これといってできることは何もないが、今できるだけのことをやるより他はない」という思いで、自分を納得させる他ありません。

 


 

「この世に平和を」

平和に暮らすために戦争の準備を

隣人を憎むことを学べ

隣人は間違っており、自分がいつも正しいと思え

夜は隣人を密かに見張れ

隣人の妻についての嘘を拡散しろ

隣人の名誉を傷つけ、彼に災いをもたらせ

これらの全てを成し遂げたとき

隣人は、お前がやったことと同じことをお前に対してやるであろう

 

 

「空」=「無」に自分をおくことと「静穏」の関係

 私は、正直、この数年、そんな無力さに打ちのめされるような無念さ、侘しさ、なんとも言葉では表現できない不安に襲われることがしばしばあります。そんなときは、尺八を吹くことに心を集中させれば、下手ながらも、一種の瞑想のような状態に自分をおくことができ、ある程度、精神的回復をはかることができているように思えます。

最近は、その上に、般若心経を唱えるということもやり始めました。般若心経は難解で、十分理解しているとは私は決して言えません。古典的尺八曲の一つに「虚空」というすばらしい曲があるのですが、「虚空」を練習していると、般若心経の「空」=「無」という観念がおぼろげながらわかるような気がしてきます。自分を「無」にする、あるいは「無」の境地に入れるというのは極めて難しいことですが、本当におぼろげながらではありますが、「空」という意味がわかるような気がするのです。あくまでも、気がするだけで、本当は分かっていないと思われますが(笑)。

「空」=「無」と言えば、ジョン・レノンの有名な歌「イマジン」の歌詞には、「無い」という言葉(英語では “no”)が幾つも出てきます。「天国が無い」、「地獄が無い」、「国が無い」、「殺し合うことが無い」、「宗教が無い」、「所有物が無い」、「欲張る必要も、飢える必要も無い」。「あるのは空だけ」だと。ただし、この場合の「空」は「無」というより、空<そら>という何も無い空間のこと。その意味では「無」につながっていますが。一説によると、この「イマジン」の歌詞を共作したオノ・ヨーコが、当時、禅に強い関心を持っていたため、禅の思想が歌詞に反映しているとのこと。真偽のほどはわかりませんが……。しかし欧米社会では、これはもっぱら社会主義あるいは共産主義の思想に影響された歌だと理解され、禅と結びつけて考えることは全くないようです。

私にとっては「国なんかない……殺したり、殺されたりすることもない」という思想は、まさに憲法九条の思想です。憲法九条には国家権力否定の思想が含まれているというのが大熊信行(1893〜1977年)の考えですが、私も同意見です。それはともかく、この「イマジン」を聴いていると、曲のスタイルは全く違いますが、「虚空」や「般若心経」を聴いているときと同じような「心の静穏」を私は感じます。

 

ジョン・レノン/オノ・ヨーコ作詞、ジョン・レノン作曲

「イマジン」(1971年)

https://www.youtube.com/watch?v=yD8pmkQd3PM

歌詞

 

Imagine thereʼs no heaven

Itʼs easy if you try

No hell below us

Above us, only sky

Imagine all the people living for today

Ah

想像してみて、天国など無いと

その気になれば簡単さ

地の下に地獄など無く

頭の上にあるのは、空だけ

想像してごらんよ、みんなが今日をきている

 

Imagine thereʼs no countries

It isnʼt hard to do

Nothing to kill or die for

And no religion too

Imagine all the people living life in peace

You

想像してみて、国なんか無いと

難しい事じゃないさ

殺したり、殺されたりすることもなく

宗教も無い

想像してごらんよ、みんなが平和に暮らしている

 

You may say I am a dreamer

But Iʼm not the only one

I hope some day youʼll join us

And the world will be as one

君は僕を夢想家だと言うかも

でもそれ(夢想家)は僕だけじゃない

いつか君が仲間になってくれたら

世界はつになるんだよ

 

Imagine no possessions

I wonder if you can

No need for greed or hunger

A brotherhood of man

Imagine all the people sharing all the world

You

想像してみて、所有物も無いと

君にできるかな

欲張る必要も、飢える必要もなくなって

人類は兄弟だ

想像してごらんよ、人々が世界を分かち合う

 

You may say I am a dreamer

But Iʼm not the only one

I hope some day youʼll join us

And the world will be as one

君は僕を夢想家だと言うかも

でもそれ(夢想家)は僕だけじゃない

いつか君が仲間になってくれたら

世界はつになるんだよ

 

「般若心経」

歌う僧侶 薬師寺寛邦 キッサコ

https://www.youtube.com/watch?v=gm4hTcRhoqI

(一部分)

舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩捶依般若波羅蜜多故心無罫礙無罫礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃

 

舍利子(弟子)よ。形があるということは実体がないということと同じであり、実体がないということは形があるということと同じなのである。すなわち、形があるからこそ、実体がないということになり、実体がないからこそ、形がある、ということになるのだ。他の四つの心の働きである、感覚、記憶、意志、知識も、形あるものの場合とまったく同じことが言えるのだ。舍利子よ。これこそが、この世のあらゆる存在や現象には実体がない、という姿なのである。したがって、それらは本来生じたのでも滅したのでもないし、よごれたものでも浄らかなものでもないし、増えたものでも減ったものでもないのである。したがって、実体がないということの中には、形あるものはなく、感覚、記憶、意志、知識といった精神作用もないし、眼・耳・鼻・舌・身体・心といった六つの感覚器官もない。さらに、形・音・香・味・接触感・心の対象、といった、それぞれの感覚器官の対象もないし、それらを受けとめる、眼識から意識までの六つの心の働きもないのである。さらに、無知もないし無知が尽きることもない、ということからはじまって、老も死もなく、老と死が尽きることもない、ということになる。苦しみもその原因も、それをなくすことも、そして、その方法もない。もともと得るものがないのだから、智も得もないことになる。かくて悟りを求める者たちは、智慧の完成という実践行に従っているので、心には何のさまたげもなく、さまたげがないから恐れがなく、すべてのあやまった考え方から遠く離れているので、最後には永遠にしてしずかな境地に到達することになる。

 

「無」の境地に達する以前の自己克服の段階

智慧の完成という実践行に従って……最後には永遠にしてしずかな境地に到達することになる」とのことですが、私のような愚鈍な人間には、生きている間にこんな境地に達することは全く不可能のように思えます。死ねば当然「無」に帰し、無理しなくとも自然に「無我」になりますので、私のような者はそれまで待つより他はありません(笑)。その前に、せめて生きている間は、さまざまな「我欲」をいかにしたら克服し、できるだけ多くの欲を捨てさり、他人に迷惑をかけないようにできるかを考えるべきでしょう。(こんなことを連れ合いに言うものなら、「喝!まずは飲酒という我欲を捨てるべし!」と言われそうですので、決して言いませんが<笑>)

古典尺八の曲に「打破」という曲があります。この「打破」がいったい何を意味しているか、説明が全くないので自分で想像するより他はないのですが、私は、これは「自己=我を打破する」という意味ではないかと考えています。古典尺八曲の多くは、禅宗から分派した普化宗の僧が作曲したものですので、禅の思想と深く結びついています。この「打破」も私の好きな曲で、よく練習しています。

悟りを開けそうもない私には、「虚空」より「打破」のほうが合っているように思えます。私のメルボルンでの尺八の先生、リンゼイ・ドゥーガン君(メルボルン大学音楽学部で、現在、尺八研究で博士号論文を執筆中)が素晴らしい演奏をしていますので、ご紹介しておきます。

 

「打破」

演奏:リンゼイ・ドゥーガン

https://www.dropbox.com/s/43k26u0k4pkku2u/Lindsay%20Dugan%20Daha%20March%2012%202022%201080p.mkv?dl=0

 

「虚空」

演奏:眞玉 和司

https://www.youtube.com/watch?v=BEJQ8jBcsnI

 

最後に、エルネスト・ブロッホ(1880〜1959年スイス生まれのユダヤ人作曲家で1916年にアメリカに移住)が作曲した「ユダヤ人の生活から」というチェロ曲(ピアノ伴奏つき)を紹介しておきます。なんとも、もの哀しくも実に美しい曲で、3つの曲から成っていますが、私は第1曲「祈り」が最も好きです。この曲を聴くたびに、1925年に作曲されたこの曲が、その10数年後から始まったホロコーストをまるで予言しているかのような想いに心を打たれます。チェロ奏者はユダヤ系英国人のナタリー・クラインです。

 

エルネスト・ブロッホ作曲 ナタリー・クライン演奏

「ユダヤ人の生活から」

https://www.youtube.com/watch?v=U3cmTA_qZkM

 

長い駄文を読んできただき感謝です。みなさんに心やさしい静穏がおとずれますよう、祈っております。

 

 


2020年6月20日土曜日

Inspirational Music for “Black Lives Matter” & Covid-19

「ブラック・ライブズ・マター」とコロナウイルス感染防止のための2つのコンサート
日本語の説明は英語版と詩+漫画の後をご覧ください。

(1) New York Philharmonic: “We Shall Overcome,” Arranged by Jordan Millar

  This past fall the New York Philharmonic invited Jordan Millar — a 13-year-old member of the Philharmonic’s Very Young Composers Program — to arrange “We Shall Overcome” for several Young People’s Concerts on “Music as a Change Agent.” Those performances were cancelled because of COVID-19. Over the past weeks it has become clear that there is an urgent need to hear this song’s expression of determination and hope. In this performance Philharmonic musicians are joined by members of the Abyssinian Baptist Church Cathedral Choir; The Dessoff Choirs; Brooklyn College, Conservatory of Music Symphonic Choir; and viBe Theater Experience. Together, they declaim the verses Jordan has set:
We shall overcome  
We are not afraid  
The truth shall set us free

  Larissa, granddaughter of my old friend, Mark Selden, is a 10 year old cellist in the second row from the top right. The composer, Jordan Millar is a member of her composition class. It is really nice to see young girls like Larissa and Jordan contributing to this kind of activity and interacting with adult players!

(2) HAUSER: ‘Alone, Together’ from Arena Pula
  HAUSER performs a special concert in his hometown in the iconic Arena Pula, Croatia. He would like to dedicate this performance to amazing efforts of all the frontline workers around the world and pay tribute to all that is good in humanity.

Track list:
Benedictus (From The Armed Man: A Mass for Peace by Karl Jenkins)
Air on the G String (J. S. Bach)
Intermezzo from Cavalleria Rusticana (Pietro Mascagni)
Caruso (Lucio Dalla)
Nessun Dorma (G. Puccini)


人間よ(校庭で歌われるべき歌)
昔、感染病がありました
昔、戦争もありました
いたわりあい、親切にしあい
同時に、血を流し合い、残虐をきわめあい
薬を作りながら
武器も作り
愛し合いながら、憎み合い
私たちは、なんとも不思議な生き物です
(マイケル・ルーニッグ作)

(1) ニューヨーク・フィルハーモニック・オーケストラ「勝利を我らに」
   ジョーダン・ミラー編曲
  ニューヨーク・フィルハーモニック・オーケストラには、「若年作曲家養成プログラム」と称する、子供たちのための音楽教育プログラムがあります。この「若年作曲家養成プログラム」は幾つかのコンサートを計画していましたが、コロナウイルス感染拡大のために中止せざるをえなくなりました。そこに、アフリカ系アメリカ人の人種差別反対運動「ブラック・ライブズ・マター」の急速な高揚が見られるようになったため、中止になったコンサートで演奏される予定だった、13歳のジョーダン・ミラーが編曲した「勝利を我らに」を、ニューヨーク・フィルハーモニック・オーケストラの楽団員や、ニューヨークの幾つかの合唱団が加わって、急遽、オンラインで演奏しました。その演奏が下記のユーチューブで鑑賞できます。歌詞がジョーダン・ミラーによって、以下のように変えられています(赤字部分)
「勝利を私たちに
私たちは恐れない
真実が私たちを自由にする

  画面右上の2段目でチェロを演奏している10歳の女子は、ニューヨークに住んでいる私の長年の友人のマーク・セルデン(中国史・中国社会研究)のお孫さんで、「若年作曲家養成プログラム」でジョーダン・ミラーと同じクラスに入っているとのこと。10歳代の女子が、大人の音楽家たちと一緒にこのような音楽活動に参加できる機会があることは、本当に素晴らしいです!演奏前に、ジョーダン・ミラーが、このネット演奏会について短く説明しています。

(2)ハウザー独奏会「一人、でもみんなと一緒」
  私の大好きなチェロ奏者の一人、ステファン・ハウザーが、生まれ故郷のクロアチアのプーラにある古代競技場遺跡で、コロナウイルス感染者を救助するために闘っている世界中の人たちに感謝し、その人間性あふれる努力を讃えるために、独奏会をユーチューブで、連続で開いています。その第1回目の独奏会です。
演奏曲
ベネディクトス(カール・ジェンキンズ作曲「武装した男:平和のためのミサ曲」より)
G線上のアリア(J.S.バッハ作曲)
オペラカヴァレリアルスティカーナ』の間奏曲(ピエトロ・マスカーニ作曲)
カルーソ (ルチオ・ダッラ作曲) 
誰もてはならぬ(プッチーニ作曲『トゥーラン・ドット』のアリア)