ラベル 書評 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 書評 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年10月1日金曜日

夢幻の世界に読者を引き込む小説

藤沢 周著 『世阿弥の花』を読む

 

「これはもう読書ではない」という書評

 

今年8月29日のネット版『東京新聞』の書評欄で、能楽師の安田登氏が、藤沢周が6月に出した新著、『世阿弥の花』の紹介を書いておられるのを目にしました。安田氏は能楽の解説書を幾つも書いておられ、それらの本の愛読者の一人である私は、安田氏の能楽を通しての「ものの見方」から多くを学ばせてもらっています。よって、安田氏がこの本を読まれて、「これはもう読書ではない。舞台の上で能を演じているよう」に感じると、絶賛に近い言葉を述べておられるので、早速、私もキンドル版を購入して読んでみました。

実は、藤沢周の小説を読むのは、私にとってこれが初めてでした。藤沢周が、私の好きな作家の一人である藤沢周平の名前に似ているところから、「ペンネームを真似たのか?」と思ったことがあり、調べてみたら藤沢周が本名であることをずいぶん前に知りました。「下衆の勘繰り」とはこのことで、お恥ずかしい次第でした。しかし、彼のこれまでの色々な作品のあらすじを読んでみても、「これは読んでみたい」と思うような、私の好みに合う作品はなかったので、これまで一冊も読んだことがなかったのです。

安田氏はこの『世阿弥の花』の書評の冒頭で次のように述べておられます。

 

小説を読んだというのとはまったく違う異質な体験をした。その体験に誘うために著者は序章から挑発・誘導をする。序章は、晩年、佐渡に流された世阿弥の船上の道行(みちゆき)である。しかし、その語り手は若くして客死した世阿弥の長男、元雅だ。死者、元雅の目は、風景や装束をきわめて丁寧に描写する。そのあまりの丁寧さに、先に先にと読み進めようとする目の動きは制止され、死者とともに従容たる歩みを運ぶこととなる。

 

実際に読んでみると、まことにその通りで、言葉を慎重に選び、熟考して練り上げた表現方法による描写が、亡くなった世阿弥の子息である元雅の霊の語りとしてゆっくりと展開していきます。もうすでにこの序章の段階から、夢幻能の舞台を観ているような不思議な世界に引き込まれます。(ちなみに、ご存知と思いますが、「夢幻能」とは、亡くなった人の霊や樹木の精霊などが能のシテ=主役となっている物語の能です。)

  序章に目を通しただけで、藤沢周がこの小説を書くために、おそらく自分でも能の舞と謡を相当熱心に学んだであろうと想像できます。聞くところによると、藤沢はこの小説を書くために6年を費やしたとのこと、さもあらん、と思います。舞や謡だけではなく、能楽囃子の鼓や笛(能管)の音の出し方まで詳細に、小説のあちこちで描写しています。

 

世阿弥像(佐渡島 正法寺蔵)

 

佐渡流刑になった世阿弥が、自分に重ね合わせた順徳院の怨念

 

  小説の主人公は、父の観阿弥の芸を受け継いで能楽(観世流)を大成化した世阿弥です。世阿弥は室町時代の14世紀末から15世紀初めに、将軍である足利義満や足利義持の保護を受けて活躍しますが、足利義教の時代になると義教に嫌われ、弾圧されるようになりました。そのため、1422年に観世大夫の座を長男の元雅に譲って、自分は出家しました。ところが1432年に元雅が旅先の伊勢安濃津で客死し、その2年後の1434年に世阿弥も佐渡島に流刑になります。

小説は、世阿弥を乗せた船が、荒波の海を佐渡島に向かっている場面から始まります。この時、世阿弥は72歳になっていました。平均寿命が現在よりずっと短かった当時、72歳という年齢はかなりの高齢で、「老翁」と称すべきかなりの老人です(今、私自身も72歳なので、「私も<老翁>と呼ばれる歳なのかしら」と、自分で驚いていますが<苦笑>)。

なぜ世阿弥が佐渡に遠島になったのかその理由は分かっていませんし、佐渡に何年滞在したのかもはっきり分かっていません。いずれにせよ、高齢になってから老妻の寿椿の世話を娘婿の能楽師の金春禅竹に頼み、当時の文化の中心地である京都を遠く離れ、佐渡での孤独な生活を余儀なくされた世阿弥の悲哀、懐郷など満身創痍の念はいかばかりであったかと思いやられます。

亡くなったのは1443年と言われていますが、赦免を受けて京都に帰洛して亡くなったという説と、佐渡で亡くなったという説の二通りがあります。藤沢周の小説では、このどちらの説をとっているのか、はっきりとは分からないような結末の描き方になっていて、読者の判断に任せるような形で話を終わらせています。(私には、世阿弥が佐渡で亡くなったことを藤沢が暗示しているように思えますが。)後述するように、すばらしい結びの描写で小説を終わらせています。

世阿弥が佐渡でどのような生活をしていたのかもほとんど明らかでありませんが、佐渡に渡った2年後に世阿弥が完成させた8篇の小謡『金島書』には、世阿弥が敬神のため神前で舞ったという説明があります。その8篇のうちの一つは「泉」と題された謡で、1221年5月に鎌倉幕府の倒幕をはかって「承久の乱」を起こしたものの失敗し、佐渡に配流された上皇順徳院が、自分と同じような望郷の念に悲しんだであろうという想いを馳せて世阿弥が作ったものでした。順徳院は1242年に亡くなるまで21年もの間、佐渡に滞在することを強いられたわけです。世阿弥のこの謡「泉」は、順徳院の不遇に涙し、院の極楽浄土への往生を確信するという内容になっています。

藤沢周もこの「泉」から発想を得たのでしょう、小説では世阿弥が「黒木」という演目の能を作り、長年怨み苦しんで成仏できずに佐渡の土地にとどまっている順徳院の霊を主役にして、世阿弥自身がシテとして舞い、謡い、順徳院を極楽浄土へと送りだすという、設定にしています。私が知る限り、「黒木」という演目の能は実際にはないはずですので、藤沢周の創作によるものだと思います。しかも、順徳院の霊として舞っている世阿弥が、院の霊と一体化して往生してしまうことがないように、息子・元雅の霊が世阿弥を最後まで護るという、「夢幻能の二重奏」とも称すべき物語になっています。作者のすばらしい創作力がここにも見られます。

 

「幽玄の美」の追求は、人を愛惜する心の涵養と並行

 

藤沢周は、悲哀と懐郷にうちひしがれた世阿弥が、佐渡の漁民や農民との交流を通して、農民たちが田植えで歌い踊る田楽にこそ能の本来の姿があることを再認識し、農漁民の郷土芸能の価値を尊重しながら、自分もまた、自分の芸を驕ることなく、「幽玄の美」を追求するために、老齢にも関わらず、真摯に芸の切磋琢磨を続けたという物語にしています。島の人たちの恩情に応え、京ではなく佐渡に滞在し続けることこそが「幽玄の美」の追求への道ではなかろうかという心境への変化が起こり、島の人たちに能を教えることによっても、悲哀や懐郷の念が薄まっていったという設定にしています。

世阿弥が島の人たちに能を教えたというような史料は残っておらず、順徳院のように怨みのうちに憤死したのではないと確信できるような文献も残っていないとのこと。したがって、藤沢周の小説の想定が事実に即したものであるとは確実には言えませんが、「そうであった」と望みたいものです。

小説では、世阿弥は、亡き息子・元雅に対して十分に情愛をもって向き合わなかったという自責の念と喪失感から、一漁民の子ども、たつ丸を息子のようにかわいがり、謡と小鼓を丁寧に教え、立派な囃子方に育てていきます。世阿弥を無事に佐渡まで送り届けた後で京に戻るはずだった、世阿弥の弟子で能管奏者である六左衛門もまた、そんな世阿弥の芸に対するひたむきな態度と人を差別なく愛惜する生き方から、もっと世阿弥から自分も学びたいと熱望。島の農家の女性と恋仲になり、結ばれ、愛娘を持つようにまでなります。 

しかし、この小説の中で、世阿弥が最も人間的に深く交わるようになる相手は、本間信濃守の家臣、溝口朔之進です。溝口は、世阿弥を最初は「罪人」とみなして、ぞんざいに扱います。しかし、農民たちのために旱魃から水田をまもるため、命懸けで雨乞いの能を舞うという世阿弥の姿に強い衝撃を受け、武士をやめて出家し、世阿弥から謡を習うことを始めます。さらには趣味としてやっていた木彫りの技を、能面作りに活かし、まことに霊が籠ったような、人の心を震わせる能面を作るようにまでなります。

小説は、途中から、世阿弥と了隠(=出家した溝口朔之進)が交互に語り手の役を担います。安田登氏が書評で述べておられるように、まるで能のシテとワキが交差するかのように物語が進んでいきます。そして最後には、実際に世阿弥と了隠が「西行桜」という(世阿弥が実際に作った演目の)能で、シテとワキの役をつとめるという想定になっています。

  了隠はワキの西行法師を、世阿弥はシテの老木の桜の精の役をつとめます。隠遁生活をおくる西行の庵にはとても美しい桜の木があり、毎年、花見の時期には多くの人たちが訪れます。西行は花見客によって静かな生活を破られることから、「花見んと群れつつ人の来るのみぞ、あたら桜のとがにはありける(花見を楽しもうと人が群れ集まることが、桜の罪だ)」という歌を詠みます。その夜、西行が桜の木蔭でまどろんでいると、夢の中に桜の精の老人が現れ、「(自分は)恥ずかしくも、老木で、花も少なく枝葉は朽ちているが、『あたら桜のとが』と言われるような、罪科はないと、申し開きをするために現れた花の精なのだ。たとえ心のない草木であっても、花を咲かせ実を結ぶ時を忘れることはない。ひとえに草木国土は皆成仏するという御法の功徳である」と述べます。植物にも命があるし、その命の盛りの象徴である花に罪科があろうはずがない、と老木の精は述べ、その花を愛でるために訪れる人たちにもとがはないと暗示したわけです。

  世阿弥も、年老いた自分のことをすでに「老木で、花も少なく枝葉は朽ちている」と思っていますが、それでも「幽玄の美」に少しでも近づきたいと渾身の力を振り絞って舞い謡います。そして舞い終わった後、舞台から降りて、疲れ切って朦朧とした状態で、一人、能が行われた寺の本堂から離れて庭へと出ます。そして、この小説は、世阿弥が見事に「幽玄の美」に到達したことを意味する、次のような描写で終わっています。

 

霞む眼をさらに細めて見やれば、幼い頃の元雅が佇んでいて、一歩二歩と近づくたびに、元雅は大きうなって、その顔に優しい笑みを浮かべている。

……元雅」

……父上……。見事な……見事な、『西行桜』で、ございました……」 

…………

「父上……。よう、花を……美しき、まことの花を、咲かせました……

雪か、波の花か。白きものが風にのって舞うたかと見えて、周りに目をやれば、朦朧と雲のたなびくように、佐渡の桜が咲いて満ちている。狂わしうほどに豊饒な花々が幾重にも重なり、溢れ、春の妖気を醸して──

「佐渡の…………」と、つぶやいた時に、元雅の腕を感じ、肩を感じ、においを感じ、温かさを感じた。我が腕が確かに元雅を覚えて、しかと抱いているのである。

──これを見ん残す金の島千鳥跡も朽ちせぬ世々のしるしに

遠くで、たつ丸や了隠殿の木霊する声が聞こえ、ありがたさの内に春の夢へといざなわれた。

 

「西行桜」の西行法師と老木の桜の精


「西行桜」のシテ 老木の桜の精


最後に


  藤沢周が、世阿弥の書いたいろいろな演目の能や、有名な芸論『風姿花伝』を深く読み込み、実際に自分でも舞や謡の稽古をすることで、世阿弥の考え方に少しでも近づこうと試みながら、この小説の執筆にとりくんだものと思われます。「夢幻能」によって、苦悩しながら亡くなった「人の心の痛み」を知り、そのことを通して自己の人間性を深めることが「幽玄の美」の追求なのであるというのが、世阿弥の能楽の思想の重要な要素の一つであると私は思っています。能楽の専門家でもない私の、世阿弥のそのような「夢幻能」の解釈が果たして正しいかどうかはわかりません。しかし、世阿弥の晩年の生きざまを小説化することで、藤沢周は、秀麗な文章で見事にその思想の要素を描き出しているように私には思えます。

この小説は、世阿弥という人間の生きざまに焦点を当てながらも、現実と夢幻の間を常に往来しながら、小説自体が一曲の夢幻能であるかのような、不思議な雰囲気に読者を浸らせてくれます。久しぶりに、「傑作を読んだ」、という深い満足感を得ました。

 

追加情報:

【動画あり】世阿弥しのぶ幻想の舞台佐渡で正法寺ろうそく能

https://www.niigata-nippo.co.jp/news/local/20210623624395.html

 


2020年6月1日月曜日

小説『コリーニ事件』と「旧・被服支廠」保存問題


(1)小説『コリーニ事件』を読む
(2)再び「旧・被服支廠」保存問題について

(1)小説『コリーニ事件』を読む

  私は昨晩、ドイツの作家、フェルディナント・フォン・シーラッハが2011年に出版した小説『コリーニ事件』(邦訳2013年出版)を一挙に読みました。それほど長くない小説ですので数時間で読めましたが、内容はひじょうに重厚です。(5年ほど前から、私は、小説はほとんどベッドで、重い本を抱えなくてもすむように、タブレットのkindleで読んでいますのでとても楽です。ベッド・サイド・テーブルに冷酒があればもっと嬉しいのですが、連れ合いが許さないです<笑>)作者は1964年生まれで、1994年からベルリンで刑事事件専門の弁護士を務めているとのこと。ナチ党全国青少年最高指導者バルドゥール・フォン・シーラッハの孫という、ユニークな背景をもった人物です。
  この小説は、弁護士になったばかりの若いライネンが国選弁護士として引き受けさせられた初めての事件についてです。それは、イタリア出身の自動車組立工、コリーニが、奇しくもライネンを幼少時代から可愛がってくれていたマイヤー機械工業の元社長であるハンス・マイヤーを、ひじょうに惨たらしいやり方で殺害した事件でした。黙秘権を使って何も言おうとしないコリーニの殺人動機を、ライネンが苦心して探し出すと、ナチの戦争犯罪の問題に行き着く、という筋書きです。
  ひじょうに興味深いのは、法廷での「戦争犯罪」をめぐっての議論の展開です。現職の弁護士らしい、とてもドイツの関連法に詳しい議論の展開です。しかし、そうした議論にもかかわらず、結局、法とは関係なく、「戦争犯罪に対する責任とは何か」を深く考えさせられる小説になっています。
  日本では、残念ながら、自分たちの父や祖父の世代が犯した戦争犯罪をテーマにした小説で、「人間としての責任」を深く考えさせる感動的な作品にはほとんど行き当たりません。自分たちがいかにひどい被害者にさせられたかという話で、お涙頂戴というものがほとんどです。例えば、2018年に刊行された伊藤潤『真実の航跡』は、最近にはめずらしい、戦犯問題を取り扱っていますが、戦犯追求をなんとか逃れようとする話で、「責任問題」などほとんど考えてもいない、私に言わせれば駄作です。
  しかし、私は常に思うのですが、戦争責任問題を考えるには、歴史教育も大切ですが、やはり人々の心深くに沁み入るような、被害者の「痛み」と加害者の「罪の苦しみ」を象徴的に表現する人物を通して、私たち自身の「人間としての責任」について考えさせるような芸術作品(文学、演劇、能楽、彫刻・絵画など)をできるだけ活用することが必要だと思います。『コリーニ事件』を読んで、改めてこの考えを再確認したところです。
  

(2)再び「旧・被服支廠」保存問題について池田正彦さんのエッセイ紹介

  広島の「旧・被服支廠」保存問題については、今年1月5日のブログでも私見を述べ、池田さんたちの保存運動についても紹介しておきました。池田さんの「旧・被服支廠」に関する最新のエッセイをご本人の許可をいただき、ここに掲載させていただきます。


旧・被服支廠・皆実町界隈を歩く
赤れんがよみがえれ
広島文学資料保全の会・池田正彦


一九一三年建立された赤れんがの巨大な倉庫四棟が残る「旧・被服支廠」は、軍都・広島の歴史をもつ数少ない建造物である。同時に爆心地から約2・7キロで焼失・倒壊を免れ被爆直後から臨時救護所となったことから、被爆の歴史を語り継ぐ場所として存在してきた。
しかし広島県は、昨年(二〇一九年)一二月、劣化を理由に「2棟解体、1棟の外観保存」(保存といっても、立ち入り禁止の、あくまで外観( ・ ・)保存( ・ ・)なのである)案を公表した。多くの市民は4棟の保存・活用を求め「広島県案」に「ノー」の声をあげ、各マス・メディアも行政の理不尽さを大きくとりあげた。

詩人・峠三吉は、臨時救護所(被服支廠)の惨状を「倉庫の記録」(原爆詩集)につづり日記等にも詳細を記録している。さらに、「黒い雨」(井伏鱒二)、「管弦祭」(竹西寛子)など文学作品などにも被服支廠として登場するなど、広島の歴史と深くむすびつき、市民の描いた「原爆の絵」においても、体験者は一四枚の絵として記録を残した。

横道に逸れるが、私はこの地域で小学校時代を過ごし、とりわけ感慨深い。
私が暮らしたのは、進徳女子高校のすぐ西側で、建物は旧・陸軍電信隊の兵舎を改造した長屋(この地域は焼失をまぬがれ残った)であり、近くの比治山、翠町の蓮畑、黄金山、旧・被服支廠などは悪童たちの恰好の遊び場で、すぐ隣の旧・電信隊の将校集会所は「青年会館」(そう呼んでいた)はそのまま残り、こんもりした杜に囲まれており、特に印象深い。
「青年会館」は、その頃珍しく、合宿・宿泊できる施設でもあり、ホールでは講演会、映画会、青年団の芝居の稽古、ダンスの講習会、コンサートなどが行われ、子どもの目にはなかなかハイカラな空間であった。前進座の河原崎長十郎との懇談会が行われたことも峠三吉は日記に記している。(昭和二四年二月二二日)「……会には知事も出ており、ひとわたり自己紹介と余興の中で余は<バイカル湖>を歌う。……長十郎氏と杯を交しながら彼らの芸術観を聴いてみて共感する処多し」
多少の時差はあるが、小田実のはなしをこの青年会館で聞いたとの証言などもあり、広島県青年団連合会(県青連)の事務所を中心に多くの青年たちの活動拠点となっていた。いわば、広島のカルチェ・ラタン(一九六〇年代、フランス反体制・学生運動の中心)であった。
近くの皆実小学校の界隈には、広島の演劇運動をリードする多くの人も居住していた。峠三吉と共に活動した増岡敏和は、次のように述べている。「遠い日の中川秋一氏は、皆実町(皆実小学校正門近く)に住んでおられて、そのまわりには演劇人がとりかこんでいた。演出家の大月洋、俳優の杉田俊也、カチューシャの長谷川清、新制作座の谷美子……各氏らである。その論理的支柱であった中川秋一氏は文化分野における最大の指導者であった。峠三吉も自分の文学的進路を決めるにあたって中川氏に相談している」
比治山橋たもとでロンド書房(ロンド:エスペラント語でサークルの意味)を開いていた大月洋は次のように記している。「峠三吉も近くに住み反戦平和集会のガサ予測の時など大風呂敷の文献をかくしてくれと持ち込んだロンド。惜しくもそのロンドが消えた」(『ロンドの青春』民劇の会・編)

   中川秋一:日本プロレタリア演劇同盟に参加。戦後、美学者・中井正一とともに労働者文化協会をつくり、民主主義を大衆の中に根づかせることに渾身の努力を傾けた。
  大月洋:広島民衆劇場、広島小劇場などを指導。移動演劇さくら隊殉難碑の建立に奔走。広島労演(現・広島市民劇場)創設に尽力。

前後する。峠三吉は8月6日、翠町(長姉・三戸嘉子の自宅:旧制広島高校<現・広大附属高校>南、爆心から約3キロ)にて被爆。額に傷を受けるが、直後、友人・知人・親戚の安否を気遣い市内を訪ね歩き、(この衝撃的体験が『原爆詩集』の骨格となった)被服支廠に収容されたK夫人(「倉庫の記録」のモデル)を見舞っている。
峠三吉は、直後の惨状を日記やメモとしてたくさん記録したが、作品化するまでには一九五〇年(昭二五年)まで待たなければならなかった。おそらく、彼の優しい叙情の質では原爆の悲惨をとらえることができなかったと考える。
あまり知られていないが、直後の一九四五年八月には「絵本」という作品を書き、もっとも優しく愛おしいものとしての母と子を描き、『原爆詩集』への片鱗を提示している。

絵本

   たたかいの手に 傷つけられた
  瀕死の母親にみせる その子の絵本

   たかい格子窓から 一筋の夕日が
  負傷者収容所の 冷い床に落ちてとどまる
  
   火ぶくれの貌のうえに ひろげ持ち
  ゆっくりと操ってやる 赤や青の幼い絵
  古いなじみの お伽噺ばなし
 
   カチカチ山の狸のやけどに 眼をむけた
  隣のおとこの呻きも いつか絶え
  ぼんやりと凝視めていた 母親のめに
  ものどおい 瞼がたれ

   苦痛も怨みも 子につながる希いさえ
  訴えぬまま 糞尿の異臭のなかに
  死んでゆく
  しんでゆく

被服支廠に収容されたK夫人の枕元に置かれた絵本を介して、このむごたらしいさまを告発している。(『原爆詩集』には収録されていないが、原爆の惨状を記した最初の作品として、記念碑的意味をもっている)

 彼ははじめから「原爆詩人」ではありえなかった。一般的な「軍国青年」であり、八月一五日(敗戦)の日記には「ただ情けなく口惜しき思いに堪えず」「かくなる上はすべての財を捨て山に籠り命をもいずれ捨つる覚悟」と記している。苦悩し発展のバネに変えたのは、青年文化連盟に加入し社会的活動への参加が大きなきっかけとなっている。事実、翠町(移転後は昭和町の平和アパート)の自宅は、多くの青年・学生の溜まり場となり、戦後広島の文化運動を牽引した。近く(県病院そばの宇品)にはシベリアから帰還した生涯の盟友・四國五郎が住み、主宰した「われらの詩」はこの地で誕生したといっていい。(特に言論統制下、辻詩と呼ばれ、詩と絵を組合わせた反戦・反核のポスターで街頭に貼り出した作品は四國・峠の協働作業で一五〇~二〇〇枚作成されたが、現存するのはわずか八枚。『原爆詩集』ガリ刷の初版表紙・挿絵は四國五郎によるものである)
   昭和町(当時は平野町)の平和アパート:市営住宅として初の鉄筋コンクリート化がはかられ、一九四九年(昭二四)完成。京橋川沿い(比治山橋のたもと)に三棟が建てられ、当時とすればモダンな住まいであり、入居できる人は羨望の的であった。現在も使われているが、広島市は解体の計画。(峠三吉住所:平野町昭和第三アパート一五号:「われらの詩の会」の事務局でもあった)
   四國五郎:画家・詩人としてヒロシマをテーマに活躍。絵本『おこりじぞう』(金の星社)は多くの人に親しまれている。峠三吉との交友は有名で、翠町・昭和町の平和アパート(峠の自宅)は二人の創作活動の原点といっていい。なお、戦前の被服支廠に就職し、この地から戦場に向った。

短期間であったが、峠三吉は広島県庁社会課に勤務し、憲法普及運動にたずさわったことがある。当時県庁は、旧・兵器支廠(現在の広島大学医学部)を使用。いかめしい赤れんがの建物群に圧倒されたのを覚えている。(広島県関連だけでなく、国の出先機関もあり活況を呈していた)
当時、国鉄宇品線は通勤・陳情の足として、もよりの駅「上大河」(かみおうこう)付近は繁華街でもあった。(一杯飲み屋はもちろん、代書屋:書類や申請書の代筆を行う、写真館、食堂などありとあらゆる店が軒を並べていた)
この駅は県庁関係者はもとより、旧・被服支廠に隣接している県立皆実高、県立工業高、進徳女子高、女子商業高、比治山女子高、市立工業高、広大東雲中など多くの生徒も利用し、ちょっとしたスクールゾーンでもあった。
同時に、被服支廠に通う職工相手に拓けた皆実町商店街(電停:専売局を基点として、被服支廠正門につながっていた)は、そのまま県庁への道として繁栄した。(現在、さびれた一本の道として残っているが)
蛇足になるが、峠三吉はこの商店街の入り口で、生活のため(日記にはそう記している)露店の「みどり洋花店」を開いたが失敗(一九四五年一〇月)。同じように、一九四六年、猿猴町で貸本屋「白楊書房」を開き、妻となる原田和子と知り合うことになる。
あまり記憶されていないが、被服支廠正門近く(進徳女子高校南)にはシュモーハウスが建てられた。米国のフロイド・シュモー氏は原爆投下に心を痛め、住まいを失った広島の人々のために家を建てる活動をすすめ、皆実町、江波町、牛田町に一九棟を学生などの協力を得て建設シュモー住宅とよばれた。(現在、江波二本松に一棟残り、平和記念資料館附属施設として使われている)

峠三吉の活動を中心にしたきらいがあるものの、旧・被服支廠を中心に、翠町、県庁(旧・兵器支廠)、青年会館(旧・電信隊将校集会所)などを切り結ぶと、ささやかながらあの時代の息吹が伝わってくる。
 愛惜を込めあの時代をなぞったつもりである。
 旧・被服支廠は戦後、師範学校の授業、寮、図書館、運輸会社の倉庫などとして使われ、いわば復興の一翼を担ってきた。その建物を充分な議論のないまま取り壊すことを許してはならない。(被服支廠同様、峠三吉が住んだ「平和アパート」も危機に瀕している)今こそ有効活用の道を!




2018年12月7日金曜日

書評:731部隊と天理教


エイミー・ツジモト著『満州天理村「生琉里」の記憶天理教と731部隊』
    発行 えにし書房 2018年2月 定価:2000円+税

この書評は『季刊ピープルズ・プラン』最新号Vol.82に掲載されました。

  本書は、満州国建国宣言が出された1932年3月から2年半あまりの後、1934年11月から始まった天理教信者たちの満州開拓団移民の艱難辛苦の歴史を、「天皇制軍国主義の被害者」と「侵略戦争の加害者」という複眼的な視座から明徹に分析した労作である。天理教団による満州開拓団の積極的な公的歴史評価を、体験者のオーラル・ヒストリーに依拠して厳しく批判しながらその実態をえぐり出し、新興宗教組織の戦争責任を鋭く追及している。
  本書内容の紹介に入る前に、満州移民の歴史的背景について簡単に説明しておく必要があるだろう。
  満州国は、「五族協和」という多民族協調社会の基に「王道楽土」を実現するというスローガン=プロパガンダを謳い文句とする、日本の傀儡国家であったことは周知のところ。満州国内には関東軍が無制限、無条件に駐屯し、関東軍が必要とする鉄道・港湾・水路・航空路などの管理は全て「日本に委託」するという形をとることで、満州国は関東軍の強力な軍事的支配下に置かれた。また、「日満経済ブロック」構築(満州を日本の排他的な経済圏にする)という目標のため、1930年代には満州に対する投資が飛躍的に拡大。満州産業開発の重点は、対ソ連戦争準備のための軍需産業の建設に置かれ、その基礎として、1932〜36年に3千キロに及ぶ満鉄新線路が建設され、同時に、製鉄や石炭などの大規模増産がはかられた。
  これと並行して、日本国内の農村窮乏の緩和と満州における日本人の人口増加という一石二鳥をねらい、満州への農業移民政策が推進された。実は、この農業移民政策には、関東軍の戦力補強にも役立たせるという目的が含まれていた。小規模な試験的移民は1932年から始まっており、当初は、一村(母村)から分割して村の一部が集団で移民する「分村移民」が行われた。1936年8月、日本政府は、20年で百万戸=5百万人の満州移民を送り出すという妄想的とも言える計画を発表。日中戦争が始まった1937年8月には、この計画を推進するために満州拓殖会社を設置し、移住者のための助成、土地取得、分譲などの業務にあたらせた。さらに、1938年1月からは、貧農の次・三男の単身者(16〜19歳)によって組織される「満蒙開拓青少年義勇軍」が募集された。
  日本人移民のための土地・家屋は入植地の現地農民である中国人から「買収」したが、その実態は、極安の値段での強制的収用であった。こうした土地・家屋の収奪は抗日武装活動を活発化させ、移民村が襲撃されるという事件が頻発。関東軍は抗日ゲリラを「匪賊(集団で略奪・殺人・強盗を行う賊)」と呼び、これ以降、「匪賊討伐」に明け暮れることになる。同時に「匪賊討伐」では、抗日ゲリラに通じているとみなされた村落が日本軍によって焼き払われ、住民が虐殺されるケースが各地で起きている。
  したがって、「青少年義勇軍」も実際には「武装移民」であり、明治政府が北海道に送った「屯田兵」と同様の性格のものであった。1936年からの5年間で、こうして満州拓殖会社が確保した土地は2千万町歩で、中国東北部の14.3パーセントに当たる。そのうち既耕農地は350万町歩で、これは当時の日本の耕地面積の過半数を超える広大な土地であった。しかし、1941年までの実際の移民農家数は、集団開拓団の2万7千戸を含む5万6千戸で、百万戸移民計画の約5パーセントにしか過ぎなかった。とはいえ、民衆、とりわけ貧農に土地所有への期待を煽り、豊かな生活への夢をもたせ、国内の不満を対外的に解消させる侵略戦争へと国民を動員する上で、一定の役割を果たしたことは明らかである。
  本書でも説明されているように、新興宗教の天理教信者たちだけが、宗教団体としての満州開拓団移民であったわけではない。天理教団と同様に「反政府的」あるいは「政府に非協力的」な宗教組織ではないかという疑念の目で見られていた日本キリスト教団、それだけではなく既存の諸仏教団体も、政府への服従・協力姿勢を表明するために満州移民政策に「賛同」し、満州開拓団を送った。これらの宗教団体は、形式的には「布教」も開拓活動の目的としていた。
  天理教団の場合には、1934年11月の第1次移民から1945年5月の第12次移民までの合計2千人近くが満州に送り込まれた。「ひとはいちれつ みなきょうだい」という徹底した人間平等主義を教義とする天理教は、天皇を絶対者とする国家神道とは本質的に異なるため、国体に反する共産主義的な組織とみなされて常に政府の弾圧の対象となってきた。しかし、教団解散の危機を避けるため、明治・大正期を通して教団は戦争協力の姿勢を徐々に強め、結局は侵略戦争に加担する開拓移民まで満州に送り込み、教義とは全く相反する中国人搾取を行いながらの「開拓」に勤しんだのである。
  天理教団が与えられた1千町歩の土地は、ハルビンから15キロほど離れた関東軍指定の「分譲地」であったことからも分かるように、当初から関東軍はこの「天理村」を軍のために利用することを考えていたと思われる。天理教団は、国内各地の信者から移住家族を募集、すなわち「分村移民」に似た「家族集団移民」という形態であった。天理村の周囲には鉄条網が張り巡らされ、東西は城壁のような門で固められており、警備が常駐するというものものしい環境。村の周辺で活動する抗日ゲリラに備え、常に関東軍が警備し、襲撃を受けたときには徹底した討伐を行った。関東軍が村の近くで演習を繰り返しただけではなく、村民たちにも小銃や実弾が配られ、関東軍による演習が男たちに課せられた。第1次移民団の場合は、半数以上が在郷軍人であったことからも明らかなように、「武装移民」という性格を強くおびていた。
  実はこの天理村は、かの悪名高い731部隊の一大研究施設が建設された平房に隣接する場所にあった。1938年にこの施設建設が開始されたときには、天理村の多くの成人男子が研究施設のレンガ積み作業に従事させられた。さらに、施設完成後には、ハツカネズミを飼育せよという指示が天理村の小学校に与えられ、子どもたちがその任務に励んだ。ハツカネズミは、明らかに731部隊の細菌兵器(ペスト菌)開発のために利用されたものと考えられる。ペスト菌だけではなく、731部隊が培養した炭疽病、腸チフスなどが天理村周辺で発生、流行し、天理村の村民や家畜にも犠牲者が出た。
  戦争末期になり戦況が悪化してくると天理村の青年たちも招集され、入隊訓練後に731部隊に配属された者も数人いた。筆者ツジモトは、その一人である人物からも聞き取り調査を行い、1945年8月9日のソ連参戦宣言発表直後、急遽殺害された人体実験用の多くのマルタ=捕虜の屍体焼却や施設建物の破壊など、731部隊証拠隠滅作業について詳しく記している。
  731部隊が貴重な研究成果、関係書類、食糧などを積み込んだ百輌にも及ぶ貨物列車とともに満州から逃避し、南洋戦域に送り出した精鋭部隊を戦闘体験のほとんどない満州開拓団の青年たちで代替した関東軍がすぐに総崩れしたあと、ソ連軍侵攻についてなにも知らされていなかった総勢27万人(その多くが女性、子ども、老人)の満蒙開拓団は文字通り置き去りにされた。天理村とその周辺の天理開拓団部落の住民たちも、侵攻してきたソ連軍兵士襲撃による殺戮、略奪、強姦、暴行などの残虐行為と、中国人「匪賊」による同じような復讐的な襲撃の被害者となった。結局、1946年10月になってようやく帰国できた天理村住民は合計千十八名、もともとの村民2千名のほぼ半数にしか過ぎなかった。しかも、この帰国は、国内での再び貧しい農業開拓生活の始まりでしかなかった。
  天理教団は、満州国天理村のこうした歴史を「大陸開拓の聖業に奉仕」したものと記録し、教団の戦争加担責任と、教団仲間を被害者にした責任をすっかり忘却しただけではなく、正当化してしまった。日本にとって極めて重要な戦争責任問題について宗教組織の側面からの考察を試みている本書は、ひじょうに示唆に富む労作である。

2018年9月5日水曜日

「象徴天皇制の虚妄に賭ける」?!




『未完のファシズム』戦後と象徴天皇制
最新号の『季刊ピープルズ・プラン』Vol.81は、いま人気のある「リベラル」と言われる「天皇賛美者」の批判の特集号 『象徴「天皇陛下」万歳の≪反安倍=リベラル』でいいのか?代替わり状況下の<安倍政治>と<天皇政治>』です。批判の対象となったのは、島薗進、白井聡、内田樹などですが、私は片山杜秀批判を担当しました。以下はその批判の全文です。ご笑覧、ご批評いただければ光栄です。

なお、この特集号の目次と前書「<天皇陛下の《反安倍》でいいのか特集にあたって(天野恵一)は下記リンク先でめます。
http://www.peoples-plan.org/jp/modules/news/article.php?storyid=577
http://www.peoples-plan.org/jp/modules/article/index.php?content_id=207

《片山杜秀》批判
「象徴天皇制の虚妄に賭ける」?!
 『未完のファシズム』戦後と象徴天皇制
片山杜秀の出版歴
 私に与えられた課題は、片山杜秀の象徴天皇制支持論の批判的検討である。正直なところ、私は片山がどのような思想の人物か、どのような著書・論考を発表しているのかこれまで全く知らなかった。したがって、『未完のファシズム - 「持たざる国」日本の運命』(新潮新書)を読むにあたって彼の経歴を調べてみたところ、政治思想史を専攻しながらも、クラシック音楽にも造詣があり、音楽関連の著書や論考も多々あるとのこと。小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』を連続掲載したことでも知られている扶桑社出版の『週刊SPA!』に、1994〜2002年に、「ヤブを睨む」というコラムで、音楽や映画・演劇評論のみならず、右翼、歴史、政治問題などに関する評論も発表して大人気を得たとのこと。2008年には、音楽関連著書で吉田秀和賞とサントリー学芸賞を受賞。2012年出版の『未完のファシズム』では司馬遼太郎賞も授与されるという活躍ぶり(しかし、サントリー学芸賞、司馬遼太郎賞の両方とも私個人は高く評価していないが)。
 私は故・吉田秀和のファンの一人で、長年、とりわけ彼のモーツアルト音楽解説の愛読者であった。吉田秀和賞は、音楽・演劇・美術関連の秀れた芸術評論の著者に与えられる賞として1990年に設置されたが、当初の選考審査委員は吉田自身を含め加藤周一と武満徹の3人があたっていた。2012年からはフランス文学者・文芸評論家の杉本秀太郎と片山の2人が審査委員となり、2015年に杉本が他界してからは、片山と建築家の磯崎新が審査委員となっているとのこと。『週刊SPA!』で好評を博した人物が、吉田秀和賞を受賞し、しかも今は審査委員を務めているという事実が、私にはひじょうに奇異に感じられてしかたがないのであるが、片山の音楽関連著書を全く読んでいないので、彼の音楽評論に関してコメントする資格は私にはない。
  さて肝心の『未完のファシズム』であるが、端的に言えば、この著書の主たる目的は、なぜゆえに日本はアジア太平洋戦争で敗戦したのか、その理由を探求しようというものである。結論的に片山は、敗戦の理由を、「総力戦体制」をとれなかった日本の経済的後進性、「総力戦」に代わるものとして日本が独自に採用した戦略自体の欠陥、さらには当時の政治体制=明治憲法体制が国家社会全体を強力に統合して、そのような独自の戦略を一挙に推進していけるようなファシズム体制にはなれなかったこと(すなわち「未完のファシズム」であったこと)に求めている。こうした片山の敗戦理由の説明は、彼の『国の死に方』(新潮新書)や島薗進との対談『近代天皇論「神聖」か、「象徴」か』(集英社新書)でも繰り返し述べられている。
片山による「持たざる国」の戦略説明
 改めて解説するまでもないが、「総力戦体制」とは、一国家が有するあらゆる物的資源と人的資源の両方を「戦争勝利」という目的のためにできる限り合理的かつ効果的に活用するために作り上げられる非常時の政治社会体制のことである。ところが、日本は対戦国である米英をはじめとする連合諸国とは対照的に、総力戦に必要な物的資源そのもの、とりわけ兵器製造のための鉱物資源や、戦艦・戦車・戦闘機などを動かす石油資源などが決定的に欠乏していた。かくして、「持たざる国」である日本が「持てる国」である豊かな米英仏蘭諸国と全面戦争を展開して勝利することは、経済的にはほとんど不可能であった。この事実は、片山の指摘を待つまでもない。
 片山は、「持たざる国」という状況の中での日本軍の戦略案にまず焦点を当て、当時の陸軍内部の「皇道派」と「統制派」の代表的な複数の軍人の戦略思想と彼らの間での確執を紹介する。満州に「日満経済ブロック」という日本の排他的経済圏を構築することで「持たざる国」日本を「持てる国」にまで数十年かけて強化した後で米国との「世界最終戦」をと主張した関東軍参謀・石原莞爾が、そうした軍内部での確執の結果、いかに陸軍から排除されていったかも説明する。
 「持たざる国」が「持てる国」と長期戦争に入れば勝算は極めて少ないことは明らか。したがって、勝利するための戦略として日本軍が1920年代末に考案したのは、敵軍を包囲して殲滅戦を速戦・即決で展開して短期間で勝利をおさめ、その結果、有利な形で敵国と停戦交渉に入るというもの。この戦略は当時の参謀本部のスタッフであった皇道派の荒木貞夫、小畑敏四朗、鈴木率道が中心となって作成したこと、とりわけ小畑の貢献が大きかったことを片山は説明する。しかし、十分な兵站を持たずに、大胆に殲滅戦を速戦・即決で展開して一気阿成に戦闘を終わらせるには、将兵たちが並外れた強靭な戦意を持っていなければならない。そこで日本軍は極端な精神主義をとらざるをえなくなったとも片山は述べる。
 ところが、この殲滅作戦も実は敵軍が劣勢であるときにのみ成功するのであって、強敵の場合は長期戦になってしまい成功しないことは、作戦を提唱した小畑たちも十分理解していた。しかし当時の状況から、形式上は、この作戦はいかなる敵に対しても採用できるというスタンスを小畑たちはとらざるをえなかったのだと片山は主張する。1936年の2・26事件で皇道派が統制派に敗れて失脚した後も、皇道派のこの殲滅作戦と極端な精神主義だけは修正されずにそのまま生き残り、アジア太平洋戦争に突っ込んでいった。殲滅作戦を展開しながら、東南アジアの資源を確保し、生産力・労働力を拡大し、戦争を続けながら「持たざる国」を「持てる国」にしようとしたが、これに失敗。したがって、結局、極端な精神主義の強調が、殲滅作戦貫徹のためには自分たちが殲滅しても戦い続けるという「玉砕」の思想を生み出してしまった。その最も極端な思想の持ち主が東条英機のブレーンで、「戦陣訓」の作成にも関与した中柴末純で、日本軍が玉砕を太平洋各地で繰り返すことで連合軍を怖気づかせ、彼らの戦意を殺ぎ、最終的には勝利に持っていけると中柴は主張するまでになった。このように片山は、「総力戦」を展開する能力を持たない「持たざる国」、その日本の軍隊がとった戦略そのものに失敗があったと主張する。
片山の「総力戦体制」と「ファシズム」論
 日本が「総力戦体制」をとれなかった理由として、日本政治のタテ割り主義と秘密主義を片山は重要視する。しかも、そのタテ割り主義と秘密主義の原因は、明治憲法体制にあったと片山は主張する。明治憲法は西洋近代政治思想に倣って立法・司法・行政の三権分立制をとった。立法府である帝国議会は貴族院と衆議院の二院制であったが、立法府が強力に機能しないように、両院に対等の権限が与えられていた。行政府である内閣に対しては、内閣の判断を覆すことができる枢密院が設置されていた。帝国陸海軍は立法府からも行政府からも独立し、形としては天皇が「統帥権」を持っており、そのうえ陸海両軍が常に対立する形となっていた。権力がこうしてタテ割りに分散され、様々な国家組織が互いに確執しあうため、一組織や一個人が絶対的権力を掌握できないような体制となっていた。三権と軍の頂点には唯一天皇だけが存在し、天皇親政は理論的には可能であったが、実際には天皇はなるべく自分の意見は明示せず、どうしても必要な場合には「しらす」=暗示することに努めた。明治憲法の第1条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の「統治」は、実際には「しらす」という意味であったと片山は言う。
  かくして、権力が分散されていたため強権的リーダーシップをとる者は誰もおらず、タテ割りにされた様々な国家組織間の連絡も希薄で、各組織内では秘密主義がはびこるという形となった。「大東亜戦争」になったとき、東条英機が、初めて、分離している各組織を統合し「総力戦体制」を作ろうと首相・陸軍大臣・参謀総長を兼務するということが起きた。ところが、こうした慣例をもたない明治憲法下の政治では強権的統合が嫌われ、ファシズム的に統合しようとする東条に、ファッショはだめだと「東条つぶし」が行われた。かくして片山は、「強力に束ねて一元化をめざすという意味での『ファッショ』は明治憲法体制と常に矛盾するものとして退けられる運命にありました。かくして総力戦体制は最後まで未完でした」と述べる。「強力政治や総力戦・総動員体制がそれなりに完成してこそ日本がファシズム化したと言えるわけでしょうが、実態はそうでもなかった。むしろ戦時期の日本はファシズム化に失敗したというべき」だと主張し、この状況を「未完のファシズム」と呼ぶのだと説明する。畢竟、片山は、日本はファシズム体制が未完であったため、総力戦体制作りも未完に終わったと主張するのである。
 その一方で、片山は、「総力戦体制のためにはデモクラシーが重要だ」とも主張する。いわく、「民主主義の国では国民自身が戦争することを選択する。もっと豊かになりたい。自由な社会を守りたい。悪を倒したい。動機はいろいろあるでしょうが、国民全員の責任で、国民全員が戦うことを選び取る。だから戦線が膠着しても、簡単にやめられないし、誰かの責任にはできない。ゆえに勝てた」と。なんとも極端に単純な論理である。そうなると、明治憲法体制下で総力戦体制が作れなかったのは、明治憲法体制下の日本社会が民主的でなかったから、すなわち「未完のデモクラシー」のゆえだったのか。それとも「未完のファシズム」であったからなのか、一体どちらだと彼は言いたいのか。このように、「総力戦」と「ファシズム」、「デモクラシー」の関連性の彼の説明は、支離滅裂である。片山のこの論理的支離滅裂は、「総力戦」と「ファシズム」、とりわけ「天皇制ファシズム」の本質を全くつかめていないという決定的な思考的欠陥に原因しているが、これについては後述する。
批判的分析を欠いた「包囲殲滅作戦」と「ファシズム」の解説
 とりあえず、以上が片山の『未完のファシズム』の要旨であるが、まず指摘しておかなければならないのは、彼の視点はあくまでも「なぜ日本は総力戦体制を確立できず、アジア太平洋戦争に勝利できなかったのか」という、戦争勝敗を決定づけたもっぱら軍事的要因の検討におかれている。アジア太平洋戦争という未曾有の軍事暴力活動が、いったいどれほど悲惨な結果を日本軍将兵、日本国民のみならず、アジア太平洋各地の地域社会と無数の住民や連合軍将兵(とりわけ捕虜)にもたらしたのか、さらには、明治憲法体制=天皇制をとっていた日本は国家としてそれに対してどのような責任を負っているのか、というアジア太平洋戦争の批判的分析には全く関心がない、ということである。単刀直入に言うならば、彼の論理展開は、勝ちか負けかの「ゲーム論」であり、「人が殺されるか生き延びれるか」という問題からの視点が完全に欠落している。
 したがって、「総力戦」に代わる「包囲殲滅作戦」がどのように参謀本部内で作成されてきたかについてはマニアック的に長々と解説するのであるが、例えば、兵站を持たずに殲滅作戦を中国各地で展開した日本軍が、食糧略奪、住民虐殺、強姦などいかに残虐な行為を犯したかについては一言も言及しない。「包囲殲滅作戦」を議論するならば、その作戦を実践した日本軍将兵が、なぜゆえに残虐化し、各地ですさまじい戦争犯罪行為を行えるようになったのか、という問題も必然的に問われなくてはならない。ところがそうした疑問も片山の脳裏には浮かんですらこない。なぜなら、片山には、最初から、作戦が社会に与える具体的な破壊的影響には全く関心がないからである。
 同じように、総力戦に関する石原莞爾の思想を「日満経済ブロック」との関係で議論する際にも、関東軍による満州支配、ひいては日本軍の中国各地への侵略について、例えば軍の統帥権との関連でそれらを検討することを通して、明治憲法体制=天皇制そのものを再検討してみるという構造的分析には全く繋がっていかない。日本軍の戦略思想だけを軍事オタク的にいかに詳細に議論してみても、統帥権を盾に軍部がいかに政府と帝国議会を無視して侵略戦争を推進していったのかという過程を明らかにすることはできない。侵略戦争の過程を明治憲法体制=天皇制の構造の問題として分析することは、日本「ファシズム」の特徴を明らかにするために欠かせないことは改めて言うまでもない。ところが、片山は、「ファシズム」を説明するにあたって、ヒットラーやスターリンという独裁者が権力をいかにして分散させずに自己の手中に掌握し続けたかについて解説しているように、彼にとって「ファシズム」とは、一個人が絶対的権力を独占する形態という、ひじょうに単純で一面的なものとしてしか捉えられていない。したがって、絶対的権力を独占するような人物が現れなかった戦時の日本は「ファシズム」でなかったという、あまりにも短絡な結論になるわけである。
「天皇制ファシズム」と「総力戦体制」構築失敗の相互関連性
 これまた改めて言うまでもないことなのだが、日本のファシズムは天皇制を、とりわけ天皇制イデオロギーを抜きにして解明することは不可能である。日本のファッショ化過程は、ナチスのようにワイマール体制下のデモクラシーの規範を破壊する形で進んだのではなく、それとは逆に、既存の天皇制支配体制のさらなる強化というかたちで進んだ。すなわち、イデオロギー的には、家父長制的家族制度を基礎とする郷土=農村共同態への復帰、したがって、そうした共同態のイデオロギー的集合体としての「家族国家」観の異常なまでの強化、つまり天皇を全国民=赤子の神がかり的な「父」と崇める「家族国家」への強烈な「里帰り」という形をとった。日本のファシズムは、この天皇を中心軸とする「幻想の共同性」に支えられて初めて拡大することが可能であった。
 問題は、天皇制は、一方で資本主義によって推進される近代国家としての合理的機構化が存在しながら、他方で封建的で前近代的な家父長制的共同態の伝統的価値観が常に全国的規模で再生産続けられるという、この深刻な矛盾を孕んでいたことである。そこに、1930年、経済恐慌によって引き起こされた中小零細企業と農村の危機が発生し、天皇制の矛盾がますます顕在化。この経済危機と政治社会的矛盾を脱出するための手段を満州に、さらには中国各地、東南アジアに求めて侵略戦争を進めていくという形で日本のファッショ化は進んだ。したがって、戦争拡大のスローガンが「家族国家」の拡大版である「八紘一宇」であり、最終的に「持たざる国」の軍隊が「父」である天皇に命を捧げる「玉砕」を兵に強いる戦闘方式に行き着いてしまったのもなんら不思議ではない。
 総力戦体制とは、国家が保持している物的と人的の両方の資源を、戦争行動に計画的に合致させる形で、極力、合理的かつ効率的に利用することであり、そのためには物的資源を生産目的に合わせて計画的に配分し、人的資源も計画的に動員し、適材適所に配置することが必要となってくる。そのためには、当時の日本の伝統的な家族主義に基づく職業分布や雇用形態、「親方・徒弟」関係的な職場の人間関係は、徹底して合目的的な動員・配置を必要とする総力戦体制には全く適していなかった。
 実は、日本も日中戦争の最中の1938年に「国家総動員法」を初めて施行した。ところが、「国家総動員法」でこうした家族主義の職業分布、雇用形態、職場関係を根本的に変更することは、家父長制的家族主義に基づく天皇制国家自体の崩壊につながらざるをえない。そのため、国家総動員法が出されたにもかかわらず、現実には、当時の商工省官僚が指導したごとく、「事業そのものを成るべく現状において維持することが主眼」とされたため、全く総力戦体制のための社会再編成にはつながらなかった。したがって、天皇制ファシズムにおける総力戦体制確立の努力が、結局は、総力戦にとって最も重要な人的資源である将兵と市民の「玉砕」=自己破壊という極端な矛盾を産み出したのも当然の帰結であった。総力戦体制の構築失敗は、片山が言うような「東条おろし」といった単純な問題ではない。
結論:「象徴天皇制の虚妄」の穴
 こうして片山の「総力戦」や「ファシズム」の解説を検討してみると、あまりにも非学問的で、単純で一面的な説明に、これが政治思想・歴史を専攻する「学者」の仕事かとあきれかえる次第である。(吉田秀和賞を受賞したとは言え、こんな浅薄な人間が書いた音楽評論を私は読みたいとも思わない。) 
 したがって、日本の戦争とファシズムを問題にしながら天皇制の問題については全くなにも考えていない学者先生に、天皇制の本質が理解できるはずはないし、それゆえ、当然、戦前・戦中の天皇制と戦後の天皇制の連続性について理解できる能力が完全に欠落しているのも不思議ではない。よって片山は、島薗進との対談で戦後の天皇裕仁に言及して、脳天気にも、「日本に民主主義を根付かせようと、政治家に向かって内々に意見を伝えるべく、秘密の使者を遣わしたりもした。マッカーサーにも同じことをした。つまり民主主義時代の象徴天皇は民主主義を促進し、あるいは擁護するためには身命を賭すものだという覚悟が、昭和天皇から今上天皇へと受け継がれていると思うのです」と述べている。裕仁がマッカーサーに沖縄をタダで売り渡すような、明らかに憲法違反の言動をしたことが、民主主義擁護のために「身命を賭す」行動だと述べ、その自分の無知を恥ずかしいとも思わない。
 国内外での戦没者慰霊の旅を続けながらも、無数の戦没者を出した自分の父親と天皇制自体の責任については一切口にしない明仁を、片山は「象徴天皇についての最大の思想家」と持ち上げる。さらには「父である昭和天皇の未完に終わったとも言える『人間宣言』を、ほとんど原理主義的とも言える苛烈さと言いますか、極めて倫理的に厳しく貫徹しようとすると、『<生前退位の>お言葉』になる」とまで明仁を絶賛する。ここまで来ると、もう「学者」と言うより「太鼓持ち」としか言えない。しかも、丸山真男の「戦後民主主義の虚妄に賭ける」という言葉に擬えて、「象徴天皇の虚妄に賭けたいと考えます」と片山は述べる。天皇制の「虚妄」がどれほど恐ろしいものであるのか、片山には全く分かっていないようである。私にとっては、このような非学問的で軽薄な「学者」をもてはやす日本のメディアがすでに「象徴天皇制の虚妄」の穴に落ち込んでいることが恐ろしい。
- -


2015年6月3日水曜日

読書感想


読書感想

井上俊夫著『初めて人を殺す 老日本兵の戦争論』(岩波現代文庫)



目下、国会では安全保障関連法案=戦争法案についての集中審議が行われているが、安倍晋三首相と閣僚の答弁は、予測していた通り、嘘と誤魔化しの連続で、なにがなんでもこれらの法案を通してしまおうというかたくなな意地がもろに見える。これは、ナチス政権がやったのと全く同じ「憲法棚上げ」を、堂々と首相自らが行うという犯罪行為そのものである。しかも、自分に反対する意見には全く耳を貸そうとはせず、口汚くやじるという、一国の首相としてはもちろん、一個人としても、民主主義の基本的手法と人間としての品格を欠くテイタラクぶりを露呈している。実は、安倍が猛烈に進めている集団的自衛権行使容認、戦争法設置、壊憲などの動きは、すべてA級戦犯容疑者であった彼の祖父・岸信介が目論んでいたことであり、安倍にはなんらの政治哲学や思想といったものはなく、根本的には、動機は単なる「お爺ちゃんコンプレックス」にあると私は考えている。その詳細な説明については別の機会にゆずるが、集中審議の内容を報道する新聞にも違和感を感じる点があるので、この点と関連させて、最近読んだ一つの著書に関する感想を述べておきたい。



違和感を感じるというのは、これらの法案が国会を通り、自衛隊が海外での戦闘行為に駆り出されれば、自衛隊員に多数の犠牲者=死傷者が出るという危険性に関する記事や報道は出るのであるが、自衛隊員が他国の兵員を殺傷するだけではなく、市民をも殺傷する危険性が格段と高まることに言及する報道がほとんどないことである。もっぱら自分たちを「戦争被害者」としてのみとらえる日本人の意識が、ここにも大きく反映されており、多くの日本人には、自衛隊員が「他者を殺害する」ということに想像力が働かないらしい。言うまでもないことであるが、ベトナムやイラクで米軍兵員が市民を殺害するという戦争犯罪行為がひじょうに多かったことは周知のところである。敵が誰か分からないという状況では、いつ攻撃されるか分からないという恐怖心から、無差別に市民を殺害してしまう。「殺られる前に殺る」という心理である。言うまでもなく、これは米軍に限った現象ではない。実はこれは、アジア太平洋戦争では、日本軍も各地で犯した戦争犯罪行為であった。その最も極端で典型的な例が、主として中国華北で日本軍が展開した「三光作戦」である。抗日ゲリラ活動が激しかったこの地域では、抗日ゲリラを支援していると少しでも疑われた村落住民は、「殺し尽くし、奪い尽くし、焼き尽く」されるという日本軍の燼滅作戦の犠牲となった。いわゆる平和時には他人を傷つけることすら躊躇してしまう普通の我々一般人が、戦争に駆り出されると、いったいなぜゆえにこのような残虐行為を犯すことができるようになるのか。この問題意識にたった上で、「自衛隊の戦闘参加」で何が起きうるのかという問題を考える必要があるが、日本のメディアならびに一般市民にはこの視点が決定的に欠落している。



そこで、兵が人を殺すようになるその心理過程について、体験者として正直にその詳細を自己分析している著書、その題名も『初めて人を殺す』を紹介したい。著者の井上俊夫は1922年に大阪近郊の農家に生まれ、1942年に徴集されて中支に派遣され、捕虜生活を含め足掛け5年の間、日中戦争に従軍し、46年に帰国。戦後は野間宏、小野十三郎に師事して詩人となり、大阪文学学校や帝塚山学院短期大学などで教えた。1957年に出した詩集『野にかかる虹』で第7H氏賞受賞。その後も数多くの詩集やエッセー、随筆を出しており、2008年に亡くなっている。実は、正直なところ、恥ずかしながら私もこの著書をつい最近読むまで、こんな本が2005年に岩波現代文庫として出版されていることを知らなかったし、井上俊夫氏という人物についても全く知らなかった。この著書は、井上氏が1990年代初期から晩年の2000年代半ばまでに発表した戦争体験に関する幾つかのエッセーを集めたものを文庫本として纏めたものである。



戦争で中国兵のみならず一般市民をも殺害した様々な残虐行為に関しては、中帰連(中国帰還者連絡会)のメンバーである元日本軍兵たちの証言録に詳しく書かれているので、それほど目新しいことではない。約1千名の日本軍兵士が、戦争直後、中国の撫順戦犯管理所に戦争犯罪人として抑留され、中国で自分が行った戦争犯罪行為について自己分析と自己反省を長年にわたって繰り返し行うことを要求され、最終的には全てを正直に告白し、1956年に中国共産党が開いた戦犯裁判でほぼ全員が起訴免除・即時釈放となり帰国した。これらの元日本軍兵たちの一部が、帰国後、1957年に創立した組織が中帰連で、彼らはその後これまで長年「反戦平和運動」や「日中友好運動」を展開してきた。今では、高齢のためメンバー数がひじょうに少なくなったが、現在も活動を続けている。戦争加害者として自分たちの責任を証言活動という形で果たそうと努力している彼らの行動には頭が下がる。彼らの証言内容が真実であることにはほとんど疑いがない。しかし、その証言の多くが、自分たちが犯した残虐行為の詳細を極めて客観的に描写し、その責任をはっきりと認めてはいるのであるが、個人としての複雑な「心の葛藤」の描写がひじょうに少ないことに私はなぜか不満を感じるのである。その原因は、撫順戦犯管理所で彼らが繰り返し自分たちの残虐行為について詳しく自己分析することを繰り返し課された結果、個人的な「心の葛藤」に関する描写はなるべく削除し、犯罪行為だけをできるだけ厳密に且つ客観的に描写するようになった結果かもしれない。その意味で、私は、中帰連メンバーの証言には、ある種の「物足りなさ」を常に感ぜざるを得ないのが正直な思いである。残虐行為を犯した人間に複雑な「心の葛藤」がないはずはない。その「心の葛藤」を知らなければ、「人を殺す」ことの心理的問題の根本を知ることはできないのではないか、というのが私の思いである。



これに比較し、井上俊夫の『初めて人を殺す』には、井上個人の「心の葛藤」、すなわち残虐行為に対する罪意識と、同時にその罪意識を抑圧し閉じ込めてしまおうとする「心理的な揺れ」が正直に書き連ねてある。彼は、1943年の中国の江西省南昌から40キロほど離れた田舎町での駐屯部隊内での初めての外地での軍隊生活、すなわち、上官のすさまじい暴力行為に毎日さらされる初年兵の辛い日常生活について詳しく語る。その内容は、五味川純平が『人間の条件』の中で描写している軍隊内の激しい暴力状況を彷彿とさせる。その初年兵の生活描写の最後に、井上を含む23名の初年兵が中国人捕虜1名を銃剣で突き刺す刺殺訓練をさせられた状況が詳しく述べられている。捕虜を初年兵の刺殺訓練に使うことは、中国では頻繁に行われていたことで、井上の所属する部隊に限られていたことでないことは言うまでもない。



井上は書く:

《えらいことになったぞ。誰もこの場から逃げることは出来ないんだ。俺も人殺しをやらねばならないのだ。しかし、これも俺が男らしい男になるための、試練に違いない。こんな経験を積む機会はめったにあるもんじゃない》

私はこのように自分に言い聞かして、順番が回ってきた時、銃剣をもって型通りの突進をした。しかし、五体を蜂の巣のように突かれて朱に染まった軍服から内臓をはみ出していた リュウ(捕虜の名前)は、既に死んでしまっているのか、それとも息があったのか。無我夢中で銃剣を突き立てた私には、なにか豆腐のようなやわらかい物を突いたという感触しか残らなかった。

最後になって無理矢理前へ引き出された馬場二等兵は、どうするかと思っていると、「かんにんしとくなあれ、かんにんしとくなあれ」

しきりに哀願する馬場に亀岡兵長が激しいビンタを食らわした上、生駒上等兵と二人がかりで馬場にむりやり銃剣を構えさせ、なんとかリュウを突く真似をさせた。

                     (カッコ内は田中による付加)



井上は、なぜ「善良な市民」であるはずの自分たちが、このような残虐行為を犯すことができるようになってしまうのかを、以下のように、自問しながらも、ある意味で自虐的に正当化しようと試みるが、結局は正当化できないという複雑な心境を吐露している。



「日本人として善良な市民」は、兵士になっても戦場に投げ込まれても、どこまでいっても日本人として善良な市民であった。………

ではなぜ兵士は残虐行為がはたらけたのか。兵士の背後に「大日本帝国」があったからだ。兵士が所属する帝国が、敵国とみなした国に侵略し、その国の軍隊と戦い。敵兵を殲滅せよと命じていたからだ。時と場合によっては、敵国の非戦闘員を殺傷しても構わないとしていたからだ。

恐ろしいことだが、兵士は一度残虐行為がもたらす愉快を覚えてしまうと、もう病みつきになり何度でもやりたくなってくるのだ。殺人だけではない、略奪然り、放火然り、強姦然りである。

そして、こういうことをいくらやっても、大日本帝国という後ろ盾がある以上、兵士はちっとも怖くないのである。罪の意識など全然感じる必要はないのである。

それどころか、日本が戦争に負けて大日本帝国が崩壊しても、戦後何十年たっても、帝国時代に兵士としてやったことはなんら反省する必要はないのである。日本人として善良な市民とは、そういうものなのだ。



このように書いた後、井上はすぐに次のように続ける:

仮に若者から「そもそもあんたがたに戦争に反対する資格があるのかよ」と言われたら私には一言もないのである。………

いくら国家の強権が背後にあったとはいえ、いくら幼少の頃から皇国史観と軍国主義による徹底した教育を受けていたとはいえ、たやすく兵士となり、たやすく戦場に赴き、侵略戦争の忠実な尖兵として働いてきた私には、もともと戦争に反対する資格がないのだ。



自分が生き延びるためには、自分が殺られる前に相手を殺さなくてはならない。そのためには、殺す相手の人間性はもちろん、自分の人間性をも否定しなければならない。敵から人間性を剥奪し、同時に自分の人間性を徹底的に否定する訓練を、日本帝国陸軍は抵抗手段を完全に奪われた「捕虜」を刺殺するという犯罪行為を通して行うことを日常化させた。捕虜刺殺という極端な訓練方法はとらないとしても、様々な方法を駆使して「敵」を殺せるようになるような訓練、すなわち敵兵から人間性を剥奪することで敵を殺せるようになるように自己の人間性を否定する訓練を兵隊たちにほどこすのは、いかなる国の軍隊であろうとも同じである。一旦人間性を奪われた新兵が、激しい戦闘に投げ込まれ、敵兵だけではなく「敵軍に属する市民」と考えられる人間の人間性を奪い、殺傷することを繰り返すことを余儀なくさせられることで、自己をますます残虐化させ、ますます人間性を失っていく。かくして、他者の人間性剥奪、その結果としての自己の非人間化と自己残虐化は、必ず悪循環して激化していく。これが戦争の、誰にも避けられない、必然的な結果である。自衛隊員も、戦闘に直接参加するようになれば、当然、「人殺し」ができるような、このような訓練をますます受けるようになることは避けられないであろう。「人殺し」という罪意識を排除し、正当化するために、「国を守るため」の「防衛活動」というおざなりのタテマエ=口実が用意されている。アジア太平洋戦争では「兵士の背後に皇国『大日本帝国』の防衛があった」ように、ベトナムやイラク戦争では「米国兵士の背後に『正義の戦争を行うアメリカ合衆国』があった」のであり、将来の自衛隊の戦闘員には「平和な日本の防衛」というタテマエがすでに用意済みである。自衛隊員は、あくまでも「善良な市民」として「人殺し」をするようになるのであり、井上が主張したように「罪の意識など全然感じる必要はない」はずなのである。では、ベトナムやイラクで「人殺し」をして帰国した米兵たちの中に、なぜ、かくも多くの自殺者が多いのであろうか。このことを、現在審議されている安全保障関連法案=戦争法案との関係で、我々はもっと真剣に考えてみるべきである。



話を井上の著書に戻そう。残虐行為に対する罪意識と、逆になんとかそれを自己正当化したいという気持ちの間で揺れる心理的葛藤は、「慰安婦」に対する井上の態度の描写にも如実に表れている。戦後55年も経て、偶然にも、日中戦争従軍時代の上官でもあり戦友でもあった滝口弥三郎という人物から井上にメールが送られてきた。それを機会に、滝口が亡くなるまで、井上は滝口とのメール交信を数年にわたって続け、戦争体験に関するさまざまな意見交換を行ったのである。その交信の中で、井上が、中国の武昌の「慰安所」にいたある中国人の姑娘(クーニャン)=「慰安婦」を好きになり通い詰めたことが話題にのぼった。しかし、井上は、転属になることが分かったため、彼女との別れを惜しんで「涙」と題した詩を当時作ったことを滝口に説明した。その姑娘が井上と別れるのはいやだといって泣きじゃくったと、井上はその詩の中で書いているのである。しかし、本当に彼女がそう思っていたのか、それとも井上の勝手な解釈であったかどうか、55年も経った今では彼自身にもあまり自信がないと述べる。これをきっかけに、井上と滝口は「慰安婦」問題で長々と意見を交わすが、以下はその中からの抜粋である。



滝口:俺もお前も若い時は国家権力によって戦場に引っ張り出された無知で哀れな大日本帝国陸軍の兵士だった。その哀れな兵士をなぐさめてくれたのは、ほかならぬ俺たちよりもいっそうみじめで哀れな異国の女たちだった。つまり哀れな者と哀れな者同士が力いっぱい抱き合ってみた夢。それがお前の「なみだ(涙)」という詩の世界だったんだ。………

だが、井上よ。韓国の元慰安婦の証言によれば、彼女たちは日本の敗戦により辛うじて祖国に帰還できたのに、自分を「汚れた女」としか見てくれない周囲の無理解に苦しめられてきたというじゃないか。………



井上:そうだ滝口よ。そこが元慰安婦と俺たちが決定的に違うところなんだ。俺たちは中国でさんざん中国の民衆の怒りと侮蔑を買うようなことをして、祖国へ引き揚げてきた。しかし俺たちは、人殺しをやり強姦をやり、慰安婦と寝てきた「汚い男」だというふうに見られる恐れはなかった。俺たちはいとも簡単に軍服を脱ぎ捨て、「私はなにも悪いことはしておりません。善良な市民です」という顔つきで戦後の社会に、易々と潜り込むことができた。けれども韓国の元慰安婦たちは「従軍慰安婦という日本軍にむりやり着せられた制服」を容易に脱ぐことは出来なかったのだ。その制服を脱ぐのに何十年もかかっているのだ。………



滝口:……… 戦場に兵士として駆り出された俺たちも、慰安婦にされた女たちもひとしく「侵略戦争を遂行しようとした国家的権力」が構えた大きな罠の中に、すっぽりとはめられていたという気がするんだ。



井上:……… 完全に自由を奪われ、一日に何人もの兵士と寝なければならない境遇におとしいれられた従軍慰安婦たちは、たしかに性的奴隷と言えるだろう。しかし、奴隷というからには、それをこき使った主人というものがなければならない。それは慰安婦と寝た俺たち兵士なのか。俺たちが彼女たちを奴隷にしていたのか。そんなはずはない。俺たち兵士も国家権力により強制的に戦場に引っ張り出され、一切の自由を奪われ、命懸けで敵軍と交戦させられた奴隷兵士ではなかったのか。いずれにせよ、この「性的奴隷」という言葉は、慰安婦と一度でも寝たことがある者にとって、強烈な響きを持って迫ってくる。………



滝口:井上よ、そんなに自分を責めることはないぞ。詩も残しておけ。お前が抱いた女はお前にとって決して「性的奴隷」なんてものじゃなかった。ましてお前は「強姦」なんかしたのじゃない。戦争に行ったこともなければ、従軍慰安婦の姿を一度も見たこともない研究者の書くことなんか、俺たちは気にする必要がないと思うんだ。研究者と俺たちの認識の間にも、埋めがたい落差があるのだ。(強調:田中)



ここには「慰安婦」を自分たちの「慰み者」にしたという罪意識が一方でありながら、しかし、結局は自分たちも彼女たちと同様に「戦争奴隷」という犠牲者だったのだ、という一種の怨念がある。そのため、彼女たちへのある種の責任を感じながらも、自分たちは決して「性的奴隷」の主人としての責任などはないのだと責任逃れしたい気持ちとの間での激しい葛藤に、井上も滝口も悩まされ続ける。そして最後には、「戦争体験もない戦後生まれの研究者になにが分かるか」と叫ぶことで、自分たちの議論を終わらせている。



この批判には、「慰安婦」問題で著書のある、戦後生まれの研究者の一人である私としては、答えようがないというのが正直な思いである。加害と被害の心理的な重層性=複雑さの厳しい実相をまざまざと教えられるメール交信記録である。当事者ではない私には、確かに、井上や滝口を批判する資格もないし、批判しようとも思わない。むしろ、満州に出兵させられた関東軍中尉であった父をもつ私としては、父の世代のこのような「戦争加害と被害の複雑な重層性」の実相をできるだけ深く知った上で、「戦後生まれ」の私としての責任は何か、ということを考えること。そして、その「戦後責任」(実は、私は「戦後」という言葉を使うことにひじょうな違和感があるのだが、このことについては別の機会に説明したい)をいかに自分は果たすべきか、ということに思考と行動を集中させることが、井上や滝口に対する「答え」であるとしか言えないのである。



この著書は、戦争体験を強いられた一人の日本人兵士が、いかなる精神的葛藤を舐めさせられたかを知り、その知識を、近い将来、自衛隊員が戦争に送り出されるならば必ずや経験させられるであろう精神的葛藤について想像して見る上で、ひじょうに貴重なエッセー集だと私は思う。



最後に、この著書の冒頭に井上が載せた「日中戦争で戦死した大阪生まれの英霊の声:今は亡き昭和天皇が、臨終の床にあった時に作れる歌」からの抜粋を紹介して、この感想文を終えることにする。





先日来、天皇陛下が重態に陥られ、八十七歳の玉体のなかに、あろうことか、おびただしい人民の血潮をながしこみ、体内の血液が全部入れ替わってしまうという、医学上、例をみない奇怪千万な治療をお受けになりながら、いくばくもない余命にひたすらすがりついておられるということも、よう存じております。

ああ、これが、わいら兵士に「義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」、つまり「お前たち兵士は桜の花びらのように潔く散れ」と論された天皇の、最後のお姿なのでおますか。なぜ、

「わたしはもう輸血はいらない。貴重な血液をどうか人民のいのちを救うためにつかってほしい」

と仰せにならないのでおます。

わいらのように、一滴の輸血もうけられずに戦場で散りはてた者からみて、陛下のお姿はまことに浅ましい限りでおます。





合掌