藤沢 周著 『世阿弥の花』を読む
「これはもう読書ではない」という書評
今年8月29日のネット版『東京新聞』の書評欄で、能楽師の安田登氏が、藤沢周が6月に出した新著、『世阿弥の花』の紹介を書いておられるのを目にしました。安田氏は能楽の解説書を幾つも書いておられ、それらの本の愛読者の一人である私は、安田氏の能楽を通しての「ものの見方」から多くを学ばせてもらっています。よって、安田氏がこの本を読まれて、「これはもう読書ではない。舞台の上で能を演じているよう」に感じると、絶賛に近い言葉を述べておられるので、早速、私もキンドル版を購入して読んでみました。
実は、藤沢周の小説を読むのは、私にとってこれが初めてでした。藤沢周が、私の好きな作家の一人である藤沢周平の名前に似ているところから、「ペンネームを真似たのか?」と思ったことがあり、調べてみたら藤沢周が本名であることをずいぶん前に知りました。「下衆の勘繰り」とはこのことで、お恥ずかしい次第でした。しかし、彼のこれまでの色々な作品のあらすじを読んでみても、「これは読んでみたい」と思うような、私の好みに合う作品はなかったので、これまで一冊も読んだことがなかったのです。
安田氏はこの『世阿弥の花』の書評の冒頭で次のように述べておられます。
小説を読んだというのとはまったく違う異質な体験をした。その体験に誘うために著者は序章から挑発・誘導をする。序章は、晩年、佐渡に流された世阿弥の船上の道行(みちゆき)である。しかし、その語り手は若くして客死した世阿弥の長男、元雅だ。死者、元雅の目は、風景や装束をきわめて丁寧に描写する。そのあまりの丁寧さに、先に先にと読み進めようとする目の動きは制止され、死者とともに従容たる歩みを運ぶこととなる。
実際に読んでみると、まことにその通りで、言葉を慎重に選び、熟考して練り上げた表現方法による描写が、亡くなった世阿弥の子息である元雅の霊の語りとしてゆっくりと展開していきます。もうすでにこの序章の段階から、夢幻能の舞台を観ているような不思議な世界に引き込まれます。(ちなみに、ご存知と思いますが、「夢幻能」とは、亡くなった人の霊や樹木の精霊などが能のシテ=主役となっている物語の能です。)
序章に目を通しただけで、藤沢周がこの小説を書くために、おそらく自分でも能の舞と謡を相当熱心に学んだであろうと想像できます。聞くところによると、藤沢はこの小説を書くために6年を費やしたとのこと、さもあらん、と思います。舞や謡だけではなく、能楽囃子の鼓や笛(能管)の音の出し方まで詳細に、小説のあちこちで描写しています。
佐渡流刑になった世阿弥が、自分に重ね合わせた順徳院の怨念
小説の主人公は、父の観阿弥の芸を受け継いで能楽(観世流)を大成化した世阿弥です。世阿弥は室町時代の14世紀末から15世紀初めに、将軍である足利義満や足利義持の保護を受けて活躍しますが、足利義教の時代になると義教に嫌われ、弾圧されるようになりました。そのため、1422年に観世大夫の座を長男の元雅に譲って、自分は出家しました。ところが1432年に元雅が旅先の伊勢安濃津で客死し、その2年後の1434年に世阿弥も佐渡島に流刑になります。
小説は、世阿弥を乗せた船が、荒波の海を佐渡島に向かっている場面から始まります。この時、世阿弥は72歳になっていました。平均寿命が現在よりずっと短かった当時、72歳という年齢はかなりの高齢で、「老翁」と称すべきかなりの老人です(今、私自身も72歳なので、「私も<老翁>と呼ばれる歳なのかしら」と、自分で驚いていますが<苦笑>)。
なぜ世阿弥が佐渡に遠島になったのかその理由は分かっていませんし、佐渡に何年滞在したのかもはっきり分かっていません。いずれにせよ、高齢になってから老妻の寿椿の世話を娘婿の能楽師の金春禅竹に頼み、当時の文化の中心地である京都を遠く離れ、佐渡での孤独な生活を余儀なくされた世阿弥の悲哀、懐郷など満身創痍の念はいかばかりであったかと思いやられます。
亡くなったのは1443年と言われていますが、赦免を受けて京都に帰洛して亡くなったという説と、佐渡で亡くなったという説の二通りがあります。藤沢周の小説では、このどちらの説をとっているのか、はっきりとは分からないような結末の描き方になっていて、読者の判断に任せるような形で話を終わらせています。(私には、世阿弥が佐渡で亡くなったことを藤沢が暗示しているように思えますが。)後述するように、すばらしい結びの描写で小説を終わらせています。
世阿弥が佐渡でどのような生活をしていたのかもほとんど明らかでありませんが、佐渡に渡った2年後に世阿弥が完成させた8篇の小謡『金島書』には、世阿弥が敬神のため神前で舞ったという説明があります。その8篇のうちの一つは「泉」と題された謡で、1221年5月に鎌倉幕府の倒幕をはかって「承久の乱」を起こしたものの失敗し、佐渡に配流された上皇順徳院が、自分と同じような望郷の念に悲しんだであろうという想いを馳せて世阿弥が作ったものでした。順徳院は1242年に亡くなるまで21年もの間、佐渡に滞在することを強いられたわけです。世阿弥のこの謡「泉」は、順徳院の不遇に涙し、院の極楽浄土への往生を確信するという内容になっています。
藤沢周もこの「泉」から発想を得たのでしょう、小説では世阿弥が「黒木」という演目の能を作り、長年怨み苦しんで成仏できずに佐渡の土地にとどまっている順徳院の霊を主役にして、世阿弥自身がシテとして舞い、謡い、順徳院を極楽浄土へと送りだすという、設定にしています。私が知る限り、「黒木」という演目の能は実際にはないはずですので、藤沢周の創作によるものだと思います。しかも、順徳院の霊として舞っている世阿弥が、院の霊と一体化して往生してしまうことがないように、息子・元雅の霊が世阿弥を最後まで護るという、「夢幻能の二重奏」とも称すべき物語になっています。作者のすばらしい創作力がここにも見られます。
「幽玄の美」の追求は、人を愛惜する心の涵養と並行
藤沢周は、悲哀と懐郷にうちひしがれた世阿弥が、佐渡の漁民や農民との交流を通して、農民たちが田植えで歌い踊る田楽にこそ能の本来の姿があることを再認識し、農漁民の郷土芸能の価値を尊重しながら、自分もまた、自分の芸を驕ることなく、「幽玄の美」を追求するために、老齢にも関わらず、真摯に芸の切磋琢磨を続けたという物語にしています。島の人たちの恩情に応え、京ではなく佐渡に滞在し続けることこそが「幽玄の美」の追求への道ではなかろうかという心境への変化が起こり、島の人たちに能を教えることによっても、悲哀や懐郷の念が薄まっていったという設定にしています。
世阿弥が島の人たちに能を教えたというような史料は残っておらず、順徳院のように怨みのうちに憤死したのではないと確信できるような文献も残っていないとのこと。したがって、藤沢周の小説の想定が事実に即したものであるとは確実には言えませんが、「そうであった」と望みたいものです。
小説では、世阿弥は、亡き息子・元雅に対して十分に情愛をもって向き合わなかったという自責の念と喪失感から、一漁民の子ども、たつ丸を息子のようにかわいがり、謡と小鼓を丁寧に教え、立派な囃子方に育てていきます。世阿弥を無事に佐渡まで送り届けた後で京に戻るはずだった、世阿弥の弟子で能管奏者である六左衛門もまた、そんな世阿弥の芸に対するひたむきな態度と人を差別なく愛惜する生き方から、もっと世阿弥から自分も学びたいと熱望。島の農家の女性と恋仲になり、結ばれ、愛娘を持つようにまでなります。
しかし、この小説の中で、世阿弥が最も人間的に深く交わるようになる相手は、本間信濃守の家臣、溝口朔之進です。溝口は、世阿弥を最初は「罪人」とみなして、ぞんざいに扱います。しかし、農民たちのために旱魃から水田をまもるため、命懸けで雨乞いの能を舞うという世阿弥の姿に強い衝撃を受け、武士をやめて出家し、世阿弥から謡を習うことを始めます。さらには趣味としてやっていた木彫りの技を、能面作りに活かし、まことに霊が籠ったような、人の心を震わせる能面を作るようにまでなります。
小説は、途中から、世阿弥と了隠(=出家した溝口朔之進)が交互に語り手の役を担います。安田登氏が書評で述べておられるように、まるで能のシテとワキが交差するかのように物語が進んでいきます。そして最後には、実際に世阿弥と了隠が「西行桜」という(世阿弥が実際に作った演目の)能で、シテとワキの役をつとめるという想定になっています。
了隠はワキの西行法師を、世阿弥はシテの老木の桜の精の役をつとめます。隠遁生活をおくる西行の庵にはとても美しい桜の木があり、毎年、花見の時期には多くの人たちが訪れます。西行は花見客によって静かな生活を破られることから、「花見んと群れつつ人の来るのみぞ、あたら桜のとがにはありける(花見を楽しもうと人が群れ集まることが、桜の罪だ)」という歌を詠みます。その夜、西行が桜の木蔭でまどろんでいると、夢の中に桜の精の老人が現れ、「(自分は)恥ずかしくも、老木で、花も少なく枝葉は朽ちているが、『あたら桜のとが』と言われるような、罪科はないと、申し開きをするために現れた花の精なのだ。たとえ心のない草木であっても、花を咲かせ実を結ぶ時を忘れることはない。ひとえに草木国土は皆成仏するという御法の功徳である」と述べます。植物にも命があるし、その命の盛りの象徴である花に罪科があろうはずがない、と老木の精は述べ、その花を愛でるために訪れる人たちにもとがはないと暗示したわけです。
世阿弥も、年老いた自分のことをすでに「老木で、花も少なく枝葉は朽ちている」と思っていますが、それでも「幽玄の美」に少しでも近づきたいと渾身の力を振り絞って舞い謡います。そして舞い終わった後、舞台から降りて、疲れ切って朦朧とした状態で、一人、能が行われた寺の本堂から離れて庭へと出ます。そして、この小説は、世阿弥が見事に「幽玄の美」に到達したことを意味する、次のような描写で終わっています。
霞む眼をさらに細めて見やれば、幼い頃の元雅が佇んでいて、一歩二歩と近づくたびに、元雅は大きうなって、その顔に優しい笑みを浮かべている。
「……元雅」
「……父上……。見事な……見事な、『西行桜』で、ございました……」
…………
「父上……。よう、花を……美しき、まことの花を、咲かせました……」
雪か、波の花か。白きものが風にのって舞うたかと見えて、周りに目をやれば、朦朧と雲のたなびくように、佐渡の桜が咲いて満ちている。狂わしうほどに豊饒な花々が幾重にも重なり、溢れ、春の妖気を醸して──。
「佐渡の……桜……」と、つぶやいた時に、元雅の腕を感じ、肩を感じ、においを感じ、温かさを感じた。我が腕が確かに元雅を覚えて、しかと抱いているのである。
──これを見ん残す金の島千鳥跡も朽ちせぬ世々のしるしに
遠くで、たつ丸や了隠殿の木霊する声が聞こえ、ありがたさの内に春の夢へといざなわれた。
最後に
藤沢周が、世阿弥の書いたいろいろな演目の能や、有名な芸論『風姿花伝』を深く読み込み、実際に自分でも舞や謡の稽古をすることで、世阿弥の考え方に少しでも近づこうと試みながら、この小説の執筆にとりくんだものと思われます。「夢幻能」によって、苦悩しながら亡くなった「人の心の痛み」を知り、そのことを通して自己の人間性を深めることが「幽玄の美」の追求なのであるというのが、世阿弥の能楽の思想の重要な要素の一つであると私は思っています。能楽の専門家でもない私の、世阿弥のそのような「夢幻能」の解釈が果たして正しいかどうかはわかりません。しかし、世阿弥の晩年の生きざまを小説化することで、藤沢周は、秀麗な文章で見事にその思想の要素を描き出しているように私には思えます。
この小説は、世阿弥という人間の生きざまに焦点を当てながらも、現実と夢幻の間を常に往来しながら、小説自体が一曲の夢幻能であるかのような、不思議な雰囲気に読者を浸らせてくれます。久しぶりに、「傑作を読んだ」、という深い満足感を得ました。
追加情報:
【動画あり】世阿弥しのぶ幻想の舞台佐渡で正法寺ろうそく能
https://www.niigata-nippo.co.jp/news/local/20210623624395.html
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