2018年1月7日日曜日

「少女像」があるべきところ

私が最も尊敬する韓国人のお一人、金鐘哲氏(評論家で詩人)の御論考「韓国の『ロウソク革命』の中にいて」については、昨年9月にこのブログで紹介させていただいた。今回は、金氏が、最近、『ハンギョレ新聞』に書かれた「慰安婦問題日韓合意」に関する評論を、ご子息の金亨洙氏が日本語に訳されたものを、金氏の御許可を得て紹介させていただく。
戦争犯罪を研究テーマにしている歴史家として私が常に思っているのは、戦争犯罪の「罪と責任」の問題は、根本的には、加害者側が被害者側に人間としてどのように向き合うかということだ。金氏が言われるように、慰安婦問題は決して条約や合意の遵守といった外交的原則や国益などの次元をもって論じ得るテーマではない」のであり、まさしく「これは韓国人、中国人、日本人を問わず人間らしく生きることが如何なるものであるかについて思考する能力を持つ全ての人間の共通の関心事でなければならない」のである。性奴隷という戦争犯罪による人権侵害は、「人道に対する罪」という普遍的な問題であって、このことを無視して、金銭で被害者の国の政府を黙らせようとするような非道なやり方では、問題は解決しないどころか、ますます泥沼化していくのは当然なのである。こんな明瞭なことも理解できない愚鈍な政治家が首相となっている国の国民は、まことに不幸としか言いようがない。
「少女像」があるべきところ
金鐘哲 (『緑色評論』発行人)
<金亨洙 訳>

日韓の両政府が妥結したと言っていた201512月の所謂「慰安婦問題に関する合意」というのが、とんでもないデタラメであることが明らかになった。去る1227日特別検証チームが発表した調査結果をみると、それは政府間の正当な合意というより、安倍政権の根本的な非道徳性と朴槿恵政権の極端な無責任と愚かさが相まって生じた外交的惨事であったに違いない。
それなのにこの検証結果が発表されるや否や、日本政府はもちろん日本の主要メディアまでもが一斉に非難と憂慮の声を上げた。政府間の約束は守るべきであり、韓国は今になってガタガタ言わずに合意に伴う事項の履行に徹するべきだという主張である。なかには - トランプのパリ気候協定の脱退については一言も言わなかったくせにして - 韓国に対しては「未開な行いはやめて国際的なルールをきちんと守れ」とまで、無礼な言葉を発する媒体もある。そして安倍総理は「一ミリも動かない」と、極めて乱暴な言葉を用いながら不快感をあらわにした。
そこで驚くべきは韓国のいくつかの「保守派」メディアも日本のマスコミと似た反応を示したことである。例えば、こうだ。「それに大きな問題は経緯調査の名の下で外交上超えてはいけない線が守られていなかったという事実である。30年の期間をもって秘密とされるべき外交文書が2年で公開されてしまった。これから文在寅政府はもちろん、今後の全ての政権にとって大きな外交上の負担となるのは間違いないだろう。日本は言うまでもなく、いったいどの国が韓国政府を信じて秘密の取引を行おうとするのだろうか。」(『中央日報』社説、20171228日付)
このような憂慮に一理あるのも否定できない。「秘密の取引」を公開してしまった結果、以後の韓国の外交能力に支障が生じる可能性が全くないと断定することはできないからである。(しかし、国家間の交渉は基本的に互恵原則に依拠するものであること、そして政府間の「秘密」というのも多くの場合、民衆の意思とはかけ離れた権力者同士の話にすぎないということも忘れてはならない。)ところが、残念なことに、「保守派」メディアが、意図的であろうがなかろうが、完全に看過している事実がある。つまり、慰安婦問題は決して条約や合意の遵守といった外交的原則や国益などの次元をもって論じ得るテーマではないということである。
簡略に述べると、「慰安婦問題」というのは国家権力が何の罪もない女性たちを強制的かつ組織的に動員し、戦場の「性奴隷」とし、その女性たちの一度だけの生涯を徹底的に踏みにじった、 極端な反人倫的蛮行に関わる問題である。したがってこれは被害当事者だけではなく、この世を人間として生きていくためにも必ず解決していかねばならぬ、我々皆の問題だといっても良い。人間らしく生きるための共同体が成立するには物理的な土台だけでは不十分なのだ。それより根本的なのは共同体の道徳的・倫理的土台である。
慰安婦問題の解決は結局この倫理的な土台を、遅まきながらも復元しようとするものである。したがってこれは日韓の間の単なる外交問題でもなければ、謂わば国益に関わる問題でもない。これは韓国人、中国人、日本人を問わず人間らしく生きることが如何なるものであるかについて思考する能力を持つ全ての人間の共通の関心事でなければならない。東アジアから遠く離れた米国のサンフランシスコに慰安婦を念う「少女像」が建てられたのもまさにこのような普遍性のためである。
しかしながら日本はこの事実を直視しようとしない。未だ国家主義の迷妄にとらわれている人たちは論外にしても、常識的に見える人でさえもこの問題に関しては、不思議にも、退嬰的な態度を示している。彼らはこういう。「ドイツのように日本も戦争で被害を受けた隣国に対して潔く謝罪すべきといった主張もあるが、ドイツと日本は状況が根本的に異なる。ドイツが謝罪したのはユダヤ人に対する大虐殺である『ホロコースト』のためであり、戦争を起こした責任のためではない。歴史上戦争を起こしたとして謝罪した国はない。」そして戦争責任について発言する数少ない知識人でも、植民地支配に言及することはほとんどない。英国がインドに対する植民地支配について謝罪したことがあるのか、というのが彼らの論理である。その上、今日の日本はナショナリズムからはすでに脱しているのに、韓国や中国は未だナショナリズムという「非合理的な」情緒的監獄に閉じこめられていると、軽蔑な口調で話す日本の知識人も少なくない。
そして彼らは絶えず言う。もうやめましょうと、いつまで過去に囚われているのかと。真の意味において一度も謝罪したこともなく、またきちんとした歴史教育も行なっていないのに、そういった状況のもとで東アジアの国家間協力と連帯が可能だとも思っているのだろうか。一時期「東アジア共同体」というアイデアが日韓の知識人の間で流行ったことがあった。勿論ヨーロッパ連合を念頭においた発想だったが、EUの実現に決定的だったのは自らの歴史的な過ちを素直に反省したドイツ人たちの謙虚な姿勢にあった。慰安婦問題がこのように未解決のままなのは、結局自分たちには謝罪すべき過ちなどないという日本人の傲慢さによるものであろうが、そのような歪んだ感情の構造をそのままにして東アジアの国々の善隣関係を夢見てもそれは無駄である。
事実、慰安婦問題に関連して日本側の根本的な態度の変化がない限り韓国政府にできることはあまりないようにみえる。今韓国のメディアは文在寅政府の賢明な対応を求めているが、自らの歴史における、聞きたくない、見たくないこと全てをなかったことにしようとする、非常に浅い精神世界をもつ人たちと、いったいどのような対話あるいは交渉が可能なのだろうか。実際に今の日本の学校では近現代史をほとんど教えておらず、日本の高校卒業生のなかでも朝鮮半島が如何にして分断されたのか、その経緯を理解する若者はほとんどいないらしい。「少女像」問題もそうである。合理的に考えればナチス・ドイツによる犠牲者を追悼する追悼碑が現在ベルリンの中心部に建てられているように、慰安婦関連の「少女像」もソウルや釡山ではなく東京や大阪にあるのが自然で当然だと言えよう。しかし最近サンフランシスコの少女像設置に反発して大阪市長はサンフランシスコとの姉妹都市関係を破棄すると宣言したそうだ。
今年はちょうど明治維新150周年にあたる。明治維新はそもそも「薩長」の武士達が起こしたクーデターであった。そのため政治的正当性の欠如という危機を乗り越えるために彼等が急造したのが天皇制国家主義、そして「征韓論」という名のもとで実行された朝鮮侵略と支配であった。その結果朝鮮半島はもちろんアジア全体において草の根民衆の生活は長い間残酷に蹂躙され、歪んでいた。そしてその後遺症は実際に今でも続いている。(在日朝鮮人歴史学者キム・ジョンミは 日本が植民地支配と戦争に対してきちんとした謝罪を行わない重要な理由として、謝罪とそれに伴う補償ないし賠償が行われることになれば、それは現在の日本の経済力では担いきれるものではないという点を挙げている。それほど日本帝国主義が犯した蛮行が多大で広範なものであったことを意味する。)
日本の知識人の多くには、日本によるアジア侵略と反人倫的蛮行には歴史的に不可避な側面があったと説明する傾向がある。しかしそのような論理は、歴史というのは結局人間が作り上げていくものであり、したがって人間自ら責任を負わねばならない問題であることを、無視してしまう論理だと言える。我々が慰安婦問題に関して日本の歴史的責任を問い続けているのは、ナショナリズ ムからでも、また国益のためでもない。それはただ、人倫を忘却した生は人間らしい生ではないと思っているからである。(同じ論理に基づいて、私達はベトナムにて犯した韓国の歴史的な過ちについても、素直にそして徹底的に反省しなければならない。)
(『ハンギョレ新聞』コラム、201815日付)