現在の劣悪な安倍極右政権に対抗し、これを倒すためには私たちは市民運動をどう展開していったらよいのだろうか、という質問を、私は先日のブログ記事「安倍晋三の言動に見るファシズムの要素 - 反知性主義の安倍政権打倒のためには何をしたらよいのか –」の最後で読者の皆さんに問いました。今日は、私自身がこの課題に関して最近考えていることを以下に提案させていただきます。忌憚のないご批評をいただければ幸いです。
講和問題と「平和四原則」の誕生
今さら詳しく説明しなくても周知の事実とは思いますが、現在の日本の状況 – 中国、韓国、ロシアとの(尖閣列島、竹島、北方領土問題、さらには「慰安婦」問題を含む戦争責任問題などに原因する)国際関係の悪化、沖縄・岩国・横須賀をはじめとする米軍基地問題、日米軍事同盟問題、米国への核抑止力依存、壊憲など – の根源は、吉田茂政権下、1951年9月4〜8日に開かれた「サンフランシスコ講和会議」での「講和条約調印」と、その直後の9月8日夕方に行われた「日米安保条約調印」にあることを、まず簡潔に再確認しておきたいと思います。
講和会議の前年、1950年6月には朝鮮戦争が勃発。それまで、日本は全面講和(東西陣営を問わず、アジア太平洋戦争の全ての交戦国ならびに日本が戦渦を及ぼした国々と平和条約締結)・非武装中立の政策をとるべしと考えていた占領軍司令官マッカーサーは、態度を一変させます。これは、同年4月にトルーマン政権の国務省顧問となったジョン・ダレスが来日して、日本本土における米軍基地自由使用と米軍常時駐留の計画をマッカーサーに認めさせた結果でした。当時の首相・吉田茂は片面講和(西側陣営諸国だけとの平和条約締結)と米軍の基地自由使用を基本方針としていました。米軍基地自由使用と米軍常時駐留は、アメリカ側から一方的に強い要求があったからであると思っている人たちが多いようですが、事実はむしろ逆で、吉田は同年5月初旬に蔵相・池田勇人(随員として宮沢喜一)をワシントンに送り、日本政府側の方から米軍の基地自由使用と常時駐留を申し出る用意があると米政府に伝えているのです。これが現在の米軍基地問題の出発点です。吉田がそのような提案をした理由は、おそらくは、日本防衛については米軍に全面的に依存し、なるべく再軍備を回避して財政回復に努め、戦争で荒廃した経済の再建を最優先させるという考えからであったと思われます。
しかしながら、「再軍備」に関しては、朝鮮戦争勃発の影響で、「再軍備必要」という世論が急激に高まりました。例えば、当時の毎日新聞(1951年1月3日)の調査では賛成65.8パーセント、反対16.5パーセント:読売新聞(1951年2月8日)では賛成56.9パーセント、反対23.8パーセント:朝日新聞(1950年11月15日)では賛成53.8パーセント、反対27.6パーセントです。政治家の中にも「再軍備賛成」派が多くなり、驚くべきことに、生粋の自由平和主義者として知られている石橋湛山ですら、憲法9条を一時的に効力停止させ再軍備すべきという意見を述べています。ちなみに、天皇裕仁は、1951年2月、再び日本を訪問中のダレスに会って、片面講和条約案の支持を伝えていますが、言うまでもなく、裕仁のこの行為は明らかに憲法違反行為です。(ちなみに、1947年9月、裕仁が沖縄及びその他の琉球諸島を米国が長期に軍事占領することを望むというメッセージをマッカーサーに伝えていることはよく知られている事実ですが、これも言うまでもなく憲法違反行為です。)<なお、「再軍備賛成」意見は、朝鮮戦争が休戦状態になると、減少しました。>
そのような状況に当時の日本社会党は、一時、かなり動揺します。しかし、当時、党内で急速に優勢となった左派が、そうした動揺を克服します。左派優勢の理由は、1949年1月の衆議院選挙で、社会党は議員数を111から48にまで激減させるという惨敗をみますが、その直後に産別民同派が大量入党した結果です。1950年1月には、社会党は左右両派に一時分裂しますが、4月には再び統一し、統一大会で、前年1949年12月に中央執行委員会が決定した「全面講和・中立堅持・軍事基地反対」の平和三原則をここで再確認しました。左派の影響で、朝鮮戦争勃発後も、この平和三原則の党方針は揺らいでいません(しかし、左派の中にも荒畑寒村や小堀甚二など、「再軍備」を主張する人がいたことは確かです)。それどころか、社会党は、冷戦克服のために、インドその他のアジア諸国との連帯運動の推進を提唱しています。翌年1951年1月の党大会では、この平和三原則に「再軍備反対」を加えて、「平和四原則」とすることを決定しました。この党大会で委員長に選出された鈴木茂三郎は、就任演説の中で、「青年よ銃をとるな、婦人よ、夫や子供を戦場に送るな」と訴えています。この言葉は、今も多くの市民に強くアピールするものであることは明らかですし、安倍政権の下でますます重要性を増している言葉でもあります。
社会党左派を最も強く支えていたのは、当時の労働組合「総評」ですが、1951年3月の第2回大会で事務局長に高野稔を選出し、総評もまた「平和四原則」を採択しました。この総評を理論的に支えたのが、岩波書店を中心とする「平和問題懇談会」でした。「平和問題懇談会」のメンバーには、東京では、丸山真男、和辻哲郎、大内兵衛、安倍能成、(のちに右翼に転向した)清水幾太郎などがいましたし、関西では松田道雄、末川博、桑原武夫、恒藤恭など、錚々たる知識人が論陣をはっていました。「平和問題懇談会」のこれらのメンバーたちは、岩波書店の出版物を通して、「東西の平和的共存」は可能であり、こうした世界の平和的状況を創り出していく上でも、日本は全面講和・非武装中立政策をとることが必要である、という内容の議論を強く打ち出しました。また、彼らは、単に出版物に頼るだけではなく、総評の重要なメンバーである国鉄労働組合や日本教員組合(日教組)が日本各地で開いた勉強会に講師として出かけ、その議論の内容を説明し、「平和問題懇談会」が出した声明文や報告のコピーを組合員に配布するという運動、現代風に言えば「ティーチ・イン運動」を展開しました。
こうした「平和四原則」運動にもかかわらず、「サンフランシスコ講和会議」と「安保条約調印」では、片面講和・米軍基地常駐・再軍備推進という結果となり、一応「独立国」の地位を回復した日本ではありましたが、現実には、米国の植民地的な支配下に置かれることとなり、66年経った今もその状態が続いているわけです。
講和条約・安保条約の問題点=現在の政治問題の根源
この講和会議では、「占領軍撤退、民主化・非軍国主義化の保障」などの講和条約修正案をソ連が提出しましたが、この案を議題とすること自体が否決されました。そのため、調印式には、ソ連はチェコスロバキア、ポーランドとともに欠席。そのうえ、米軍の日本駐留継続に反対するインドほか2カ国が、最初から欠席。したがって、前述したように、日本は、外交的に最も重要であるはずの隣国の、中国、朝鮮(北朝鮮・韓国の両国)、ソ連との全面的な国交回復ができないままになってしまい、その結果として、尖閣列島、竹島、北方領土など領土問題が解決されず、今も日本の国際関係上の致命的な阻害要因となったままです。
しかも、講和条約は、すでにGHQが1946年1月29日の段階で千島と沖縄を日本の行政区域から分離し、千島がソ連のハバロフスク州に併合されていたことを追認することとになりました。沖縄と小笠原諸島はアメリカを施政権国とする国連信託統治領となって、アメリカが国連にその停止を申請するまで直接管理することになりました。したがって、沖縄は、形式的な「非軍事化・民主化」の対象とすらされず、沖縄戦で苦汁苦闘の体験を強いられ生き延びた住民は、全土の13パーセントという広大な土地を軍用地として取り上げられたまま、貧困生活を続けることを余儀なくされました。したがって、1947年に設立された沖縄人民党が、当初、日本に復帰するよりも日本からの独立を唱え、しかも日本政府に対して戦争被害賠償を請求することを政策の一つに掲げたことは、全く不思議ではありません。
もう一つの重要な問題は、戦争被害賠償問題と戦争責任問題です。日本を中国・ソ連の共産圏封じ込め政策の前線にしようと計画した米国は、日本の経済復興を優先させるために、調印諸国に日本に対する賠償請求権を放棄させる圧力をかけました。その結果、連合諸国は賠償を原則として放棄しましたが、日本に占領されて損害を受けた国々が希望する場合には、「役務」(=自国の原料を提供し日本に加工させる)という方法で賠償を支払うという形にしました。結局、この「役務」という形で賠償の支払いを受けた国は、ビルマ、インドネシア、フィリッピン、南ベトナムの4カ国だけでした。カンボジア、ラオスには賠償請求権放棄の代償として無償援助を、タイ、マレーシア、シンガポール、モンゴル、韓国、ミクロネシアの国々にも賠償に準ずる無償援助や経済協力が行われました。台湾、中国、ソ連、インドは賠償を放棄しましたが、北朝鮮とは国交が回復していないので賠償問題も実際は今も未解決の状態なのです。
日本側に侵略戦争に対する責任意識が欠落している原因の一つには、この「戦後賠償」が主として「経済援助・協力」という形をとったことがあります。しかも、この「経済援助・協力」が、事実上は、日本経済復興を目的に、日本製品の輸出や日本企業の東南アジアへの経済進出のためにおおいに利用されたため、侵略戦争に対する反省を真に促すような「賠償」とは懸け離れた形になってしまったことが挙げられます。「経済援助・協力」の中身そのものも、日本企業が自社の利益になるような事業計画(例えば水力発電所建設)を作成し、それを受入国政府を通して日本政府に資金供与させるという形のものが多く、この形がそのまま後年のODA(政府開発援助)に引き継がれていきました。さらには、「経済援助・協力」という形での「賠償」は、しばしば政治腐敗と絡んでいました。例えば、インドネシア賠償の中に船舶10隻の提供が含まれていましたが、この仕事を請け負った貿易会社・木下産商は、当時の首相・岸信介(安倍晋三の祖父)に多額の政治献金をしていた会社です。これは、ほんの一例にすぎません。
この「経済援助・協力」という形での「賠償」では、当然、日本軍の残虐行為や当時の日本政府、日本企業による人権侵害行為の直接の犠牲者とその遺族には賠償金が支払われるということは全くありませんでした。戦後長年にわたって、朝鮮人・中国人の強制連行・強制労働に対する損害賠償問題での裁判、「慰安婦=日本軍性奴隷」に対する損害賠償問題での裁判などが数多く行われてきた理由は、まさに、真の戦争被害者を無視した、この歪んだ「戦後賠償」の性格そのものにあることは明らかです。にもかかわらず、日本政府も裁判所(特に最高裁)も、「国家賠償」という形で賠償問題は解決済みであると主張し、戦争被害者の人権を徹底的に否定する態度をとってきましたし、今もその方針に全く変わりはありません。日本がアジア諸国民から信頼されず、いつまでたっても平和で友好的な国際関係を築けない国となっている重大な理由の一つが、この「戦後補償」のあり方なのです。(今年2月に公益財団法人新聞通信調査会が行った「対日メディア世論調査」の結果によると、日本を信頼できると答えた人の割合は、韓国でわずか13.8パーセント、中国では16.9パーセントでした。)
前述したように、安保条約調印は講和条約調印式が終わったその日の夕方、サンフランシスコ郊外の米軍将兵クラブで行われ、吉田茂が署名して成立。この条約は、たったの5か条からなる驚くほど短いものですが、骨子は、米軍側は日本国内に軍事基地を設置して常駐する権利を有するが、日本防衛の義務は負わないという、きわめて不平等なものでした。日本国内で大規模な内乱が起きた場合には米軍が鎮圧目的で「援助」することは可能であるし、日本が外部から武力攻撃を受けた場合にも、日本の安全に「寄与」するために米軍を「使用することができる」とはされていましたが、「義務」ではありませんでした。しかも、米軍基地の設置は日本全土で無制限、無期限で、米兵ならびにその家族には治外法権が認められる一方で、駐留費は日米両国が分担するということが、行政協定(=米軍基地・駐留条件の細目事項)で決められていました。まさに「植民地的」な条約内容でした。(ちなみに、幕末に江戸幕府は米国、英国、ロシア、オランダ、フランス各国と、治外法権を含む不平等条約を結びます。明治政府は、この不平等条約を改正するのに1872年から1911年まで、およそ40年もかかっています。こうした苦い経験にもかかわらず、戦後、米軍将兵とその家族に再び治外法権をいとも容易に与えてしまいました。歴史から学ばないということは、恐ろしいことです。)
条約の内容が不平等であっただけではなく、条約前文では日本が「自国の防衛のために漸増的に自ら責任を負う」ことが義務づけられており、有事の際には日米両軍が(米軍司令官の下に)共同行動をとるということも行政協定で決められていました。つまり、「日本の領地は勝手に米軍が使うが、日本防衛は自前でやれ」、「日本の軍事力がある程度高まってきたならば、有事の際には、アメリカ軍指揮の下でそれを使う」と主張していたわけです。考えてみると、自衛隊が歩んできた道は全くその通りになっていると言えます。つまり、安保条約は、実質的には「軍事同盟」としての性格を初めから強くおびていたものだったので、今やまさに安保条約が「日米軍事同盟」そのものに成りつつある、いや、実質的にはすでになっているのも当然と言わなければならないのです。しかし、この「軍事同盟」には、「植民地的性格」が色濃く備わっていることも、私たちは忘れてはなりません。
裕仁の戦争責任と退位問題
サンフランシスコ講和条約は1952年4月28日に発効し、この日に日本は、一応形の上では再び「独立」しました。それまでは新憲法の規定にもかかわらず、実質的には日本の主権者は日本国民ではなく、GHQでした。しかし、この日からは、日本国民が主権者となり、自らの意思で政治を動かすことができるようになったはずなのです。私は、この時期にこそ、国民は天皇裕仁の戦争責任を再び問題にすべきだったと考えています。裕仁の戦争責任を真剣に問うことは、実は、国民自身の戦争責任追及にも繋がってくることなのですが、これをやらなかったことは、その後の日本の「国としてのあり方」を大きく左右したと私は考えています。(この問題については、拙著「原爆と天皇制」の後半部分で少し触れておきましたので、ここでは詳しくは述べません。)
しかし、この時期、裕仁に責任をとることを迫った者が全くいなかったわけではありません。敗戦時に、裕仁から最も信頼され、彼の秘書と助言者の役割を果たしていた内大臣・木戸幸一がその一人です。木戸は、1945年12月6日にA級戦犯として逮捕され、巣鴨プリズンに投獄され、講和条約発効のときも、いまだ獄中にいました。木戸は、戦犯裁判での自分の目的は、裕仁が戦犯裁判にかけられないようにすることだという強い思いがありました。その彼も、講和条約調印から1ヶ月少々たった1951年10月17日に、当時、裕仁の側近(式部官長)松平安昌を通して、以下のような内容のメッセージを裕仁に送っています。
「今度の敗戦については何としても陛下の御責任のあることなれば、……講和条約の成立したる時、皇祖皇宗に対し、又国民に対し、責任をおとりに被遊、御退位被遊が至当なりと思う。……若し如欺せざれば、皇室丈が遂に責任をおとりにならぬことになり、何か割り切れぬ空気を残し、永久の禍根となるにあらざるやを虞れる。」(強調:田中)
木戸が問題にしているのは、裕仁の「敗戦」の責任であって「戦争責任」ではありません。にもかかわらず、皇室の先祖に対してだけではなく、国民に対して苦渋を負わせた禍根を作ったことに裕仁は一定の責任があるのであり、「退位」という形でその責任をとることを強く求めたのです。ここで思い出して欲しいのは、ポツダム宣言受諾の裕仁の詔勅の内容です。この詔勅では、裕仁は、自分の「皇室の先祖」に対する責任だけを問題にしており、国民に対して責任があるなどとは全く考えていなかったことは明らかです(このことについても、拙著「原爆と天皇制」を参照して下さい)。この身勝手さに、裕仁の最も近距離にいた木戸は、はっきりと気がついていたのでしょう。せめて「退位」という形で国民にケジメをつけないと、「永久の禍根」となると木戸は言ったのです。これは、国民の気持ちというよりは、木戸自身の気持ちを正直に述べたものであると私は考えます。
裕仁が木戸のこの助言を全く受け入れなかったことは明らかですが、それでも木戸は、裕仁が退位の思いがあったという(事実とは違う)記録だけでも「宮内庁の厳秘の書類として保存」することを勧めました。それくらい木戸の「裕仁の責任」への思いは強かったということです。果たして、そんな虚偽の記録が宮内庁に残されているかどうかは明らかでありませんが、本当に残っているなら、宮内庁はとっくに裕仁賛美の目的で発表しているはずです。
裕仁の「敗戦責任」を「講和条約」との関連で問題にしたもう一人の人物は中曽根康弘です。当時、国民民主党(その後まもなく、「改進党」に名称変更)の若手の衆議院議員であった中曽根は、1952年1月31日の衆議院予算委員会で、「戦争犠牲者たちに多大の感銘を与え、天皇制の道徳的基盤を確立」するためには、「天皇の自発的退位」が望ましいと主張しました。「その機会は最近においては、第一に新憲法制定のとき、第二に平和条約批准のとき」であったが、その二回の機会とも逃してしまったので、「最後の機会」としてほぼ3ヶ月後に迫っている講和条約発効の4月28日が最も適当ではないか、と吉田首相に迫りました。戦時中は、若手将校としてバリックパパンで「慰安所」を設置したことも含め、自分の戦争責任については全く考えてもいない中曽根が、堂々と裕仁の責任について国会で問題にすること自体が無責任ですが、この質問を受けた吉田は、憤然として、天皇退位は「国の安定を害することであります。これを希望するがごとき者は非国民だ」と中曽根を罵倒しました。原子力発電導入におおいに奮闘し、原子力発電でできる熱湯を「温泉利用」するとか、日本列島は(米国のための)不沈空母などと後年に述べた中曽根は確かに「非国民」。しかし、この天皇退位問題では、むしろ治外法権などというめちゃくちゃな条件を含む売国的、植民地的な「安保条約」に署名した吉田自身こそ「非国民」と称されるべきであったでしょう。ちなみに「ナチスに習って、国民の気がつかないうちに憲法を修正してしまえばよい」という「壊憲犯罪行為」を推薦し、少しも恥ずかしいとも思わない、吉田の出来の悪い孫、麻生太郎も、間違いなく「非国民」です。
1952年5月3日、講和発効・憲法施行5周年記念式典で、裕仁は「戦争による無数の犠牲者に対しては、あらためて深甚なる哀悼と同情の意を表します。また特にこの際、既往の推移を深く省み、相共に戒慎し、過ちをふたたびせざることを堅く心に命ずべきであると信じます」と述べました。こうして、ここでもまた、自分の責任は棚に上げたまま、「一億総懺悔」と同じように「国民の反省」を促して、「退位説に終止符」(1952年5月3日付『朝日新聞』見出し)を打ちました。
裕仁が「退位」していれば、その後の天皇制のありかた、ひいては日本そのものの歩んだ戦後社会の歴史が、わずかではあれ、今よりは少しはマシな方向に向かっていたのではないかと、私は考えています。
「逆コース化」への抵抗運動と「平和四原則」
少々話が本筋から外れました。戦後のこの時期の歴史はたいへん重要なので、いろいろな出来事をじっくり議論したいのですが、今はその時間的な余裕もないので、ごく簡単に重要な部分だけに言及することにします。
講和条約調印後、吉田内閣は保守派内部での反吉田勢力の台頭に悩まされますが、その後3年にもわたって政権を維持し続けました。吉田政権の長期維持が可能であった理由としては、社会党左派を中心とする革新派勢力が保守派全体への対抗力を強くもっていたことと(1953年4月の総選挙で社会党は138議席と大躍進)、保守勢力は、これとは対照的に、派閥間の抗争にもかかわらず、占領体制下での「民主化」を「逆コース化」するという政策面では一致していたことがあげられると思います。しかし、そんな保守内部で急速に勢力を強めてきたのが、1948年12月24日にA級戦犯不起訴となり、1952年4月28日の講和条約発効を機に公職追放を解除された岸信介です。同年11月には自由党内に、10数人と小さいながら岸派を旗揚げしています。しかし、(かなりイカガワシイ方法での)集金能力と政策立案能力を買われ、自由党内の反吉田派が離党して立ち上げた日本自由党と改進党の保守合同でも力量をみせたため、1954年11月24日に結成された日本民主党(総裁・鳩山一郎)の幹事長職につきます。
吉田政権下の1952年8月には保安庁が発足し、1954年7月には保安庁が防衛庁に、保安隊が自衛隊に衣替えしますが、「防衛力増強計画」は講和発効前から進められています。この防衛力増強と並行して、「国内治安体制の強化」と称して市民への抑圧政策が次々と導入されます。その中でも最も重要なものは、講和発効前に国会に提出され、1952年7月に公布された「破壊活動防止法(破防法)」でしょう。吉田は、「この法案に反対するものは暴力団体を教唆し、扇動するものである」と、法案に反対することすら犯罪行為であるという、めちゃくちゃな主張をしました。「暴力主義的破壊活動を行った団体」のみならず、「内乱・騒擾の扇動・教唆」を行った個人も、この法律適用の対照とされました。実際にこの法律で政府が取り締まりの対象にしようとしたのは、共産党であったことは間違いありません。
この法律は、憲法が保障する「表現の自由」や「結社の自由」を制限する危険性をおおいに孕んでおり、極めて違憲性の高いものです。戦前・戦中の悪法「治安維持法」の復活ともみなされ、そのため、全国各地で反対運動が起こり、総評などの労働団体のみならず、日本学術会議や学生、さらには、それまで政治活動にはほとんど関わってこなかった日本文芸家協会など27の文化団体、農民団体といった市民組織の幅広い参加がありました。総評を中心する労働組合は、4月初旬から6月初旬にかけて複数回の全国一斉大規模ゼネストを展開し、4月18日のストには340万人という参加者がありました。学生たちも北は北海道大学から南は鹿児島大学まで、国公私立の様々な大学で反対集会やデモを展開。しかし、メーデー事件や共産党のゲリラ活動の続発を理由に、政府と与党が法案を押し切って通してしまいました。現在の「共謀罪」をめぐる動きを彷彿とさせるような出来事でした。
ちなみに、安倍政権は、2016年3月22日の閣議で、「政府としては共産党が日本国内で暴力主義的破壊活動を行った疑いがあるものと認識して」おり、したがって、共産党は「現在においても破防法に基づく調査対象団体」であるとの閣議決定を行いました。これは、まさにナチスが反共宣伝を行い、ドイツ共産党などの抵抗勢力への弾圧をテコに権力を掌握していったことを彷彿とさせます。私は共産党員でも、どの政党のメンバーでもありませんが、この閣議決定に対し、どの野党も厳しい批判の声をあげることはなく、まともに抗議しなかったことに驚きました。「共謀罪」法が成立すれば、遅かれ早かれ、共産党は、今度は「テロ政党」と名指しされることでしょう。他の野党の政治家たちは、おそらく、自分たちの党が「テロ政党」とみなされることなど、あるはずはないと思っているに違いありません。そんな政治家たちに、私は、ニーメラー牧師の以下の言葉を忠告として送っておきます。
「ナチは最初に共産主義者をつかまえにやってきました。しかし、私は共産主義者ではなかったので、何も言いませんでした。その次にナチは、社会民主主義者をつかまえにきました。しかし私は社会民主主義者ではなかったので、なにもしませんでした。それから今度は労働組合員がやられましたが、私は労働組合員ではありませんでした。さらにはユダヤ人がやられましたが、私はユダヤ人ではないので、ほとんどなにもしませんでした。最後にナチは私をつかまえにきました。そのときには私の味方になってくれる人は誰も残っていませんでした。」(拙訳のハワード・ジン著『テロリズムと戦争』36−37頁)
破防法が成立した同じ1952年7月に、政府は、警察法を改定して警察の中央集権化をはかり、首相が治安維持上必要とみなす指示を各級公安委員会に対して発令することができるようにし、国家公安委員会が国家警察長官や警視総監を任命するにあたっても、首相が個人的な意見を述べることができるようにしました。54年6月には、さらに警察法の全面改定案を強行成立させて、自治体警察と国家警察を統合。国家公安委員会(委員長は国務大臣)が警察庁長官をはじめ警視正までの幹部警察官全員の任命権を握ることで、都道府県の公安員会の権限はいちじるしく縮小され、その存在は形式的なものにされてしまいました。つまり、一言で表現すれば、国家による警察権力の掌握と全面的支配です。
教育面でも国家統制が強化され、総評の「平和四原則」に基づいて平和教育を全面的に展開してきた日教組の教育活動を「偏向教育」と決めつけ、教育二法案を1954年1月に国会に提出。この法案の一つは「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法案」で、これによって、教員が特定政党に対する支持・反対を生徒に扇動することを処罰するものとしました。平和教育を偏向教育とみなすこと自体がまさしく「偏向」しているわけですが、現在も平和教育がまともにできない日本の状況の元凶をここに見ることができます。もう一つの法案は「教育公務員特例法の一部を改正する法律案」で、これによって公立学校教員の政治的行為を国家公務員同様に制限するというものでした。これに対し、日教組は全国で猛烈な反対運動をくりひろげ、この運動に平和問題懇談会、全国連合小学校長会、全国各地の地方教育委員会、PTAが加わりました。この反対運動を無視できなくなった与党は、社会党の抵抗を「刑罰規定削除」でなんとか押さえて、国会を通過させました。このように、現在とは全く違って、国家教育による思想統制に対する強烈な抵抗意識が、教員の間だけではなく、市民社会にも広く当時はみられました。
こうした政府の「逆コース」への抵抗運動として最も激しく展開されたのが、「平和四原則」の一つとしての運動、すなわち米軍基地反対運動でした。前述したように、安保条約ならびに行政協定によって、米軍は基地を日本のどこにでも新設できるようになったため、各地で新基地設置をめぐる紛争が続発しました。その中でも最も激しく展開された反対運動の一つは、1952年9月に、金沢市外の内灘村の海岸地域を米軍試射場として接収するという計画が発表されましたが、それに対する反対運動、いわゆる「内灘闘争」でした。この海岸砂丘地域は、小松製作所が、朝鮮戦争の特需として製造する砲弾をここで試射するために接収されることになったのです。内灘村は緊急村議会全員協議会を開き、9月21日に接収絶対反対を決議しました。ところが11月末に、村長と村議会議員の一部が、政府による補償金支払という妥協に走り、数ヶ月間の一時使用を認めてしまいました。翌年1953年5月、政府は当初の方針を変更して、内灘砂丘を無期限使用すると発表。このことが反対運動を激化させました。
それまでの基地反対運動は基本的には補償金で解決されてきましたが、この内灘闘争では、全村民が一体となった反対運動に、石川県内の社・共・総評系労組・市民と学生諸団体の支援、さらには全国各地からの支援が加わり、村民たちも現地で座込みを行うなど、基地設置そのものへの大衆的反対運動として強烈に展開されました。ところが、9月14日、内灘村は補償金増額で再び政府と妥協した後、村長が辞表を出したため、内灘闘争は一応このときに終わります。しかし、結局は米軍側が永久接収を諦めて、1957年3月末には土地が地元に返還されました。この内灘闘争は、日本における基地反対運動の出発点となっただけではなく、総評事務局長・高野稔が主唱した「地域人民闘争」(「家族ぐるみ・街ぐるみ闘争」)のモデルとなりました。この「地域人民闘争」が、1960年代後半の革新自治体を生み出す住民運動へと繋がっていきましたし、現在の沖縄の反基地運動にも繋がっていると私は考えています。
ともかくも、この内灘闘争が刺激となり、全国各地で反基地運動が展開されていきました。そうした反基地運動のもう一つ重要なケースが、「砂川闘争」です。1955年3月、米軍は爆撃機の発着のために、小牧・横田・立川・木更津・新潟の5飛行場の拡張を日本政府に要求しました。その結果、同年5月4日、砂川町長・宮崎傳左衛門に対し立川空軍基地拡張が通告されました。この拡張工事に反対して、強制測量に猛烈に抵抗した「砂川闘争」では、基地内に侵入した学生と労働者7名が行政協定実施にともなう刑事特別法によって起訴されました。しかし、東京地方裁判所での伊達秋雄裁判長による判決では、安保条約による米軍駐留そのものが違憲であり、したがって刑事特別法は無効であるため、全員無罪という判断が下されました。安保条約の違憲性を明確に指摘した、画期的な判決でした(残念ながら、最高裁への跳躍上告で、1959年12月には安保合憲、伊達判決廃棄。1962年には罰金刑が確定となりました)。
原水爆禁止運動が組織的に展開され始めたのも、実はこの時期でした。1950年3月のストックホルム・アピール(核兵器禁止・核兵器の国際管理確立・核兵器使用者は戦争犯罪人)に賛同する署名運動が、日本全国で展開されました。この運動の背景には、いまだ米軍占領下にある日本では、朝鮮戦争批判を公然と行うことができないため、反核運動を通して戦争反対というメッセージをなんとか表明したいという意識が、日本の市民の中に広く且つ強くあったと考えられます。ここにも、「平和四原則」の思想が、間接的にではあれ影響していたと私は考えています。
また、この反核運動の一環として、いまだ米軍占領下にもかかわらず、京都大学では、医・理学部学生自治会が、1951年5月の大学文化祭で「原爆展」を開催。同年7月には、同じく京都大学の全学の学生自治会である「同学会」が主催者となって、京都駅前の丸物(現在の近鉄)百貨店で「綜合原爆展」を開きました。「綜合原爆展」では、丸木位里・俊子夫妻の「原爆の図」第5部までが初公開され、10日間で3万人という入場者がありました。同年11月12日に、裕仁が近畿地方巡行の過程で京大を訪問することになったため、これに合わせて同学会は文化祭を開き、「綜合原爆展」をその中心にすると同時に、戦争責任に関する質問状を裕仁に出すことを計画。しかし、大学側によってこれが拒否されただけではなく、訪問時、裕仁に対して失礼があったという口実で、当日キャンパスにいなかった共産党系学生までを退学処分にしました。(この京大「綜合原爆展」と裕仁の京大訪問事件は、「原爆問題と天皇制」という点でひじょうに重要な出来事ですので、近い将来、詳しく私自身の分析と見解を公表するつもりです。)
周知のように、1954年3月に第五福竜丸事件が起きたことが、日本での原水爆禁止運動を一挙に高揚させますが、それには、それ以前に、京都大学のみならず、静岡大学、同志社大学、東京大学などでも「原爆展」が行われ、大学キャンパスの外でも、大阪、兵庫、滋賀、広島、群馬、鳥取などで「原爆展」資料が活用されていたという社会的背景があったことを忘れてはならないと思います。
いずれにせよ、1950年代前半、政府が急速に「逆コース」を取り始め、反民主主義的で市民抑圧的な政策を導入し始めたとき、これに抵抗した様々な市民運動を思想的に支えていたのが「平和四原則」であったというこの歴史的事実、これを私たちは明確にしておく必要があります。この「平和四原則」の歴史的背景と意義を、とくに若者たちに知ってもらい、安倍打倒のために、もう一度強力に活用する方法を考える必要がある、というのが私の考えです。
ここまで書き綴って、最初考えていた論考の長さより、はるかに長くなってしまったことに気がつきました。したがって、このあとの部分、「55年体制」から反動的岸内閣の成立、さらに安保闘争までの歴史過程と、それを踏まえた上での「ティーチ・イン運動」の具体的な提案については、改めて書くことにします。<実は、いま、ある大きな仕事を抱えているので、そちらのほうに集中しなければならないのですが、安倍政権があまりにも酷いので、どうにも我慢できなくて(苦笑)、「安倍晋三の言動に見るファシズムの要素 - 反知性主義の安倍政権打倒のためには何をしたらよいのか –」と、この論考(上)を書きました。そんなわけで、この論考の(下)を書き終えるのがいつになるかは分かりません……、8・6までにはなんとかしたいとは思いますが……>
最後に全くの余談ですが、数日前、メルボルン市内のコンサートホールで開かれたJoshua Bell (ジョシュア・ベル)+Academy of St. Martin in the Fieldのコンサートに行ってきました。まだひじょうに若いベルですが、すばらしい演奏でした。演奏した曲の一つにモーツアルトのヴァイオリン・コンチェルト NO.4 がありましたが、心に浸み込んでくるような本当に綺麗な演奏で、感動しました。天才的ですね。 ユーチューブにこれがないかと探しましたが、残念ながらありませんでした。しかし、他の曲のものがありますので、ご紹介しておきます。お楽しみください。