戦争責任とMeToo運動の関連を考える
たいへん遅くなりましたが、去る5月15日に、日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワークの主催で行っていただいた勉強会での私の発表ノートをここに掲載いたします。ご笑覧、ご批評いただければ光栄です。日本の戦争責任、また戦時や紛争時の性暴力だけではなく、性暴力問題一般について私たちが考えるとき、少しでもお役にたてばと願ってやみません。
(1)日本軍によるバンカ島占領の歴史的経緯
日本時間1941年12月8日午前2時頃に、山下奉文中将を司令官とする陸軍第25軍の先遣兵団が、シンガポール攻略を目指して、英領マレー北部のコタバルとタイ南部のシンゴラに奇襲上陸。同日午前3時25分(ハワイ時間で7日午前7時55分)に、南雲忠一中将が指揮する空母6隻を基幹とする第1航空艦隊が真珠湾を奇襲攻撃した。これに続き、日本軍はフィリッピン、香港にも侵攻。
マレー作戦では第25軍部隊が42年1月11日にクアラルンプールに侵入し、1月31日にはマレー半島南端のジョホールバルを占領。シンガポール攻略は華僑の抗日義勇軍と英連邦軍の激しい抵抗のため2月15日までかかり、占領後はここを昭南島と名付けた。シンガポール攻略戦で捕虜になった英連邦軍将兵(英軍、英植民地インド軍、豪州軍)は約8万人、その上にマレー半島戦闘で投降した5万人の合計13万人。
石油資源を有する蘭印(オランダ領東インド)攻略作戦には今村均中将を司令官とする第16軍の諸部隊があたり、12月16日から2月10日までにボルネオ島の要地を制圧。2月14日には落下傘部隊のパレンバン降下とそれに続く主力部隊の侵攻でスマトラ島を制圧し、2月20日には中立国ポルトガル領のチモール島を制圧。ボルネオ、スマトラ、チモールの三方からジャワ島を包囲する態勢でジャワ島攻略に向かった。日本軍のジャワ島上陸を阻止しようと、蘭英豪米連合艦隊が出撃したが、2月27日のスラバヤ沖海戦、さらに3月1日のバタビア沖海戦で日本軍艦隊によって壊滅させられた。第16軍は、3月1日にジャワ島に上陸。3月9日にはオランダ軍は無条件降伏し、翌日に第16軍はバンドンを占領した。ジャワ島だけでも捕虜になった連合軍(蘭印軍、豪州軍、英軍、米軍)兵の数は8万3千名ちかくいた。
緒戦でこれほど多くの連合軍捕虜が出るとは考えていなかった日本軍には、捕虜と市民抑留者のための食糧や医薬品の準備がほとんどなかった(捕虜どころか自軍の将兵のための食糧品ですら侵略地の先々での「現地調達」=略奪であった)。このことが、戦時中に多くの捕虜と連合国市民抑留者の死亡者を出したことの大きな原因の一つである。
豪軍看護師虐殺事件のあったバンカ島(面積11,910平方キロメートル)には、第38師団歩兵229連隊のうちの第1大隊(2個中隊)と船舶工兵隊が、2月15日午後1時に島の町であるムントクに上陸。駐留する敵軍がいなかったため、ほとんど戦わずして全島を占領する形となった。この歩兵229連隊は、12月半ばから開始された香港島攻略作戦に加わったが、12月25日に英連邦軍の仮設救急病院の傷病兵を虐殺し、英軍従軍看護師と中国人看護師を集団強姦、虐殺している。香港攻略の後、歩兵229連隊は仏領インドシナ(ベトナム)に移動し、翌年2月12日に、スマトラ島南部とくに油田のあるパレンバンを占領する目的のためにカムラン湾を出発しているが、上記のようにそのうちの第1大隊(大隊長:折田優大尉)がバンカ島占領のために分岐させられた。
(2)豪陸軍看護師たちのバンカ島上陸までの経緯
第2次世界大戦中に従軍した豪州軍(空軍、海軍、陸軍所属)看護師の数は約5千名(うち3千5百名近くが陸軍所属)で、中近東、地中海、英国、アジア太平洋地域、ならびに豪州国内の各地に派遣された。そのうち78名が死亡しているが、そのほとんどが敵軍攻撃あるいは捕虜として収容された結果として死亡した(うち半数近くが日本軍による残虐行為の犠牲者)。
2月8日から本格的に始まった日本軍によるシンガポール攻撃時に、シンガポール市内の病院で勤務していた豪陸軍看護師の数は128名いた。日本軍が市内に激しい攻撃を行っていた2月10日の段階でそのうちの63名に避難命令が出され、翌11日夜に貨物船エンパイアー・スター号に彼女たちは乗船して出港。23の船室しかない(冷凍)貨物船に約2,400名が乗船するという超満員の混雑状況(多くが女性・子供であったが139名の豪州逃亡兵もいた)。エンパイアー・スター号は翌朝に繰り返し日本軍戦闘機による攻撃を受け、3発の直撃弾を受け、13名が死亡し37名が重傷を負った。しかし船が傾きながらも奇跡的にバタビア(現在のジャカルタ)のタンジョン・プリオク港に到着(この段階では、ジャワ島はまだ日本軍攻略前)。ここで2日間かけて船を緊急修理した後、航海を続け西オーストラリアのパースに到着し、看護師たちも無事に帰国している。エンパイアー・スター号と同時に16隻の様々なタイプの船が避難民を乗せてシンガポールを出港しているが、沈没をまぬがれた船はエンパイアー・スター号ともう一隻の2隻のみであった。
実は、豪州政府の不手際で、退避計画が全く何もたてられていなかったのである。2月初めの段階でも、「官公庁関係雇用者や看護師を退去させることは豪州軍の士気を削ぐ」という豪州政府の考えから、シンガポールからの退去許可要請の電報が繰り返し打たれているにもかかわらず、許可を下さなかった。実は、英国政府も同じ政策を取り、自国民の退避に配慮しなかった。したがって、シンガポールが攻略されることが明らかとなった段階では、実際に退却を安全に実行するには遅すぎた。2月11〜13日の48時間の間にできるだけ多くの自国市民を退去させようと、大小様々な船舶(ほとんどが貨物船)50〜60隻が急遽シンガポール港に集められたという状態であった。同時に豪軍将兵の中でも技術者を今後の戦闘のために保存するという目的から、彼らの退去のためにもそれらの船舶の数隻を当てるということが行われた。14日までにこれらの50隻余りの船が出港したのであるが、急遽の出港であったため乗船者の名簿リストがほとんどないという状態。避難者の中には、英領マラヤやシンガポールに在留していた商業に従事する豪州民間人とその家族も大勢いた。
残り65名の豪陸軍看護師たちは、2月12日(シンガポール陥落3日前)、ヴァイナー・ブルック号(1,669トン、47名の船員、12名の客専用船室)という小型の輸送船に乗船したが、この船も傷病兵と避難する市民(ほとんどが女性と子供)約300名で超満員(227名〜330名と幾つかの異なった情報がある)であったため、乗客のほとんどが甲板のあちこちに、ところ狭ましと座り込んでいるという状態であった。この船に付けられていた救命ボートは6艘(船の両側に3艘づつで、収容能力は140名)のみ。13日の夜8時ごろに出港。日本軍の攻撃を避けるために朝方は小島の間に碇をおろし、日中はなるべく島の陰にひそんで、夜間に航行するという方法をとった。しかし、夜の闇間に敵船を探索するという日本軍艦船のサーチライトが頻繁に照らされたために、航海は思うようには進まなかった。
出港して3日目(2月14日)朝、バンカ島近くのトジョン島という小島に停泊中に、上空を日本軍の飛行機が偵察にやってきた。これを見た船長は、停泊しているよりは全速航海したほうが敵の攻撃を避けられる可能性が高いのではないかと考え、午前10時にバンカ島の方角に向けて出航。しかし、午後1時過ぎに編隊を組んだ9機の日本軍機に発見され、爆弾投下の攻撃の上に機銃掃射まで繰り返し受けて40分ほどで沈没した。6艘の救命ボートのうち4艘が爆弾と機銃掃射で使いものにならず、このためほとんどの乗客は海に放り出され、壊れた船の板切れなどにつかまって海に漂った。沈没地点はスマトラ島とそのすぐ南東に位置するバンカ島の中間地点、バンカ海峡の入口に近い場所であった。しかし海岸までは16キロから17キロ離れており波が高かったため、溺れ死ぬ者が続出し、65名いた看護師のうち12名も海岸にはたどり着かずに溺死した。その他の看護師たちは主にいくつかのグループになってバンカ島のあちこちにたどり着いた。女性乗客たちのあるグループはまる一日海を漂ったのち、日本軍の上陸用船艇にひろいあげられたが、ほとんどの乗客は自力で海岸にたどりつくよりほかなく、中には三日も四日も漂流した人たちがいた。
2月14日夜、2艘の救命ボートに乗った30数名の民間人(そのほとんどが女性と子供)のグループと一緒に22名の豪州軍看護師がバンカ島のラジーク海岸(ラジーと、二通りの呼び方がある)にたどりついた。負傷者がいたので、助けを請いに翌2月15日朝彼女たちは近くの村に出かけて行ったが、住民たちは日本軍の処罰を恐れてか援助の手を差し伸べることを拒否し、島はすでに日本軍に占拠されてしまったので投降したほうがよいと彼女たちに勧めた。
15日の晩、バンカ海峡で日本軍の攻撃を受けている船が見えたので、船から投げ出され海を漂っている人たちが海岸にたどりつけるように、彼女たちは大きな焚火を焚いた。2時間ほどのち、この沈没した船に乗っていた英国兵のうちの20数名が、焚火を目印にして救命ボートで海岸にたどりつき彼女たちに合流。これらの英国兵の中にも負傷者がおり、手当が必要であった。
ちなみに、2月11日から14日までにシンガポールを出港した50隻余りの船のほとんどが、マラッカ海峡を出てスマトラ島に沿って南下し、バンカ島を通過してジャワ島経由でオーストラリアに向かうという航路をとろうとした。しかし、そのうちの40隻ほどが日本軍の海と空の両方からの攻撃で、主にバンカ島近辺で沈没。その結果、推定4千〜5千名ほどが死亡し、多くの死体がバンカ島のあちこちの海岸にうち上げられた。バンカ島にたどりついて生き延びたのは1千人ほどであった。すでに述べたように、乗船者名簿がほとんどないため、死亡者全員の名前も死亡場所も未確認のまま。海岸にうち上げられた死体処理を日本軍は全く行わなかったため、今も多くの遺骨が海岸の砂の下に埋まっているものと考えられる(戦後、豪州軍ができるだけ遺骨の収集に当たってはいるが)。そのうえ、死体の中には、ようやく海岸にたどりついたものの、無抵抗にも関わらず、日本軍兵と行き合わせて殺害された者もいた。救命ボートに乗っていた人の中には、突然水上に浮上してきた潜水艦からの機銃攻撃で虐殺された人たちもいた。
(3)豪陸軍看護師虐殺事件と集団強姦の疑い
2月16日早朝、相談の結果、これだけ多くのけが人や子どもがおり、しかも島全体が日本軍に占領されてしまっている以上もはや逃亡することはほとんど不可能と思われることから、日本軍に投降することを決定。そこでヴァイナー・ブルック号の船員の一人が代表としてこの島の中心であるムントクの町まで歩いて行き、日本軍と連絡をとることになった。この船員がでかけてまもなく、ドラモンド看護師長の提案で、足の遅い民間人女性と子どもだけをムントクの町へ向けて先に出発させることにした。
こうしてラジーク海岸には主として英国兵と豪州軍看護師だけが残され、日本軍の到着を待った。このうち10名ほどが負傷者で担架に横たわっていたというから、看護師たちはこれらの負傷者の看護が目的で海岸に残ったものと考えられる。午前10時頃になって、代表としてムントクにでかけていった船員が、日本軍士官1人と15人の兵士とともに海岸に戻ってきた。
日本軍将兵は海岸に到着するや、男と女を別々にし、さらに担架に横たわっている者以外の男たちを2組に分けた。道案内をしてきたヴァイナー・ブルック号の船員が、自分たちは捕虜になるために投降したのであるから適正に取り扱うようにと要求したが、全く無視された。まず、一組の男たちが100メートルほど離れた、看護師たちには見えない海岸の崖の向こう側に日本兵数人によって連れていかれ、銃剣で刺し殺された。約10分後に日本兵たちは戻ってきて、もう一つのグループの男たちをやはり同じ場所に引き連れていった。今度は銃声が数発看護師たちの耳に聞こえてきた。これはこのグループのうちの2人(3人?)の男が逃亡をはかって海に飛び込んでいったため、日本兵が発砲したものであった。二組目の男たちも銃剣で殺害した日本軍将兵は、今度は看護師たちの前にやってきた。
その後の状況を、看護師の一人、ヴィヴィアン・ブルヴィンケルは戦後の豪州軍による尋問調査で以下のように述べている。
「私たちはそれまでずっと座っていましたが、立ち上がるように命令され、その次には海に向かって歩くように命令されました。私たちはしかたなく命令に従いました。私たちが腰の深さまで海に入ったときです。日本兵たちは私たちの背後から撃ち始めました。私は腰の左側を撃たれました。銃弾が貫通しましたが、そのときは私はどこを撃たれたのか分かりませんでした。いったん撃たれたらおしまいと思っていました。銃撃と波の両方の力で私は海水の中に打ち倒されました。打ち倒されたとき、海水をいやというほど飲み込んでしまいました。猛烈な吐き気をもよおして立ち上がり、まだ生きている自分に気がつきました。しかしすぐに日本兵が私が嘔吐しているのを見るかも知れないと気がつき、吐くのをなんとかがまんして横になったままでいるようにしました。どのくらい長くそうしていたか分かりません。思い切って立ち上がって見たときには、もう誰もいませんでした。同僚はみんな波に流されてしまい、日本兵も海岸には一人もいませんでした。本当に誰もいなくなり、私だけでした。私は急いで海から上がり海岸を横切ってジャングルの中にひそみ入りました。」
結局22名の看護師の中で生き残ったのはブルヴィンケルただ1人であった。担架に横たわっていた負傷者たちは、看護師たちが虐殺されたあとやはり銃剣で殺害されたが、1人だけ銃剣で傷つきながらも奇跡的に生き延びた英国兵キングスレー二等兵がいた。しかし、ブルヴィンケルはひどく動揺していたため、担架に横たわっていて殺害された男たちの死体にも、キングスレー二等兵の存在にも気がつかなかった様子である。ジャングルに隠れていた彼女は、数日後に、やはり近くのジャングルに隠れていたキングスレーと遭遇している。2人は浜辺に転がっていた水筒の水でなんとか喉の渇きを潤し、ブルヴィンケルは浜辺に残されていた救命具でベッドを作ってキングスレーを寝かし、ココナツの皮の繊維で彼が銃剣で受けた胸の深い傷口や、それ以前に砲弾の破片で受けた腕などの傷をしばった。幸にして彼女の傷はたいしたことはなく、日が経つごとによくなった。
二人は結局10日あまりジャングルに隠れていたが、いつまでも隠れていられるわけではないので、今度は殺されないことを祈って、もう一度日本軍と接触することを試みることを決めた。そしてムントクに通じる道路に出たところで日本の海軍士官と兵士が乗った車に拾われて、なんとか無事にムントクの捕虜収容所に連れていかれた。ブルヴィンケルは水筒で腰の傷口を隠し、キングスレーは浜辺に転がっていた同僚の死体から剥ぎ取ったシャツを着て傷を隠し、彼らが虐殺の生き残りであることが分からないように気をつけた。しかし、キングスレーはまもなく収容所内で死亡。ブルヴィンケルは、バンカ島のあちこちの海岸にたどり着きこの収容所に入れられていた31名の同僚看護師たちと合流し、21名が虐殺されたことを密かに告げ、この事件に関しては極力他言しないことを決めたのであった。(この段階で、豪軍看護師の数は65名から32名にまで減っている。)
私はこのバンカ島における豪州軍看護師虐殺事件の分析を、豪州戦争博物館や豪州国立公文書館所蔵の公文書を使って、1993年に出版した『知られざる戦争犯罪:日本軍はオーストラリア人に何をしたか』で試みたとき、以下のように「集団強姦」が行われた可能性が高いことを記しておいた。
「もう一つの可能な解釈は、日本兵たちは、男たちを刺殺したあとで看護婦たちを強姦したのちに殺害したのであり、最初から強姦の目的をもって男女を別々のグループに分けたとも考えられる。ブルヴィンケルは戦後の取り調べで、同僚の看護婦たちの名誉を傷つけないようにという配慮から真実を述べなかった、と想定するのは独断的な考えすぎであろうか。この事件に関して戦後行われたさまざまな調査資料を検討してみると、この可能性がのこることがわかる。」(172〜3頁)
すでに述べたように、バンカ島に侵攻したのは歩兵229連隊第1大隊(大隊長:折田優大尉)であったので、虐殺を犯した将兵たちは第1大隊の兵員であったことは間違いない。戦後の戦犯調査で、豪州軍は折田部隊を戦犯容疑で追っていたし、英軍側も香港における傷病兵殺害と看護師輪姦・虐殺事件が折田部隊によって行われたことをつきとめて、折田優の居場所を探索していた。折田はシベリアに抑留されていることがわかり、1948年6月にソ連から日本に送還されたが、ただちに東京の豪州陸軍代表部によって逮捕されてスガモ・プリズンに留置された。しかし、9月13日、本格的な取り調べが行われないうちに、彼はひそかに入手した窓ガラス修理用の道具で首の血管を切り自死してしまった。また、豪州軍の調査によれば、229連隊はガダルカナルで全滅してしまっており、証言者もいなかった。そのため犯行者が特定できず、立件が不可能であった。(ちなみに、折田部隊は岐阜県美濃市の出身者で組織されていた。)
(4)豪州陸軍看護師集団強姦事件の事実暴露
2019年4月にオーストラリアのリネッテ・シルバーという女性歴史家がAngels of Mercy: Far West and Far East (慈悲の天使たち:西の果てから東の果てまで)という題名の、第2次大戦中の豪州軍看護師に関する著書を出版した。(シルバーは膨大な情報を様々なところから集めてこの本を書いているが、アマチュアの歴史家であるためか、取り扱う話題が次々と変わるし、脚注は全くつけずに、情報源についても本文中でランダムに言及したり全く明らかにしない場合もあるため、ひじょうに読みづらい。出版社が文章を全く編集していないような印象を受ける。しかし、公文書館では入手できない多種多様の情報も使っており、その中には噂話も入っているため注意して読むならば、たいへん役に立つ。)
この著書の中でシルバーは、私(田中)が看護師たちが強姦された可能性を1993年にオーストラリアの学会発表で示唆し、その後1996年に英語の著書Hidden Horrorsでも同じ主張をしたのが公的な示唆として最初のものであると述べているが、なんら確証となるような資料を使っていないことを暗に批判している。そして、実際にはそれを証明するような資料があるのだと述べて紹介している。しかし、それらの資料は私が調査した1990年代初期の時点では未だ公開されていない資料であったように思える。しかも、それらの資料も確実に「集団強姦」があったことを裏づけるものではなく、いわゆる「状況証拠」と呼ぶべきものであるが、確かに集団強姦が犯されたことの高い可能性を示唆する証言であることは間違いない。
例えば、虐殺事件が起きてからかなり時間が経ってからラジーク海岸にたどりついたストーカー・ロイドという英国人男性が、自分が目撃した状況を戦後になって報告したものがある。そこには「恐ろしいことに、多くの男たちの死体がいくつも重ねて積み上げられていた。そして、そこからもう少し海岸沿いに歩いて行ったら、こんどは豪州看護師たちの死体を目にした。それらの死体は数メートルおきにあり、それぞれ異なったポーズで横たわっており、服がいろいろな程度に脱がされていた。身体は銃で撃たれて銃剣で刺されていた。おぞましい状況だった。」しかし、この報告がどこに出され、現在どこにあるのかの情報の詳細を彼女は全く提供していない。
つい最近、私は、この証言はジョン・スマイス(戦時中は第17インド歩兵師団司令官)という人が1986年に出版した本 The Will to Live(生きる意欲)中で引用しているものであることを知った。この本によると、この証言を書いたロイドは、先ほど述べたラジーク海岸で虐殺された英国兵士のグループの中で海に飛び込んで逃げた3人のうちの一人で、彼だけが殺されずに泳ぎ逃げ切り、数日の間岩壁の下の岩陰に隠れていた。しかし、彼もいつまでもこうしていられないので、思い切ってムントクの街まで歩き、日本軍に投降した。英国兵士たちと豪軍看護師の死体を見たのは、したがって数日後のことだった。収容所の中でブルヴィンケルに会い、自分たちが虐殺の生き残りであることは話さないようにしようと確認しあっている。しかし、彼は看護師たちが強姦されているところを直接目撃はしていない。彼は戦後まで生き残った。
他にも、戦後間もなく豪州軍戦犯調査部の調査員が東京で調査中に書き残したこの事件に関するメモがあり、その調査員が亡くなった後その親族の手元にあったメモをシルバーは借りて、そのメモ内容から同じように看護師たちが強姦された可能性があることを示唆している。しかしそのメモも、強姦・虐殺の現場を見ていない一日本兵の証言という状況証拠でしかないし、証言内容に疑問が残る点もある。
大変興味深いことには、それらの調査資料とは別に、事件当時ブルヴィンケルが着ていた制服に残っている銃弾でできた穴の位置からも、ブルビンケルが強姦された可能性が高いことをシルバーは指摘している。その制服は、現在、豪州戦争博物館に展示されているが、弾丸貫通でできた穴は、制服の表側、すなわち腹部の真中よりやや左側にある。ブルヴィンケルの証言では、弾丸は彼女の背後から腰の左端をかするような形で通過している。それなのに、なぜ制服の腹部中心部に近いところに穴ができているのか。もし腹部を貫通していたとするなら、制服の裏側(背中側)にも穴がなければならないはずであるし、ブルビンケルはそのとき死亡しているはずである。晩年のブルヴィンケルを介護していた女性にシルバーは問い合わせて、弾痕は彼女の腹部ではなく確かに腰の左端にあったことまで確かめている。
ここから推定できることは、制服が日本軍兵士によって強引に引き開けられ、ベルトがはずされボタンがちぎれとられた結果、前面部分が大きく開かれたため、制服の腹部の部分が腰あたりにまで下げられた状態になっていたものと思われる。強姦された後、制服の乱れを直す時間もないまま海に向かって歩くように命令され、背後から銃撃されたと考えられるのである。しかも、現在展示されている制服の一番下にあるはずの2つのボタンがなくなっているのも不思議である。
しかし、最も決定的な証拠は、2,000年に亡くなったブルヴィンケルが晩年に、親しくしていた放送記者であるテス・ローレンスという女性に語った内容が、虐殺事件75周年目に当たる2017年に初めて明らかにされたことである。ローレンスは以下のように述べている。
「彼女(ブルヴィンケル)はそれまで秘密にしてきたことに精神的にひじょうに苦しめられていたのであり、その秘密を硬く守ることで彼女の正義感がいたく傷つけられていたのです。
その秘密とは、一つは、“私たち” - つまり彼女自身と銃殺された女性たち – が日本軍兵によってその前に“犯された”という事実が間違って長く秘密にされてきたということだと、彼女は明言しました。
二つ目の秘密は、その“犯された”ことと関連して、彼女をさらにうんざりさせてきたことです。それは、精神的にも感情的にも深い苦痛と苦悩を彼女に与えたのです。その秘密とは、(豪州)政府によって強姦については何も言ってはならないと命令されたことでした。彼女は戦犯裁判の法廷の場で証言したかったのですが、豪州政府の命令でそれが許されなかったのです。」
戦後オーストラリアに戻ったブルヴィンケルは、豪州陸軍戦犯調査部で尋問を受けているが、そのとき尋問調書を作成した士官たちから強姦については決して公言しないように命令され、尋問調書にも虐殺については彼女の証言が詳しく記載されたが、強姦については一切言及されていない。1946年には東京裁判にも出廷し、バンカ島虐殺事件に関する証人喚問を受けたが、したがってここでも、強姦問題には全く触れていない。
(5)事実暴露に対する遺族と豪州国立戦争博物館の反応のギャップ
上述のシルバーの著書が出されたことから、看護師たちが強姦された事実がメディアで大きく報道されたため、遺族にとっては大きなショックであった。しかし、遺族の中には「知らないほうがよかった」と思う一方で、事実が明らかにされた今は、その事実を豪州政府がはっきりと認め謝罪し、その事実を戦争博物館の関連展示でも言及すべきであると要求している人たちもいる(例:2021年4月26日キャンベラ・タイムズ紙掲載記事<当ブログの2021年5月5日の掲載記事を参照されたし>)。ところが、戦争博物館は、「確たる証拠がないので、証拠が揃うまでは展示を変更することはできない」という態度をとり続けている。
なぜ、政府=戦争博物館は歴史事実の認定に対して否定的なのであろうか。「犠牲者の名誉を守るため」など、いくつもの理由が考えられるが、私には隠された理由があるように思える。それは、「従軍看護師は、前線で闘い負傷する男たちを大切に看護する、あくまでも国家に忠誠な、純粋潔白で汚れのない若い女性たちである」というイメージ=神話がこれまで強固に打ち立てられ、維持されてきた。したがって、その「美しい神話」を崩すような、「強姦の犠牲者」という「汚れた歴史的事実」には目を塞ぐことが必要であり、賢明な政策であると政治家や戦争博物館のお偉方は(館長は歴代、男の政治家、官僚、元軍人などである)は考えているのではなかろうか。
男一般にとって、自分たちの国家/民族集団に属する女性の身体が外国人によって「侵略」されることは、母国が侵略され略奪されることの象徴であり、許しがたいことと考えられている。性的搾取は、攻撃された側、あるいは従属させられた側の民族の精神に大きな打撃を与える。とくに攻撃された、あるいは征服され従属させられた国家/民族の男性は、精神的に男としての誇りを挫かれ、敵の男性に女性視(=男として蔑視)され、支配される。それを避けるためには、敵軍の性暴力による女性被害者は嘘でも存在してはならず、女性被害者は「無垢の処女」でなければならない(詳細は拙著「国家と戦時性暴力と男性性:『慰安婦制度』を手がかりに」111〜113頁を参照してください:
https://drive.google.com/file/d/0BwratLkIHAllVUJVTDgyNm9saVE/view?usp=sharing )
豪州国立戦争博物館の反応も、根本的にはこのような「男の愛国心」に根をおいているものではなかろうか。つまり、「愛国心」は性暴力 − 他国の女性の性の支配ならびに自国の女性の外国人による性被害の隠蔽 − と密接に絡んでいると考えられる。植民地化が必ずと言ってよいほど植民地化された民族の女性の性の搾取と並行して進むのも、このことと密接に関連している。
同じ例は日本にもある。敗戦直前、満州でロシア軍の性暴力の被害者となった日本人女性たちは、つい最近まで名乗り出ることは困難であったし(名乗り出たお一人は、岐阜県黒川開拓団の佐藤ハルエさん)、男たちは知っていても沈黙していた。「慰安婦」問題でも、1991年金学順さんが名乗り出るまでは、韓国の男性たちはほとんど沈黙状態であった。1992年、韓国在留米軍兵による売春婦殺害を非難するにあたって、韓国のメディアは被害者を「処女の被害者」と報道していることもその一例であろう。
(6)抑留所における看護師たち対するセクハラと性暴力
バンカ島ムントクの街中に設置された抑留所に、バンカ島に泳ぎ着いた他の一般市民女性・子供と一緒に入れられた32名の豪州軍看護師たちは、これ以降、1945年8月末までの3年半ほどの長い期間を抑留所で暮らすことになった。配給される食糧は極めて少ない上に、基本的に米と少々の野菜だけであり、食事は正午と午後4時の2回だけ、医薬品の提供もほとんどなく、竹とニッパ椰子の葉で作られた抑留所内の衛生環境は極悪であったため、栄養失調による様々な疾病の上に、マラリアなどの熱帯病に冒された。
しかも彼女たちは、最初はムントクの抑留所に1ヶ月ほど留められ、1942年3月半ばに、そこからスマトラ島南部のパレンバンに移され、そこには1944年9月までの約2年半抑留された。しかし再びムントクに移されて、そこに1945年3月までの期間を過ごすことを強いられた。その後さらに移動させられ、今度はスマトラ島南部の遠く離れたルブック・リンガウという山間部のベララウ収容所に終戦まで留められていた。2回目のムントク抑留所暮らしで4名の看護師が、最後のベララウ収容所でさらに4名が病気で亡くなったため、結局、終戦まで生き延びたのは24名であった。
戦後間もなくオーストラリアに帰国し病院に収容された看護婦の一人
抑留所生活での様々な問題の中で彼女たちを苦しめたのは、日本軍将兵によるセクハラ、性暴力問題であった。竹とニッパ椰子の葉で作られた建物の上に、しかも熱帯地であったためプライバシーを保つのが難しく、常に警備兵たちの目に晒されての生活を余儀なくされた。用をたしている最中に突然日本兵がトイレの前に現れて女性をジロジロ眺める。身体を洗う場合には、警備兵が見えないように、数人の女性が取り囲む。夜間の暗闇を利用して彼女たちの建物内にセクハラや強姦目的で入り込んでくる警備兵がいたため、夜間は交代で数人が目を覚まして注意する、というようなことまでしなくてはならなかった、等々。
ちなみに、グレン・クローズ、フランシス・マクドーマン、ケイト・ブランシェットなど世界のトップスターが出演した1997年の映画『パラダイス・ロード』は、この抑留所に入れられていた女性たちの生活を史実に基づいて描いた作品であるが、日本軍のこうしたセクハラ行為や虐待行為を赤裸々に再現している。
パレンバン収容所に移されてまもなく、彼女たちは日本軍将校から「将校クラブ(=慰安所)」で「性的奉仕」を行うよう、すなわち「慰安婦」になるよう強要される。しかし、戦後の看護師たちの尋問調書での証言によれば、執拗な日本軍将校の脅迫的な要求にもかかわらず、拒否しつつづけたことになっている。
1993年の拙著『知られざる戦争犯罪』(174〜180頁)では、私は彼女たちの証言に疑問を感じながらも、この件に関しては他の情報資料がなかったため、基本的に彼女たちの証言をそのまま受け入れて、彼女たちの中に「慰安婦」にさせられた者はいなかったと記した。
ところが、2012年に出版されたIan Shaw, On Radji Beach: The Story of the Australian Nurses after the Fall of Singapore (ラジー海岸:シンガポール陥落後の豪州軍看護師たちの物語)によると、4人の比較的歳上の看護師たちが、若い看護師たちを守るために「慰安婦」になることを承諾したとのこと。この著書によると、1990年代半ば、生存しておられた元看護師の1人が末期の乳癌で余命少ないことが分かったそうだ。彼女の名前も住んでいる場所も本では伏せられている。この元看護師に、当時ある女性の大学院生が論文執筆のためにインタヴューを繰り返し行っていたが、ある日、その元看護師は大学院生に、生きている間に真実を述べておきたいと、「将校クラブ」で起きた事実を述べたとのこと。
その話によると、「将校クラブ」の開設日の夜に出席させられた豪州軍看護師たちがあくまでも要求を拒否したことに対し、抑留所の所長が怒って、翌日、2人の年長者の看護師を呼びつけ、次のように述べて脅迫したとのこと。「昨晩の豪州看護婦の態度は、日本軍と天皇陛下に対する侮辱であり、我慢ならない。4人の看護師を将校クラブに出さないなら、食糧配給を止める。」 これに対し、2人の看護師は赤十字社に訴えると返答した。所長のほうは、「遠く離れた赤十字社に何ができるか。日本帝国陸軍と比べ、赤十字社になにほどの力があるというのか。慰安婦を出すか、餓死するか、どちらかだ」と再び彼女たちを脅迫。その後、この要求について看護師たち全員で長く議論した結果、生き延びるためには受け入れざるをえないということになり、若い看護師を守ために年長者の4人が犠牲になると決められた。しかし、このことは全体に秘密であり、4人の名前も将来決して誰にも明かさないことを全員が約束するということになったそうである。しかし、では4人の看護師たちがどのくらいの期間「慰安婦」として日本軍将校たちに「奉仕」したのかについては何も言及がない。
この件に関しては、「慰安婦になった」と告白したうもう一人の看護師の証言が実は残っており、彼女によると、抑留所の所長は「慰安婦になることを承諾しないなら、承諾するまで、同じ抑留所に入れられているオランダ人の子供を毎日一人づつ殺す」とまで脅かしたとのことである。
末期癌の元看護師は、同時に、抑留されている民間人女性の中には、食糧やわが身・わが子の安全と引き替えに日本軍将校に「協力する」者もおり、彼女たちは将校の「ガールフレンド」と呼ばれていたと証言しているとのこと。
(日本軍によるインドネシアにおけるオランダ人女性の強姦・慰安婦強制のケースは他にも数多くある。ジャワ島のジェポック、タラカン、メナド、バンドン、パダン、フローレス、セマランなどでのケースについては東京裁判でも証言が出されている。セマラン近くのブローラでは20人ほど<中には母と娘の両方>の女性が強姦された上で2軒の“慰安所”に閉じ込められたが、つい最近、これらの女性はオランダ人ではなく、オランダ人と結婚していたドイツ人であったことが判明している。)
(7)戦時性暴力はなぜゆえに頻繁に起きるのか。戦時性暴力と現在の性暴力、セクハラとはどのように関連しているのか ― MeToo運動との関連で。
<この問いに関する私の考えについて、詳しくは、上述の拙論「国家と戦時性暴力と男性性:『慰安婦制度』を手がかりに」(宮地尚子編『性的支配と歴史:植民地主義から民族浄化まで』第2章を参照してください。>
性奴隷、売春、強姦の根本的共通性と、性暴力による「支配」問題:
性奴隷においては女性の性が物財化され女性の個人としての人間性が剥奪=非人格化されている。しかし、この性の物財化と個人の非人格化は「性奴隷=慰安婦」だけにみられる特徴ではなく、あらゆる形態における強姦、さらには通常の商業売春にさえ共通にみられる根本的な特徴である。売春婦であるということは、彼女(あるいは稀に彼)の身体と性が対象化され物財化され、非人格化されていることを意味している。買われた時間内において、その身体全体が客の所有物となり、彼女の人格的自律性が剥奪される。売春婦は客に買われている間は、客であるその男性に物理的に全面支配され従属しているだけではなく、人格的にも支配され従属している。したがって、この意味において、売春婦と(性奴隷を含む)奴隷との間には根本的な共通性がみられる。強姦においても、女性の人間性が暴力的に剥奪され、女性の性が欲望の吐口の単なる手段として物財化され、男に支配されるという意味で、これまた性奴隷と売春と根本的には共通している。
しかし、強姦は単に男性が暴力的に自己の性欲の発散を行うという行為ではない。女性を強姦することにより、男性は「他者に対する支配力」を自己確認する。戦時においては、兵隊には常に他者(敵)への支配力を維持・強化することが要求される。「輪姦」は複数の男性が互いにその支配力を誇示しあう集団行動である。よって、戦争においては輪姦が頻繁に行われる。したがって、「商業売春」利用で軍性暴力は防止できない。畢竟、戦争の本質は「他者に対する支配力の獲得と顕示欲」という強姦の要素と本源的には同一のもの。平和時には、そうした「男の本質」が市民法と社会的秩序によってある程度抑止されている。
しかし、平時においても、家庭内暴力がその典型であるように、性暴力が男の支配力確認の手段としてしばしば使われる。多くの男たち、とりわけ「支配欲」の強い政治家や官僚たちがセクハラや強姦を犯すのは、すなわち、強姦=性暴力と支配力の自己確認と本質的に同質のものであるからである。
したがって、性的搾取を人間支配の手段とすることを防止し、パートナーと性の喜びを真に分かち合い、愛し合うことで、家庭内で真に平等な立場で生活を続けていくことができるような社会制度の構築が、男女のみならずあらゆる人間の平等社会構築の重要な基本の一つであろう。そのためには、「性」の物財化、「性」の支配化、「LGBT性的差別」を今も持続させている封建的家父長制イデオロギーと慣習制度を徹底的に破壊し、私たちの性認識そのものを改革し、それを通して社会変革を進めて行く必要があると私は思う。
戦時性暴力とMeToo 運動の関係
MeToo運動は2006年、米国のアフリカ系女性タラーナ・バークによって始められたと言われている。この運動の世界各地への広がりで、性暴力の被害者が公の場で声をあげることができるようになってきたことは、「男文化=家父長制的文化」にいわば風穴をあける一種の文化革命であると私は評価している。
しかし、「日本軍性奴隷」問題では、その15年も前の1991年に金学順さんが名乗り出たことによって、韓国だけではなく、中国、フィリッピン、インドネシア、オランダなどの被害者女性が次々に名乗りを上げた。これはまさにMeToo運動だったのである。
私が親しくさせていただいたジャン・ラフ・オハーンさんも金学順さんが名乗り出たことに勇気づけられて、自分も被害者であることを名乗り出た。その彼女を、娘さんたちをはじめ家族全員がしっかりと支えた。次々と名乗り出た各国の被害者を支える運動を、松井やよりをはじめ多くの人たちが強力に、粘り強く推し進めてきた。MeToo運動は、被害者を支える多くの人たちがいるからこそ被害者が名乗り出ることができる。そのことを「日本軍性奴隷制」被害者の支援運動は、先取りする形で明示してきた。同時に、その運動は、女性たちだけではなく(女性と比較すれば数は少ないが)男性の考えや態度をも変革してきた。その意味では、その運動は社会文化変革運動の様相も呈している。
哀しいかな、バンカ島強姦虐殺事件の被害者ヴィヴィアン・ブルヴィンケルには、彼女が名乗り出ることを全面的に支える人たちがいなかった。そのことが、遺族と豪州戦争博物館の間の葛藤をいま産み出していることにつながっている。この問題がいまオーストラリアで盛んに議論されるようになったことと、最近のオーストラリアにおける司法界、政界などでの多数の性暴力事件をめぐってのMeToo運動の急激な高揚とは密接に関連している。
MeToo運動としての「日本軍性奴隷制」被害者の支援運動は、社会文化変革運動の様相を呈しているからこそ、男が支配する文化、とりわけ政治文化への挑戦として日本では危険視されてきたし、いまも多くの政治家たちから敵視されている。「慰安婦バッシング」は、主として、批難にさらされている自分たちの男文化の維持に危機感を感じている日本の男たちの、切羽詰まった反応の一つだと私は見なしている。
被害女性の生存者数がひじょうに少なくなってきた現在、今後もこの運動を継続していくには、生存者がゼロになっても、数多くの女性を被害者にした日本政府の責任追及を新しいMeToo運動の形で展開していく必要があるだろう。
その新しいMeToo運動の形がどんなものであれ、MeToo運動は男が支配している現在の文化(政治、司法、学術、宗教など)全体を根本的に解体し、形式上ではなく文字通りの意味における性平等を確立・保障するまったく新しい文化を構築することが絶対に必要な条件である。これを達成することはひじょうに難しいが、そのため第一歩は、男たちと、これから成長し性意識を持つようになる子供たちの思考様式を変革する教育ではなかろうか。
MeToo運動としての「日本軍性奴隷制」被害者の支援運動は、アジア太平洋地域のみならず欧米各国の多くの女性人権問題関連組織ともつながり、活発な活動を行ってきた。したがって、こうして作り上げてきたグローバルなネットワークを今後も活用して、広い意味でのMeToo運動、戦時性暴力はもとより、いかなる性暴力にも反対し、防止し、被害者を強力に支援する運動へとつなげていくという展望をもってすすめていくべきであろう。
(8)戦争責任をとることの意味とメリット
「責任」を感じるか感じないかは、「罪」をどう意識するかによるが、罪意識を動的(積極的)に処理する方法が重要である。
動的処理方法とは、自己の罪意識を基盤に自己の主体性を回復する方法
自己(または自分たち)が犯した「罪の明確な自覚」と、その自覚に基づいて、自己の「負の遺産=経験」を将来に向けて積極的に活かす「倫理的想像力の積極的活用」(例:軍性暴力という負の歴史を、現在と将来の性暴力防止のために活用する。それにはMeToo運動も含まれる。さらには、「倫理的想像力」には、犠牲者の痛みを想像し、その痛みを自分の痛みとして内面化することで、痛みを犠牲者と共有することも含まれる。)
「罪の自覚」と「倫理的想像力の活用」のその両方の相互連関作用を絶え間なく続ける ⇒ 過去ならびに現在の自己自身のあり方と自己を取り巻く世界状況(普遍的問題)に対する「不満」や「怒り」を源泉とする「自己活性化」へのエネルギーを産み出す ⇒ 責任ある行動への自覚を呼び起こす ⇒ 自己の主体性を回復させるだけではなく、他者との社会関係も回復。
こうした「罪の明確な自覚」と「倫理的想像力の積極的活用」の相互連関作用にその活動の根本的な基礎を置く運動でなければ、自己の主体性を回復させ、犠牲者との社会関係を真に構築しなおすことはできない。こうした動的処理方法は、個人レベルだけではなく国民国家のレベルにも見られる(例:日本とドイツの対照的な違い)。こうした観点から「日本軍性奴隷問題」を見つめなおしてみると、認識と活用の仕方によっては、自己の主体性回復と他者(韓国人、中国人その他のアジア諸国ならびに欧米諸国の人々)との社会関係を回復させる大きな可能性を秘めている問題であることが分かる。
自己の責任を自覚することは、他者が自分に対して負う責任の認識をも高める。自己が他者に対して負う責任(例:日本軍が犯した戦争犯罪責任)の自覚と他者が自分に対して負う責任(例:アメリカの焼夷弾爆撃や原爆攻撃による無差別大量虐殺責任)とは表裏一体になっており、密接に関連している問題。したがって、日本軍が犯した戦争犯罪に対する責任問題の誤摩化しは、焼夷弾・原爆無差別殺戮の米国の責任問題の誤摩化しにも繋がる。
戦後、日本は、自国の責任も他国の責任もうやむやにし続けているため、いつまでたっても自己の主体性を回復できないでいる。<これは天皇制・天皇制イデオロギーと深く関連しているが、この問題については拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』(三一書房、2019年)を参照してください>。