2026年9月26日土曜日

「イスラエル政府のガザ攻撃はジェノサイド」

― どこまで本気なのか、英国外務大臣エド・ミリバンドのイスラエル政府批判?

 

田中利幸

 

  9月8日、英国外務大臣エド・ミリバンドは英国議会下院で20分ほどの短い演説を行い、2023年10月以来3年近く続いているイスラエル軍によるガザ無差別攻撃がジェノサイドであることを、英国政府としてようやく初めて認めるような意向を述べた。この演説のほぼ全部を下記のyoutube で観ることができる。

https://www.youtube.com/watch?v=5RQUqvI-6N8

 

    労働党のほとんどの議員が賛同したのは当然だが、野党である保守党の中にも外相の決断を高く評価する意見を述べた少数の議員がいた。またメディアも大部分が「率直で明確な発言」であり、「数十年来における英イスラエル関係の重大な転換点だ」などと積極的に評価した。中東和平を研究するシンクタンクであるU.S./Middle East Projectの専門家も、「英国側としては、これまでの中途半端な措置を脱し、確実に新しい領域へ踏み出した」と高く評価した。

 

I 英国によるイスラエルの「ガザ・ジェノサイド」批判の実態

 

   果たして、演説の内容はそれほど画期的なものだったのであろうか。まずは「ジェノサイド」に関する彼の発言部分から検討してみよう。

 

英国外相 エド・ミリバンド


ミリバンドいわく:

「ジェノサイドの問題に関しては、英国は常に、政府自体が結論を出す前に、管轄権を有する裁判所による最終的な判断が下されるよう、申し立てを検討するための完全かつ堅固で公正な司法手続きを支持してきました。それが、1948年のジェノサイド条約以来、ルワンダ、シレジア、カンボジア、そしてヤジディ族に対する行為など、すべてのジェノサイド事例において一貫して維持されてきた英国の姿勢です。今後も我々はこの方針を維持していきます。それが正しいやり方です。この(イスラエル軍によるガザ攻撃の)問題は国際司法裁判所(ICJ)に提訴されており、我々は同裁判所が判断を下すことを支持していることを明確にしておきたいと思います。ガザで起きたことに対する責任の追及も重要ですが、さらに緊急を要するのは、現在進行中の危機に対処するための行動です。なぜなら、今日この瞬間もガザでは死と苦しみが続いているからです。ほぼ1年前、停戦が宣言されました。それにもかかわらず、それ以来200人以上のパレスチナ人が殺害されており、ガザの人々は、残念ながら、イスラエル政府の決定によって引き起こされた、完全に回避可能であったはずの人道上の大惨事を経験しています。そこで、ガザの人々を支援するため、可能な限りあらゆる人道支援を提供できるよう、引き続き全力を尽くすことを誓います。」(強調:田中)

 

   演説の中でミリバンドが「ジェノサイド」問題に言及しているのは、上記の1カ所だけであるが、注意して聴いてみると、イスラエル軍のガザ住民に対する無差別大量殺戮が「ジェノサイド」であると明快には、どこにも述べていないことが分かる。彼は、1948年のジェノサイド条約以来の過去のジェノサイドについては、英国は公正な司法手続きで裁かれることを支持してきた、とだけ述べているのである。ガザでの無差別大量殺戮が「ジェノサイド」であるかどうかの判断については、国際司法裁判所(ICJ)が下すことであるから、我々はICJが「判断を下すことを支持している」と述べているだけである。私が冒頭で「ジェノサイドであることを、英国政府としてようやく初めて認めるような意向を述べた」と書いた理由は、ミリバンドのこのひじょうに歯切れの悪い発言内容からである。

 

  しかし、一方、この演説の後半でミリバンドはガザの状況を以下のようにも述べて、イスラエルの軍事行動が「国際人道法」違反であることを認める意味の発言を行っている。

 

「7万人以上が殺害されました。そのうち少なくとも2万人は子どもです。2万人の子どもたちです。住民の大多数は現在、避難を余儀なくされています。200万人近くの人々が、領土のわずか3分の1の地域に閉じ込められています。命を救う人道支援やそのアクセスは、日常的に遮断されています。病院や診療所は破壊されました。住宅の60%以上が廃墟と化しています。国際人道法は、戦争を行う国家に対して明確な規則を課しています。これには、食糧や医療物資へのアクセスを確保すること、民間人の大規模な避難を回避すること、そして民間人を標的としないことが含まれます。」

 

  ところが、重要なことには、この演説の中では、国際刑事裁判所(ICC)がベンヤミン・ネタニヤフ首相とヨアフ・ギャラント前国防相に対して「人道に対する罪」と「戦争犯罪」の容疑で2024年11月21日に逮捕状を発行したという厳然たる事実については、一言も言及されていないということである。具体的にはICCは、この二人は、パレスチナ自治区ガザ地区で、戦争手段として飢餓という戦争犯罪に対する刑事責任を負うと信じるに足る合理的な根拠があると判断し、さらには、食料や水、電気、燃料、特定の医療物資の不足がガザで民間人の一部の破壊をもたらす生活条件を作り出し、その結果、子どもを含む民間人の死亡をもたらしたと信じるに足る合理的な根拠があると判断した。ICCはこの二人の罪を「ジェノサイド」とは判断してはいないが、定義的には異なる「人道に対する罪」と「戦争犯罪」も極めて重大な国際的犯罪である。

 

  かくして、ミリバンドは、ジェノサイドの責任を負うイスラエルの政府高官や兵士を英国が起訴する方針や声明は一切示さず、国際刑事裁判所(ICC)から指名手配されているネタニヤフとギャラントを逮捕するという明確な公約も示していない。これは、ウクライナ紛争に対する英国の対応とは著しい対照をなしている。ウクライナ紛争では、英国のメトロポリタン警察でさえ、戦争犯罪の証拠を収集しようと捜査官をウクライナにまで派遣しているのである。この違い ― 二重規範(ダブル・スタンダード)― はどこから来るのか?詳しく説明するまでもないであろう。

 

  ちなみみ、ジェノサイド条約第1条に基づき、各国政府はジェノサイドを防止しする義務を負っており、「集団成員」の絶滅が起きて手遅れになった後に単に批難するだけでは不十分なのである。国際司法裁判所(ICJ)は、この義務は、政府がジェノサイドの深刻なリスクが存在することを知った、あるいは知るべきであった時点から生じることを明確にしている。それは、裁判所が最終判決を下し、手遅れになってしまった数年後になってから始まるものではない。2024年1月、ICJは、すべての政府に対しジェノサイドのリスクを警告する暫定措置を発令し、その命令の中でイスラエルに対し、あらゆるジェノサイド行為を停止するよう命じた。つまり、裁判所は、最終的な法的結論に達していないにもかかわらず、こうした事態が実際に起きていることを警告し、指摘していたのである。

 

  くだいて言えば、「7万人以上が殺害されました。そのうち少なくとも2万人は子どもです。2万人の子どもたちです。住民の大多数は現在、避難を余儀なくされています。200万人近くの人々が、領土のわずか3分の1の地域に閉じ込められています」とミリバンドは述べておきながら、では一体全体この3年の間、英国は何をしていたのか。実際には、英国はジェノサイド防止に努力するどころか、イスラエル軍に対し、ガザ攻撃にあたりキプロス島のアクロティリにある英国空軍基地の使用を許可するとともに、イスラエルとの間で安全保障(=軍事)情報の共有を行ってきたのである。この「都合の悪い事実」についてもミリバンドは、演説の中で全く触れていない。

 

II イスラエルに対する英国の制裁措置の実態

 

  しかし、ガザでの停戦発行が行われてからほぼ1年経つ今も、毎日のようにパレスチナ住民が殺されている現状をミリバンドは認め、これに対処する政策として次のように述べている。

 

「また、武器販売の問題についても触れておきたいと思います。我々はすでに、ガザ地区でイスラエル国防軍(IDF)が使用する30件以上の武器輸出許可を一時停止しています。この一時停止措置は現在も完全に有効です。今後は、占領に実質的に寄与する武器やその他の輸出に関するすべての許可申請についても、これを拒否していく方針です。」

 

  しかし、英国からイスラエルへのこの「武器輸出許可の一時停止」措置には、包括的な武器禁輸が含まれていないことを、ミリバンドは演説の中で明らかにしていない。英国は依然として、世界的規模でのF-35プログラム(米国主導の共同開発と多国間運用の戦闘機計画)を通じてイスラエルに部品を供給しており、それらの部品の中にはイスラエルの軍事用エレクトロニクス会社Elbit System のように、英国内に工場を持ち、そこで製造されているものが多数ある。さらに、英軍はイスラエルとの軍事協力やガザ上空での秘密の監視飛行も続けており、これらは新首相アンディ・バーンの政権下でも継続されている。したがって、「武器輸出許可の一時停止」措置がもたらす効果は、実際にはごく限られたものでしかない。

 

  英国は、他の151カ国のあらゆるジェノサイド条約締約国(日本は批准していない!)と同様、ジェノサイドを防止するために合理的に利用可能なあらゆる手段を講じる義務がある。つまり、イスラエルの犯罪を可能にする武器の移転、軍事・諜報支援、およびその他あらゆる形態の協力を中止しなければならないのであり、こんな「武器輸出許可の一時停止」は、はっきり言えば、誤魔化しでしかない。

 

  ミリバンドは、ヨルダン川西岸地区で現在頻繁にイスラエル人のテロリストたちがパレスチナ住民を殺傷して土地を奪っている行為についても、「民族浄化(ethnic cleansing)」(大量虐殺、強制移住などの手段で特定地域における特定の民族を殲滅あるいはその地の民族構成を変化させるまでに減少させること)であると、以下のように厳しく非難してはいる。

 

「英国政府は、ヨルダン川西岸地区の一部の地域で、入植者テロリストによるパレスチナ人に対する民族浄化が行われていることを認めています。そして、イスラエル政府は、こうした事態にあまりにも頻繁に目をつぶってきました。…… これまで長い間、英国政府はこの地区の入植地が違法であると正しく指摘してきましたが、占領全体としての合法性については沈黙を守ってきました。しかし、2024年に国際司法裁判所は、この占領が違法であると結論付けました。本日、私は、イスラエルによる支配の定着、恒久的な主権の拡大意図、そして違法な入植地を通じた拡張主義的な政策による占領は違法である、というのが英国政府の公式見解であることを発表いたします。」

 

  かくして、ヨルダン川西岸地区の入植占領が違法であるというのも、英国が今回初めて認めたことであり、これに対し、ミリバンドは以下のような対処方法をとると発表。

 

「我々は、占領地内の違法入植地からの物品の輸入禁止措置を導入します。入植地の拡大に向けて、建設、インフラ整備、資金調達、不動産などのサービスを提供する特定の企業や個人に対しては、措置を講じます。したがって、違法入植地に資金を提供したり、その活動を助長したりする者たちに対し、こう言っておきます。あなたたちは、英国の制裁の全容をまともに受けることになるであろう。」

 

  入植地産の製品輸入に関わっている会社、入植地拡大に貢献している建設会社や不動産会社の多くはイスラエルの会社であると思われることから、英国政府がどのように制裁を科すのか、これまた実際には難しい。よって、この制裁方法にも効果はほとんどなく、彼らが「英国の制裁の全容をまともに受ける」ような事態になるはずがない。ヨルダン川西岸地区でのイスラエル人入植者テロリストたちによるパレスチナ住民殺傷には、それを取り締まる責務を負っているはずのイスラエル軍兵たちが、実はしばしば入植者テロリストによる「民族浄化」の共犯者であり、その事実をイスラエル政府もまた黙認しているという状況がある。ところが、ミリバンドが認めているように、英国政府もまた「沈黙を守ってきた」のであり、それに対する真摯な反省に基づく対処方法が英国政府には決定的に欠けているのである。

 

III 「二国家解決案」の実情 ― 架空のパレスチナ国家承認

 

  2025年9月21日に英国、カナダ、オーストラリア、ポルトガルがパレスチナを国家として承認したことを受け、翌日22日の第80回国連総会のタイミングに合わせてフランス、ベルギーなどの欧州諸国がパレスチナ国家を承認。その後、他の国連加盟諸国も続々と賛同に加わり、いまや国連加盟国(193カ国)のうち160カ国が承認済みである。恥ずかしいことには、日本は米国に追従していまだに承認を拒んでいる。日本の「外交政策」は、あくまでも米国に追従することが「外交政策」であることが、この一例でも明白である。

 

  イスラエルと将来の独立したパレスチナ国家が、平和と安全の内に共存することを目指す国際的な解決案である「二国家解決案」についても、演説の中でミリバンドは次のように述べた。

 

「『二国家解決案』は、両国民にとっての安全保障への唯一の道が、自由、安全、そして自己決定権を保障された平和的な共存のもとで隣り合って暮らすことにあるという明確な信念に基づいています。まさに、イスラエル人とパレスチナ人の権利と自由に対するこの信念こそが、私を含め多くの人々を、国際社会の目の前で、パレスチナで繰り広げられてきた事態に対して深い羞恥心を抱かせる原因となっているのです。ガザでは、この3年間、想像を絶するトラウマと苦しみ、そして恐るべき規模での死、破壊、そして人間性を奪うような扱いが続いています。これは、世界、そしてこの国の良心に対する汚点です。パレスチナ国家を承認するという歴史的な一歩を踏み出したのが労働党政権であったことを、私たちは常に誇りに思うべきです。」

 

  「二国家解決案」の実情は、あらためて述べるまでもないが、現在のガザの状況 ― イスラエル側が、住居や病院とインフラの徹底した破壊、医薬品欠乏、食糧難の状況にパレスチナ住民を閉じ込めたままにしておき、いまだに住民殺害を続けている、まさに強制収容所のような状況 ― を考えてみるだけで、いかに机上の空論であるかは明々白々である。にもかかわらず、ミリバンドは、1年前にパレスチナ国家承認で指導的立場をとった自分たち英国労働党政権を誇りに思うべきだなどと、恥ずかしくもなく豪語している。この1年間、英国政府は、ガザとヨルダン川西岸地区の状況を少しでも変えようと努力したであろうか。パレスチナが独立した国家となり、平和と安全の内にイスラエルと対等な国家組織として成り立つような支援を、英国はしたであろうか。英国だけではなく、英国と歩調をそろえてパレスチナ国家承認に賛同したカナダ、オーストラリア、ポルトガル、フランス、ベルギーについても同じことが言える。一体全体、これらの国のうちで、この1年の間に、イスラエル政府の蛮行の続行に対し厳しい批難の声をあげ、「二国家解決案」を具体的にどうすすめるべきかの提案をした国があったであろうか。

 

  結局、パレスチナ国家承認の実態は架空だったのだ!あえて言うが、パレスチナ国家承認は、これらの諸国の自慰行為以外のなにものでもなかったのだ!したがって「二国家解決案」の実相は、パレスチナ人を人間とも思わない侮辱以外のなにものでもないのだ!住民たちを人間扱いしないで文字通り捨ておいたまま、そんなところに国家が成立するはずがないことは子どもにだって分かることだ。

 

  にもかかわらずミリバンドは、「二国家解決案」を妨げている重要な要因が、イスラエル政府側にではなくもっぱらハマス側にあるかのごとく、以下のように主張する。

 

「ハマスは、ガザの将来の統治においていかなる役割も果たすことはできない。ハマスは武器を廃棄し、テロ組織のインフラを解体しなければならない。イスラエルには、卑劣なテロの恐怖に怯えずに暮らす権利がある。そしてイスラエル国家には、国民を保護し、領土を守る権利がある。」

 

  確かにハマスはテロ組織である。国際刑事裁判所(ICC)もガザ地区のハマス指導者のヤヒヤ・シンワルなど5名にたいして逮捕状を発行している。「イスラエルには、卑劣なテロの恐怖に怯えずに暮らす権利がある。そしてイスラエル国家には、国民を保護し、領土を守る権利がある」という主張もその通りである。ではこの文章を以下のように変えてみよう。「パレスチナには、卑劣なテロの恐怖に怯えずに暮らす権利がある。そしてパレスチナ国家には、国民を保護し、領土を守る権利がある」と。イスラエルによるガザ住民の無差別大量殺戮=ジェノサイドは、イスラエル政府による国家テロであり、それ以外のなにものでもない。ハマスが「ガザの将来の統治においていかなる役割も果たすことはできない」のなら、イスラエル現政権にも「イスラエルの将来の統治においていかなる役割も果たすことはできない」と言わなければならないのである。ところがミリバンドは、ハマスだけを一方的にテロ組織として排除し、そのようなテロ組織を産み出した元凶であるイスラエル側の国家テロ組織=政府については何ら言及しない。「両国民にとっての安全保障への唯一の道(=二国間解決案)が、自由、安全、そして自己決定権を保障された平和的な共存のもとで隣り合って暮らすことにあるという明確な信念」に基づいているというミリバンドの主張のその裏には、このように最初から甚だしい人種差別と政治的偏向が埋め込まれているのである。

 

IV 反ユダヤ主義(=ユダヤ人差別)とガザ住民ジェノサイドとは本当に無関係なのか?

 

  エド・ミリバンドはユダヤ系英国人である。彼の父親ラルフ・ミリバンド(1924-1994 年)はユダヤ系ポーランド人の家庭にベルギーで生まれ、戦時中の1940年に英国に亡命。戦後、London School of Economic で「フランス革命における人民思想」の研究で博士号を取得。1951年に労働党の党員となり、同時に著名な歴史家E.P.トンプソンなどとNew Left (新左翼)運動にも参加した。実は、私が英国のリーズ大学歴史学部大学院生だった1976〜78年に、彼は同大学政治学部教授で学部長であった。当時、英国で気鋭のマルクス主義社会学者として知られていた彼の講義をぜひ聴きたいと思い、しばしば彼の学部生のための講座に潜り込んで、教室の端に座って耳を傾けた懐かしい思い出がある。

 

 

ラルフ・ミリバンド教授

 

  両親がユダヤ人であったエド・ミリバンドも自分がユダヤ人であるアイデンティティを誇りに思っていることが演説から明らかである。ホロコーストを生き延びた親戚がイスラエルにもいるようで、演説の初めの部分で、彼は以下のような自己紹介を行なっている。

 

「私は、誇り高き英国系ユダヤ人として、また、ナチスの手によって私の祖父や他の60人の家族を失った後、祖母に居場所を与えてくれたイスラエル国家に対し心からの感謝の念を抱いています。1970年代にテルアビブで祖母を訪ねた折、私はイスラエルが祖母に与えてくれた生活と安住の地を目の当たりにしたことを覚えています。事実、私の子供時代の最も楽しい思い出のいくつかは、いとこたちが住んでいたキブツで、子供ながらにオレンジを摘んだことでした。…… 10月7日にハマスが行ったテロによる残虐行為が、イスラエル全土の人々や世界中のユダヤ人に当時どのようなトラウマをもたらし、今なおどのような意味を持ち続けているか、私にはよく理解できます。それは、殺戮を目的としたテロ組織による凶悪な行為であり、国民全体を虐殺し、恐怖を植えつけることを意図したものでした。………」

 

  ミリバンドはこの後、昨年10月2日にマンチェスター市郊外のヒートン・パークにあるユダヤ教会堂をシリア生まれの英国市民の若者が襲い、刃物で2人を殺害した事件に触れ、反ユダヤ主義、すなわちユダヤ人差別問題が英国内で頻繁に起きていることを述べ、この問題に対処するために、政府は2億5千万ポンド(523億円)の予算を当てると発表。さらに彼は、イスラエル軍によるガザ無差別殺戮が英国内でユダヤ人差別問題を引き起こしている直接の原因であるとは明確には述べていないが、それを暗示するかたちで以下のように述べている。

 

「私たちの批判の対象は、英国と揺るぎない絆で結ばれているイスラエル国民ではありません。私たちの批判の対象は、イスラエル政府の行動そのものです。英国の人々、そして世界中の人々に、このことをはっきりと申し上げたいと思います。英国のユダヤ人にイスラエル政府の行動の責任を負わせることは、紛れもなく反ユダヤ主義(=ユダヤ人差別)です。」

 

  このように、自分が演説で述べるイスラエル批判は「イスラエル政府」に向けられているものであって、イスラエル国民やその他各国に住んでいるユダヤ人を批判するものでは全くないと。したがって、イスラエル政府の蛮行の責任を、ユダヤ人全般に負わせることはユダヤ人差別であり、「この2つの問題を混同すべきではないと思います」と彼は言う。確かに、理論的には彼の主張は正しい。イスラエル政府のパレスチナ人に対する残虐行為を声高く批難するユダヤ人やユダヤ人の反戦・平和運動団体はイスラエル国内にも、世界各地にも存在する。オーストラリアに住む私にも、そのような団体に加わって活動しているユダヤ人の友人・知人がいる。

 

  ではあるが、問題は、イスラエル政府の非道な軍暴力を「自己防衛」と称して全面的、且つ強力に支持するユダヤ人、とりわけ極右のシオニストの個人やグループも世界各地に多く存在しているのであり、彼らこそ、自分たちに向けられる批判をいつも「ユダヤ人差別だ!」と反論することである。しかも、こうした極右シオニストたちが指導権を握っているユダヤ人団体が英米豪など各国に存在し、自国の政府の対イスラエル政策決定に豊富な資金力で強力に政治的影響力を及ぼしている。そして、彼らのこの言動こそがユダヤ人全般をユダヤ人差別で危険に晒している大きな原因の一つであること ― これに対しては、いくら多額の予算を組んで対処しようにも、対処しきれないのである。ユダヤ人差別を防止する最良の方法は、実は簡単なことである ― それは、イスラエル政府にパレスチナ人虐待・虐殺を早急にやめさせることである。これを黙認し続けてきた英国政府にも、ユダヤ人差別を増長させた大きな責任がある。同じことは、詳しくは今は述べないが、昨年12月にシドニーのボンダイ・ビーチで起きたユダヤ人銃殺事件を経験したオーストラリア政府の「ユダヤ人差別対応策」にも言える。

 

  言うまでもなく、イスラエル政府によるパレスチナ人虐待・虐殺は3年前に始まったのではなく、「ナクバ(大惨事)」= 英国委任統治領パレスチナにおける1948年のイスラエル建国と、それに続く第一次中東戦争に前後して起きた、パレスチナ人とアラブ住民の大量追放と70〜75万人を超えるパレスチナ人の難民化から始まっている。その歴史を、ミリバンドのような、イスラエル以外の国に住むユダヤ人がはっきりと学ぶことが必要である。「イスラエルが祖母に与えてくれた生活と安住の地を目の当たりにしたこと」や「子供時代の最も楽しい思い出のいくつかは、いとこたちが住んでいたキブツで、子供ながらにオレンジを摘んだこと」というミリバンドの個人的で牧歌的な体験の背景に、いったいどんなに悲惨で長年にわたる多くのパレスチナ人の苦難苦闘の生活があったのか、そしてなぜそんな哀しい状況が今も続いているのか、その過去を知らずにうやむやにしたままで、未来は構築できるはずがない。実際、1948年にイスラエル、あるいは当時のシオニスト民兵組織がナクバを実行するのを英国が支援した際、その「監督」を行っていたのは、当時、政権を握っていた労働党であったことを、ミリバンドはとりわけ知る必要がある。

 

  その結果うち立てられたユダヤ人の新国家について、1948年12月2日の『ニューヨーク・タイムズ紙』に載せられたハンナ・アレントやアルバート・アインシュタインなど28名のアメリカの著名なユダヤ人が出した公開書簡の冒頭では、次のように述べられている。「現代において最も憂慮すべき政治的現象の一つは、新しく設立されたイスラエル国家において、『自由党』(Tnuat Haherut)が出現したことである。この政党は、その組織、手法、政治哲学、そして社会的アピールにおいて、ナチスやファシスト政党と極めて類似している。この党は、テロリスト組織である。」この書簡で、ユダヤ人の新国家が非道で残虐なテロ国家になる危険性を孕んでいることを、ハンナ・アレントたちはすでに警告していたのである。そして、その後のイスラエルの歴史は、彼女たちの予測通りになってしまった。

 

  ところが、極右シオニストたちの政治的影響力を恐れて、イスラエルによるジェノサイドを阻止するために何の具体的な措置も講じず、むしろ実際にはジェノサイドを支援し続けている一方で、英国政府は、このジェノサイドを阻止するために街頭で抗議活動を行ったり、直接行動を起こしたりする自国民を、依然として逮捕し、迫害し、起訴し続けている。英国政府は、イスラエルによるガザ攻撃を批難しパレスチナ人の命を守れと政府に要求する非暴力の市民団体によるデモを取り締まるために、トニー・ブレア労働党政権下で導入・制定された「Terrorism Act 2000(2000年テロ対策法)」を適用。この法律の第1条「テロの広範な定義」では、「政治的、宗教的、人種的、または思想的な目的を推進するために、政府や公衆を威嚇・影響(恐喝)する目的で行われる『深刻な暴力』『財産への重大な損害』『生命の危険』など」(強調:田中)をテロ活動と定義するとなっている。ところが「パレスチナ・アクションを支持(I Support Palestinian Action)」と書いたプラカードを持ってデモに参加しただけで、その市民を「テロリスト」とみなし、即時逮捕。これまでに2500名から3000名が逮捕され、その中には80〜90歳代の老人までいると言われている。これが英国政府の「反ユダヤ主義(ユダヤ人差別)」対応策の実態なのである。

 

V 結論:英国外相エド・ミリバンドのイスラエル批判の目的はいったい何だったのか

 

  そろそろ結論に入りたい。しかし、その前にもう一点だけ、ミリバンドの演説に含まれている重大な問題を指摘しておきたい。それは、彼の「イラン戦争」への言及である。演説の中でミリバンドはごく短いながら、イラン戦争にも触れて次のように述べている。

 

「イランは、イスラエルや世界中のユダヤ人に対して脅威を与え続けています。……… イランが核兵器を保有することは決して許されません。そのため、今週、同盟国と共に、イランの核関連違反行為について国連安全保障理事会に報告する措置も講じています。また本日、欧州連合(EU)および米国と連携し、イランに対して大規模な経済制裁を再発動することを発表いたします。こうした脅威への対処は、イスラエルと我々が共有する最も重要な国家安全保障上の利益の一つに他ならず、今後も引き続き協力していく所存です。」

 

  このようにミリバンドは、イランがイスラエルを脅かしていると批難しているが、しかし実際には逆で、この1年足らずの間にイランに2度の奇襲攻撃を行ったのはイスラエルであり、侵略という国連憲章違反であるその攻撃は米国との共同謀議という明白な戦争犯罪であり、英国政府もその犯罪を支持したのである。しかも、「イランが核兵器を保有することは決して許されません」と、核兵器を保有している英国の外相が公然と主張できる政治的正当性と倫理的正当性は何なのか、と私は問いたい。さらに「では、イスラエルが核保有しているという事実に対して、君はどのように向き合うのか?」とも問いたい。「イランが核兵器を保有することは決して許されません」と言いたいのなら、まずは「私たち英国は、即時、核兵器を廃棄します」と言うのが筋であろう。自分のトイレを汚物でいっぱいにしておきながら、「お前のトイレにはまだ汚物はないが、すでに臭いぞ!」と言っているのと同じである。これも子どもでも分かる簡単な道理である。「私が尊敬していた君の父親が生きていたら、彼の意見も私は聞いてみたいくらいだ」と彼に言ってやりたい。イランに対する米国とイスラエルの共同謀議については、いまはこれ以上述べず、別の機会に譲りたい。

 

  さて、「英国外相エド・ミリバンドのイスラエル批判の目的はいったい何だったのか」という問いだ。私の答えは、これまた簡単だ。イスラエルの狂気じみた近隣地域・諸国住民の無差別大量殺戮と都市・環境破壊に、いまや世界中の人々が怒りを感じていると同時に辟易している。同様に英国でも、国民、とりわけ労働党支持の有権者は、政府のジェノサイドやイスラエルへの無条件の支援に嫌悪感を抱いている。そこに今年5月初めの地方選挙で労働党は大敗し、首相スタマーの人気もガタ落ち。次期総選挙の期限である2029年8月までには、まだ状況を変える時間は十分あるが、今からとりかからないと手遅れになる危険性がある。そこで、首相の首変えを行い、新首相のアンディ・バーナムの下、労働党政権は、政策上、実質的な変化をあまり加えることなく、有権者にアピールするために、党の姿勢をそれほど「親イスラエル的」ではないように見せようという政策に転換することを決断。

  

  そのためには、一応公然と「イスラエル批判」を行わなければならないが、問題は予想されるイスラエル政府や国内外に政治的影響力と資金力を持っている極右シオニスト・グループからの猛烈な英国政府批判だ。これにどう対処するか、これについて労働党幹部たちは相当議論したに違いない。そして、そのためには新閣僚、とくに外務大臣にユダヤ系の人物を担当させれば、イスラエル政府も極右シオニスト・グループも、同じユダヤ人を非ユダヤ人ほど敵視することはないであろうと考えたと思われる。その結果、エド・ミリバンドが選ばれたのだと私は思う。ミリバンドも自分の果たすべき役割がよく分かっており、自分の「ユダヤ人アイデンティティー」を全面に打ち出しながら、イスラエル政府にできるだけ寄り添う形で「イスラエル批判」を精一杯試みたのである。

  

  予想されたように、ミリバンドの演説の直後から、ネタニヤフをはじめイスラエル政府の閣僚や極右シオニスト(とくにユダヤ教指導者であるラビ<司祭>)などから怒りに満ちた反応が出された。しかし、時間が経ち、実際には英国政府の対イスラエル政策には以前とそれほど変わりがないことに彼らも気がつき、怒りもおさまれば、英国とイスラエルの関係に根本的な変化が起きるとは私は考えていない。残念ながら、それが政治の実態なのだ。

 

  この今のあまりにも酷い世界の政治状況を変革するには、一体私たちはどうすれば良いのだろうか。正直、私には分からない。しかし、分からないと言っているだけではどうにもならないので、自分の身の回りで出来ることをやり続けるより他はない。私に出来ることはといえば、このような批評を書き続けることだけであるが……。この拙論が少しでもみなさんのお役にたてば光栄である。

 

― 終わり ―

 


2026年9月7日月曜日

狂っているのは誰か

トランプか、それとも我々なのか?

 

 

第1回

 

正直なところ、私はこの半年以上、精神的に現在の自分の鬱的状態から逃避したいと考え、現在のあまりにも酷い社会状況についてなるべく考えないように自己逃避していた。アメリカや中近東はもちろん、自分が住むオーストラリアも母国の日本も、世界中至るところで、人間の、とりわけ多くの政治家たちの道義心がすっかり減退萎縮してしまい、残虐極まりないさまざまな軍暴力の大量の被害者の痛みと哀しみに対する倫理的想像力がまるで我々の間で消滅してしまったかのような状態 ― これについて毎日考えなければならないことに耐えられなくなった。「世の中が狂ったのか、狂っている代表のような人物がトランプなのか?それとも、とうとう自分が狂ったのか?」そんな思いが頭をよぎる。そこで、しばらくは考えることも書くことも止めてしまった。

 

しかし、先月5歳になった孫の顔を見ていると、この孫たちの世代のために無力な私ができることは何もないが、この子たちが大きくなって「大酒飲みのジジイがこんなことを考えていたのか」と知ってもらえるようなものだけは、せめて書き残しておきたいと思い、なんとかまた自己奮起してみるつもりである。

 

「なぜトランプのような低劣な人物がアメリカ大統領になり、権力をふるっているのか?」という極めて単純だが、答えをみつけるのがひじょうに難しい問題 ― アメリカ政治史の専門家でもない私には、このテーマで議論する資格はないかもしれないが、ご笑覧いただき、おかしな議論があれば「お前の論考のここが狂っている」(苦笑)というご指摘をいただければありがたい。

 

田中利幸

 

1)トランプの稚拙さの原因は「病的自己愛」

 

米国大統領トランプが自分のソーシャル・メディア「トゥルース・ソーシャル」を頻繁に使い、厚顔無恥にも事あるごとに、いかに自分が偉大であるかを誇示する様々な試みを行っていることは周知のところ。「トゥルース(真実)」とは全く逆に、内容は「嘘」ばかりだが。去る8月28日には、自分が作った「歴代大統領順位」なるものを発表。歴代大統領のうち36人を6つのランクに分け、リンカーンやワシントンを含む6人を「偉大(Great)」とし、最下位の「失敗(Failures)」の5人の中にバイデン、オバマ、カーターの3人を入れて、自分一人だけを最高位の「最も偉大(the Greatest)」と位置づけている。自分のこの行為が、どれほど愚劣で笑止千万なものであるのかを認知できる能力さえすでに失っていることは明白である。

 

同じような愚行は、建国250年記念のための250ドル特別紙幣を発行し、これに自分のポートレイトを印刷するというアイデア。ところが1866年制定の法律で、紙幣・貨幣に使われるポートレイトには存命人物のものは禁止されており、この法律を変えるには連邦議会の承認が必要なところから、極めて難しいことが判明。アメリカには、共和国としての建国期から「君主制(国王の顔を紙幣・貨幣に刻む文化)との決別」を象徴するため、「存命中の人物の肖像を紙幣・貨幣に使用しない」という強い伝統があり、この法律が制定された。一方、トランプ政権1期目の2020年に成立した「流通記念硬貨デザイン変更法」で、建国250周年記念の特別硬貨発行は認められることになっていた。しかもこの「記念硬貨デザイン変更法」は、1866年の制定法に従って硬貨「裏面」への存命人物の肖像刻印を禁止しているのであるが、「表面」については制限に関する記述が欠落していたのである。そこで財務省・造幣局 ― 実際にはトランプに盲従するスコット・ベッセント財務長官 ― は、250ドル特別紙幣の発行はあきらめたが、この記念硬貨デザイン変更法を曲解して、1ドルの特別硬貨の「表面」へのトランプの顔の刻印を適法としてしまい、今月9月3日に発行してしまったのである。硬貨の外見はトランプのお気に入りのピカピカの金色であるが、実際には金は含まれておらず銅などを使った合金である。しかし、この特別硬貨発行では、トランプの他の愚行のように莫大な費用がかからないで終わっていると思われるので、まだマシなほうであろう。

 

一方、トランプは昨年7月にホワイトハウスの舞踏ホール建築計画を公表し、そのためにイースト・ウィングと呼ばれていた建物を解体。最初は、トランプはこの建物は民間からのアメリカ国民への贈り物だと言っていたが、寄付が集まらなかったようで、いつのまにか建築費用4億ドル(約640億円)はアメリカ市民の税金でまかなうことになってしまった。しかも2500坪の敷地に建てられるこの建物の地下深くには軍事センターとしての大規模な(おそらく核シェルターを備えた)地下壕が作られることになった。しかし、元の建物の解体と新しい建物の建設にはこれまた連邦議会の許可が必要であるのに、トランプはそれを完全に無視して工事を強行。そのため裁判沙汰となり、一時工事は中止となっていたが、つい先日、最高裁で判事5人対4人の裁決結果で、工事継続の許可がおりた。周知のように、最高裁判事のうち保守派3人がトランプ前政権時代にトランプによって指名され、それ以前からの保守派判事3名を含めれば、保守派6対リベラル派3なので、どんな裁判でもどうしてもトランプに有利な判決となる傾向が強い。今回は保守派の一人である首席判事ジョン・ロバーツも、最終的に「工事継続の許可」賛成派に加わった。ところがロバーツ判事は、リベラル派判事たちが多数意見に反対して提出した「その解釈は違法である可能性が高い」という意見書にも署名したのである。このロバーツの法理的な支離滅裂さは、「違法」と判断しつつも、トランプを恐れて「工事継続の許可」にいわば「忖度」として賛成した結果であろう。

 

トランプによる首都ワシントンの複数の「美化計画」― 実際には「醜化計画」と呼ぶべきもの ―では、トランプはそのほかにも、膨大な予算で、古くからある公共施設であるイーストポトマック・ゴルフコースやリンカーン記念堂前の巨大な人工池の身勝手な改築案を強行させようと様々な問題を起こしている。きわめつきは、これまた建国250周年記念として、リンカーン記念堂からポトマック川を隔てた対岸に高さ76メートルという、パリの凱旋門をはるかに上回る、しかも最上部には金ピカの鳥と天使像、基部にも金ピカのライオン像をそえる「成金俗物趣味丸出し」と言える凱旋門を建設しようという計画である。昨年10月15日、トランプはジャーナリストを集めてこの凱旋門計画についてモデルを見せながら説明したが、そのとき、記者の一人であるCBSのレポーターが「これは誰のためですか?」と尋ねたところ、即に「私のためだ。すばらしく美しいものになるはず」と応えたそうである。そこでこの記者は「トランプ凱旋門と呼ぶのでしょうかねと」と皮肉っぽく述べたそうだが、トランプには皮肉とは聞こえなかったようである。法律上まずは米国立公園局の許可が必要だが、31の設置可能提案場所のどこも「景観を損なう」という理由から、この案には全面的に否定的。計画中止を求めて裁判所に訴えた市民団体もあり、しかもこれまた連邦議会あるいは政府の適切な独立機関による認可が必要であるので、計画が必ずしも実行されるということにはならないはずなのである。ところが最近(9月4日)の情報では、今後2週間以内に基礎工事である掘削作業を始めるとのこと。実行されるならば、これまた数億ドルという納税者の金が醜悪な建築物のためにふっ飛び消え去る。

 

ワシントンでの、もう一つのエピソードを紹介しておこう。昨年初めトランプが大統領に返り咲くやいなや、スミソニアン協会の米国立肖像画美術館の館長であるキム・サジェットを彼は更迭しようとした。その理由は、その8年前、トランプはキリスト教福音派の保守派で熱烈なトランプ支持者の、「粗悪な模倣品の巨匠」と呼ばれているジュリアン・レイヴンが制作したトランプの肖像画を国立肖像画美術館に収蔵させようとしたが、サジェット館長がこれを拒否したからである。「恐れを知らず恥も知らず」と題されたこの肖像画は横5メートル、縦2.5メートルという巨大なもので、重さ113キロというバカでかいもの。こんなバカでかい肖像画は稀で、しかも芸術的な観点からしても俗悪そのもの。「こんなものはダメ!」と彼女は一見して拒否したのである。

 


しかし、館長の任命・罷免権はトランプではなくスミソニアン理事会にあるため、トランプは彼女を更迭できなかった。そこでトランプは彼女に執拗に政治的圧力を加え続け、副大統領のJ.D. バンスなどもトランプに加担して、彼女を「左翼の狂人」などと罵倒したのである。彼女はオーストラリア生まれでメルボルン大学卒の美術史家で、2013年に米国立肖像画美術館の初の女性館長となり、女性と少数民族の人物の肖像画を増やすことで大きく貢献した。しかし、彼女が館長で居続けることで肖像画美術館とその職員たちにも執拗な政治的いやがらせが行われことを避けて、彼女は2025年6月に辞職したが、9月にはミルウォーキー美術博物館に館長として迎えられた。

 

こうして首都ワシントンだけのトランプのあまりにも度が過ぎた幼稚とも称せる行動をみてみるだけでも、トランプの「自己中心主義」は、我々の周りにも決して数少なくない少々身勝手な「自己中」というレベルの人間の問題をはるかに超えていることが分かる。これは精神病学的にはpathological narcissism「病的自己愛」と呼ばれる精神障害で、「自己愛の強さが極端で、人格や対人関係に支障をきたすレベルにまで達している自己中心主義傾向」のこと。つまり、「通常の自己肯定感や『健康な自己愛』を超えて、自己誇大と特権意識の強さと、共感/同情感の乏しさが極端で、日常生活や人間関係に問題をきたす状態」と言え症状である。もっと具体的には「自分の重要性と才能について誇大で根拠のない感覚を持っており、無条件に賞賛されたいという欲求と特権意識が異常に強く、嘘で他人を操作・搾取してでも自己愛感覚を維持しようとする」症状のことである。これらの深刻な症状は、トランプの様々な国内政策と(戦争を含む)外交政策には、さらに顕著に表れている。

 

2)ベネズエラへの軍事侵攻で露呈したトランプの攻撃的で破壊的な「病的自己中心主義」症状

 

あまりにも問題の多すぎるトランプの様々な政策をいちいち詳しく検討している時間的な余裕がないので、ここでは彼の外交・戦争政策にマトを絞って見てみよう。

 

それでも問題が多過ぎて、どこから話を始めたらよいのか分からないくらいであるから、前政権時代の問題は割愛して、今年1月3日、ベネズエラに対して行った電撃的な軍事攻撃に関する議論から始めてみよう。

 

ベネズエラへの攻撃の前段階として、トランプ政権はベネズエラから出航する「麻薬密輸船」に対する連続空爆作戦を、カリブ海や東太平洋の公海上で2025年9月初めから開始した。この作戦は、米国へ流入する致死性の高い違法薬物の根絶と、それに関与する「麻薬テロリスト」の排除を目的とするものであるとトランプ政権は正当化。国際水域で「麻薬運搬船」とみなした船舶へのこの断続的な爆撃作戦は、ヘグセス国防長官の指揮のもとに、これまで20回以上繰り返され、2026年6月時点で59隻が攻撃され205人が殺害されたと言われている。しかし、これらの船舶が確実に「麻薬運搬船」であるかどうかを確かめもせず、必要な司法手続きや身柄拘束の手続きを全く経ずに海上で即座に爆撃・殺害することは、明らかに国際法違反である。いや、むしろ「国家テロ」と呼ぶ方が適確であろう。最初の爆撃で生き残った生存者を殺害するために「追い打ち攻撃(ダブルタップ)」を行った疑惑がもたれるケースもあり、この場合はとりわけジュネーヴ条約(負傷者の保護)に抵触する。

 

それだけではなく、最初からトランプはベネズエラのマドゥロ政権がこれらの密輸に深く関わっているのだと非難し、2025年12月下旬には、「船に麻薬を積み込む港の地域(陸上施設)を攻撃し、大爆発が起きた」と豪語。CIA(米中央情報局)のドローン等によるベネズエラ領内への初の地上攻撃が行われた可能性が報じられた。マドゥロ政権は「主権を侵害する侵略行為であり、米政府による政権転覆の画策だ」と激しく非難。また、米議会(超党派)でも法的手続きの不透明さからこの爆撃行為の調査を行うことを決定し、世論調査では米国市民の約半数がこの作戦に反対姿勢を示した。

 

実際には、麻薬、とくにコカインの主たる生産地はコロンビアであって、そのうちベネズエラを経て米国に密輸入されるのはごくわずかでしかない。米麻薬取締局(DEA)も2025年3月公表の年次報告書は、押収したコカインの84%がコロンビアから流入したものだと指摘しており、ベネズエラについては何ら言及していないのである。この事実、すなわち米国のベネズエラへの軍事攻撃の正当化である「麻薬密輸撲滅」が、極めて疑わしいことについて報道する米国内外でのメディアがほとんどなかったのは驚きである。

 

マドゥロが主張した通り、この攻撃が「米政府による政権転覆の画策」の開始であったことは、2026年1月3日に、今度は米軍がベネズエラの首都カラカスをはじめ複数の地点に対して電撃的に爆撃を行い、特殊部隊デルタフォースがニコラス・マドゥロ大統領と妻のシリア・フローレンスを拘束・拉致し、ニューヨーク州の空軍基地に移送したことで明らかとなった。その後、二人はブルックリンのメトロポリタン拘置所に収容され、マドゥロ大統領は麻薬テロ共謀罪を含む複数の罪状で、妻のほうは「麻薬密輸共謀罪」などで起訴され、いまも囚われの身である。この「外国の政権転覆」作戦のために、米政府はCIA工作員を2025年から潜入させて準備させ、攻撃直前にはサイバー攻撃でカラカスに大規模停電を発生させた。

 

トランプによるベネズエラ政権転覆の真の目的は、したがって、マドゥロ政権転覆によって米国が ― というよりはトランプ個人が ― ベネズエラの石油産業を支配することであって、「麻薬密輸入の阻止」はその目的確保のための単なる口実であったことは、いまさら言うまでもないであろう。つまり、この露骨な軍事攻撃は、トランプがベネズエラの石油資源を掌握するために捏造した違法な「侵略戦争」であったのだ。ベネズエラの指導者の身柄を拘束してから数カ月後にトランプは、「ベネズエラを米国の51番目の州にすることを検討している」と誇大妄想的な計画について述べたことからも、このことは明らかであろう。

 

 

当然のことだが、この電撃作戦が、国連憲章第2条第4項で加盟国に対し禁止している「他国の領土保全や政治的独立に対する武力の威嚇・行使」にあたると、中国やロシアをはじめ多くの加盟国が米国を批判した。しかし、ほとんどの国が批判的声明を出すだけで終わっており、すぐにそれは沈黙となり、さらには事実上の容認状態へと変わり、今ではこのトランプの由々しい犯罪行為はすっかり忘れられてしまった。英国の当時の首相スタマーは「英国はこの攻撃に全く関与していないが、国際法は遵守されるべきだ」という内容の簡単な声明を出しただけ。フランスのマクロン大統領は「ベネズエラ国民は独裁者から解放された」と述べてトランプを賞賛。日本の高市首相にいたっては、「ベネズエラにおける民主主義の回復及び情勢の安定化に向けた外交努力を進めてまいります」と、いつもの全く無意味な有口無行でお茶を濁らせ、トランプの国際法違反行為については一言もコメントをしなかった。唯一、「世界が『強盗の巣窟』になる」という厳然たる言葉でトランプを指弾したのは、私が知る限り、ドイツのシュタインマイヤー大統領だけであった。

 

我々が忘れてはならないことは、国連憲章第2条第4項は、1974年の国連総会で採択された「侵略の定義に関する決議(総会決議3314)」と密接に関連しており、その第1条「国家による他の国家の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、又は国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使」は「侵略」であるという定義である。よって、ロシアのウクライナに対する「侵略戦争」、同様にアメリカのベネズエラに対するような「侵略戦争」が続けば、「世界が『強盗の巣窟』になる」というシュタインマイヤーの糾弾は、トランプにだけではなくプーチンにも向けられたものであると我々は考えるべきであろう。

 

2026年1月3日以降のベネズエラの政治状況は、暫定的なアメリカの直接管理と、国内でのチャベス派(旧マドゥロ政権派)による統治・抵抗が混在する極めて不安定な状態が続いている。実際には、暫定大統領のデルシー・ロドリゲスは米国に正面きって抵抗できないため、トランプの意向にできるだけ沿うような形をとりながらも、同時に自分たちの国内統治権をなんとか維持できるよう踏ん張っている。8月には政府(チャベス派)と野党間の対話プロセスの第1段階が始まり、民主主義の強化や情勢安定化に向けた模索が続けられてもいる。しかし8月下旬には、ベネズエラは石油輸出国機構(OPEC)からの脱退を検討せざるをえなくなり、米当局と協議を進めていることが報じられ、エネルギー政策の面でも親米路線への強制的なシフトが進みつつある。こうしてベネズエラは結局、事実上、米国の属国か保護国、あるいは植民地に近い国となりつつあり、呼び名はどうであれ、もはや主権国家とは呼べない国となってしまった。

 

いまや米軍は思いのままに同国に出入りするし、石油収入は米財務省を経由する。つい最近、トランプは自分のSNS「トゥルース・ソーシャル」で、「米国の納税者に一切の負担をかけずに、ベネズエラの確認埋蔵石油の過半数の支配権を確保した」と豪語。具体的には、ベネズエラ暫定政府は、米国の支援を受ける民間石油会社「ノース・アメリカン・ブルー・エナジー・パートナーズ(NABEP)」に対し、17の戦略的油田(確実埋蔵量約650億バレル)における100年間の運営権限を与えざるをえない状況に追い込まれたのである。NABEP社は、米国政府(国家戦略資本局など)に対して親会社株式の35%を無償で譲渡。これにより、米国は巨額の資産価値と配当金を得る権利を確保し、さらに米国政府は、同社が生産するすべての原油の20%を「生産原価」で買い取る権利も確保した。株式と原価買い入れ権を合わせると、全生産分の実質55%の権利を米国政府が保有するという、極めて稀な「商取引」が民間会社と米政府で行われたのである。

 

米国政府(国家)が直接民間企業の株式を保有するという、米国の歴史上極めて異例なこの事業計画は、当然、批判の対象になっている。この異例の大型事業計画をめぐっては、すでに政府と企業の不透明な関係や「身内への利益誘導」を疑う声がメディアや政界から上がっている。なぜなら、NABEPを実質的に支配しているのは、長年マネーロンダリングなどの犯罪疑惑のある、ロンドンを拠点とするベネズエラ人実業家アレハンドロ・ベタンコートであり、この怪しい実業家の利権にトランプ政権が法的保護を与え、ペンタゴンを通じて株式を保有したという一連の流れが不透明であるため、野党民主党やメディアから「何らかの個人的利益や不正な動機が絡んでいるのではないか」と厳しく追及されはじめている。したがって近い将来、トランプがベネズエラの油田の一部に直接出資する可能性があることも十分考えられる。しかし、この「商取引」は、現在トランプ政権に対する国民のさまざまな不満から11月に行われる中間選挙で共和党の不利が予測されるため、この状況をなんとか改善するために、トランプが自国政府に大きな利益をもたらす「商取引」を成功させたのだと知らしめる選挙対策であろうとも考えられる。

 

米国政府の軍事力を使ってのベネズエラの石油産業支配とトランプの個人的利益獲得とは、このように我々が知り得ない闇の世界で深く絡み合っているのであろうと思われる。かくして、米国の国家権力=軍事力とトランプ個人の金権力との間には、もはや境界線がなくなりつつあり、トランプは自分の個人的な金権力を世界中に拡大するために、強大な軍事力で支えられた米国の国家権力をフルに活用するつもりでいるのだ。そこまでトランプの「病的自己中心主義」は重症化しつつある。つまり、米国の国家権力は、文字通りトランプにのっとられつつあるというひじょうに危険な状態にある、というのが私の理解である。そして、この危険な状況は、一国の核兵器を含む大量破壊/通常兵器が精神的に病んでいる個人の不安定で移り気で場当たり的な判断で、突拍子もなく使われてしまい、大量の死傷者と由々しい環境破壊をもたらす起爆要因を孕んでいるとも私は考えている。その危険性は、この半年以上にわたるトランプのイラン戦争での「場当たり主義」にすでに表れている。

 

次回は、イラン戦争を、まずはエプスタイン・ファイルとの関係から考えることから始めて、議論をすすめてみたい。