2021年3月8日月曜日

平和の像を受け入れたベルリン・ミッテ区

 ベルリンからの報告

 

はじめに

今から117年前の1904年のニューヨーク市における婦人参政権を求めるデモを起源として、国連が1975年に3月8日を「国際女性デー」と定めてから今年は46年目。女性に対する暴力、とりわけ性暴力の防止という点から歴史を省みてみると、事態の改善は、日本だけではなく世界的に、本当に「遅々としたものである」としか言えないように思えます。しかしそれでも、この数年間は#MeeToo運動の世界的な高揚の影響が世界各地で見られるようになり、女性被害者が勇気を出して声をあげることができるような被害者支援運動がますます強まってきました。

 

ベルリンでは、その3月8日、ミッテ区に設置されている「平和の像」の前で「国際女性デー」記念集会が開かれ、200人ほどの市民が集まったとのこと。報道によると、この集会では、「日本軍慰安婦」被害問題だけでなく、DV(家庭内暴力)反対から、妊娠中絶、少数民族の人権問題まで、女性と人権に関する様々な声があげられたとのこと。「平和の像」が 単に日本軍性奴隷被害だけを記憶するためのものではなく、あらゆる性暴力の犠牲者を記憶し、性暴力防止のためのシンボルとして強力な意味を付与されたものとして捉えられていることが理解できます。

 

ところが、日本では、滋賀県議会の2月15日の定例会議に、日本政府に「元慰安婦」の女性への損害賠償支払いを命じた1月の韓国ソウル中央地裁の判決(2月3日のこのブログ「『人間の生き方』が問われている日本の戦争犯罪責任問題」を参照)を非難し、日韓政府に対応を求める提案が自民党県議によってなされ、賛成多数で同日可決されたとのこと。かくして、滋賀県議会議員たちは、自分たちの歴史認識の決定的な誤謬と性暴力に対する時代遅れの対応という、世界に恥ずべき思考と行動を堂々と曝け出したのです。こうした日本の状況を変えていくには、もっともっとジェンダー関連問題での市民運動を広め強め、日本人全体の「ジェンダー意識」を根本的に変革していく必要があります。

 

そんな現在、ベルリンの「平和の像」をめぐる現状説明を、ベルリン在住の梶村道子さんに、「日本軍『慰安婦』問題解決ひろしまネットワーク」のニュースレターの最新号に寄稿していただきました。梶村さんのご許可をいただき、ここに転載させていただきます。

 

平和の像を受け入れたベルリン・ミッテ区

梶村道子

 

2020年928日、ベルリンの市街地にあるミッテ区に平和の像(以下、「像」とする)が設置された。除幕式には、区の文化担当者やラーヴェンスブリュック女性強制収容所記念館の前館長らが参加、李容洙さんと正義連の李娜栄さんのビデオメッセージも届いたが、早々に官房長官の発言や日独外相電話会談が報じられた日本と異なり、地元では特に注目されなかった。

 

その10日後の10月7日に区が像の認可を取り消し、設置者のコリア協議会に1週間後の撤去を命じたことで、事態は急転する。地元メディアが、「州政府は日本大使館とミッテ区と話し、迅速な解決を図った」と報じると、コリア協議会を知る市民やミッテ区の諸政党が動き、その結果、一年間の認可は保証され、恒常設置を区に求める議案が区議会で可決された。この間二ヶ月。コリア協議会の人たちは、ベルリンの市民社会から様々な抗議行動を引き出した。公開書簡のオンライン署名で国内外の研究者・市民から3000筆を集め、10月13日の区役所前のデモと集会には300人の市民が参加、「右翼に対抗するおばあちゃん」のベルリン支部は区議会前で声援を送った。像の傍でのスタンディング・デモは今も続いている。しかし、今回決定的な役割を果したのは、区の判断に抗して像の支持に回り、区議会を動かしたミッテ区の進歩的諸政党[i]だろう。

 

街角に置かれた平和の像は、近所の人たちにはすっかり馴染みだ

 

像は、ミッテ区の「都市空間の芸術」という文化政策の枠で認可された。これは、区民が芸術作品の屋外での設置を申請し、区の審査委員会の審査を経て、一定期間の設置が認可される仕組みで、区議会は特に関与を求められない。像もこの規定に則り申請・認可されたのであり、設置前に、グレンデールやサンフランシスコ市の事例にみるような地域や議会での広範な議論は行われていない。

 

だが、日本政府の干渉と、独外務省の意向を受けたベルリン州政府の介入に区長が屈し、一方的に認可を撤回したことへの、諸政党の対応は迅速だった。10月12日には社会民主党ミッテ区支部が像の維持と開かれた議論を要求し、緑の党も、同日臨時の議員団会議で認可とり消しの撤回要求を全会一致で決め、翌日の抗議デモへの参加を宣言、左派党は、次回115日の定例区議会に向けた超党派行動のイニシアティブを取ると明言する。その際、彼らが強調したのは、認可を取り消せば、戦時や紛争時の性暴力に取り組む人たちにベルリンから誤ったサインを送ることになるという点だ。すなわち問題は第二次大戦中の女性に対する性暴力であり、これはナチスによるテロと戦争の始発点であるベルリンの地と無縁ではないのだと。さらに、多様な出身国の市民が共生するミッテ区の住民間でもめ事が起きたとしても、一国の政府がそれに口を挟むのは外交上の越権行為であり、それを受けた外務省と州政府の圧力に区は屈すべきでないとして、「もっぱら第二次大戦における日本軍の行為を取り上げた像は、日本でもベルリンでも憤りを招いている。100カ国を超える出身地の区民の共生を危険に曝さないため、区は二国間の歴史紛争に与しない」と認可撤回を正当化した区長に、真っ向から反論した。

 

左派党と緑の党が準備した認可とり消しの撤回を求める議案は、115日の区議会では審議未了となった。しかし像については、「都市空間の芸術」の審査過程に区議会の関与権を求める超党派提案において討議された、続いて海賊党[ii]が提起した決議案を採択して、区議会はとりあえず像の設置支持を宣言する。そして121日の区議会。設置者による仮処分申請を受けて1013日に像の暫定維持を認め、関係者と折衝していた区長が、認可取り消しを撤回したと明らかにし、左派党と緑の党の共同議案が採択された。像の区内での恒久設置に向けて、区は設置者とともに解決策を見出し、区議会はこれに関与すべき」というこの決議は、単なる認可とり消し撤回から大きく踏み込んだものだ。

 

街角の公園の入り口に建つ平和の像。通りかかる人が、時折足を止める。

 

議案の提案理由には、「『平和の像』を、我々は、武力紛争時の、また平和時の性的暴力に関する議論を喚起するものとみる」とある。ミッテ区の区議らは、この問題に関する十分な議論がドイツ社会でなされてきていないことを、討議過程で自らのこととして改めて確認している。像の恒常的な設置には区のみならずベルリン州の判断も加味されるという。今後、恒常設置に向けて、議論は広がり深められることになろう。      

区議会では碑文の検討を求める声も出た[iii]。「都市空間の芸術」審査委員会は、審査評価で、ドイツ兵による性暴力に関する議論の喚起が望まれると講評している。碑文に、第二次世界大戦中のドイツ国防軍による性暴力や強制収容所の女性たちが強いられた性労働、そして現代の性暴力が言及される日が来るかもしれない。ならばそれは、「日韓」の枠に縛られた東アジアでの議論をより開かれたものにしていく、一つの契機になることだろう。

 

 写真提供:梶村道子さん(ベルリン在住)


[i] ミッテ区議会は、社会民主党、緑の党、左派党の3党で議席の7割を占める。3党は区の政策執行機関である参事会に委員を送るいわば与党で、緑の党は区長を出している。区の上位の機関のベルリン州政府も、社会民主党 SPD、緑の党、左派党の連立政権で、ここでも3党は与党。 ベルリンは州の権限を有する都市州で、ミッテ区はその下位の行政区。

[ii] 海賊党は当初は著作権関係の政策が主であったことから、党員にはIT技術者が多い。党是は、人権尊重、民主主義の徹底化、知の自由な共有、個人のプライバシー保護、政治の透明性、ネットワークの中立性など。

[iii] 社会民主党は碑文の調整を求めている。左派党議員団代表のウルクス氏も、碑文に追加が必要だろうと述べている(2020年12月17日付時事通信インタビュー)。


2021年2月23日火曜日

大坂なおみ全豪オープン優勝を機に考える人種差別

個人的体験から考える日本の人種差別問題

 

本題に入る前に、私の大好きなメルボルン在住の漫画家・詩人、マイケル・ルーニッグの最新作を紹介しておきます。気が滅入るようなニュースばかりの毎日の連続にあって、なにか心をやさしくいたわってくれるような絵と詩だと思います。

 

「丘の上」

丘の上に静かにすわっていると

月が頭の上にふんわりとすわりました

すると、微笑んだ友が心の中にすわりました

微笑んでいるのは、ずいぶん前に亡くなった友でした

でも、二人は夜闇の中で久しぶりに話しあいました

天の川が流れ輝く下で

むかしむかし交わした会話で、言えなかったことを

流れ星がやさしく降っていく下で

歳を重ねて賢くなった月が輝き

星々が愛の言葉で歌をうたい

命は生き続けます

(マイケル・ルーニッグ作)

 

大坂なおみの人種差別抗議とアイデンティティーの確立

2月20日夜にメルボルンで行われた全豪オープン最終戦で、大坂なおみはジェニファ・ブレディを1時間17分ほどの短い時間で、ストレートで勝って優勝。この試合でも、またセリーナ・ウィリアムズ戦でも圧倒的な強さを見せたが、多くの評者が述べているように、技術が進歩したというよりは、彼女の精神的な強さが明らかに増した結果であろう。それは、昨年のBlack Lives Matter の運動に触発されて、彼女自身が 「私はアスリートである前に黒人女性」と主張するようになり、自分が一人の人間として何者であるのかという確固たる自己認識を獲得したことと密接に関連していると思われる。それはまた、同じ価値観を共有する、愛するパートナーを見つけたこととも関連しているであろう。一時スランプに落ち込んで自信を無くしていた大坂が、昨年の全米オープンの試合中に、人種差別に対する抗議の意思をマスクで表明することで自己の信念を確立・強化させ、優勝につなげたものと思われる。3歳でアメリカに渡り、「日本人」という国籍を保ちながらも、黒人差別の激しい米国社会で成長することは、アイデンティティーの確立という面では、精神的にひじょうに難しかったに違いないと私は思う。

 

 

いま彼女に「あなたは誰、なに人?」と問えば、「私は黒人」という応答が返ってくるであろう。彼女の中で「私は日本人」、あるいは「ハイチ人」という意識はひじょうに薄いのではなかろうかと私は推測する。日本人が勝手に彼女のことを「自分たちと同じ日本人」と独りよがりに思っているだけで、これは日本人の勝手なナショナリズム的思考である。メルボルンのテニス・スタジアムで「日の丸」の国旗を掲げて応援している日本人を見ていると、私にはそう思えてならない。日本という国は彼女にとっては、自分の母親がたまたま日本人であり、そのため国籍も日本に置いたままで、日本食が好きであるというぐらいの、ごくごく偶然的な要素であって、日本文化や日本的思考が彼女のアイデンティティーの極めて重要な要素になっているとは、自分自身の中では考えられていないのではなかろうか。日本のファンに対しては、もちろん表向きは「私は日本人」ということを言うであろうが、それはリップ・サービスとみなしたほうがよいと私はおもう。

 

いまも人種差別に苦しむ日本在住の混血児たち

私には成長した娘が二人いるが、彼女たちも日本の芸術や日本食は大好きで、日本語もたどたどしいながら話すことはでき、日本に旅行するのも大好きであるが、自分たちが「日本人」であるなどとは思ってもいない。彼女たちの連れ合いは、それぞれイタリア系とアイランド系で日本とは全く関係がない。彼女たちは、日本人である父親の私の顔を見ても、自分が日本人だとは夢にも思わない(笑)。日本に生まれ育ち住んでいる者なら別であるが、それが海外に住む国際結婚の夫婦から生まれた子供の大半に共通した自己意識であるように思える。つまり、日本に「根」を置いていないのである。

大坂なおみのケースに話を戻すが、もしも彼女が日本に住み続け、有名なテニス選手にもならなかったならば、日本でいま幸せな生活をおくっているだろうか?人種差別が激しい日本社会の中で、いわゆる「黒人」の混血児たちは、いまどのような対偶を受けているのであろうか。

2015年にミス・ユニバース日本代表に選ばれた宮本エリアナは父親がアフリカ系アメリカ人、母親が日本人である。私自身は「ミス・ユニバース」という企画そのものに反対であるが、それは別としても、日本で生まれ育ち日本国籍を持った彼女が日本代表に選ばれた時は、「ハーフが日本代表になるのはおかしい」という批判があちこちで出たとのこと。しかし彼女がミス・ユニバースに出場する決意をした理由は、彼女と同じ混血の友人が自らのアイデンティティーを見つけられずに悩み、2014年春に自死したため、それをきっかけに「ハーフへの偏見や差別をなくすためにも出場することを決意しました」とのこと。

   ちなみに、「ハーフ」という表現自体が差別用語であると私は考えているため、私自身は使わないようにしているが、英語の「mixed race」に当たる適当な日本語表現がないので「混血」という表現を使っている。しかし、私に言わせれば、歴史をさかのぼれば、人間はみな多かれ少なかれ「混血」であって、それをあえて特定少数の人間にだけ使うことも差別表現だと思うのであるが、適当な表現が見つかるまで、あえて使うことにしている。この「混血」を、父母二カ国の文化的な背景があることから「ダブル(二倍)」と称する人たちもいる。しかし、私の娘たちの場合は、母親(つまり私の連れ合い)の背景からいえば、英国系、ドイツ系、ユダヤ系の三つがあり、それに私自身の日本系を加えれば「quadruple(四倍)」であり、「ダブル」どころではないので、この表現も適当ではない。つまるところ、「人は人種的背景がいかなるのものであれ、国籍が何であれ、一人の独立した人間である」と考えるべきなのである。ところが、哀しいかな、そんな簡単なことが世界の大半の人間には受け入れられない、というのが現状なのである。

 

 

 

  それはともかく、宮本エリアナは日本の学校で受けた差別=いじめを次のように説明している。「ゴミを投げつけて笑われたり、知らんぷりされたりしました。<色が移る>と言われて、遠足や運動の時間に手をつないでくれませんでした。プールの時間もそう言われました。日本生まれ日本育ちなのに<アメリカへ帰れ!>と言われました。小さい時、5歳くらいまでですが、なぜ自分だけ外見が違うのか疑問を感じていました。」

 

個人的体験としての人種差別と私の抗議行動

  しかし、こうした人種差別=いじめは「黒人」の混血児だけが受ける問題では決してない。実は、私の娘も日本で同じようないじめを受けた。1994年のことであるが、当時、私はメルボルン大学に勤めており、その年の後半の半年が研究休暇であったため、家族全員で日本に滞在した。私の親戚が横浜青葉区に所有していた一軒家がちょうど空いていたので、そこを借りて、長女は近くの公立小学校に、次女はキリスト教会が運営する幼稚園に通うことになった。幼稚園ではいじめの問題は全くなかったが、小学校2年生として通った長女は、通い始めて数週間後に同じクラスの男子生徒4名ほどのグループから、下校時に「汚いアメリカ人、アメリカに帰れ!」と言われ、ランドセルを傘で激しく叩かれ、突かれた。長女自身は、「私はアメリカ人ではないわよ、オーストラリア人よ!」と言い返し、毅然とした態度で帰宅した。しかし、そんなことがあったとは、彼女は私にも母親にも言わなかった。数日後、同じクラスの女子生徒数人が我が家に遊びに来た時、彼女たちが「ミカちゃん強かったわよ」と詳細を話してくれて、初めてそんないじめがあったことを私たちは知った。

  半年という短い滞在なので、ランドセルは私の従姉の娘が使っていた「お古」のランドセルを借りたのであるが、オーストラリアの学校でランドセルなど使ったことない娘は、その少し汚れてはいるがピンク色のランドセルが大好きで、喜んでランドセルを背負って学校に通っていたのである。そんな「お古」のランドセルを持ち、英語は流暢に話すが日本語はたどたどしい娘を「汚いアメリカ人」と罵っただけではなく、傘で4人もの男の子がいじめたという話を聞いた私には、この「いじめ事件」を黙って見逃しておくわけにはいかなかった。

  翌朝、私は学校に出かけ、担任の女性の先生に面会を申し込み、事件の内容を説明した上で、「このいじめを機会に、ぜひとも人種差別とは何かについてクラスで話し合ってもらいたい」とお願いした。彼女の返答は「できるだけの対応はします」というだけであった。あとで娘に訊いてみたところ、朝礼の時に男子生徒4名に私の娘に謝らせただけで、話し合いなどは全くなかったとのことであった。

ところが後日、男子生徒4名の母親たちが担任の先生に「子供の喧嘩に父親が介入するというのはおかしいのでは」という苦情があったという情報を、娘の友だちの母親から私たちは知らされた。そのことを聞いて、私は再び「これは許せない」と思い、親たちにも直接話をして、子どもたちの考えと暴力的行為が「人権侵害」であることについて家族でよく話し合うべきであると伝えなければと考えた。クラス名簿から男子生徒4名の親たちの名前と電話番号を調べ、父親も帰宅しているであろうと思われる夜8時ごろから電話を各家にかけた。

しかしながら、自宅に戻っていたのかどうか分からないが、父親が電話にでる家は一軒もなかった。母親が対応するばかりであったが、その母親たちは「子供の喧嘩に親が口を出すなんて、そんな子どもじみたことはすべきではない。そんな大袈裟な事件ではないでしょう……」というような口ぶりばかり。いくら時間をかけて冷静に、子どもがやったとはいえ、これは決して喧嘩などではなく、暴力的な人権侵害であるということを説明してもらちがあかないのである。私も最終的には堪忍袋の緒が切れて、「厳密にいえばこの行為は人権侵害という法律違反の問題であるので、あくまでも子どもの責任を親が認めないならば、法的手段に訴えるよりほかありませんね」という言葉で電話を切った。

数日後、私が留守中に子どもの母親たち4人が一緒に我が家を訪れ、私の連れ合いに深く頭を下げて謝罪し、謝罪の表明として高級和菓子の菓子箱を、連れ合いが受け取るのを幾度も断ったにもかかわらず、玄関先に置いて逃げ去ったのであった。これは彼女たちが本心から責任を感じて申し訳ないと思ったからではなく、「法的手段に訴える」という私の言葉に驚いて急遽とった反応だったに違いない。おそらく彼女たちは、「あの田中という人は変人よ、これ以上怒らせないほうがいいわよ。何をするか分からないわよ」などと言い合っていたに違いない(苦笑)。しかし、これが当時の子どもたちの平均的な両親に共通に見られた「人権意識の欠如」だったのであろう。

  では、その後の状況はどうなのであろうか。ごく少数の具体的な例をあげておくが、例えば、1997年、愛知県・小牧市で、日系ブラジル人少年のエルクラノ君が外国人であるというだけで集団リンチにあい、殺された事件が起きている。2010年には母親がフィリピン人である上村明子さんが深刻ないじめを受けて、12歳という若さで自宅で自死した。カナダ人と日本人の両親の間に1989年に生まれた高校2年生の高橋美桜子さんも、容姿にまつわるいじめを受け続けて自死している。事態はなんら変わっていないように思われる。人間の確固たる信念として、自他両者の人権を尊重するという「人権意識」が、子どもにも親たちにもしっかり根付いていないのである。  

周知のように最近はヘイト・スピーチ、特に在日コリアンに対するヘイト・スピーチが日本全国で見られる。いまも地震が起きると、1923年9月1日に起きた関東大震災時に「朝鮮人が日本人を襲う」、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などの流言飛語が流されたように、「朝鮮人や黒人が井戸に毒を投げ入れている、暴動を起こしている」というフェイク・ニュースがツイッターなどで流される日本。Black Lives Matterに代表される人種差別問題は決して米国だけの、「対岸の火事」のような問題ではなく、日本の問題でもあるのだ。

 

映画『キクとイサム』は昔の話か?!

  ところで、戦後の連合軍占領下の日本には多くの戦争孤児がいたが、その上に、占領軍兵士、特にアメリカ軍兵士と日本人女性の間に生まれた混血孤児が全国で4万人いたと言われている。信頼できる統計数字がないので、あくまでも推定にすぎないが、実際にはもっと多かったのではないかと私は思う。この孤児たちは、戦後の厳しい貧困社会を生きのびるために売春業に従事した女性や、兵士たちの性暴力の被害者から生まれた子ども、自由恋愛の結果生まれた子どもたちなどであった。母親が育てることができずに、それらの多くの幼児が捨て子にされたり、他人にあずけられたりして孤児となった。そんな孤児を救おうと、1948年2月、神奈川県大磯町に混血児のための孤児院「エリザベス・サンダース・ホーム」を設置したのは、三菱財閥創業者・岩崎弥太郎の孫娘である沢田美喜であった。沢田は、結局、2千人あまりの子どもを社会に送り出した。沢田美喜については、別の機会に詳しく紹介したい。

  そんな混血児の中で黒人兵士と日本人女性の間に生まれた子どもに焦点を当てた『キクとイサム』という映画が、1959年に、社会派映画監督の今井正によって作られている。ストーリーは、黒人兵士と親しくなった母親から生まれた2人の子ども(姉弟)の、差別に苦しめられながらも強く生きていこうとする話である。黒人兵士は日本を離れ、子どもを育てる経済力がない母親は、2人の子どもを祖母の住む福島県会津の山あいの田舎村のもとに送り、この村で2人は祖母に育てられ、いまはキクが12歳(小学6年生)、イサムが9歳(小学4年生)になっているという設定である。

 

  当然ながら、キクの役にもイサムの役にも本当の黒人混血児が選ばれている。主人公候補者を探すために、制作スタッフたちが2ヶ月かけて仙台から岡山まで歩き、70人ほどの混血児に会ったそうである。ところが最終選考の結果選ばれた2人を、脚本家の水木洋子が気にいらなかった。水木は次のように述べている。「混血児探しに監督とプロデューサーが歩き回って、京都あたりでカッコイイ男女の黒い子が選ばれた。顔の良い朗読もできる、いわば優良児である。私は……ノウという答えを出した。・・・・・私の描こうとする主人公は、こういうお利口さんでは全くない。」結局、プロデューサーの市川喜一が「箸にも棒にもかからない問題児」といった高橋恵美子を水木は選んだ。キク役の高橋もイサム役の藤原喜久男も、父親のいない貧困家庭の子どもで、映画すらほとんど観たことのない、学校では落ちこぼれ生徒であった。高橋の背景は、映画のストリーに似ており、東京で祖母に育てられていたし、藤原も横須賀の貧困母子家庭の子どもであった。つまり、2人は、当時の混血児の代表ともいえる存在だったのだ。社会的背景からすれば、まさに適役であった。

  映画もほとんど観たこともなく、お芝居などもちろんやったこともない2人に、お芝居の稽古をつけ台詞をおぼえさせることがどれほどたいへんなことであったかは、私の想像を超えている。しかも今井監督は、できるだけ現実感を出すために、台詞のほとんど全てを訛りの強い東北弁にした。祖母のしげ子婆さんを演じた名役者の北林谷栄も、強烈な東北弁でしゃべりまくる。3人の演技は、「見事」というより他に言葉が浮かばないが、言っていることがあまりにも強い訛りの東北弁なので、セリフの大半が聴いていても理解できず、何を言っているのか想像するよりほかはない。

  しかし、映画は、当時の黒人の混血児がどれほど「奇異」な存在として差別され、疎まれ、苦しまなければならなかったかを鋭く描いており、最終的に、米国に養子として送られていったイサムがいなくなり、弟を失った悲しみをも克服してキクがいかにたくましく生きていくかというエンディングに観客は精神的に救われる。しかし、現実には、多くの混血児たちがみなキクのようなたくましさをもって人生を歩んでいったかどうか……。そうであったことを願ってやまないが・・・・・・。

  ちなみに、高橋恵美子は映画撮影終了後も水木洋子のあたたかい励ましを受け、高校卒業後に作曲家の吉田正などの指導を受けて歌手・高橋エミとしてデヴュー。日本各地のキャバレーやバーで歌い続け、トークと歌唱力で全国に多くのファンを得たとのこと。いまも歌手として活動を続けている。藤原喜久男は、映画制作後にスタッフの一人だった角正太郎に引き取られて滋賀県草津市に移住。青年期に上京して奥の山ジョージという芸名でジャズ歌手となり、1970年代にはテレビ・ドラマ「水滸伝」の主題歌「夜明けを呼ぶもの」や、「ルパン三世」のテーマ音楽でボーカルを務めて大活躍をした。しかし、その後、極度のアルコール依存症にかかって第一線を退き、草津市に戻っている。今もご健在とのことである。

  なお、『キクとイサム』の映画全編が下記のユーチューブで観れる。英語の字幕付きなので、東北弁が理解できなかったら英語の字幕を読むとよいかもしれない。 https://www.youtube.com/watch?v=xqEIwlM4rhE

 

結論

  占領期に生まれた混血児たちが味わった極貧生活と人種差別の実態を考えると、確かに現在の混血児たちの経済生活そのものは比べようもなく良くなっていると思われる。しかし、「差別」による「精神的、身体的苦痛」については、宮本エリアナの個人的体験や、上記の集団リンチで殺されたり自死を選んだ若者の例からも分かるように、本質的には70年ほど前とほとんど変わっていないのではなかろうか。

  現実には、日本にはアイヌ、沖縄の住民はもちろん、在日コリアン、日系ブラジル人をはじめ、中国、ベトナム、フィリッピンなど様々な国からの人々が在住しており、在留外国人の総数は約300万人といわれている。したがって、日本が「単一民族」などというのは全くの幻想であって、実際には多民族社会なのである。国籍がどうであれ、民族的背景が何であれ、同じ人間として同じ社会共同体の中で働き、暮らしているのである。にもかかわらず、多くの日本人は日本があたかも、いまだに「単一民族」であるとの幻想を抱き、あくまでも「外国人=他民族」を「日本文化」の外側に置き、混血児も、在日コリアンやアイヌ同様に、「日本文化」と「他民族文化」の境界線を崩す危険な存在とみなして激しく差別する。そして、その「差別」で他者を苦しめることを「人権侵害」とは全く考えもしない。日本の政治家や官僚もまた、基本的には「日本単一民族」という虚妄の上に立って、さまざまな関連政策や法案を作って外国人を差別し、難民をあたかも犯罪人のように扱っているのが実情である。

  周知のように、憲法1条では「天皇は、日本国の象徴であり日本国民の統合の象徴」とされている。その「日本国民統合の象徴」としての天皇は「万世一系」の「純粋な日本人」の家系の人とみなされることから、意識的にであれ無意識的にであれ、外国人や他民族、とりわけ「在日」と称される韓国・朝鮮系、中国系などの市民を差別するイデオロギー上の拠り所を、一部の国民に提供している事実は否定できない。現在さかんに問題になっているヘイト・スピーチも、一見、憲法1〜2条とは関係がないように見えるが、実は、天皇としての存在が、国民の無意識的な感情レベルに深く且つ広く影響していることと密接に関連していることを忘れてはならない。実は、見えにくいかもしれないが、天皇は民族差別の象徴でもあるのだ。

  日本の人種差別をなくすためには、「世界人権宣言」の第6条「すべて人は、いかなる場所においても、法の下において、人として認められる権利を有する」という条項を、私たち一人一人の心なかに深く強く銘記させ、人類普遍の倫理に反する非人道的な言動には、なにごとであれ徹底的に抵抗するという信念を、私たち自身のアイデンティティーの重要な要素の一つにする努力が必要である、と私は考える。

 

― 完 ―

 


 

  

2021年2月3日水曜日

「人間の生き方」が問われている日本の戦争犯罪責任問題

広島から日本政府への抗議文

 

内閣総理大臣   菅 義偉 さま

外 務 大 臣   茂木敏充 さま

 

日本政府のソウル中央地方法院判決受け入れ拒否に強く抗議します

 

 2021年1月8日、韓国ソウル中央地方法院は、元日本軍性奴隷(いわゆる「慰安婦」)被害者が日本政府に対して提起した訴訟に関して、原告に対して損害賠償の支払を日本政府に命じる判決を下しました。この判決を不服とし、日本政府は「国際法の主権免除の原則」から、日本国政府が韓国の裁判権に服する必要はないし、同時に判決は、2015年12月の日韓外相会談合意にも反しているという趣旨の外務大臣談話を発表しました。(「主権免除」とは、主権国家は他国の裁判権に従うことから、免除されるという国際慣習法)

 

人権侵害での「主権免除」は許されない

 厳密には「主権免除」は実定法としての国際法ではなく、国際慣習法です。慣習法であるということは、時代が移り変わり国際的な社会環境や人々の思考方法が変われば、その慣習法に対する考え方も変わらざるを得ないということです。したがって、「主権免除」の慣習法の解釈についても、この数十年の間にかなりの変化が見られます。その変化の一つは、国家が強制労働、拷問、奴隷化やジェノサイド(大量虐殺)など由々しい人権侵害の犯罪を犯した場合には、それらに対する免罪・免責は許されないという考えが国際的に広く共有されるようになってきたことです。なぜなら、人権侵害の犯罪行為を許すならば、国家が悪事を行うことをあからさまに許すことになってしまい、その結果、国際的平和が保てなくなってしまうからです。

 同時に、戦争犯罪や上記のような人権侵害については、それらを防止するための様々な国際条約がこれまで設置されてきましたが、これらの犯罪行為に「主権免除」を適用するならば、条約の効力も全く意味をなさなくなり、これまた国際的平和の構築と維持を甚だしく損なうことになります。日本軍性奴隷制の場合は、日本が加入した1907年ハーグ条約、1921年国際連盟「女性と児童の人身売買禁止条約」、1930年ILO「強制労働に関する条約」などに、明らかに違反する国家犯罪です。

 よって、「主権免除」の原則によって、日本政府が日本軍性奴隷制問題で責任をとる必要がないという主張は、人権侵害に対する「主権免除」の否定という、世界的に広く受け入れられつつある人道的な思想に逆行するものであると同時に、明らかに上記の諸国際条約にも違反する、いわば「犯罪を犯してなにが悪い」という居直りの態度で、国家としても国民としても、きわめて恥ずかしい言動です。

 ソウル中央地方法院判決は、主権国家免除の背後に隠れようとする被告日本国を鋭く批判し、人権とジェンダーに誠実に向き合った韓国司法が国際的にも新たな時代を切り開いた画期的な判決なのです。

 

日韓合意の虚偽性と被害者の人権無視

 日本政府の戦後これまでの長年にわたる日本軍性奴隷制や強制労働問題での責任否定は、1948年に国連で採択された「世界人権宣言」の第4条「何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する」や、第6条「すべて人は、いかなる場所においても、法の下において、人として認められる権利を有する」という条項を無視する、人類普遍の倫理に反する非人道的な言動であると言わざるをえません。

 1月23日の茂木敏充外務大臣談話では、ソウル中央地方法院の判決文が、2015年12月の日韓外相会談における「慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決」という合意にも反するものであると述べられています。「最終的かつ不可逆的な解決」とは、具体的には「『平和の碑』を撤去し、金を出すから今後はこの問題に一切言及するな」という不遜な要求でした。その一方で、「日本政府は責任を痛感している」とか、安倍内閣総理大臣は被害者に対して「心から反省の気持ちを表明する」と述べておきながら、生存しておられる被害者には誰一人として、首相や外務大臣が直接に謝罪を述べたことはありませんでした。しかも、その後も、安倍首相は「慰安婦を強制連行した事実はない」と国会内外で公言し続け、日本政府の責任を事実上否定し続けました。つまり、「心から反省の気持ちを表明する」という言葉は、あからさまな嘘だったわけです。

 さらに、この合意では、当時の岸田文雄外務大臣が、「全ての元慰安婦の方々の心の傷を癒す措置を講ずる」と述べました。ところが、その直後から、「最終的かつ不可逆的な解決」で合意したのであるから、「平和の碑」を、ソウルの日本大使館前から撤去することを日本政府は強く要求しはじめました。この「平和の碑」が、昨年9月にベルリン市内のミッテ区に設置されたときも、再び、恥ずかしげもなく日本政府は撤去をドイツ政府に要求しました。ところがミッテ区は、市民からの撤去反対を受け入れて一年間の設置を認め、同区議会はさらに恒常設置に向けて動き出しています。「平和の碑」は、日本軍性奴隷制という被害者に対する人権侵害を永く人々の記憶にとどめ、存しておられる被害者の「心の傷を癒す措置を講ずる」一つの有効な手段でもあり、戦時性暴力を始めあらゆる暴力を否定する平和への願いが込められています。

 こうした一連の日本軍性奴隷制問題をめぐる日本政府の対応をみてみると、日本の政治家や官僚が、日本軍性奴隷制問題を、「世界人権宣言」の第4条や6条を深く心に刻みながら、「人間の痛みの問題」、「人権侵害問題」と捉えるのではなく、もっぱら日韓の二国間の外交問題としてのみしか考えていないことが明白となります。人権を侵害され、長年ひじょうに辛い思いをされて苦悩の生涯をおくってこられた戦争被害者の「心の痛み」に、倫理的想像力を働かせ、その痛みを自分の痛みとして共有しようという気持ちが全くないことが分かります。

 

日本軍性奴隷問題に向き合うことは人間の生き方の問題

 日本軍性奴隷制というのは、日本の国家権力が何の罪もない  朝鮮半島中国、台湾、フィリッピン、ビルマ、インドネシア、オランダ、南西太平洋諸島、日本など - 数多くの女性たちを強制的かつ組織的に動員して戦時の性奴隷とし、その女性たちの一度だけの生涯を徹底的に踏みにじった組織的な犯罪制度です。由々しい「人道に対する罪」を、国家が多くの女性に対して計画的に犯した組織的な戦争犯罪なのです。したがってこれは、単に日韓の外交問題ではなく、国籍に関わらずあらゆる人の人権を尊重し、この社会を人間らしく私たちが生きていくためにはどうしたらよいのかを考えるべき、私たち一人ひとりの問題だといってもよいのです。

 今、日本の政治家や官僚に根本的に求められているのは、したがって、単に政治家や役人としてこの問題にどう対処するのかということではありません。まずその前に、「人間として、あなたは被害女性にどう向き合うのか」ということが問われているのです。この「人間として」という根本的な視点に立たない限り、日本軍性奴隷問題だけではなく、日本軍が犯したいかなる残虐行為の責任問題も解決することはできないと私たちは確信します。戦後75年を経ても、日本が韓国、中国をはじめ多くのアジア諸国から戦争責任問題で非難され続けている重大な原因の一つは、国際法がどうであれ、「被害者に人間としてどう向き合うか」という発想が為政者と官僚に完全に欠落しているからなのです。

 日本の為政者と官僚が、日本人の過去の行為を真摯に見つめ、将来より良い社会と国際関係を築いていくために、その責任をいかに果たしていくかを真剣に考えるよう私たちは要求します。


2021年2月2日

 

日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワーク

共同代表  足立修一  田中利幸  土井桂子

730-0036 広島市中区袋町6-36

合人社ひと・まちプラザ まちづくり市民交流プラザ気付 mb132

 

ソウル中央地方法院判決は下記アドレスからダウンロードできます:

http://justice.skr.jp/koreajudgements/30-1.pdf


2020年12月19日土曜日

2020 End of Year Message

2020年 年末メッセージ(日本語版は英語版の後をご覧ください)

 

Throughout the world this year people have experienced extraordinary difficulties associated with deep fear, millions of deaths, poverty, violence, political oppression and racism. Yet, many political leaders, particularly in the US, Japan and here in Australia too, are behaving like corrupt mafia, neglecting their duties as politicians. Most of the problems heightened by the pandemic are man-made ones – problems that the Norwegian sociologist, Johan Galtung calls “structural violence.” These problems cannot be solved without the consolidated effort of people across the world. We are also facing another kind of pandemic - global warming. Tackling this also requires our combined endeavors. 

I hope the following poem illustrated by Michael Leunig and some music I have chosen will provide you with tranquility and enable you to ponder the peaceful and environmentally sound world we should aim to create.

    This year we lost a great Italian music composer, Ennio Morricone (1928- 2020), who composed more than 500 pieces of music, mostly sound track music for feature films between the late 1950s and 2016. Among them, one of my favorite pieces is “Gabriel’s Oboe” composed for the film “Mission” produced in 1986.     

“Mission” performed by RAI National Symphony Orchestra, Italian symphony radio orchestra based in Turin, conducted by Ennio Morricone at a Christmas Concert held at the Basilica of San Francesco at Assisi, Italy in 2012.  

https://www.youtube.com/watch?v=9TN4BPZI7ek

 

In October this year, celloist Stjepan Hauser created a Youtube program entitled “HAUSER plays Morricone” as his dedication to Morricone. He plays eight pieces Morricone composed. As always his performance is superb.

https://www.youtube.com/watch?v=KYlHiACHGiU

 

It is not widely known that Morricone was politically quite progressive and a staunch supporter of the Italian Socialist Party (later Social Democratic Party). It is not surprising, therefore, that, in 1972, he composed music for the song “Here is To You” for the film “Sacco and Vanzetti” – about two Italian anarchist migrants in the US, who became the victims of a false accusation of robbery and murder, and were executed by the electric chair in 1920. The lyrics of this song were written and sung by Joan Baez. It became one of the most popular songs repeatedly sung in the human rights movement in the 1970s not only in the US but also throughout the world.

https://www.youtube.com/watch?v=gcgYwTnBIIQ

Sacco and Vanzetti (End scene of the film)

https://www.youtube.com/watch?v=Dg5c6Ehhxho

 

Another song, which became immensely popular in the 1970s, was “Bridge Over Troubled Water” by Simon & Garfunkel. The lyrics of this song of intimate friendship appealed to many students, who were involved in the anti-war and peace movements of the 1970s. I think this was because of the difficult human relationships we were facing in political movements at the time and our strong desire to establish close friendship with other students as a result. I believe this song again appeals to many people now due to the difficulties we are facing due to the pandemic.  

https://www.youtube.com/watch?v=xC5gFakHeMk

 

The last piece is for shakuhachi, entitled “Tsuki (Moon.)” It is composed and played by the Australian shakuhachi master Bronwyn Kirkpatrick. Bronwyn used to be a clarinet player, but changed her career after becoming fascinated with the sound of the shakuhachi.    

https://www.youtube.com/watch?v=GaypYhiSRBg

 

With best wishes for a Merry Christmas and a Happy & Safe New Year!

 

 

2020年 年末メッセージ

 

これまでに体験したことのない異常な生活不安と驚愕的な数の死亡者、貧困、暴力、人種差別、政治的抑圧パンデミックのゆえに世界中で急速に悪化したいわゆる「構造的暴力」のこの1年。その上に、私たちはもう一つ別のパンデミック地球温暖化 -という、これまた困難な問題と直面しています。そんな絶望的な状況を前にしながらも、権力・権益の私物化だけに頭をめぐらせているヤクザ政治屋たち。こんな酷い人災の「パンデミック危機」を悪化させている政治マフィヤたちとは、闘うより他に救いの道はありませんが、ひとときでも心に安らかさを取り戻せるよう、マイケル・ルーニッグの絵と詩、数曲の音楽を今年も送ります。


「空中泳ぎは心の安らぎ」

どんな暗闇の中にも、癒しの喜びを見つけることはでき

どんなに幸せなときでも、失望させられることはあります

男の子、女の子にかかわらず、一人ひとりの希望にも

癒しと失望はつきもの

心を空中に泳がせることは、痛みをやわらげる芳香の薬

小さな飛ぶ生き物、それはみな、つつましやかなちっぽけな命

翼のある生き物の、気まぐれで、自由奔放な動きは

傷んだ心に清らかさを運んできて

天使を涙させたり、微笑えませたり、歌わせたりするのです

 

マイケル・ルーニッグ

 

映画音楽の巨匠、イタリア人のエンニオ・モリコーネ(1928〜2020年)が、今年7月に91歳で亡くなりました。彼は1950年代末から映画音楽の作曲を始め、2016年までに500本以上の音楽を作曲しました。1960年代に主としてクリント・イーストウッド主演の「荒野の用心棒」や「夕陽のガンマン」などのマカロニ・ウエスタンのための主題曲を作曲して有名になりました。私自身は彼のマカロニ・ウエスタンの主題曲は好みではありませんが、70年代に入ってから彼の作曲する音楽の中に魅力を感じるものが増え出し、80年代になってからはすっかりファンになりました。とりわけ好きな曲は、1984年の「Once Upon a Time in America」、1988年の「Nuovo Cinema Paradiso」ですが、しかし最も好きな曲は1986年の映画「ミッション」の主題曲「ガブリエルのオーボエ」です。

 

  最初に紹介するのは、その「ミッション」の主題曲を、モリコーネ自身が指揮する、イタリアのトリノに本拠地をおくRAI国立交響楽団が、アッシジのフランチェスコ大聖堂で2012年のクリスマスに演奏したものです。この映画自体が、なかなかの名作だと思います。

https://www.youtube.com/watch?v=9TN4BPZI7ek

 

私の好きなチェロ奏者ハウザーも、モリコーネの霊に捧げるユーチュウーブを10月に立ち上げ、モリコーネ作曲の8曲を演奏しています。相変わらず、とてもしなやかで美しい演奏です。

https://www.youtube.com/watch?v=KYlHiACHGiU

 

あまりよく知られていないようですが、モリコーネは一貫してイタリア社会党(のちに社会民主党)支持者で、政治的にはかなり進歩的な人物だったようです。したがって、1920年にアメリカ、マサチューセッツで起きた2人のアナーキストの冤罪事件、「サッコ・バンゼッティ事件」をテーマにした1971年の映画、「死刑台のメロディ」、のための主題歌「Here is To You (二人の受難者に捧げる哀歌)」を作曲しているのも不思議ではありません。作詞と歌手は、反戦歌手として有名なジョーン・バエズです。この歌は70年代に欧米の人権運動集会で盛んに歌われましたが、日本では事件の背景がよく知られていなかったせいか、ほとんど歌われていなかったと思います。

私は学生時代にこの映画を観て、証拠もなく証言もいいかげんなものであるにもかかわらず、アナーキストというだけの理由でイタリア人移民の2人を強盗殺人事件の犯人にでっちあげて死刑にしてしまった実際にあった事件を初めて知って、深い怒りを感じると同時に、哀しいメロディに感動したことを今も思い出します。しかし、私が不満に思ったのは、そのとき誰がこの歌詞を日本語に訳したのか知りませんが、題名を「勝利の賛歌」としたこと、また歌詞そのものの翻訳にも感心しなかったことです。「勝利の讃歌」よりは「二人の受難者に捧げる哀歌」のほうが良いと私は思いますし、歌詞も私なりに下のように訳しておきます。

 

Here’s to you, Nicola and Bart    ニコラとバートの二人にこの哀歌を捧げます

Rest forever here in our hearts    私たちの心に永遠の安らぎがありますように

The last and final moment is yours 最後の、最後の瞬間はあなたたちのものです

That agony is your triumph    あなたたちの受難が勝利となるべきときだから

 

https://www.youtube.com/watch?v=gcgYwTnBIIQ

この映画の最終シーンが下記のユーチューブで観れます。

https://www.youtube.com/watch?v=Dg5c6Ehhxho

 

同じ1970年代に、学生運動ではあまり歌われなかったものの、若者を多いに魅力した歌の一つに、サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」がありました。学生運動で人間関係が荒んでいたこの時期、強い友情を約束するこの歌は、心を洗ってくれるような感動を与えてくれました。最初の二節だけを紹介しておきます。

 

When you're weary             もし君が疲れ果てて

Feeling small                 ちっぽけに感じたり

When tears are in your eyes       涙が溢れてくるときは

I will dry them all               僕が拭い去ってあげよう

 

I'm on your side               僕は君の味方さ

When times get rough           つらいときが来て

And friends just can't be found     友だちがいなくなってしまった時も

Like a bridge over troubled water    困難の上に架ける橋のように

I will lay me down              僕がこの身を捧げよう

Like a bridge over troubled water    困難の上に架ける橋のように

I will lay me down              僕がこの身を捧げよう

 

パンデミックが私たちを襲っている今、この歌を聴くと、信頼できて支え合うことができる人がいることが、どれほど大切なことかを痛感させられます。

https://www.youtube.com/watch?v=xC5gFakHeMk

 

最後に、オーストラリアの尺八奏者(師範)、ブロムイン・カークパトリックが作曲し演奏している「月」という曲です。ブロムインは、元々はクラリネット奏者でしたが、尺八の音色に魅惑させられ、尺八の古典本曲を勉強。古典本曲の知識を基にとても綺麗な曲を自分で作曲しています。これはそんな自作の曲の一つです。私も、彼女の曲を時々練習して楽しませてもらっています。

https://www.youtube.com/watch?v=GaypYhiSRBg

 

全く余談ですが、最近、米原万里の『愛の法則』を読みました。その第1章で彼女は、ヒトの男が女と比較していかに劣っている生物であるかを、ひじょうに面白く、しかも機知に富んだ表現で喝破しています。大いに笑えます、一読の価値ありです。こんな楽しい、しかし考えさせることのできるエッセーをたくさん書いていた女性にこそ、もっと長生きしてもらいたかったですね。この本を読みながら、全く違ったタイプの作家・詩人ですが、米国の黒人女性マヤ・アンジェロウのことを、なぜか思い出しました。きっと、元気いっぱいで機知に溢れているという点で、二人には共通点があったからでしょうね。

 

では、くれぐれも健康に気をつけられ、安全に良い年末と新年を迎えられますよう。