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2025年9月5日金曜日

天皇はいかにして「敗戦国ナショナリズムの象徴」となったのか(上)

― 戦争責任を問わない「慰霊の旅」による「平和の祈り」の荒唐無稽 ―

 

田中利幸(歴史家)

(この論考は『反天ジャーナル 天皇制を知る・考える』 20259月号に掲載されました。https://www.jca.apc.org/hanten-journal/ )

 

一面的で虚飾に満ちた戦後50年と80年の「慰霊の旅」

 

天皇徳仁と皇后雅子は202547日の硫黄島訪問を皮切りに、6月4〜5日には長女の愛子を伴って沖縄へ、61920日には広島に、さらに91214日には再び愛子を連れて長崎への、「戦争犠牲者に寄り添う」と称する「戦後80年の慰霊の旅」を続行中である。実際にはこの「慰霊の旅」は、徳仁の両親である明仁と美智子(現在の上皇と上皇后)が「戦後50年の慰霊の旅」として1994年から95年にかけて訪問した硫黄島、長崎、広島、沖縄という訪問地を、順番は異なっているが、大枠ではそのままなぞる変わり映えのしない旅である。

あらためて言うまでもないが、これらの場所は15年戦争という長期にわたるアジア太平洋戦争の末期1945年の2月から8月にかけて大量の死傷者を出した場所であった。硫黄島戦では日本軍2万2千人の死者と米軍7千人の死者を出し、沖縄戦では住民94千人、(沖縄出身者を含む)日本軍が同じく約94千人、その上に米軍側が1万3千人近い、合計20万人もの死者を出した。米軍による広島・長崎の原爆無差別大量殺戮では1945年末までに合計21万人が死亡、そのうち朝鮮人は4万人余りであった(数は少ないが被爆者の中には数十名の台湾人もいた)。

「戦後50年の慰霊の旅」でも今回の「戦後80年の慰霊の旅」でも、天皇・皇后による慰霊の対象はもっぱら日本人の戦争被害者であって、実質的には敵軍将兵や外国人市民はもちろん、戦時中は「国籍が日本」であった朝鮮人や台湾人の死亡者ですら国家追悼行事の対象には含まれない。

そのほかに、今回、これまでになかった訪問先として、78、天皇夫婦がモンゴル訪問中に訪れた首都ウランバートル郊外に設置されている「日本人死亡者慰霊碑」が加わった。この慰霊碑は、戦後旧ソ連シベリアに抑留された日本人捕虜のうち1万4千人がモンゴルに移送されたが、そのうち重労働や伝染病で亡くなった1700人ほどを追悼する慰霊碑である。ここでも慰霊の対象は、あくまでも日本人である。

明仁・美智子たちは天皇・皇后在位中の2005 ~16年の間に3回の海外への「慰霊の旅」を行った。訪問先は サイパン、パラオ、ペリリュー島、フィリッピンであったが、これらの場所でも、慰霊の対象はあくまでも日本軍将兵と日本人市民であって、敵軍将兵や地元住民、それに強制労働目的や軍属としてこれらの地域に送り込まれた朝鮮人や台湾人は、天皇・皇后の「国民への慈愛あふれる寄り添い」の対象からは排除されている。

フイリッピンでの米軍との激しい戦闘は、レイテ島、ルソン島、フィリッピン中央部・南部の全土にわたって194410月から45815日まで続き、日本軍側は34万人近い死亡者を、米軍側は14万人の大量の死亡者を出した。しかし、この戦闘で最も多くの被害者が出たのはフィリッピン住民で、その死亡者数は約100万人といわれている。中でも、マニラ市街地では、日米両軍の間に挟まれて逃れることができなくなった市民が、日本軍には虐殺され米軍には無差別砲撃によって殺戮されて、10万人を超える死者を出した。

明仁は、2016126日のフィリッピンへの「慰霊の旅」出発に当たっての公式メッセージの中で、このあまりにも多いフィリッピン人死亡者数に触れないわけにはゆかず、以下のような文章を読み上げた。「フィリピンでは、先の戦争において、フィリピン人、米国人、日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています。旅の終わりには、ルソン島東部のカリラヤの地で、フィリピン各地で戦没した私どもの同胞の霊を弔う碑に詣でます。この度の訪問が、両国の相互理解と友好関係の更なる増進に資するよう深く願っております。」

ところが驚くべきことには、これだけ多くの住民殺害に対する「謝罪」は、日本国と日本国民統合の象徴である天皇明仁のメッセージの中には一言もない。「日本人同胞の慰霊」が目的で私は行くとだけ述べて、破廉恥にも自国の責任を完全に無視しながら、「両国の相互理解と友好関係の更なる増進」を願うという極めて身勝手な言葉で「お言葉」を締めくくっている。ここには、無数の「無辜のフィリピン市民犠牲者」が舐めた艱苦に、一人の人間として倫理的想像力を働かせてみようという想いすら天皇には欠けていることが分かる。

 

「慰霊の旅」の特質性

 

こうして明仁、徳仁の二世代夫婦にわたる「慰霊の旅」を見てみると、以下の2つの特徴があることが分かる。

(1)          慰霊の対象が日本人だけであり、天皇・皇后が戦争の被害者や遺族者の代表らとの会見で呼びかける言葉は、「たいへんでしたね」、「ご苦労されたのですね」、「つらい思いをされましたね」「これからも頑張ってください」といった類いの、ごく月並みのなんの変哲も無いものにしか過ぎない。これらの言葉からは、被害者の「痛み」を自分の「痛み」として内面化してみようという個人的情感が少しも伝わってこない。ところが、メディアは常にこれらを「被害者の心に寄り添う」、「慈愛あふれるお言葉」と褒めあげる。戦争被害者や遺族のほうもまた、お決まりの「とてもおやさしいお言葉をかけていただき、感激しました」といった具合の天皇・皇后賛美を繰り返す。

 

徳仁も、天皇家における「悲惨な戦争の記憶の継承」のために、今回初めて「慰霊の旅」に同行させた愛子について談話でコメントし、「初めて訪れた愛子も、苦難の道を歩んできた沖縄の人々の歴史を深く心に刻んでいました」と述べた。しかし、いったいどのような歴史的背景から、何のために、誰によって沖縄が戦場にされたのか、その究極的責任は誰にあるのかを学ばずに、日本人被害者がどれほど酷い艱難辛苦を舐めたのかだけに耳を傾けるだけの極めて浅薄な「お勉強」を天皇家が何世代続けたとしても、そこから具体的な平和構築の展望が果たして少しでも見えてくるのか。同じことが、原爆無差別大量虐殺についても言える。いったい、どのような歴史的背景からアジア・太平洋戦争の最終段階で米国がこのような凄まじい「人道に対する罪」を犯すに至ったのか、なぜ米国はその責任をいつまでたっても認めないのか、またそこまで戦争を悪化させてしまった日本の責任は誰にあるのか ― それらを問うことなく、日本国と日本国民統合の象徴である天皇が「(朝鮮人・台湾人を排除して)日本人被害者だけを慰霊」することの意味はいったい何なのか。「記憶の継承」にとって最も根本的なこれらの問いが、「慰霊の旅」をする天皇夫婦だけではなく、彼らの「慰霊の訪問」を大歓迎する市民の側にもスッポリと抜け落ちているのである。

 

(2)          すでに指摘したように、天皇・皇后の「国民への慈愛あふれる寄り添い」は、極めて形式的なものにせよ、日本人の戦争被害者にのみ向けられる。日本軍の残虐な加害行為の犠牲となった中国人をはじめとする多くのアジア太平洋地域の住民と連合軍捕虜、それに当時の植民地であった朝鮮・台湾から「日本人」として動員させられ、日本人と同じように残虐な戦争犯罪の加害者とも被害者ともなることを強いられた朝鮮人・台湾人たちには、天皇・皇后の「慈愛」が注がれることはないのである。よって、各訪問地で天皇夫婦が直接会談する戦争被害者や遺族に、在日朝鮮人・台湾人が含まれることは全くない。

したがって、天皇夫妻の旅は、結局、日本人の「戦争被害者意識」を常に強化する働きをしているが、日本軍戦犯行為の犠牲者である外国人とその遺族の「痛み」に思いを走らせるという作用には全く繋がらない。すなわち、日本人の「加害者意識」の欠落を糺し、戦争被害を加害と被害の複合的観点から見ることによって、戦争の実相と国家責任の重大さを深く認識できるような思考を日本人が養うことができるような方向には、「慰霊の旅」は全く繋がっていないのである。こうして、「日本国、日本人は戦争被害者でこそあれ加害者などではない」という国家価値観が作り上げられ、それが今も国民の間で広く強固に共有されている。そればかりではなく、非日本人の戦争被害者、とりわけ日本軍の残虐行為の被害者には目を向けないという排他性が、日本人の他民族差別と狭隘な愛国心という価値観を引き続き産み出す、隠された原因ともなっているのである。

 

敗戦国ナショナリズムの象徴としての天皇

 

日本国と日本国民統合の象徴としての天皇の「慰霊の旅」が果たしている以上のような政治的機能から「象徴」の意味をいま一度再考してみるならば、この天皇の「象徴性」には「戦争被害国日本と戦争被害者日本国民の統合の象徴」という重要な特質が含まれていることが分かる。しかも、この「象徴」には実は「日本国と日本人ほど悲惨極まりない戦争の被害(特に原爆を忘れるな!)を被った国家・国民はない」という「日本人特殊論意識」― いわば「敗戦国ナショナリズム」と称することができる ― 隠された「ナショナリズム」が無意識のうちに国民の中に植えつけられてきているのである。実は日本政府の常套セリフ「唯一の核被害国」の裏にも、同じようにこの「敗戦国ナショナリズム」が隠されているのである。こうして、国民の間に「私たちはみな戦争被害者だ」という国家幻想=「幻想の共同性」をもたせる働きを、天皇の「象徴性」は強力に果たし続けている。ナショナリズムは通常は戦勝国が誇示するものであるが、敗戦国もまた、このような複雑に歪曲した形で政治的に狡猾に利用することを、私たちは忘れてはならない。

そのような「敗戦国ナショナリズム」=国家幻想の価値観を共有することが国民の知らないうちに強制されていくという、「国家価値規範強制機能」が天皇の「象徴権威」にはあるのである。天皇夫婦のこうした「慰霊の旅」のパターンと「象徴権威」の機能は、そのまま上皇夫婦から天皇夫婦にも受け継がれてきているのである。「天皇の象徴活動」は、このように、実際には極めて政治的な意味を強く且つ深く内在させているものなのである。それは戦前・戦中の天皇制「国体構成要素」の1つである天皇の「象徴権威」を巧妙に活用する国民支配機能、すなわち被支配者に「支配」を「支配」とは感じさせない国民支配機能であり、権力支配者側にとっては極めて都合の良い政治機能なのである。天皇の政治性を全く否定したかのように映る8条からなる憲法第1章は、実はこのように、国民の社会政治意識支配という面で、並々ならぬ影響力を深く内在させているのである。

 

再度述べておくが、「慰霊の旅」を報道する日本のメディアは、天皇家一族の「慈悲深さ」をこぞって絶賛し続ける。同時にほとんどの日本国民が、そうした報道をなんの疑問も感ぜず全面的に受け入れ、天皇夫婦を深く尊敬し、二人の慈愛活動をいたくありがたがる。「このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います」と毎年繰り返される天皇の言葉を真に実践し、「戦争の尊い犠牲」という一種の美辞で呼ばれる被害者にさせられた人間のことを記憶に留め、同じような歴史をくり返さないようにするために絶対不可欠なことは、日本人は「なぜゆえに、このような悲しい歴史を歩まなければならなかったのか」、「そのような悲しい歴史を作り出した責任は誰にあるのか」という問いである。ところが、天皇の「ありがたいお言葉」には、「悲しい歴史」を作り出した「原因」と「責任」に関する言及は、どの「慰霊の旅」でも、また例年の「終戦の日」の「戦没者追悼式」での「お言葉」でも、常に完全に抜け落ちている。最も重大な責任者であった上皇の父親であり天皇の祖父である、裕仁の責任をうやむやにしたままの「慰霊の旅」は、結局は裕仁の責任を曖昧にすることで、国家の責任をも曖昧にする。つまり、換言すれば、天皇夫婦の「慰霊の旅」は、本人たちの意識にかかわらず、裕仁と日本政府の「無責任」を隠蔽する政治的パフォーマンスなのであるが、この本質を指摘するメディア報道は文字通り皆無である。それどころか、日本国家には戦争責任があるという明確な意見を持っている進歩的知識人と呼ばれる者たちの中にさえ、こと天皇の「慰霊の旅」については、この本質を見落とし、天皇・皇后尊敬の念を表明する人間が少なくない(例えば、半藤一利や保坂正康)。

 

「慰霊の旅」と並んで進む天皇神格化

 

「敗戦国ナショナリズム」の象徴として天皇の今回の「戦後80年の慰霊の旅」では、30年前の「慰霊の旅」より一層、天皇の「神格化」を急速に高める傾向が強まっている。沖縄でも広島でも5千人ほどの市民が、天皇夫婦と愛子が宿泊するホテルに近い広場に集まり、提灯と日の丸小旗を宿泊先のホテルの一室から見下ろす天皇一家に向かって掲げて振り、「天皇陛下万歳」を三唱し、これに応えて天皇一家も提灯を振るという「提灯奉迎」が行われた。長崎でも同じような「提灯奉迎」が912日に予定されている。まさに戦時中の北京、上海、南京などの攻略のたびに、さらには真珠湾攻撃の際にも、皇居に向けてだけではなく日本全国各地で大々的に行われた「陥落祝い 提灯行列」を想起させる。広島での「提灯奉迎」を主宰したのは「天皇陛下奉迎広島委員会」で、その名誉会長:湯崎英彦(広島県知事)、会長:池田晃治(広島県商工会議所連合会会頭)、後援:広島県・広島市・広島県教育委員会・広島市教育委員会となっている。しかし実質的には極右政治団体「日本会議(広島)」が企画し、提灯や小旗も無料で配布し、小学生200名には記念品も配布したようである。

 

1937年12月南京陥落祝賀提灯行列

 

2025年6月19日広島 提灯奉迎

また59日、広島市秘書課は、両陛下の訪問にあたって社会科で天皇の地位について学習する機会があることを踏まえて、「御視察の様子を間近で見ることで、学習内容に対する理解等を深めるきっかけになる」という詭弁としか思えない説明で、平和公園近隣の市立本川小学校、中島小学校の校長宛てに「お出迎えを行うに当たり、次世代を担う若い世代にその役割をお願いしたい」と、6年生の児童の参加を求めた。さらに516日、広島市は広島県からの指示を受け、「警備目的で宮内庁と共有するため」という理由で、両校に児童の名簿の提出を要請した。しかし、保護者からは個人情報の使用目的が不明確だという疑問が寄せられ、市民団体からも児童に「お出迎え」に参加させること自体が「思想・良心の自由に配慮していない」という批判の声があがった。そのため、69日の記者会見で、松井一実市長は名簿提出について問われると「(県から)不要だと返事がきたので扱いを変えた」と説明し、「撤回」という表現は避けて「不要になった」ということでこの問題を決着させた。

その松井市長は2012年から毎年、市職員向けの研修で「教育勅語」の一部を「民主主義的な言葉が並んでいる」、「先輩が作り上げたもので良いものはしっかりと受け止め、後輩につなぐことが重要」などと主張して、紹介していたことが2023年になって初めて報道され、多くの市民からの批判がいまもよせられている。にもかかわらず、その後も市長は毎年の研修で「教育勅語」を研修資料として使い続けている。

国民道徳の基本と教育の根本理念を明示する目的で1890年に発布された「教育勅語」には、12の「徳目」が入れられており、その中には親孝行、夫婦相和、朋友相信、博愛など儒教主義道徳教育が提唱した徳目も使われている。しかし問題は、「教育勅語」ではこれらの徳目が、天皇を神聖なる父と仰ぎその父に絶対的服従を誓う臣民を赤子とみなす「家父長制家族国家」という天皇制イデオロギーの正当化のために、明瞭には見えない形で利用されているということである。そのことは、12の徳目の中では、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ)」が最重要視されていることから明らかである。つまり「天皇のためにはいつでも一命を捧げよ」が、最も重要な徳目なのである。

かくして、この「教育勅語」が全国の学校で徹底して教え込まれることで、「神話的国体観」や「神聖君主絶対服従」の思想が全国民の思考の中に浸透させられていった。その無知と傲慢の結果が、朝鮮人・中国人をはじめとする多くのアジア民族の蔑視に繋がり、ひいては朝鮮・台湾植民地化、満州支配、中国への侵略戦争、そして最終的には壮絶な太平洋戦争へと突入し、自国民を焼夷弾・原爆無差別大量殺戮の大悲劇へと追いやり、国内外のアジア太平洋全域で数千万人という膨大な数の多民族の人命を失わせた。この厳然たる歴史経緯を忘れて、「教育勅語には民主主義的な言葉が並んでいる」などという愚鈍な発言を恥ずかしくもなく発することのできる人間が、いまや自称「平和文化都市」を名乗る広島市の市長を務めているのである。

さらにまた、広島市教育委員会は2023年度から、世界各地で愛読されている、戦争と核兵器の恐ろしさ、命の大切さを強力な視覚メッセージで伝える名作漫画、「はだしのゲン」を平和学習教材から削除してしまった。同時に日本各地では小学校の段階で、憲法9条を教える前に、自衛隊の「わが国の平和と安全を守る重要な防衛の役割」について、いろいろな形で教え込む手段がすでにとられるようになってきている。

このように、天皇の「象徴権威」を巧妙に活用する国民(意識)支配機能が、「敗戦国ナショナリズム」の象徴としての天皇の「慰霊の旅」と並行する形で、国民の気がつかない間にジワジワと強化され、最近はますますその速度が速まっているのが現状である。自分たちの戦争加害と被害がどのように絡み合っているのかを深く理解しながら、自他両方の戦争責任問題を追求していくという確固たる姿勢を持続していくことなしには、真の意味での平和構築は不可能である。なぜなら、平和構築とは、言うまでもなく他国との国際関係の問題である。一方的に「敗戦国ナショナリズム」にのみ依拠しながら「戦争の尊い自国の犠牲者」の「痛み」のみを強調することだけで、他国の戦争犠牲者を無視し続けることからは健全な国際関係が成り立つはずがない。

成り立たないどころか、「敗戦国ナショナリズム」は、「悲しい犠牲を再度出さないための防衛」という「防衛ナショナリズム」にいとも容易く転換させられる危険性を常に孕んでいるからである。この転換の危険性がもうすぐそこまで迫ってきていることは、現在の日本の状況 ― 猛烈な勢いで進む自衛隊の「敵地攻撃能力」強化と憲法9条の実質的な無効化、米軍への全面的追従に基づく沖縄、岩国をはじめ日本各地の軍事要塞化など ― から明らかである。

 

結論:戦争責任問題にとって不可欠な「惻隠の情」

 

孟子の教えに『四端・不忍人之心』というのがある。その教えの中で彼は、「人には皆、他人の不幸を見過ごせない<忍びざる心>がある。昔の聖王は、人の不幸を見過ごせない<忍びざる心>を持って、人の不幸を見過ごさない(思いやりのある)政治を行った。人の不幸を見過ごせない<忍びざる心>で、人の不幸を見過ごさない政治を行うならば、天下を治めることは、手のひらに物をのせて転がすように(たやすく)できる」と述べている。この「忍びざる心」を孟子は、「もしも今、人が急に幼児が井戸に落ちそうになっているのを見たならば、誰もがはっと驚いてかわいそうに思う心を持つだろう。そして、助けようとするだろう」と説明し、それは自然と人の心に生まれる「あわれみの心」であり、これを「惻隠の情」と彼は呼んだ。「惻隠の情(あわれみの心)」は仁の端(芽生え)でもあると孟子は説明している。さらに孟子は、「惻隠の情」を持って仁の政治を行わない皇帝や王は排除すべし、という易姓革命の思想を唱えた。

この孟子の言葉を読むたびに私は、政治家はもちろん、ごく普通の市民個々人にとっても戦争責任問題を考える場合、「惻隠の情」で被害者の「痛み」を自分の「痛み」として内面化すること、そのためには「仁の端」=「倫理的想像力を芽生えさせる」ことが必要であると考えさせられる。同時に、なぜ日本の天皇や政治家だけではなく一般市民も、自分たちの父や祖父の世代の男たちが日本軍将兵として海外で犯した残虐行為の被害者やその遺族の「痛み」に、「倫理的想像力」を働かせて、その「痛み」を自分の「痛み」として心のうちに深く強く内面化することができないのであろうか、と考えざるをえないのである。「敗戦国ナショナリズム」を崩すには、単に政治・社会・歴史などの理論的学習だけでは到底不可能であり、戦争責任問題でこの「惻隠の情」を如何に日本人の心に芽生えさせるかという、「精神文化の構築」の問題として取り組むことが必要不可欠だと私は考える。戦後80年という長い年月、日本人は「惻隠の情という精神文化の構築」をいたく蔑ろにしてきた ― そしていまそのツケが我々の日常生活に回ってきつつあるとも私は考えている。これは極めて大きな問題なので長い時間をかけて議論する必要がある。

それとは別に、この80年の間、なぜゆえに日本は自国の戦争加害にこれほどまでに感知不能となってきたのか、その原因と歴史的経緯を簡単に次回の論考で辿ってみたい。

 

関連ニュース:

「人間がやることではない」日本軍が東南アジアで行った華僑粛清その実態【報道ステーション】(2025811)

https://www.youtube.com/watch?v=mwQT196hTc0

 

戦後80年 謝罪求め政府に請願書 「細菌戦」などの被害訴える中国人らが来日

https://news.yahoo.co.jp/articles/11a83fa582adebbfd9802a37e0a15812ea652567

被害訴えるために来日した中国の人たちに関するニュースでは、請願書提出に立ちあった畏友・増田都子さんから以下のようなメールをいただきました。

「応対したのは外務省の二人の若いお役人。新聞にあるように「持ち帰り検討させていただきます」と何度も何度も言われるのですが、80年経っても「これから検討する」!? で、その回答もわかっています。「政府部内に資料が見当たりませんでした」!?

  添付森さんの資料にあるように、最高裁も「731部隊、1644部隊が人体実験を行い、細菌兵器を製造し細菌戦を行った」と認定していますし、共産党山添拓議員の国会質問でも防衛研究所にある公文書を示しているのに日本政府は事実を認めようとしません。添付資料にあるように、2011年には国会図書館でに「1943年12月14日『陸軍医学校防疫研究報告』第一部60号」にある、細菌兵器作戦としてペスト菌を投下しての報告も発見されているにもかかわらず

  これは細菌戦だけでなく、大日本帝国が国家として行った反人道犯罪である関東大震災における朝鮮人・中国人大虐殺、従軍慰安婦等々、全てにおいて、れっきとした公文書があるにもかかわらず日本政府は「見当たらない」と厚顔無恥な回答を出し続けています

 請願者代表の鐘恵明・中国抗日戦争歴史史実維護会会長が「安倍談話でも『反省』と『お詫び』という言葉が入っていましたが、本当に反省しているというなら、どうして、サンフランシスコ条約第11条で『東京裁判を受け入れる』と約束して国際社会に復帰できたのに(戦争犯罪の最高責任者の極悪人として絞首刑となったA級戦犯を神と崇める)靖国神社に国会議員達がたくさん参拝できるんですか? 『反省』しているのに、なぜ『謝罪』ができないんですか?」と発言されました。心が痛いですね

 新聞にある馬燕さんは牧師さんとのことでしたが「日本に初めて来ました。街はどこもとても綺麗でした。でも、政府の人の心は黒く汚れているのではないしょうか?」

ん~~ため息。」

2025年7月22日火曜日

性暴力(セクハラ)と憲法1条の相互関係についての一考察

この論考は<日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワーク>のニュースレター最新号に掲載されたものです。ご笑覧、ご批評いただければ光栄です。

 

田中利幸

 

権力による性暴力隠蔽

 

20154月、フリー・ジャーナリスト 伊藤詩織は、安倍晋三首相と親しい当時TBSワシントン支局長の山口敬之にアドバイスを受ける目的で東京で会い、二人で飲食している間に伊藤は急に昏倒し、意識を取り戻すと山口にレイプされている最中だった。被害後、伊藤は自分の下着から検出された山口のDNA、山口がホテルへ移動したタクシー運転手の証言やホテルの防犯カメラ映像などの証拠を集め、警察に告発。これを受けて高輪署も山口の逮捕令状を裁判所から得た。しかし、まさに捜査官が山口を逮捕しようとしたその間際に、警視庁本部の中村格・刑事部長(菅官房長官の元秘書官)の突然の指示で、逮捕は見送られた。政治権力の介入があったことは誰の目にも明らかであろう。

その後、捜査は警視庁本部捜査一課に引き継がれたが、十分な捜査は行わずに東京検察は不起訴を決定。事件数日後に被害届けに行った警視庁高輪署で、伊藤は「よくあることだから諦めろ」と言われたとのこと。2022125日、伊藤が山口から性行為を強要されたとして損害賠償を求めた裁判で、東京高裁は山口に330万円の賠償を求める判決を下した。4年間の長い苦しい闘いを経て、ようやく伊藤は勝利を手にした。

 

伊藤詩織

11歳のとき東日本大震災の被災地・宮城県での避難生活を余儀なくされたおりに、女性自衛官が活躍するのを目にして、五ノ井里奈は自衛隊入隊を志願。20203月に入隊してまもなく、郡山駐屯地の男性隊員たちから数々の性暴力被害を受けた。例えば、20218月、3人の男性隊員が五丿井をベッドに押し付け、両脚を無理やり開き、代わる代わる何度も股間を押し付けた。このとき周りには同僚が十数人いたが、誰も3人を止めなかったどころか、彼らの前で「すごい笑いもの扱いにされた」とのこと。五丿井はこの出来事を上官に報告したが、目撃証言を得られず、被害の訴えは退けられた。

20226月、五丿井は自衛官を退職し、インターネット上で性被害を訴える活動を展開。ユーチューブに投稿した動画は広く拡散され、彼女の事件について防衛省に調査を求める請願書には、10万人以上の署名が集まった。この訴えを自衛隊は無視できなくなったのであろう、ようやく内部調査を実施。その結果、100件を超える自衛隊内部でのセクハラの訴えが寄せられたとのこと。その後、防衛省は5人の隊員を懲戒免職にし、五ノ井に謝罪した。しかし彼女は、精神的苦痛を受けたとして、20231月にこれらの元隊員5人と国を提訴(うち1人とは和解)。そのうち3人は、彼女に対する強制わいせつ罪に問われ、同年12月に福島地裁が、懲役2年、執行猶予4年とした判決を確定した。さらに、20247月の横浜地裁の訴訟で、3人が謝罪した上で一定の金銭を支払うとの内容で和解した。

五ノ井里奈

政府や自衛隊という公的組織のみならず、商業(会社)組織内における性暴力問題とその組織権力による性犯罪隠蔽についても、多くのケースが次々と明らかとなってきている。例えば、ジャニーズ喜多川による長年の性暴力行為をジャニーズ事務所という会社が事実上「疑惑隠蔽」を行なっていたことや、最近のケースとしては、中居正広による女性アナウンサーに対する性暴力をフジテレビ自体が隠蔽しただけではなく、未確認情報ではあるが、会社の幹部が女性アナウンサーたちを「性的奉仕に動員」していたという情報すら流れている。つまり、性暴力とセクハラは、パワハラ同様に、決して組織内の諸個人レベルの問題ではなく、組織が公的か私的かにかかわらず、日本のさまざまな組織権力構造そのものが創り出している由々しい問題であることが明瞭に理解できる

検事正による部下の検事への性暴力と検察庁による隠蔽

ひじょうに根が深いと思われる「性暴力隠蔽」の構造的問題を、最近、最も顕著な形で露呈したのが、元大阪地検トップの性暴力を告発した被害者・検事のケースであろう。被害者である検事は実名を明らかにしておらず、「ひかり」という仮名を使っているので、ここでも仮名をそのまま使うことにする。なお、この事件に関する以下の説明は、ひかり自身による証言文に沿って、証言文を引用しながら記す。

20189月、大阪地検のトップである検事正の北川健太郎と検察職員らが参加する職場の懇親会で、ひかりは飲み慣れないアルコール度数の高い酒を飲む事態に陥り泥酔した。意識が朦朧とした状態で、北川からの二次会の誘いを断って1人でタクシーで帰宅しようとしていたところ、北川が強引にタクシーに乗り込んできて、彼女は官舎に連れ込まれ、長時間、性的暴行を受ける被害を受けた。彼女は泥酔していて身動きが取れず、北川と2人きりであったため他人に助けを求めることもできず、「夫が心配しているので帰りたい」と訴え続けたが、北川は、「これでお前も俺の女だ」と言い放ち、彼女に長時間に及ぶ性的暴行を繰り返した。 「女性として妻として母としての尊厳、そして検事としての尊厳を踏みにじられ、身も心もボロボロにされ、家族との平穏な生活も、大切な仕事も全て壊されてしまいました」と、彼女は吐露している。

北川は、最初は、なんら記憶にないとしながらも、彼女に対して一応罪を認め謝罪し、「警察に突き出してください」とまで言ったそうである。しかし彼女はあまりのショックで、被害を訴えることができなかったとのこと。しかし、その後、北川は辞職もせず検事正職に留まり、彼女の被害感情を逆撫でし続けたことから、事件から約1年後に、「上級庁に被害を訴える」、つまり内部告発するとひかりは北川に伝えた。ところが、北川は「口外すれば自死する。検察組織が立ち行かなくなる。あなたにとっても大切な組織と職員を守るために口外するな」などと、脅迫まがいの卑劣な口止めを要求したため、被害を訴えることができなくなったそうである。

彼女は、結局、泣き寝入りを強いられた形で、精神的痛みに堪えながら、また、警察官や他の検察官にも彼女自身の被害を伏せた上で、性犯罪や虐待被害など過酷な犯罪被害に苦しむ事件ケースを担当し続けたそうである。その一方、北川は、自分が犯した卑劣な性犯罪を隠蔽したまま円満退職し、数千万円の退職金と弁護士資格を取得し、且つ、引き続き検察庁に自身の影響力を及ぼし続けた。

ひかりは、PTSD(心的外傷後ストレス障害)症状を悪化させ、病休に追い込まれ、生き甲斐だった検事の職まで失いかけたので、「生き直すため、家族との平穏な生活を取り戻すため、検事としての尊厳を取り戻すために、20242月、勇気を振り絞って被害を訴え、北川被告人から受け取らざるを得なかった私と夫に対する損害賠償金を全額突き返し、北川被告人に対する厳正な処罰を求めた」とのこと。

この彼女の証言から、ひかりの夫はおそらく彼女のことを深く理解し愛しており、常に精神的に彼女を強く支え続けているものと私は想像する。そうでなければ、幼さない子どもをもつ母親であるひかりがここまで精神的苦痛に耐えることができ、しかも加害者の卑劣で非道な行為と正面から向かいあって法的な闘いを続けることはできないのではないかと思う。愛情に満ちた真に理解のあるパートナーを持つこと、その強い人間関係の絆で支えられることが性暴力被害者にとっていかに大切であるか、そのことに痛く気づかされる想いである。

ところが、彼女が信頼していた同僚の1人である女性副検事が、内偵捜査中の秘匿情報を北川本人や関係者に漏洩し、さらには、ひかりがこの問題で北川との連絡でやり取りしていた証拠内容を削除して、北川の「同意があったと思っていた」という虚偽の弁解に沿うような虚偽の供述を副検事もすることで捜査妨害行為をしていたことを、ひかりはこの闘いの過程で知ることになった。しかし、検察庁は、副検事のこの捜査妨害犯罪行為を知りながら何の処分もせず、PTSDで苦しみながら復職しようとしていた彼女を、その副検事と同じ職場に復職させた。そのうえ、ひかりが北川の性犯罪被害者であるという、彼女が誰にも知られたくなかった秘匿情報を、副検事が検察庁内外に吹聴していたことも知ることになった。さらに、この副検事は、自身が事件関係者で事件の真相を知っているかのように装い、検察庁内で、秘匿されていた生々しい被害内容を吹聴し、ひかりが病気を偽り、まるで金銭目当ての虚偽告訴をしたかのような誹謗中傷をしていたことも知ることになった。

こうしてひかりは、800人の職員がいる大阪検察庁内外で広くセカンド・レイプの被害まで受け、プライバシーや名誉を著しく傷付けられ、本来被害者を守り、職員を守るべき検察組織に適正な対応をしてもらえず完全に孤立させられ、復職を目指していたにもかかわらず再び病休に追い込まれた。ところが、検察庁は、捜査を一方的に打ち切って不当処分にしてしまった。かくして彼女は「北川被告人、副検事、検察組織から何度も魂を殺され続けているのです」と検察庁を批難している。

ひかりは、20242、ついに被害を訴え出て、その結果、北川は同年6に準強制性交容疑で逮捕され、7に同罪で起訴された。202410の初公判で北川は「争うことはしません」と起訴内容を認め、「被害者に重で深刻な被害を与えた」と謝罪した。ひかりは女性副検事も名誉毀損や国家公務員法違反の疑いで告訴・告発したが、20253検は性副検事を不起訴処分とし、組織としての懲戒処分も最も軽い「戒告」で済ませてしまった。

記者会見するひかり

しかし、それだけではなかった。初公判で一旦罪を認めていた北川は、同年1210日、一転して、「同意があったと思っていた」と全く不合理な弁解をして無罪主張に転じたのである。周知のように、飲酒や、予想外の展開、相手との地位関係性などにより、同意しない意思を形成、表明、全うすることが困難な状態でなされた性的行為は処罰される」という処罰範囲には、20237月施行の法改正前も法改正後も、変更はない。「同意があったと思っていた」という身勝手極まりない破廉恥な言動は、北川だけではなく、山口敬之など、アルコールや薬物を摂取させたうえで強かんを犯す加害者の多くが使う卑劣な口実であることは今さら言うまでもないであろう。しかも、この口実をそのまま受け入れる裁判ケースが多々あるので、同じ口実を使う加害者が後をたたない。

よって、残念ながら、ひかりの裁判闘争は今後も長く続くことになりそうである。ひかりは、自浄能力を完全に失っている組織である検察庁には、第三者委員会による検証と被害者庁の設置が必要であることを強く訴えている。フジテレビのケースが第三者委員会の設置によって初めて真実が明らかになってきたように、性暴力やパワハラを組織権力そのものが黙認し且つ隠蔽しているのが一般的な状況である日本では、組織構造全体を自浄するためには、どうしても独立した第三者委員会の設置が必要である。なお、あらためて言うまでもないと思うが、性暴力は被害者を精神的に支配したいという加害者のパワハラ欲求と重なっているので、この二つを同時に問題にしなければ真の解決は不可能である。ひかりも証言の中で、性暴力を受ける以前から、激しいパワハラを北川から受けていたことに言及している。

日本における「性暴力・セクハラ・パワハラ」と天皇制イデオロギー

  性暴力、セクハラやパワハラは、もちろん日本独自の問題ではなく世界各国に見られる普遍的な問題である。しかし、海外、とくに欧米先進諸国における同じような問題はあくまでも個人レベルの問題であって、組織全体が構造的に、権力を使って、その特定の個人が犯した性犯罪やパワハラを黙認するだけではなく、隠蔽してしまうなどというケースはほとんどなく、あったとしても極めて稀ではないかと思われる。ましてや、性犯罪を含むさまざまな刑事事件の捜査を行い、被疑者を起訴するか否かを判断する検察庁が、その職員が検察庁内部で犯した性犯罪とそれに関連した犯罪を隠蔽してしまうなどということは、ほとんどありえない話である。

201411月、衆議院議員・鈴木貴子による検察官によるセクハラ行為に関する質問に対する当時の国務大臣・麻生太郎による答弁書では、2004年から14年までの10年間に検察官がセクシャル・ハラスメントをした事例で、法務省において把握しているだけでも12件あることが確認されており、その中には静岡検察庁の、これまたトップである検事正が、女性職員に対して犯したセクハラ行為が含まれている。おそらくこれらの事例は「氷山の一角」であり、ひかりのケースのように被害者が表沙汰にするケースはほとんどないのではなかろうか。こんな為体な検察庁なので、性暴力・セクハラの被害にあった一般女性が警察に相談したとしても、被害届が受理された件数は相談した中の約半数であり、そのうち検察で起訴された数はごく僅かというのが現状。よって、8割以上の被害者が被害届を出さないというのが日本の現状なのである。

    こうして日本の現状を見てくると、日本の性暴力は個人レベルの問題をはるかに超える、歴史文化的な社会構造の問題であって、この歴史文化が、戦後80年経っても日本軍性奴隷制度(いわゆる「慰安婦制度」)に対する責任回避を政府に続けさせ、日本のジェンダーギャップを世界で146 カ国のうち118位という低位置にとどめ、杉田水脈のような人間として低劣な女性・人種差別主義者を国会議員に選出し、選択的夫婦別姓をゆるさない世界でも稀な国とさせ、いまだに大多数の国民が、家父長制的家族国家の維持をことあるごとに強く打ち出す政府、保守政党と政治家たちの存在をほとんど異常とは思わない、極めて異常な「立憲君主制の民主主義国家」にし続けている。

    ところがこの「立憲君主制」そのものに、ジェンダー問題で度し難い矛盾が埋め込まれていることに、大部分の国民はもちろん、憲法学者ですら注意を向けない。民主憲法と称しながら、憲法1条の天皇は、皇室典範第1条で「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」となっており、天皇の存在そのものが男女平等を保証する憲法14条と24条に明らかに違反している皇室典範には第1条だけではなく、憲法に違反するまだ多くの条項が含まれているが、とにかく憲法1条で規定されている「象徴」としての天皇が男でなければならないことは、したがって天皇という存在そのものが、まさしく「女性差別」だけではなく「LGBT差別」の象徴でもあるのだ。それだけではなく、日本の伝統的な家父長制的家族国家観を社会のさまざまな面で深く支え続けている「天皇制イデオロギー」  ― それが実は上で見た日本のさまざまな組織権力構造の支えともなっているイデオロギー ― の発生源でもあり続けている。よって、再度述べておくが、憲法1条と天皇制イデオロギーによって強く深く且つ広く支えられている日本の伝統文化そのものの根本的な変革なしには、さまざまな日本の組織内における性暴力・セクハラ・パワハラを一掃することは不可能であろうと私は考える。

― 完 ―


2022年12月3日土曜日

日英「立憲君主制」比較 ― 「土地の権利」と「血の権利」のギャップ

この小論考は『反天ジャーナル:天皇制を知る 考える』の依頼で書いたものです。『反天ジャーナル』の許可を得て、ここに転載させていただきます。

https://www.jca.apc.org/hanten-journal/

 

めざましい非白人系英国人の進出

周知のように、英国の政治は今年7月から10月にかけて続いた混迷状態の末に、10月25日、リシ・スナクを首相とする新内閣が成立し、一応落ち着きを取り戻している。スナクは、インド系移民の両親のもとに1980年に英国内で生まれ、2015年に国会議員として初当選した。アジア系非白人で且つヒンズゥー教徒という背景を持つ人物が英国首相に就任したのは、長い英国政治史上初めてである。この背景には、この10年ほどで英国の政界に急激な変化が起きていることがあげられる。2010年の非白人系(英国では「人種的少数派」と呼ばれる、主として黒人系・アジア系市民)国会議員の当選者数が27名であったのが、2019年には65名まで増え、現在は下院の1割が非白人である。しかも、首相を含め閣僚の5人が非白人である。

政界におけるこうした変化は、もちろん社会全体における変化の反映である。2018年の統計調査では、英国全人口に占める非白人系の人口は13.8%であるが、都市部ではその数字は非常に高く、ロンドンでは40%の住民が非白人で、ロンドン市議会議員の28%が非白人である。非白人系とは、元々は大英帝国植民地であったアフリカ・カリブ海諸国やインド・パキスタンなどからの移民を両親や祖父母とする、英国生まれの人たちである。政界だけではなく、公務員数に占める非白人の割合はさらに高く、2022年の統計調査では、英国の公務員総数の25.2%、すなわち4人に1人にまでなっている。さらに医師ならびに医療関係の仕事に従事している非白人数は、英国全体でそれぞれ49%と41.9%となっており、そのうちアジア系が34.5%と32.2%と際立って高い。つまり、医師や看護婦のほぼ半数は非白人系で、その大部分がアジア系である。

英国王室もこうした状況を踏まえて、王室職員に占める非白人系の割合を増やさざるをえず、2011年にはその割合は8.5%、2022年には10%にまで徐々に増やしてきている。

 

英連邦の多民族性の象徴として生き残りをはかってきた英国王室

日本の天皇は、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と憲法で規定されているが、一般的には日本国民=大和民族という単一民族の象徴と理解されていると言ってよいであろう。ところが、英国の国王は単に英国=Britain (正式には United Kingdom of Great Britain)の国家元首であるだけではなく、1926年に設立された英連邦王国(British Commonwealth of Nations)という制度に基礎をおく、「Commonwealth of Nations(諸国家連邦)」の代表=象徴という存在でもある。ちなみに日本ではいまだに「イギリス連邦」または「英連邦」という用語が使われているが、厳密にはこれは間違いであって、1949年から「英国」という言葉は「連邦」とは分離されて、「諸国家連邦」という名称だけになっている。

今その歴史的背景を詳しく解説している余裕がないので、ごく簡単にだけ説明しておくが、「諸国家連邦」は54カ国の加盟国からなる組織であり、そのほとんどは世界各地に存在していた大英帝国支配下の旧植民地であった。

19世紀後半、英国は、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、南アフリカの白人中心の植民地に自治権を与えて独立を認める代わりに、英国王(女王)に対し引き続き元首として忠誠を誓う国家連合体として強く連携する体制=英連邦王国を設置した。ところが、第2次大戦終結直後の1947年段階で、最大の植民地でしかも非白人民族が主体のインドパキスタンが独立したのを機に、1940年代後半から50年代にはアジア諸国が次々とイギリスから独立し、英国王を元首としない共和国となった。英国側は、国王を元首としない共和国でも英連邦内に残留できる制度にして、旧植民地国に対する英国の影響力を出来るだけ維持することをはかった。多くの旧植民地=中小国にとっては、英国をはじめカナダ、オーストラリアなどの先進国から、経済・貿易・税制面での優遇など、有形・無形の様々な支援を受けることができるという実利もあって、英国を中心とする連邦制度に加盟国として残ることになり、現在に至っている。

この連邦制度の代表者である英国王は、54カ国の加盟国、すなわち世界の独立国の4カ国に1つ、総人口にして24億人余りで、全世界約77億人のほぼ3分の1という多民族・多文化の「象徴」なのである。王室家族内は不倫、離婚、未成年者との性交をめぐる裁判、親族内輪もめなど、問題だらけであるが、故エリザベス女王は、この多民族・多文化の「象徴」というポジションをひじょうに巧みに活用し、彼女に対する敬慕と憧憬を連邦諸国の無数の一般市民の心に常に掻きたて続けることで、立憲君主制の継続保持に務めてきた。新国王であるチャールズが、果たしてどこまで母親の偉業を継承することができるかどうかは未知数である。

 

 

 

「土地の権利」と「血の権利」のギャップ

こうした多様な民族・文化が複合した歴史的背景を持つ国家である英国の王室と、いまだに単一民族、単一文化を誇りにしている国家である日本の皇室との間の決定的な違いの一つは、王室/皇室が「国民の認定」の仕方といかなる関係にあるのか、その関係の違いである。

英国の場合は、例え旧植民地からの移民の子孫であろうと、英国の土地に生まれ、そこに住みつく人間は誰であれ英国市民として認定されるのは当然であり、選ばれれば首相の座につく権利さえある。国王/女王はそうした多民族・多文化の背景を持った市民の代表=元首であり、象徴として存在する。よって国王/女王だけではなく、王室のメンバー全員が、人種的・文化的な「多様性と包括性」の方針を常に順守しなければならないと定められている。すなわち、英国民が国民として認められるのは、英国という土地で生まれたという「土地の権利」であり、その人間がどのような「人種的な血」を持っているかとは無関係で、国王/女王も国民のその「土地の権利」を尊重しなければならない。

一方、日本では、日本という土地で生まれ育っても、例えば親が韓国人/朝鮮人であれば「人種的な血」が問題視され、「土地の権利」は否定され、日本人とはみなされない。「血の権利」は、親から日本人の血を受け継いだ人間にだけ認められるのである。よって「血の権利」を持たない難民や移民希望者も、最初から受け入れられないどころか、犯罪者扱いされて監禁され、最悪の場合は監禁所で命を落とすことになる。

こうした血縁の重視は、同時に民族とその文化(言語・生活様式・宗教など)の重視でもあり、天皇はそうした民族と文化の象徴として崇められている。その一方で、他民族の文化は軽視されるか拒否される。現実には、日本も多くの外国人労働者を受け入れており、そうした労働者の中には日本で子供を産んでいる人たちもいるにもかかわらず、その子どもたちの「土地の権利」は認められない。天皇や皇后は、英国王や女王と同様に様々な慈善活動には関わるが、英国王/女王と異なり、人権問題、とりわけ外国人の人権問題には一切関与しない。なぜなら、「血の権利」からは、人類に普遍的な「人権」という意識は生まれてはこないからである。

 


 

 

 

誤解しないでいただきたいが、私は英国の立憲君主制を賛美しているのではない。それどころか、国王であれ天皇であれ、いかなる形式での君主制にも私は全面的に反対である。私が強調したいのは、日本人の人権意識の希薄性は、「血の権利」という狭隘な観念と密接に関連しており、その観念は天皇イデオロギーと強く結びついた独特の文化思想の重要な要素となっているということである。天皇制解体のためには、「血の権利」観念をどう打ち破るか、そのことが極めて重要な問題である。

 

田中利幸(歴史家)