去る5月15日、日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワークの主催で行っていただいた勉強会でオーストラリアのご遺族お二人が行われたスピーチの、全文和訳をここに紹介させていただきます。お二人のスピーチから、戦後76年たつ今も、ご遺族にとっては、日本軍による残虐な戦争犯罪行為によるご親族の死亡は、忘れがたいものであることがひじょうによく理解できます。
ジョージーナ・バンクスさんのスピーチ
私の名前はジョージーナ・バンクスです。私の大叔母のドロシー・エルムスは豪州陸軍看護隊の看護師でした。家族から彼女はバッドという愛称で呼ばれていましたので、友達もみな彼女をバッディと呼んでいました。彼女は私の祖母のたった一人の姉でした。
バッドは最初マラヤに派遣され、それからシンガポールの第2・10豪州総合病院に勤務しました。シンガポールが日本軍に攻略される直前の1942年2月12日、65名の豪州陸軍看護師がヴァイナー・ブルック号という船で撤退させられました。この船がバンカ海峡で爆撃され沈没し、バッドは同僚たちとバンカ島にたどり着き、2つの灯台の間にあるラジー海岸に上陸しました。豪州の看護師たちは同じ海岸にたどり着いた負傷者や瀕死の人たちを看護しましたが、食糧や医薬品はほとんどありませんでした。当日と翌日にかけて、ヴァイナー・ブルック号や同じようにシンガポールを出港して途中で爆撃され沈没させられた他の船の乗船者のうち、80〜100名がバンカ島の海岸にたどり着きました。
二日後の1942年2月16日、みな空腹状態でしかも負傷者が大勢いたので、ヴァイナー・ブルック号の1等航海士であるセジマンという人にムントクの街まで行ってもらうことを決めました。日本軍はムントクをすでに占領していることを彼女たちは知っていましたので、日本軍に投降してジュネーブ協定に基づいて自分たちを保護してもらえるはずだと思ったからです。セジマンは一士官に連れられた15名の日本兵と海岸に戻ってきました。この兵隊たちは日本陸軍第38師団229歩兵連隊(田中部隊)のに所属する折田優大尉(のちに少佐)が指揮する大隊の兵隊たちでした。士官は海岸にいた人たちを3つのグループ - 男たちを2つのグループに、女たちを1つのグループ - に分けました。男たちは海岸の別の場所に移動させられ、刺殺や銃殺されました。22名の看護師と1名の市民の女たちのグループは、海に向かって歩かされ、背後から銃撃されました。私の大叔母はそのとき27歳でした。たった一人、ヴィヴィアン・ブルビンケルだけが生きのびましたが。男のうち3人が生きのびました。
バッドと彼女がどうなったのかについては私の家族の間では決して話題になったことはありませんでした。私の祖母ジーンもバッドの名前さえ口にしませんでした。その祖母が晩年に入院したときに、叔母のサリーが、自分の母親(つまり私の祖母)が戸棚の中に隠していたバッドがマラヤやシンガポールから出した手紙と、バッドが「行方不明になっており死亡したものと思われる」という知らせの電報があるのを発見しました。叔母のサリーもそれらを読んだのは初めてで、そのときバッドのことをようやく分かった気がしたのですが、同時にバッドを本当に「なくした」という気持ちにもなりました。
私が大叔母のことに関心を持ち始めたのは、思いがけなくも、2017年にラジー海岸で行われた75周年追悼記念儀式に招かれた時からでした。バンカ島から戻って間もなくのことでしたが、テス・ローレンスという記者が「インデペンデント・オーストラリア」という新聞(2021年4月からオンライン新聞)に「ヴィヴィアン・ブルビンケル:バンカ島虐殺事件と生存者としての罪意識」と題した記事を発表しました。この記事の中でローレンスは、「“私たち” - つまり彼女自身と銃殺された女性たち – が日本軍兵によってその前に“犯された”という事実が間違って長く秘密にされてきた」と彼女が書いているのを読みました。
これを読んだとき、大叔母たちが海に向かって歩かされて背後から銃撃されたという私が信じてきた話、それ自体が酷い話ですが、それが神話だったのだと知らされ、私はひどくとり乱してしまいました。この恐ろしい野蛮な行為の話に私はうちのめされてしまいました。
私のこの心の傷は、1946年にヴィヴィアンが東京裁判で証言したときに、豪州政府の命令があったため、彼女と彼女の同僚たちが深い痛みを受けたことについて沈黙しなければならなかったというテス・ローレンスの記述のために、さらに深くなりました。
それ以来、私はその歴史的事実を証明するためにこの問題を直視するようになり、田中さんが説明したような研究にも関わるようになりました。重要な状況証拠があるにもかかわらず、豪州戦争博物館などは「実際に何が起きたのかその明確な事実を確認できる記録が存在しない」と最近も主張しています。
私はいま、情報公開法に基づいて、ヴィヴィアン・ブルビンケルの診療記録が見れるようにという請願書を提出しようと計画しています。この診療記録が決定的な証拠になるだろうと私たちは考えているからです。リネッテ・シルバーが強姦に関する多くの関係証拠を集めましたが、一人の女性が彼女にEメールを送ってきて、「1960年代に、ヴィヴィアンがフェアフィールド病院の看護婦長だったときに、フィリパという女性がメルボルンの帰還兵・看護師協会事務局の事務員だったそうです。フィリパの上司のビル・サウスが、ある日彼女に<ブルビンケルの診療記録ファイルは、副局長補佐のコンデ氏の金庫にただちに戻さなければならない>と言ったそうです。(しかしどんな書類も通常は見ることができますので)「いったい、どうしてですか?」と尋ねたそうです。そのとき「分かっているだろうが、ヴィヴィアン・ブルビンケルがバンカ島で日本兵に強姦されたことは、極秘事項だからね」と言われたそうです。
日本の人たちに望むこと
私たちは、この事件が実際に起きたということを日本政府に正式に認めてほしいのです。日本では関係書類の多くが破棄されたことを知っていますが、もしも関係書類が残っているならば、それを見せていただきたい。さらに、日本が第2次世界大戦に関する教育を改革し、広島・長崎原爆投下で日本の人たちが惨たらしい犠牲者になったという明らかな事実だけではなく、日本軍が犯した戦争犯罪の様々な具体的例も学校で教えることを、私たちは望んでいます。
私たちは世界中の「慰安婦(軍性奴隷)」の人たち、その遺族の人たちの声に、私たちも一緒に声をあげて参加したいです。どこで起きる戦争であれ、戦争が汚い秘密をもたらすということを広く知ってもらうために、主としてアジアの女性たち、戦争における性犯罪の被害者の人たちの声に加わりたいのです。
日本の人たちに共感を求め、私たちに何が起きたかについても耳を傾けて欲しいのです。もちろん、その話は不快で心乱すものではありますが、それが事実なのですから。
このことを、憎悪と非難の気持ちからではなく、真実を求め和解をしたいという真の心からお願いするものです。私は相手を許し、歴史を正しく記憶しなければならないと思います。何が実際に起きたのか、なぜそのような野蛮なことが犯されたのかという理由、この場合は第2次大戦での日本軍が犯した残虐行為を、正確に分析することが必要だと思います。
長い歴史においては、様々な国がいろいろな時期に残虐行為や戦争犯罪を犯してきました。オーストラリアは先住民の人たちを大量殺戮した暗い過去を認める必要があります。私たちは全員が一緒に、そのような残虐行為を発生させた自分たちの政治制度、イデオロギー、社会的条件、支配的な心情信念を自己検討する必要があります。
私たちの活動内容
「バンカ島の友」という名称で知られている私たちの非公式のグループは、主としてバンカ島の抑留所に入れられた豪軍看護師とその他の抑留者の遺族で構成されています。私たちの主要な活動の一つは、毎年バンカ島で追悼記念式典を行い(今年はコロナ感染症のためにZOOMでの開催)、海岸で看護師たちが死に向かって最後に歩いたことを再現する「人道の歩み」という儀式を、世界各国の間の平和の象徴として行っています。これは、ラジー海岸の残虐行為は決してそれで終わりでないという意味を込めて、積極的反抗の表明として行っています。
私たちの最終目的は以下のようなものです:
1)バンカ島ならびにその近辺で1942年から45年に起きたことの歴史に関心を持つ多くの市民と政府関連グループの間の仲介、調整。
2)1942年から45年に亡くなった豪州陸軍看護師、市民、軍人、その他の人々の悲劇を追悼し、さらにその歴史的事実について研究すること。
3)オーストラリアとバンカ島、インドネシアの人々の間の交流と親善を深めること。
4)以上3つの上に、バンカ島の教育と医療サービスを向上させるために、地元の学校と医療施設に支援を行うこと。
5)全ての国々の人々の間に平和と調和を育む活動を行うこと。
ジューディーさんは私より昔から、この活動に最初から参加していますので、他の活動についてもお話されると思います。
私の曽祖母は望みを捨てたことはなく、長年、娘の死について詳しく説明されたにもかかわらず、いつの日かバッドが、ビクトリア州のチェスハントにある自分たちの農家に姿を見せるという希望を持ち続けました。
ジューディー・キャンベルさんのスピーチ
私たちが戦争について考えるとき、兵隊が戦いあうことを考えます。通常、そうした戦争活動の間に、傷つき殺される、罪のない、たまたまそこに居合わせた市民については考えません。市民はごく普通の人たちで、敵に捕まったとしても、戦争になった地域に前から住んで働いていた人たち、あるいはたまたまそこに居合わせた人たちです。彼らは偶然戦争に巻き込まれてしまった人たちです。
現在も戦争が起きときには、私たちはその影響について新聞やテレビで知ります。戦争は常に悲劇であり、多くの兵士だけではなく市民もまた死んでいきます。しかし、過去の戦争について考え理解を深めることは、そうした戦争が再び起きないようにするためにも重要です。戦争では人が苦しみ死ぬだけではなく、何世代にもわたってその影響が続きます。戦争を生き延びた者や遺族にとっては、精神的に苦しい多くの記憶とともに生活することを余儀なくされ、平凡で幸せな生活を送ることができなくなります。
私の祖父は、第2次世界大戦中の1944年8月、インドネシア、バンカ島のムントクという町の日本軍の市民収容所で亡くなりました。その祖父のことをお話ししたいと思います。私の祖父の話は、第2次世界大戦中に東アジアの日本軍捕虜収容所で苦しみ亡くなっていった大勢の人たちの経験と、その亡くなっていった人たちの家族が今も苦しみ続けていることの典型的な例と言えるものです。
私の祖父に何が起きたのかみなさんに知っていただきたいのです。同じ収容所に入れられた人たちよって書かれた本や日記を、これまで長年の間、私はたくさん読んできました。また、収容所で当時はまだ子どもだった3人の人たちと会い、収容所がどんなところだったのか詳しく教えてもらいました。さらには、収容所に入れられた人たちが描いた絵もたくさん目にしてきました。
収容所のことに私が興味がある理由は、戦争が私の家族に大きな影響を及ぼしたからです。1942年2月、祖父はギアン・ビーという輸送船でシンガポールを離れましたが、その船は爆撃され、祖父は日本軍に捕まり、収容所に入れられました。そのとき私の父は16歳で、オーストラリアで学校に通っていました。1943年に、祖父はパレンバンから一枚の葉書だけを家族に送ることが許されました。この葉書が着くまで、家族は祖父が溺れ死んだものと思っていました。葉書を受け取った家族はもちろん嬉しかったのですが、終戦になってから、祖父が1944年に亡くなっていたことを知らされました。
私の父は、自分の父を失ったことの打撃から回復することはなく、一生、深刻なうつ病に悩まされ続けました。私は、終戦からそれほど経っていない1956年に生まれました。当時、そして今もそうですが、うつ病がどんな病気かほとんどの人はよく知りません。親戚も私たちを訪問することは嫌がったため、私は孤独な中で育ちました。
私の祖母は、船の周りに落とされた爆弾のせいで耳が聞こえなくなりました。彼女は祖父とは別の船に乗っていたので無事にオーストラリアに着きましたが、その後の彼女の人生はいつも怒りと悲しみに満ちたものでした。私はこれまでに、収容所に入れられた人たちの家族で祖母と同じように苦しんだ家族とたくさん出会ってきました。
第2次世界大戦前と大戦中、マラヤとシンガポールでの市民防衛は志願兵軍によって行われました。そうした英国と豪州の志願兵の家族で作っている歴史研究グループがあり、「マラヤ志願兵グループ」と呼んでいます。このグループの活動を通して私は、爆撃や収容所で親族を失うという同じような戦争体験をした多くの家族と出会いました。家族体験を共有しあい、支援し合うということをやっています。お互いに共通した過去が理解できる、大家族の一員になったような気持ちです。
「マラヤ志願兵グループ」の活動で、バンカ島のムントクの街中に私たちは小さな記念博物館を建てました。収容所があったところに、ムントクで亡くなった捕虜の名前を刻んだ標識をたて、その人たちのお墓が石油スタンドのそばに設置され、合同のお墓も設置されています。ムントクの地元の私たちの友人を助け、私たちの家族の記念のためにも、ムントクのみなさんを支援する活動を行っています。新しい井戸を掘り、学校の設備の修理を行うためにお金を送り、また最近はコロナ感染症に対応するために救急車を購入して送りました。このようにして捕虜の記憶を継承し、彼らの死にもかかわらず、良い結果が生み出されるように努力しています。
ここで私の祖父の背景についてお話ししたいと思います。彼の名前はコリン・ダグラス・キャンベルで、1892年にマラヤに生まれましたが、父はスコットランド人、母はオーストラリア人でした。祖父の父はジョホールの君主に仕える鉄道技師でした。祖父は、マラヤのペラク州でゴム園耕作者となり、オーストラリア人のアンと結婚し、2人の男の子がいましたが、その子どもたちをオーストラリアの学校に入れました。幸せで平穏な生活をおくっていました。
1941年12月8日、日本軍はマラヤに侵攻しました。この日、日本軍は米国の真珠湾、香港、フィリッピンも攻撃しました。それから70日の間、マレー半島で日本軍と英豪軍(地域住民軍を含む)の間での戦闘が続きました。日本軍はシンガポールに向けて侵攻し、途中で幾つもの町を占領して行きました。
英国政府はマラヤとシンガポールに在住する西欧人に対して、安全であるからオーストラリア、インド、南アフリカ、英国などに逃げる必要はないと言っていました。ところがマラヤ爆撃で多くの市民が死亡し、人々はシンガポールに逃げ込んで退避許可を得ようとしました。日本軍がシンガポールに近づくにつれ、小島のシンガポールの飲料水が断水になるのではないかと心配しました。そのとき英国政府は、ようやく西欧人に逃避するよう指示し、「我々はあなたたちを救えないので、神の御加護があるように祈る」と言ったのです。
1942年1月、祖父は妻と他の女性や子供たちを車に乗せ、戦闘を避けながらシンガポールに行き、オーストラリアに安全に逃げれるように船に乗せました。逃避する人はスーツケース1個だけを持っていくことが許されました。港に着くまでに、幾度も、爆撃を受けた建物、道路に横たわっている車や死体の間をぬけて車で通過しなければなりませんでした。日本軍による空爆を避けるために、幾度か車を止めて道路脇の排水路に身を隠しました。
祖母が船で出発した後、祖父はゴム園に戻り、設備や貯蔵物を破壊してから逃れる準備をしました。飼い犬を獣医のところに連れて行き、処分してもらって土に埋め、貴重品も土に埋めました。それから、将来また戻ってこれることを望みながら、働いていた労働者に礼を述べてお金を払いました。家族の所持品、家具、書籍、写真などはそのまま残していくより他はありませんでした。
1942年2月15日にシンガポールが日本軍に攻略される直前の2月13日、祖父はシンガポールに戻り、ギアン・ビー号という貨物船に乗って逃げました。シンガポールに戻るまでに、再度、爆撃で殺された多くの人の死体を避けながら、シンガポールに着いたときは市内全体が火事でした。ギアン・ビー号は、主に女性・子供・老人を乗せてシンガポールから逃避する40隻余りの船のうちの一つでした。これらの船は、数日のうちに日本軍の飛行機や戦艦に爆撃され、インドネシアのバンカ島近海で沈没させられました。
日本軍の飛行機や戦艦はスマトラ島のパレンバンの油田を占領するために出撃していたのですが、それらが避難者を乗せた船を襲ったのです。ギアン・ビー号の船長は、その船が軍用船でないことを日本軍が分かるように、女性・子供の全員が甲板に立つように指示しました。にもかかわらず、ギアン・ビー号ほか40隻あまりの船が爆撃され沈没させられました。日本軍の飛行機は、海に飛び込んだ女性・子どもすら銃撃して殺しました。
その結果、約4千名から5千名の人が亡くなりました。救命ボートに乗ったり、破壊された船の板切れにつかまったり、あるいは3日もの間泳いだりしてなんとか海岸にたどり着いて生き延びた人たちもいました。
祖父はギアン・ビー号が沈没した後、海に飛び込み、乗船客でいっぱいだった救命ボートに引き上げられました。しかし、それ以上救命ボートに乗れない人は、ボートにつかまりなが海に浮かんでいましたが、力尽きて溺れ死にました。
祖父が乗っていた救命ボートは数日後にバンカ島にたどり着きました。乗船客たちは島民によって小さな船に乗せられてゼブスという町までつれていかれました。その町で、地元の中国人の世話になりましたが、やがて日本軍がやってきて祖父たち乗船客をトラックに乗せてムントクの刑務所に連れて行きました。
私はこれまでにムントクを9回訪問しています。2020年には、ゼブスの中国人女性と出会い、彼女が年老いた“マリクお爺さん”を紹介してくれました。“マリクお爺さん”さんは、1942年当時5歳でしたが、お爺さんの家族が乗船客の世話をしたのを覚えていました。その乗船客の一人がオーストラリア人で、その人にビスケットをもらったことを覚えていました。このオーストラリア人は、私の祖父ではなかったかと思います。ゼブスに着いた乗船客を知っている人と知り合うことができて、とても嬉しかったです。
40隻ほどの乗船客のうち約千人がバンカ島のムントクに連れてこられましたが、ほとんどが女性、子ども、老人で、オーストラリアと英国の役人である市民もその中にはいました。この人たちは、生活環境条件がひじょうに悪い収容所を転々と移動させられました。最初はムントク、それからスマトラのパレンバン、再びムントクに戻され、最後はルブック・リンガウのベララウという順番です。収容所では、これらの人たちに、インドネシア各地に住んで働いていたオランダ人が加わりました。
市民男性たちは、女性と子供とは別の収容所に入れられました。数ヶ月ごとに毎回違った収容所に移動させられるたびに、生活条件は悪化しました。男の子は13〜4歳になると、母親から引き離され男たちの収容所に送られました。息子から離された母親たちは心が痛みました。収容所で配給される食糧も医薬品もごくわずかで、3年半にわたる戦争期間中、男たちの半数、女たちの3分の1がマラリア、赤痢、脚気(ビタミン欠乏)、肺炎、飢餓などが原因で亡くなりした。子供たちの中にも死亡者が出ました。
毎日の配給食糧は、石や草が混じった汚い米が少量と腐った野菜の切れ端だけでした。肉やタンパク質のものはほとんど与えられませんでした。そのため、草やネズミ、カタツムリ、蛇など、見つけられものはなんでも食糧にしました。
収容されている人たちは酷い取り扱いを受け、毎日、点呼のときに日本軍監視兵に深くお辞儀をしなかった場合は、暑い太陽の下に何時間も立たされたり、ひどく殴られたりしました。女性の中にはあまりにも強くぶたれたため、歯が折れたり、顎が壊れてしまった人もいました。
死人が出た場合には、土を掘って死体を埋めることだけができました。私の友人であるクイーンズランドに住むニール・ホッブズはほぼ97歳です。彼は、収容所に父親と一緒に入れられた1942年当時は17歳でした。多くの仲間が死にかかったとき、彼は墓掘り人のグループに加わりました。そうすれば余分な食糧品をもらえたからです。この余分の食糧品を彼は父親に与えることで、二人は戦争を生き抜くことができました。
私の祖父はそれほど幸運ではありませんでした。彼は、1944年8月に、赤痢と脚気でムントク男子収容所で、53歳で亡くなりました。このとき、毎日、6人が亡くなっていきました。ニール・ホッブズは、おそらく私の祖父も、ムントクの町の墓地に埋めたのだと思います。2014年にニール・ホッブズは、私と一緒にムントクを訪問しましたが、そのとき彼は89歳でした。私たちは、彼らが収容されていたムントク刑務所を訪れました。現在の環境条件は当時よりよくなっているはずですが、建物自体は昔のままです。ニールは自分が入れられていた第9号室を見つけましたが、彼の多くの仲間がそこで死んだものと思われます。
追加:
このスピーチ原稿を書き終えたあと、2週間前にニールは96歳で亡くなりました。彼は自分の収容所体験を語ることで過去と私たちを繋ぐ役割を果たしてきました。多くの遺族家族が自分の両親がどうなったかを知るために、彼は助けてくれました。その結果、私たち遺族家族は繋がりあっています。10歳代の収容所時代に、多くの友人の死体を埋葬しなければならなかったにもかかわらず、日本人を恨んではいませんでした。実際、彼はエアコンを日本人に売る仕事をしていました。今週火曜日、ジョージーナさんと私はニールのいとこがデザインしたメルボルンの噴水に行き、その池に平和の折り鶴を浮かべて冥福を祈りました。
私たちは戦争に怒りを覚えるのではなく、戦争で起きたことに悲しみを感じ、なぜ人は他人に対してそんな酷い態度がとれるようになるかを理解するのにとても苦しみます。
1945年9月に、最後の収容所であるベララウで生存者を救い出した豪州軍兵たちは、収容所にいた人たちがまるで骸骨のような「灰色の幽霊」のように見えたと報告しています。あまりにも酷い取り扱いで、病気におかされ弱りきっていたのです。私の友人、ボブ・パタソンは、この収容所で2歳から5歳までを過ごしました。収容所が解放されたとき、ボブは病気で歩くのもままならず、彼の母親も彼を抱いて歩く力もありませんでした。もう一人の友人、ラルフ・アームストロングは戦争が終わったとき13歳でした。男子収容所から女子収容所に行ってみましたが、母親も2人の姉も死んだと知らされ、二度と会うことができませんでした。
私は定期的に遺族仲間とともにバンカ島を訪問します。私たちは「バンカ島の友」というグループを作り、このグループには「マラヤ志願兵グループ」、(バンカ島で溺れ、虐殺され、あるいは収容所で亡くなった)豪州陸軍看護師の遺族家族、歴史家や地元のインドネシアの人たちが加わっています。
パレンバン収容所では、女性たちが合唱団を結成し、クラッシック音楽を歌いました。2013年には、イギリスで「マラヤ志願兵グループ」がコンサートを開き、4人の収容所生存者と多くの遺族家族が参加しました。このコンサートで集められた募金が、ムントクの墓碑建設やその他の地域プロジェクト支援のために送られました。
ヴィクター・フランケルという精神科医は戦時中にドイツの収容所で彼の家族をなくしています。戦後彼は、過去にどんなことがあったにせよ、人生に意義を見出すことが重要だと私たちに教えました。私たちの哀しみは、過去のことを記憶しより良い将来を築くために努力するような、あたたかい新しい友情によって癒されます。かくして友情と私たちの努力は常に広がって行きます。
毎年、追悼式と「人道の歩み」が、1942年2月に豪州陸軍看護師、一般市民、兵士たちが虐殺された海岸で行われます。この「人道の歩み」では、参加者全員が手をつなぎ世界平和を願います。2020年には、インドネシアのオーストラリア、ニュージーランド、英国、日本の大使館が平和を願う植樹を行いました。今年は追悼式はZOOMで行われました。参加者全員が自宅で平和を願うロウソクを灯しました。2009年には、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)がムントクを訪れ、歴史を重要視する町とさまざまな違った宗教を信じる人たちが一緒に平和に暮らしていることを賛美しました。
収容所生存者の一人で、戦後にカソリック神父になったウイリアム・マクドゥーガルの伝記を書いたガリー・トッピング教授は、「ムントクが恐怖の場所であるだけではなく、美と教育の場所になったことはマクドゥーガルの心を喜ばせた」と書いています。
過去の恐怖にもかかわらず、「バンカ島の友」の会はより良い将来を築くために援助を続けたいと思います。ベララウ収容所で亡くなったマーガレット・ジェニングスは、自分の聖書に多くの詩を書き残しました。そのうちの一つの詩の最後の数行は、私たちのいまの気持ちを表しています。
「ある日いつか、この全てが終わらなくてはならず、
これから後の年月を目にして生きる私たちは
新しい世界を、血と涙から永遠の平和を
作り上げる努力をせねばならない」
0 件のコメント:
コメントを投稿