今日は、私が尊敬するお二人の市民活動家の御論考を、ご本人からの許可をいただいて、ここに紹介させていただきます。
一つ目は、札幌にお住まいの松元保昭さんが、イスラエル軍によるパレスチナ自治区ガザへの無差別攻撃に抗議するデモを今月22日に札幌市中心部で行われたことのご報告に合わせて執筆されたものです。イスラエルによるパレスチナ民族差別を、日本政府による沖縄民衆、アイヌ民族や朝鮮民族の差別と重ね合わせながら鋭く批判されています。歴史家としての私自身の関心は、ホロコーストという大虐殺の被害を受けた民族が、なぜゆえにパレスチナ人を5〜6年毎に虐殺する蛮行を平気で犯すことができるのか、という疑問にあります。この疑問に対する私自身の考えは、別の機会に述べさせていただきます。
二つ目は、ベルリン在住の梶村太一郎さんが、日本の国家主義や天皇イデオロギーを、ナチスドイツのゲルマン民族至上主義とそれと表裏一体の反ユダヤ主義とを比較しながら、人種差別という普遍的な問題について考えることを私たちに問いかけておられます。ひじょうに興味深いことに、今、ドイツではこの「人種」という概念が非科学的で差別的な用語であり、それゆえ憲法からもこの用語を削除すべきだという主張をめぐって議論が起きているとのこと。差別に敏感なドイツらしい、ひじょうにユニークな議論だと思います。
《札幌からデモの報告とアピール》
ナクバを生き続けるパレスチナ人―イスラエル抗議とメディアへの訴え
2021年5月22日
パレスチナ連帯・札幌:松元保昭
今回の発端は、東エルサレムのシェイク・ジャッラーフ48家族立ち退き命令、イスラエル右翼のヘイトスピーチ、抗議に連帯したダマスカス・ゲート数百人を襲ったイスラエル治安部隊の暴力、ハラム・アッシャリーフのアルアクサ・モスク内での治安部隊の銃撃、という一連の抵抗運動への弾圧・懲罰に対して、10日のエルサレム・デイ(1967年に占領したイスラエルが名付けたエルサレムの日)にハマースがロケット弾を発射したことに始まりました。
21日早朝の「停戦合意」なるもので11日間の「戦闘」は終了しましたが、はたして「終わった」のでしょうか?
73年前の1948年、ユダヤ極右シオニスト組織が虐殺・強姦・家屋破壊などの見せしめと脅迫で80万人ものパレスチナ人を追放し難民にした(ナクバ)。その後、人口31%のユダヤ人が6割もの土地を奪い、イスラエル国家を「建設」したシオニストたちは2年後不在者財産法をつくって「帰還権」を与え追放されたパレスチナ人の土地や家屋を欧米からのユダヤ人に売却した。ところが追放され逃れたパレスチナ人には「帰還権」は今もない(国連決議194の不履行)。今回のシェイク・ジャッラーフの家族も現イスラエル領のハイファやヤーファから逃れてきた人々だ。たとえ自分の土地であっても、宗教的・考古学的「理由」をもちだして最高裁でもパレスチナ人の訴えは退けられる。抵抗すると今回のような懲罰=空爆・虐殺が繰り返される。だから、パレスチナ人はいまもナクバ(大破局)という民族浄化を生き続けていることになる。
同じ東エルサレムのシルワーンでは、1970年代から今に至るまでこうした土地強奪が繰り返されパレスチナ内に巨大入植地が各地につくられてきた。イスラエルと結ぶ幹線道路、分離壁、水源にいたるまで土地を奪われてきたあげく日常的な軍事支配によって管理されているのがパレスチナだ。「大エルサレム計画」「エルサレム首都」「聖地(神殿の丘)管理権奪取」という「ユダヤ化」拡大の野望をもつイスラエルは、こうして東エルサレムの土地を奪い続けている。73年もの軍事占領下、こんなに長い植民地支配を許容しているのが、アメリカ、EU、国連という「国際社会」だ。
この間、「暴力の応酬」「報復の連鎖」を叫び続けてきた世界中のメディアは、「停戦合意」を歓迎した。バイデン大統領はネタニヤフの決断を「称賛」した。イスラエルには「自衛権」があると支持する米国政府は、パレスチナ人の自衛権=抵抗権については何も語らない。メディアはハマースを「テロ組織」と強調するが、もともとガザのパレスチナ人民が自らの抵抗のために民主的に選んだ組織だ。勝手に「テロ組織」と名指したのはイスラエルと米欧政府だ。「暴力・衝突・報復」と言ってハマースをやり玉にあげることで、イスラエルの懲罰・弾圧を覆い隠す。パレスチナ人が日々被っているヘイトクライム、家屋破壊、土地強奪、アパルトヘイトへの抵抗をかき消す、これが世界中のメディアの常套手段だ。これが「自由と民主主義」を標榜する西側米欧日のダブルスタンダード効果というものだ。
問題の根は、パレスチナ人に対する日常的な差別(例えば、イスラエルや入植地の少年がパレスチナ人の家に石を投げても逮捕されないが、パレスチナの子どもが石を投げると逮捕され殴られときに殺される)、挑発、脅迫、抑圧、弾圧、集団懲罰の構造的暴力と軍事占領支配だ。対立はまったく非対称であって、国家と国家の戦争ではない。背景もその根も報道しないで「暴力の応酬」「報復の連鎖」を連呼するのは、問題を覆い隠すイスラエルに共犯していると疑われても仕方がない。こういうときにこそ、ジャーナリズムの真価を発揮してほしいものだ。
さらに安倍・菅自公政権は、ことあるごとに「インド太平洋構想」を喧伝している。じつは日本が、インドからさらにイスラエル、NATOへと結んで中国・ロシア包囲網つまり米欧覇権の先兵になろうという魂胆だ。尖閣問題をテコに先島諸島の軍事化をすすめ一日10億円の軍事演習を強行し「敵基地攻撃能力」を高めようと軍事力優先の国づくりにすっかり舵を切っている。原発に失敗しコロナに襲われた財界も軍事を渇望し、政権を糺す学術会議を亡き者にしようとしている。憲法前文の「公正と信義、決意と誓い」は風前の灯だ。
私たちが考えなければならないのは、いまも「アラブ人をガス室に、火の中に」とか「アラブ人を駆除」とかいうナチまがいの戦争・植民国家イスラエルを免責・温存・容認してきたのは誰なのか、73年前の民族浄化を裁かなかった、裁けなかった、「米国」「国際社会」「国連」を、さらに自らを裁こうとしなかった「イスラエル国家」を考えることだ。
同時に、「裁かれない加害」は日本国そのものの問題でもある。土地強奪・家屋破壊・強制移住はかつてアイヌ民族が体験したことである。いまだに謝罪はない。「捨て石」となった20万人の血潮は沖縄の地に染みつき、「無期限貸与」(昭和天皇)の米軍基地は76年間も居座り続け本土の「国民」は知らんフーナ。朝鮮半島の36年間の植民地化にはまっとうな謝罪・補償はなく「分断」を逆利用してきた日本、イスラエル建国の年1948年の朝鮮学校閉鎖令はいまも朝鮮学校差別につながる。自ら正義を実現できない国家・民族は何をしでかすかわからない…。
(2008年、2012年、2014年、そして今回虐殺されたパレスチナ人、とくにその半数の女性と子どもを追悼しつつ、こんなことを考えながら20名でメモリアル・サイレント・マーチをやりました。)
歴史の大嘘について
梶村太一郎(在ベルリン、ジャーナリスト)
「朝露館 関谷興仁陶板彫刻美術館」 発行『朝露館たより』2021年9号掲載
「人間は万物の霊長である」と言われて久しい。京都大学に霊長類研究所ができたのは戦後のことでこの言葉はすっかり定着している。ここでの霊長類とは分類学での「サル目」の「ヒト科」のことで、オランウータンやゴリラの研究で有名だ。しかし飼っていた頭の良いオランウータンに檻の施錠をはずされ逃げ出されて裁判沙汰になったり、最近では研究費の不正会計処理で研究所長が懲戒解雇されたりしているところを見ると、ここの霊長たるホモ・サピエンス(「知恵のあるヒト」の意)の知恵もそれなりのもののようだ。
ところで、日本語の霊長という言葉の典拠は古い秦の時代の『経書・秦誓』からとされている。鴎外晩年の『元号考』によれば日本の元号の多くもこの古書からの出典で、また昭和や平成もそうである。この事実が安倍晋三首相はどうやら気にいらないらしく、彼は令和改元の際に「歴史上初めて、国書である万葉集を典拠とする元号を決定しました」と満足そうに述べ、NHKを先頭にメディアも呆れるほど「初めて国書から」と囃し立てた。
ところがこの万葉集の記述「初春令月気淑風和」が、これも多くの元号の典拠である『文選』の後漢は張衡の詩「帰田賦」の句「仲春令月時和気清」であると指摘されている。安倍氏には日本は漢字文化圏ではないらしい。そもそも漢字だけで書かれた万葉仮名なしには古事記以来の国書が成立せず、さらに元号そのものが前漢の武帝から始められた制度であったことも眼中にない。噴飯ものの日本の国家主義者の浅知恵の言動の一つである。
ただ、ここでも恐ろしいのは史実の無視である。日本の明治維新以来の国家主義のお家芸とは、森善朗の総理時代の発言にある「日本は天皇を中心にした神の国」であるとして、史実を無視、あるいは改ざんした嘘の糸を紡ぎ、その繭に閉じこもり自己満足するところにある。近年は中国の台頭に恐れをなしてこの傾向が強まっているのは恐ろしいことだ。再び八紘一宇に似た大嘘の繭が復活しかねない。「国書元号」はその兆候ではないのか。
ところで近代史の大嘘の雄はナチスドイツのゲルマン民族至上主義と、それと表裏一体の反ユダヤ主義であろう。これにより人類史上最悪の民族絶滅犯罪が行われた。朝露館でもSHOAHの犠牲者の声が刻まれた関谷氏の追悼作品が見られる。
この苦い体験を繰り返さないために戦後のドイツ憲法第三条には「何人も、その性別、門地、人種、言語、出身地および血統、信仰または宗教的もしくは政治的意見のために、差別され、または優遇されてはならない。何人も、障害を理由として差別されてはならない」とある。これは国連憲章などにも見られる戦後世界の共通した認識でもある。
ところが、昨年の連邦議会本会議でこの項にある「人種」を削除ないしは改正すべきだという論議が本格的に始まっている。その理由は驚くほど単純で、学問的に「人種」というものは存在しないからである。きっかけとなったのは一昨年九月にイエナ大学の学長と動物学進化論研究所が出した声明である。その要旨は「生物学ではダーウィンの進化論以来、人類にも人種があると主張されてきたが、遺伝子学では人類全ての遺伝子には違いは全くないことが証明されている。皮膚の色は生活環境に適応して変化したにすぎない。五千年前は北欧の人間も褐色であった。人種があるから人種主義があるのではなく、近代の植民地主義の人種主義が人種を作ったのである。したがって誠実な科学では在りもしない人種を不使用とすべきである」というものだ。イエナ大学はナチ時代の悪名高い優生学の中心であった。
議会では改憲に必要な両院の三分の二の賛同は間違いないのだが、「人種」を削除しても、いまだに猖獗を極める「人種主義」に対処すべき具体的な表現をどうすべきかの難しい議論が続けられている。
折から、生物科学者は、新コロナウイルスという人類よりはるかに古い存在に挑戦され苦戦の最中である。そろそろ人間も「万物の霊長である」という思い上がった大嘘から脱却すべきであろう。
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「朝露館 関谷興仁陶板彫刻美術館」は栃木県益子の陶芸家・関谷興仁さんが運営されている小さな、しかし素晴らしい反戦平和美術館です。詳細は下記のYoutube とウェッブサイトをご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=_n2xAHwSpEY
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