エイミー・ツジモト著『満州天理村「生琉里」の記憶 – 天理教と731部隊』
発行 えにし書房 2018年2月 定価:2000円+税
この書評は『季刊ピープルズ・プラン』最新号Vol.82に掲載されました。
本書は、満州国建国宣言が出された1932年3月から2年半あまりの後、1934年11月から始まった天理教信者たちの満州開拓団移民の艱難辛苦の歴史を、「天皇制軍国主義の被害者」と「侵略戦争の加害者」という複眼的な視座から明徹に分析した労作である。天理教団による満州開拓団の積極的な公的歴史評価を、体験者のオーラル・ヒストリーに依拠して厳しく批判しながらその実態をえぐり出し、新興宗教組織の戦争責任を鋭く追及している。
本書内容の紹介に入る前に、満州移民の歴史的背景について簡単に説明しておく必要があるだろう。
満州国は、「五族協和」という多民族協調社会の基に「王道楽土」を実現するというスローガン=プロパガンダを謳い文句とする、日本の傀儡国家であったことは周知のところ。満州国内には関東軍が無制限、無条件に駐屯し、関東軍が必要とする鉄道・港湾・水路・航空路などの管理は全て「日本に委託」するという形をとることで、満州国は関東軍の強力な軍事的支配下に置かれた。また、「日満経済ブロック」構築(満州を日本の排他的な経済圏にする)という目標のため、1930年代には満州に対する投資が飛躍的に拡大。満州産業開発の重点は、対ソ連戦争準備のための軍需産業の建設に置かれ、その基礎として、1932〜36年に3千キロに及ぶ満鉄新線路が建設され、同時に、製鉄や石炭などの大規模増産がはかられた。
これと並行して、日本国内の農村窮乏の緩和と満州における日本人の人口増加という一石二鳥をねらい、満州への農業移民政策が推進された。実は、この農業移民政策には、関東軍の戦力補強にも役立たせるという目的が含まれていた。小規模な試験的移民は1932年から始まっており、当初は、一村(母村)から分割して村の一部が集団で移民する「分村移民」が行われた。1936年8月、日本政府は、20年で百万戸=5百万人の満州移民を送り出すという妄想的とも言える計画を発表。日中戦争が始まった1937年8月には、この計画を推進するために満州拓殖会社を設置し、移住者のための助成、土地取得、分譲などの業務にあたらせた。さらに、1938年1月からは、貧農の次・三男の単身者(16〜19歳)によって組織される「満蒙開拓青少年義勇軍」が募集された。
日本人移民のための土地・家屋は入植地の現地農民である中国人から「買収」したが、その実態は、極安の値段での強制的収用であった。こうした土地・家屋の収奪は抗日武装活動を活発化させ、移民村が襲撃されるという事件が頻発。関東軍は抗日ゲリラを「匪賊(集団で略奪・殺人・強盗を行う賊)」と呼び、これ以降、「匪賊討伐」に明け暮れることになる。同時に「匪賊討伐」では、抗日ゲリラに通じているとみなされた村落が日本軍によって焼き払われ、住民が虐殺されるケースが各地で起きている。
したがって、「青少年義勇軍」も実際には「武装移民」であり、明治政府が北海道に送った「屯田兵」と同様の性格のものであった。1936年からの5年間で、こうして満州拓殖会社が確保した土地は2千万町歩で、中国東北部の14.3パーセントに当たる。そのうち既耕農地は350万町歩で、これは当時の日本の耕地面積の過半数を超える広大な土地であった。しかし、1941年までの実際の移民農家数は、集団開拓団の2万7千戸を含む5万6千戸で、百万戸移民計画の約5パーセントにしか過ぎなかった。とはいえ、民衆、とりわけ貧農に土地所有への期待を煽り、豊かな生活への夢をもたせ、国内の不満を対外的に解消させる侵略戦争へと国民を動員する上で、一定の役割を果たしたことは明らかである。
本書でも説明されているように、新興宗教の天理教信者たちだけが、宗教団体としての満州開拓団移民であったわけではない。天理教団と同様に「反政府的」あるいは「政府に非協力的」な宗教組織ではないかという疑念の目で見られていた日本キリスト教団、それだけではなく既存の諸仏教団体も、政府への服従・協力姿勢を表明するために満州移民政策に「賛同」し、満州開拓団を送った。これらの宗教団体は、形式的には「布教」も開拓活動の目的としていた。
天理教団の場合には、1934年11月の第1次移民から1945年5月の第12次移民までの合計2千人近くが満州に送り込まれた。「ひとはいちれつ みなきょうだい」という徹底した人間平等主義を教義とする天理教は、天皇を絶対者とする国家神道とは本質的に異なるため、国体に反する共産主義的な組織とみなされて常に政府の弾圧の対象となってきた。しかし、教団解散の危機を避けるため、明治・大正期を通して教団は戦争協力の姿勢を徐々に強め、結局は侵略戦争に加担する開拓移民まで満州に送り込み、教義とは全く相反する中国人搾取を行いながらの「開拓」に勤しんだのである。
天理教団が与えられた1千町歩の土地は、ハルビンから15キロほど離れた関東軍指定の「分譲地」であったことからも分かるように、当初から関東軍はこの「天理村」を軍のために利用することを考えていたと思われる。天理教団は、国内各地の信者から移住家族を募集、すなわち「分村移民」に似た「家族集団移民」という形態であった。天理村の周囲には鉄条網が張り巡らされ、東西は城壁のような門で固められており、警備が常駐するというものものしい環境。村の周辺で活動する抗日ゲリラに備え、常に関東軍が警備し、襲撃を受けたときには徹底した討伐を行った。関東軍が村の近くで演習を繰り返しただけではなく、村民たちにも小銃や実弾が配られ、関東軍による演習が男たちに課せられた。第1次移民団の場合は、半数以上が在郷軍人であったことからも明らかなように、「武装移民」という性格を強くおびていた。
実はこの天理村は、かの悪名高い731部隊の一大研究施設が建設された平房に隣接する場所にあった。1938年にこの施設建設が開始されたときには、天理村の多くの成人男子が研究施設のレンガ積み作業に従事させられた。さらに、施設完成後には、ハツカネズミを飼育せよという指示が天理村の小学校に与えられ、子どもたちがその任務に励んだ。ハツカネズミは、明らかに731部隊の細菌兵器(ペスト菌)開発のために利用されたものと考えられる。ペスト菌だけではなく、731部隊が培養した炭疽病、腸チフスなどが天理村周辺で発生、流行し、天理村の村民や家畜にも犠牲者が出た。
戦争末期になり戦況が悪化してくると天理村の青年たちも招集され、入隊訓練後に731部隊に配属された者も数人いた。筆者ツジモトは、その一人である人物からも聞き取り調査を行い、1945年8月9日のソ連参戦宣言発表直後、急遽殺害された人体実験用の多くのマルタ=捕虜の屍体焼却や施設建物の破壊など、731部隊証拠隠滅作業について詳しく記している。
731部隊が貴重な研究成果、関係書類、食糧などを積み込んだ百輌にも及ぶ貨物列車とともに満州から逃避し、南洋戦域に送り出した精鋭部隊を戦闘体験のほとんどない満州開拓団の青年たちで代替した関東軍がすぐに総崩れしたあと、ソ連軍侵攻についてなにも知らされていなかった総勢27万人(その多くが女性、子ども、老人)の満蒙開拓団は文字通り置き去りにされた。天理村とその周辺の天理開拓団部落の住民たちも、侵攻してきたソ連軍兵士襲撃による殺戮、略奪、強姦、暴行などの残虐行為と、中国人「匪賊」による同じような復讐的な襲撃の被害者となった。結局、1946年10月になってようやく帰国できた天理村住民は合計千十八名、もともとの村民2千名のほぼ半数にしか過ぎなかった。しかも、この帰国は、国内での再び貧しい農業開拓生活の始まりでしかなかった。
天理教団は、満州国天理村のこうした歴史を「大陸開拓の聖業に奉仕」したものと記録し、教団の戦争加担責任と、教団仲間を被害者にした責任をすっかり忘却しただけではなく、正当化してしまった。日本にとって極めて重要な戦争責任問題について宗教組織の側面からの考察を試みている本書は、ひじょうに示唆に富む労作である。
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