2021年8月16日月曜日

日独「終戦記念式典」における式辞の読み比べ

「戦争責任」と「民主主義」の関連性を再考する

 

例年のごとく、昨日の敗戦記念日では、政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館で行われ、天皇徳仁と首相菅義偉が式辞を述べました。式辞の内容は毎年ほとんど同じ内容の、ひじょうに形式的で、読み手の犠牲者に対する深い人間的情感が聞き手には全く伝わってこないものでした。無味乾燥で、心に響いてくるものが何もない無感動的なものでした。しかも、読み手にとって「犠牲者」は、菅がはっきり述べているように「300万余の同胞」、すなわち「日本人」だけです。強制労働や軍性奴隷とされた、当時の植民地であった朝鮮・台湾の人たちや、15年という長期にわたって日本が行った侵略戦争と残虐行為の直接・間接的に犠牲者となった数千万人という膨大な数にのぼる、中国をはじめとするアジア太平洋地域の様々な人たち、激しい虐待を受けた連合軍捕虜たちなどの苦しみや悲しみに対する想いは、微塵もありません。

 

この2人の式辞を、昨年、ドイツの大統領シュタインマイヤーがヨーロッパ戦線での終戦記念日である5月8日にベルリンで行った演説と読み比べてみると、「国家としての品位」と、読み手の「人間としての品位」のその雲泥の差をまざまざと見せつけられます。シュタインマイヤーの演説からは、国家として戦争責任をとることが、その国家の「民主主義」を育むことにとっていかに重要であるかを、明確に教えられます。日独のこの「式辞」の違いに注目し、「戦争責任」と「民主主義」の深い関連性についてもう一度熟考してみたいと思います。

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天皇徳仁の全国戦没者追悼式での式辞

2021年8月15日

 

本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。

終戦以来76年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。

私たちは今、新型コロナウイルス感染症の厳しい感染状況による新たな試練に直面していますが、私たち皆がなお一層心を一つにし、力を合わせてこの困難を乗り越え、今後とも、人々の幸せと平和を希求し続けていくことを心から願います。

ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

 

菅義偉首相の式辞

 

 天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表のご列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行いたします。

 先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました。

 祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦場にたおれた方々。戦後、遠い異郷の地で亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、各都市での爆撃、沖縄における地上戦など、戦乱の渦に巻き込まれ犠牲となられた方々。今、すべてのみ霊の御前にあって、み霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。

 今日、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆さまの尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念をささげます。

 いまだ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、決して忘れません。一日も早くふるさとにお迎えできるよう、国の責務として全力を尽くしてまいります。

 わが国は、戦後一貫して、平和を重んじる国として歩んでまいりました。世界の誰もが、平和で、心豊かに暮らせる世の中を実現するため、力の限りを尽くしてまいりました。

 戦争の惨禍を、二度と繰り返さない、この信念をこれからも貫いてまいります。わが国は、積極的平和主義の旗の下、国際社会と力を合わせながら、世界が直面するさまざまな課題の解決に、全力で取り組んでまいります。今なお、感染拡大が続く新型コロナウイルス感染症を克服し、一日も早く安心とにぎわいのある日常を取り戻し、そして、この国の未来を切り開いてまいります。

 終わりに、いま一度、戦没者のみ霊に平安を、ご遺族の皆さまにはご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。

 

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シュタインマイヤー大統領スピーチ

ナチスからの解放と欧州における第二次世界大戦終戦75周年

戦争と暴力支配の犠牲者のためのドイツ連邦共和国中央追悼施設(ノイエ・ヴァッヘ)にて

202058

於 ベルリン

 

国民の皆様

欧州の友人の皆様

世界中の友好国、同盟国の皆様

 

75年前の本日、欧州において第二次世界大戦が終結しました。194558日、ナチスの暴力支配が終焉し、空爆の夜と死の行進が終焉し、ドイツによる比類のない犯罪と文明の断絶であるショアーが終焉しました。ここベルリンにおいて、絶滅戦争は考案され、勃発し、巨大な破壊力を持って再び戻ってきました。そのベルリンにおいて、私たちは本日、ともに記憶を呼び起こしたいと考えていました。

 

多大な犠牲のもと、欧州を解放した東西双方の連合国関係者とともに、記憶を呼び起こしたいと考えていました。ドイツ占領下で苦しみながら、それでも和解の意思を示してくれた欧州各国のパートナーとともに。ドイツによる犯罪を生き延びた人々や、私たちに手を差し伸べてくれた実に多くの犠牲者遺族の人々とともに。この国に、再出発のチャンスを与えてくれた世界中のすべての人々とともに。

 

また、あの時代を自ら経験した我が国の高齢者の人々とともに、記憶を呼び起こしたいと考えていました。飢え、逃亡、暴力、追放。子どもの頃こうしたあらゆる過酷な経験をし、戦後、東側、西側の双方でこの国を築き上げた人々です。

 

そして若い人たちとともに追悼をしたいと考えていました。今日、自分たちはそもそも過去から未だに何を学べるのかと問うている、当時から数えて三世代目にあたる若い人々です。私は彼らに呼びかけます。「君たちが頼りだ。まさに君たちが、あの恐ろしい戦争の教訓を将来に伝えなければならないんだ」と。だからこそ私たちは本日、世界中から何千人もの若者をベルリンに招いていました。先祖が敵同士であり、今は友人同士である若い人たちです。

 

このようにして、本日58日、ともに記憶を呼び起こしたいと考えていたのです。しかしコロナの世界的流行により、私たちは大切に思う人、感謝を抱いている人と離ればなれのまま、孤独に追悼するという状況を余儀なくされています。この「孤独」という状況は、私たちを今一度、194558日のあの日にしばし身を置いてみるきっかけになるかもしれません。当時、ドイツ人は実際に孤立していたからです。ドイツは軍事的に敗北し、政治的・経済的に壊滅し、倫理的に打ちのめされていました。私たちは全世界を敵に回していたのです。

 

75年後の今日、私たちは、孤独に追悼をせざるを得ない状況にあります。しかし孤立はしていません!これこそ、今日という日がもたらしてくれる福音です。私たちの国は、力強く堅固な民主主義を有し、今年ドイツ再統一から30年目を迎え、平和で統合された欧州の中央部に位置しています。私たちは信頼を享受し、世界中の連携と協調の果実を得ています。解放の日は感謝の日である。私たちドイツ人は今、そう言えるのです。

 

心の底からこうした確信が得られるまで、三世代の歳月がかかりました。確かに、194558日は解放の日でした。しかし当時はそれが、人々の頭と心にまだ届いていませんでした。

 

1945年、解放は外からやってきました。解放は外から来ざるをえなかった。この国はそれほどまでに深く、自らが生み出した災厄と罪にその身を絡めとられていたのです。西ドイツの経済復興と民主主義の再出発も、かつての敵国が示してくれた寛大さ、先見の明、和解の意思があったからこそ果たすことができたのです。しかし、私たち自身もまた解放の一端を担っています。それは内なる解放でした。内なる解放は、194558日に起こったものでも、一日にして起こったのものでもありません。長く、痛みを伴う道のりでした。犯罪行為を知っていた者やそれに加担していた者の過去に関する総括と解明、家族内や世代間の葛藤をもたらした辛い問いかけ、沈黙と隠蔽に抗する闘い。

 

それは、私と同世代の多くのドイツ人が、少しずつこの国に普通の感情を持つようになっていった数十年の歳月でした。ドイツの近隣諸国において新たな信頼が醸成され、欧州の統合プロセスから東方条約に至るまで、慎重な接近が可能となっていった歳月でもありました。東欧諸国における勇気と自由への憧れが、壁の内側に収まりきれなくなり、最終的に、解放における最も幸福な瞬間、すなわち平和革命と再統一に至った歳月でした。私たち自身の歴史と格闘してきたこの歳月は、ドイツにおける民主主義が成熟していった歳月でした。

 

そしてこの格闘は今日まで続いています。記憶するという営みに終わりはありません。私たちの歴史から解き放たれることはありません。記憶を呼び起こさなければ、私たちは将来を失ってしまうからです。

 

私たちドイツ人が、自らの歴史を直視し、歴史的責任を引き受けたからこそ、世界の国々は我が国に新たな信頼を寄せてくれました。だからこそ、私たち自身もまたそのような国となったドイツを信頼できるのです。そこにあるのは、啓蒙された民主主義的愛国心です。分裂を伴わないドイツの愛国心はありません。光と陰への視座、喜びと悲しみ、感謝の念と恥を伴わないドイツの愛国心はありません。

 

ラビ・ナフマンは次のように書いています。「引き裂かれた心ほど完全な心はない」。ドイツの歴史は引き裂かれた歴史であり、何百万人もの人々に対する殺戮と、何百万人もの人々の苦しみに対する責任を伴います。このことは今日に至るまで私たちの心を引き裂きます。だからこそ、引き裂かれた心を持ってしか、この国を愛することはできないのです。

 

これを耐え難いと思う者、終止符を求める者は、戦争とナチス独裁の災禍を記憶から排除しようとするのみならず、私たちが成し遂げてきたあらゆる善きものの価値を失わせ、我が国における民主主義の中核的本質すら否定してしまうのです。

 

「人間の尊厳は不可侵である」。我が国の憲法の第一条に掲げられたこの一文には、アウシュビッツで起きたこと、戦争と独裁体制下で起きたことが、すべての人の目に見える形で刻み込まれています。そうです、過去を想起する営みは重荷ではありません。想起しないことこそ、重荷になるのです。責任を認めることは恥ではありません。責任の否定こそ、恥ずべきことなのです。

 

しかし75年後の今日、私たちの歴史的責任とは、どのようなものなのでしょうか。今日、私たちは感謝の念を抱いていますが、そこから安逸に走ってはいけません。記憶の営みは、厳しい課題や義務をつきつけてくるのです。

 

「もう二度と」戦後、私たちはこう誓いました。この「もう二度と」は、私たちドイツ人にとっては特に「もう二度と孤立するな」ということでもあります。そしてこれは、他のどこよりも欧州においてあてはまります。私たちは欧州の結束を保たなければなりません。欧州人として考え、感じ、行動しなければなりません。欧州の結束を、このパンデミック下において、また収束後において保てないのであれば、私たちは58日という日を節目の日とする資格はありません。欧州の失敗は、「もう二度と」という誓いの失敗でもあるのです。

 

国際社会は「もう二度と」というこの誓いから学びました。1945年以降、戦争の惨禍を教訓として、共通の土台、すなわち人権と国際法、平和と協力のルールを作り上げていきました。

 

甚大な災厄を引き起こした私たちの国は、国際秩序を脅かす危険な存在から、時を経て、秩序の推進者となりました。私たちは今、この平和秩序が私たちの目の前で溶融するのを許してはなりません。この秩序を作り上げた人々との心理的距離が広がり続ける状況を受け入れてはなりません。パンデミックとの戦いでもそうですが、私たちが目指すのは国際協力の拡大であって縮小ではないのです。

 

58日は解放の日であった」。リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー元大統領のこの有名な言葉を、改めて別の角度から理解する必要があると思います。当時この言葉は、私たちの過去との格闘におけるマイルストーンとなりました。しかし今日、この言葉は未来に向けたものとしても理解しなければなりません。すなわち、「解放」の過程には決して終わりはなく、また、私たちは受け身にとどまっていればよいわけではなく、日々能動的に解放を実現することが求められているのです。当時、私たちは他者により解放されました。今日、私たちは自らを解放しなければなりません。

 

新たなナショナリズムの誘惑から、権威主義的な政治の魅力から、各国間の相互不信、分断、敵対から自分たちを解放するのです。憎悪や誹謗・攻撃、外国人敵視や民主主義軽視からの解放を進めるのです。これらはみな、装いを新たにしているだけで、かつてと同じ悪の亡霊です。今日、今年の58日、私たちはハーナウの外国人銃撃事件、ハレのシナゴーグ襲撃事件、カッセルの政治家射殺事件の犠牲者を悼みます。コロナ禍で彼らが忘れ去られることはありません。

 

イスラエルのルーベン・リブリン大統領は今年、ホロコースト犠牲者追悼の日にドイツ連邦議会での演説で「ここドイツで起きるなら、どこでも起こりうる」と述べました。ここで起きるなら、どこでも起こりうる。しかし今日、その危険から私たちを解放してくれる人は誰もいません。自らの解放は自分で行わなければならないのです。私たちは、自ら責任を担うために解放されたのです。

 

確かに、今年の58日は、激しい変化と大きな不確実性の只中で巡ってきました。コロナ以前からそうでしたが、コロナによってその状況に拍車がかかりました。いつ、どのようにこの危機から脱することになるか、今は分かりません。しかし、どのような心構えで今回の危機を迎えたかは分かっています。この国と私たちの民主主義への強い信頼、ともに担うことができるものへの強い信頼を胸に、私たちは今回の危機を迎え対応したのです。これはまさに、私たちがこの75年の間にいかに大きな進歩を遂げてきたかの証左です。これを見ると私は、今後何が待ち受けていようとも、私たちのこれからに希望を抱くことができるのです。

 

国民の皆様、

コロナのため、私たちはともに記憶を呼び起こし、式典に集まることはできません。しかし、この静寂を活かしましょう。立ち止まりましょう。

 

全てのドイツ人へのお願いです。どうか今日は静かに戦争とナチスの犠牲者に思いを馳せてください。ご自身の出身にかかわらず、ご自身の記憶、家族の記憶、そして私たちの国の歴史に問いかけてみてください。解放が、58日が、ご自身の人生と行動にいかなる意味を持つのかを考えてみてください。

 

終戦から75年。私たちドイツ人は多くの感謝すべき状況に恵まれています。しかし、あれ以来得られてきたそうしたありがたい成果のうち、ひとつとして永遠に保障されているものはありません。従ってその意味においても、58日は解放が終わった日ではないのです。むしろあの日以来、自由と民主主義の追求が託され続けているのです。私たちに、託され続けているのです。

 

 


2021年8月9日月曜日

インドネシア人労務者を使った人体実験?

NHK BS1番組「感染症に斃れた日本軍兵士~追跡・防疫給水部2万5千人」の放送にあたって

 

8月22日午後10時からNHK BS1 「感染症に斃れた日本軍兵士~追跡・防疫給水部2万5千人」と題するドキュメンタリーが放送される予定になっています。今年の3月初旬、この番組の制作チームのスタッフの一人から私に連絡があり、私の著書 Hidden Horrors: Japanese War Crimes in World War II の第5章 Japanese Biological Warfare Plans and Experiments on POWs (日本軍生物兵器戦計画と捕虜人体実験)で私が使っている資料について質問したいので ZOOM で相談させて欲しいという要請がありました。この章では、私は主に、日本軍が豪州軍捕虜を使って「栄養失調症」や「マラリア」に関連する人体実験を行い死亡させた戦争犯罪ケースについて、戦後、豪州軍が調査した記録資料を分析して、その事実について解説しました。NHKの制作スタッフは、この豪州軍資料について詳しく知りたかったのです。

ZOOM での相談に応じましたが、その折、戦時中にインドネシアの日本陸軍が運営する「防疫研究所」が生産した「発疹チフス+コレ+赤痢」の混合予防ワクチンを、インドネシアの900人ほどの労務者に注射して全員を死亡させた事件を詳しく分析した、ケビン・ベアードのことも話題になりました。と言うのも、ケビンのこの貴重な研究については、私は2014年に、カナダの友人、乗松聡子さんのブログで紹介しておいたからです (その時は、私はまだ自分のブログを設置していませんでした)NHKのスタッフはこの拙論にも目を通したようで、ケビンともすでに連絡をとり、この事件についても番組で取り上げる予定だと教えてくれました。

ケビンのこの研究結果は2015年にWar Crimes in Japan-Occupied Indonesia: A Case of Murder by Medicine (University of Nebraska Press)として出版されています。出版にあたって私は短い推薦文を書くように頼まれましたが、その推薦文が本の裏表紙に印刷されています。また、この本の内容の要旨を彼自身が論文にしたWar Crimes in Japan-Occupied Indonesia: Unraveling the Persecution of Achmad Mochtar を2016年1月に、The Asia-Pacific Journal/Japan Focus に掲載してもらいました。

日本では全く知られていなかったこの戦犯冤罪ケースが、今回、NHKで取り上げられるならば、ひじょうに有意義だと思います。ちなみに、8月号の『世界』には、インドネシア史専門の倉沢愛子さんが、「それは日本軍の人体実験だったのか? - インドネシア破傷風ワクチン謀略事件の謎」という論考を寄稿しておられるようです。私はまだ読んでいませんが、おそらくケビンの研究成果を紹介されているのではないかと推察しています。

  そこで、今日は、2014年8月にすでに乗松聡子さんのブログ「ピース・フィロソフィー」に掲載していただいた、ケビン・ベアードによる研究の内容を紹介した私の論考を、乗松さんの許可をいただいて下に転載させていただきます。テレビ番組を観るための参考にしていただければ光栄です。

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日本軍が犯した様々な残虐行為については、すでに私はいろいろなところで発表していますので、ここでは繰返しません。しかし、7月上旬に突然インドネシアから送られてきた興味深い関連メールについて紹介させていただきます。

メールは、ジャカルタにある熱帯病研究所「エイクマン研究所」の一研究員からでした。送信人は、この研究所と共同研究を行っているオックスフォード大学の研究プロジェクトに携わっているアメリカ人ケビン・ベアードという人で、マラリア病専門研究家です。彼と「エイクマン研究所」所長のサコット・マズキ(インドネシア人でオーストラリアのモナシュ大学医学部教授を兼任)という2人の熱帯病専門家が、太平洋戦争時代にインドネシアで日本軍が犯したある重大な人体実験=戦争犯罪行為について共著の本の原稿執筆を終えたところだという知らせでした。来年アメリカで出版される予定になっており、ついては私に原稿を読んで推薦文を書いて欲しいとの要請でした*。8月中旬までは忙しくて原稿を読んでいる時間がないが、その後でもよいならと引き受け、全原稿と数多くの関連写真をメール添付で送ってもらいました。(*J. Kevin Baird and Sangkot Marzuki, The Mochtar Affair: Murder by Medicine in Japanese Occupied Indonesia 1942 – 1945 2015年出版予定とのことですが、出版社名は知らされていません。)

340ページほどある大著で、しかも医学的解説を多く含んでいるので、熱帯病予防ワクチンについて全く知識のない私には決して読みやすいとはいえない難解な著作ですが、今日なんとか全部読み終えました。その内容をごく簡潔にまとめて紹介すると次のようになります。 

「エイクマン研究所」は、オランダ人医師クリスチャン・エイクマンが1888年にバタビア(現在のジャカルタ)に設置した熱帯病研究ラボが基盤となり、1938年に「エイクマン研究所」と改名され拡大発展しています。エイクマンは当時オランダ植民地であったインドネシア(当時は「オランダ領東インド」)に滞在中に脚気の原因を発見し、1929年にはノーベル生理医学賞を授与されている傑出した医学者で、インドネシア医学校設置にも尽力した人物です。このインドネシア医学校からは優秀なインドネシア人医師が生まれ、その中にはアムステル大学にまで留学して医学者になった者も少なくありません。植民地支配下でこのように現地住民が医学者となって育っていたことを、恥ずかしながらこの原稿を読むまで私は全く知りませんでした。オランダ植民地下のインドネシアでは、「エイクマン研究所」の他に、「パスツール研究所」もオランダ政府の資金で設置され、熱帯病予防研究と熱帯病予防ワクチン生産が行われていました。

19421月から2月にかけて日本軍がオランダ領東インドに侵攻し、3月初めにはバタビアを攻略して、インドネシア全土が日本軍支配下に入りました。インドネシア医学校、隣接するエイクマン研究所からもオランダ人医師や医学者は排除され、彼らは収容所に送られました。医学校と研究所は日本軍支配下に入り、インドネシア人スタッフだけが引き続き仕事に従事することを許されました。医学校の事実上の校長とエイクマン研究所・所長の両ポストに任命されたのは、当時、黄熱病研究などで世界的な功績をあげていたアクマド・モクターというインドネシア人医学者でした。パスツール研究所も日本軍に接収され、「防疫研究所」と改名されました。ここでは、当初はオランダ人研究者も研究を続けることを許されましたが、間もなく彼らも収容所に送られ、「防疫研究所」は完全に日本陸軍によって運営されるようになりました。パスツール研究所では、戦争が開始される前には、「発疹チフス+コレ+赤痢」の混合予防ワクチンを大量生産しており、日本陸軍がこれを引きついでいます。同時にパスツール研究所は破傷風予防のための新ワクチンを開発中でしたが、日本軍が侵攻してきたため、この研究は中断されています。当時は、破傷風は負傷した多くの兵がかかる致命的な病気で、そのため兵力維持のためにはこのワクチン開発が極めて重要な課題でした。

一方、日本軍は数多くのインドネシアの若者や農民(1540歳ぐらいまで)を強制労働に駆り出し、ジャワ島のみならず、マレー半島やビルマなどにまで連行して建設工事や道路工事などの重労働に従事させました。連合軍捕虜を酷使した悪名高い泰緬鉄道建設にも、多くのインドネシア人たちが使われました。彼らは「労務者」と呼ばれましたが、「ロームシャ」はインドネシア語にもなり、英語圏でも日本軍のインドネシア人酷使を表現する用語として知られるようになりました。正確な人数は分かりませんが、400万人以上いたと推定されています。その内、28万人あまりがタイ・ビルマ(その多くが泰緬鉄道建設工事のため)に送り込まれましたが、戦後、インドネシアに帰国したのはわずか52千人ほどだったと言われています。連合軍捕虜同様、彼らロームシャも、わずかな食糧と乏しい医薬品のもとで重労働を強制され、次々と亡くなっていったことは、生き延びた連合軍捕虜たちの証言からも知ることができます。

戦後、スカルノ政権は死亡した労務者400万人に対する戦後賠償金として日本政府に100億ドルの支払いを要求しましたが、日本政府は「証拠無し」と主張して支払いを拒否しています。実は、スカルノ自身が戦時中に日本軍に協力して、「ロームシャ」を駆り出すことに加担した人物でした。「慰安婦」問題では「河野談話」で、一応、日本政府からの謝罪が出されていますが、「ロームシャ」問題では、これまで日本政府からの謝罪は一切ありません。ちなみに、ロームシャを集めるにあたっては、「高い賃金支払い、十分な食糧提供」などという嘘の条件で騙すという方法がしばしばとられたとのこと。日本軍性奴隷を集める手口と類似していたことが分かります。

19447月下旬、バタビアの郊外のクレンダーという所に設置されていたロームシャの集合施設、つまりロームシャとして集められた人たちを一旦この場所に集合させ、ここから東南アジア各地に分散して送り込むまでの仮の居住施設にいた900人あまりのインドネシア人全員に、防疫研究所が生産した「発疹チフス+コレ+赤痢」の混合予防ワクチンの注射が行われました。ところが、それから1週間ほど経った8月初旬、次々と彼らには破傷風の症状があらわれ、七転八倒の苦しみの中でバタバタと死んでいくというたいへんな事態となりました。最初は患者を医学校病院に送り込んでいた日本陸軍は、すぐにクレンダー集合所を立入り禁止として、部外者を入れないようにして、900人あまり全員を集合所内で死亡させてしまいました。防疫研究所の陸軍医療スタッフが「発疹チフス+コレ+赤痢」の混合予防ワクチンにさらに未完成の破傷風予防の新ワクチンを加えたものを作り、それを注射したものとしか考えられないと、この本の著者2人は詳しい医学的分析によって結論づけています。通常は、この種の新ワクチンをテストする場合には、まずはモルモットを使って実験を行い、それで安全が確認されてから今度はサルを使って実験するという段階的テストを行うのが通常であるとのこと。陸軍医療スタッフはこうした基本的手順を抜いて、最初からインドネシア人にワクチン注射を行ったわけですから、パスツール研究所から受け継いで開発した新ワクチンにそうとう自信があったものと思われます。日本兵に新ワクチンを投与する前に、インドネシア人ロームシャでまずは試してみようと考えたものと思われますが、このような重大な事態になるとは予想していなかったものと思われます。

防疫研究所はこの大失態の責任を逃れるために、憲兵隊と共同画策して大嘘をつくことを考え出しました。それは、エイクマン研究所・所長のアクマド・モクター教授が、日本軍占領支配に打撃を与えるために、破傷風菌毒素でワクチンを汚染し、ロームシャを大量殺戮して日本軍の信用を崩壊させる目的で行った破壊工作であったということにしてしまうというものでした。エイクマン研究所にも医学校にも破傷風菌毒素などは保管されておらず、そのような破壊工作はどう考えても不可能でした。しかし、憲兵隊は10月初旬にモクター教授をはじめエイクマン研究所や医学校のインドネシア人スタッフ19名を逮捕し、やってもいない犯罪を白状するよう、様々な拷問を彼らに加えました。間もなく、そのうちの1名が拷問の結果なくなりました。モクター教授は同僚の命を救うために、憲兵隊が用意した全く虚偽の告白状に署名し、自分一人で行った犯罪であると主張したのです。その結果、同僚たちは全員釈放されました。もしかすると、そのような交換条件がモクター教授と憲兵隊の間で取り交わされた可能性もあります。

しかし、不思議なことにその後もモクター教授は監禁され続け、ようやく翌1945年の73日になって処刑されています。もはや日本の敗戦が明白となった1ヶ月少々前になって処刑が行われた理由は、敗戦になり、連合軍が日本軍の戦争犯罪行為を調べ出して、このでっち上げ事件が明らかになることを日本軍が恐れたためではないかということです。つまり、「主犯」である人物を処刑してしまい、この事件は解決済みということにしてしまったわけです。日本軍の思惑通り、この「モクター事件」は、連合軍による日本軍戦争犯罪調査には全く含まれませんでした。熱帯病に関する相当の医学的知識をそなえた検察官でないと、当時はこの事件の真相について疑いをもつことはできなかったと思われます。

この本の共著者であるケビン・ベアードとサコット・マズキは、モクター教授がワクチンを破傷風菌毒素で汚染することが不可能であったこと、ロームシャに注射したワクチンを生産した防疫研究所による全くの準備不足による結果以外に死亡事件が起きるはずがなかったことを、医学的分析を駆使して裏付け、さらには関連生存者がのこした様々な回想記や、今も存命中のただ一人の関係者への聴き取り調査などでその裏付けを補足するという方法をとっています。

私のように、医学に無知な単なる歴史家ではとうてい果たせない実証方法です。なぜこのような重大事件がこれまで歴史家によって明らかにされてこなかったのでしょうか。それは、この戦争犯罪ケースの分析には、通常の歴史家が持ち合わせていない、医学的分析力が欠かせなかったからに他ならないと思います。ケビン・ベアードとサコット・マズキという熱帯病専門家の知識と、モクター教授ならびにエイクマン研究所の名誉挽回への彼らの強い熱望があったからこそ、「モクター事件」の真相がようやく明らかにされたのです。

処刑されたモクター教授には妻と2人の息子がいました。息子の一人はオランダに渡り父親同様に医者になっており、オランダ人女性と結婚しています。彼らの悔しさ、苦しみはいかほどのものであったろうかと想像せずにはいられません。この著書が世に出ることで、戦後70年目にしてようやくモクター家の名誉が回復されます。どう少なく見積もっても数十万というインドネシアの若者たちがロームシャとして故郷を遠く離れた場所で重労働に喘ぎながら亡くなっていきました。息子や夫、父親を強制労働で失った多くのインドネシアの人たちの悲しみと、一家の働き手を失ったその後の生活苦難はいかほどであったろうかと考えずにはいられません。

この紹介文が、現在のあまりにも独善的な日本の一方的戦争被害観に対して疑問を投げかける一機会となれば幸いです。

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「ピース・フィロソフィー」に掲載しただいた拙論の全文は下記のアドレスで読めます。

http://peacephilosophy.blogspot.com/2014/08/1942-45-mochtar-affair-murder-by.html

 

 


2021年7月29日木曜日

東京オリンピックと人権問題

7月23日に東京オリンピックが開幕した。コロナ感染ウイルスのいわゆる「デルタ型」と呼ばれる、感染力が強く重症化リスクの高い変異ウイルスが急速に拡大している上に、開幕直前までさまざまな「スキャンダル」が続く異常な状況の中での開幕であった。しかし、メディアが盛んに「スキャンダル」と報じた一連の事態は全て、その根本は由々しい「人権侵害」問題であるにもかかわらず、そのことを指摘するメディアや評者がほとんどいなかったことも極めて「日本的現象」と言ってよいのではないかと私は考えている。

  その「日本的現象」について議論する前に、まずは、一連の「スキャンダル」をリストアップしてみよう。

 

(1)2月3日、東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長(83歳)が、日本オリンピック委員会(JOC)臨時評議員会で「女性がたくさんいる会議は長引く」という内容の性差別発言を行なった。これに対する批判のネット署名活動がSNSで急速に広まり、2月11日に森は会長を辞任する意向の表明にまで追い込まれた。その森が、日本サッカー協会相談役(元会長)の川淵三郎に後任就任要請を要請し、川淵が受諾の意向示した。ところが、「またしても80歳代の男がなぜ会長なのか」という多くの女性たちからの批判を受けた。結局、元オリンピック選手で現役参議院議員、オリンピック・パラリンピック担当大臣の橋本聖子(56歳)に会長就任の要請があり、彼女が受諾。就任前後には週刊誌が、橋本が日本スケート連盟の会長だった時、男子フィギュアスケート高橋大輔選手にキスを強制したというセクハラ疑惑を報道。就任要請は、会長としての能力があるか否かにかかわらず、ただおざなりに女性を会長職につけて世間の批判をなんとか躱そうという自民党と政府の政治的決断であったことは明らかであった。ちなみに、森への批判のほとぼりが冷めた7月23日には、JOCは森を名誉最高顧問にしたという報道が流された。このことは、JOCの委員たちが性差別に関していかに鈍感であるかを如実に示している。

 

(2)3月17日、東京五輪・パラリンピックの開会・閉会式の企画・演出で総合統括役だったクリエーティブディレクターの佐々木宏が、タレントの渡辺直美の容姿を侮辱するような演出を提案していたことを、週刊誌が報道。「豚の格好をした渡辺を『オリンピッグ』として登場させる」という案であったとのこと。この報道を受けて、翌18日、本人の渡辺は「今まで通り、太っている事だけにこだわらず『渡辺直美』として表現していきたい所存でございます。しかし、ひとりの人間として思うのは、それぞれの個性や考え方を尊重し、認め合える、楽しく豊かな世界になれる事を心より願っております」という、極めて真っ当な見解を発表している。佐々木はJOCを通して謝罪文を公表し、橋本会長が佐々木の辞任を発表した。週刊誌が報道していなければ、この女性の容姿侮辱の事実が問題視されることはなかった可能性が極めて高い。男が、同性の容姿を侮辱することはあまりないが、女性の容姿を侮辱することには無頓着であるということ自体が性差別であるという感覚が、多くの日本の男たちに完全に欠落しているのである。

 

(3)6月7日、JOC の経理部長森谷靖が電車に飛び込んで自殺するという事件が起きた。2019年1月に仏検察当局は、2020年の東京五輪・パラリンピック招致を巡りJOCの竹田恒和会長について贈賄容疑の捜査を正式に開始したことを公表したが、経理部長の自殺はこの贈賄容疑と関連しているのではないかという疑いが、当然のごとくメディア報道でも言及された。この贈賄容疑とは、2016年5月、2013年7月と10月の2度にわたり「東京2020年五輪招致」という名目で約2億2千万円が日本の銀行から、シンガポールにあるコンサルタント会社「ブラック・タイディングス」社に振り込まれたことに関する問題である。このお金がブラック・タイディングス社を介して、IOC元委員で国際陸連(IAAF)会長でもあったセネガルのラミン・ディアクと、その息子でIAAFの運営に関与していたパパマッサタ・ディアクに渡り、最終的に、開催都市決定の投票権を持つ国際オリンピック委員会(IOC)委員の買収工作に使われたのではないかという嫌疑がもたれている。JOCはブラック・タイディングス社を含め、海外に総額11億円を超える額を送金していることがその後明らかとなったが、J O Cは「守秘義務もあり個別の案件は非公表」としているので、送金先や内訳はいまも不明のままである。

 JOCは、経理部長は自殺ではなく事故死であり、贈賄容疑とは全く無関係だと主張しているが、警察は自殺であることは現場のセキュリティー・カメラの記録から確実であるとしている。

 

(4)7月14日、JOCは開会・閉会式の「式典コンセプト」なるものを発表し、開会式のための作曲者4名の名前も明らかにした。この4名の中に小山田圭吾が入っており、翌日にそのことが報道されるや、小山田が小中学校時代に同級生や障害者に対して残忍ないじめを繰り返していたことを1990年代になって複数の雑誌のインタヴューで笑い話の如く話していたことが問題視された。同級生に「排泄物を食べさせ」たり「自慰行為を強要」したこと、同級生の障害者生徒を「段ボール箱や跳び箱などに閉じ込める」、「マットレスでぐるぐる巻にする」などのいじめや暴行に関与していたことを、半ば自慢げに笑いながら「けっこう今考えるとほんとすっごいヒドイことしてたわ。この場を借りてお詫びします(笑)」と述べているのである。以前にも、小山田のこれらのインタヴュー記事に対して繰り返しネット上で批判の声が上がっていたのであるが、小山田自身が公的な場で謝罪したことはなかったとのこと。

2日後の7月16日、小山田は Twitter で謝罪文を発表したため、JCOは翌17日にこの謝罪を受け入れて「現在は高い倫理観を持っている」として、続投させると表明。ところが、障害者団体から声明が発表されるなど批判の声はその後も止まなかった。にもかかわらず、19日の午前中の段階でもまだJCOは小山田の「高い倫理観」を理由に続投させるという方針を変えなかった。しかし午後になって小山田が辞任を表明したので、その夜にJCOが辞任を受け入れたという形で決着がつけられた。

この「スキャンダル」で明瞭になるのは、障害者はもちろん、他者に対する上記のような陰惨ないじめが由々しい人権侵害問題であるという認識が、小山田本人のみならず、JCOの委員たちにも全く欠落しているという事実である。小山田の倫理観を「高い」とみなすなら、JOC委員たちの倫理観はよほど低劣なのであろう。

 

(5)7月20日、障害者いじめの小山田圭吾批判が飛び火する形で、東京オリンピックパラリンピック文化プロジェクトのメンバーとなっていた絵本作家「のぶみ」が自伝で、これまた誇らしげに書いていた「教師いじめ」に対する批判がSNSやネットで拡散された。その自伝よると、中学生の時に黒板消しのクリーナーの後ろに3か月間隠して腐った牛乳を教師に飲ませたことや、専門学校時代に授業の進め方が気に入らないと女性教員を恫喝したことが、堂々と書かれているとのこと。さらには、かつて自分が「池袋連合」という名前の暴走族軍団の総長を務め、複数回警察に逮捕された経歴があることも自慢げに書いているらしい。この批判に煽られる形で、のぶみの不倫の対象となり性的搾取を受けたという複数の女性たちの批判もネット上で拡散。こうした状況に直面して21日には、のぶみは辞退を表明せざるをえなくなったが、実際には官邸からJOCに“のぶみ処分”の指示が発せられたというのが実情らしい。

 

(6)7月21日、ホロコースト関連の資料記録保存や反ユダヤ主義的活動の監視を行う米国のNGOであるサイモン・ウィーゼンタール・センターが、東京オリンピック・パラリンピック開会・閉会式のショー・ディレクターである元お笑い芸人の小林賢太郎が、ユダヤ人大量虐殺をネタにしたコントを1998年に発表し、「悪意に満ちた反ユダヤ的なジョークを飛ばした」ことに対して抗議を表明した。このコントとは、NHKの教育番組『できるかな』をパロディ化したもので、1998月発売のVHS『ネタde笑辞典ライブ Vol.』に収録されたコントであるとのこと。この中には、「あ〜、あの『ユダヤ人大量惨殺ごっこ』やろうって言った時のな」という小林の発言が含まれているとのこと。サイモン・ウィーゼンタール・センターは「どんな人間にも、どれだけ創造的な人にも、ナチスのジェノサイド(民族大量虐殺)の犠牲者をあざ笑う権利はなく」、「この人物が東京オリンピックに関わることは、6百万人のユダヤ人の記憶を侮辱し、パラリンピックを残酷に嘲笑することになる」と強く抗議し、差別反対を掲げるオリンピック憲章に抵触する可能性があると指摘している。この件に関する元々の情報源は、コントの存在についての情報を7月21日の夜に流した、日本のある芸能情報サイトであったとのこと。

 当然な抗議声明である。NHKの教育番組をパロディ化したものの中でこれほど無神経な発言をしていたのであれば、本来ならば、NHKが98年8月の段階ですぐさま厳しい批判と抗議文を出しておくのが当然なのである。しかし、NHKがそうした対応を取ったという話は聞かない。もしも同じように「南京虐殺ごっこ」や「広島・長崎原爆無差別殺戮ごっこ」をコント扱いするならば、中国や日本国内からは猛烈な反発が即座に出てくるであろうことは間違いない。日本の歴史教育のみならず、人間教育、とりわけ人権教育の貧困性がモロに露呈された「スキャンダル」であった。

 JOC は急遽21日深夜から22日朝にかけて対応を協議し、開会式前日の22日午前という直前になって、小林を解任し同時に謝罪のコメントを出した。

 

(7)日時は前後するが、7月15日、韓国のテレビ放送局JTBCとの非公開の昼食懇談会の席で、在韓日本大使館の相馬弘尚総括公使が韓国政府の対日外交政策を評して、「文在寅大統領はマスターベーション(自慰行為)をしている」と発言。おそらく、文大統領の「慰安婦問題」や「徴用工」問題での日本政府に対する厳しい批判的対応を「一方的で勝手な要求である」と非難する意味で、このような下品極まりない表現をしたのであろう。いつまでたっても日本が犯した由々しい「人道に対する罪」のその重要性を深く認識することはせず、加害国である自国政府の責任を棚上げにしておきながら、こともあろうに、被害国政府の大統領を卑劣な表現で罵倒したのである。外交官としてのみならず、人間として恥ずべき、あまりにも野卑で低劣な言動である。JTBSはこのことを翌日に報道。これを受けて17日に、相星孝一大使は、書面で「対話の途中で報道のような表現を使ったのは事実だが、これは決して文在寅大統領に対する発言ではなく、相馬公使が懇談会の相手である記者にその場で不適切な発言だったと撤回したという説明を聞いた」、「外交官として極めて不適切であり遺憾だ。報告を受けて厳重注意した」と釈明した。

  しかし、この下品な発言は、韓国の政界のみならず市民をも憤慨させ、19日には市民団体「積弊清算連帯」が、相馬総括公使を侮辱罪および名誉毀損罪の疑いで国家捜査本部に告発した。外交官には免責特権があるため、果たしてどこまで相馬を追求できるかは疑問であるが、韓国側の怒りを明確に海外諸国に示す行為となっていることは間違いない。

 文大統領は早い時期から東京オリンピック開幕式に出席する意向を示していたが、19日になって「訪日見送り」を決定。その理由の一つについて韓国政府は、以下のような説明を行なった。「国民がとても受け入れられないような状況が起きた。決定的な契機とは言えないまでも、国民の情緒を無視できないという部分が作用した」と。

 

(8)オリンピック開会式が終わった後でも、まだ「スキャンダル」報道は続く。それは開会式で使われた楽曲の一つが、作曲家「すぎやまこういち」によるものであったからだという。7月26日のYahoo Japan ニュースは、週刊誌『女性自身』掲載の記事を紹介しているが、その記事には次のように述べられている。

 

すぎやま氏は15年6月に公開されたYouTubeの番組『日いづる国より』で、自民党・杉田水脈議員(54)と共演。彼女が「生産性がない同性愛の人達に皆さんの税金を使って支援をする。どこにそういう大義名分があるんですか」と話すと、すぎやま氏は同意。さらに同性愛の子どもは、そうでない子どもに比べて自殺率が6倍高いとの話で笑っていたのだ。番組最後には、「男性が言いにくいことを言ってくださると助かります。正論です」と、杉田氏の主張を全面的に肯定さえしていた。

 

この記事によると、18年8月に「LGBTは生産性がない」と述べた杉田が国内外から猛烈な批判を浴びた後、すぎやまも批判されることを恐れてか、自分のサイトで「LGBTの問題は人類の歴史の最初からあっただろう」、「性に対する考え方は十人十色で、他人がとやかくいうことではないだろう」などと投稿しているとのことである。

 

2021年4月16日朝日新聞青森版に掲載された漫画家・山井教雄氏の作品

 

 

 

結論:

 

 冒頭で述べたように、上記のオリンピックをめぐる一連の「スキャンダル」事件は、各事件について熟思してみれば、個人が起こした単なる「スキャンダル」としてすませるようなものではない。全てに根本的に共通しているのは、それぞれの問題の発生源に「他者の人権に対する配慮が決定的に欠如している」という要因があることである。したがって、これは事件を起こした個人だけの問題ではなく、そのような「希薄な人権意識」をもった無数の人間を産み出している日本社会全体の問題なのである。

ところが、メディアの報道のあり方を見ていると、メディア自体も、また多くの評論家たちも、こうした「希薄な人権意識」を「日本社会全体のあり方」とつなげて考えてみようという思考に欠けていると言わざるをえない。冒頭で私が述べた特異な「日本的現象」とは、このことを指している。問われなければならないのは、「なぜゆえに日本社会では、確固たる“人権尊重意識”がしっかりと諸個人の間に根づかないのか」ということである。私自身は、その決定的な理由の一つは、アジア太平洋戦争で無数の人たちを殺傷した日本が、戦後、その自分たちの責任を徹底的に自己追求することなく、逆に日本が犯した様々な残虐行為を嘘で隠避することによって、戦争被害者の人権を長年にわたって無視してきたことと密接に関連していると確信している。

とにかく、「人権尊重」の観点から現在進行中のオリンピックを見てみるならば、パンデミックで多くの国民が苦難に直面し、健康を害し、死に追いやられているにもかかわらず、なにがなんでもオリンピックを強行するという政府とJOC(その背後にいるIOC)もまた「希薄な人権意識」という点では同じである。いや、「希薄な人権意識」しか持っていない政府とJOCIOCであるからこそ、そのことが、オリンピックに関わっている個々人に様々な「スキャンダル」事件を起こさせている、と言うべきであろう。

感染者が急増し、医療崩壊がさけばれている今、小池都知事も菅首相も「オリンピックを成功させるために、(感染者を増やさないように)不要不急の外出は極力避けてほしい」と繰り返し呼びかけている。これは「人間の命の大切さ」という観点からするなら、全く本末転倒である。「パンデミック克服を成功させ、人間の健康と命を守るためには、オリンピックを中止しよう」というのが本来とるべき方針なのである。このままでは、五輪サーカスに命をとられてしまう市民の数はますます増えるであろう。

 

 


追悼 那須正幹さん

去る7月22日、山口県防府市にお住まいの児童文学作家、那須正幹(なすまさもと)さんが逝去されました。慎んで哀悼の意を表します。79歳でお元気そうでしたので、まだまだ創作活動を続けられるだろうと期待していましたから、本当に残念です。

 

周知のように、那須さんの代表作品はもちろん『それいけズッコケ三人組』シリーズとその続編シリーズ『ズッコケ中年三人組』です。1978年2月の第1作目から始まった『それいけズッコケ三人組』は、2004年12月までの26年にわたる長期シリーズで全50巻。その子ども三人組が中年になったという設定での『ズッコケ中年三人組』は、2005年から2015年までの11巻のシリーズ。この2つのシリーズは、子どもはもちろん、大人の読者をも多いに楽しませてくれました。那須さんの作品には、その他にも『コロッケ探偵団』や女の子を主人公にした『りぼんちゃんは〜い』シリーズなど、たくさんあることもあらためて説明するまでもないかと思います。

 

しかし、その一方で那須さんの多数の作品の中には、数は少ないですが、戦争・平和問題にテーマを絞った初期の1975年の作品『屋根裏の遠い旅』や、1984年の『折り鶴の子どもたち』、1992年の絵本『ねんどの神様』(絵・武田美穂)などもあることはそれほど広くは知られていないように思えます。戦争・平和問題をテーマにした他の作者による子ども向けの作品は、「太平洋戦争では私たちは大変な被害を受けました。ですから戦争のない今の平和を大切にしましょう」という主として「戦争被害体験」だけを伝える内容のものがほとんどです。それに対して、詳しくは述べませんが、『屋根裏の遠い旅』は、日本が米軍基地支援という形で介入していた当時のベトナム戦争も視野に入れ、「現在進行中の戦争と未来に起きる戦争に、今なにもしなければ、あなたたちも巻き込まれる危険性があるのですよ」という警告のメッセージを子どもたちに強く訴える内容になっている力作だと私は考えています。

 

那須さんが戦争・平和問題に強い関心を持っておられた理由には、ご自分が3歳の時に広島で(母親の背におぶされて)被爆されているという個人的体験と、原爆で親を亡くした同級生が小中学校時代には多くおり、白血病で亡くなった同級生もいたことなどがあると考えられます。しかし『それいけズッコケ三人組』を読んで育った多くの読者のほとんどは、那須さんが被爆者であったことを知らなかったのではないでしょうか。那須さんは憲法擁護運動にも深く関与され、「防府九条の会」の結成者の一人で、同会の代表世話人も務めておられました。ときたま「第九条の会ヒロシマ」が主催した広島市内での講演会(例えば2005年の<大江健三郎・澤地久枝・鶴見俊輔>講演会)にも、わざわざ防府から出てこられ、幾度か会場で私もお会いして挨拶を交わしたこともありました。

 

そんな那須さんは、原爆無差別殺戮50周年にあたる1995年に、『絵で見る日本の歴史』などの作品のある絵本作家・西村繁男さんと協力されて、絵本『絵で読む広島の原爆』を福音館書店から出版されました。この本を出版されるにあたっては、那須さんは解説を書かれるために、原爆開発の歴史、核爆発の物理学的な原理や放射能が人体に及ぼす医学的影響など多くのことを勉強されました。一方、西村さんは広島に長期間住み込んで、戦前の広島の街並みや市民の生活状態をよく知っている人たち、原爆によって破壊された広島の惨状と被爆者の実相をまざまざと記憶されている被爆者の人たちから詳しく聞き取りをされて、それらの情報をもとに多くの下絵を描くという作業をされました。この絵本は、子どもの読者を対象にはしていますが、原爆無差別殺戮の歴史解説、核と放射能の科学的・医学的解説、戦後の核開発競争の詳細な歴史年表などが含まれているため、大人にとってもひじょうに勉強になります。しかもその解説が、誰が読んでも分かりやすい簡明な説明になっており、それが絵でも理解しやすいようになっています。ひじょうによく考えられて作られている、見事な内容の本です。

 

『絵で読む広島の原爆』を机の上に置く那須正幹さん

 

 

1995年末、当時メルボルン大学で教員をしていた私は、(オーストラリアの)夏休みを利用して家族全員で日本に一時帰国し、その折に本屋でこの『絵で読む広島の原爆』に出会いました。一見して「これは素晴らしい絵本だ」と思い、(当時まだ幼かった)二人の娘たちのためにも買っておこうと考えてすぐに購入しました。日本滞在中に幾度も読み直しているうちに、「これは英語に翻訳して出版する価値が十分ある」と思うようになりました。そこで、福音館書店編集部に手紙を送り、「英語版を出すことを考えておられるようなら、ぜひ翻訳の仕事をさせて欲しい」という旨の希望を伝えました。ところが、数ヶ月後にようやくメルボルンの自宅に返信があり、「現在のところその予定はありません」とのこと。

 

ところが1996年末になって福音館書店編集部から再び連絡あり、「実はこの絵本が日本でひじょうに好評で、期待以上の売れ行きとなりました。そこで、編集部では、少々赤字となっても英語版を出してみようではないかという話になりました」という内容のメッセージを受けとりました。「少々赤字でも」という表現に思わず苦笑してしまいましたが、「赤字どころか黒字になって大喜びさせて、驚かせてあげよう」と思いながら(笑)、97年2月頃から仕事に取りかかりました。

 

しかし、やり始めてみたら、核爆発の物理学的な解説と放射能汚染が人体に及ぼす医学的な説明の部分の英訳には、やはり専門的な英語の知識が必要で、まずはこの勉強をしないでは正確な翻訳は難しいことに気がつきました。その上に、本の最後に付けられている1945年から1994年までの核兵器と原子力関連の歴史的出来事の詳細な歴史年表は、取り扱う項目が多いため、各ページの限られたスペースを考慮して、英語の翻訳が長くならないように、極力短い翻訳にしなくてはなりませんでした。また出版後の1995年から97年に起きた関連事項については、翻訳者の責任で付記しなければなりませんでした。それやこれやで、当時大学で教えていた私が、授業の準備や研究の上に、一人でこの翻訳の仕事をしていてはかなりの時間がかかってしまうことに気がつき、連れ合いに助けを求めました。当時、メルボルン大学で非常勤で日本語を教えていた私の連れ合いは、幸にして快く引き受けてくれ、主として歴史年表部分を担当してくれました。本当に助かりました。9月末頃までには初稿が出来上がり、年末までには最終稿の完成となり、翌1998年の確か春には出版されて、大手の本屋の英語図書の書棚や広島・長崎の原爆資料館内の販売店に並べられたはずです。

 

私の連れ合いと私の共訳によるこの『絵で読む広島の原爆』の英語版の題名を、私たちはHiroshima: A Tragedy Never To Be Repeated (ヒロシマ:繰り返されてはならない悲劇)としました。1998年からこの23年間、この英語版は重刷を繰り返して毎年コンスタントに売れ続けており、福音館書店にとっては確実に「黒字」となっているはずです(笑)。広島には、広島を訪れる海外からの政治家や著名人にこの英語版を贈呈することを平和活動の一つとしておられる女性のグループもあります。

 

英語版『絵で読む広島の原爆』

 

 

また、かなり前から、英語版の歴史年表を97年から現在まで加筆したいと思っていたのですが、そのためには本のデザインを大幅に変更しなくてはならず、技術的な面からそう容易ではないことを福音館書店から知らされていました。そこで、一昨年9月に、1990〜2019年までの核兵器問題に関する世界の動向について簡略に解説する英文を英語版の本の末尾につけることを出版社に提案し、受け入れてもらいました。したがって、現在、原爆資料館などで販売されている英語版には、この解説文が付けられています。

 

那須さんの反核平和の強い想いが込められているこの『絵で読む広島の原爆』と英語版Hiroshima: A Tragedy Never To Be Repeated が、これからも末永く、世界中の多くの人たちに読み継がれることを願いつつ、那須さんのご冥福を祈ります。

 

合掌

 


2021年7月2日金曜日

映画『コリーニ事件』を観て

被害者遺族の「心の痛み」にどう応えたらよいのか

 

ほぼ1年前の2020年6月初め、私は、ドイツの作家フェルディナント・フォン・シーラッハの「小説『コリーニ事件』を読む」というごく短い読後感想をこのブログに載せておきました。この小説は2019年に映画化されており、機会があればぜひ映画も観てみたいと思っていました。つい先日、偶然、この映画をAmazon Prime Video (英語字幕付き) で無料で観ることができることを知ったので、早速観てみました(日本語字幕付きでもあることが分かりましたが500円払わなくてはならないので、吝嗇な奴だと思われるかもしれませんが、英語字幕の方を選びました<笑>。ただし、無料だけあって、途中で何回も色々な広告が入ります)。素晴らしい映画作品になっていると思います。その感想を記す前に、1年前にブログに書いた読書感想を再度下に貼り付けておきます。

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2020年6月1日

小説『コリーニ事件』を読む

 

  私は昨晩、ドイツの作家、フェルディナント・フォン・シーラッハが2011年に出版した小説『コリーニ事件』(邦訳2013年出版)を一挙に読みました。それほど長くない小説ですので数時間で読めましたが、内容はひじょうに重厚です。(5年ほど前から、私は、小説はほとんどベッドで、重い本を抱えなくてもすむように、タブレットのkindleで読んでいますのでとても楽です。ベッド・サイド・テーブルに冷酒があればもっと嬉しいのですが、連れ合いが許さないです<笑>)作者は1964年生まれで、1994年からベルリンで刑事事件専門の弁護士を務めているとのこと。ナチ党全国青少年最高指導者バルドゥール・フォン・シーラッハの孫という、ユニークな背景をもった人物です。

  この小説は、弁護士になったばかりの若いライネンが国選弁護士として引き受けさせられた初めての事件についてです。それは、イタリア出身の自動車組立工、コリーニが、奇しくもライネンを幼少時代から可愛がってくれていたマイヤー機械工業の元社長であるハンス・マイヤーを、ひじょうに惨たらしいやり方で殺害した事件でした。黙秘権を使って何も言おうとしないコリーニの殺人動機を、ライネンが苦心して探し出すと、ナチの戦争犯罪の問題に行き着く、という筋書きです。

  ひじょうに興味深いのは、法廷での「戦争犯罪」をめぐっての議論の展開です。現職の弁護士らしい、とてもドイツの関連法に詳しい議論の展開です。しかし、そうした議論にもかかわらず、結局、法とは関係なく、「戦争犯罪に対する責任とは何か」を深く考えさせられる小説になっています。

  日本では、残念ながら、自分たちの父や祖父の世代が犯した戦争犯罪をテーマにした小説で、「人間としての責任」を深く考えさせる感動的な作品にはほとんど行き当たりません。自分たちがいかにひどい被害者にさせられたかという話で、お涙頂戴というものがほとんどです。例えば、2018年に刊行された伊藤潤『真実の航跡』は、最近にはめずらしい、戦犯問題を取り扱っていますが、戦犯追求をなんとか逃れようとする話で、「責任問題」などほとんど考えてもいない、私に言わせれば駄作です。

  しかし、私は常に思うのですが、戦争責任問題を考えるには、歴史教育も大切ですが、やはり人々の心深くに沁み入るような、被害者の「痛み」と加害者の「罪の苦しみ」を象徴的に表現する人物を通して、私たち自身の「人間としての責任」について考えさせるような芸術作品(文学、演劇、能楽、彫刻・絵画など)をできるだけ活用することが必要だと思います。『コリーニ事件』を読んで、改めてこの考えを再確認したところです。

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さて、映画のほうですが、監督は、2006年のドイツ映画『みえない雲』(グレゴール・シュニッツラー監督)の脚本を手がけたマルコ・クロイツパイントナーです。ちなみに『みえない雲』は、グードルン・パウゼヴァング作の架空の原発事故をテーマにした同名の小説(日本語版は小学館文庫)を映画化した作品です。小説は1986年のチェルノブイリ原発事故を題材にして書かれ、1987年に発表されて多くの文学賞を受賞しました。こちらの小説と映画も鑑賞する価値が大いにあります。

映画『コリーニ事件』は、小説を題材にした他の多くの映画同様、もちろん小説に忠実に沿ってシナリオは書かれてはおらず、いろいろなところで脚本家による独自のアイデアが入っています。例えば、小説を読んでいる限り、新米弁護士のカスパー・ライネンCaspar Leinen という名前から、この人物は生粋のドイツ人と読者は当然考えてしまうでしょう。私もそう思いました。作者自身がそういう想定で書いたものと思われます。

ところが映画では、ライネンはドイツ人の父とトルコ人移民の母との間に生まれた混血児で、父母は離婚しているという想定になっています。周知のように、ドイツには多くのトルコ人移民がドイツ市民権をとって暮らしています。ライネンが単に新米弁護士だからという理由だけではなく、「移民の子が有能な弁護士になれるのか」という、おそらく一般の多くのドイツ人が持っている差別的な先入観を暗に批判するような意味も映画に込める意図で、もともと小説では想定されていない、ドイツとトルコの混血児にしたのではないでしょうか。

小説では、コリーニの殺人動機を証明する決定的証拠を見つけるために、ライネンが、ドイツ南部のシュトゥットガルトにあるルートヴィヒスブルクという街を訪れます。小説では、ライネンがこの街にある公文書館のような所で証拠資料を5日間にわたって探すことになっていますが、その公文書館がどんな公文書館なのか、その名称についてもなんの説明もありません。実は、人口9万人ほどの小さなこの古い城下町には「国家社会主義犯罪調査のための国家司法行政中央事務所」、別名「ナチ犯罪訴追センター」が置かれており、その関係から、ナチズム犯罪司法追求や第2次世界大戦中の戦死者情報に関する資料などを所蔵するドイツ連邦公文書館の支部もここに置かれています。ライネンが訪れたのはこの連邦公文書館だったのですが、小説ではその説明が最後になって初めて明かされます。

ところが、映画では、コリーニの殺人動機を証明する決定的証拠を見つけるために、ライネンは、コリーニの生まれ故郷であるイタリア北西部の都市ジェノヴァに近いコリーダ村を訪ねます。通訳には、ライネンの事務所兼自宅に近いピザ屋でゲストワーカーとして働くイタリア人の若い女性を雇います。ここにも、ドイツで働く多くのゲストワーカーの現状を映画にも反映しようという意図がうかがえます。ちなみに、小説では1943年末にコリーダ村で起きた事件についての詳細な描写にかなりのスペースが割かれていますが、映画では、ドラマチックではありますが極めて簡潔な描写になっています。

この小説での法廷における論争の最も重要な点は、実際にナチス犯罪者訴追の「法の抜け穴」となった1968年10月1日発布の「秩序違反法に関する施行法」についてです。こんな悪法の草案を誰がどのような過程で作り、なぜ議会を通過してしまったのかについて詳しい説明証言が法廷で行われます。私は自分が戦争犯罪・戦犯裁判の専門家なので、小説とはいえ、こうした法廷での議論にひじょうに興味があり、この小説だけではなく、裁判ものの小説にはいつも読んでいて熱が入ってしまい、「なにやってるんだ、その点をもっと法理論的に追求しろ」とか、「よし、よくやった、その議論でいいぞ」とか思いながら読んでしまいます(笑)。映画では、そんな細かい専門的な議論をやっても観客はダラけるだけでしょうから、ごくごく要点だけの議論にして結論に入ります。

それはともかく、戦争責任意識を強くもったヴィーリー・ブラントが1969年に西ドイツの政権の座についてから、いわゆる「過去の克服」政策が堅固にかつ地道に続けられてきたドイツですが、その直前にはこうした悪法が発布され、「過去の克服」政策の裏でそのまま維持されてきたという事実を、作者のシーラッハは小説という形で見事に暴露し批判したわけです。したがって、この小説と映画がきっかけとなって、2012年にドイツ連邦法務省が「ナチの過去再検討委員会」を立ち上げたのも不思議ではありません。

ネタバレになって申し訳ないですが、少年時代に目前で父親を銃殺される場をマイヤーに強制的に見せつけられるという残酷きわまりない体験をさせられた寡黙で孤独なコリーニの役を、イタリアの名優フランコ・ネロが、重厚な演技で演じています。年老いても決して忘れることのできない戦争体験の「心の痛み」、その「痛み」に耐えながら生き続けてきた人間であるということを観客にひしひしと感じさせる名演技だと思います。「コリーニ事件」は実話ではありませんが、戦争被害者の遺族の心の痛み、言葉では決し表現できない痛みを、言葉ではなく身体で強烈に表現しています。

 

父親が銃殺される現場を見せつけられる少年時代のコリーニ

 

殺人罪を犯した老齢のコリーニ

つい先日、このブログで「バンカ島虐殺事件」のご遺族の方のスピーチを紹介いたしました。彼女たちは犠牲者本人から2世代あとの親族ですが、それでも彼女たちの「心の痛み」がスピーチから強く伝わってきます。

「痛みの共有」とは何か、どうすれば「痛みの共有」ができるのか、「痛みを共有」して、そこから私たちはどこに向けて歩むべきか……。そんなことを深く強く考えさせられる映画でした。