被害者遺族の「心の痛み」にどう応えたらよいのか
ほぼ1年前の2020年6月初め、私は、ドイツの作家フェルディナント・フォン・シーラッハの「小説『コリーニ事件』を読む」というごく短い読後感想をこのブログに載せておきました。この小説は2019年に映画化されており、機会があればぜひ映画も観てみたいと思っていました。つい先日、偶然、この映画をAmazon Prime Video (英語字幕付き) で無料で観ることができることを知ったので、早速観てみました(日本語字幕付きでもあることが分かりましたが500円払わなくてはならないので、吝嗇な奴だと思われるかもしれませんが、英語字幕の方を選びました<笑>。ただし、無料だけあって、途中で何回も色々な広告が入ります)。素晴らしい映画作品になっていると思います。その感想を記す前に、1年前にブログに書いた読書感想を再度下に貼り付けておきます。
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2020年6月1日
小説『コリーニ事件』を読む
私は昨晩、ドイツの作家、フェルディナント・フォン・シーラッハが2011年に出版した小説『コリーニ事件』(邦訳2013年出版)を一挙に読みました。それほど長くない小説ですので数時間で読めましたが、内容はひじょうに重厚です。(5年ほど前から、私は、小説はほとんどベッドで、重い本を抱えなくてもすむように、タブレットのkindleで読んでいますのでとても楽です。ベッド・サイド・テーブルに冷酒があればもっと嬉しいのですが、連れ合いが許さないです<笑>)作者は1964年生まれで、1994年からベルリンで刑事事件専門の弁護士を務めているとのこと。ナチ党全国青少年最高指導者バルドゥール・フォン・シーラッハの孫という、ユニークな背景をもった人物です。
この小説は、弁護士になったばかりの若いライネンが国選弁護士として引き受けさせられた初めての事件についてです。それは、イタリア出身の自動車組立工、コリーニが、奇しくもライネンを幼少時代から可愛がってくれていたマイヤー機械工業の元社長であるハンス・マイヤーを、ひじょうに惨たらしいやり方で殺害した事件でした。黙秘権を使って何も言おうとしないコリーニの殺人動機を、ライネンが苦心して探し出すと、ナチの戦争犯罪の問題に行き着く、という筋書きです。
ひじょうに興味深いのは、法廷での「戦争犯罪」をめぐっての議論の展開です。現職の弁護士らしい、とてもドイツの関連法に詳しい議論の展開です。しかし、そうした議論にもかかわらず、結局、法とは関係なく、「戦争犯罪に対する責任とは何か」を深く考えさせられる小説になっています。
日本では、残念ながら、自分たちの父や祖父の世代が犯した戦争犯罪をテーマにした小説で、「人間としての責任」を深く考えさせる感動的な作品にはほとんど行き当たりません。自分たちがいかにひどい被害者にさせられたかという話で、お涙頂戴というものがほとんどです。例えば、2018年に刊行された伊藤潤『真実の航跡』は、最近にはめずらしい、戦犯問題を取り扱っていますが、戦犯追求をなんとか逃れようとする話で、「責任問題」などほとんど考えてもいない、私に言わせれば駄作です。
しかし、私は常に思うのですが、戦争責任問題を考えるには、歴史教育も大切ですが、やはり人々の心深くに沁み入るような、被害者の「痛み」と加害者の「罪の苦しみ」を象徴的に表現する人物を通して、私たち自身の「人間としての責任」について考えさせるような芸術作品(文学、演劇、能楽、彫刻・絵画など)をできるだけ活用することが必要だと思います。『コリーニ事件』を読んで、改めてこの考えを再確認したところです。
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さて、映画のほうですが、監督は、2006年のドイツ映画『みえない雲』(グレゴール・シュニッツラー監督)の脚本を手がけたマルコ・クロイツパイントナーです。ちなみに『みえない雲』は、グードルン・パウゼヴァング作の架空の原発事故をテーマにした同名の小説(日本語版は小学館文庫)を映画化した作品です。小説は1986年のチェルノブイリ原発事故を題材にして書かれ、1987年に発表されて多くの文学賞を受賞しました。こちらの小説と映画も鑑賞する価値が大いにあります。
映画『コリーニ事件』は、小説を題材にした他の多くの映画同様、もちろん小説に忠実に沿ってシナリオは書かれてはおらず、いろいろなところで脚本家による独自のアイデアが入っています。例えば、小説を読んでいる限り、新米弁護士のカスパー・ライネンCaspar Leinen という名前から、この人物は生粋のドイツ人と読者は当然考えてしまうでしょう。私もそう思いました。作者自身がそういう想定で書いたものと思われます。
ところが映画では、ライネンはドイツ人の父とトルコ人移民の母との間に生まれた混血児で、父母は離婚しているという想定になっています。周知のように、ドイツには多くのトルコ人移民がドイツ市民権をとって暮らしています。ライネンが単に新米弁護士だからという理由だけではなく、「移民の子が有能な弁護士になれるのか」という、おそらく一般の多くのドイツ人が持っている差別的な先入観を暗に批判するような意味も映画に込める意図で、もともと小説では想定されていない、ドイツとトルコの混血児にしたのではないでしょうか。
小説では、コリーニの殺人動機を証明する決定的証拠を見つけるために、ライネンが、ドイツ南部のシュトゥットガルトにあるルートヴィヒスブルクという街を訪れます。小説では、ライネンがこの街にある公文書館のような所で証拠資料を5日間にわたって探すことになっていますが、その公文書館がどんな公文書館なのか、その名称についてもなんの説明もありません。実は、人口9万人ほどの小さなこの古い城下町には「国家社会主義犯罪調査のための国家司法行政中央事務所」、別名「ナチ犯罪訴追センター」が置かれており、その関係から、ナチズム犯罪司法追求や第2次世界大戦中の戦死者情報に関する資料などを所蔵するドイツ連邦公文書館の支部もここに置かれています。ライネンが訪れたのはこの連邦公文書館だったのですが、小説ではその説明が最後になって初めて明かされます。
ところが、映画では、コリーニの殺人動機を証明する決定的証拠を見つけるために、ライネンは、コリーニの生まれ故郷であるイタリア北西部の都市ジェノヴァに近いコリーダ村を訪ねます。通訳には、ライネンの事務所兼自宅に近いピザ屋でゲストワーカーとして働くイタリア人の若い女性を雇います。ここにも、ドイツで働く多くのゲストワーカーの現状を映画にも反映しようという意図がうかがえます。ちなみに、小説では1943年末にコリーダ村で起きた事件についての詳細な描写にかなりのスペースが割かれていますが、映画では、ドラマチックではありますが極めて簡潔な描写になっています。
この小説での法廷における論争の最も重要な点は、実際にナチス犯罪者訴追の「法の抜け穴」となった1968年10月1日発布の「秩序違反法に関する施行法」についてです。こんな悪法の草案を誰がどのような過程で作り、なぜ議会を通過してしまったのかについて詳しい説明証言が法廷で行われます。私は自分が戦争犯罪・戦犯裁判の専門家なので、小説とはいえ、こうした法廷での議論にひじょうに興味があり、この小説だけではなく、裁判ものの小説にはいつも読んでいて熱が入ってしまい、「なにやってるんだ、その点をもっと法理論的に追求しろ」とか、「よし、よくやった、その議論でいいぞ」とか思いながら読んでしまいます(笑)。映画では、そんな細かい専門的な議論をやっても観客はダラけるだけでしょうから、ごくごく要点だけの議論にして結論に入ります。
それはともかく、戦争責任意識を強くもったヴィーリー・ブラントが1969年に西ドイツの政権の座についてから、いわゆる「過去の克服」政策が堅固にかつ地道に続けられてきたドイツですが、その直前にはこうした悪法が発布され、「過去の克服」政策の裏でそのまま維持されてきたという事実を、作者のシーラッハは小説という形で見事に暴露し批判したわけです。したがって、この小説と映画がきっかけとなって、2012年にドイツ連邦法務省が「ナチの過去再検討委員会」を立ち上げたのも不思議ではありません。
ネタバレになって申し訳ないですが、少年時代に目前で父親を銃殺される場をマイヤーに強制的に見せつけられるという残酷きわまりない体験をさせられた寡黙で孤独なコリーニの役を、イタリアの名優フランコ・ネロが、重厚な演技で演じています。年老いても決して忘れることのできない戦争体験の「心の痛み」、その「痛み」に耐えながら生き続けてきた人間であるということを観客にひしひしと感じさせる名演技だと思います。「コリーニ事件」は実話ではありませんが、戦争被害者の遺族の心の痛み、言葉では決し表現できない痛みを、言葉ではなく身体で強烈に表現しています。
父親が銃殺される現場を見せつけられる少年時代のコリーニ |
殺人罪を犯した老齢のコリーニ |
つい先日、このブログで「バンカ島虐殺事件」のご遺族の方のスピーチを紹介いたしました。彼女たちは犠牲者本人から2世代あとの親族ですが、それでも彼女たちの「心の痛み」がスピーチから強く伝わってきます。
「痛みの共有」とは何か、どうすれば「痛みの共有」ができるのか、「痛みを共有」して、そこから私たちはどこに向けて歩むべきか……。そんなことを深く強く考えさせられる映画でした。
2 件のコメント:
今回のブログを読んで、「痛みの共有」について深く考えさせられました。私はバンカ島事件に関連して、日豪の戦争問題についても関心があります。知り合いのオーストラリア人家族の一人が戦時中、日本軍の捕虜となり移送中に米潜水艦の攻撃で死亡しています。家族の一人は「自分は日本を恨んでいいのか、アメリカを恨んでいいのか、誰を恨んだらいいのかわからない」と言っていました。私たちが「痛みの共有」に向けて努力し続けるところに平和は築かれるのだと思います。
今回のブログで気になったのは’混血児’という用語です。これについて田中さんは、以前のブログ(大阪なおみ選手に関する)で、その用語の持つ差別性について指摘され、ご家族が経験した日本での外国人差別の実態なども紹介されています。実は、私の家族も多文化のルーツを持っています。その説明に適した用語がないことに不便さを感じています。’純血’に対する’混血’は生物学的な意味で’純粋種’と’混雑種’という意味でしょうが、社会用語としては田中さんと同様に私も人権尊重の理念から抵抗感を感じます。人権尊重の立場から何か新しい用語を創造する必要があるのかもしれません。もちろん、言葉の創造だけでなく、「痛みの共有」と差別の解消、共生に向けた努力の継続が必要不可欠だと思います。どうしてもその用語を使わなければならない場合にせめて「 」をつけて「混血児」とするのはどうでしょうか? S・T
ご意見ありがとうございます。私自身も「混血」という用語に抵抗感がかなりあるのですが、適当な用語が思いつかないために使っています。大坂なおみ関連での論考(2021年2月23日投稿)で私は「『人は人種的背景がいかなるのものであれ、国籍が何であれ、一人の独立した人間である』と考えるべきなのである。ところが、哀しいかな、そんな簡単なことが世界の大半の人間には受け入れられない、というのが現状なのである。」と記しておきました。読者のみなさんから、適当な用語についてのご提案を頂ければありがたいです。
ご意見に取り急ぎお礼まで
田中利幸
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