2021年6月30日水曜日

バンカ島虐殺事件勉強会でのご遺族のスピーチ

去る5月15日、日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワークの主催で行っていただいた勉強会でオーストラリアのご遺族お二人が行われたスピーチの、全文和訳をここに紹介させていただきます。お二人のスピーチから、戦後76年たつ今も、ご遺族にとっては、日本軍による残虐な戦争犯罪行為によるご親族の死亡は、忘れがたいものであることがひじょうによく理解できます。

 

ジョージーナ・バンクスさんのスピーチ

 

ジョージーナ・バンクスさん

私の名前はジョージーナ・バンクスです。私の大叔母のドロシー・エルムスは豪州陸軍看護隊の看護師でした。家族から彼女はバッドという愛称で呼ばれていましたので、友達もみな彼女をバッディと呼んでいました。彼女は私の祖母のたった一人の姉でした。

バッドは最初マラヤに派遣され、それからシンガポールの第2・10豪州総合病院に勤務しました。シンガポールが日本軍に攻略される直前の1942年2月12日、65名の豪州陸軍看護師がヴァイナー・ブルック号という船で撤退させられました。この船がバンカ海峡で爆撃され沈没し、バッドは同僚たちとバンカ島にたどり着き、2つの灯台の間にあるラジー海岸に上陸しました。豪州の看護師たちは同じ海岸にたどり着いた負傷者や瀕死の人たちを看護しましたが、食糧や医薬品はほとんどありませんでした。当日と翌日にかけて、ヴァイナー・ブルック号や同じようにシンガポールを出港して途中で爆撃され沈没させられた他の船の乗船者のうち、80〜100名がバンカ島の海岸にたどり着きました。

二日後の1942年2月16日、みな空腹状態でしかも負傷者が大勢いたので、ヴァイナー・ブルック号の1等航海士であるセジマンという人にムントクの街まで行ってもらうことを決めました。日本軍はムントクをすでに占領していることを彼女たちは知っていましたので、日本軍に投降してジュネーブ協定に基づいて自分たちを保護してもらえるはずだと思ったからです。セジマンは一士官に連れられた15名の日本兵と海岸に戻ってきました。この兵隊たちは日本陸軍第38師団229歩兵連隊(田中部隊)のに所属する折田優大尉(のちに少佐)が指揮する大隊の兵隊たちでした。士官は海岸にいた人たちを3つのグループ - 男たちを2つのグループに、女たちを1つのグループ - に分けました。男たちは海岸の別の場所に移動させられ、刺殺や銃殺されました。22名の看護師と1名の市民の女たちのグループは、海に向かって歩かされ、背後から銃撃されました。私の大叔母はそのとき27歳でした。たった一人、ヴィヴィアン・ブルビンケルだけが生きのびましたが。男のうち3人が生きのびました。

バッドと彼女がどうなったのかについては私の家族の間では決して話題になったことはありませんでした。私の祖母ジーンもバッドの名前さえ口にしませんでした。その祖母が晩年に入院したときに、叔母のサリーが、自分の母親(つまり私の祖母)が戸棚の中に隠していたバッドがマラヤやシンガポールから出した手紙と、バッドが「行方不明になっており死亡したものと思われる」という知らせの電報があるのを発見しました。叔母のサリーもそれらを読んだのは初めてで、そのときバッドのことをようやく分かった気がしたのですが、同時にバッドを本当に「なくした」という気持ちにもなりました。

 

ドロシー・エルムスさん

 

私が大叔母のことに関心を持ち始めたのは、思いがけなくも、2017年にラジー海岸で行われた75周年追悼記念儀式に招かれた時からでした。バンカ島から戻って間もなくのことでしたが、テス・ローレンスという記者が「インデペンデント・オーストラリア」という新聞(2021年4月からオンライン新聞)に「ヴィヴィアン・ブルビンケル:バンカ島虐殺事件と生存者としての罪意識」と題した記事を発表しました。この記事の中でローレンスは、「“私たち” - つまり彼女自身と銃殺された女性たち が日本軍兵によってその前に“犯された”という事実が間違って長く秘密にされてきた」と彼女が書いているのを読みました。

  これを読んだとき、大叔母たちが海に向かって歩かされて背後から銃撃されたという私が信じてきた話、それ自体が酷い話ですが、それが神話だったのだと知らされ、私はひどくとり乱してしまいました。この恐ろしい野蛮な行為の話に私はうちのめされてしまいました。

 私のこの心の傷は、1946年にヴィヴィアンが東京裁判で証言したときに、豪州政府の命令があったため、彼女と彼女の同僚たちが深い痛みを受けたことについて沈黙しなければならなかったというテス・ローレンスの記述のために、さらに深くなりました。

  それ以来、私はその歴史的事実を証明するためにこの問題を直視するようになり、田中さんが説明したような研究にも関わるようになりました。重要な状況証拠があるにもかかわらず、豪州戦争博物館などは「実際に何が起きたのかその明確な事実を確認できる記録が存在しない」と最近も主張しています。

  私はいま、情報公開法に基づいて、ヴィヴィアン・ブルビンケルの診療記録が見れるようにという請願書を提出しようと計画しています。この診療記録が決定的な証拠になるだろうと私たちは考えているからです。リネッテ・シルバーが強姦に関する多くの関係証拠を集めましたが、一人の女性が彼女にEメールを送ってきて、「1960年代に、ヴィヴィアンがフェアフィールド病院の看護婦長だったときに、フィリパという女性がメルボルンの帰還兵・看護師協会事務局の事務員だったそうです。フィリパの上司のビル・サウスが、ある日彼女に<ブルビンケルの診療記録ファイルは、副局長補佐のコンデ氏の金庫にただちに戻さなければならない>と言ったそうです。(しかしどんな書類も通常は見ることができますので)「いったい、どうしてですか?」と尋ねたそうです。そのとき「分かっているだろうが、ヴィヴィアン・ブルビンケルがバンカ島で日本兵に強姦されたことは、極秘事項だからね」と言われたそうです。

 

日本の人たちに望むこと

私たちは、この事件が実際に起きたということを日本政府に正式に認めてほしいのです。日本では関係書類の多くが破棄されたことを知っていますが、もしも関係書類が残っているならば、それを見せていただきたい。さらに、日本が第2次世界大戦に関する教育を改革し、広島・長崎原爆投下で日本の人たちが惨たらしい犠牲者になったという明らかな事実だけではなく、日本軍が犯した戦争犯罪の様々な具体的例も学校で教えることを、私たちは望んでいます。

  私たちは世界中の「慰安婦(軍性奴隷)」の人たち、その遺族の人たちの声に、私たちも一緒に声をあげて参加したいです。どこで起きる戦争であれ、戦争が汚い秘密をもたらすということを広く知ってもらうために、主としてアジアの女性たち、戦争における性犯罪の被害者の人たちの声に加わりたいのです。

日本の人たちに共感を求め、私たちに何が起きたかについても耳を傾けて欲しいのです。もちろん、その話は不快で心乱すものではありますが、それが事実なのですから。

このことを、憎悪と非難の気持ちからではなく、真実を求め和解をしたいという真の心からお願いするものです。私は相手を許し、歴史を正しく記憶しなければならないと思います。何が実際に起きたのか、なぜそのような野蛮なことが犯されたのかという理由、この場合は第2次大戦での日本軍が犯した残虐行為を、正確に分析することが必要だと思います。

長い歴史においては、様々な国がいろいろな時期に残虐行為や戦争犯罪を犯してきました。オーストラリアは先住民の人たちを大量殺戮した暗い過去を認める必要があります。私たちは全員が一緒に、そのような残虐行為を発生させた自分たちの政治制度、イデオロギー、社会的条件、支配的な心情信念を自己検討する必要があります。

 

私たちの活動内容

  「バンカ島の友」という名称で知られている私たちの非公式のグループは、主としてバンカ島の抑留所に入れられた豪軍看護師とその他の抑留者の遺族で構成されています。私たちの主要な活動の一つは、毎年バンカ島で追悼記念式典を行い(今年はコロナ感染症のためにZOOMでの開催)、海岸で看護師たちが死に向かって最後に歩いたことを再現する「人道の歩み」という儀式を、世界各国の間の平和の象徴として行っています。これは、ラジー海岸の残虐行為は決してそれで終わりでないという意味を込めて、積極的反抗の表明として行っています。

 

 

2019年バンカ島での追悼記念式典 

儀式「人道の歩み」
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私たちの最終目的は以下のようなものです:

1)バンカ島ならびにその近辺で1942年から45年に起きたことの歴史に関心を持つ多くの市民と政府関連グループの間の仲介、調整。

2)1942年から45年に亡くなった豪州陸軍看護師、市民、軍人、その他の人々の悲劇を追悼し、さらにその歴史的事実について研究すること。

3)オーストラリアとバンカ島、インドネシアの人々の間の交流と親善を深めること。

4)以上3つの上に、バンカ島の教育と医療サービスを向上させるために、地元の学校と医療施設に支援を行うこと。

5)全ての国々の人々の間に平和と調和を育む活動を行うこと。

 

 ジューディーさんは私より昔から、この活動に最初から参加していますので、他の活動についてもお話されると思います。

  私の曽祖母は望みを捨てたことはなく、長年、娘の死について詳しく説明されたにもかかわらず、いつの日かバッドが、ビクトリア州のチェスハントにある自分たちの農家に姿を見せるという希望を持ち続けました。

 

 

 

 

 

ジューディー・キャンベルさんのスピーチ

 

 


私たちが戦争について考えるとき、兵隊が戦いあうことを考えます。通常、そうした戦争活動の間に、傷つき殺される、罪のない、たまたまそこに居合わせた市民については考えません。市民はごく普通の人たちで、敵に捕まったとしても、戦争になった地域に前から住んで働いていた人たち、あるいはたまたまそこに居合わせた人たちです。彼らは偶然戦争に巻き込まれてしまった人たちです。

現在も戦争が起きときには、私たちはその影響について新聞やテレビで知ります。戦争は常に悲劇であり、多くの兵士だけではなく市民もまた死んでいきます。しかし、過去の戦争について考え理解を深めることは、そうした戦争が再び起きないようにするためにも重要です。戦争では人が苦しみ死ぬだけではなく、何世代にもわたってその影響が続きます。戦争を生き延びた者や遺族にとっては、精神的に苦しい多くの記憶とともに生活することを余儀なくされ、平凡で幸せな生活を送ることができなくなります。

私の祖父は、第2次世界大戦中の1944年8月、インドネシア、バンカ島のムントクという町の日本軍の市民収容所で亡くなりました。その祖父のことをお話ししたいと思います。私の祖父の話は、第2次世界大戦中に東アジアの日本軍捕虜収容所で苦しみ亡くなっていった大勢の人たちの経験と、その亡くなっていった人たちの家族が今も苦しみ続けていることの典型的な例と言えるものです。

私の祖父に何が起きたのかみなさんに知っていただきたいのです。同じ収容所に入れられた人たちよって書かれた本や日記を、これまで長年の間、私はたくさん読んできました。また、収容所で当時はまだ子どもだった3人の人たちと会い、収容所がどんなところだったのか詳しく教えてもらいました。さらには、収容所に入れられた人たちが描いた絵もたくさん目にしてきました。

  収容所のことに私が興味がある理由は、戦争が私の家族に大きな影響を及ぼしたからです。1942年2月、祖父はギアン・ビーという輸送船でシンガポールを離れましたが、その船は爆撃され、祖父は日本軍に捕まり、収容所に入れられました。そのとき私の父は16歳で、オーストラリアで学校に通っていました。1943年に、祖父はパレンバンから一枚の葉書だけを家族に送ることが許されました。この葉書が着くまで、家族は祖父が溺れ死んだものと思っていました。葉書を受け取った家族はもちろん嬉しかったのですが、終戦になってから、祖父が1944年に亡くなっていたことを知らされました。

 

ジューディーさんの祖父母と少年時代のお父さん

 

祖父が収容所から家族に送った葉書

私の父は、自分の父を失ったことの打撃から回復することはなく、一生、深刻なうつ病に悩まされ続けました。私は、終戦からそれほど経っていない1956年に生まれました。当時、そして今もそうですが、うつ病がどんな病気かほとんどの人はよく知りません。親戚も私たちを訪問することは嫌がったため、私は孤独な中で育ちました。 

私の祖母は、船の周りに落とされた爆弾のせいで耳が聞こえなくなりました。彼女は祖父とは別の船に乗っていたので無事にオーストラリアに着きましたが、その後の彼女の人生はいつも怒りと悲しみに満ちたものでした。私はこれまでに、収容所に入れられた人たちの家族で祖母と同じように苦しんだ家族とたくさん出会ってきました。

第2次世界大戦前と大戦中、マラヤとシンガポールでの市民防衛は志願兵軍によって行われました。そうした英国と豪州の志願兵の家族で作っている歴史研究グループがあり、「マラヤ志願兵グループ」と呼んでいます。このグループの活動を通して私は、爆撃や収容所で親族を失うという同じような戦争体験をした多くの家族と出会いました。家族体験を共有しあい、支援し合うということをやっています。お互いに共通した過去が理解できる、大家族の一員になったような気持ちです。

 「マラヤ志願兵グループ」の活動で、バンカ島のムントクの街中に私たちは小さな記念博物館を建てました。収容所があったところに、ムントクで亡くなった捕虜の名前を刻んだ標識をたて、その人たちのお墓が石油スタンドのそばに設置され、合同のお墓も設置されています。ムントクの地元の私たちの友人を助け、私たちの家族の記念のためにも、ムントクのみなさんを支援する活動を行っています。新しい井戸を掘り、学校の設備の修理を行うためにお金を送り、また最近はコロナ感染症に対応するために救急車を購入して送りました。このようにして捕虜の記憶を継承し、彼らの死にもかかわらず、良い結果が生み出されるように努力しています。

 ここで私の祖父の背景についてお話ししたいと思います。彼の名前はコリン・ダグラス・キャンベルで、1892年にマラヤに生まれましたが、父はスコットランド人、母はオーストラリア人でした。祖父の父はジョホールの君主に仕える鉄道技師でした。祖父は、マラヤのペラク州でゴム園耕作者となり、オーストラリア人のアンと結婚し、2人の男の子がいましたが、その子どもたちをオーストラリアの学校に入れました。幸せで平穏な生活をおくっていました。

 1941年12月8日、日本軍はマラヤに侵攻しました。この日、日本軍は米国の真珠湾、香港、フィリッピンも攻撃しました。それから70日の間、マレー半島で日本軍と英豪軍(地域住民軍を含む)の間での戦闘が続きました。日本軍はシンガポールに向けて侵攻し、途中で幾つもの町を占領して行きました。

 英国政府はマラヤとシンガポールに在住する西欧人に対して、安全であるからオーストラリア、インド、南アフリカ、英国などに逃げる必要はないと言っていました。ところがマラヤ爆撃で多くの市民が死亡し、人々はシンガポールに逃げ込んで退避許可を得ようとしました。日本軍がシンガポールに近づくにつれ、小島のシンガポールの飲料水が断水になるのではないかと心配しました。そのとき英国政府は、ようやく西欧人に逃避するよう指示し、「我々はあなたたちを救えないので、神の御加護があるように祈る」と言ったのです。

 1942年1月、祖父は妻と他の女性や子供たちを車に乗せ、戦闘を避けながらシンガポールに行き、オーストラリアに安全に逃げれるように船に乗せました。逃避する人はスーツケース1個だけを持っていくことが許されました。港に着くまでに、幾度も、爆撃を受けた建物、道路に横たわっている車や死体の間をぬけて車で通過しなければなりませんでした。日本軍による空爆を避けるために、幾度か車を止めて道路脇の排水路に身を隠しました。

祖母が船で出発した後、祖父はゴム園に戻り、設備や貯蔵物を破壊してから逃れる準備をしました。飼い犬を獣医のところに連れて行き、処分してもらって土に埋め、貴重品も土に埋めました。それから、将来また戻ってこれることを望みながら、働いていた労働者に礼を述べてお金を払いました。家族の所持品、家具、書籍、写真などはそのまま残していくより他はありませんでした。

1942年2月15日にシンガポールが日本軍に攻略される直前の2月13日、祖父はシンガポールに戻り、ギアン・ビー号という貨物船に乗って逃げました。シンガポールに戻るまでに、再度、爆撃で殺された多くの人の死体を避けながら、シンガポールに着いたときは市内全体が火事でした。ギアン・ビー号は、主に女性・子供・老人を乗せてシンガポールから逃避する40隻余りの船のうちの一つでした。これらの船は、数日のうちに日本軍の飛行機や戦艦に爆撃され、インドネシアのバンカ島近海で沈没させられました。

日本軍の飛行機や戦艦はスマトラ島のパレンバンの油田を占領するために出撃していたのですが、それらが避難者を乗せた船を襲ったのです。ギアン・ビー号の船長は、その船が軍用船でないことを日本軍が分かるように、女性・子供の全員が甲板に立つように指示しました。にもかかわらず、ギアン・ビー号ほか40隻あまりの船が爆撃され沈没させられました。日本軍の飛行機は、海に飛び込んだ女性・子どもすら銃撃して殺しました。

その結果、約4千名から5千名の人が亡くなりました。救命ボートに乗ったり、破壊された船の板切れにつかまったり、あるいは3日もの間泳いだりしてなんとか海岸にたどり着いて生き延びた人たちもいました。

  祖父はギアン・ビー号が沈没した後、海に飛び込み、乗船客でいっぱいだった救命ボートに引き上げられました。しかし、それ以上救命ボートに乗れない人は、ボートにつかまりなが海に浮かんでいましたが、力尽きて溺れ死にました。

  祖父が乗っていた救命ボートは数日後にバンカ島にたどり着きました。乗船客たちは島民によって小さな船に乗せられてゼブスという町までつれていかれました。その町で、地元の中国人の世話になりましたが、やがて日本軍がやってきて祖父たち乗船客をトラックに乗せてムントクの刑務所に連れて行きました。

  私はこれまでにムントクを9回訪問しています。2020年には、ゼブスの中国人女性と出会い、彼女が年老いた“マリクお爺さん”を紹介してくれました。“マリクお爺さん”さんは、1942年当時5歳でしたが、お爺さんの家族が乗船客の世話をしたのを覚えていました。その乗船客の一人がオーストラリア人で、その人にビスケットをもらったことを覚えていました。このオーストラリア人は、私の祖父ではなかったかと思います。ゼブスに着いた乗船客を知っている人と知り合うことができて、とても嬉しかったです。

40隻ほどの乗船客のうち約千人がバンカ島のムントクに連れてこられましたが、ほとんどが女性、子ども、老人で、オーストラリアと英国の役人である市民もその中にはいました。この人たちは、生活環境条件がひじょうに悪い収容所を転々と移動させられました。最初はムントク、それからスマトラのパレンバン、再びムントクに戻され、最後はルブック・リンガウのベララウという順番です。収容所では、これらの人たちに、インドネシア各地に住んで働いていたオランダ人が加わりました。

 市民男性たちは、女性と子供とは別の収容所に入れられました。数ヶ月ごとに毎回違った収容所に移動させられるたびに、生活条件は悪化しました。男の子は13〜4歳になると、母親から引き離され男たちの収容所に送られました。息子から離された母親たちは心が痛みました。収容所で配給される食糧も医薬品もごくわずかで、3年半にわたる戦争期間中、男たちの半数、女たちの3分の1がマラリア、赤痢、脚気(ビタミン欠乏)、肺炎、飢餓などが原因で亡くなりした。子供たちの中にも死亡者が出ました。

 毎日の配給食糧は、石や草が混じった汚い米が少量と腐った野菜の切れ端だけでした。肉やタンパク質のものはほとんど与えられませんでした。そのため、草やネズミ、カタツムリ、蛇など、見つけられものはなんでも食糧にしました。

 収容されている人たちは酷い取り扱いを受け、毎日、点呼のときに日本軍監視兵に深くお辞儀をしなかった場合は、暑い太陽の下に何時間も立たされたり、ひどく殴られたりしました。女性の中にはあまりにも強くぶたれたため、歯が折れたり、顎が壊れてしまった人もいました。

  死人が出た場合には、土を掘って死体を埋めることだけができました。私の友人であるクイーンズランドに住むニール・ホッブズはほぼ97歳です。彼は、収容所に父親と一緒に入れられた1942年当時は17歳でした。多くの仲間が死にかかったとき、彼は墓掘り人のグループに加わりました。そうすれば余分な食糧品をもらえたからです。この余分の食糧品を彼は父親に与えることで、二人は戦争を生き抜くことができました。

 私の祖父はそれほど幸運ではありませんでした。彼は、1944年8月に、赤痢と脚気でムントク男子収容所で、53歳で亡くなりました。このとき、毎日、6人が亡くなっていきました。ニール・ホッブズは、おそらく私の祖父も、ムントクの町の墓地に埋めたのだと思います。2014年にニール・ホッブズは、私と一緒にムントクを訪問しましたが、そのとき彼は89歳でした。私たちは、彼らが収容されていたムントク刑務所を訪れました。現在の環境条件は当時よりよくなっているはずですが、建物自体は昔のままです。ニールは自分が入れられていた第9号室を見つけましたが、彼の多くの仲間がそこで死んだものと思われます。

 

ジューディーさんとニール・ホッブスさん

 

追加:

このスピーチ原稿を書き終えたあと、2週間前にニールは96歳で亡くなりました。彼は自分の収容所体験を語ることで過去と私たちを繋ぐ役割を果たしてきました。多くの遺族家族が自分の両親がどうなったかを知るために、彼は助けてくれました。その結果、私たち遺族家族は繋がりあっています。10歳代の収容所時代に、多くの友人の死体を埋葬しなければならなかったにもかかわらず、日本人を恨んではいませんでした。実際、彼はエアコンを日本人に売る仕事をしていました。今週火曜日、ジョージーナさんと私はニールのいとこがデザインしたメルボルンの噴水に行き、その池に平和の折り鶴を浮かべて冥福を祈りました。

私たちは戦争に怒りを覚えるのではなく、戦争で起きたことに悲しみを感じ、なぜ人は他人に対してそんな酷い態度がとれるようになるかを理解するのにとても苦しみます。

  1945年9月に、最後の収容所であるベララウで生存者を救い出した豪州軍兵たちは、収容所にいた人たちがまるで骸骨のような「灰色の幽霊」のように見えたと報告しています。あまりにも酷い取り扱いで、病気におかされ弱りきっていたのです。私の友人、ボブ・パタソンは、この収容所で2歳から5歳までを過ごしました。収容所が解放されたとき、ボブは病気で歩くのもままならず、彼の母親も彼を抱いて歩く力もありませんでした。もう一人の友人、ラルフ・アームストロングは戦争が終わったとき13歳でした。男子収容所から女子収容所に行ってみましたが、母親も2人の姉も死んだと知らされ、二度と会うことができませんでした。

  私は定期的に遺族仲間とともにバンカ島を訪問します。私たちは「バンカ島の友」というグループを作り、このグループには「マラヤ志願兵グループ」、(バンカ島で溺れ、虐殺され、あるいは収容所で亡くなった)豪州陸軍看護師の遺族家族、歴史家や地元のインドネシアの人たちが加わっています。

  パレンバン収容所では、女性たちが合唱団を結成し、クラッシック音楽を歌いました。2013年には、イギリスで「マラヤ志願兵グループ」がコンサートを開き、4人の収容所生存者と多くの遺族家族が参加しました。このコンサートで集められた募金が、ムントクの墓碑建設やその他の地域プロジェクト支援のために送られました。

 ヴィクター・フランケルという精神科医は戦時中にドイツの収容所で彼の家族をなくしています。戦後彼は、過去にどんなことがあったにせよ、人生に意義を見出すことが重要だと私たちに教えました。私たちの哀しみは、過去のことを記憶しより良い将来を築くために努力するような、あたたかい新しい友情によって癒されます。かくして友情と私たちの努力は常に広がって行きます。

  毎年、追悼式と「人道の歩み」が、1942年2月に豪州陸軍看護師、一般市民、兵士たちが虐殺された海岸で行われます。この「人道の歩み」では、参加者全員が手をつなぎ世界平和を願います。2020年には、インドネシアのオーストラリア、ニュージーランド、英国、日本の大使館が平和を願う植樹を行いました。今年は追悼式はZOOMで行われました。参加者全員が自宅で平和を願うロウソクを灯しました。2009年には、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)がムントクを訪れ、歴史を重要視する町とさまざまな違った宗教を信じる人たちが一緒に平和に暮らしていることを賛美しました。

 収容所生存者の一人で、戦後にカソリック神父になったウイリアム・マクドゥーガルの伝記を書いたガリー・トッピング教授は、「ムントクが恐怖の場所であるだけではなく、美と教育の場所になったことはマクドゥーガルの心を喜ばせた」と書いています。

 過去の恐怖にもかかわらず、「バンカ島の友」の会はより良い将来を築くために援助を続けたいと思います。ベララウ収容所で亡くなったマーガレット・ジェニングスは、自分の聖書に多くの詩を書き残しました。そのうちの一つの詩の最後の数行は、私たちのいまの気持ちを表しています。

 

「ある日いつか、この全てが終わらなくてはならず、

これから後の年月を目にして生きる私たちは

新しい世界を、血と涙から永遠の平和を

作り上げる努力をせねばならない」

 

 

2021年5月28日金曜日

「イスラエルのパレスチナ人虐殺」と「歴史の大嘘」について

今日は、私が尊敬するお二人の市民活動家の御論考を、ご本人からの許可をいただいて、ここに紹介させていただきます。

 

一つ目は、札幌にお住まいの松元保昭さんが、イスラエル軍によるパレスチナ自治区ガザへの無差別攻撃に抗議するデモを今月22日に札幌市中心部で行われたことのご報告に合わせて執筆されたものです。イスラエルによるパレスチナ民族差別を、日本政府による沖縄民衆、アイヌ民族や朝鮮民族の差別と重ね合わせながら鋭く批判されています。歴史家としての私自身の関心は、ホロコーストという大虐殺の被害を受けた民族が、なぜゆえにパレスチナ人を5〜6年毎に虐殺する蛮行を平気で犯すことができるのか、という疑問にあります。この疑問に対する私自身の考えは、別の機会に述べさせていただきます。

 

二つ目は、ベルリン在住の梶村太一郎さんが、日本の国家主義や天皇イデオロギーを、ナチスドイツのゲルマン民族至上主義とそれと表裏一体の反ユダヤ主義とを比較しながら、人種差別という普遍的な問題について考えることを私たちに問いかけておられます。ひじょうに興味深いことに、今、ドイツではこの「人種」という概念が非科学的で差別的な用語であり、それゆえ憲法からもこの用語を削除すべきだという主張をめぐって議論が起きているとのこと。差別に敏感なドイツらしい、ひじょうにユニークな議論だと思います。

 

《札幌からデモの報告とアピール》

ナクバを生き続けるパレスチナ人―イスラエル抗議とメディアへの訴え

                                         2021522

パレスチナ連帯・札幌:松元保昭

 

今回の発端は、東エルサレムのシェイク・ジャッラーフ48家族立ち退き命令、イスラエル右翼のヘイトスピーチ、抗議に連帯したダマスカス・ゲート数百人を襲ったイスラエル治安部隊の暴力、ハラム・アッシャリーフのアルアクサ・モスク内での治安部隊の銃撃、という一連の抵抗運動への弾圧・懲罰に対して、10日のエルサレム・デイ(1967年に占領したイスラエルが名付けたエルサレムの日)にハマースがロケット弾を発射したことに始まりました。

 

21日早朝の「停戦合意」なるもので11日間の「戦闘」は終了しましたが、はたして「終わった」のでしょうか?

 

73年前の1948年、ユダヤ極右シオニスト組織が虐殺・強姦・家屋破壊などの見せしめと脅迫で80万人ものパレスチナ人を追放し難民にした(ナクバ)。その後、人口31%のユダヤ人が6割もの土地を奪い、イスラエル国家を「建設」したシオニストたちは2年後不在者財産法をつくって「帰還権」を与え追放されたパレスチナ人の土地や家屋を欧米からのユダヤ人に売却した。ところが追放され逃れたパレスチナ人には「帰還権」は今もない(国連決議194の不履行)。今回のシェイク・ジャッラーフの家族も現イスラエル領のハイファやヤーファから逃れてきた人々だ。たとえ自分の土地であっても、宗教的・考古学的「理由」をもちだして最高裁でもパレスチナ人の訴えは退けられる。抵抗すると今回のような懲罰=空爆・虐殺が繰り返される。だから、パレスチナ人はいまもナクバ(大破局)という民族浄化を生き続けていることになる

 

イスラエル軍の空爆で破壊されたガザ地区

 

 

悲嘆にくれるガザ地区住民

 

同じ東エルサレムのシルワーンでは、1970年代から今に至るまでこうした土地強奪が繰り返されパレスチナ内に巨大入植地が各地につくられてきた。イスラエルと結ぶ幹線道路、分離壁、水源にいたるまで土地を奪われてきたあげく日常的な軍事支配によって管理されているのがパレスチナだ。「大エルサレム計画」「エルサレム首都」「聖地(神殿の丘)管理権奪取」という「ユダヤ化」拡大の野望をもつイスラエルは、こうして東エルサレムの土地を奪い続けている。73年もの軍事占領下、こんなに長い植民地支配を許容しているのが、アメリカ、EU、国連という「国際社会」だ。

 

この間、「暴力の応酬」「報復の連鎖」を叫び続けてきた世界中のメディアは、「停戦合意」を歓迎した。バイデン大統領はネタニヤフの決断を「称賛」した。イスラエルには「自衛権」があると支持する米国政府は、パレスチナ人の自衛権=抵抗権については何も語らない。メディアはハマースを「テロ組織」と強調するが、もともとガザのパレスチナ人民が自らの抵抗のために民主的に選んだ組織だ。勝手に「テロ組織」と名指したのはイスラエルと米欧政府だ。「暴力・衝突・報復」と言ってハマースをやり玉にあげることで、イスラエルの懲罰・弾圧を覆い隠す。パレスチナ人が日々被っているヘイトクライム、家屋破壊、土地強奪、アパルトヘイトへの抵抗をかき消す、これが世界中のメディアの常套手段だ。これが「自由と民主主義」を標榜する西側米欧日のダブルスタンダード効果というものだ。

 

問題の根は、パレスチナ人に対する日常的な差別(例えば、イスラエルや入植地の少年がパレスチナ人の家に石を投げても逮捕されないが、パレスチナの子どもが石を投げると逮捕され殴られときに殺される)、挑発、脅迫、抑圧、弾圧、集団懲罰の構造的暴力と軍事占領支配だ。対立はまったく非対称であって、国家と国家の戦争ではない。背景もその根も報道しないで「暴力の応酬」「報復の連鎖」を連呼するのは、問題を覆い隠すイスラエルに共犯していると疑われても仕方がない。こういうときにこそ、ジャーナリズムの真価を発揮してほしいものだ。

 

さらに安倍・菅自公政権は、ことあるごとに「インド太平洋構想」を喧伝している。じつは日本が、インドからさらにイスラエル、NATOへと結んで中国・ロシア包囲網つまり米欧覇権の先兵になろうという魂胆だ。尖閣問題をテコに先島諸島の軍事化をすすめ一日10億円の軍事演習を強行し「敵基地攻撃能力」を高めようと軍事力優先の国づくりにすっかり舵を切っている。原発に失敗しコロナに襲われた財界も軍事を渇望し、政権を糺す学術会議を亡き者にしようとしている。憲法前文の「公正と信義、決意と誓い」は風前の灯だ。

 

私たちが考えなければならないのは、いまも「アラブ人をガス室に、火の中に」とか「アラブ人を駆除」とかいうナチまがいの戦争・植民国家イスラエルを免責・温存・容認してきたのは誰なのか、73年前の民族浄化を裁かなかった、裁けなかった、「米国」「国際社会」「国連」を、さらに自らを裁こうとしなかった「イスラエル国家」を考えることだ。

 

同時に、「裁かれない加害」は日本国そのものの問題でもある。土地強奪・家屋破壊・強制移住はかつてアイヌ民族が体験したことである。いまだに謝罪はない。「捨て石」となった20万人の血潮は沖縄の地に染みつき、「無期限貸与」(昭和天皇)の米軍基地は76年間も居座り続け本土の「国民」は知らんフーナ。朝鮮半島の36年間の植民地化にはまっとうな謝罪・補償はなく「分断」を逆利用してきた日本、イスラエル建国の年1948年の朝鮮学校閉鎖令はいまも朝鮮学校差別につながる。自ら正義を実現できない国家・民族は何をしでかすかわからない…。

 

2008年、2012年、2014年、そして今回虐殺されたパレスチナ人、とくにその半数の女性と子どもを追悼しつつ、こんなことを考えながら20名でメモリアル・サイレント・マーチをやりました。)

 

 

歴史の大嘘について

 

梶村太一郎(在ベルリン、ジャーナリスト)

「朝露館 関谷興仁陶板彫刻美術館」 発行『朝露館たより』2021年9号掲載

 

「人間は万物の霊長である」と言われて久しい。京都大学に霊長類研究所ができたのは戦後のことでこの言葉はすっかり定着している。ここでの霊長類とは分類学での「サル目」の「ヒト科」のことで、オランウータンやゴリラの研究で有名だ。しかし飼っていた頭の良いオランウータンに檻の施錠をはずされ逃げ出されて裁判沙汰になったり、最近では研究費の不正会計処理で研究所長が懲戒解雇されたりしているところを見ると、ここの霊長たるホモ・サピエンス(「知恵のあるヒト」の意)の知恵もそれなりのもののようだ。

 

ところで、日本語の霊長という言葉の典拠は古い秦の時代の『経書・秦誓』からとされている。鴎外晩年の『元号考』によれば日本の元号の多くもこの古書からの出典で、また昭和や平成もそうである。この事実が安倍晋三首相はどうやら気にいらないらしく、彼は令和改元の際に「歴史上初めて、国書である万葉集を典拠とする元号を決定しました」と満足そうに述べ、NHKを先頭にメディアも呆れるほど「初めて国書から」と囃し立てた。

 

 ところがこの万葉集の記述「初春令月気淑風和」が、これも多くの元号の典拠である『文選』の後漢は張衡の詩「帰田賦」の句「仲春令月時和気清」であると指摘されている。安倍氏には日本は漢字文化圏ではないらしい。そもそも漢字だけで書かれた万葉仮名なしには古事記以来の国書が成立せず、さらに元号そのものが前漢の武帝から始められた制度であったことも眼中にない。噴飯ものの日本の国家主義者の浅知恵の言動の一つである。

 

ただ、ここでも恐ろしいのは史実の無視である。日本の明治維新以来の国家主義のお家芸とは、森善朗の総理時代の発言にある「日本は天皇を中心にした神の国」であるとして、史実を無視、あるいは改ざんした嘘の糸を紡ぎ、その繭に閉じこもり自己満足するところにある。近年は中国の台頭に恐れをなしてこの傾向が強まっているのは恐ろしいことだ。再び八紘一宇に似た大嘘の繭が復活しかねない。「国書元号」はその兆候ではないのか。

 

ところで近代史の大嘘の雄はナチスドイツのゲルマン民族至上主義と、それと表裏一体の反ユダヤ主義であろう。これにより人類史上最悪の民族絶滅犯罪が行われた。朝露館でもSHOAHの犠牲者の声が刻まれた関谷氏の追悼作品が見られる。

 

この苦い体験を繰り返さないために戦後のドイツ憲法第三条には何人も、その性別、門地、人種、言語、出身地および血統、信仰または宗教的もしくは政治的意見のために、差別され、または優遇されてはならない。何人も、障害を理由として差別されてはならないとある。これは国連憲章などにも見られる戦後世界の共通した認識でもある。

 

ところが、昨年の連邦議会本会議でこの項にある「人種」を削除ないしは改正すべきだという論議が本格的に始まっている。その理由は驚くほど単純で、学問的に「人種」というものは存在しないからである。きっかけとなったのは一昨年九月にイエナ大学の学長と動物学進化論研究所が出した声明である。その要旨は「生物学ではダーウィンの進化論以来、人類にも人種があると主張されてきたが、遺伝子学では人類全ての遺伝子には違いは全くないことが証明されている。皮膚の色は生活環境に適応して変化したにすぎない。五千年前は北欧の人間も褐色であった。人種があるから人種主義があるのではなく、近代の植民地主の人種主義が人種を作ったのである。したがって誠実な科学では在りもしない人種を不使用とすべきである」というものだ。イエナ大学はナチ時代の悪名高い優生学の中心であった。

 

進化論を唱えたダーウィン

 

 

議会では改憲に必要な両院の三分の二の賛同は間違いないのだが、「人種」を削除しても、いまだに猖獗を極める「人種主義」に対処すべき具体的な表現をどうすべきかの難しい議論が続けられている。

 

折から、生物科学者は、新コロナウイルスという人類よりはるかに古い存在に挑戦され苦戦の最中である。そろそろ人間も「万物の霊長である」という思い上がった大嘘から脱却すべきであろう。

 

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「朝露館 関谷興仁陶板彫刻美術館」は栃木県益子の陶芸家・関谷興仁さんが運営されている小さな、しかし素晴らしい反戦平和美術館です。詳細は下記のYoutube とウェッブサイトをご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=_n2xAHwSpEY

http://chorogan.org/

 

 

 

 


2021年5月5日水曜日

バンカ島虐殺事件説明に関して豪州で起きている議論

遺族と戦争博物館の間での論争

 

前回の4月20日のこのブログで、5月15日に予定されているZOOM勉強会「バンカ島虐殺事件勉強会:戦争責任と#MeToo運動の関連」の案内をさせていただきました。偶然に、その6日後の4月26日のオーストラリアの新聞『キャンベラ・タイムズ』に、この虐殺事件の取扱い方に関して現在オーストラリアで起きている議論についての記事が出ました。そこで、この記事全文を和訳して下に紹介いたします。ご参考になれば幸いです。

 なお、新聞のオリジナルの英文記事は下記のアドレスで読むことができます。

https://www.canberratimes.com.au/story/7220425/what-vivian-bullwinkel-wanted-calls-to-change-official-wwii-bangka-massacre-account/?src=rss

 

「ヴィヴィアン・ブルヴィンケルが望んだこと:第2次世界大戦に起きたバンカ島虐殺事件説明に対する変更要求」

『キャンベラ・タイムズ』2021年4月26日掲載記事

 

この80年近く、キャンベラに住むメアリー・ナピアさんは、彼女の叔母が第2次世界大戦中にインドネシアの島で起きた日本兵による虐殺事件で悲惨にも銃殺されたと言われてきた。

叔母の写真を抱えるメアリー・ナピアさん
  

1942年、バンカ島で負傷した英豪両軍兵士たちの看護にあたっていた21名の豪州陸軍看護師たちが殺害された話はそのように伝えられてきたのである。

ラジー海岸におけるこの虐殺は、唯一の生存者で、虐殺の後で(日本軍に)捕えられ捕虜となったヴィヴィアン・ブルヴィンケルによって、戦後、そのように説明されてきた。

しかし、数年前に新しい証拠に光が与えられることによって、本当はそれまでの説明よりもっとおぞましいことが起きていたという話になってきた。

ネピアさんによれば、この虐殺事件については、何十年もの間、家族によっても公式発表によっても繰り返し述べられてきたが、実は看護師たちが機関銃で虐殺される前に強姦されたという、もっと痛ましい詳しい話が明らかとなってきた。

ネピアさんは、叔母のイレイネ・バルファー・オグリヴィ看護師についての話が、80年もの間、本当は事実が隠されてきた可能性があることに気づかされた(2017年の)その時のことを思い出すと言う。

「妹から電話があって、<これまで言われてきた話とは大きく違った話になって、(殺害された遺族の)中には、そんな話は聞きたくもないと言っている人たちがいる>と言うのです」。「なぜ今頃になって、自分の親族が強姦されたことを明らかにすることが遺族に敬意を表することになるのか、私には理解できなかったのです」。

叔母のイレイネ・オグリヴィさんの写真

 

 

真実を話すこともつらいこと

 

  1942年2月、65名の豪州陸軍看護師は、日本軍がシンガポールを攻略する3日前に、シンガポールから退避するために船に乗った。

  その船は、スマトラ島沖海岸で日本軍の攻撃を受け、乗船客のうちの100名ほどの生存者がバンカ島のラジー海岸にたどり着いた。公式な説明によると、ブルヴィンケルやオグリヴィ看護師を含む22名の豪州看護師は負傷した英豪両軍兵士たちの看護にあたっていたが、そのとき20名の日本軍兵と対面することになった。

  日本軍兵は負傷していた英豪軍兵士を殺害し、伝えられるところでは、その後で看護師たちに海に向かって歩くように命令し、機関銃で彼女たちを銃撃したと言われている。ブルヴィンケルが唯一の生存者だった。

しかし、強姦という痛恨と汚名から犠牲者の家族を守るために、長年の間政府が詳細を隠してきたという主張がなされるようになって、現在、この説明の一部の真偽が、議論のマトになっている。

看護師たちが強姦されたという新しい説は、ブルヴィンケルが2,000年に亡くなる直前に彼女にインタヴューした、テス・ローレンス氏の報告によって2017年に出された。

このインタヴューで、ブルヴィンケルは看護師たちが虐殺される前に「犯された」ことをローレンス氏に認めており、政府の上級官僚と軍将校によってその事実について公言しないように言われたのであり、そのためブルヴィンケルはその後幾十年もの間苦しんだという事実も語ったとのこと。

  戦争史家であるリネッテ・シルバー氏と伝記作家バーバラ・エンジェル氏の二人は、長年の間に破棄されてしまった、この恐ろしい事実があったことを示唆する証拠の収集につながっている証言を集めてきた。

  虐殺事件に関するこの新しい情報は、幾十年も嘘を言われてきた、現在80歳であるナピアさんに精神的に大きい打撃を与えた。ナピアさんは言う、「これほどまでに恐ろしい事件であったとは最近まで全く知らなかったのです。ずいぶん昔に起きたことだから、その話に慣れてしまうべきだったと彼らは思っているのでしょう。そんなことが起きたと聞くことは本当におぞましいことです、とりわけ看護師たちはその当時、いまの私の孫娘と同じような年齢だったことを考えると」。

  ナピアさんは叔母バルファー・オグリヴィ看護師についての記憶は全くないが、負傷した兵たちを看護しながらも悲劇的に亡くなった女性であることを誇りに思う家族の間で伝えられてきた話を聞いて育った。「叔母は私たちにとって常に英雄だったのです。とても若くて美しい叔母は、野獣の手によって死んだのです」とナピアさんは言う。

  この性暴行について詳しく論じている2019年出版の本 Angels of Mercy (『慈悲の天使たち』)の著者であるシルバー氏は、陰惨な事件の内容を隠すという決断は、当時の時代的な状況に基づく選択であったと言う。

  1940年代、50年代には、性暴行をめぐる汚名と恥辱は被害者である女性と家族に大きな打撃を与えた。この時代には、性暴行が「死にまさる悪い運命」と言われていたことを思い出すと言う。

  政府内の男たちは、22名の看護師たちに実際に起きた陰惨な事実を隠すことが彼女たちの名誉を保つことであると考えていたのだろうとシルバー氏は述べる。

  「彼らが話のその(強姦)部分を隠し、それが漏れないようにすることで被害者の親族の感情と感受性を守っていると考えていたのだと思う」とシルバー氏は言う。「家父長主義的な態度からなされた決断だったと思います。今から考えればなぜそうしたのか理解はできますが、現在事実を知っている私たちから見れば、たいへんまずい決断だったと言えます。私たちが<そうです、彼女たちは強姦されたのです。これは実際に起きたことなのです>と今や言えるに十分な証拠が集まるまでには、長年かかったのです」というのが彼女の意見である。

 

戦争のおぞましい説明を変える

 

  最初は苦しみを感じたナピアさんも、全ての事実を明かさないままで数十年もの間行われてきた説明に、現在怒りを感じている。

  彼女の叔母とブルビンケルを含む21名の看護師たちが、国を守るために強いられた残虐行為の犠牲になったという事実を反映するように公的説明を変えて欲しいと、彼女はいまや主張する。その変更は、まずはオーストラリア戦争博物館から始まらなくてはならない。「オーストラリア戦争博物館を私は信用していない」とナピアさんは言う。「私は(博物館に)新しい話が真実なのかどうか質問しました。答えは分からないということで、近いうちにお答えするという返事でしたが、その後全く連絡はありません。毎年、大勢の子供たちが歴史を学びにやってくるのですが、間違った歴史を習っているのです。」

  ブルヴィンケルの告白を別としても、他にもこの新しい説を裏付けるような状況証拠も存在する。

  その状況証拠の一つは、生存者ブルヴィンケルが銃撃されたときに着ていた制服であるが、その制服のボタンがとれていることや銃弾でできた穴の場所に疑問があることである。この制服の状態から、制服が無理矢理に開けられて身体から垂れ下がっており、その状態で銃撃を受けたと考えられるのである。

  もう一つの状況証拠は、殺害された看護師たちの海岸に横たわっていた死体が「半裸状態」であったという証言があること。

  しかし、これらの状況証拠は、オーストラリア戦争博物館のウエッブサイトや展示説明を変更するには十分なものであるとは考えられていない。博物館の館長であるマット・アンダーソン氏は、これまでの説明それ自体が「恐ろしい」事件であったことを示しているが、性暴行が行われたという証拠が博物館に提供されるならば、それらを考慮するにやぶさかではないと述べている。

  「ブルヴィンケルや彼女の同僚たちが日本軍から受けたとりあつかいは、恐ろしい戦争犯罪であり、現在の我々には理解しがたい犯罪である」とアンダーソン氏は述べる。しかし「いったい何が起きたのかという、全体像を明らかにするような記録を我々は現在持ち合わせていない。そうした記録があるならば、記録の所有者と博物館は交渉したいし、博物館の歴史専門家と話し合ってもらうことも歓迎する。さらに、我々としては、それらの記録やインタヴューを博物館に寄贈してもらえれば、あらゆる研究者やオーストラリアの市民に自由に利用してもらえるだろう。この問題の議論の特質から考えて、いかなる新しい情報も適確に検証され、深い配慮を払って研究されることがひじょうに重要である」とアンダーソン館長は言う。

 

男によって語られ、男によって隠される歴史

 

  この虐殺事件をめぐる葛藤の原因の一つは、誰が説明を書くのか 女性の事件が男によって監修され語られる という問題である。男は、証拠があっても、当時の人たちを守るために年代記の中に特定の情報を入れないという選択をとったかもしれない。

 シルバー氏は、当時、女性が歴史記録を行う立場にあったならば事態は違っていたかもしれないと主張する。「女性は戦争について男とは違った書き方をします。男が戦争について書き、戦争時の人間について書くときは、一般的に、部隊や小隊の行動、武器がどれほどあったのか、戦闘方法や戦略のほうに興味があり、女性については興味がありません。私たち女性の観点からすれば、実際の出来事よりは人間のことが重要です。」

過去を変えることはできない。しかし歴史をどう反映させるかは、私たちにできる。したがって、この事件について注意深く考え、実際に看護師たちに何が起きたのか、その真実を語ることはシルバー氏の言うように決定的に重要である。

シルバー氏は言う。「それは起きたのです。そのことによって苦しんだ人がおり、それを語り、それを強調し、公にすることを拒否すると言うことは、その人たちの苦しみがいかほどのものであったのかを知ってもらいたいという権利を拒否することなのです。私たちが看護師たちに負っている責任は事実を公にすることです。それが本当に残酷な犯罪であったことを世界に知らしめることが必要なのです。」

ナピアさんと彼女の家族にとって、実現したいことは簡単なことである。それは、死を前にブルヴィンケルが望んだ、事実を知ってもらいたいという望みをかなえることである。「戦争博物館は事実を説明展示すべき場所のはずですが、事実を述べないなら、それは歴史を歪曲していることになります。事実を述べることこと、それをブルヴィンケルは望んでいたのです」とナピアさんは言う。