2023年3月14日火曜日

漫画「はだしのゲン」削除問題を考える

広島市内の市立小中学校と高校が行っている平和教育プログラムでは、『ひろしま平和ノート』と題された教材が使われている。『ひろしま平和ノート』は、生徒の発達段階に即して、プログラム毎に小学校1〜3年用、小学校4〜6年用、中学校用、高等学校用の4部で構成されており、2013年度から生徒に無償配布されている。広島市教育委員会は、来年度から、この『ひろしま平和ノート』のうち、小学3年生向けの教材に掲載されている漫画「はだしのゲン」の掲載をとりやめ、別の内容に変更することを決めた。さらには、1954年にアメリカによるビキニ環礁での水爆実験で被曝した「第五福竜丸」の記述についても、中学3年生向けの教材から掲載をとりやめる方針を決めた。こうした市の決定に対して、多くの市民団体から厳しい批判の声があがっている。

なぜ今、突然にこうした削除が行われるのか。これは5月に広島市で開かれるG7サミット会議と関連しているのではなかろうか、と考えられる。岸田首相はこのサミット会議で各国代表に「核軍縮」を訴えたいと公言してきた。ところが、米国大統領バイデンはすでに「広島では核軍縮については議論しない」とはっきりと述べている。

岸田首相が自分の選挙区である広島市をG7サミットに選んだのは、見かけは「反核」という姿勢を欺瞞的に表示するための政治的たくらみ以外の何ものでもない、と私は思っている。むしろ、ロシア・中国・北朝鮮の「核の脅威」をことさらに強調することで、核抑止力を正当化し、市民の間に無自覚のうちにその正当化を浸透させてしまおうと岸田は考えているのであろう。岸田政権が、核軍縮どころか軍拡をガムシャラに押し進めている現状が、広島教育委員会の上記のような平和教育プログラムの方針変更決定の裏に政治的圧力として働いているものと考えられる。

そこで今日は、私が「広島文学関連資料の生き字引」と尊敬する広島文学資料保全の会の池田正彦さんにお願いして書いていただいた、『ひろしま平和ノート』からの「はだしのゲン」削除問題についての鋭い批判論考をここに紹介いたします。いろいろな批判の声がある中で、池さん(私は彼をいつもこの愛称で呼ばせていただいています)の問題分析・批判は傑出しています。ぜひご一読ください。

 

 


 

広島文学資料保全の会・池田正彦

広島のあるべき姿が論じられたか:「ゲン」削除問題を考える

 

 広島市教委が2023年度から、平和教材の「ひろしま平和ノート」から漫画「はだしのゲン」を削除する方針を示した問題は、全国ニュースでも取り上げられ、様々な意見が飛び交っている。なかには議論が本質から外れ、「家族の絆」問題にすげ変わったり、「被爆の実相・継承」を言いながら、「ゲンの気持ちを考えるにとどまり、平和について考える学習になっていない」などの意見が無造作に並び、混迷を深めている。このような中で削除を優先するならば、広島の平和教育や平和運動に禍根を残すことになると危惧している。

 いわゆる「原爆文学」の再評価を求めて長く活動に関わってきた一人として、「ゲン」削除問題のあるべき姿を辿りたい。

 まず、問題の発端である市教委がこの「ゲン」を児童・生徒に読んで欲しい、と積極的に考えているかどうかということだ。

 自らの子どもの頃を考えたらいい。国語の教科書に名著の抜粋が掲載されていることはよくあることで、私も含め、それをきっかけに興味を持って全巻読み通した人もいるだろう。「ゲン」削除で作品に出会える大きなきっかけが無くなることは否めない。「ゲン」は読んで欲しいが削除は支持する、と言うのは詭弁である。

「はだしのゲン」は、少年ジャンプに数々の人気漫画と一緒に掲載されていた子ども向けの漫画であり、新書や文庫になり1000万部を超えたベストセラーでもある。映画、またアニメ、テレビドラマから演劇・オぺラ・ミュージカル・合唱曲「麦の穂のように」・絵本・講談など、多岐にわたるジャンヌで作品化されている。さらに、英語をはじめ23言語に翻訳され、折り鶴の佐々木禎子と同様世界で知られている。なのに広島の子が「ゲン」を知らずに育ち、海外に出たときに広島出身者でありながら、「ゲン」を知らないでは恥をかくのではないかと杞憂する。

削除理由も不思議である。部分的に「浪曲の場面は実態に合わない」「コイを盗む描写は誤解を与える」など、市教委の言い分が報道されているが、「ゲン」は全10巻になる長大な作品である。選んだ箇所に問題があるとするならば、別の個所を引用することは可能だろう。自ら選んだ箇所が問題なので削除する、というのはあまりに短絡的である。市教委は削除する前に掲載へ向けた努力したのかはなはだ疑問である。

さらに問題なのが、「ゲン」に替わって掲載される予定の「いわたくんちのおばあちゃん」(主婦の友社)との比較論だ。後者が素晴らしい作品だから「ゲン」削除を容認する意見は、愚論でしかない。素晴らしいなら「ゲン」とともに掲載したら良い話だからだ。スペースに問題があるなら、頁数を増やすなど工夫をすれば良いだけだ。被爆者が年々減ってゆき、家庭内や身の回りで被爆の実相を継承する機会がなくなっていく中で、平和教育における学校の立ち位置は、年々重くなっている現実を忘れてはならない。

「ゲン」削除には様々な意見があり、削除撤回の署名運動まで始まっているが、それだけ多くの人に愛された作品だということだ。原爆をテーマにした作品として、峠三吉「原爆詩集」、原民喜「夏の花」などとともに、反戦・平和を訴える象徴としての意味合いがあるとの指摘には大いに頷かされる。

私方にも、「ゲン」削除に関わり、「ゲンの発する反戦メッセージが不都合だったのだろう」など辛辣な批判が届けられている。ウクライナ侵略の中、広島の意味を敏感に受け止める人が少なからずいらっしゃることは、心強いものがある。

当然ながら民主国家では、行政に対して署名運動やデモなど平和的方法で意見を訴えることが保証されている。「ゲン」削除反対の運動も、平和的に行われており、それを外部の圧力ととらえる意見が出ているが、それは、署名運動を一方的に貶めるまことに失礼な話である。

こうみると、本質を外れた議論とは、回り回って広島市教委判断は正しいとの評価に誘導する装置であり、それは、市教委の都合の良い代弁者の役割を果たしているとしか考えられない。

私は「ゲン削除問題」において、「ゲン」を含む原爆作品が被爆体験継承の果たす現代的大きな役割を念頭に、的確で深い議論がなされることを期待せざるをえない。たとえば峠三吉、原民喜、栗原貞子、大田洋子の作品がなぜ「平和ノート」で紹介されないのか。|そうした視点がまったく欠落したまますすむことに違和感を覚える。

今回の「ゲン削除問題」、これひとつとっても、広島市教委は密室主義を改め、広く市民と胸襟を開いて広島の教育の果たす役割について真摯に向き合うことの大切さを教えている。

今こそ、平和教育を「理解・継承・発達」をするためにも、「ゲン」に収斂することなく、芸術・文学などジャンルをこえて、「ひろしま平和ノート」の価値を高めるための議論を起こす時だと痛感する。

 


 

 

 

「ゲン」のあるべき姿は浮かんでこない:ヨイショ記事を嘲笑う

 

2023年3月7日、中国新聞は、「ゲン」削除 あるべき姿は<愛読者3人が紙上討論>と題して漫画「はだしのゲン」の平和教材からの削除問題について論じている。

 

「入口」から間違っている

 

聞くところによれば、あくまで「ひろしま平和ノート」を軸に「ゲン」掲載を擁護するための企画であったと言われているが。発言の趣はそれぞれ違うが、三人の論旨が「ゲン削除」肯定であり、なかには議論が本質から外れ、「家族の絆問題」にすげ変ったり、「ゲンの気持ちを考えるにとどまり、平和について考える学習になっていない」などと、市教委の方針を鵜呑みにし、削除に理解することに腐心され、とても意図した運びとなっているとは言い難い。

まず、起用した三人の論者、三人とも削除賛成では、とても公平さを担保したとは言えない。市教委のご機嫌とりを競い合っている奇妙な図式が透けて見えるだけだ。この三人の起用そのものが間違っており、まともな結論が導き出されるはずがない。

 

3人の論点をたどり「あるべき姿」が本当に浮かんでくるのか検証してみよう。

 

禁書化ではない 冷静に(大小田伸二)

ゲンは削除されたが排除されたのではない、シンプルに受け止めよ、と、削除反対の声を「いきり立つ人」に描き、ゲンが「禁書」になったわけではないから冷静に認識すべきだと諭す。さらに「ゲン」が伝えようとした「家族の絆」が、替わって採用される予定の絵本「いわたくんちのおばあさん」(主婦の友社)が「絆」が姿を変え、ひしひしと伝わってくる、と、とんちんかんな論を展開。

結局は、教育の現場に立つ人が検討し、教材の一部を変更しただけなので、許容すべきだと広島市教委の言い分を代弁している。

さらに、「出会いはいろいろある」とも。そうだ。こうしたものには、いろんな出会いあって感性を磨く機会を多くつくって欲しいと願わずにはいられないと思うのは私だけでない。現に「はだしのゲン」を底本にし、映画またアニメ・テレビドラマから、演劇・オペラ・ミュージカル、合唱曲「麦の穂のように」、絵本、それこそ神田香織さんのような講談も。多岐にわたるジャンルで表現されており、多面的側面から議論をすればいいことで、「ゲン削除方針変えぬ|市教委が説明」(中国新聞2月28日)とする市教委の性急で頑な態度こそ問題視すべきである。

 

時代の空気 危うさ思う(東琢磨)

ゲンを削除する必要はないはず|生かす方向で考えるべき。ゲン削除への抗議がこれまで広がったのは象徴的な意味を読み取る人が多いということだ。折角ここまで述べながら、方向転換し、「被爆体験の継承はひそやかで親密な空間でなされる方がふさわしい」と、のたまい、<静かにしろ>と暗に削除反対の声を牽制している。どのような「場」がふさわしいかは、個々人が考えればいいことで、それこそ銭湯でも(現に、浪曲や講談、寄席が行われている)、広島においても被爆体験の講話が居酒屋・スタンドバーで行われてきたではないか。

このような一面的発想は、芝居や講談などで多面的に表現されてきた歴史に目を閉ざすことになるだろう。

さらに、削除を検討した担当者には全く他意はないにしても、そこに「時代の空気」があると感じる。と、もっともらしく述べているが、ゲン削除やむなしの「空気」を醸成するための仕掛けを放置して、市民の目を逸らす論に結果的に加担している。反対に、論者のおかしな空気を読む危うさを気遣う。

 

教育の「目標」に注目を(川口隆行)

 「現在の平和ノートにおけるゲンの引用は、よく工夫されており、削除はもったいないと述べ|

だから、「生かせ」とつづくのかと思えば、「削除撤回署名」には首をかしげながら、削除をどこでいつ決めたかはっきりしない有識者会議なるものには、「平和教育の目標設定に基づき、ふさわしい教材を決めた」と、最大限の理解を披歴し、松江の場合(松江市教委が学校の図書館での閲覧制限を求めた事件)とは問題の質が違うと強弁。どう違うのかの言及はなく、むしろ相通ずるものとしての洞察から意識的に逃げ、今回の削除撤回の署名運動は、逆向きの圧力になると断罪している。

さらに、この署名運動は外的圧力になり、若い教師に敬遠されるらしい。若い教師を一般化し誘導される愚か者と決めつけている。

 

「ゲン削除」の陰湿な姿が見えてきた

 

一人は、禁書ではないから冷静に。一人は、時代の空気を読んで「ひそやかで親密な空間」を押し付け。一人は、署名活動は外部の圧力。と捉えるなど、三人三様といいたいところだが、三人共々共通しているのは、本人たちがどのように意図しているかわからないが、広島市教委の都合の良い代弁者の役割を果たしているとしか考えられない。

とても表題の「ゲンの削除 あるべき姿」は見えてこないのである。

主題としたのは平和教材「ひろしま平和ノート」だと言われているが、とてもそのような内容ではなく、市民がどのような手段で抗議すべきかを示すことなく、一方的に削除撤回署名運動を外部の圧力ととらえ、ただただ市教委におもねる姿が、浮彫になっているだけだ。

「ひろしま平和ノート」を軸にしたかったとの思いを諒としても、それならなおさら、この紙上討論はまったく失敗だったと総括すべきである。

広島市は、「ゲン」削除問題もさることながら、現在、中央図書館の広島駅前の中古商業施設への移転問題(特に、貴重な文学資料をなおざりにしていることが明らかになり)を抱え揺れている。共通するのは、密室主義で市民との対話をことさら避けていることである。

これを機に、「ゲン」を特別視することなく、いわゆる「原爆文学」といわれる峠三吉や原民喜、栗原貞子、大田洋子たちの作品を含め、広島市民の中で再評価するための議論が高まることを切に願う。

 

― 完 ―

 

 

 

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