2021年11月20日土曜日

かくも生き難い日本

小室夫妻バッシングと「天皇裕仁パチンコ玉狙撃事件」犯人・奥崎謙三との関係?! (下)

 

目次:

人権を否定されながらも「神聖」とみなされる天皇と皇族

日本全体が人権侵害の「身分制の飛び地」!

身体を張って憲法の矛盾と闘った奥崎健三

 

 

人権を否定されながらも「神聖」とみなされる天皇と皇族

 

前回、メディアで売れっ子の憲法学者・木村草太氏が、東大名誉教授・長谷部恭男氏の説を引用して、

「一般的な見解では、天皇・皇族は憲法上の権利の保障対象ではありません。長谷部恭男先生は『身分制の飛び地』と表現します。憲法自身が、平等権をはじめとした近代的な人権保障規定を適用しない例外的な身分制を定めているということですね。」

と述べていることを説明しておきました。「憲法自身が、平等権をはじめとした近代的な人権保障規定を適用しない例外的な身分制を定めている」などという主張の根拠は、憲法の一体どこに書いてあるのでしょうか?これは、私に言わせれば全くのデタラメです。「人権保障規定を適用しない例外的な身分制」、すなわちこの大先生たちが「身分制の飛び地」と称するものを「憲法自身が定めている」というのは、憲法自身の解釈ではなく、長谷部・木村両大先生の個人的な、つまり勝手な解釈以外の何ものでもありません。

  憲法学者が、なぜこんなめちゃくちゃな憲法解釈を主張して、少しも自己矛盾を感じないのでしょうか?前回も書きましたように、この論理でいくと、基本的人権を保障されていない天皇と皇族は日本国民でも、いや人間でもない、ということになります。つまり、人間でない天皇と皇族の国籍は、「高天原」、すなわち天津神(=多くの神々)が住む天上界にあるということになりますね。天皇と皇族がパスポートを持っているのかどうか私は知りません。(持っているとは思いますが)持っているとしたら、日本国籍を持たないはずの彼/彼女たちは、国籍の欄に「高天原」と記してあるのでしょうかね(笑)。

畢竟、この2人の大先生が主張していることは、憲法1条で「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とされている天皇を、いまだに明治憲法3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」を継承しているものと、無意識のうちに捉えているのだろうと想われます。しかし、よく考えてみると、天皇と皇族のメンバーが、理由は分からないが何かしら「ありがたい」、「神聖」な存在だと考えている日本国民は大勢います。天皇や皇族がことあるごとに伊勢神宮に祀られている先祖の神々に会いにいくことで、その「神聖」さを国民に知らしめ、メディアもまたそれを喜んで報じるのですから、不思議ではありません。つまり、「象徴」としての天皇は「天から途中まで降りてきた」とジョン・ダワーが描写したように、2人の大先生にとっても、また多くの日本国民にとっても、象徴天皇はいまだ地上に足をおろしてはいないのです。

この点が、日本の天皇制の場合、他国の君主制と決定的に異なっているところです。例えば、英国女王もしばしば英国国教会のウエストミンスター寺院やカンタベリー大聖堂などに出かけ、礼拝に参加します。しかし、女王はあくまでも一人の「人間」として「神を礼拝」するために出かけるのであって、女王の先祖が「神」であるなどという不遜な考えは、女王自身はもちろん、国民の誰一人として思いつもつかないことです。

小室バッシングも、その根の深いところに、国民の多くが(ほとんど無意識のレベルにせよ)持っている「なんとなく皇族を神聖視」する感情があるからだろうと思われます。「借金のあるシングル・マザー」という汚点のある女性を母親に持つ息子=一庶民が、神聖で高貴な皇族のお姫さまと結ばれるなどということがあってはならないのです。よって、結婚するまでは、あくまでも悪者は「下層民」の小室母子であって、そのためこの母子2人に理不尽極まりない罵詈雑言が浴びせ続けられ、眞子氏への批判はほとんどありませんでした。前回も述べておいたように、ところが、結婚し「庶民」になるやいなや、今度は眞子氏もまた「同じ穴の狢」のようにバッシングの対象にされています。

因みに、日本に限らずどこの国でも、お姫様が身分の低い、下層民の男と結婚するのは受け入れ難い話ですが、シンデレラの話のように、王子様が身分は卑しいが美しい、心やさしい女性を妻に選ぶという話は多くの人たちに喜ばれる話なのです。この背景には、男は女を支配する立場にあるべきで、一方、お姫様であれ女は男=夫を支配してはならないという家父長制的イデオロギーが、今も、無意識のレベルにせよ、多くの人たちの思考の中に残っているからだと思われます。

 


 

それはともかく、眞子氏の場合、結婚する前から、皇室典範の規定によってもともと否定されていた人権が、憲法によって保障されている基本的人権にも関わらず、庶民になっても甚だしいプライバシーの侵害で自分の人権を否定され続けているのが現状です。変わったのは、彼女から「神聖さ」や「高貴さ」が剥がされただけです。結婚するや、「眞子さま」が「眞子さん」となったことは、彼女の人権はあくまでも無視しながら、「下界に降りて高貴さを失った女」として彼女を見下すという、多くの国民とメディアの意思表示の表れなのです。シンデレラとは逆に、下層民の男と結婚したお姫様は、もはや「お姫様」と敬われる資格がないのです。

  では、皇室典範を憲法に沿った規定に修正し、とりわけ皇族女性の人権を明確に保障するような内容に変更すれば問題は解決するのでしょうか?そうした変更は、当然、女性に天皇の皇位継承権が与えられることにもなります。女性が天皇になることで、果たして日本は真に民主主義的な立憲君主制になれるのでしょうか?長い日本の天皇制の歴史の中では、8人の女帝が存在したことになっています。では、女性の天皇が在位中に、日本に男女平等がもたらされたでしょうか?答えは言うまでもなく、もちろん、否です!8人のうち4人が生涯配偶者を持つことはなく(あるいは持つことを許されず)、あとの4人は天皇である夫が亡くなった後、息子が成長するまでの「つなぎ」として一時的に天皇の座についただけです。

  つまり、問題は天皇の皇位継承という制度を変更しても、天皇制の本質は変わらない、というところにあります。なぜなら、天皇制、とくに天皇制イデオロギーは、女性差別を含む様々な差別の元凶だからです。小室夫妻バッシングが、そのことを如実に表明しています。例えば、女性の天皇が、自分の配偶者に、小室圭氏のように、母親が借金のあるシングル・マザーを持つ庶民男性を選んだら、国民はどう反応するでしょうか?あるいは、外国人 - 韓国人のごく普通のサラリーマン男性や、(英国皇室家族のように)離婚歴のある黒人男性 - を選んだらどう反応するでしょうか?小室バッシングどころの騒ぎではない、国をあげての大騒動になることは間違いないでしょう。(私としては、そんなショッキングな状況に陥った日本をぜひ見てみたいという夢<叶わぬ夢でしょうが>は大いにありますが<笑>。)

 

日本全体が人権侵害の「身分制の飛び地」!

 

  長谷部氏や木村氏が、「身分制の飛び地」と呼んでいる状態は、前回も述べておいたように、本来は、天皇であれ誰であれ、人間誰しもに保障されているはずの人権が「機能しなくなっている空間」なのです。「人権が機能しなくなっている空間」は、皇室に限らず、日本全国いたるところにあることはあらためて言うまでもないでしょう。違いは、天皇と皇族の場合の「身分制の飛び地」は、宗教的な神聖さに強固に覆われており、健康管理や生活の物理的条件では、庶民には与えられていない贅沢さが常に保障されていることです。基本的人権である自由は極端に制限されていても、物理的な生活条件ではなんの心配もありません。

庶民が暮らす「人権が機能しなくなっている空間」は、それとは対照的に、多くの場合が、生活に必要な最低限の物理的条件の点でも、健康維持の点でも、生きていけるかどうかのギリギリの状態になっている危機的空間です。例えば、性差別から派遣切りで職を失い、小さな子供を抱えたシングル・マザーの中には、自分の毎日の食事は抜かしてでも、子供たちにはなんとか十分食べさせたいと困窮している女性が多くいます。凄まじい家庭内暴力の犠牲者であるシングルマザーたちの生活状況も、同じように過酷です。介護保険料を滞納して預貯金や不動産などを差し押さえられ、生活に行き詰まって「平和的生存権」を失っている高齢者の数は2万人以上にのぼっています。そうした高齢者の中には、餓死しても誰も気がつかない孤独死に追いやられている人たちのケースがしばしばニュースになっています。

少数民族差別による人権侵害の点でも、日本は全国が「身分制の飛び地」です。アイヌや沖縄、被差別部落の人たちへのいつまでも繰返される差別、在日と称される韓国人/朝鮮人へのヘイト・スピーチなど、様々な市民レベルでの差別。それに加えて、日本政府が朝鮮学校をコロナの政府支援から排除し、一部の幼稚園や大学の生徒には在日韓国人であることを理由にマスクを配布しなかったり、授業料免除の対象から外すという、あからさまな差別と人権侵害を政府が率先してやっています。政府は、少数民族への差別を禁止する法律を設置しようとは考えもしません。そのような法律は、政府自身が法律違反の対象となるからです。

  「表現の自由」という国民の権利も、日本ではしばしば侵されています。最近の一例は、2019年8月に名古屋で開かれた「表現の不自由展」です。展示内容に不満な右翼の暴力的な展示妨害、それに続く「政治的プロパガンダだ」と批判する自民党議員たちからの声、それに同調する河村たかし名古屋市長の展示中止要請などの政治的圧力で、結局、展示会は閉鎖に追いやられました。周知のように日本全国には様々な「9条の会」が活動を続けていますが、近年は公共の施設での「会場使用」の中止や拒否があちこちで見られます。これも明らかに「表現の自由」の侵害です。「表現の自由」とも関わりのある選択的夫婦別姓の問題でも、日本は夫婦別姓制度を許さない世界でも稀にみる国家で、この点でも日本は、世界的な観点から見て「飛び地」と称すべき「天皇を祀る不思議な空間」です。

天皇や皇族と同じように「日本国民」とみなされない外国人労働者は、172万人いるといわれています。しかし、外国人の中長期在留者の総数は、2017年末には256万人を超えたといわれていますので、実際には172万人をはるかに超える数の外国人労働者が日本で働いているはずです。その人たちの多くが悪質な企業や仲介業者から課される借金に苦しみ身動きがとれず、そのため劣悪な職場から転職できないという状況におかれています。名目上は「日本で学んだ職業の技術を母国に持ち帰る」ことになっている「技能実習生」と「留学生」が、そうした外国人労働者の4割以上を占め、建設業や飲食業などで長時間・低賃金の労働を負わされています。結局のところ、「使い捨て労働者」とみなされているのが現実なのです。

「技能実習生」と同様に「留学生」の相当数もまた、来日するために多額の借金があり、その返済や学費の捻出などのために、本来の学業に加えて長時間労働を余儀なくされています。週28時間以内の就労を超えた場合は、「資格外活動」とみなされて在留資格を失います。こうして、外国人労働者や留学生たちは、最低賃金法違反、セクシュアルハラスメント、強制帰国等の様々な人権侵害に苦しめられています。

その最も典型的な例が、名古屋出入国在留管理局で収容中に亡くなったスリランカ女性性ウィシュマ・サンダマリさんでしょう。ウィシュマさんは交際相手から激しいDVを受けており、その暴力に耐えられなくなって警察に助けを求めました。ところが、在留資格が切れていることを知った警察が、出入国在留管理局にこのことを知らせ、その結果、彼女は収容施設に入れられてしまいました。入管当局はウィシュマさんがDV被害者であることを無視し、彼女が出した仮放免申請も受け入れず、結局、彼女が収容施設で健康を害して餓死するまで、文字通り強制収容を続けるという重大な人権侵害を犯したのです。これは「虐待死」、権力による暴力行為の結果の死亡だったと言うべきものです。

  2021年11月3日の東京新聞(ネット版)の記事「コロナ禍 仮放免の外国人増加も生活支援は皆無 移民・難民の生活医療相談会に140人 東京・千代田区の教会」によると、次のように書かれています。

「相談会に訪れたのは、カメルーンやナイジェリア、ベトナム、ミャンマー、スリランカなど出身の外国人。多くが難民申請中だが、許可が下りないため、仕事もできず、健康保険証も持てないため、病院にも行けず、日々の食事含め、生活に困窮する状態だという。

 医療相談で最も多いのがうつ病で、他に心疾患や末期がんなどの患者もいるが、治療する場合、正規の2、3倍の高額な治療費を大学病院などから求められるという。」

「(NPO法人<北関東医療相談会アミーゴス>の事務局長)長沢氏は『出入国在留管理庁は、コロナ禍で仮放免者をたくさん出しているが、医療や生活支援は皆無。寄付での支援には限界がある。外国人の命と健康を守るためにも、厚労省とともに健康保険証の発給を検討してほしい』と強調した。」

因みに、これまでに国連人権理事会や自由権規約委員会からのたび重なる日本政府への勧告にも関わらず、日本政府は人権救済を目的とする国内人権機関(NHRI)を設置しようとしていません。国内人権機関とは、裁判所とは別に人権を推進する目的を持つ国家機関のことですが、政府から独立した、「政府、議会及び権限を有する全ての機関に対し、人権の促進及び擁護に対するすべての事項について、助言、意見、提案、勧告を行う機関」のことです。世界ではすでに、110カ国が国内人権機関を設置しています。

また、国連で1966年に採択され76年から発効した「市民的及び政治的権利に関する国際規約の選択議定書(第1選択議定書)」という国際条約があります。この条約では、締約国によって人権を侵害されたと国民である個人が人権委員会に報告する権利が保障されています。ところが、この議定書を日本政府は認めていません。よって、日本人は人権侵害を公式に訴えられない状態になっています。この条約の締約国は116カ国にのぼっています。

  つまり、日本全体が、日本国籍を持たない外国人の人権はもちろん、日本国民の人権も基本的には保障しようという国家的決意が全くない国であることが、このことからはっきりと分かります。つまり、「人権低開発国」です。したがって、再度強調しておきますが、長谷部・木村ご両人の憲法学の大先生が主張される、憲法で保障されている人権規定が適用されない「身分制の飛び地」なるものは、実は、皇居という空間だけではなく、日本全体の空間のことを指しているのです。そのことに大先生たちはお気づきにならないようです。

  しかも、ひじょうに興味深いことには、人権を保障されていない「神がかり的」な天皇から、距離が離れていればいるほど、その人の人権が侵害される危険性が高いという摩訶不思議な現象が起きるのです。つまり、同じ国民であっても、天皇に距離的に近い政治家や高級官僚、経済界重鎮、富裕層などの人権は尊重されますが、天皇から遠い空間に暮らす下層民、貧困者(とくに女性や高齢の貧困者)、障がい者、女性たちの人権は軽視されます。天皇に象徴される「日本人」と、その象徴ワクから外されている「外国人」との境界線におかれている、アイヌ、沖縄住民、在日韓国人/朝鮮人、被差別部落民などの少数民族的国民の住む空間は、さらに天皇のいる空間から離れた「人権を尊重しなくてもよい空間」とみなされ、最も離れた空間にいる他民族の外国人労働者や難民の人権に至っては完全に無視されています。

かくして、「身分制の飛び地」なる空間は、実は深い「身分制差別構造」によって作られているのです。「飛び地の空間」の中は「差別だらけ」であり、その差別の元凶が天皇と皇族を取り囲んでいる「身分制の飛び地」であるということについても、長谷部・木村の両大先生はお気づきになっていないようです。こうした憲法学者を「進歩的学者」と尊敬する日本人が多くいる間は、天皇家は御安泰にちがいありません。

 

身体を張って憲法の矛盾と闘った奥崎健三

 

  それでは、前回(上)の最後で少し議論した<問題は憲法に埋め込まれている決定的矛盾>に再度立ち戻ってみたいと思います。

これまでみてきたように、天皇や皇室メンバーにも憲法で保障されているはずの人権が十分に機能しなくなっているだけではなく、天皇と皇族の空間である「身分制の飛び地」が、実は日本全体を覆っている「身分制差別構造の飛び地」という空間と重層的になっていることは上で見た通りです。それでは、一体全体、憲法のどこに決定的な矛盾があって、日本はこんな厄介な状態になっているのでしょうか。

  私が知る限り、これまでに、現行憲法に埋め込まれているこの決定的矛盾を明確に指摘した人物はただ一人で、しかも憲法学者でないどころか、法学者でもありません。さらには、矛盾を指摘しただけではなく、その矛盾を「違憲」であると主張して法廷の場で闘おうとした、日本で唯一の人物です。その人物とは、奥崎謙三でした。ところが、憲法学者や法学者の中で、この奥崎謙三が抉り出した憲法の矛盾を真剣に議論する人はほとんど皆無です。不思議というよりは、そんな日本の状況を私は正直情けなく思っています。

  奥崎謙三の背景と彼の「憲法1章は違憲である」という主張の詳細については、拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』の282〜293ページで説明しておきましたが、最も重要な部分だけ下に抜書きしておきます。

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戦地に送り込まれた16万人近い兵員の9割以上が餓死と熱帯病で死を遂げたニューギニア戦線での数少ない生き残り兵の一人、奥崎謙三は、1969年1月2日朝の新年一般参賀で、皇居長和殿東庭側ベランダに立った裕仁を狙って、25・6メートルの距離から、パチンコ玉3発をまとめて発射、続いてもう1発を「おい、ヤマザキ、ピストルで天皇を撃て!」と大声で叫びながら投射した。裕仁には1発も当たらなかった(因みに、奥崎はピストルなど実際には所持していなかった。当時はバルコニーに防弾ガラスが入っていなかったのであるが、この事件以降から入れるようになったとのこと)。なぜ「ヤマザキ」なのか?その「ヤマザキ」は、ニューギニアでほとんどが餓死した独立工兵第36連隊の自分の仲間の一人であった。・・・・・・奥崎はその場で即座に逮捕された。というよりは、逮捕してくれるように警官に頼んだのである。奥崎は、最初から法廷で裕仁の戦争責任を徹底的に追求する目的でこの事件を犯したのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・(奥崎は裁判の一審、二審ともに天皇に対する暴行罪で有罪になっていますが、詳しくは省略します)

ひじょうに興味深いのは、この二審判決を受けて奥崎が最高裁への上告のために準備した趣意書の内容である。それは、「極めて悪質であり、社会的影響も甚大な」、天皇に対する「犯罪」という二審判決に真っ向から挑戦した、見事な論理性をもった格調高い主張となっている。その主張の趣旨は、憲法第1章天皇の規定憲法前文の人類普遍の原理からして違憲無効の存在であるというものである。実は、同じ主張を、奥崎は二審の裁判中から唱えていたのであるが、その主張を最高裁への上告の折にも繰り返したのである。「人類普遍の原理」に言及する憲法前文の部分は、第1段落の以下のような文章である。

 

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理でありこの憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。(強調:引用者)

  憲法前文のこの「人類普遍の原理」に照らして、憲法第1章「天皇」は違憲であるという主張を、奥崎は次のように展開した。

 

一、二審の判決と求刑をした裁判官、検察官は、本件の被害者と称する人物を『天皇』であると認めているが、現行の日本国憲法の前文によると、「人類普遍の原理に反する憲法は無効である」と規定しており、『天皇』なる存在は「人類普遍の原理に反する存在であることは自明の常識であり、『天皇』の権威価値正当性生命は一時的部分的相対的主観的にすぎないものであり、したがってその本質は絶対的、客観的、全体的、永久的に『悪』であるゆえに、『天皇』の存在を是認する現行の日本国憲法第一条及至第八条の規定は完全に無効であり、正常なる判断力と精神を持った人間にとっては、ナンセンス、陳腐愚劣きわまるものである。……(強調:原文)

 

  この奥崎の見事な喝破に反論するのは、ほとんど不可能のように思える。したがって、最高裁の上告棄却の反論が、全く反論の体をなしておらず、なんの論理性もない誤魔化しに終わっていることも全く不思議ではない。上告棄却は下記のようなごく短いものである。

 

被告人本人の上告趣意のうち、憲法一条違反をいう点は、被告人の本件所為が暴行罪にあたるとした第一審判決を是認した原判決の結論に影響がないことの明らかな違憲の主張であり、同法十四条、三七条違反をいう点は、実質は単なる法令違反事実誤認の主張であり、その余は、同法一条ないし八条の無効をいうものであって、いずれも刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。

 

つまり、憲法第1条と暴行罪は無関係であり、14条違反やその他の点に関する主張も、単なる「事実誤認」だと述べ、なぜ事実誤認なのかについての説明も一切しない。こうして、奥崎が見事に指摘した、憲法前文と1条の決定的な矛盾については、最初から議論することを避けているのである。ちなみに、二審判決では、天皇の地位は「主権の在する日本国民の総意に基づく」とされているので、「民定憲法であることの表現と何ら矛盾、抵触するものではない」と述べて、1条は憲法違反にはあたらないと断定した。ここでも、奥崎が主張する前文と第1章の関係についてはまったく触れないで、意図的に議論を避けているのである。しかも、1条で規定されている天皇の地位が実際に「国民の総意に基づく」ものであるのかどうか、国民投票で問われたことは一度もないことはあらためて説明するまでもない。

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かくして、最高裁判事たちは、奥崎の「憲法1章は憲法前文に違反する違憲である」という明解極まりない主張に反論することができなかったため、この問題を議論するのをあくまでも避けて、誤魔化してしまったのです。私が憶測するに、日本の憲法学者たちは、この問題を取り上げて議論するとなると、憲法学者仲間からだけではなく、多くの国民からバッシングを受けることを恐れて、議論するのを今も避けているのだろうと思います。

では、なぜ憲法前文とこれほどまで決定的に矛盾する憲法1章「天皇」が、前文のすぐ後に、そして前文と「戦争放棄」を謳う2章9条との間に入れられたのでしょうか?これについては、今、私の持論をここで詳しく述べている余裕がありません。この問題に興味がある方は、ぜひ拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』(とくに第3章)にお目通し願います。

 

      完 

 


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