2021年9月7日火曜日

私見 広島「被服支厰」の活用について(2)

「記憶の継承」に芸術をどのように活用したらよいのか

 

1)本題に入る前に: ケーテ・コルヴィッツと私の義母について


ドイツの版画家・彫刻家として有名なケーテ・コルヴィッツ(1867−1945)の作品については、数回このブログでも触れました。2019年12月のブログ記事、「ドイツ旅行記」の中でも、最も代表的な彼女の作品であるブロンズ彫刻「ピエタ」に関する私自身の考えを記しておきました。この「ピエタ」(下の左の写真)は、1937〜39年にかけて制作されたものです。右下の写真は、死者を前に悲しみにうちひしがれている女性の姿を描写した、彼女の1924年作のデッサンです。

 


 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

下の写真は、私の義母(私の連れ合いの母)、インゲ・キング(1915−2016)が1943〜45年にかけて制作した「ワルシャワ」という題の彫刻で、現在は、キャンベラのオーストラリア国立美術館の所蔵作品です。これは、1939年9月にポーランドに侵攻したドイツ軍が、同年11月に、ワルシャワ市内に住む全てのユダヤ人を特別居住区に閉じ込めるために作った「ワルシャワ・ゲットー」、そのゲットーで(強制収容所への住民移送が始まった)1942年7月までに飢餓、栄養失調、伝染病などで亡くなった8万3千人という大勢の市民を悼み、さらには1943年初めのユダヤ人戦闘組織による抵抗運動「ワルシャワ・ゲットー蜂起」で犠牲になった多くの市民をも悼む目的で、インゲが亡命先のスコットランドのグラスゴーで作った作品です。


 

 

ナチス政権下、コルヴィッツは作品展示を禁止されていましたので、「ワルシャワ」を制作したインゲは、まだベルリンに住んでいたときに「ピエタ」を見ていません。しかし、上の「ピエタ」や版画作品から、インゲがコルヴィッツから強く影響を受けていたことは一目瞭然だと思います。

インゲ(本名はインゲボルグ・ノイフェルト)は1915年にベルリンで生まれたユダヤ系ドイツ人でした。ヒットラーが政権を握った1933年には17歳でしたが、父親は1930年に病死しており、歳のかなり離れた三人の姉の援助で彼女は学校教育を終えることができました。しかし、間もなく、三人の姉のうち一番目と二番目の姉は、それぞれ米国とパレスチナに移住(母親も姉と一緒にパレスチナに。三番目の姉はまだドイツにいましたが、後年、逃げ遅れてホロコーストの犠牲になっています)。インゲは、シオニズム文化運動を推進しながら共同生活をする若者たちのグループの支援を受けながら、ベルリンでの生活を続け、美術に興味を持ち始めました。とりわけ、コルヴィッツの親友で、彫刻家・画家であり劇作家でもあったエルンスト・バルラハ(18701938)とコルヴィッツの作品に感銘を受けて、彫刻家になりたいと強く希望するようになりました。

1937年、21歳で彼女はベルリン芸術大学に入学しますが、この時に芸大に在学していたユダヤ系学生は3人のみで、全員が女性だったとのこと(そのうちの一人が、シャルロッテ・サルモンという、最終的にアウシュヴィッツで亡くなった画家です。ベルリン在住の私の友人・梶村太一郎さんによると、サルモンは、コンクールで主席になったにも関わらず授賞拒否の差別にあったため、37年の秋に自主退学しているそうです。なぜか最近、ヨーロッパで彼女のことがとても注目されています)。しかし、インゲは、翌年11月にドイツ各地で発生したクリスタル・ナハト(水晶の夜)暴動事件=ユダヤ人迫害事件の直前に、退学させられています。

実は、インゲはベルリン芸術大学に入学する前に、コルヴィッツに実際に会っています。コルヴィッツはベルリン芸術大学の教授を務めた人でもありましたが、反ナチスの社会主義者という理由から、ナチスが政権を握るや解雇されました。作品展示も禁止されましたが、作品を作る活動は続けることができました。梶村太一郎さんによると、コルヴィッツは、1934年以降は、ベルリン中心部の市役所に近い場所に設置された芸術家たちのための共同アトリエの一室を自分のアトリエとしていたそうですから、おそらくインゲは、そのアトリエにコルヴィッツを訪ねていったものと思われます。

インゲがコルヴィッツから受けた印象は、彫刻家にしては「指がとても綺麗で繊細」であり、目が「鋭いけれど他人を見下すような冷たさは全くなく、やさしくて同時にとても高貴な感じ」のする光を持っていたそうです。いろいろとコルヴィッツから助言をもらったそうですが、結局、「女性が芸術家になるためには、並大抵の苦労ではすまない。余程の覚悟がない限りやめておいたほうがよい」と幾度も言われたそうです。インゲはそれに対して、「いいえ、私はどんなに辛くても彫刻家になります。あなただってなったではないですか」と反論したそうです。義母の「精神的な強靭さ」と「遠慮のなさ」は痛いほど知っている私ですので(笑)全く驚きませんが、コルヴィッツは生意気なこの若い女性をどう思ったでしょうか。私は、コルヴィッツがインゲに暗に国外に逃げることをすすめようとしていたのではないかと思うのですが。

1938年末に退学させられたインゲは、39年5月にロンドンに亡命しました。もう少し長くベルリンに留まっていたら、三番目の姉のようにホロコーストの犠牲になっていたことは間違いないでしょう。ロンドンでは、英国王立芸大に奨学金をもらって入学しました。しかしドイツ軍による空爆を繰り返し受けるようになり、王立芸大も閉鎖となったため、41年にグラスゴーに移り、グラスゴー芸術学校に奨学生として入校し、44年に卒業しています。上記の「ワルシャワ」は、芸術学校在学中から制作にとりかかり、2年かけて完成させています。45年5月に戦争が終わるや、彼女はロンドンに戻ります。

詳しく書いている余裕がないので、その後の彼女の経歴についてはできるだけ簡単に書いておきますが、グラスゴー滞在中から彼女は、具象的彫刻から徐々に抽象的スタイルの彫刻制作に変わっていきます。とくに、戦争が終結して再びロンドンに戻り、英国内外からロンドンに集まってきた若い芸術家たちとの交流から刺激を受け、急速に抽象彫刻への傾向を強めて行きました。しかし、彼女本人からすれば「自分の作品を抽象的とは呼びたくない。なぜなら自分の頭の中の考えでは<抽象>をイメージしているのではなくて、あくまでもそれは自分の表現方法に過ぎないから」と、その時代から言っていたようです。

  その後、ロンドンで創作活動を続けながら他の芸術家たちとの共同展示を繰り返し(この時期に将来の夫、豪州人のグラハム・キングと知り合っています)、1949年3月に初めての個展を「ロンドン・ギャラリー」という現代美術専門の画廊で開き、これが大成功。思いがけない収益があったので、次の半年をパリで過ごし、さらにもう半年をアメリカに遊学。ニューヨークでは、当時、すでに注目を集めていた抽象画家のマーク・ロスコウやバーネット・ニューマンとも親しくなり、ジャクソン・ポロックの絵画にも衝撃的な感銘を受けています。当時ハーバード大学で教えていたモダニズムを代表するドイツの近代建築家、ヴァルター・グロピウスにも会い、自分の作品の写真を見せたところ、ぜひアメリカに移住してくるようにと勧められました。しかも、ドイツのバウハウスをモデルにシカゴに創設された大学院大学ILTデザイン研究院への奨学金をすぐに用意してくれたそうです。

  しかし、その時すでにロンドンでは、オーストラリアのメルボルンから遊学していた版画家であるボーイ・フレンド、グラハムが彼女の帰りを待っていました。その後、いろいろな経緯があって、インゲは米国移住をあきらめ、グラハムと結婚して1951年2月にメルボルンに移住しました。

その後の10年、彼女はなかなか新しい彫刻作品を作れないまま、主にモダンなイアリング、ネックレスや指輪などをデザインして作る仕事をしています。彫刻が作れなかった決定的な理由は、彫刻を置く「自然環境の違い」にありました。ヨーロッパの柔らかくてやさしい緑色の森林に代表される自然環境とは全く異なった、オーストラリアの荒っぽいユーカリの木の森林、赤色の土と灌木の砂漠地帯という自然環境、この違いです。

彼女に言わせれば、長年の熟考といろいろな試作の繰り返しの結果、「(オーストラリアの)この特殊な荒っぽい自然に打ち勝って作品が立ち続けるには、彫刻の形が極めて簡素でありながら、しかし内面に強い力を秘めているものでないと、<美>としてなりたたない」という結論に達したそうです。「彫刻の大きさが問題ではなく、たとえ20メートルという巨大な彫刻を作っても、単純な形の、内に力が秘められた作品でないと、作品の存在が自然環境に負けて消されてしまう」と彼女は言っています。こうした作品を作るためには、その特殊な自然環境を十分理解することが必要で、それには10年かかったそうです。1950年代半ばに2人の子供を産んだことも、作品制作に専念できなかったもう一つの理由でした。

  しかし、1960年代から本格的に彼女が創作し始めた作品も、ほぼ10年ごとにその表現形式に変化がみられます。詳しくその変化について今説明している余裕がないので、ごく簡単にいくつかの作品を紹介するだけにとどめておきます。

  下の写真は1976年にデザインしたForward Surge (前進するウネリ) と呼ばれる作品で、メルボルン市内の美術館やコンサートホールの建物が並んでいるアート・センターの中心部に設置されています。大きな波を想像させる極めて単純な形ですが、自然と対峙して闘っている力強さをまざまざと表現しているように私には思えます。 



 

  

  下の2つの作品、上のShearwater (ミズナギドリ) と下のGrand Arch(壮大な門)は1990年代初期から半ばにかけての作品です。「ミズナギドリ」はメルボルン市内中心部を流れるヤラ河沿いの、レストラン街の河を見渡す歩道に据えられています。「壮大な門」はメルボルンから車で1時間半ほどかかる田舎の、海を臨むとても美しい場所にあるポイント・リオ野外彫刻園の入り口に設置されています。この2つの作品からは「自然と対峙して闘っている」という印象はもはや受けず、オーストラリアの自然の中に凛として独立して立っているという印象を私は受けます。つまり、「闘う」という姿勢はあまり見えなくなり、彫刻が持っている潜在的な強い力がごく自然にそのまま表れているという印象を受けます。

 


 

 

 

 

そして、下の作品は Ring of Saturn(土星の輪 <縦横ともに4.5メートル>)と題された2005〜06年に制作された作品で、メルボルン郊外のハイディ現代美術館の建物の横の芝生の上に設置されています。この作品を制作したときインゲは90歳になっていますが、この段階になると、作品は自然環境を完全に超越して、どんな自然環境にも調和することができ、力強く且つ美しい自己の存在を謳歌しているという印象を私は受けます。さらに、作品それ自体で、一つの世界=宇宙を成しているようにも私には思えます。


 


 

 

インゲは2016年に百歳で亡くなりましたが、目がほとんど見えなくなる97歳まで作品のデザイン考案を続けました。私が特に記憶に残っている想い出の一つは、1990年代後半、つまり彼女が80歳代初期になると、しばしば「私はいまとても自由を楽しんでいるのよ」とにっこり笑いながら、繰り返し言っていたことです。80歳代になってなぜ「自由」なのか、私にはそのときはよく分かりませんでした。しかし、「土星の輪」や同じ頃作られた他の作品をいま見直してみると、全て、実によく「精神的自由を謳歌」しているような印象を受けます。

人生のいろいろなシガラミ、とりわけ若い時代に「ナチスの抑圧で自分の存在がいつ消されるか分からない」という恐るべき体験を強いられた人間にしてみれば、その後の人生は「自己の存在を確認し続けるための闘い」であり、その「闘い」をどう表現するかに打ち込まなければいられなかった芸術家のインゲ。そんな彼女は80歳になってようやく、「もう無理して闘う必要はないし、<力>を表現する必要もない」、「あるがままの自然な形、全てを超越した自由な表現、それを楽しめばよい」という、いわば「悟り」のような境地に達したのではないかと私は考えています。

 

アトリエで彫刻の模型を制作中のインゲ・キング
         
 

ケーテ・コルヴィッツの作品から受けた感銘から出発し、そこから自分なりの表現方法を創り出し、ところが全く違った環境に置かれて作品の創作に行き詰まり、しかしそれでもなんとか自分なりの表現方法をあみ出して闘い抜き、最終的に芸術作品の創作を通して「自由」をしっかりと我が物とした女性。そんな素晴らしく逞しい女性を義母に持ったことを、私はとても幸運と感じると同時に誇りに思っています。

しかし同時に、妻であるインゲを生涯あたたかく支え続け、インゲと互いに刺激し合いながら自分も素晴らしい版画を作り続け、2008年に95歳で亡くなった義父、グラハム・キングも私は心から尊敬しています。

 

(2)芸術運動は常に新しい文化創造でなければ力を失うのではないでしょうか

 

前置きがずいぶん長くなってしまいした。ようやく本題に入ります。ケーテ・コルヴィッツの作品、とりわけ版画作品は日本の画家たちにも大きな影響を与えました。丸木俊、岩崎ちひろ、四國五郎や、あまり知られていない版画家・上野誠などがコルビッツの作品から大いに刺激を受けていたことは、彼/彼女たちの初期の作品を見てみれば明らかです(なお、上野誠については、当ブログの「戦争と美術:絵画と版画から考える戦争と平和」<2016年8月23日>を参照してください)。そして、コルヴィッツから受けた感銘を自己の作品創作に活かし、それぞれが独自の芸術スタイルを発展させて、素晴らしい作品を創り出しています。ご承知のように、丸木位里・俊夫妻、四國五郎も上野誠も被爆者をテーマにした作品を数多く残しましたし、岩崎ちひろは日本人の子どもだけではなくベトナムの子どもたちの戦争被害を描いています。

 「原爆の図」や「命どぅ宝 沖縄戦の図」、「南京大虐殺の図」という戦争被害と加害の両方に焦点を当てた作品を所蔵している丸木美術館は、本来ならば、広島に存在すべきものだと思います。丸木美術館を「被服支厰」の一棟に移転させ、同じ場所に四國五郎、上野誠、岩崎ちひろなどの作品を展示する新しい美術館を創設できれば、理想的だと私は思います。

しかし、原爆をテーマにした絵画や彫刻は日本だけに見られるものではありません。例えば、1950年代に英国がオーストラリアの砂漠地帯マラリンガで行った核実験では、先住民アボリジニの人たちが死の灰をかぶって被爆していますが、先住民の芸術家たちも原爆をテーマにした独特の絵画や彫刻を創作しています。「新美術館」がこうした核実験を行った国々の被害者、あるいは反核芸術家によって創作された芸術作品を収集し展示することで、核被害が広島・長崎だけの問題ではなく、世界的な問題であることを美術館の訪問者に知ってもらうことができます。

 


 

 

その新しい美術館には、原爆関連の作品だけではなく、日本の戦争加害行為をテーマにした作品も展示されるべきです。私が現在注目している若手の画家に、弓指寛治という画家がいます。彼は「死者への鎮魂」や「自死」をテーマにした作品創作を精力的に行っていますが、彼の祖父が満蒙開拓青少年義勇軍兵であったことから、満蒙開拓をテーマにした衝撃的な作品「鍬の戦士と鉄の巨人」という下のような作品も発表しています。満蒙開発のシンボルであった機関車・特急「あじあ号」が暴走して、多くの人間を轢き殺し、跳ね飛ばしており、侵略した地域の住民のみならず、侵略していった自分たちもその「開発」によって、暴走機関車(=帝国主義軍事国家のシンボル)に殺戮されるという、加害と被害の重層性を、強烈なシンボリック表現で描写している傑作だと私は思います。


 

私が考えている「新美術館」は、弓指寛治の作品のような「戦争の加害と被害の重層性」のテーマの下に、日本国内だけではなく海外、とりわけ韓国、中国をはじめ東南アジアの様々な地域15年戦争で日本軍の残虐行為によって多くの被害を被った国々 - の若い芸術家を広島に招き、丸木位里・俊夫妻、四國五郎、上野誠、岩崎ちひろ、弓指寛治などの作品を研究し、そこから学びとったものを活かして、現代の国際社会環境にマッチした新しい独自の芸術作品を創造してもらうための、いわば「創造的美術館」です。したがって、ここには、国内外からの複数の画家や彫刻家が長期滞在し、創作活動ができるようなアトリエも設置されているような美術館です。

芸術運動は、過去の貴重な作品を保存し展示するだけでは十分な運動とはいえず、それを活かしていかに新しい芸術作品を産みだし、多くの人々に更なる感動を与え続けることができるのか、そのことがとても重要だと私は思います。そのような「戦争の加害と被害の重層性」の複合的アートの創造を支援する運動を通してこそ、広島の被害の「痛み」についても海外の人たちに深く知ってもらえるようになるはずだと私は信じます。

招かれる若手の芸術家は、英語では Artists in Residence と呼ばれる存在で、旅費はもちろん、1年ないし2年間ほどの滞在費と創作活動費を全額提供するというプログラムです。複数の芸術家に広島にこのプログラムで来てもらい、芸術家同士で刺激し合うだけではなく、市民との議論や交流を通しても新しい作品のアイデアを発展させ、滞在の最後には完成品を展示してもらい、芸術家も市民も「芸術文化活動」を通して、国際交流による平和構築活動に貢献する、そんな企画です。予算は、自衛隊のための高額なオモチャ、F35戦闘機1機の価格に相当する100億円があれば、この企画を永続的に継続することが十分可能です。

 したがって、要は費用の問題ではありません。広島市、広島県、日本政府がどこまで真に広島を「平和文化都市」の名称に恥じない、世界に通用する、世界から常に注目を浴びる「文化都市」に育てあげるための想像力と創造力を持ち、それを実現させる決断力があるかどうかです。その覚悟さえあれば、費用は簡単に捻出できます。

 こうした企画は、絵画・彫刻に限ったものではなく、文学、演劇、音楽、映画制作などにも応用されるべきものだと私は思います。

周知のように、広島には「広島文学資料保全の会」という市民組織があり、広島で被爆した広島出身の文学者、とくに栗原貞子・原民喜・峠三吉の今も残っている貴重な手書きの創作ノート、被爆記録ノート、最終原稿などをユネスコの「世界記録」に国際登録し、それらの資料を収める資料館の設置を目指す運動を粘り強く行っています。「被服支厰」には、この3人の文学者の原資料と著書だけではなく、大田洋子、林京子、小田実、大江健三郎、堀田善衛、佐田稲子、竹西寛子、つかこうへい、等々、原爆をテーマにした文学作品を残した作家たちの著書もできるだけ多く所蔵し、いつでも誰でも読めるような文学資料館が設置されるべきです。

 しかし同時に、私は、この文学資料館は「原爆・戦争文学資料館」とし、国内外で出版されている戦争関連のあらゆる文学作品を所蔵する図書館にすべきだとも思います。同時に、この図書館を、市民の様々な読書会や議論の場として活用し、市民が核兵器や戦争問題、戦争責任問題に関する考えを深める場所としてもらいたいと思います。

そして、この図書館でも、国内外から若手の作家をWriters in Residence として招き、長期滞在してもらい、被爆の実相を学びながら、「加害と被害の重層性」を視野にとりこんだ全く新しい文学作品の創作に専念してもらうという企画が実行されればと願います。作者が執筆中の作品を市民の前で読み上げ、参加者全員で内容について作者と意見を交わしながら、最終作品へと作家が仕上げていくという形での交流によって、海外から招かれた作家と市民が相互に、「異なった歴史文化的背景を持った人間同士の関係」がどうあるべきかについて、理解を深める機会を作れたらと願います。

  演劇、音楽、映画についても述べたいですが、長くなるのでまたの機会にさせてもらいます。ただ、演劇の中では、私がひじょうに高く評価しているのは日本の古典演劇である能楽です。能楽は「痛みの共有」と「記憶の継承」という点で素晴らしい機能を持っていることを強調しておきたいと思います。能楽の中の「夢幻能」はとくに、「痛みの共有」と「記憶の継承」という点で観覧者の心を深く震わせ、感動させる機能を持っています。この古典芸能を現代的なテーマで演じる新作能が、「戦争犠牲者の慰霊」という点でもつ芸術的役割の重要性に、日本人はもっとよく知るべきだと私は常に思っています。拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』の最終章で、この点について詳しく述べましたが、その中で私は次のように述べました。

 

その点で最も注目できる新作能は、多田富雄(1934〜2010)の作品であろう。なぜなら、多田は、被爆の残虐性、非人道性を見事にシンボル表現化した「原爆忌」と「長崎の聖母」、沖縄戦の地獄を描いた「沖縄残月記」、若い時代に強制連行で夫を失った韓国人老婆の痛恨の悲しみを描いた「望恨歌」などで、日本の戦争加害と被害の両面を取り扱い、能という芸術作品で「過去の克服」を見事に成功させていると考えられるからである。「過去の克服」は、歴史学の知識上の学習だけでできるものではない。多田の新作能は、まさに、この「文化的記憶」の日本のモデルとも言えるものの一つと称してよいであろう。

 

  私は「記憶の継承」は、最終的に芸術というシンボリックな表象的表現でしかできないと考えています。なぜなら、人の記憶は時間が経てば必ず薄らいでいき、忘れ去られていくものですから、ある特定の事象を人の記憶にとどめるためには、その事象を、言葉だけではなく、なにかシンボリックな表象に置き換える必要があるからです。「思考」や「知識」だけでは人の心にどうしても訴えにくいですから、人の心に深い感銘、感動を与える芸術的な表現態を使う必要があります。つまり、記憶の核となるメッセージを、単に言葉や文字だけではなく、芸術表現で人の心に奥深く刻み込むという方法、これが「記憶の継承」にとっては必要不可欠ではないか、というのが私の考えです。

 したがって、「記憶の継承」のためには、そのような芸術的な表現態が常に時代的環境に則した形で、新しい創造形式に変化していく必要があると思います。どんなに素晴らしい芸術作品であっても、次々と変化する新しい時代環境に向かってメッセージを送ることに役立たなければ、人に感動を与えることは難しくなります。芸術運動は、常に新しい文化的創造性を育むものでないと芸術運動としての力を失います。よって、広島が「平和文化都市」であり続けるためには、広島での芸術活動が、常に新しい表現態を求める創造性豊な運動でなければならないと私は思います。古い芸術作品であっても秀れたものは、新しい作品を産み出すための刺激と想像力を掻き立てます。そうした古い作品と若い作者の間の対話による芸術運動を持続させていくためには、上に述べたような、外からの若い芸術家による文化的刺激を、広島がどんどん吸収して、自己のものとしていく必要があります。

私が、義母のインゲが長い一生で作った多くの作品に、表現態の様々な変化を見て喜びを感じるのは、変化するたびに新しい創造力を彼女が産み出していたことを教えられるからです。

3)結論に変えて

私は、2010年9月20日に、あるインターネット・サイトに、「広島オリンピック代替案 - 国際平和芸術文化際の定期的開催を!」という記事を寄稿しました。みなさんご存知のように、2009〜10年に、当時の広島市長・秋葉忠利氏が2020年の「平和の祭典 オリンピック」を広島に誘致しようという開催誘致政策を打ち出し、市民の大反対を受けました。その折には、私は幾つか反対のための論考を発表しましたが、下に書き出したものは、そうした反対論の一つである「オリンピック代替案」として書いた論考からの抜書きです。この私の国際平和芸術祭の「夢」は、基本的に今も変わりはありません。「被服支厰」の芸術運動のための活用と同時に、このような国際平和芸術祭が定期的に広島で開催されれば、広島は国際的に最も秀れた「平和文化都市」として世界の注目を浴び続けるだろうと私は確信します。現在の日本の状況を考えると、夢のまた夢かもしれませんが………。しかし夢のない人間も、夢のない社会も、なんと寂しいことか………

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平和を創造するということは、広い意味では、楽しい「芸術活動」であるべきだというのが私の個人的な考えである。そこで、私たちの同じ貴重な税金を使うのであれば、平和創造につながるようなエキサイティングな文化活動のために使うことを私は提唱したい。

 具体的には、国際平和芸術祭の定期的、持続的開催である。2年に一度、夏の終わり、あるいは秋の初めという気候が良い時期の34週間ほどにわたり、広島で、オペラ、音楽、演劇、映画、ダンス、絵画・彫刻、文学など芸術の多面にわたる総合芸術祭を広島で開催し、国内・国外から一流のアーティストを毎回招待して、パフォーマンスあるいは作品を披露してもらうという企画である。毎回、各分野での最高賞を市民の投票で決め、分野ごとに「ヒロシマ賞」を授与するということを考えてもよいであろう。作品は「広義の意味での平和」に関連するものなら、古典作品であろうと現代作品、あるいは新作であろうと、世界のどの国や地域のものであろうと、いかなるものも公演あるいは展示の対象とするという文化的寛容さを示す多文化的芸術祭であって欲しい。文学の分野では、「writers week (作家週間)」という期間をもうけ、世界トップの作家を複数招待し、聴衆の前で自分の作品(一部分でもよい)を読み上げてもらい、聴衆との意見交換を行うというような企画も可能であろう。

 こうした様々な深みのある芸術活動を通して、多くの聴衆や観覧者に平和について考えてもらい、創造的芸術活動を通して平和のメッセージを持続的に広島から発信し続けることができるのが芸術祭の特徴である。プロの芸術家だけではなく、市民や子どもたちが、それぞれの想像力を活かした作品を、一流のプロの前で紹介できるような企画も必要である。そのことによって、市民や子どもが仲間たちと共同でなにかを創造する楽しさを知ることは、平和的な人間関係の構築にとっては根本的に重要なことである。また、この芸術祭開催の時期を利用して、原爆写真展や核問題に関する講演会を開くことも、もちろん考慮すべきであろう。

 この種の持続的な、しかも世界に注目されるような芸術祭を定期的に開催するためには、常設の企画準備組織とスタッフ、とくに世界的に活躍している芸術ディレクターを、例えば4年契約で高額の年俸で雇うということが必要かもしれない。一人のディレクターによるマンネリ化を防ぐために、こうした柔軟な運営方式が理想的である。また、そうした芸術祭を定期的に行うには、それに見合った施設 -- オペラ・ハウス、コンサート・ホール、演劇場、野外音楽堂/劇場 -- といったものを整える必要がある。これらの施設の建設には、もちろん多額の予算が必要であるが、オリンピック必要経費と比較すれば格段に少ない額の予算ですむし、しかも、オリンピックのような一過性ではなく、芸術祭の時期以外にも、継続して使える性質の施設である。芸術祭が回を重ねるごとに、広島市は、招待された芸術家の名声と共に、「平和芸術文化都市」として世界に知られるようになるであろう。観客も国内、海外の様々な国々からこの芸術際を目的に、観光をかねて広島を訪れるようになり、彼らを通して、反核・反戦・平和のメッセージが世界に、静かにではあるが着実に浸透していくであろう。

 実は、人口100万人ほどの地方都市がこの種の芸術祭で大成功をおさめている具体的な例として、南オーストラリア州の州都アデレード市を挙げることができる。2年に1度開かれるアデレード芸術祭は50年近く続いているが、開催期間中は国内外から、世界トップの芸術家のパフォーマンスを見るために、あるいは作家の話をじかに聞くために、観光客がおしかける。

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2021年8月28日土曜日

ブログ記事「インドネシア人労務者を使った人体実験」に関する質問を受けて:

ワクチンの「人体実験」と「治験」の違いの判断から、コロナ感染症問題を考える

 

8月9日にこのブログに載せた記事「インドネシア人労務者を使った人体実験」を読まれた匿名の方から、以下のような質問がありました。その質問をコメント欄に掲載させていただき、私の応答もコメント欄に載せようと思い書き始めました。しかし、書いているうちに長くなってしまい、コメント欄に載せるには長くなりすぎてしまいました。さらに、ご質問自体もたいへん重要な問題だと思いますので、ここにご質問と私自身の考えを記しておきます。読者のみなさんからも、ご意見、ご批評をお聞かせいただければ幸いです。

 

質問:ワクチンの治験と人体実験の違いの判断基準はどこに置くのか?

 

今回、ご紹介いただいたNHK.BSの番組、オンデマンドで視聴しました。
南方戦線の悲惨さ、日本軍の悪行は目を覆いたくなりますが、過ちを繰り返さないためにも、しっかりと目を見開き、事実を知らなければならないと思いました。

ところで、私には以前からわからないことがあります。

 

人体実験と治験の境目はどこだろうか、ということです。
10
年くらい前、友人に誘われ治験ボランティアに登録しました。
登録はしたものの、健康体の私には治験参加要請はありませんでしたが、考えるきっかけとなりました。

インドネシアの労務者が破傷風ワクチンで亡くなったのは痛ましいことですが、もし、ワクチンが成功して効いていたとすれば、それでも、人体実験と言えるのでしょうか。
翻って現在、世界中でコロナワクチンが接種されていますが、ファイザー社もモデルナ社もアストラゼネカ社も治験は終わっていません。
緊急事態だということで、治験の終わっていないワクチンを世界中で接種しています。
戦時中のインドネシアでの破傷風ワクチン接種を人体実験と言うなら、現在のコロナワクチン接種も人体実験です。
コロナは非常事態だから問題ないと言うなら、戦時中も非常事態であり問題ないという事になります。
ちなみに、現在日本では、コロナワクチン接種後の死亡者数は2週間ごとに発表されています。7月末で919人。825日で1000人を越えているようです。戦時中のインドネシアと比較すると圧倒的に少ない割合ですが、従来のインフルエンザワクチンと比較すると悲鳴をあげたくなるほど多くの死者がでています。
とんでもない薬害が起きているのではないかと危惧していますが、マスコミ報道は一切ありません。気持ち悪いほどに。

 

応答:被験者の「命の価値」を低く見なすのが「実験」ではないでしょうか

 

人体実験と治験の境界はどうやって判断するのかというのは、確かに難しい問題ですよね。医学の専門家でない私には明確なお答えはできかねますし、お答えする資格があるかどうかも、正直なところ分かりませんが、一応、私の考えを書かせていただきます。

 

ロームシャを被験者とした破傷風ワクチン接種はなぜ「人体実験」なのか

熱帯病研究者のケビン・ベアードも書いていますように、通常の新ワクチンをテストする場合には、まずはモルモットを使って実験を行い、それで安全が確認されてから今度はサルを使って実験するという段階的テストを行うのが通常のようです。動物実験で効用・安全性が確保された上での少数の人間での実験が第一段階での「治験」で、それで安全がさらに確保されてから徐々に「治験対象者数」を増やしていって、最終的には数千人単位での結果をみて、そのワクチンを大量生産するかどうかの判断をする、というのが通常ではないかと思います。

ところが、当該事件の場合は、動物実験もやっていない新型ワクチンを、本番ぶっつけの形で、インドネシアの多数のロームシャに、事前了解もなしに無理矢理に注射しています。ワクチン開発の目的は、太平洋各地に派遣されている多くの日本兵を破傷風から守ることにありました。その「日本軍将兵の生命保護」のために開発した新型ワクチンの効用・安全性の確認を目的に、動物実験を抜いて最初からインドネシアの多数のロームシャに注射しているわけです。したがって、万一、それが安全であることがロームシャでの「治験」で分かったとしても、その「危険性」から判断して、これは「治験」ではなく、明らかに「人体実験」と言わなくてはならないと思います。言い換えるなら、危険であることが分かっていたから日本兵を治験の対象とせずに、まずはロームシャで試してみたわけです。つまり、動物のかわりに「日本人でない人間」を実験の対象としたわけです。換言すれば、ロームシャの命は「人間」としてよりは、「動物」の命と同じように「価値の薄い」ものとして取り扱われているわけです。

 

米国での人体実験で「命の価値が差別化」されていた被験者

ご存知かと思いますが、米国は冷戦の初期の時代に、プルトニュウムの放射能の危険性を知るための数多くの人体実験を国内でやっています。例えば、オレゴン州の刑務所に入っている131人の受刑者を対象に大量のX線投影をやったり、ボストンの知的障がい者用施設に入っていた49人の子どもたちの朝食に、放射線を浴びせたシリアルを食べさせるなどしています。サンフランシスコでは、病気で末期症状にある18人の(子ども含む)患者にプルトニュウム液を注射しています。実験の対象者は明らかに「健常者」とはみなされていない人たちでした。しかも、その大部分が、黒人あるいは下層の労働者階級の人たちでした。

こんな酷い実験をやった理由は、核戦争が起きて米国全土が放射能汚染された場合に、その影響が人体にどれほど出るのかを知り、どうしたら多くの人命を放射能汚染から救えるかという医学的対処法を考えるためでした。同じ冷戦時代、米国は、そのほか、ポリオ(急性灰白髄炎)、肝炎、風疹のワクチン開発でも、多くの人体実験をやっていますが、対象者は孤児院の子供たちや精神病院の入院患者など、通常の社会から排除されていた人たちでした。

 

731部隊の「人体実験」の特異性

731部隊がやった様々な人体実験の対象者も、ほとんどが「中国人犯罪者」とみなされた人たちでしたが、この場合は敵兵や敵軍を支援する住民の命を奪うために使う生物・化学兵器の開発のために、「犯罪者」というレッテルをはられた中国人を実験の対象にしています。これは「人命を救う」という医学の本来の目的からすれば、それとは全く逆の「人命を奪う」=殺傷するために医学を使うというものです。したがって、一応は「(自分たちの)人命を救う」ための「医学実験」という観点から見ても、731部隊の「実験」は、医学の最たる腐敗形態としか言えません。しかし731部隊の実験の中には凍傷のように、凍傷になった日本兵をいかに早く治療し、回復させるかを見つけ出すために中国人を使ったものもあります。とにかく、731部隊の場合は、大量殺傷をするための大量破壊兵器を開発するために、同じ民族の人間を人体実験で殺してみる、というめちゃくちゃな犯罪行為でした。

 

「人体実験」と「治験」を分離する基準は「命の価値の差別化」にあるのではないでしょうか

731部隊の場合は特殊な例としても、「人体実験」の判断には、単なる医学的な病気予防や治療という観点からだけではなく、実験をやる人間によって、「生命の価値が薄い」とみなされている者をその対象者=被験者としているかどうかが、「治験」と区別する重要な判断基準になると私は思います。

外国人の場合は、敵国人や植民地、占領地の住民の生命、同国人の場合は国内の少数民族や下層(貧困)階級、身体・知的障がい者など、差別されている人々の生命です。これらの人たちの「命」の価値が、国家権力によって、通常の国民の「命」の価値と比較され、「価値が劣っている」とみなされているわけです。したがって、人体実験の合理化の裏には、「通常の国民」=マジョリティの「命」を守るために、それらの「劣った人間」の「価値の低い命」を役立てることは許される、という「命の価値の差別化」があることを忘れてはならないと私は考えます。劣った人間の命は、優れた人間の命をできる限り健康に保ち活用化するために犠牲にしてよい、というこの考を極端に押し進めたのがナチスのホロコーストであったことは言うまでもありません。

「治験」の場合の最初の段階での動物の利用も、モルモットの命の価値はサルの命の価値より低く、サルの命の価値は人間の命の価値より低い、という思考がこの「段階的治験」の背後にあることは間違いないと思います。生命倫理学の権威であるピーター・ジンガー的な見方をすれば、人間は動物の権利をいたく侵害していることになります。ここに、「人体実験」と「治験」の間に、ある程度の類似性があることは確かです。それはともかくも、「人体実験」の被験者は、動物と同じように、その生命の「価値が薄い」とみなされているわけです。

 

戦時中の国内での「命の価値の差別化」と現在のコロナ感染下での国民の「命の価値」

ただし、戦時中の日本軍将兵の命の価値が、破傷風実験に使われたロームシャの命の価値より国家権力によって比較的高く評価されていたからといって、その将兵たちの人権が尊重されていたとは決して言えないことはあらためて言うまでもないことです。日本軍将兵や国民の命は、病気によって無駄に奪われるべきではなく、天皇の身体=国体に象徴されている国家のために奪われてこそ価値がある、という考えから、日本軍将兵と国民の命の価値も、天皇からの物理的・精神的な距離によって等級づけられていたことを忘れてはならないと思います。玉砕と称して死に追いやられた無数の将兵たちの命や、沖縄戦がその最たるケースであったように、戦闘や空襲で死んでいった多くの国民の命の価値も、はっきりと差別化されていました。

しかし、「命の価値の差別化」は平和時の社会においても日常茶飯事に行われています。最近、それが私たちの目に見える形でもろに現れています。オリンピック・パラリンピックを開催し成功させるためには、国民の間にコロナ感染者数が増え、重傷者数が激増して医療崩壊が起こり、国民の多くの「命が奪われてもしかたがない」という現政府の考え方は、まさに国家のために「国民の命の価値の差別化」が行われているわけです。その意味では、戦時中の「命の価値の差別化」と、実は深く繋がっている国家主義的思考です。

また感染症とは別としても、難民や外国人労働者の人たちの命の価値は、名古屋出入国在留管理局に収容されていたスリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさんが、病気の治療も受けられずに死亡した例からも分かるように、極めて低いものとしてしかみなされていません。

さらに、コロナ感染症で重症化した患者の間でも「命の価値の差別化」が行われています。多くの重症患者を抱えた病院内では、老齢患者の命を助けるよりは、比較的若い年齢の患者の命を助けることに力が注がれます。なぜ若者の命の価値は、老齢者の命の価値よりはるかに高いと判断されるのか、その判断基準は何なのでしょうか?長生きしてきた人間の命の価値を、若い人たちの命の価値との比較では低くみてよい、というその正当化の根拠はどこにあるのでしょうか? たいへん難しい問題です。(正直、古稀を超えた一応「高齢者」の私にとっては他人事ではない問題です<苦笑>)

 



結論:現在の段階で私が言えること

「人体実験」と「治験」の間に、「命の価値の差別化」の類似性がある程度あることに私は言及しておきましたが、しかしそれでも、人体実験による「命の価値の差別化」は、最初から意図的に、政治的目的に基づいて差別化されているという点で、「治験」とは異なっているのではないでしょうか。通常、「治験」の場合の被験者の場合は、人間の命の価値を最初から差別した上で被験者を選択する、あるいは被験者になることを強制する、ということは行われていないように思います。

コロナ感染症で世界各地に死亡者が続出し、累計感染者数が2億1千5百万を超え、死亡者が450万人近くになっている緊急事態が長く続いている現在、完全に治験の終わっていないコロナ・ワクチンを世界各地で接種することが盛んに推進されています。しかし、これは「命の価値の差別化」を最初から組み込んだ人体実験と見なすことは難しいのではないでしょうか。「命の価値の差別化」を判断基準とすれば、むしろワクチン接種を受けたいにもかかわらず、受けることができない大勢の人(とりわけ開発途上国の住民)、つまり感染防止をできない人の命の価値の方が低く見られている傾向がある、と言ってよいのではないでしょうか。

コロナワクチン接種後の死亡者数が、日本では8月25日で千人を越えているという情報は私には驚きです。ワクチン接種と死亡との因果関係が、明確に確認されているのでしょうか?死亡者の中には、すでに糖尿病とか高血圧とか何か持病がすでにあり、ワクチン接種で合併症を起こした結果というケースはないのでしょうか?

オーストラリアでのワクチン(これまではほとんどがアストラ・ゼニカ)接種の場合、7月下旬で、死亡者数は5名で全て血栓症が死因です。ワクチン接種の後で重い病気になったケースは87件、その疑いがあるケースは34件となっています。現在までのオーストラリアでのワクチン注射の数は、ほぼ1,840万回にのぼっています。注射数の絶対数と比較しての死亡者数の割合は 0.00000027% となっています。また、先住民であるアボリジニの人たちにもワクチン接種がさかんに行われつつあります。まだまだ、ワクチンの効用が今後どのように出てくるのかの判断を待たなくては決定的なことは言えないと思いますが、ワクチン接種の対象者から判断しても、また死亡者の数から見ても、オーストラリアの場合は、ワクチン注射を「人体実験」と見なすことは難しいように私には思えます。

 

 最初に申し上げたように、私は医学には全く専門知識がありません。身体にコロナ病原菌が入ったなら、「消毒薬を注射したらどうか」と堂々と言った阿呆な大統領がいましたが、私には笑えなかったです。というのも、好きな酒(アルコール)で体内を消毒すれば良いではないかと、私も、とりわけ酔っぱらって気持ちがよくなった場合には、半ば本気で思ったことがありますので(笑)。とにかく、全くの医学無知の私に言えることは以上のようなことです。お役に立ったかどうか自信もありません。なにとぞご海容のほど。

 

どうぞ、菅首相とその取り巻き連中による「命の価値の差別化」で、命が抹消されないように十分気をつけられ、この困難な時期を健康で乗り切ってください


2021年8月24日火曜日

私見 広島「被服支廠」の活用について(1)

1)本題に入る前に: 黒澤明の『夢』と私の父について


黒澤明が1990年に制作・監督した映画『夢』は、8篇の「夢」から成っています。その4番目の「夢」を観るたびに、私は自分の父親のことを憶い出します。その「夢」は次のような話です。

 

敗戦後、ひとり復員した陸軍将校(配役:寺尾聰)が戦死した部下達の遺族を訪ねようと、人気のない山道を歩いてトンネルを抜け出ると、自分の部下であった戦死した一人の兵の亡霊が、今しがた自分が歩いてきた暗いトンネルの中から出てきます。その亡霊は、山の下に見える一軒の家の明かりを指差し、あれが家族が待っている自分の家だと告げます。将校は「お前は死んだのだ」と告げると、悲しそうな顔をしながらもと来たトンネルを戻って行きます。ところが、突然、今度は大勢の兵隊たちの軍靴の音がトンネルの中から聞こえてきます。どのような者たちが出て来るのかとおどおどしながら待ちかまえていると、現れたのは自分が指揮していた小隊全員の、戦死させてしまった兵たちの亡霊でした。彼らの霊魂も故郷に帰りたかったのです。その将校は、部下たちの霊魂に向かって、この世を彷徨い続けることの虚しさを説き、「静かに眠ってくれと」頼み、「廻れ右」の号令でトンネルの暗闇に向かってもと来た道を帰らせます。母国を遠く離れた戦地で死亡し、故郷に帰ることができなかった無数の日本兵たちの無念と哀しみを、凄まじく悲壮な象徴的表現で観客に突きつけ、心を深く震わせる映像芸術だと私は思います。黒澤の仕事らしい、傑作であることは間違いないと思います。

https://www.youtube.com/watch?v=wovssrluaD0

  にもかかわらず、この映画には決定的な問いかけがスッポリ抜け落ちています。それは、日本という内地から見れば哀しい戦争被害者であったこの兵隊たちは、彼らが侵略した土地の住民からみれば、日本軍の軍服・軍帽・軍靴を着用し、菊の紋章がつけられた銃を抱え、日章旗と軍旗を掲げた、残虐極まりない男たちだったのです。彼らは、その地で、略奪・強姦・殺戮など、さまざまな残虐行為を犯しました。その被害者や遺族たちは、日本兵の霊魂がこの世を彷徨い続ける姿に、目に涙を滲ませることすらないのは当然です。その被害者とその遺族の感情的な深い痛みへの倫理的想像力が、この「夢」にはスッポリ抜け落ちているということです。

  私の父は、戦時中は関東軍中尉(中隊長)として満州で主として中国共産党軍(いわゆる八路軍)と戦ったようです。ところが、ある日、戦闘で敵弾が腹部貫通するという重傷を負い、ハルビンの陸軍病院に搬送されて入院。回復するや、内地の故郷・福井県の鯖江市の歩兵第36連隊駐屯地に転任となり、なぜか再び外地に出されることはなく、敗戦まで鯖江にいました。そのため、中国で自分が指揮した中隊の部下の若者たちはほとんど戦死したにもかかわらず、自分だけが生き残ったという罪意識にずいぶん苛まれていたようです。私がまだ幼い頃、父は毎年1〜2回、行き先も告げずに突然いなくなることがあり、1週間あまり帰って来ませんでした。母は父がどこに行っているのか分かっていたようですが、私は「家出した」のではないかと(父は「婿養子」でしたので<笑>)、その度に心配したことを覚えています。後年になって分かったことですが、父が隊長を務めた中隊の兵たちの多くは岩手県の農村出身だったとのことで、父は福井の田舎の永平寺町から岩手県まで、戦死させてしまった部下たちの墓参りと、部下たちの母親に会って謝罪するために、出かけて行ったとのこと。父の気持ちは、映画『夢』の中のあの将校と同じように、「この世を彷徨い歩く部下たちの亡霊」に時折悩まされ、岩手まで出かけずにはいられなかったのではないかと想像します。その負い目からだと思いますが、軍人恩給を受け取ることを一切拒否しました。

  しかし、その父が、岩手の若者たちと一緒に殺害したであろう敵兵あるいは中国市民に対して、罪意識を感じていたような気配は全くありませんでした。私は、父から戦死した部下たちの話はよく聞きましたが、敵兵や中国住民に関する話はほとんど聞いたことがありません。敵兵については「八路軍の士気とモラルはひじょうに高く、その点では日本軍は比較にならないほど劣っていた」ということだけは繰り返し述べていました。聞かされたのは、それだけです。「中国の人に謝罪したい」という言葉を、父の口から聞いたことはありませんでした。

 

2)動画レポート「被服支廠赤レンガ倉庫 ~浮かび上がる軍都・廣島」を観て

 

さて、本題に入ります。最近、ノンフィクション作家の高瀬毅さんが制作した動画、「被服支廠赤レンガ倉庫 ~浮かび上がる軍都・廣島」をぜひ観てみるようにと、広島の私の尊敬する友人で、被服支廠の建物保存運動を熱心にすすめておられる「広島文学資料保全の会」代表の土屋時子さんと、最近全国的に注目を集めている広島の画家・四國五郎氏の息子さんである四國光さんのお二人からお薦めがありました。土屋さんは「Hifukusho ラジオ」という番組も昨年から始められ、広島に関心を持って市民活動を行なっておられる全国さまざまな人にインタヴューを行い、被服支廠建物を保存し、どのように活用したら良いのかという議論を展開しておられます。

Youtube被服支廠赤レンガ倉庫 ~浮かび上がる軍都・廣島」は、Hifukusho ラジオ」で出されてきた様々な意見の総まとめ的な報告とも言えるものだと思います。

 https://www.youtube.com/watch?v=V62jdHW-DoI

  土屋さんたちが、この運動で訴えたいことは以下のようなことだと思います。日本軍将兵が着用した様々な種類の軍服と軍靴を製造し、同時に日本国内の他の地域にあった被服支廠から広島に送られてきた軍服・軍靴を宇品港から海外の戦地に送り出すための中継地の役割を果たしていたこの被服支廠=軍服・軍靴製造工場は、広島が単なる地方都市ではなく、軍に密接に協力していた「軍事都市(軍都)」であったことの一つの証である。軍都であったからこそ広島は原爆攻撃の目標になったのであり、原爆攻撃の直後には、破壊を免れたこの被服支廠の建物の中に瀕死の状態になった多くの被爆者が逃げ込み、医療手当もほとんど受けられずに次々に亡くなっていったという、その原爆被害の実相を記憶する意味でも、この建物をしっかりと保存し、平和構築のために活用すべきである、ということです。

「軍都の証」として今も残っている被爆建物は、確かに広島にはほとんどここにしか存在しません。同じ広大な陸軍の敷地には、武器弾薬を製造し、またそれらの兵器を集積・補給するための兵器補給廠の建物もありましたが、1970年代に解体されたため、現在は残っていません。

動画「被服支廠赤レンガ倉庫」では、土屋さんや元広島市長の平岡敬さん、それに戦時中に被服支廠で働いておられた切明千枝子さん、若い世代で被服支廠の保存・活用運動に意欲的な若者たちへのインタヴューを入れながら、被服支廠だけではなく宇品港に当時あった陸軍の建物などを紹介し、被服支廠がいかに「軍都の証」であるかということを示すと同時に、原爆無差別大量殺戮の被害者の多くが亡くなっていった場所としても記憶されるべき建築物であるというメッセージが力強く発信されています。動画の最後近く、四國光さんが見事にそのメッセージを簡潔明瞭にまとめる形でご自分の意見を提示されています。

それによると、被服支廠の建物は①戦争記憶を継承するための「戦争遺構」として、②原爆被害者の鎮魂のための墓標である「被爆遺構」として、保存すること。同時に③現在広島に残されている芸術・文学関連作品(四國五郎の絵画や、峠三吉、原民樹、大田洋子など被爆者詩人・作家などのオリジナル原稿や出版物)、さらには原爆関連の漫画、アニメ作品などの収集、保存、展示のためにもこの建物を活用すること。この三つが被服支廠保存・活用をめざす市民運動の目標として掲げられています。私もこの提案の根本的な構想方針に、一応、大枠としては賛成します。

 


 

3)「戦争記憶継承」と「鎮魂」は誰のために、何のためにあるべきか

 

  私が「一応、大枠として」という条件をなぜ入れたのか、その理由を説明します。それは、「戦争記憶継承」と「鎮魂」の仕方そのものに関わってくる重要な問題だからです。

 

動画「被服支廠赤レンガ倉庫」やHifukusho ラジオ」でインタヴューされた人たちのほとんどが、被服支廠を「軍都の証」として保存・活用すべきということを主張されています。確かに広島は、明治維新後の10年後の1877年に広島城跡地に広島鎮台司令部が置かれ、1888年には陸軍第5師団が設置されました。翌年1889年に築港された広島宇品港が陸軍の軍用港に指定され、1894年の日清戦争では、この宇品港から歩兵第11連隊が朝鮮半島を経て中国東北部に送りこまれました。しかも、第5師団司令部には戦争指揮のための大本営が置かれ、明治天皇・睦仁をはじめ政府ならびに軍首脳も広島に移り住み、大本営のそばには臨時の国会議事堂まで建てられました。日清、日露戦争で勝利した日本は、宇品港をもつ広島に様々な軍事施設を設置して「軍都」として発展させ、ここを起点に中国、さらにはその他のアジアと太平洋地域への侵略行為をエスカレートさせていったことは周知のところです。

みなさんのインタビューを聴いていますと、したがって、広島がアメリカに原爆攻撃をさせる原因を作っていたのは、広島が一大軍事都市となっていたからであり、その歴史的事実を知らしめるためにこそ、被服支廠を「軍都の証」として残すべきすべきである、というのが保存・活用の最も重要な理由と考えておられるように思えます。そのこと自体については、私も全く同感です。

しかし、それとの関連で、動画の中で、宇品から海外戦地に送り出された「8割の兵士たちが(日本には)戻って来れなかった」と、案内役を務めた河口悠介さんが説明されているように、ここでの「戦争記憶」の焦点は、あくまでも「私たち日本人が、軍都のせいでいかに戦争被害者にされたか」に置かれていることに気がつきます。動画の中では、私が気がついた限り、被服支廠との関連で加害の具体的な例をとりあげられたのは、多賀俊介さんが広島での朝鮮人強制労働に一言触れておられるカ所だけです。

不思議なことに、被服支廠で製造された軍服・軍靴を着用し、兵器補給廠から出された兵器を手渡されて宇品から海外に出陣していった兵たちが、いったいどのような蛮行をはたらいたのか、その点を「軍都」との関連で言及する人はほとんどおられません。戦争記憶を継承するための「戦争遺構」を提唱された四國光さんも、市長時代に「アジアに対する加害責任」を強調された平岡敬さんも、この動画では、記憶の重要な要素としての戦争加害の問題には一言も触れていません。(ただし、平岡さんはHifukusho ラジオ」でのインタヴューでは、被服支廠を「加害の遺産」とはっきりと述べられていますし、加害と被害の両方に視点を当てる戦争記憶継承の重要性を強調されています。インタヴューでも実際には述べられたのかもしれませんが、編集段階でカットされた可能性もあるかと思います。)

日本帝国陸海軍は、日清戦争前の「東学党の乱」の時点から朝鮮農民の虐殺という残虐行為を行い、日清戦争では旅順で多くの捕虜や市民を虐殺。日露戦争には当初から日本の朝鮮半島植民地化の狙いが含まれていたのであり、戦時中は、朝鮮での発、軍用品輸送や土木作業のための人夫役に反抗する多くの朝鮮人を日本軍は刑しました。戦争直後には、日本による朝鮮植民地化に反する義兵運動が高まり、1906〜11年には朝鮮各地で義兵争が起きました。日本軍はこれにし、暴行、略奪、いなどで弾圧を試み、その結果、朝鮮人義兵側には推定死傷者2万4千名が出ました。

日清争後の1895年5月に台植民地化のために台湾北部に上陸した日本軍は、台南占領までの約5ヶ月間に、軍民合わせて1万4千人以上を殺害。その後起きた北部蜂起にする日本軍による報復殺害の牲者は3千人近く。1898〜1902年までに台総督府が刑した叛徒1万人以上にのぼりました。このように日本は、朝鮮・台湾植民地化の当初から虐殺行為を繰り広げました。

1931年9月になると、日本軍は侵略の口実としてデッチ上げた「満州事変」をきっかけに、中国への侵略戦争を拡大していき、その過程で、南京虐殺や三光作戦、731部隊による人体実験、日本人経営の鉱山や工事現場で使いものにならなくなった数多くの中国人労働者を生き埋めにした「万人坑」など、様々なおぞましい戦争犯罪行為を中国各地で犯し、無数の中国人を殺傷しました。

1941年12月には日本は戦域をアジア太平洋全域に一挙に拡大し、連合諸国との全面戦争という破滅への道を急速に駆け落ちていきました。1942年2月にシンガポールを陥落させた日本軍第25軍は、シンガポールやマレー半島で、「抗日分子」または「抗日ゲリラ」が潜んでいるとみなした村落を皆殺しにしました。マレー半島での犠牲者数は数万人から10万人にのぼると推定されていますが、このマレー半島での虐殺に加わった兵隊たちの一部は、広島に本部が置かれていた第5師団歩兵第11連隊所属の兵員でした。

戦時中、日本軍は同じような住民虐殺をフィリッピン、ボルネオ、インドネシア、マレーシアなど各地で犯しました。インドネシアでは、日本軍占領地域における軍関係の様々な建設工事のための労務者が徴発され、ジャワ島のみならず、マレー半島、ビルマ、太平洋の島々に連行されて強制労働に従事させられました。その数、400万人にのぼったと言われています。泰緬鉄道の建設工事現場にも数多くの労務者(ロームシャという用語はインドネシア語になっています)が送り込まれましたが、ここではインドネシア人だけではなく、地元のタイ、ビルマ、マレーなどから合計35万人を超えるアジア人ロームシャが酷使され、過酷な労働や熱帯病、飢餓で多くが亡くなりました。泰緬鉄道の工事に駆り出された5万5千人の連合軍捕虜のうち、1万3千人あまりが過酷な強制労働と熱帯病で死亡しました。ベトナム北部では日本軍占領下の1944年末から45年にかけて大飢餓が発生し、200万人が餓死または飢餓関連の病気で死亡したと言われています。

さらに、アジア太平洋戦争中には朝鮮・台湾から100万人以上の人たちが、軍事工場、土木工事などでの労務のために強制連行され、広島の原爆で被爆した朝鮮人の数は約5万人、そのうち死亡者が3万人いたということについてはあらためて述べるまでもないと思います。その上、多くの女性たちが軍性奴隷としてアジア太平洋各地に送り込まれた事実も周知のところです。

日本軍による虐待・虐殺ケースは例をあげればキリがありませんので、これ以上言及しないでおきますが、日本が15年間にわたって繰り広げたアジア太平洋戦争での日本軍による虐待・虐殺や強制労働などの犠牲者はどんなに少なく見積もっても1千万に近いと思われます。第2次大戦中5年ほどの間における、主としてユダヤ人という一人種の計画的な大量虐殺と、場当たり的で、どちらかと言えば無計画な15年にわたるアジア多民族の殺害とを単純には比較できません。しかし、それでも絶対数だけからすれば、日本軍残虐行為の犠牲者はホロコーストをはるかに超えるものであったと言えると私は考えています。

そして、その残虐行為に加わった日本兵士の多くが、広島の被服支廠で製造された軍服・軍靴を着用し、兵器補給廠からの兵器を手渡されて宇品から海外に出陣していった、この事実!日本のこの凄まじい加害行為にほとんど触れない「軍都の証」=「戦争記憶継承」とは、いったいどんな「戦争記憶継承」なのでしょうか?それが本当に「戦争記憶継承」と呼べるのでしょうか?

このことを考えていただくために、拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』(339〜40ページ)で、栗原貞子の詩を引用しながら私が記しておいた「記憶」のあり方についての部分を下に紹介せていただきます

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このことの重要性を、詩という形で見事に表現したのが栗原貞子の『ヒロシマというとき』である。とりわけ、その詩の最後の言葉は、その本質を象徴的に表現している。

 

<ヒロシマ>といえば

<ああヒロシマ>と

やさしいこたえがかえって来るためには

わたしたちは

わたしたちの汚れた手を

きよめなければならない

 

  このように他者(とりわけ私たち自国の残虐行為による被害者)の「記憶」を自分のものとして内面化することを経て、はじめて我々自身の「記憶」が他者によって継承されるのである。記憶」とは他者と自己との継続的な相互交流の中でこそ機能し継承されるものであり、「文化的記憶」はこのような二重性、相互関連性を最初からしっかりと具えていなければならない。自己の「記憶」だけを一方的に相手にむかって発信しても、そして、たとえそれが一時的に受けとめられたとしても、それが時間と場所を超えて長く広く継承されることはない。

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したがって、<鎮魂のための墓標である「被爆遺構」>という被服支廠の活用の仕方も、極めて自己被害中心的で且つ狭隘な捉え方であると思いますので、この提案には私は残念でなりません。この建物は、もちろん被爆者を鎮魂するためと同時に、宇品から出動し、ここで作られた軍服・軍靴を着用し、兵器補給廠から出された銃器で日本軍兵士が、明治時代から1945年8月までの長期にわたって、アジア太平洋各地で繰り広げた虐待と殺戮の無数の被害者の人たちの「痛み」に倫理的想像力を働かせ、自分の「痛み」として内面化するための場所ともなるべき空間なのです。

映画『夢』の中の、故郷に帰ることを願いながらも彷徨っている「日本兵の深い心の痛みと哀しみ」。同じように、その兵隊たちに虐殺されて愛する人を失った夫や妻、子供を失った親、親を失った子供などなど、その人たちの「痛みと悲哀」をも私たちは自分のものとして深く内面化すべきだと思います。それが、日本軍兵士であった父親や祖父の世代を持つ私たち日本人の、人間として当然とるべき責任倫理だと私は思います。

その行為を通してこそ、自分たちの「被爆の痛み」を、日本軍の加害行為の犠牲者の遺族の方たちにも共有してもらうことができるはずです。すなわち、この建物を「痛みの共有機構」としなければならないと私は思います。いうまでもなく、「戦争記憶継承の機構」と「痛みの共有機構」は表裏一体となっているべきもので、分離できるものではありません。「痛みの共有」の上にこそ、真の平和的生存関係が築かれるはずだと私は信じます。

  私は、この被服支廠の三棟の一つを、日本の戦争加害の歴史と、その加害歴史に広島がどれほど深く関与したかを詳しく解説すると同時に、原爆被爆当時にこの建物がいかに悲惨な阿修羅地獄と化したかの実相を描写する、しかも「加害」と「被害」がいかに緊密に絡み合っているかが実感できるような、「戦争博物館」にすべきだと思っています。「加害の歴史」は、広島に現存する博物館や美術館では完全に無視されていますので、ぜひこれを実現してもらいたいです。「平和文化都市」を自称する広島市が、「痛みの共有」の上に立った文化施設を作れないなら、「平和文化都市」と自称するのを止めるべきです。

  

長くなりますので、今回はこれで一応終わらせていただきます。四國光さんが被服支廠活用のためのアイデアとして述べられている「芸術の利用」についての私自身の考えは、日をあらためて、「私見 広島『被服支廠』の活用について(2)」としてこのブログで紹介させていただきます。

 

  ちなみに、上に述べた「痛みの共有」の重要性を、文学作品で強調したのが栗原貞子であり、その重要性を証言活動で実践したのが沼田鈴子さんでした。この稀有なお二人の被爆者の思想と活動については、このブログに掲載してある「国家主義を突き破る人道主義:栗原貞子の思想と沼田鈴子の実践から学ぶべきもの」(2018年8月30日)と「沼田鈴子の思想と実践:<痛みの共有>に関する補論」(2020年8月29日)を参照してください。戦争被害者のご遺族の心の痛みを具体的に知っていただくためには、豪州人の例として、今年6月30日のブログ記事で紹介しているお二人の遺族のスピーチ(私の講演録の後に載せてあります)を是非ともご一読いただければありがたいです。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。