2020年6月20日土曜日

Inspirational Music for “Black Lives Matter” & Covid-19

「ブラック・ライブズ・マター」とコロナウイルス感染防止のための2つのコンサート
日本語の説明は英語版と詩+漫画の後をご覧ください。

(1) New York Philharmonic: “We Shall Overcome,” Arranged by Jordan Millar

  This past fall the New York Philharmonic invited Jordan Millar — a 13-year-old member of the Philharmonic’s Very Young Composers Program — to arrange “We Shall Overcome” for several Young People’s Concerts on “Music as a Change Agent.” Those performances were cancelled because of COVID-19. Over the past weeks it has become clear that there is an urgent need to hear this song’s expression of determination and hope. In this performance Philharmonic musicians are joined by members of the Abyssinian Baptist Church Cathedral Choir; The Dessoff Choirs; Brooklyn College, Conservatory of Music Symphonic Choir; and viBe Theater Experience. Together, they declaim the verses Jordan has set:
We shall overcome  
We are not afraid  
The truth shall set us free

  Larissa, granddaughter of my old friend, Mark Selden, is a 10 year old cellist in the second row from the top right. The composer, Jordan Millar is a member of her composition class. It is really nice to see young girls like Larissa and Jordan contributing to this kind of activity and interacting with adult players!

(2) HAUSER: ‘Alone, Together’ from Arena Pula
  HAUSER performs a special concert in his hometown in the iconic Arena Pula, Croatia. He would like to dedicate this performance to amazing efforts of all the frontline workers around the world and pay tribute to all that is good in humanity.

Track list:
Benedictus (From The Armed Man: A Mass for Peace by Karl Jenkins)
Air on the G String (J. S. Bach)
Intermezzo from Cavalleria Rusticana (Pietro Mascagni)
Caruso (Lucio Dalla)
Nessun Dorma (G. Puccini)


人間よ(校庭で歌われるべき歌)
昔、感染病がありました
昔、戦争もありました
いたわりあい、親切にしあい
同時に、血を流し合い、残虐をきわめあい
薬を作りながら
武器も作り
愛し合いながら、憎み合い
私たちは、なんとも不思議な生き物です
(マイケル・ルーニッグ作)

(1) ニューヨーク・フィルハーモニック・オーケストラ「勝利を我らに」
   ジョーダン・ミラー編曲
  ニューヨーク・フィルハーモニック・オーケストラには、「若年作曲家養成プログラム」と称する、子供たちのための音楽教育プログラムがあります。この「若年作曲家養成プログラム」は幾つかのコンサートを計画していましたが、コロナウイルス感染拡大のために中止せざるをえなくなりました。そこに、アフリカ系アメリカ人の人種差別反対運動「ブラック・ライブズ・マター」の急速な高揚が見られるようになったため、中止になったコンサートで演奏される予定だった、13歳のジョーダン・ミラーが編曲した「勝利を我らに」を、ニューヨーク・フィルハーモニック・オーケストラの楽団員や、ニューヨークの幾つかの合唱団が加わって、急遽、オンラインで演奏しました。その演奏が下記のユーチューブで鑑賞できます。歌詞がジョーダン・ミラーによって、以下のように変えられています(赤字部分)
「勝利を私たちに
私たちは恐れない
真実が私たちを自由にする

  画面右上の2段目でチェロを演奏している10歳の女子は、ニューヨークに住んでいる私の長年の友人のマーク・セルデン(中国史・中国社会研究)のお孫さんで、「若年作曲家養成プログラム」でジョーダン・ミラーと同じクラスに入っているとのこと。10歳代の女子が、大人の音楽家たちと一緒にこのような音楽活動に参加できる機会があることは、本当に素晴らしいです!演奏前に、ジョーダン・ミラーが、このネット演奏会について短く説明しています。

(2)ハウザー独奏会「一人、でもみんなと一緒」
  私の大好きなチェロ奏者の一人、ステファン・ハウザーが、生まれ故郷のクロアチアのプーラにある古代競技場遺跡で、コロナウイルス感染者を救助するために闘っている世界中の人たちに感謝し、その人間性あふれる努力を讃えるために、独奏会をユーチューブで、連続で開いています。その第1回目の独奏会です。
演奏曲
ベネディクトス(カール・ジェンキンズ作曲「武装した男:平和のためのミサ曲」より)
G線上のアリア(J.S.バッハ作曲)
オペラカヴァレリアルスティカーナ』の間奏曲(ピエトロ・マスカーニ作曲)
カルーソ (ルチオ・ダッラ作曲) 
誰もてはならぬ(プッチーニ作曲『トゥーラン・ドット』のアリア)

2020年6月13日土曜日

パンデミック終息?


パンデミック終息後の「良き社会」はいかにしたら作れるのだろうか

  ニュージーランドはすでに「パンデミック終息宣言」を行い、オーストラリアの感染者数もひじょうに少なくなった今日この頃。しかし、米国や英国ではいまだ感染者数は極めて多く、一方、中南米・アフリカ・東南アジア・中近東の各地では感染拡大が止まないどころか急増中で、これらの地域ではこれからもっと深刻な状況になる危険性が憂慮されます。しかも、感染がおさまってきている諸国でも、今後、経済不況による企業倒産・失業などから、貧困や差別、抑圧、家庭内暴力(いわゆるDV)、自死などの様々な社会問題=ヨハン・ガルトゥングが「構造的暴力」と呼んだ現象が激化することが心配されます。
しりあがり寿作「太陽(コロナ)から見た地球
  アメリカでの警察官によるアフリカ系米国人の殺害を起因とする激しい人種差別抗議運動も、「構造的暴力」に日頃から苦しめられている弱者の不満がパンデミックによって高まっているところに、殺害事件という「直接的暴力」によって火がつけられた状態になったと言えるでしょう。しかも、アフリカ系米国人に限らず、日常的に「構造的暴力」の被害者となっている多くの他の人種系や白人系米国人(とくに若者)も、この抗議運動に触発されてトランプ政府批判運動を強めているのが現状です。
  日本でも、「構造的暴力」によって苦しめられている多くの社会的弱者(とりわけ女性)に深く配慮する政策を、いまこそ迅速に実施していく必要がありますが、腐敗しきった「霞が関ヤクザ集団」の(GoToを「強盗」と国会で自称のごとく読んだ)安倍晋三親分とその子分たちには、「社会的弱者」がどれほど苦境にたたされているのか、その実態がさっぱり分かっていないようです。
  パンデミックが終息した後の社会を、パンデミック以前の社会とは違った「良き社会」にしようというカケ声がチラホラ聞かれますが、果たしてそれがそんなに容易なことでないことは、現状をみてみれば誰の眼にも明らかです。問題は、パンデミック以前からある「構造的暴力」を作り出している「社会構造」=「歪んだ民主主義社会」をいかに革新するか、という「民主主義」のあり方そのものの問題だと私は常に考えています。パンデミックが「歪んだ民主主義社会」を襲えば、もともとある「構造的暴力」が激化する、というのが私の主張です。もともと存在するこの「構造的暴力」の問題を忘れて、「パンデミックが終息したら、<良き社会>を」という考えそのものが浅はかです。同じような考えを、私の大好きなオーストラリアの漫画家で詩人のマイケル・ルーニッグが、以下のような風刺漫画にしていますので、紹介しておきます。
「ああ〜やっと、コロナウイルスの暗い穴から、人間性が蘇ってくる。」
「私たちは変わったのだ、いまやずっと良い人間に。そうだ、新しくて良い世界を作ろうではないか。」
「貪欲、腐敗、不正、残忍、妬み、恨み、虚栄心よ、おさらばだ。」
「愚行・・・とも、おさら・・・・ば・・・・(と言いながら、暗穴に再び落ち込む)」

  『週刊金曜日』編集部からの依頼で書いた、5月22日号掲載の記事「新型コロナに<勝利宣言>したニュージーランド:パンデミックに対抗する民主主義の強さ」と、来週金曜日6月19日号に掲載予定の「社会的弱者を襲うパンデミック:新型コロナが誘因する<構造的暴力>」は、上記のような「民主主義と構造的暴力」という視点から書いてみたもので、もともとは単一の記事として書いたものでした。
  字数が極めて限定されていたため、十分に持論が展開できていないと自分では不満足なのですが、5月25日に私のこのブログに載せた記事「安倍の嘘とパンデミック:社会的弱者=<構造的暴力>被害者の痛みと怒りの連帯を、安倍政権打倒の市民運動につなげよう!」と合わせてご笑覧いただければ光栄です。

『週刊金曜日』の次号予告をご覧ください


2020年6月6日土曜日

憎悪から進歩は生まれない

(1)トム・ユレーンの想い出
(2)チェロ奏者 スザーンヌ・ビーアを悼む

(1)- トム・ユレーンの想い出
日本には、日本軍がアジア太平洋戦争中に連合軍捕虜に対して犯した様々な残虐行為について研究すると同時に、日本の責任を明確に認め、元捕虜の人たちやその遺族の方々に謝罪し、交流を深めるという活動を長年続けておられるPOW(戦争捕虜)研究会があります。活動内容については下記のホームページをご覧ください。
この会の会報に寄稿を依頼されて書いた原稿を、会のご許可をいただき、ここに紹介させていただきます。


-----------------------------------------------------------
トム・ユレーン(1921〜2015年)の略歴:
  青年時代、港湾労働者からプロのボクサーになる。1941年に豪州陸軍に入隊。太平洋戦争開始に伴い所属部隊がチモール島に派遣されるが、日本軍の捕虜となり、シンガポールのチャンギ捕虜収容所に送られる。その後、日本軍の泰緬鉄道建設に駆り出され、劣悪な環境下で強制労働に従事。鉄道建設完了後に、九州の筑豊炭鉱に送られ、そこでも重労働を課され、終戦を筑豊で迎える。戦後、1958年に労働党(左派)から豪州連邦議会下院議員として初当選し、1990年に退職するまで連続当選。その間、1975〜77年のウィトラム政権で都市・地域開発担当大臣、1983〜87年にはホーク政権でも社会開発・地域問題担当大臣などの閣僚を務める。下院議員として、元捕虜のための特別健康医療保険制度設置にも大きく貢献した。ベトナム戦争やイラク戦争反対運動でも活躍。退職後も、環境保護市民運動で活動を続けた。
  ちなみに、泰緬鉄道建設での重労働に駆り出された豪州兵の総数は1万3千人ほどで、そのうち死者は2800人、死亡率22%であった。英・豪・蘭・米の連合軍捕虜総数では6万2千人で、うち死者1万3千人近く、死亡率20%だった。そのうえにミヤンマー人、マレーシア人、インドネシア人など30万人以上にのぼる多くの東南アジアの人たちも「労務者」として駆り出され、そのうちの多くが亡くなった。
-------------------------------------------------------------
  太平洋戦争中、泰緬鉄道建設で重労働をかせられた多くの連合軍捕虜の一人、豪州のトム・ユレーンに私が初めて会ったのは1990年の7月頃だったと思う。当時、メルボルン大学で教員をしていた私は日本軍が豪州軍将兵に対して犯した戦争犯罪について研究をすすめていた。私は、それまでほとんど知られていなかった戦争犯罪ケースに焦点を当てていたので、泰緬鉄道強制労働については意図的に研究テーマから外していた。しかし、元捕虜の中でも、豪州政府の閣僚まで務め、一時は労働党副党首にまでなった極めてユニークな存在であったトムには、いつかぜひとも会って話を聴きたいと願っていた。
  当時、急速に右傾化していた労働党政権に嫌気がさし、トムは1987年には閣僚を辞任、90年には政界から引退してしまった。彼の引退を知った私は、トムには時間があるはずなので会ってくれるのではないかと期待して、シドニーの自宅に電話をしたところ、「喜んで会う」という返答であった。早速シドニーまで飛んでいき、シドニー郊外のバルメインの自宅を訪ねた。丘の斜面に建てられたすばらしい木造の大きな3階建の家で、目の前にシドニー湾の複雑に入りくんだとても綺麗な小さな入江の一つが広がっている。3階建とはいえ、1階は車庫と物置になっている。


 
驚いたことには、そのとき妻も亡くなり子供たちもすでに独立していた70歳のトムは、この物置に住んでいたのである。というのも、政界を引退する数年前に新築したこの家は貸家にしてあり、まだその契約が切れていなかったので、上階には他人が住んでいたからだ。豪州の7月は真冬で、日本のように雪が降るような寒さでないとはいえ、かなり冷え込む。その寒い物置に、所狭しとベッドや家具が置かれ、小さな電気ストーブで彼は暖をとっていた。物置の端に置かれた机にはキャンプ用の電気コンロが置いてあり、これで熱いお茶を作ってくれ、互いに膝に毛布を一枚かけて、長時間いろいろな話をしてくれた。
  壁には、豪州でひじょうに有名な画家で当時はまだ存命だった(その年の10月に亡くなった)クリフトン・ピューが描いた、トムの肖像画がかけられていた。この絵一枚だけでも高額の価値がある作品であるので(現在、この絵はキャンベラの国立肖像画美術館の所蔵となっている)、それが物置に飾られていること自体に私はびっくり。あとでトムから聞いた話によると、ピューとは親友で、ピューが亡くなった折には、彼の作品を多数トムが遺産相続したとのこと。しかしトムは、一枚残らず、美術館に寄贈してしまった。
  私が、失礼ながら「よくこんな狭くて寒い所に住んでいられますね」と言ったところ、にっこり笑いながら「捕虜収容所と比較すれば天国だよ、しかももう2ヶ月ほどの我慢だ」という答え。実は、彼が物置住まいをしていたわけは、このとき彼は大きな裁判闘争を抱えており、その裁判費用のために多額の出費を強いられていたので、仮住まいの家を借りる余裕がないことを正直に話してくれた。その裁判とは、豪州の大金持ちで超右翼のケリー・パッカーが、自分が所有する新聞に、トムが「ソ連のスパイである」という全く虚の新聞記事を大々的に載せたことに対して、トムが名誉毀損でパッカーを訴えていたのである。相手が大金持ちなので、裁判が長年にわたって引き伸ばされ、トムがその結果、出費を続けることを余儀なくされていたというわけである。もちろん、最終的にトムは勝訴したが、この裁判はパッカーのような独占企業家を痛烈に批判していたトムに対する、個人攻撃を目指した「いやがらせ裁判」であったことは間違いない。(ちなみに、今はパッカーの息子が事業を引き継いでおり、カジノ事業にまで手を広げている。)
そんな酷い話を、笑いながら説明してくれるとても明るい人柄と、自分が思っていることをなんら隠すことなく率直に述べる彼の態度に、私はひじょうに感銘し、一度会っただけで、彼を大好きになってしまった。
  これがきっかけで、彼とはとても親しくなり、シドニーを訪れるたびに私は彼に会いにいき、彼もメルボルンに来る機会があるとしばしば私を訪ねてくれた。我家に泊まって、ゆっくり一晩、私の妻も交えて話し合うということもあった。私が担当していた日本政治史の講座で、捕虜体験と戦後の政治家体験について学生に話してもらったこともあり、学生には大人気であった。シドニーの街中を彼と一緒に歩いていると、必ず、あちこちで「こんにちはトム、元気ですか」と幾人もの人が呼びかけてくる。ほとんどがトムも見知らぬ人たちであるが、このことからも、彼がどれほど政治家として市民のことを考え、市民生活に有益ないろいろな政策を打ち出し、実行に移していたかが伺えたのである。また、彼は親しい人とひさしぶりに会うたびに、握手の代わりに、にっこり笑いながら、あの大きな身体で相手をしっかり抱き込むのが習慣であった。
  はっきりいつだったのか私は憶えていないのだが、1992年頃だったかと思う。彼が「日本に行ってみたいな」と常に言っていたので、私は日本の市民運動の仲間たちに連絡をして、トムが、福岡、広島、京都、東京などを訪問し、各地で市民交流ができるよう協力を求めた。皆さんのおかげで、トムはとても楽しい旅行ができたようで、その後、会うたびに日本旅行中にいろいろ考えたことを私に話してくれた。その一つとして、日本人がすばらしい盆栽や日本庭園を作り、自然を大切にしているように見える一方で、自然破壊をあちこちで平気でやっている現実との矛盾について、幾度も痛烈に批判していたことが私の記憶には今も残っている。彼は、晩年は自然保護運動にひじょうに力を入れて、労働党ではなく緑の党の支援表明をあからさまに行ったため、労働党員たちは面目をつぶされる苦い思いを味わった。
  ここで、トムが建てたすばらしい自宅についても、簡単に説明しておきたい。自然環境を大切にしていたことから、退職後に自分が住む家もできるだけ環境にやさしい家をと考え、自然環境を重視する建物の設計を専門にしている、リチャード・ルプラストリエ(現在81歳)というシドニー在住の建築家に設計を依頼した。ルプラストリエは、シドニー大学建築科を卒業後すぐに、当時、シドニー・オペラハウスを設計したデンマーク人のヨーン・ウツソンがその建築工事のためにシドニーに在住していたため、ウツソンの下で1964〜66年の2年間働いた。そのあと、京都大学に留学して日本建築を勉強し、東京の丹下健三・建築事務所でも働いた。オーストラリアに戻った1970年から、自分の建築事務所を開設。ウツソンや丹下のような巨大ビルを設計した事務所で働いたにもかかわらず、京都の古い木造建築家屋に深く影響されたようで、彼の設計する家はほとんど木造で、なるべく冷暖房機を設置せずに、夏には風通しが良く、冬には太陽光をたくさん受けることができるように、大きな窓やドアを多く備えた建物が多い。
  トムの家も全て木造で天井が高く、夏には海からとても心地よいやさしい風が入ってくるし、冬には家全体に陽光が注ぎ、本当に気持ちがよい。トムもこの家がたいへん自慢であった。この家を建ててからトムはルプラストリエともひじょうに親しくなり、交流を深めていた。
 
トム(右)とルプラストリエ
  
  トムとの交流で学んだ多くのことを詳しくここで書いている余裕はないが、彼が常にモットーとしていたことは「憎悪から進歩は生まれない」ということであった。これを彼は言葉で表現するだけではなく、実際の生活で実践していた。それは、彼が捕虜体験から学んだことであることは言うまでもない。私のような凡人には、これを頭では理解できていても、ついつい他人を憎んでしまい、なかなか実践できない。
  私は1996年に出版し、2018年にその改訂・増補版を出した英文著書、Hidden Horrors: Japanese War Crimes in World War II (Rowman & Littelfield, 2018)の表紙見開きで、この言葉を引用して、拙著をトムに捧げている。彼の笑顔とあの暖かい抱擁が、とても懐かしい。

田中利幸

(2)チェロ奏者 スザーンヌ・ビーアを悼む

私の好きなチェロ奏者の一人で、ドイツ生まれで、英国で活躍していたスザーンヌ・ビーアのホームページを久しぶりに覗いてみたら、昨年末に癌で亡くなっていたことを、昨日初めて知りました。まだ52歳という若さだったので、本当に残念です。彼女は才能豊かな演奏家であると同時に、スズキ・メソッドを使って多くの子供たちに教える素晴らしい先生でもありました。日本でも演奏したことがあります。ご冥福を祈りつつ、彼女の演奏を幾つか紹介させていただきます。

*「ガブリエルのオーボエ」
この曲は1986年の映画『The Mission』のサウンド・トラックとして作曲されたものですが、もの哀しくもひじょうに美しいメロディであるため、オーボエはもちろん、トランペット、チェロ、バイオリンなどの、多くのクラシック奏者もしばしば演奏します。
なお映画『The Mission』は、18世紀半ば、スペインとポルトガルの南米植民地化をめぐる政治的な妥協のために、キリスト教宣教師と先住民であるインディアンが殺戮されるという、史実に基づいた悲しい映画です。一見の価値ありです。Youtube で全部観れますが、日本語字幕はついていません。

*バッハ作曲 「アリオーソカンタータ BWV156

*ビバルディ作曲 「Allegro from Concerto in G Minor for Two Cellos


2020年6月1日月曜日

小説『コリーニ事件』と「旧・被服支廠」保存問題


(1)小説『コリーニ事件』を読む
(2)再び「旧・被服支廠」保存問題について

(1)小説『コリーニ事件』を読む

  私は昨晩、ドイツの作家、フェルディナント・フォン・シーラッハが2011年に出版した小説『コリーニ事件』(邦訳2013年出版)を一挙に読みました。それほど長くない小説ですので数時間で読めましたが、内容はひじょうに重厚です。(5年ほど前から、私は、小説はほとんどベッドで、重い本を抱えなくてもすむように、タブレットのkindleで読んでいますのでとても楽です。ベッド・サイド・テーブルに冷酒があればもっと嬉しいのですが、連れ合いが許さないです<笑>)作者は1964年生まれで、1994年からベルリンで刑事事件専門の弁護士を務めているとのこと。ナチ党全国青少年最高指導者バルドゥール・フォン・シーラッハの孫という、ユニークな背景をもった人物です。
  この小説は、弁護士になったばかりの若いライネンが国選弁護士として引き受けさせられた初めての事件についてです。それは、イタリア出身の自動車組立工、コリーニが、奇しくもライネンを幼少時代から可愛がってくれていたマイヤー機械工業の元社長であるハンス・マイヤーを、ひじょうに惨たらしいやり方で殺害した事件でした。黙秘権を使って何も言おうとしないコリーニの殺人動機を、ライネンが苦心して探し出すと、ナチの戦争犯罪の問題に行き着く、という筋書きです。
  ひじょうに興味深いのは、法廷での「戦争犯罪」をめぐっての議論の展開です。現職の弁護士らしい、とてもドイツの関連法に詳しい議論の展開です。しかし、そうした議論にもかかわらず、結局、法とは関係なく、「戦争犯罪に対する責任とは何か」を深く考えさせられる小説になっています。
  日本では、残念ながら、自分たちの父や祖父の世代が犯した戦争犯罪をテーマにした小説で、「人間としての責任」を深く考えさせる感動的な作品にはほとんど行き当たりません。自分たちがいかにひどい被害者にさせられたかという話で、お涙頂戴というものがほとんどです。例えば、2018年に刊行された伊藤潤『真実の航跡』は、最近にはめずらしい、戦犯問題を取り扱っていますが、戦犯追求をなんとか逃れようとする話で、「責任問題」などほとんど考えてもいない、私に言わせれば駄作です。
  しかし、私は常に思うのですが、戦争責任問題を考えるには、歴史教育も大切ですが、やはり人々の心深くに沁み入るような、被害者の「痛み」と加害者の「罪の苦しみ」を象徴的に表現する人物を通して、私たち自身の「人間としての責任」について考えさせるような芸術作品(文学、演劇、能楽、彫刻・絵画など)をできるだけ活用することが必要だと思います。『コリーニ事件』を読んで、改めてこの考えを再確認したところです。
  

(2)再び「旧・被服支廠」保存問題について池田正彦さんのエッセイ紹介

  広島の「旧・被服支廠」保存問題については、今年1月5日のブログでも私見を述べ、池田さんたちの保存運動についても紹介しておきました。池田さんの「旧・被服支廠」に関する最新のエッセイをご本人の許可をいただき、ここに掲載させていただきます。


旧・被服支廠・皆実町界隈を歩く
赤れんがよみがえれ
広島文学資料保全の会・池田正彦


一九一三年建立された赤れんがの巨大な倉庫四棟が残る「旧・被服支廠」は、軍都・広島の歴史をもつ数少ない建造物である。同時に爆心地から約2・7キロで焼失・倒壊を免れ被爆直後から臨時救護所となったことから、被爆の歴史を語り継ぐ場所として存在してきた。
しかし広島県は、昨年(二〇一九年)一二月、劣化を理由に「2棟解体、1棟の外観保存」(保存といっても、立ち入り禁止の、あくまで外観( ・ ・)保存( ・ ・)なのである)案を公表した。多くの市民は4棟の保存・活用を求め「広島県案」に「ノー」の声をあげ、各マス・メディアも行政の理不尽さを大きくとりあげた。

詩人・峠三吉は、臨時救護所(被服支廠)の惨状を「倉庫の記録」(原爆詩集)につづり日記等にも詳細を記録している。さらに、「黒い雨」(井伏鱒二)、「管弦祭」(竹西寛子)など文学作品などにも被服支廠として登場するなど、広島の歴史と深くむすびつき、市民の描いた「原爆の絵」においても、体験者は一四枚の絵として記録を残した。

横道に逸れるが、私はこの地域で小学校時代を過ごし、とりわけ感慨深い。
私が暮らしたのは、進徳女子高校のすぐ西側で、建物は旧・陸軍電信隊の兵舎を改造した長屋(この地域は焼失をまぬがれ残った)であり、近くの比治山、翠町の蓮畑、黄金山、旧・被服支廠などは悪童たちの恰好の遊び場で、すぐ隣の旧・電信隊の将校集会所は「青年会館」(そう呼んでいた)はそのまま残り、こんもりした杜に囲まれており、特に印象深い。
「青年会館」は、その頃珍しく、合宿・宿泊できる施設でもあり、ホールでは講演会、映画会、青年団の芝居の稽古、ダンスの講習会、コンサートなどが行われ、子どもの目にはなかなかハイカラな空間であった。前進座の河原崎長十郎との懇談会が行われたことも峠三吉は日記に記している。(昭和二四年二月二二日)「……会には知事も出ており、ひとわたり自己紹介と余興の中で余は<バイカル湖>を歌う。……長十郎氏と杯を交しながら彼らの芸術観を聴いてみて共感する処多し」
多少の時差はあるが、小田実のはなしをこの青年会館で聞いたとの証言などもあり、広島県青年団連合会(県青連)の事務所を中心に多くの青年たちの活動拠点となっていた。いわば、広島のカルチェ・ラタン(一九六〇年代、フランス反体制・学生運動の中心)であった。
近くの皆実小学校の界隈には、広島の演劇運動をリードする多くの人も居住していた。峠三吉と共に活動した増岡敏和は、次のように述べている。「遠い日の中川秋一氏は、皆実町(皆実小学校正門近く)に住んでおられて、そのまわりには演劇人がとりかこんでいた。演出家の大月洋、俳優の杉田俊也、カチューシャの長谷川清、新制作座の谷美子……各氏らである。その論理的支柱であった中川秋一氏は文化分野における最大の指導者であった。峠三吉も自分の文学的進路を決めるにあたって中川氏に相談している」
比治山橋たもとでロンド書房(ロンド:エスペラント語でサークルの意味)を開いていた大月洋は次のように記している。「峠三吉も近くに住み反戦平和集会のガサ予測の時など大風呂敷の文献をかくしてくれと持ち込んだロンド。惜しくもそのロンドが消えた」(『ロンドの青春』民劇の会・編)

   中川秋一:日本プロレタリア演劇同盟に参加。戦後、美学者・中井正一とともに労働者文化協会をつくり、民主主義を大衆の中に根づかせることに渾身の努力を傾けた。
  大月洋:広島民衆劇場、広島小劇場などを指導。移動演劇さくら隊殉難碑の建立に奔走。広島労演(現・広島市民劇場)創設に尽力。

前後する。峠三吉は8月6日、翠町(長姉・三戸嘉子の自宅:旧制広島高校<現・広大附属高校>南、爆心から約3キロ)にて被爆。額に傷を受けるが、直後、友人・知人・親戚の安否を気遣い市内を訪ね歩き、(この衝撃的体験が『原爆詩集』の骨格となった)被服支廠に収容されたK夫人(「倉庫の記録」のモデル)を見舞っている。
峠三吉は、直後の惨状を日記やメモとしてたくさん記録したが、作品化するまでには一九五〇年(昭二五年)まで待たなければならなかった。おそらく、彼の優しい叙情の質では原爆の悲惨をとらえることができなかったと考える。
あまり知られていないが、直後の一九四五年八月には「絵本」という作品を書き、もっとも優しく愛おしいものとしての母と子を描き、『原爆詩集』への片鱗を提示している。

絵本

   たたかいの手に 傷つけられた
  瀕死の母親にみせる その子の絵本

   たかい格子窓から 一筋の夕日が
  負傷者収容所の 冷い床に落ちてとどまる
  
   火ぶくれの貌のうえに ひろげ持ち
  ゆっくりと操ってやる 赤や青の幼い絵
  古いなじみの お伽噺ばなし
 
   カチカチ山の狸のやけどに 眼をむけた
  隣のおとこの呻きも いつか絶え
  ぼんやりと凝視めていた 母親のめに
  ものどおい 瞼がたれ

   苦痛も怨みも 子につながる希いさえ
  訴えぬまま 糞尿の異臭のなかに
  死んでゆく
  しんでゆく

被服支廠に収容されたK夫人の枕元に置かれた絵本を介して、このむごたらしいさまを告発している。(『原爆詩集』には収録されていないが、原爆の惨状を記した最初の作品として、記念碑的意味をもっている)

 彼ははじめから「原爆詩人」ではありえなかった。一般的な「軍国青年」であり、八月一五日(敗戦)の日記には「ただ情けなく口惜しき思いに堪えず」「かくなる上はすべての財を捨て山に籠り命をもいずれ捨つる覚悟」と記している。苦悩し発展のバネに変えたのは、青年文化連盟に加入し社会的活動への参加が大きなきっかけとなっている。事実、翠町(移転後は昭和町の平和アパート)の自宅は、多くの青年・学生の溜まり場となり、戦後広島の文化運動を牽引した。近く(県病院そばの宇品)にはシベリアから帰還した生涯の盟友・四國五郎が住み、主宰した「われらの詩」はこの地で誕生したといっていい。(特に言論統制下、辻詩と呼ばれ、詩と絵を組合わせた反戦・反核のポスターで街頭に貼り出した作品は四國・峠の協働作業で一五〇~二〇〇枚作成されたが、現存するのはわずか八枚。『原爆詩集』ガリ刷の初版表紙・挿絵は四國五郎によるものである)
   昭和町(当時は平野町)の平和アパート:市営住宅として初の鉄筋コンクリート化がはかられ、一九四九年(昭二四)完成。京橋川沿い(比治山橋のたもと)に三棟が建てられ、当時とすればモダンな住まいであり、入居できる人は羨望の的であった。現在も使われているが、広島市は解体の計画。(峠三吉住所:平野町昭和第三アパート一五号:「われらの詩の会」の事務局でもあった)
   四國五郎:画家・詩人としてヒロシマをテーマに活躍。絵本『おこりじぞう』(金の星社)は多くの人に親しまれている。峠三吉との交友は有名で、翠町・昭和町の平和アパート(峠の自宅)は二人の創作活動の原点といっていい。なお、戦前の被服支廠に就職し、この地から戦場に向った。

短期間であったが、峠三吉は広島県庁社会課に勤務し、憲法普及運動にたずさわったことがある。当時県庁は、旧・兵器支廠(現在の広島大学医学部)を使用。いかめしい赤れんがの建物群に圧倒されたのを覚えている。(広島県関連だけでなく、国の出先機関もあり活況を呈していた)
当時、国鉄宇品線は通勤・陳情の足として、もよりの駅「上大河」(かみおうこう)付近は繁華街でもあった。(一杯飲み屋はもちろん、代書屋:書類や申請書の代筆を行う、写真館、食堂などありとあらゆる店が軒を並べていた)
この駅は県庁関係者はもとより、旧・被服支廠に隣接している県立皆実高、県立工業高、進徳女子高、女子商業高、比治山女子高、市立工業高、広大東雲中など多くの生徒も利用し、ちょっとしたスクールゾーンでもあった。
同時に、被服支廠に通う職工相手に拓けた皆実町商店街(電停:専売局を基点として、被服支廠正門につながっていた)は、そのまま県庁への道として繁栄した。(現在、さびれた一本の道として残っているが)
蛇足になるが、峠三吉はこの商店街の入り口で、生活のため(日記にはそう記している)露店の「みどり洋花店」を開いたが失敗(一九四五年一〇月)。同じように、一九四六年、猿猴町で貸本屋「白楊書房」を開き、妻となる原田和子と知り合うことになる。
あまり記憶されていないが、被服支廠正門近く(進徳女子高校南)にはシュモーハウスが建てられた。米国のフロイド・シュモー氏は原爆投下に心を痛め、住まいを失った広島の人々のために家を建てる活動をすすめ、皆実町、江波町、牛田町に一九棟を学生などの協力を得て建設シュモー住宅とよばれた。(現在、江波二本松に一棟残り、平和記念資料館附属施設として使われている)

峠三吉の活動を中心にしたきらいがあるものの、旧・被服支廠を中心に、翠町、県庁(旧・兵器支廠)、青年会館(旧・電信隊将校集会所)などを切り結ぶと、ささやかながらあの時代の息吹が伝わってくる。
 愛惜を込めあの時代をなぞったつもりである。
 旧・被服支廠は戦後、師範学校の授業、寮、図書館、運輸会社の倉庫などとして使われ、いわば復興の一翼を担ってきた。その建物を充分な議論のないまま取り壊すことを許してはならない。(被服支廠同様、峠三吉が住んだ「平和アパート」も危機に瀕している)今こそ有効活用の道を!