英語能「Pae Pon-gi」― 沖縄の日本軍性奴隷ペ・ポンギの亡霊に遭遇する元日本兵
私は2019年に出版した自著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』の中で(341-350頁)、戦争の被害者の「痛み」に深く自己の情操を働かせながら戦争の記憶を継承させていくためには、日本の伝統芸能である能楽がひじょうに有効な文化的手段となりうることを、多田富雄が作った幾つかの夢幻能に焦点を当てて、できるだけ簡潔に論じでおいたつもりである。(2023年出版の英文拙著Entwined Atrocities: New Insights into the U.S.-Japan Alliance の第9章の中でも、そのことをさらに詳しく述べたつもりである。)
日本語の自著執筆が終わった直後から、私は日本軍性奴隷制の被害者になった女性をシテ(主役)とする新作能が作られ、日本だけではなく世界各地で演じられるべきだと考えるようになり、そのことを知人の2人の能楽師にもお伝えしたこともある。2021年11月、そんな私に、アメリカのノースカロライナ州立大学教授の戴英華(たい えいか)さんという(日本による台湾植民地化問題や「慰安婦」問題の研究専門家)からメールがあり、同じ大学の彼女の同僚に演劇の研究者で能楽師でもあるGary Mathews (ガリー・マシューズ)という教授がおられ、彼が沖縄の「慰安婦」ペ・ポンギさんをシテとする英語の夢幻能の脚本を最近書き下ろしたので、読んでもらってコメントをいただけないかという依頼を受けた。
戴英華さんは台湾出身の父親と日本人の母親を両親として、日本で生まれ育ち、アメリカに留学して人類学を専攻され、その後ずっとアメリカの大学で教えておられるとのこと。ガリーさんは、若い頃は長年バレーをやり、またギリシャ語、ラテン語にも精通しており、能楽と同時にギリシャ悲劇もやるという実に幅広い文化活動に関わっておられるように思えた。日本ではあまり知られていないが、実は能楽とギリシャ神話にはかなり共通性があり、例えばMae Smethurst, Dramatic Action in Greek Tragedy and Noh: Reading with and beyond Aristotle というアメリカ人女性による優れた研究書も出版されている。外国人の能楽研究者としては、長年日本に住んで能楽を研究するだけでなく、外国人に能楽を教える「シアター能楽」という演劇集団を率いる武蔵野大学文学部教授Richard Emmert (リチャード・エマート) さんがおられるが、ガリーさんはエマートさんから能楽を習ったそうである。沖縄の「慰安婦」ペ・ポンギさんをシテとする英語の夢幻能は、どうもこのお二人の共同制作ではなかろうかと私は考えた。
脚本執筆の元になったのは、川田文子さんの著書『赤瓦の家:朝鮮から来た従軍慰安婦』だとのこと。私も川田さんとは松井やよりさんを介して知り合いとなり、しばしば文通もしていたので、「脚本を読ませていただきます」と直ぐに返信。川田さんのこの著書は、ペ・ポンギさんが体験した言語に絶するような激しい「性虐待」と「貧困」の悲惨な生涯に焦点を当てることで、日本の植民地支配や軍事占領下におかれた地域の多くの女性が日本軍性奴隷として強いられた狂気のような凄惨さを抉り出した、名著であると私は考えている。軍性暴力の「狂気」を、その「狂気」ゆえに死後も幽冥界を彷徨い続けなければならない一人の女性の亡霊が発する言葉で、我々に直に伝えてくれる ― そのような夢幻能の脚本執筆のためには、最も理想的な作品だと私も考えていた。
私自身にはとても新作能の脚本を書けるような能力はないので、この分野で他人の仕事にコメントをするというのはおこがましいとは自分では思ったのであるが、日本軍性奴隷の被害者女性たちの証言についてはかなり読みあさったので、少しは役に立つだろうと思い引き受けた次第である。送っていただいた脚本に目を通したが、正直なところ、まだまだ改良の余地があると思い、少々厳しいと思われるコメントをつけさせていただいた。私にだけではなく、他の方たちにもコメントを依頼されているであろうから、私は忌憚のない意見を述べさせていただいた。川田さんの著書を元にしているとはいえ、まだ出来あがってもいない脚本なので、川田さんには私はこのことはお伝えしないままにしておいた。
その後、アメリカのお二人からはしばらく連絡がないままで、2023年4月にはひじょうに残念なことに川田さんが亡くなられたという悲報を受け、「夢幻能ぺ・ポンギ」は未完成に終わるのかと残念に思っていた。ところが嬉しいことには、昨年12月にガリーさんから再びメールがあり、長くかかっているが脚本執筆は諦めたわけではなくいまだ進行中で、2025年秋には、完成版ではないが「未完成版」の試作として上演することを考えているし、将来は、広島、台湾、韓国、アメリカでも上演できればと願っているとの知らせであった。さらに驚いたのは、英華さんとガリーさんは実は30年にわたり内縁状態にあったが、退職して昨年2月に鎌倉に移住するにあたり、正式に結婚したとのお知らせであった。鎌倉は言うまでもなく能楽が盛んなところであるので、お二人の新作夢幻能の制作にはさらに磨きがかけられるだろうと期待していた。
そして今月9月2日に英華さんからメールがあり、いよいよ英語夢幻能「Pae Pon-gi (ペ・ポンギ)」が鎌倉能楽舞台で「試作演技」の形ではあるが10月20日に上演されることになったというお知らせを、告示チラシを添えて送っていただいた。ガリーさんからは大幅に修正された、というよりは全く新しい英語脚本を送っていただき、それに目を通した私は素晴らしい出来に驚き感激した。ガリーさんご本人も言われているように、まだまだ改良できる可能性を秘めた脚本ではあるが、この試作版でも十分に能楽堂で上演する価値があると私は思う。こうした試作上演を通して改良を重ね、近い将来、この夢幻能が世界各地で上演され、日本の軍性奴隷制度がどれほど酷く女性の「性」をむさぼり「生命」を侮辱したのかを炙り出すことで、世界さまざまな地域で武力紛争が起きるたびに必ず引き起こされる軍性暴力がいかに人間にとって哀しいことであるのかを、単なる知識ではなく深く心の内に刺さる「痛み」として多くの人に受けとめてもらえることを願ってやまない。
日本軍性奴隷(いわゆる「慰安婦」)をテーマにした世界初のこの夢幻能の公演の詳細は、下記のURLでダウンロードできるチラシをご覧いただきたい。なお、謡は全て英語であるが、ストーリーの場面ごとの概略を日本語で説明したものが当日配布されるとのこと。シテを務めるのは英国人女性、ワキは日系米国人、そのほかにも台湾やアメリカから参加する文字通り国際的な能楽のパフォーマンスである。ぜひとも観覧をお勧めしたい。
https://drive.google.com/file/d/1APWkmOXg2M8LjxGHMhX_9jQouKbT77gj/view?usp=sharing
次回は、杉本博司の創作による夢幻能「巣鴨塚 ハルの便り」について私見を述べてみたい。
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