- 「桜を観る会」、「森友学園問題」から考える –
日本人の「責任感」は「正義感」ではなく「服従意識」と絡み合っている
映画監督、脚本家、俳優、エッセイスト、挿絵画家と才能豊かな人物であった伊丹万作(1900〜1946年)が、亡くなる5ヶ月ほど前の1946年4月に執筆し、同年8月の雑誌『映画春秋』創刊号に掲載された論考「戦争責任者の問題」は、今も頻繁にあちこちで引用されている秀作であるので、ご存知の方たちも多いはず。とくに下記の部分は、何度読んでも考えさせられる文章である。少し長くなるが、引用しておきたい。
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知っている範囲ではおれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。…… たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというにきまつている。……
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。それは少なくとも個人の尊厳の冒瀆、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。
(強調:引用者)
敗戦後8ヶ月しか経っていないときの執筆なので、戦争責任に対する深い思いが込められた文章となっている。これと実に対照的な興味深い声明文を、占領軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が、同じ年の9月2日に出しているが、それは、戦艦ミズーリー号艦上での日本降伏調印式1周年を記念するものであった。この声明文の中でマッカーサーは「(敗戦が日本人にもたらした)精神革命が、2千年間という長い歴史、伝統、伝説の上に築かれていた(日本人の)生活の論理と実践を、ほとんど一夜のうちに粉々に打ち砕いてしまった」と述べ、占領軍が行った「日本民主化」政策が日本人を決定的に変えてしまったのだと主張し、占領政策を自賛した。
伊丹とマッカーサーのどちらが日本人を正しく理解していたかは、日本の我々をとりまくその後の様々な出来事を一瞥して見るだけで明らかであろう。「だまされていた」といって平気でいられるままの国民であったため、この75年の間、日本国民は次々と政治家の言うことにだまされてきたことは、「非核三原則」や「原子力安全神話」という言葉を思い浮かべるだけで十分で、詳しく説明するまでもない。敗戦と占領軍による「民主化政策」で「精神革命」が起きたなどとは、我々には夢にすら思えない。それとも、マッカーサーだけが見た夢だったのか(苦笑)。
伊丹は、「だまされていた」と平気で言えることは、自己の「責任」を放棄しているのだと主張し、「責任を追求しない」ことは「支配者に対する奴隷根性」の結果であり、「悪を憤かる精神の欠如」にもよるものであると述べているわけである。「支配者に対する奴隷根性」とは「権力者に対する服従意識」、「悪を憤かる精神の欠如」とは「正義感の欠如」とも言える。つまり、「責任」とは、結局のところ、自分の身の廻りで起きていることで「正義が行なわれること」を確実にする義務が人間にはあり、その正義の遂行義務を果たすことが「責任」であると言える。したがって、「反正義的な行為」に対して憤かりを感ぜず、「反正義的行為を平気で自分でも行い、他者にも強要する」人間に自分が服従することは、実は「責任を放棄」していることなのである。この「責任」と「正義遂行」の密接な相互関連性が、どうも日本人一般には明確に理解されていないように私には思えるのである。「責任」と「正義」は表裏一体になっていることが、理解できていないようである。
例えば、安倍晋三の「桜を観る会」で、会費で賄えなかった多額の費用を不法に安倍個人が補填していたことがようやく判明し、政治資金規正法違反の疑いで秘書を立件することを東京地検特捜部が決めたとのニュースが流れた。不記載額が4千万円を上回るという。親分が不正をやっていることに盲従すること、あるいは親分に不正行為を強要されて服従する奴隷根性的行為は、従って、実は「責任放棄」なのだが、それが秘書には「責任放棄」であるとは全く考えられていないようである。むしろ親分に奴隷根性的に忠誠を尽くすことが、子分の「責任」であると考えられている。同時に、子分に不正行為を強要することが「責任放棄」であり、子分に対する「人権侵害」でもあるということが、親分にも全く理解されていない。
森友問題では、そのことがもっとはっきり言える。森友学園への国有地売却に関する資料改竄を、財務省の理財局長であった佐川宣寿が近畿財務局に命じ、その仕事を自分がさせられたという内容の手記や遺書を近畿財務局職員であった赤木俊夫が残して自殺。この事件に安倍自身あるいは妻の昭恵が直接関与していたかどうかは、今のところ明らかではない。しかし、もしこの改竄行為を佐川が安倍への「忖度」として部下に強要したのであれば、これは伊丹の言う「支配者に対する奴隷根性」そのものである。この「忖度行為」が言うまでもなく「反正義的行為」であり、すなわち正義に対する「責任放棄」なのである。
部下に不正を強要し、精神的に非常な苦痛を与え、最終的に死にまで追いやった残酷極まりない不正行為は、もちろん「責任放棄」であり、明白な「人権侵害」である。財務局のこの不正行為に対して徹底的調査を行おうとしない財務大臣、麻生太郎もまた、最初から「責任を放棄」している。結局、誰も責任をとらず、責任を放棄した本人である佐川は、「忖度」に対する見返りなのか、国税庁長官に昇進させられた。伊丹のいう「無自覚、無反省、無責任」という「悪の本体」が財務省そのものを侵食しているのである。おそらく、状況は他の省庁内でも似たようなものであろう。
亡くなった人には厳しい言葉かもしれないが、しかしながら、改竄行為を強要されても、その不正行為強要に対してあくまでも抵抗せず、結局は服従してしまった赤木も「責任放棄」したことは明らかである。彼もまた、不正行為の強要であることをはっきり自覚しながらも、上から命じられたことには苦しんでも服従するのが自分の「責任」であると生真面目に考えていたものと推測される。
この「上司に対する服従」は、戦前戦中から、天皇制イデオロギーの重要な要素として長く日本人の精神に叩き込まれてきたものであるが、敗戦後の「民主化」でもそのまま継承され続け、今も極めて日本的価値意識体系の要素を成しているように私には思えてならない。自殺に追い込まれるまで苦しんでも上司の命令に服従するなどというのは、他の国では極めて稀なのではなかろうか。日本では、なぜ抵抗しないで服従してしまうのだろうか。
憲法12条は抵抗権を保障している
戦後改正されたいわゆる「民主憲法」である現行憲法の12条には次のように書かれている。
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。 又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。(強調:引用者)
権利、とりわけ基本的人権の尊重は、これまたあらゆる人間にとって「責任」である。なぜなら、それは根本的には「正義」の遂行であり、基本的人権の侵害は正義に反する「不正行為」であるから。憲法12条は、その基本的人権を含む権利を侵すような不正行為を、常日頃から努力して防ぎ、人権を守る義務が我々にはある、と主張しているのである。12条が憲法第3章「国民の権利及び義務」に入れられているのは、そういう理由からである。
ではどうしたらその義務を我々は果たせるのであろうか。答えは簡単である(実践は難しいが)。それは、権利侵害の不正行為に抵抗すること、これしかない。したがって、この12条には、「抵抗」という言葉が使われてはいないが、文意からすれば、「抵抗する権利」が我々には保障されており、「抵抗権を使って権利・人権を守る義務が我々にはある」と解釈すべきだと私は思っている。つまり、この12条には、「抵抗」は権利であると同時に義務であるという意味が含まれていると考えるのが当然なのである。抵抗の権利と義務は、したがって正義遂行のためには必要不可欠のものなのである。したがって、権利侵害に抵抗することは人間としての「責任」なのである。
私は憲法学者ではないが、12条をそのように解釈すべきだと信じている。このような解釈を法的にもっと精緻に展開していた憲法学者は、同志社大学教授であった田畑忍(1902〜94年)であったと思われる。田畑の解釈が憲法学者たちの間で多数派意見を代表するものなのかどうか、私は知らない。しかし多数派であれ少数派であれ、この解釈は正しいと私は思っている。ただし、「抵抗」はあくまでも平和的手段で行うべきであり、暴力的抵抗は相手の人権を侵害する不正行為となってしまうため、絶対に許せない。
上に述べた安倍晋三の秘書や近畿財務局の赤木俊夫は、自分たちの人権を侵害する上司の不正行為強要に対しては、あくまでも憲法12条の「抵抗権使用の権利と義務」を全面的に打ち出す形で抵抗すべきだったのである。それが本当の「責任」のとり方である。
ドイツ憲法には、国民が抵抗権を保有していることが明記されている。憲法第20条「国家秩序の基礎、抵抗権」の第3、4項は以下のようになっている。
3)立法は、憲法的秩序に拘束され、執行権および司法は、 法律および法に拘束される。
4)すべてのドイツ人は、この秩序を除去しようと企てる何人に対しても、他の救済手段が存在しないときは、抵抗権を有する。 (強調:引用者)
ドイツ国民は、この抵抗権の保障をしっかり知識として共有しているのではないかと私は推測する。そのことは、例えば、福島原発事故が起きた翌日に、ドイツ全国各地で原発即時停止を求める大規模デモが続き、一挙に政府方針を変えさせてしまった事実にも表れていると思われる。それは、ドイツ独自の歴史教育に根ざす、政治体制への市民の基本的な立ち向かい方の具体的な表れのように思える。政府が根本的な誤りを犯す危険性が出てきたときには、国民は「抵抗権」を使って厳然として立ち向かうという態度、それは歴史教育から無意識のうちに培われたものではないか、というのが私の推測である。
しかし、こうしたドイツの国民性は戦後の長年の持続的な教育の中で培われたものであり、もともとあったものではない。そのことは、例えば、アメリカの著名な小説家・劇作家、カート・ヴォネガットが友人のドイツのノーベル文学賞受賞者であるハインリッヒ・ベルに「ドイツ人の国民性のいちばん危険な弱点はなにかね」と尋ねたとき、ベルが「服従性だね」と応えたとのこと。これは1983年のことであるが、戦後38年経ったそのときですら、ナチ政権下でドイツ国民のナチスへの全面的な服従行動をイヤというほど見せつけられたベルには、まだまだその弱点がひじょうに気になっていたようである。
ハインリッヒ・ベル |
反正義に対する抵抗権は、憲法に書かれているから良いというものではない。その明文化されている憲法条項を、いかにしたら自分たちの血肉として身につけることができるか、それが重要である。
天皇制イデオロギーを引きずっている日本の「人権、平等」観念
ところが、日本での問題は、この「抵抗の権利と義務」ということについて誰も我々に教えてはくれない。学校の授業でも、憲法については「基本的人権」とか「自由と平等」については習うが、子どもたちに「抵抗する権利」があるなどと教えるのはけしからん、と政治家も文部科学省の官僚たちも考えているようである。とりわけ自民党議員たちは、自民党の時代錯誤的な憲法改悪案、とりわけ憲法97条「基本的人権の保障」をスッポリ削除し、代わりに「国民の義務」を強調していることからもはっきり分かるように、近代国家の憲法では必然的な「基本的人権の尊重」が頭の中にはない。ましてや、「抵抗権」を使って国家に逆らうなどという人間は非国民だと考えているのは間違いなかろう。自民党憲法改悪案は、まさに明治憲法への逆戻りであり、天皇制イデオロギーを強く引きずっていることは一目瞭然。こんな憲法を採用したら世界中の笑いものになる、という意識すら自民党員にはないのである。恥を知らないということは、恐ろしい。
しかも、学校の授業で教えている「基本的人権」と「平等」の教え方そのものが、すでに上に述べた自民党の考え方に沿った形となっている。基本的人権を含む権利の主張を堂々と行うようなケースは、「わがまま」であると捉えられているのであろうか、教えの中では出てこない。また、基本的人権を教える場合には、当然、その侵害がいかに由々しい問題であるかを教えなくてはならないが、実際に人権侵害を受けている在日韓国・朝鮮人や難民家族などについては全く触れることなく、人権という概念が極めて抽象的なものとしてしか授業の中ではとりあげられていないようである。障害者のような社会的弱者の権利についても、本来ならば、どのようにその人たちの権利が守られなければならないかを議論しなければならないのに、「障害者には親切に、思いやりを持って接触しよう」という道徳問題としてのアプローチに終わっている。
「思いやり」で「差別」や「人権侵害」が克服されることはない。なぜなら「思いやり」と「差別」、「人権侵害」は常に同居しているからである。民族差別、性差別、障害者差別、貧困者差別など様々な差別は、社会構造とイデオロギーに由来する人権問題であって、本来は「思いやり」といった「心の問題」ではない。差別をそのままにしておいて、人権意識を強化する教育ができるはずがない。
「平等」すなわち「人間みな平等」という考えは、もちろん憲法14条の「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」という規定に基づいて教えられなければならない。しかし、実際に学校で、先に述べた在日韓国・朝鮮人、難民や外国人労働者とその家族、被差別部落民に対する差別などを具体的な例にしながら、いかにこの「法の下の平等」が重要であるかというような教え方は、果たしてされているのであろうか。政府、とりわけ文部科学省が朝鮮人学校に対して激しい差別政策をとり、難民家族の子どもの権利も守ろうとはせず、女性に対する差別の解消にはいつも口先だけで極めて消極的。政治家や官僚はセクハラのし放題。そんな状態であるから、ヘイト・スピーチが全国各地で頻繁に起きるのも全く不思議ではない。よって、学校での「法の下の平等」の教え方が形式的、形骸的なものにしかならないのも当然なのである。
しかも、現実には、「人間みな平等」という考えが「基本的人権の尊重」を土台にしたものとして捉えられていないことも問題なのである。「人間みな平等」とは、個人の人種、社会、家族的背景の違いだけではなく、考え方の違いや個人的嗜好の違いにもかかわらず、その人の基本的人権はあくまでも尊重されなければならないことを意味している。ところが、日本の学校では、クラスの中の多数派の意見や考え方とは違った意見を強く主張すると、これまた「わがまま」、「協調性」がないと嫌われ、そうした態度を取り続ける子どもは「いじめ」の対象とされ、排除される。
日本では、「平等」が「平均」と同義語として捉えられる傾向が非常に強く、クラスであろうと会社や組織、あるいは社会などの「大勢」には従順的、服従的でない人間は排除される傾向が極めて強い。「平均的人間」にならないと、日本ではひじょうに生活しにくい(とりわけ私のような「変人」には<笑>)。社会が個人化する傾向がひじょうに強まっていると言われているが、実は、その傾向は「個人化」ではなく「孤立化」である。「個人化」の場合は、人権を尊重しあいながら、精神的には互いに独立した諸個人の人間同士の横の繋がりは切れないままなので、諸個人間の社会化、連帯化は少しも弱まらない。社会から排除され、人間関係を失った人間は人権を無視されて「孤立化」するが、日本の場合は、この「孤立化」傾向が猛烈な勢いで強まっている。
日本社会での深刻な問題の一つである「学校でのいじめ」は、まさにこの「平均尊重」から起きる「孤立化」と言えるのではないか。2018年の統計数字によると、報告された日本全国の学校での「いじめ」の件数は全国でほぼ54万4千ケース、22万人近くの子どもたちが登校拒否、自殺者は332人。「いじめ」られるのは、子どもたちだけではない。文部科学省の学校教育政策に反抗する教師もまた、同僚や校長による「いじめ」の対象とされる。学校での「いじめ」は海外諸国でも見られるが、これほどまで深刻な社会問題にまでなっている国はないと思われる。
「平等化」実は「平均化」という大勢(=体制)服従強要傾向も、よく考えてみれば、これまた戦前戦中の天皇制イデオロギー、とくに「一君万民(=天皇の下に国民は全て平等)」の服従思想を引きずっている「天皇制イデオロギーの遺制的要素」と言える。
現行憲法の三大原理は、憲法前文でも謳われているように、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重である。ところが憲法が発布された直後の政府の公式発表による憲法の三大原理は、国民主権、平和主義、文化国家建設であった。憲法公布日が「文化の日」とされたのも、これが理由である。つまり、日本政府は、 憲法発布当初から「基本的人権」を認知することに後ろ向きであったことがこのことから分かる。しかも、いまだに「文化国家」と呼べるにはほど遠い、恥ずかしい反文化的な政府の国である。最近の日本学術会議会員任命拒否問題は、政府の破廉恥な反文化的行為の典型的な例である。
結論:日本の歴史教育と責任感・正義感の問題
日本の歴史教育では、ほとんど古代から現代までの単に歴史的事実だけを年代別に羅列し、それを暗記するという通史という教え方が、戦後これまで一貫して行われてきた。しかも、その歴史的「事実」すら、教科書検定制度という国家介入、畢竟、政府と保守政党のイデオロギーに基づく恣意的な判断で、教科書から削除されるということが頻繁に行われてきた。とりわけ、安倍政権下でのこの点での学校教育への国家介入は、凄まじいものであった。安倍が「慰安婦」や「徴用工」の歴史事実を否定し、日本の戦争責任をうやむやにしようと様々な画策を行ったこと。「私の責任」と言いながら、森友、加計、「桜を見る会」など自分が直接関与している一連の政治汚職問題について、一切責任はとらなかったこと。つまり、これらの問題に対する虚妄まみれの安倍の対応には、社会的、政治的な正義感や責任感のカケラすら感じられなかった。安倍親分から政治屋ヤクザ集団を受け継いだ菅政権は、親分がやったことをそのまま繰り返していることはすでに明らか。この事実は、単なる前政権と現政権の正義感と責任感の堕落という政治問題ではない。それは、日本の子どもたちに、人類普遍的な意味での、強い正義感と責任感を育むような教育が戦後これまで行われてこなかったこと、その日本の教育問題と深く絡んでいることを私たちは、はっきり認識する必要がある。
正義感を養うためには、不正=罪に対する深い認識が必要であるが、日本の場合、侵略戦争で犯したさまざまな残虐な戦争犯罪という罪に対する責任認識を国民的規模で深めること、とりわけ教育で深めることを、戦争直後から怠ってしまい、その後ずっと怠ってきた。「民主主義教育」と言いながら、上に見たように「自由と平等」については形式的には教えても、その根本的な精神要素である正義感と責任感の問題には、教室ではほとんどタッチしてこなかった。不正=罪に対する深い認識の上に立った正義感、責任感、さらにその責任を果たすための抵抗権は、現在の政治社会状況に立ち向かうために必要なだけではなく、どのような未来を作るのか、その未来に向けての私たちの「倫理的想像力」を養うためにも不可欠である。自分たちの両親、祖父母、それ以前の世代が犯した「国家的不正=罪」の被害者の痛みに想像力を働かせ、その痛みを自分たちのものとして共有し、内面化することで、将来、同じような不正を自分たちも犯さないし、また誰にも犯させない、という「倫理的想像力」を身につけるためには、正義感と責任感、それを担保し実現するための抵抗権は不可欠なのである。
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