一時帰国を終えての報告を兼ねて
(1)一時帰国を終えての報告
(2)拙論「液状化社会、ポピュリズム現象と天皇絶賛現象の関連性」
(1)一時帰国を終えての報告
昨日、2週間という短い一時帰国を終えて、猛暑の日本から寒い冬のメルボルンに戻りました。例年のように、8月5日の「8・6ヒロシマ平和へのつどい 2019」と、6日早朝の原爆ドーム前「ダイ・イン集会」から中国電力本社前までのデモと反原発集会に参加。
5日の「つどい」の今年の講演者・鵜飼哲さんの講演「今、<反核インターナショナリズム>を考える ― 広島・福島・オリンピック」では、一見関係が薄いような、日本の対北朝鮮政策を含む核政策、福島原発事故と来年開催予定の東京オリンピックが、実際には深く政治的には関連しており、オリンピックが安部政権によっていかに謀略的に政治利用されつつあるのかが、明確に解説されました。
ちなみに、この集会で私は今年で「つどい」代表を辞任することを伝えました。17年前に広島平和研究所に赴任して間もなくから「つどい」に関わるようになり、この11年間は代表として毎年の「つどい」企画に関わってきました。しかし、2015年3月末に退職してからのこの5年間は、広島を遠く離れたメルボルンに住んでいることから、事務局会議にもほとんど出席できず、主として事務局スタッフとのメールでのやりとりでなんとか任務を果たすように努めてはきました。この実質18年の間、さまざまなことを学ばせていただき、活動家仲間のみなさんには深く感謝していますが、代表が広島に在住しておらず、事務局会議にも出席できないという状態では、どうしてもコミュニケーション不足となり、いろいろ誤解も生じることが避けられません。そこで、今年をもって辞任することを決めました。市民運動にとってたいへん困難な現在の状況の中、長年続いてきた「つどい」が、今後も広島と日本全国の反核平和運動で重要な役割を果たしていくことを切に願っています。
同じような理由で、「日本軍『慰安婦』問題解決ひろしまネットワーク」の共同代表も辞任することを、7月に「ネットワーク」の事務局にお伝えしておきました。しかし、今回の一時帰国中に開かれた事務局会議でいろいろみなさんと議論した結果と、現在の日本での(名古屋での「表現の不自由展」中止事件を含む)「元『慰安婦』バッシング」や、「日韓合意」をめぐる日本の戦争責任を忘却するどころか隠蔽したとも言えるような安部政権の厚顔無恥な対応などを考えて、広島を遠く離れてはいても、やはりこの問題では主として執筆活動を通して共同代表としての任務を果たすことを続けていくべきだと考え直しました。よって、今後も、「ネットワーク」の共同代表は続投させていただきます。
8月9日夕方からは、札幌で市民運動に関わっておられる松元保昭さんと様々な市民運動団体のお仲間のみなさんからお招きをいただき、9日夕は、「元『慰安婦』バッシング」の現状についての意見交換、とりわけ広島と札幌での状況に関する情報交換と対応策について小グループの勉強会に出席させていただきました。このバッシング問題は、広島より札幌のほうがはるかに深刻な状況にあることを知り、具体的にどのような対応策をとっていくべきかを早急に考え出し、その対応策を実践していくことが必要であることを、あらためて痛感しました。
翌10日午後、「いま考えよう、万人平等と天皇制」という題で講演させていただきました。前日9日に発売された『週刊金曜日』敗戦特集号には、私が「8・6ヒロシマ平和へのつどい」事務局の久野成章さんとの連名で今年元日に発表した「退位する昭仁天皇への公開書簡」の抜粋版と、松井隆志さん(武蔵大学准教授)が書かれたひじょうに簡明で分かりやすい書簡解説が掲載されました。会場ではこの『週刊金曜日』特集号が販売され、『週刊金曜日』社長の植村隆さんにまで出席していただき、ご挨拶をいただくという幸運に恵まれました。90名少々しか入らない会場に130名を超える人におこしいただき、しかも開会のご挨拶を、私が日本で最も尊敬する知識人のお二人のうちのお一人である花崎皋平さんにしていただくという光栄にも浴し、実に嬉しく、また感謝の気持ちでいっぱいです(尊敬するもうお一人は武藤一羊さん)。
札幌講演を盛況のうちに終えることができたのは、ひとえに松元さんをはじめ多くの市民活動家のみなさんのご助力によるものでした。そのことを明記して、再度深くお礼を申し上げます。
(2)拙論「液状化社会、ポピュリズム現象と天皇絶賛現象の関連性」
「8・6ヒロシマ平和へのつどい 2019」会場でも、また札幌の講演会でも、この拙論の初稿コピーを配布させていただきました。しかし、この拙論について説明させていただく時間は、残念ながら両会場でとも全くありませんでした。ここに紹介させていただく下記の論考は、昨日、メルボルンに戻る飛行機の中でもう一度見直して少し修正を加えたものです。
私は社会学者ではありませんので、社会学者であったジークムント・バウマン(1925〜2017年)の「liquid modernity 液状化現代」という概念を応用した私の現在の社会状況の分析と、それに基づく「天皇絶賛現象」分析がどこまで妥当なものであるのか、正直なところあまり自信はありません。したがって、この論考は実際にはいまだ試論といった内容の未熟なものですが、読者のみなさんから忌憚のないご批評をいただき、さらに練り上げていければと願っています。
液状化社会、ポピュリズム現象と天皇絶賛現象の関連性
田中利幸(歴史家)
新自由主義とグローバル化の影響
1980年代から米英両国を皮切りに、またそれに続き、その他の先進諸国でも強力に進められた経済自由化、その後間もなく、そうした自由化に推進される形で1990年代から始まったグローバル化と、これまた急速に発展し始めたIT技術の応用と拡散によって、世界の政治・経済・社会状況は、この40年近くで驚異的な変貌をとげてきた。
かつての「福祉国家」的体制では、国家が社会保障・社会福祉政策や経済政策による介入を通じて、社会的資源を国民に再配分することで経済格差を是正する努力が、不十分ながらもなされていた。しかし、1980年代にアメリカのレーガン政権やイギリスのサッチャー政権が強力に推し進めた新自由主義政策の浸透以降、国家は、規制緩和や民営化によって社会への介入をさしひかえ、代わって、グローバルな経済の動きに適応するための柔軟性をさまざまな次元で促進する傾向が強まった。そのため、グローバルな経済の進展によって、貧富の格差の増大や雇用の不安定化といった問題が世界各国で生じてきたが、国家が単独でそれに対処し、問題を根本的に解決することが困難になってしまった。
さらに、IT技術の進歩によって多くの従来型の単純労働型技能が不要となり、それと並行する形ですすんだグローバル化によって、先進工業諸国の生産拠点が海外に移されることで、国内の雇用の機会が奪われ、同時に新興国の生産技術の向上によって先進諸国の競争力が低下した。金融投資の自由化がこの経済構造の急速な変化をさらに加速させた。その結果、先進諸国のみならず新興国の国内でも「勝ち組」、「負け組」という貧富の差が急速に拡大し、少数の超富裕層に富が集中し、中間層は劣化し、低所得層のさらなる困窮化という、いわば「社会層の二極分解化」とも呼べる現象が起き、今もこの現象は進行中である。
各国政府が大企業と一体となって推進した「自由化」は、経済活動に様々な形での規制緩和をもたらすもので、企業にとっては多種の規制からの解放を意味していたが、個人にとっては「個人の安全を犠牲にした自由化」、すなわち社会サービスや国家からの保護を失うのと引き換えに与えられた「自由」であった。しかし、その「自由」は、安定と自立を伴わないものであった。したがって、規制緩和の中での「発展」、「成功」と「生活向上」は個人の努力次第、すなわち「自己責任」によるという考えが一般的となり、その結果、社会的責任を負うことに消極的となった政府の政策にたいして期待しないという、個々人の思考と生活の非政治化=政治への無関心化をもたらした。日本では、小選挙区制という民意を反映しにくい選挙制度もあって、政治への無関心の度合は、海外諸国と比較して、とりわけ高い。
労働組合も「自由化」で弱体化し、かくして、本来は労働者全体のために社会的な解決策を見つけてそれを様々な状況に応用しようという組織的な共同作業が崩れ、個人はバラバラになり、グローバル化と自由化の中で生き残るためには、自らが保持する知力、技能や資力をフルに活用しなければならないという事態となった。そうした個人行動が目指すべきものは、もはやよりよい社会を作ることではなく、自分にはとうてい変えることのできないその社会の内部で、個人的に自らの立場をできるだけ改善することのみとなった。したがって、政党や労働組合その他の社会集団が、社会変革に向けた集団的な取り組みを行い、その恩恵を多数で共有するということがますます少なくなり、もっぱら個人が競争の成果を享受するという事態が、企業、官公庁、公共団体をはじめ様々な組織内で起きている。
常に急速に変化する現代社会に臨機応変に対応する者は、生き延びて「勝ち組」に入り「富める者」になれるが、それができない者は「負け組」となる。しかし、このような変動社会では、今は「勝ち組」に席を確保している者であっても、いつ「負け組」に転落するか分からない。かくして、我々は「終わりなき椅子取りゲーム」という生活に追われる。このように常に変化し続ける社会では、制度や価値観もまた崩壊し、モラルは空洞化する。こうして、社会の様々な局面で堅実な人間関係が溶解してしまい、我々は深みのある人間関係を再構築できなくなってきている。
液状化する現代社会
そのうえに、仕事と生活の両面での急速なIT化が、人間のさらなる孤立化と、コンピューターによる人間支配をますます促進している。コンピューターの驚異的な発展と利用拡大によって、今や、私企業の従業員であれ公務員であれ、とくに多くのホワイト・カラーはコンピューターを使って上司、同僚や部下とつながっている。コンピューターに打ち込まれた各人の作業が相手に送られ、チェックされ、自分に戻ってくる。そうした幾つもの同じような作業が、一グループに所属する複数の人間との間で繰り返され、共有される。かくして、個人はそのコンピューター網の中に取り込まれて仕事を進めるより他に手段はなく、そのコンピューター網の中では自分のアイデンティティーや個性といったものは不要であるどころか、迅速な仕事の遂行を阻害するものとして排除されなければならない。こうして、職場での人間関係は、相手の個人性=アイデンティティーを相互に認め合うようなものではなくなり、コンピューターによる「コミュニケーション」を通して、コンピューターに制御された「人間関係」となっている。真に深みのある人間関係を築くには、相手の個人性=アイデンティティー、すなわち価値観を尊重することが不可欠であることは言うまでもない。しかしながら、現代の職場においても、このように、我々は相手の価値観を相互に認識し合うような、深みのある人間関係をますます築けなくなってきている。
コンピューターの影響は、単に職場の人間関係に及ぼすだけにとどまらない。「リアルタイム」で活用可能な携帯電話の氾濫によってアクセスできるようになったインターネットが、人間社会に与えている影響も極めて大きい。インターネットによって、遠隔地の複数の人間と即座に交信が可能になったその驚くべき便益を我々が享受しており、個人生活面だけではなく社会的にも、人間社会がこの技術から多くの恩恵を受けていることは否定しがたい。しかし、同時に、インターネットは、交信し合う者たちを「つながりあってはいても、協力し合わない」という希薄な関係でしか結びつけない危険性を常に大いにはらんでいる。すなわち、インターネットでつながり合った人間同士のその「関係」は、その「つながり」が即時的であるために、表面的で浅薄な関係なものになりがちで、短期間で消滅し、少しでも気に入らなければ、常に新しい「つながりメッセージ」を求めて既存の「つながり」を次々と捨てていくという繰り返しが行われる危険性をはらんでいる(英語の “surf the net<ネット上を波のように動いて探す>”という表現が象徴的)。しばしば、気に入らない見えない相手に、いとも簡単に罵詈雑言(デジタル化されたヘイト表現)を浴びせて優越感に浸る。したがって、現在普及拡大している、真の意味での協力関係を築けないようなインターネットの安易な使用方法のゆえに、インターネットは堅実な人間関係=コミュニティを回復させるどころか、それをますます破壊していくという現象を見せている。
このように、急速に発展してきた新自由主義グローバル化、それに伴う経済自由化やコンピューター/ネット文化拡大の影響で、世界のいたるところで、それまで尊重されてきた価値基準や行動規範がゆらぎ、多様化した。かくして、大多数の人々が共有できるような普遍的な価値基準を求めることが困難になった。そのため、集団的な事業や共同体の活動において、かつては個々人の生活行動や共同活動を結び合わせていた人間的な繋がり=相互依存関係が崩れてしまった。つまり、会社(労働組合)、学校、地域社会、ひいては家族など、さまざまなレベルでの堅実な人間関係=コミュニィティ(共同体)が急速に溶解していった。かくして、世界のあちこちで、嘗ては緊密であった人間関係や堅実な共同体社会が不安定化し、崩れ、壊れ、ふわふわと水に浮いたような、ひじょうに浅薄で軟弱なものになっているという状態、すなわち社会の「液状化」(ジークムント・バウマンの<liquid modernity 液状化現代>という用語をここでは応用する)が今世紀に入って急速に進行し、今もその「液状化」はますます度合いを強めている。
バウマンが述べているように、急速な変化が常に続く「液状化社会では、一時的な状態が永遠につづくだけである。時は流れるが何かに向かって『行進』するのではない。変化、常に変化、そしてまた新たな変化」。こうして常に液体のように流れる急速な社会変動によって、社会には持続性と安定性がなくなり、それにともなう価値観の目まぐるしい変化のゆえに、長期的あるいは全体的見通しを持って物事に対応することが困難となっている。換言するならば、永続性、不変性、共通性という要素を備えた価値観を維持することがひじょうに難しい状況の中で生活することを、我々は余儀なくされているのである。
したがって、その場その場を乗り切るというやり方でないと生き延びることができないため、人は持続的で且つ確固たる自分の価値観(アイデンティティー)を持てなくなってきた。自分がアイデンティティーをもたないということは、しかしながら、無意識のうちにせよ「不確実性に対する不安」、つまり「精神の液状化」ともよべるような状態に常に苛まれるという状態におかれる。かくして、多くの人間が精神的な「拠り所」を失い、永続性、不変性、共通性という価値要素でつながっていた人間関係の紐帯が弱体化し溶解して、真に人間的な「横の関係」をうまく築けなくなり、「うつ病」、「ひきこもり」を病むか「自死」を選ぶ。あるいは、「縦の関係」でしか人間関係を捉えられなくなって、いじめ、パワハラ、セクハラ、ストーカー、家庭内暴力、親による児童虐待、子供による親殺害、などが頻繁に起きるようになってきた。
暴力の液状化
こうして「社会の液状化」は、他者の人間性をいとも簡単に軽く否定してしまうような極めて不安定で危険な人間関係と分断された社会状況を産み出し、その結果産み出された個人的な不満や怒りが、しばしば暴力行為という形で突発的に社会の表面に吹き上がる。しばしば「暴力はそれが実現しようとする目的のためではなく、暴力行為そのものの持つ魅力のために使われることが多い」と言われる。つまり、「暴力の持つ不健全な魅力は、自らの劣等性 - 弱さ、運のなさ、怠惰、とるに足りなさ - に由来する屈辱感から一時的に解放されることにある。悪意は他人を苦しめるためのものではなく、自分自身の喜びのためでもある……どんないじめも、それが他人に向けて自分の力を解き放つ喜びや、優越感という喜びを味あわせてくれる。」(バウマン) したがって、極端な場合は、自己の暴力の対象が、全く知らない路上の大衆であってもよいし、自分が勝手に思い込んだ自分に対する「加害者」であってもよい。2008年6月に起きた「秋葉原通り魔事件」、2019年5月の「川崎通り魔事件」や、同じく2019年7月の京都アニメスタジオ放火殺人事件などは、まさにその典型的なケースであった。
こうした「暴力の液状化」は、今や国際的紛争にも如実に表れている。正当な暴力(安全保障確保のための防衛的暴力)と不当な暴力(国家テロ、組織テロ)との間の線引きを困難にし、国家テロ(とくに無差別空爆)と組織テロ(自爆テロ)の悪循環が世界のいたるところで繰り広げられている。その「暴力の液状化」にもITというテクノロジーが大きく貢献しており、そのことは、遠隔操作の無人爆撃機の活用のように戦闘がコンピューター・ゲーム化し、人間の命がひじょうに軽いものとなったことにも明瞭に表れている。さらに、防衛産業による膨大な量の兵器生産・販売、さらには軍のさまざまな活動までをも民間組織に請け負わせるという、「暴力の規制緩和」が拡大。このように、現在、我々の世界では、「暴力と戦争の液状化」と「社会の液状化」が同時進行中なのである。
液状化現代社会においては、戦争の液状化の結果、国境が液状化し、人間自体が「廃棄物」=難民、亡命者となるし、各国内においてはフリーターや派遣社員のような非正規労働者が職を失った時に「廃棄物」となる。「廃棄物」とは、国際的には、テロの悪循環という液状化現代戦争によって故郷から放り出され、捨てられた人間であり、国内的には、貧富格差が異常に広がった消費社会から排除された人間である。バウマンが適確に述べているように、かくして「新自由主義はわれわれの生活の中に暴力を注入し、政治の中に恐怖心を注入している。逆もまた真なり。新自由主義は政治の中に暴力を注入し、私たちの生活の中に恐怖心を注入している」のである。
ポピュリズムの台頭とノスタルジア現象
液状化現代社会で、大衆が抱いているこのような深い不安と政府に対する強い不満を吸い上げる、あるいは扇動する形で、特定の政党や政治家への支持を一挙に高揚させようとする政治運動、いわゆるポピュリズム(大衆迎合主義)という現象が、最近、とりわけ欧米先進諸国で広がりを見せている。その最も典型的な二つの例が、英国の「EU離脱(Brexit)」運動と米国の「トランプ旋風」であり、両方とも保守というよりは右翼ナショナリズム的と言ってよい運動であろう。
しかしながら、複雑なのは、ポピュリズムが必ずしも右翼的な政治運動には限定されず、左翼的な運動形態をとる場合もあることである。ポピュリズムを利用する右翼的な政党としては、オランダの「自由党」、フランスの「国民連合」やドイツの「ドイツのための選択肢」が挙げられる一方で、左翼党としてはスペインの「ポデモス」やギリシャの「急進左派連合(シリザ)」、また左翼的なポピリズム運動としてはアメリカの「ウォール街オキュパイ運動」、「バニー・サンダース大統領候補支援運動」などが挙げられるであろう。
そうしたポピュリズム運動の主義・主張は様々であるが、左右両翼に多かれ少なかれ共通に見られるのは(1)「反グローバリズムと反自由貿易」と、(2)「反エリート・反既成政党/政治家」の2つであろう。「反グローバリズムと反自由貿易」は、経済グローバル化と自由貿易の強力な推進を、自分たちの雇用機会を奪い所得減少をもたらした破壊的要因として糾弾するものである。「反エリート・反既成政党/政治家」は、一般庶民に対して増税負担を課しながら社会福祉厚生サービスでは縮減を強いる一方で、富裕者には租税支払い回避のための様々な機会を与え、大企業の経営者や重役の超高額報酬を放置している、政府・政治家・経済支配層への激しい批判である。
ただし、「EU離脱(Brexit)」運動では、「反エリート・反既成政党/政治家」は、他の右翼ポピュリズムと比較してかなり弱い要素となっている。「トランプ旋風」の場合は、いまだ共和党という米国の2大政党のうちの保守的な政党に基本的には足場を置いてはいるが、その共和党内のエリート政治家や司法省のエリート(とりわけ司法長官)といった伝統的支配層に対するトランプの敵対心をトランプ支持者が歓迎するという現象が見られる。
「反グローバリズムと反自由貿易」と「反エリート・反既成政党/政治家」の2つの主張は、基本的には、もはや「民主主義」が十分に機能していないという考えに立っているという点で、「民主主義の再建」要求運動という共通の性格を左右両翼がともに強くおびている。その点で、たいへん興味深い現象である。ところが、右派ポピュリズムは、自分たちの伝統的文化と価値観を破壊する移民・難民、とりわけイスラム教徒の自国内流入に強く反対するという、「反移民・難民、排外主義(ナショナリズム)」という立場を声だかに唱える。この点、基本的には移民・難民の人権を守り、排外主義には反対する左派ポピュリズムの立場とは異なっている。したがって、右派ポピュリズムは、トランプのような三権分立や立憲主義に否定的で排外主義的なデマゴーグに容易に影響されやすく、なにか危機的な事件が起きれば、それがきっかけとなって全体主義に急速にのめり込んでいくという危険性を常に孕んでいる。
残念ながら、ポピュリズム現象の中で多くの大衆にアピールしているのは、左派よりも右派ポピュリズムであることは明らかであろう。それには、上に述べた反移民・難民=ナショナリズムという、大衆の保守的な情緒に訴える力を持つ要素が強く働いていることは否定しがたい。しかしながら、同時に、右派ポピュリズム、とりわけ英国の「EU離脱」運動と米国の「トランプ旋風」には、ナショナリズムと重なる形での、ノスタルジア(郷愁あるいは懐古主義)という要素がひじょうに強く働いていると思われる。日本人の我々は、後述するように、この点に注目する必要がある。
英国の「EU離脱」運動の裏には、1973年のEU加盟以前の英国、とりわけ第2次世界大戦後から1970年代初期あたりまでの英国は、移民も旧植民地であるインドやジャマイカなどからの地域からの比較的少数に限られ、国民には手厚い福祉厚生サービスが提供され、「大英帝国の名残り」をとどめているような「古き良き時代」の面影があった、というノスタルジアが強く働いていることは明らかである。つまり、新自由主義とグローバル化以前の英国は、理想的な「民主主義のモデル国家」であったのであり、その理想国家に戻りたいという夢に動かされている運動と言える。
EU離脱でもめにもめ続けた英国の与党である保守党は、2019年7月23日に、前外相であるボリス・ジョンソンを新党首に選んだ。トランプ大統領同様に、人種差別、女性差別、イスラム教敵視をあからさまに表明する言動を発し続けているジョンソンを新首相に選んだのは、16万人の党員のほとんどが白人で、しかも過半数が「古き良き時代」に育ち、「偉大な英国」の郷愁に浸っている55歳以上という保守党員たちである。ジョンソン首相の主導の下に、「合意なきEU離脱」となれば英国経済は相当の打撃を受けるという経済観測も、このノスタルジアには勝てないようである。
「トランプ旋風」も、これまた、「偉大なアメリカを取り戻そう」というトランプの(もともとはレーガンが1980年の大統領選挙運動で使った)プロパガンダに踊らされた、そして今も「偉大なアメリカを取り戻す」夢を見続けている人たちのノスタルジアにおおきく支えられている。トランプは、白人至上主義、アメリカン・ファースト、移民阻止、強大な軍事力などのスローガンを掲げ、政治・軍事の両面で世界的に圧倒的な優位に立つ「伝統的アメリカ社会の再構築」を常に訴えている。
トランプを支えているのは、大半がブルー・カラーの高卒以下の白人労働者である。彼らは、自分たちの経済的苦境の原因は、大量にアメリカに流入するメキシコからの不法移民や中国からの輸入品などであると信じて、トランプの唱える移民排斥、保護主義、ナショナリズムに共鳴する。トランプの経済政策も外交・軍事政策もアメリカにはなんら目新しい利益をもたらしてはおらず、むしろ「パックス・アメリカーナ」という影響力を弱めていると言えるのであるが、支持率がほとんど変わらないのも、このブルー・カラー層のトランプ支持に変化がみられないからである。
その支持の背後には、第2次大戦直後からベトナム戦争での敗退前の1970年代初めまでの、文字通り世界を支配する経済・軍事大国であった「古き良き時代」、ブルー・カラー・ワーカーたちも「豊かな生活」を享受していた「アメリカン・ドリーム」時代への郷愁が強くあることは明らかである。
しかし、この「復古的な郷愁」=「過去の称賛」は事実というよりも、一種の信仰に基づいていると言った方がよい。なぜなら、郷愁は「現実の過去」を「想像上の過去」と混同することであり、「想像上の過去」とは、実際には、自分たちだけが持っている自分たちの安らかな記憶の世界、自分を満足させる記憶の世界であり、そこに戻るとほっとした気分になる幻想の世界であるからだ。
液状化現象が最も激しく進んでいる英国やアメリカでこのノスタルジア現象が強く広く見られるのは、液状化で断片化されバラバラにされた自分たちの社会を、もう一度、共通の集合的な「記憶」で強く結ばれたコミュニィティに再構築したいという、過去への憧れや夢が、国民の多くに共有されているからである。それは、換言すれば、生活のリズムが加速し歴史が激変する時代に、自己の存在感を失った人間が、存在感を取り戻す、あるいは取り戻しているという幻想=「記憶」に浸る、一種の歪曲された「自己防衛機能」とも言えるであろう。
このノスタルジアの持つ危険性は、それが現実の過去と想像上の過去を混同しがちな点だけにあるのではない。「復古的な郷愁」は、英米両国で見られるように、その同じ「復古的な郷愁」を共有しない人間を排除する、排他的民族意識とナショナリズムの復活あるいは高揚を、必然的に強く刺激するという事実である。
バウマンは、この危険性に着目して、復古的ノスタルジアは「民族的な象徴や神話への回帰という手段によって、そしてときには陰謀論との結託を通じて、反近代の神話形成を行っている」と述べている。この批判は、現在の日本の天皇絶賛ブームを考えるにあたって、ひじょうに示唆に富むものである。
ポピュリズムを吸収、溶解する天皇絶賛現象
すでに述べたように、社会液状化の様々な影響は日本でも広く見られることは明らかである。拡大し続ける貧富の格差、堅実で健全な人間関係や互助的共同体の崩壊、その結果としての、うつ病、ひきこもり、自死、いじめ、パワハラ、セクハラ、ストーカー、家庭内暴力、親による児童虐待、子供による親殺害、等々。苦しい生活を万引きでしのぐ他人の集まりである疑似家族というストーリーで、家族が崩壊している現状を鋭く描き出した是枝裕和監督の映画『万引き家族』(2018年)は、そんな液状化社会日本を象徴する作品と言えよう。
その一方で、さまざまな経済、社会、環境問題、とりわけ原発事故、に対する政府の無責任な対応、増税と逆行する福祉厚生サービスの縮小、ますます激しくなる軍事国家的傾向、そして憲法違反の安全保障関連法導入による憲法9条の空洞化など、一言で表現すれば「人間置き去り」あるいは「棄民」の政治。こうした「人間置き去り」の政策をとる政府を、社会から排除され「置き去りにされた」若者がネトウヨ(ネット右翼)となって、安部政府に批判的な人々をバッシングすることで安部政権を支援するという、ひじょうにねじれた皮肉な現象を起こしている。このような液状化社会の日本の症状の根本的な原因には、もちろん、天皇裕仁と天皇制の、さらには日本人の戦争責任を明確に認識し、それと厳しく向き合ってこなかったという、歴史認識の最初からの液状化があったことを忘れてはならない。
こうした社会液状化の症状にもかかわらず、「なぜ日本ではポピュリズムが起きないのか」という疑問が、しばしば、海外のジャーナリストや知識人から発せられる。この疑問に答えるのは容易ではない。その疑問は、なぜ日本人は一般的に、上記のような液状化社会が起こしている問題について「怒りの声」を上げないのか、と言い換えることができるであろう。「怒りの声」が聞こえないわけではない。例えば、「セクハラ」については、欧米社会での「Me Too 運動」の影響もあって、最近は女性たちがさかんに「怒りの声」をあげている。しかし、他の問題となると、被害者の声がきわめて弱いと言わざるをえないであろう。
海外諸国と比べて日本に特徴的な液状化社会現象は、「ひきこもり」や「自死」が多いことである。とりわけ日本の、40〜64歳の中高年の「ひきこもり」が61万人を超えているという現状は異常である。なぜ、この人たちは「精神的苦悩」の解消を外に向けて訴えることをせず、自分の内側に閉じ込めてしまい、自分自身を社会から隔絶して「ひきこもり」という手段をとるのか、あるいは「自死」という道を選ぶのか。この「内向性」という性格は、なぜか日本人に特徴的なものであるように思われる。
そのことを議論している余裕が今はないので、ここでは、日本で唯一の「左翼ポピュリズム」と呼ばれることもある、山本太郎が率いる「れいわ新撰組」を取り上げてみよう。確かに、安倍政権を激しく非難する「れいわ新撰組」が提唱する政策は、消費税廃止、最低賃金1500円確保、災害対策、原発廃炉、辺野古米軍基地建設中止、様々な悪法の見直しまたは廃止、障がい者福祉、家庭内暴力の防止と被害者支援、児童保護、動物愛護など、欧米の左翼ポピュリズムが主張することと似通っている。
その山本太郎が、2013年10月31日、当時の天皇明仁が開いた秋の園遊会で、原発事故の現状を訴えるために明仁に手紙を直接渡し、直訴するという行動をとった。その手紙には、「子供と労働者を被ばくから救ってくださるよう、お手をお貸しください」というような内容が書かれていたとのこと。閣僚をはじめ多くの政治家や官僚たちが、「天皇に対して無礼である、常識はずれの違法行為である」といった非難の声を上げた。確かに、山本の天皇直訴は違法行為であった。ところが、ネットでは、大勢の若者が山本をヒーローとして褒め上げた。この現象を、いったいどのように解釈したらよいのであろうか。
明らかに左翼ポピュリズムと思われる政策を並べ立てる山本が、全く非民主主義的と言うよりは反民主主義的で時代錯誤的と呼ぶべき行動である、天皇への直訴を行うという行為は、いったいどんな思考論理から出てくるのであろうか。さらには、そのような天皇崇拝的とも言える、封建的で懐古主義的な行動を英雄視する若者たちの心理をどのように解釈したらよいのであろうか。
まさにこの山本の行動には、バウマンの「(復古的ノスタルジアは)民族的な象徴や神話への回帰という手段によって、……… 反近代の神話形成を行っている」という描写がぴったりと当てはまるのである。その意味では、山本の天皇直訴には、「EU離脱」運動と「トランプ旋風」の根底に横たわっているのと同じ「復古的な郷愁」という要素が強く含まれている。
すなわち、もう一度、原発事故のない安全で平和なコミュニィティを日本に取り戻したいという強い思いなのであるが – その思い自体は正当なものであるが - それを「天皇」という「民族的な象徴や神話への回帰という手段によって」成し遂げたい、というのが山本の夢なのである。しかし、「天皇」という共通の集合的な「記憶」で強く結ばれたコミュニィティを再構築したいという、この夢の実現の方法自体が、新しい形での「反近代の神話形成」以外の何ものでもない。つまり、この場合の「集合的な記憶」も、歴史事実にしっかりと足をつけた「記憶」ではなく、万世一系という神話に依拠する「象徴天皇」が「国家」という「幻想共同体」観念を常に産み続けることによって創られている「神話的記憶」=幻想なのである。その意味で、この日本の神話的記憶と、「EU離脱」運動と「トランプ旋風」に見られるノスタルジア的記憶とは、「創られた記憶=幻想」という点で、根本的には同じだと言える。違いは、日本の場合が、「信仰性」という面で、英米の場合よりはるかに強烈であるということである。
山本が、「コミュニィティ再建」を天皇中心の「民族的な象徴や神話への回帰」を通して成し遂げたいという思いは、先に挙げた「れいわ新撰組」の政策にも間接的に反映されている。並べあげられた政策自体は、現在の安部政権の様々な「人間置き去り」政策を鋭く批判する、「民主主義再建政策」と呼べる賞賛すべきものばかりである。ところが、その一方で、民族差別、難民、亡命といった少数民族、「在日」や外国人の人々が直面している問題についてどのような対策を「れいわ新撰組」がとるのかについては一言も言及がないという、この事実である。例えば、いまや160万人を超えると言われている外国人労働者の深刻な人権侵害問題については、なんらの言及もない。つまり、日本の、とりわけ安部政権や維新の党が強く押し出している「排外主義=ナショナリズム」については沈黙なのである。彼の思考の中では、「神話的記憶」の外にあるこれらの人権問題が、深刻な日本の問題とは捉えられていないようである。
さらに重要な問題は、「れいわ新撰組」の政策には外交問題、とりわけ、アジア諸国との外交問題に関する政策的展望がスッポリと抜け落ちているのである。アジア諸国、とりわけ韓国、北朝鮮、中国となぜゆえに友好的な関係を構築できないのか。この重要な疑問については、日本の戦争責任問題への厳しい自己批判、自己検証なくしてはその解答を見つけ出すことは不可能である。ところが、山本の「れいわ新撰組」は、この歴史問題に触れることを完全に避けて、「天皇回帰ノスタルジア」という「神話的記憶」に「平和な日本の再建」の夢を託すのである。
よく考えてみれば、「民族的な象徴や神話への回帰という手段によって、……… 反近代の神話形成を行っている」のは山本にとどまらない。大部分の日本国民が、同じような「天皇回帰ノスタルジア」に侵されていると言える。すでに述べたように、「復古的な郷愁」は、そこに戻るとほっとした気分になる世界を提供する、一種の信仰に近い心理である。2019年5月からの新しい元号「令和」、その典拠となっているのが『万葉集』であることが盛んに強調され、「万葉」のふるさとである「古代大和の地」の美しさがメディアでロマンティックに賛美される。
万世一系の古い歴史を持つ皇室の頂点に立つ明仁が、そして今は徳仁が、そうしたロマンティクな「天皇回帰ノスタルジア」に支えられて、自然災害や原発事故の被災者を見舞い、皇后と共に「おやさしい言葉」を人々にかける。その天皇は、様々な神聖な神道儀式を執り行う「神のような人」(私自身の表現では「雲上と地上の間で宙ブラリンとなった状態」)としても多くの国民に敬われている。被災者たちは「慈愛のこもったお言葉」に感激し、自分を心配してくれる「尊い神のようなお方」に会うことで、束の間ではあるが、「安心感」を抱くのである。人間関係が液状化している社会、その社会で災害に襲われて心身ともに疲弊困憊の状況にある人たちが、この「復古的な天皇回帰」という「郷愁」に心を打たれ、涙して喜ぶのである。天皇が大嘗祭をはじめ多くの古式豊かな神道儀式を税金で行うことは政教分離という憲法規定を侵している違憲行為であるという問題意識が、この「復古的な天皇回帰」という日本独特のノスタルジアに心を打たれる国民に、湧くはずがない。天皇は、被災者たちが涙して喜ぶ姿を眼にすることで、自分が持つ宗教的とも言える威厳に満ちた「象徴権威」を再確認し、「象徴天皇」としての義務を果たしていると満足する。
しかし、ここでは、液状化して崩れている人間関係が、この束の間の出会いで、あたかも緊密な関係を天皇・皇后と結んだかのような幻想が産み出され、「天皇の下に我々は一体である」という幻想によって抱きこまれてしまう。抱きこまれることで、液状化している社会が産みだしている様々な問題の実相と原因がぼやかされてしまい、主権者である国民に対する国家の責任そのものがぼやかされてしまうのである。国民に対するこの国家責任のぼやかしは、国家の、とりわけ天皇裕仁の戦争責任に対するぼやかしを長年にわたって我々が真剣に追求してこなかったことと深く関連していることはあらためて言うまでもない。
皮肉なことに、深刻な災害が起きれば起きるほど天皇による「お見舞い」が増え、「天皇回帰ノスタルジア」は強まる。すなわち、日本社会が液状化し民主主義が崩れれば崩れるほど、「天皇回帰ノスタルジア」は強まり、天皇/天皇制の戦争責任に関する「歴史記憶」がますます消し去られ、民主主義が骨抜きになっていくという事態が起きているのである。これが、天皇制が持つ怖さなのである。
よって、厳しい安倍政権批判を浴びせる山本太郎の「れいわ新撰組」のようなポピュリズムも、日本の「民主主義」を「民主主義」足らしめていない決定的な欠陥である天皇制と「天皇回帰ノスタルジア」には、実際には吸い込まれてしまっている、というのが実情である。日本で真に力強い民主主義再建のポピュリズム旋風が巻き起こらない理由は、「天皇回帰ノスタルジア」が「天皇絶賛」というポピュリズム代替の機能を果たしているからである。
日本民主主義の最も重要な背骨は、実は「天皇回帰ノスタルジア」によって文字通り液状化され、骨抜きにされている。日本社会の液状化をくい止め、民主主義再建を成し遂げるためには、15年戦争直後から始まった「天皇制による日本民主主義の液状化」、すなわち「歴史認識の液状化」をこそ問題にしなければならないのである。
- 完 -