2019年1月16日水曜日

「退位する明仁天皇への公開書簡」への批判に応えて


- 天皇は「裸の王様」、あるいは「人間みんなチョボチョボ」という視点から

読者のみなさんからの反応
  元日に当ブログで発表した「退位する明仁天皇への公開書簡」には、これまで、私たちが当初予測していたよりはるかに多くの人たちが目を通されたようです。おそらくフェイスブックなどで情報が拡散されたものと思われますが、日本だけではなく、ロシア、アメリカ、オーストラリア、ドイツ、カナダ、韓国など、海外各地からもアクセスがあり、2週間以上たった今もまだアクセスは止まりません。「天皇制批判」は人気のないテーマだと思っていたので、予想外の反応に、やはり天皇制に問題を感じている市民の人たちは少なくないのだと認識しなおしている次第です。読者のみなさんの中には賛同のコメントを送ってこられた方も幾人かおられますので、それらのコメントもすでに掲載させていただきました。
  ネトウヨからの批判があるに違いないと私たちは考えていましたが、グーグル・サーチした限り、いまのところ、この書簡で展開した天皇制批判に真っ向から論戦を挑むような内容のネトウヨ反応は見られません。しかし、ネトウヨではなく、私たちの政治社会思想に近い考えをお持ちであると思われる人からの批判を見つけましたので、これを紹介し、この批判に対する反批判を試みておきたいと思います。
  その批判は、「みずき」というブログを公開しておられる、山口県にお住いの東本高志さんという人によるものです。以下、その全文を引用させていただきます。

退位する天皇明仁宛に書かれた田中利幸さん(元広島平和研究所教員、メルボルン在住) のこの公開書簡 は天皇明仁がむことなど絶対と言ってよいほどないだろうことは百も承知の上で書かれたものでしょうから、実のところ市民(それもリベラル左派の)向けに書かれたものとみなされるものです。そうだとすると、田中利幸さんには少し以上にあざとさがあるというべきではないか。実際に彼の長文の論攷をんでみても、書かれている事実の主張そのものは頷けるものの、私にはまっすぐに腑に落ちてこないのです。彼はてらう、あるいは取るのはやめて思うところがあるならばまっすぐにその思いを市民に述べるべきでした。というのが、私の後感です。わざわざ天皇明仁宛にしているところにも天皇崇り香のようなものを私は見ます。これでは真の象天皇制批判にはなりえないでしょう。リベラル左派の者の中にはリベラリスト明仁天皇像を依然持ちける者も出てくるでしょう。そういう余地をした書き方というのが私の批評です。(強調:引用者)

天皇は「裸の王様」と叫ぶことの重要性
  私は、てらったり気取ったりしてこの書簡を書いたつもりは全くなく、東本さんが冒頭に書かれているように、目的はできるだけ多くの人たちに「天皇制と民主主義」について考えていただく機会をつくることでした。どのように考えていただきたいと思ったかについては、具体的に後で述べさせていただきます。
  明仁個人宛に手紙を出すことが、東本さんの考えでは、なぜゆえに「天皇崇拝」に即つながってしまうのか、その論理的な説明が完全に抜けていると私は思います。書簡の内容に私の「天皇崇拝」感があると東本さんが考えられ、その証左を具体的に取り上げて指摘されるのなら論理的な説得性がありますが、そのような指摘は全くなにもありません。あるはずがないと思います。答えは簡単です。なぜなら、私には「天皇崇拝」感などは最初から最後まで一カケラもないからです。
  私がこの書簡で展開した議論の主たる論点は、天皇制、とりわけ天皇の「象徴権威」が持っている民衆(とりわけ民衆意識)支配のカラクリを暴き出し、そのような「象徴権威」を持っている天皇個人を、天皇という神がかり的な地位からいかにしたら我々市民と同じレベルにまで引きずり降ろすことができるか、ということです。「引きずり降ろす」という意味は、我々大衆の意識の中で、「天皇は特別に崇敬すべき」と捉えられている存在から、長所短所の様々な性格要素と喜怒哀楽の感情をもった「我々と同じ人間」としての存在になるまで変革する、ということです。つまり「天皇を引きずり降ろす」ということは、私たち自身の「天皇観」に変革をもたらすことなのです。天皇制を廃止するためには、単なる制度の変革ではなく、その制度の変革に決定的に重要な「天皇イデオロギー=天皇崇拝」の廃止=思想的な意味での「天皇の引きずり降ろし」という価値転換がどうしても必要です。
  「天皇イデオロギー=天皇崇拝」を徹底的に崩すためには、天皇を一個人の人間とみなし、彼に個人的に呼びかけ、彼が天皇として持っている「象徴権威」のカラクリを彼自身にむけて暴露し、その「象徴権威」がいかに民主主義にとって危険なものであるかを、彼が反ぱくできないまでに論証すること、その論証をできるだけ多くの市民に「なるほどそのとおりだ」と理解してもらうこと、これが最も効果的な方法だと私は考えています。したがって、明仁が実際に書簡を読むかどうかはそれほど重要なことではなく(書簡はすでに宮内庁気付けで郵送しました)、彼に宛てた書簡で、「象徴権威」を引き剥がされた「生身の人間」としての明仁の姿を、市民のみなさんの前に曝け出すというのが、書簡の最も重要な目的なのです。つまり、簡単に表現すれば、「象徴権威」という見栄えのよいガウンを脱ぎ捨てると「あなたは裸ですよ!」と天皇に直接呼びかけ、同時にその呼びかけをできるだけ多くの市民に聞いてもらうことで、「みなさん、天皇は『裸の王様』なんですよ!目を覚ましてよく見てください!」と声高に叫ぶこと。これこそが「わざわざ天皇明仁宛に書簡を書いた真の目的なのです。もう一度述べますが、明仁宛に書簡を出す目的は、彼を我々市民と同じレベルに引きずり降ろすことなのです。
  同時に、徴権を自分の政治目的のために利用し、行政の私物化を臆面もなくも行い、憲法を不能化させ、あげくのはてには年間5兆5千億円を超えるとてつもない膨大な軍事予算で金を浪費して国家を借金漬けにし、国民の生活を文字通り崩させようとしている安倍晋三と彼の取りき連中を、力の座から引きずり降ろすことを私たちは考えなくてはなりません。

右も左も「天皇タブー」に囚われている現状をどうすべきか
  なぜこのことが東本さんには理解できないのでしょうか?なぜ「天皇、あなたは『裸の王様』なんだ」と彼に直接呼びかけることが、東本さんには「天皇崇り香」としてしか理解できないのでしょうか?東本さんの私への批判はごく短いコメントなので、その理由はよく分かりませんが、以下は私の推測です。
  「天皇問題はタブー」であるとしばしば言われます。つまり「庶民が天皇問題で賛否とやかく言うべきではない」という意味です。文化人類学者たちは、タブー(日本語では「禁忌」)には「両義性が内在している」と言います。つまり、両義性とは「神聖」と「穢れ」、「死」と「再生」といった対照的な、あるいは矛盾する要素のことですが、タブーはしばしばこの両方の要素を内包しているというわけです。また、状況によっては、一方の要素が他方の要素に変貌することもしばしばあります。日本の民俗学でよく言われる「ハレ」と「ケ」もそれに当たるかと思います。
  この「神聖と穢れ」、「ハレとケ」の両義性を現在の「天皇問題タブー」に当てはめてみると、以下のように要約できるかと思います。天皇を極めて神聖で崇高な存在として崇める右翼国家主義者たちはもちろん、最近では天皇を民主主義防衛(=ハレ)のチャンピオンのように崇め奉る、内田樹、島園進、半藤一利などのいわゆる「進歩的知識人」が、両義性のうちの「神聖タブー」に囚われている代表と言えるでしょう。明仁を崇め賛美し、畏れ多くて批判など決してしてはならないというタブーです。それとは全く逆に、天皇制に批判的であるがゆえに、天皇を徹底的に忌み嫌い、その存在を「穢れ」というよりは「ケ(=凶)」とみなして完全に否定することで、天皇を直接相手にするなどということは「気持ちが悪い」と考える。しかし、批判の対象を「忌み嫌う」という感情移入のほうが先立ってしまい、そのことで実際には鋭利な批判的論理性を失うという思考的な落とし穴に陥没してしまっている人たち。この人たちも、実は「神聖タブー」と全く逆の、天皇の「凶のタブー」と称すべきタブーに囚われていると私は考えます。この「凶のタブー」には、実は無意識のうちにせよ、天皇の象徴権威を恐れているからこそ、徹底的に拒否したいという心理が働いています。状況によっては、この「恐れ」が、「畏れ」に変貌する危険性は十分あります。したがって、一見したところ全く対照的に映るこの二つは、「天皇存在の是非には実際には触れない」=「天皇をタブー視する」という点では共通しているのです。
  さらにやっかいなのは、天皇の「神聖タブー」に囚われている人たちも、逆に「凶のタブー」に囚われている人たちも、自分がそのような「天皇タブー」に緊縛されているという自覚がないことです。天皇制には、天皇と自分を同じ人間として対峙させる「民衆の自覚」を消し去ってしまうという「魔力」があるのがひじょうに恐ろしい点です。
  私の推測では、東本さんは、この「凶のタブー」に囚われているのではないでしょうか。「徹底的に否定すべき相手である天皇に個人的な書簡を送るなどということはけしからん」、「そのようなけしからん行為は、てらいであり気取っている」のであり、「天皇崇り香のようなもの」が臭うというわけです。東本さんの私への批判には論理的説得性がないと私が述べたのは、東本さんの批判が、この極めて感情的な「凶のタブー」のレベルでの「気持ちの悪さ」の表現にとどまっているからだと思うからです。その意味では、東本さんの私への批判にこそ、「天皇への畏れの残り香のような」臭いを私は嗅ぐのです。再度述べておきますが、このような「タブー」に緊縛されている限り、真に力のある天皇制批判はできません。
  「凶のタブー」から私たちを解放するには、次のようなことが必要だと私は考えます。明仁天皇は徹底的に批判すべき相手であるからこそ、その相手を最初から完全に否定あるいは無視する(=畏れる)のではなく、あくまでもその相手の「人間性」に訴えるという姿勢をとることで、相手の間違いをとことん追求し、そのことで相手を私たち市民と同じレベルにまで引きずり降ろす。「裸になれば、天皇も私も同じ人間」、つまり小田実の表現を借りれば、「人間みなチョボチョボや」というレベルにまで相手を引き下ろす。そのような「人間性に訴える」という姿勢と行為を市民全体で共有することで、少しでも天皇イデオロギーに風穴を空けていく。
  あらためて言うまでもなく、日本で反天皇制を市民運動として展開していくのは容易なことではありません。しかし、天皇を「普通の人間」とみなすことが全国民的な広がりで一般的とならない限り、天皇制廃止への道は見えてきませんし、したがって日本に民主主義を本当に根付かせる可能性も見えてはこないと思います。
  

- 完 -


4 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

合掌
天皇引きずりおろし論、私的には、象徴天皇制の迷妄に気づかず、それに安住しているアキヒトさんたち皇族の人々始め、象徴天皇制容認の市民大衆の意識の解放ということだと思っています。
合掌 

匿名 さんのコメント...

城山さん

おっしゃる通りです。「天皇引きずり降ろし」とは少々過激な表現ですが、私たち市民の天皇の捉え方を、天皇を人間化する=私たちと同じように喜怒哀楽と憎しみや愛といった矛盾したさまざまな心理的要素をもっている「普通の人間」とみなすようにすることです。彼と彼の家族を「人間化」することで「天皇」の「天」と「皇」の神がかり的な要素を消滅させることを目指すという意味です。「天皇」という言葉自体に私はひじょうに抵抗感があります。こういう神がかり的な表現はなるべく早くお蔵入りさせたほうがよいと私は思っています。

田中利幸

ピン吉 さんのコメント...

東本さんの「田中利幸さんには少し以上にあざとさがあるというべきではないか」というくだりは、田中さんが云われる「凶のタブー」に囚われていると解釈するに違和感がありません。ただ、田中さんが云われる「引きずり下ろす」云々も、これはまた「凶のタブー」のように聞こえます。
憲法で人権条項より前に据えられている天皇条項により、天皇陛下には自然人の持つべき人権が認められていないのだと思います。職業選択の自由とか、移動の自由とかです。人権回復をさせてあげたいと思います。でも実際は、田中さんの云うように、政治利用されることに身を任せ、その神輿の上で御自身の安寧を確認する行為を惜しげもなくする有様です。これは悲しいことです。「人」として、いていただきたいと思います。

田中利幸 さんのコメント...

私の言う「引きずりおろす」という表現があまり適当ではないのかもしれませんが、ブログでも説明しておきましたように、市民の中にある「畏れのタブー」や「凶のタブー」を「打ち破る」という意味です。したがって、私自身は「凶のタブー」などは全く持っていません。だからこそ、明仁を我々と同じ一人間としてとらえ、その一個人に手紙を出して、「あなたのやっていることは本当に民主主義的と言えるのか」と問うているわけです。これがなぜ「凶のタブー」なのか私には理解できません。このことは3月2日のブログ記事「『雲上人』をいかにしたら地上に引き降ろせるか」を読んでいただければ、より明らかになると思います。天皇をどのように「人間化」しようとしたか、その具体的な例を三つあげています。天皇を「人間化」しようとすることすら許されない、というのが戦後「民主化」されたはずの天皇制 下で繰り返し行われてきましたし、今もそれが変わらないというのが現実です。この現実をどうするのかは、日本民主主義の根本的な問題であるというのが私の持論です。

田中利幸