2018年7月8日日曜日

講演案内

* 神戸講演
113回「小田実を読む」田中利幸さんが語る「太平洋戦争と小田実」

     発起人/北野辰一(文責)、山村雅治、北川靖一郎、川島智子、玄順恵

田中利幸さんのお話を私が初めてうかがったのは、「手塚治虫と小田実」であった。その後、遅ればせながら田中利幸さんの書かれた講談社現代新書の『空の戦争史』を手に取った次第である。
今回は、「太平洋戦争と小田実」という演題でお話しくださると云う。根が単純な私は、どうしても手塚治虫のお話をされた時の印象があるせいか、この南方の戦の話と聞くと、すぐ水木しげるの『ラバウル戦記』(ちくま文庫)を思い出してしまう。当時・ニューブリテン島(現・パプアニューギニア)の野戦病院に送られた水木しげるは、そこで病院を抜け出し原住民の〈森の人たち〉との心温まる交流の話は、ラバウルの最前線ズンケンでの悲惨な戦争体験と好対照で、印象に残る話であった。手塚治虫も戦争を題材とした漫画がある。が、水木しげるにも、一兵卒としてズンケンからバイエンへ送られ一人だけ奇跡的に生還した体験や、爆撃で負傷した腕を腐ったため切断した体験なども漫画にしている。
話によると、田中利幸さんも太平洋戦争で被害にあった島々のフィールド・ワークをされた経験がおありだとうかがい、今から楽しみ……というと内容的に不謹慎ではあるが、私たちの知らない、また気づいていないことを辛口にお話いただけるのではないかと今から期待はつのるばかりである。小田さんの作品では、南方の戦争をあつかったものとして『ガ島』や『玉砕』などの長篇小説がすぐ頭に浮かぶ。勿論、短篇や未完の作品まで含めれば、太平洋の島々で「大東亜戦争」として戦われたものは意外とある。それらはきっと当日、田中利幸さんが、ご自分の体験も含め、戦争で亡くなった兵士から、ともに亡くなった元々そこに住む島民たち、戦争に翻弄された記憶を家族の中で持つものは、戦後も苦労されたことなどきっと話されるに違いない。また「小田実没後10年の集い」で話された、天皇制についても触れないことはないだろう、と勝手に思っている始末である。どうぞ当日は多くの方をお誘いの上おこしください。

日  時  2018728日(土)14:0017:00
会  場  あしや市民活動センター リードあしや 2階号室
(芦屋市公光町5-8)
講  話  「太平洋戦争と小田実―戦争責任を問う」
講  師  田中利幸(歴史家、「86ヒロシマ平和への集い」代表)
資料代   1,000 円           


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*東京講演
シ リ ー ズ 公 開 学 習 会 ヒ ロ シ マ・ ナ ガ サ キ と ア ジ ア 
講演:田中利幸さん(歴史家/86ヒロシマ平和への集い」代表)
国家主義を突き破る人道主義 栗原貞子の思想と沼田鈴子の実践から学ぶべきもの

ヒロシマの被爆者でありながら、日本国家が犯した侵略戦争の加害と向きあった、詩人・栗原貞子さん。 同じく被爆者でありながら(広島の陸軍第5師団が虐殺を行った)マレーを訪れ、被害者に謝罪した沼田鈴子さん。 2人の思想と実践から、私たちは学ぶべきことが多くあると考え、豪州在住の田中利幸さんにお話を伺います。

810()1830分〜2030
武蔵野公会堂・第1会議室先着 50 資料代 700  
問合せ;090-2647-3722 植松 uematsuseiji@gmail.com

残念ながら日本の被爆者による市民運動は、一般的には、もっぱら自己の被害に焦点を当てる「反核・平和」運動に片寄っており、日本国家が犯した侵略戦争の膨大な数にのぼるアジア・太平洋地域の被害者の「痛み」を自分たちの「痛み」と共に内面化するような運動ではありませんでした。そうした被爆者の中にあって、詩人・栗 原貞子と証言活動家・沼田鈴子は異色の存在でした。栗原の作品と沼田の実践活動には狭隘な国家主義を突き破る力強い平和構築のメッセージ、戦争の被害と加害の両方に鋭く目を注ぐ深い人道主義が横たわっていました。 極右国家主義を推し進める安倍政権という政府を持つ日本の現状に直面する私たちは、今もう一度、栗原と沼田という二人の女性が残した思想と実践から、強靭な、真に普遍的な人道主義をいかにすれば自分たちのものとできるかについて学ぶべきときではないでしょうか。(田中利幸)
講師田中利幸さん
(歴史家、86ヒロシマ平和への集い」代表)

主催;「ヒロシマ・ナガサキとアジア」研究グループ(仮称)
2018 1月より沼田鈴子さんの人生と行動を学ぶ、という趣旨で学習会開始。5月、田中利幸さんと意見交換会を行い、再度お話を伺いたいと考え、今回の学習会を企画しました。


2018年6月12日火曜日

哀悼 森田童子


1970年代、私たちが学生運動に没頭していたとき、突然、「森田童子」という名前で女性シンガー・ソングライターが登場。「僕」という男をテーマに、やさしくて、とても哀調のある歌詞を、すてきな声で歌う彼女にいっぺんに魅惑されてしまいました。

当時、学生運動のドロドロした人間関係のなかで、友情とはいったいなにか、どうしたら思いやりの深い人間関係を築けるのかと、心の奥では悩んでいた私たち。仲間のなかに自死を選んで運動から消えていった在日の学生がおり、なにもしてあげることができず罪意識だけが残った悲しい思い出。それは社会革命、政治改革というような「夢」を追求するなかで、私たち一人一人がどうしても直面し、真剣に考えなければならない問題だったのです。ところが、「革命運動」に関わっている人間がそんなことを口にすることすら恥ずかしいことだと気負っていた私たちの正直な気持ちを、突然、女性が堂々と歌ってくれたことにショックを受けたその喜びを、今も昨日のように思い出します。

いったい彼女はどんな人なのかと、彼女に恋するほど憧れましたが、全く謎の人でした。それは今も謎のままですが、彼女が4月24日に他界していたことをニュースで知りました。本当に残念です。彼女に一度お会いしたかった。ここに哀悼の意を表すると同時に、学生運動のなかで荒れすさむ私たちの心を、やさしい歌で抱擁してくれた彼女に深く感謝し、ご冥福を祈ります。本当に、本当にありがとう、森田童子。


みんな夢でありました
しかし40年以上たった今も、そのときの「夢」を追い続けている人は、幸いにして大勢います。

さよならぼくのともだち

たとえばぼくが死んだら

雨のクロール

他にもまだまだ感動的な歌があります。

2018年6月3日日曜日

8・6ヒロシマ平和へのつどい2018


「朝鮮戦争終結!9条を生かす時代へ!」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
日  時:
  8月5日(日)14時~17時
 第1部(14時~16時) 
   記念講演 金鐘哲(キム・ジョンチョル)さん
  「安保論理を超えて平和体制へ-韓半島の情勢変化をどう見るべきか-」
 
金鐘哲(キム・ジョンチョル)さんプロフィール
1947年生まれ。ソウル大学で英文学を専攻し、韓国空軍士官学校の教官として兵役を果たした。長らく嶺南大学(ヨンナン大学)などにおいて教鞭を取っていた。197080年代には文学評論家として活躍したが、1991年に隔月刊『緑色評論』を創刊し平和と民主主義及びエコロジー運動の拡散のための理念と論理を開拓するのに力を注いできた。2004年に大学教授職を辞職し『緑色評論』の編集・発刊に専念する傍ら、2011年には韓国「緑の党」結党に主導的な役割を果たした。その後、緑の党の活動を理論的に支援するために2012年に社団法人「緑色転換研究所」を創立し、以来理事長を務めている。また2004年以降10年余り市民自主講座を開設、主宰した。現在『緑色評論』の発行部数はおよそ1万部に至り、韓国の知識界において重要な役割を担っている。著書に『詩と歴史的想像力』、『詩的人間と生態的人間』、『ガンジーの糸繰ぐるま』、『批判的想像力のために』、『大地の擁護』、『発言 I II』などがある。
生前の小田実さんともひじょうに親しかった韓国の論客です。
以下は田中利幸ブログから。
韓国の「ロウソク革命」の中にいて
金鐘哲(金亨洙 訳)
「少女像」があるべきところ
金鐘哲 (金亨洙 訳)

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第2部(16時~17時)
 
           
福島からのメッセージ、
       
安次富 浩(沖縄・名護市「ヘリ基地反対協議会」代表委員)
           
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呼びかけ文
  推定8千万人にのぼる膨大な死者を出した第二次世界戦争終結から73年。アジア太平洋地域では、中国をはじめ様々な国々での日本軍による侵略・占領過程での残虐・殺傷行為、多くの日本軍将兵を餓死・病死・玉砕させた無謀な戦略の連続、米軍による広島・長崎を含む日本全国諸都市での無差別爆撃大量殺戮。その結果としての日本軍国主義の完全な敗北から73年を経た今も、日本政府は自国と米国の両国の戦争責任の重大さを深く認識する能力を全く欠いている。安倍政権の様々な虚妄の言動と民主主義破壊行為は、日本が日米両国の戦争責任と真剣に向き合うことを拒否し続けてきたことと密接に関連している。
  原爆無差別殺戮を行った米国と、そのような事態を招いた日本政府の責任を棚上げにしたまま、米国の核戦略を強く支持してきた上に、原発をがむしゃらに推進して福島での核大惨事を引き起こした日本政府。無数の市民の生命と生活の破壊にもかかわらず、核抑止力支持と原発推進の政策を変えようとはしない日本政府。このような日本政府の無責任を徹底的に追求し、すべての生き物の生存を脅かしている原子力文明を一刻も早く終焉させる必要がある。
  醜悪なトランプ政権によって政治的信頼性が衰退しながらも核戦力をさらに強化する米国と、習近平の強権的な指導のもとで軍事力拡大政策をとる中国の急速な台頭。そのような米中拮抗関係の中で、韓国民衆が実現した4・27南北朝鮮首脳会談の圧倒的成功。「朝鮮半島(韓半島)の平和と繁栄、統一のための板門店宣言」は、休戦状態の朝鮮戦争を2018年内に実質的に「終戦」とすることを目指し、そのために停戦協定を平和協定に転換することへの展望を謳った。同時に、朝鮮半島の恒久的な平和構築に向けた南・北・米3者、または南・北・米・中4者会談の開催を積極的に推進することも宣言した。6・12米朝首脳会談(シンガポール)に向けて様々な政治勢力が激突する中、情勢は急展開しようとしている。
  こうした動きの中で、東アジア・北東アジアの平和確立と非核地帯構築へ向けて、日本は沖縄や岩国などの米軍基地廃止などで積極的に貢献できる可能性を秘めている。にもかかわらず、狭隘な愛国主義的憎悪で腐れきった安倍政権は、こうした朝鮮半島の動きを支持するどころか、妨害しようと躍起になっている。
  今年こそ、こんな醜悪な安倍政権を打倒し、人類普遍の強靭な人道主義を根本理念とする日本国憲法9条と前文を積極的に生かす時代を、私たち市民の運動で切り開いていこう。

http://8-6hiroshima.jpn.org/tudoi/2018/2018.html

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会  場:広島市まちづくり市民交流プラザ北棟5階研修室ABC
                 
(広島市中区袋町6番36号)(袋町小の建物です)
      http://www.cf.city.hiroshima.jp/m-plaza/kotsu.html
                                                                             (地図)
参加費 :1,000
主  催:8・6ヒロシマ平和へのつどい2018実行委員会(代表/田中利幸)
事務局 :広島市中区堺町1551001
      電話090-4740-4608FAX082-297-7145
      Eメイル kunonaruaki@hotmail.com (久野成章)
           Yuki Tanaka Email: suizentanaka@gmail.com
HP  :http://8-6hiroshima.jpn.org/tudoi/tudoi.html
      8・6つどいHP
      http://yjtanaka.blogspot.jp/
                  田中利幸ブログ  
郵便振替:013206757686つどい」
      集会趣旨に賛同していただける方に一口1,000円のカンパを求めています。
      お名前を集会当日資料に記載します。

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8月6日(月)行動日程

07:00  「市民による平和宣言2018」「8.6新聞意見広告」配布行動(原爆ドーム前他)
07:45
  グラウンド・ゼロのつどい(原爆ドーム前)
08:15
  追悼のダイイン(原爆ドーム前)
08:30
  「8・6広島」デモ出発(原爆ドーム前~中国電力本社)
09:15
  中国電力本社前・脱原発座り込み行動
10:15
  終了
10:30
  フィールドワーク・原民喜の「夏の花」を歩く
10:50 
 ヒロシマ・スタディ・ツアー2018「広島湾の戦争遺跡と軍事施設を巡る」
11:00
  フィールドワーク・極東最大級の米軍岩国基地/錦帯橋ツアー





2018年6月2日土曜日

15年戦争史概観(V)


- 戦争責任問題を考えるための予備知識 - 
(5) 太平洋戦争の歴史的経緯
*第1期「日本軍攻勢」段階
*第2期「戦略失敗による態勢逆転と大量餓死」段階
*第3期「死守・撤退の中での棄民と玉砕の悲劇」段階
*第4期「壊滅的敗退と軍民無差別大量死」段階

太平洋戦争4段階の歴史的経緯
  太平洋戦争は、日本側から戦局の推移を見た場合、4つの時期に区分できると私は考える。

第1期「日本軍攻勢」段階
1941年12月8日の英領マレー北部コタバルとタイ南部シンゴラへの陸軍部隊の奇襲上陸と海軍による真珠湾への奇襲攻撃から、1942年5月初旬の珊瑚礁海戦の結果としてのポートモレスビー海路攻略作戦の中止まで。
第2期「戦略失敗による態勢逆転と大量餓死」段階
1942年6月のミッドウェー海戦における日本海軍の大敗北と8月の米軍ガダルカナル上陸を経て、ガダルカナルとニューギニアでの激戦。さらに、8〜11月にかけてのソロモン海、南太平洋での4回の海戦と航空兵力のいちじるしい消耗を経て、1943年2月のガダルカナル島撤退まで。
第3期「死守・撤退の中での棄民と玉砕の悲劇」段階
ガダルカナル島撤退から、1944年6月のマリアナ沖海戦でのさらなる敗北と、同年7月のインパール作戦の失敗、サイパン島などマリアナ諸島での玉砕と放棄まで。
第4期「壊滅的敗退と軍民無差別大量死」段階
マリアナ諸島放棄から、1944年10月のレイテ沖海戦での日本海軍のほぼ全滅に続くレイテ戦、1945年2月の硫黄島戦、沖縄戦、米軍による日本本土無差別爆撃を経て1945年8月の敗戦まで。

  この時期区分からも分かるように、日本帝国陸海軍が攻勢を見せたのは最初の半年のみで、その後は、アジア太平洋各地で、多くの将兵と日本人市民、さらには数多くのアジア諸民族の人々を残酷な死に追いやる連続の、長くて実に破壊的な3年3ヶ月間であった。単に多くの人間生命が失われただけではなく、広範に及ぶアジア太平洋各地の文化と自然環境がこれほどまでに深刻な打撃を被ったことは、それまでの歴史上で初めてのことであった。
 今回は、主として太平洋戦争の「戦史」に焦点を当て、大本営の無謀な戦略の繰り返しのゆえに、いかに多くの日本軍将兵の生命が消耗されたか、その悲壮な歴史を簡略に省みてみたい。日本軍が占領地住民や捕虜に対して犯した様々な残虐行為に関しては別稿で取り扱うことにする。

第1期「日本軍攻勢」段階
  日本時間1941年12月8日午前2時頃に、山下奉文中将を司令官とする陸軍第25軍の先遣兵団が、シンガポール攻略を目指して、英領マレー北部のコタバルとタイ南部のシンゴラに奇襲上陸。同日午前3時25分(ハワイ時間で7日午前7時55分)に、南雲忠一中将が指揮する空母6隻を基幹とする第1航空艦隊が真珠湾を奇襲攻撃した。しかし、東京とワシントンの日本大使館の間の連絡ミスから、アメリカ政府に日本政府の最後通牒(宣戦布告)が手渡されたのは、奇襲開始からほぼ1時間も経ってからであり、これが、「だまし討ち」をした日本に対するアメリカ国民の感情を一挙に憤激させる口実 – “Remember Pearl Harbor”(真珠湾<だまし討ち>を忘れるな) - を与えてしまった。
  フィリッピンにたいしては、12月8日の夜明けとともに台湾から飛びたった陸軍航空隊がルソン島を先制空襲し、これに続く海軍航空部隊による攻撃で、一挙に制空権を掌握。10日には第14軍(司令官・本間雅晴中将)陸軍部隊がルソン島北部に上陸し、マニラに向かって侵攻。しかし、マッカーサー将軍が率いる米軍・比(フィリッピン・ユサッフェ)軍はバターン半島とマニラ湾口のコレヒドール島要塞に立てこもり粘り強く抗戦。このため、日本軍がマニラ市を占領するには翌1942年の1月2日までかかった。バターン半島では激しい攻防戦の結果、マッカーサーはオーストラリアに向けて脱出したが、米比軍(米軍1万2千名、比軍6万4千名)は4月9日に降伏。コレヒドール島要塞の攻略は5月7日までかかった。
  マレー作戦では第25軍部隊が1月11日にクアラルンプールに侵入し、1月31日にはマレー半島南端のジョホールバルを占領。シンガポール攻略は華僑の抗日義勇軍と英連邦軍の激しい抵抗のため2月15日までかかり、占領後はここを昭南島と名付けた。シンガポール攻略戦で捕虜になった英連邦軍将兵(英軍、英植民地インド軍、濠州軍)は約8万人、その上にマレー半島戦闘で投降した5万人の合計13万人。
  石油資源を有する蘭印(オランダ領東インド)攻略作戦には今村均中将を司令官とする第16軍の諸部隊があたり、12月16日から2月10日までにボルネオ島の要地を制圧。2月14日には落下傘部隊のパレンバン降下とそれに続く主力部隊の侵攻でスマトラ島を制圧し、2月20日には中立国ポルトガル領のチモール島を制圧。ボルネオ、スマトラ、チモールの三方からジャワ島を包囲する態勢でジャワ島攻略に向かった。日本軍のジャワ島上陸を阻止しようと、蘭英濠米連合艦隊が出撃したが、2月27日のスラバヤ沖海戦、さらに3月1日のバタビア沖海戦で日本軍艦隊によって壊滅させられた。第16軍は、3月1日にジャワ島に上陸。3月9日にはオランダ軍は無条件降伏し、翌日に第16軍はバンドンを占領した。ジャワ島だけでも捕虜になった連合軍(蘭印軍、濠州軍、英軍、米軍)兵の数は8万3千名ちかくいた。
  (緒戦でこれほど多くの連合軍捕虜が出るとは考えていなかった日本軍には、捕虜のための食糧や医薬品の準備がほとんどなかった。このことが、戦時中に多くの捕虜の死亡者を出したことの大きな原因の一つであるが、捕虜虐待問題については次回取り上げる。)
  太平洋戦線では、堀井富太郎少将を司令官とする南海支隊が、12月10日にグアム島を占領したのち、ウェーク島、ビスマルク諸島に侵攻し、1月23日にはニューブリテン島のラバウルを占領。3月8日には、東部ニューギニアの東北岸のラエとサラモアに、飛行基地設定の目的で第4艦隊と南海支隊の一部が上陸。
  当初の計画よりも1ヶ月も早く東南アジア各地の要域を占領下においた日本軍は、勢いにのって、最初の予定に入っていなかったビルマ攻略作戦を繰り上げて実施。飯田祥二郎中将が率いる第15軍がタイからビルマに侵攻し、1月31日にはモールメンを、3月8日にはラングーンを占領した。
  かくして開戦から半年も経たないうちに、東南アジアから南西太平洋に至る広大な日本が「大東亜共栄圏」と呼んだ- 地域が日本軍の占領下に入った。しかし、緒戦における日本軍の圧勝は、日本軍が準備を十分に整えて奇襲攻撃を行ったのに対し、連合国側はヨーロッパ戦線での戦闘にエネルギーを集中させており、そのためアジア太平洋戦域での準備は極めて不備であったという状況によるところが大きい。しかも、連合軍側は、士気の点で劣る守備軍と植民地軍隊で対抗しなければならなかった。
 
 しかしながら、この開戦時の日米両国の経済力にはすでに格段の差があった。このとき、アメリカの国民総生産額は日本の11.8倍、粗鋼生産では12倍以上、航空機生産で5.2倍、商船建造で5倍、軍事費で2倍以上であった。日本軍は、この経済力の格差を忘れ、緒戦の勝利感に酔って自己過信し、やたらに戦線を拡大して自ら破綻の原因をつくっていったのである。この経済力の格差は、早くも開戦の半年後から戦域各地で表れはじめる。
  日本軍が南西太平洋を占領すると、海軍はオーストラリア占領を計画。一方、対ソ戦のための戦力を節約・強化したいと考えていた陸軍は、この海軍の計画に反対。そこで妥協策として計画されたのが、アメリカとオーストラリアを結ぶ輸送路を遮断するための、オーストラリアにとっての重要拠点であるニューギニア東南岸のポートモレスビー(以下「モレスビー」と略)と、南太平洋のサモア、フィージー、ニューカレドニアの3諸島を、陸海軍協同で攻略する「米濠遮断作戦(FS作戦)」で、これを5月と7月頃に実施することが決められた。さらに海軍は、真珠湾攻撃で撃ちもらした米空母を誘き出して、米海軍太平洋艦隊を一挙に撃滅するための海軍独自の短期決戦、「ミッドウェー・アリューシャン作戦」を計画し、4月16日に天皇裕仁に上奏し允裁をえた。
  しかしその直後の4月18日早朝、アメリカ空母ホーネットから発進したドゥーリトル中佐率いる16機のB25中型爆撃機が、正午過ぎから東京、横須賀、名古屋、神戸を奇襲爆撃し、1機も撃墜されることなくそのまま日本上空を通過して、中国大陸とソ連沿海岸へと飛び去った。被害は死者50人、負傷者400人以上。空襲被害としてはそれほど大きくはなかったが、本土の制空権を破る侵入に軍部も政府も大きな衝撃を受けた。このため、陸軍もミッドウェー・アリューシャン作戦に加わることに熱心になり、陸海軍協同で6月中旬に実施することとなった。
  これに先立つ5月7〜8日、モレスビー攻撃に向かっていた日本軍空母艦隊は、ソロモン諸島とニューギニアの間の珊瑚海で待ち受けていた米艦隊と遭遇し、日本側の空母3隻に対し米側は空母2隻という、初めての「空母対空母」決戦を展開。この時点でアメリカ側は日本海軍の暗号をすでに解読することに成功しており、日本側の動きはアメリカ側に筒抜け状態であった。米側の空母・レキシントンが撃沈され、日本側も小型空母・祥鳳を失い、空母・翔鶴が戦闘不能となった。艦隊機を日本側が43機と米側が33機を失い、その結果、日本はモレスビー海路攻略作戦を延期し、結局は中止せざるをえなくなった。戦闘という観点だけから見た場合には引き分け状態であったこの珊瑚海戦は、日本軍の拡大をここで停止することができたという点で、連合軍側にとっては心理的な転換期となった。これ以降、連合軍側は攻勢に変わっていく。

第2期「戦略失敗による態勢逆転と大量餓死」段階
  1942年6月5日〜7日のミッドウェー海戦では、日本海軍の連合艦隊のほうは、「赤城」など空母4隻を中心とする第1機動部隊(南雲忠一司令長官)を前衛において、その約500キロ後方に連合艦隊長官・山本五十六が坐乗する旗艦「大和」など戦艦7隻、巡洋艦3隻、駆逐艦21隻という大編成であった。ところが、暗号解読によって日本側の作戦を事前に察知していたアメリカ太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将は、ミッドウェー島の防備を固めると同時に、空母3隻を含む第16と第17の両機動部隊をミッドウェー島北方の海上に待機させ、日本海軍の第1機動部隊を待ち伏せさせた。この待ち伏せ作戦で先制集中攻撃を受けた第1機動部隊は、空母4隻と艦載機285機の喪失という大打撃を受け、精鋭のパイロット約110人を含む3千人以上が死亡。そのため、作戦を途中で中止して敗退。
  シベリアへの米航空部隊進出と米ソ間の連絡を妨害する目的で行われたアリューシャン作戦のほうではアッツ・キスカ両島を無血占領したが、日本海軍はミッドウェーの大打撃で当分のあいだ積極的な攻撃作戦をとれなくなったため、「米濠遮断作戦(FS作戦)」も延期され、結局は中止された。
  日本海軍は、先の中止されたモレスビー攻略作戦の際に、その攻略の前線基地にするために、アメリカとオーストラリアを分断する戦略の要衝であるソロモン諸島東端のフロリダ島のツラギを占領していた。7月上旬から、そのツラギの対岸にある小島ガダルカナル(いわゆる「ガ島」)に設営隊・守備隊の合計約3千名を送り込み、飛行場を造成しつつあった。その完成寸前の8月7日、米軍は1万人を超える数の海兵隊を一気に投入し、ツラギも含めて制圧して飛行場も確保。このガ島奪還を目指す日本軍は、なんらの情報収集もせずに、軽装備の部隊を次々と送り込んで壊滅させるという失敗の繰り返しを半年間も続けた。その上、ガ島確保によって、米軍側がこの地域の制空権・制海権を握ったため、日本軍は武器弾薬、食糧、医薬品も送ることができず、結局は、1943年2月の撤収までに、上陸した兵士31,400名のうち20,860名が死亡、このうちの1万5千名ほどが餓死またはマラリヤなどによる病死者であった(このため、ガ島はしばしば「餓島」と記される) 
ガダルカナル上陸作戦で壊滅させられた日本軍将兵の屍体    

海軍は、ガ島奪還のためにニューブリテン島ラバウル基地の航空兵力を繰り出し、新結成の第8艦隊も出撃させて、8月初旬から11月初旬まで、第1次〜第3次ソロモン海戦や南太平洋海戦を展開。その結果、小型空母1隻、戦艦2隻のほか多くの輸送船を失ったが、とりわけ、ミッドウェー海戦に続いて、再び航空兵力をいちじるしく消耗した。 
  一方、ニューギニアのモレスビー海路攻略作戦は中止となったが、大本営はモレスビー攻略をあきらめたわけではなかった。東部ニューギニアの東北岸のブナからモレスビーまでの密林、図上距離220キロメートル(途中に標高4千米以上のスタンレー山脈があるので、実質距離は360キロ)を徒歩で侵攻するという全く無謀な計画がたてられ、第17軍所属の南海支隊と歩兵第41連隊の約1万5千名ちかい兵が8月中旬に送り込まれた。ガ島同様に、ここでも携帯食糧が1ヶ月で底をつき、作戦は完全に失敗。最終的に、1943年1月のブナ方面からの撤退時までに、なんとか救出された兵はわずか3千名にすぎず、1万2千名の死亡者の7割が餓死・病死であった。
  こうした作戦上の失敗の連続で多くの将兵を死なせながら、いずれの場合も責任の所在を明らかにせず、しかも失敗の原因について徹底的に研究し、失敗から教訓を得るという努力を陸軍も海軍も怠った。それのみか、大本営は、失敗の事実を秘匿し、事実とは全く異なる虚偽の「戦果」(例えば、「東太平洋に感激の壮烈戦 ミッドウェーを強襲 空母2隻を撃沈」1942年6月17日)を次々と国民には発表した。この虚偽の戦果発表は、1945年8月の敗戦まで一貫して続けられた。(ちなみに、最近話題になった「自衛隊イラク派遣日報」の隠匿の事実は、自衛隊幹部が太平洋戦争の歴史から「情報開示」の重要性という点で何も学んでいないことを明示しており、こんな自衛隊が戦争をするなら、国民に対していったいどんな嘘の情報を流すかを想像することは難しいことではない。そんな自衛隊を批判追及する野党国会議員を現職の自衛官が「お前は国民の敵だ」と罵倒する行為は、まさに戦前・戦中の、シビリアン・コントロールが全く機能していない状況を彷彿とさせる。情報隠匿とその責任所在の不明、シビリアン・コントロール不能という点では、根本的に現在の日本は戦時中となんら変わっていないということを、我々は忘れてはならない。)    

第3期「死守・撤退の中での棄民と玉砕の悲劇」段階
  モレスビー陸路攻略作戦の大失敗にもかかわらず、それでも大本営はあきらめきれず、ブナ奪回を目指し、さらにモレスビー北西200キロの地点にあるニューギニア南岸の要衝ケレマを北東岸のラエ、サラモアから広大な密林と中央山脈を横断して占領し、そこからモレスビーを包囲するという計画を立てた。前回同様、無責任にも、現地の広大な密林地帯という地勢状況を全く知らない大本営スタッフが、中国戦線の平原地帯と同じように容易に行動できるという前提で立てた作戦である。この作戦実施のために、1943年3月以降、第18軍の将兵を次々と北東岸に上陸させ、結局は合計で14万8千人という膨大な数にのぼる将兵が送り込まれた。彼らのほとんど全員が、飢餓・栄養失調と熱帯病に苦しみながら、生き延びるためには人肉食も厭わず、濠米両軍に追撃されて密林の中を逃げ回るという、文字通り地獄のような苦しみを長期間続けることになった。その結果、戦後に生還できたのは1万3千人に過ぎず、13万5千人(死亡率91パーセント)という犠牲者を出した。
  1943年4月18日、ラバウルから最前線視察に向かっていた連合艦隊長官・山本五十六の搭乗機が、暗号解読でこれを知って待ち伏せしていた米軍機に、ブーゲンビル島上空で襲われて撃墜され、山本は戦死。国民最大のヒーローであったこの山本長官死亡の情報も、国民に与える衝撃を恐れてしばらくは報道されず、5月21日なってようやく公表された。
  5月11日にはアリューシャン列島のアッツ島に米軍が上陸。山崎保代大佐率いる2,379名の日本軍は、日本からの支援が全くない孤立無援の状態で、苦戦の末に5月29日に敵地に最後の「玉砕(=自殺)」突撃を敢行。捕虜となった29名を除いて、あとの全員が戦死または自決した。これが、それ以降、太平洋各地の島々で繰り返される「玉砕」 - 死ぬまで闘うことを強要され、降伏を許されない日本軍の悲劇 - の始まりであった。ちなみにキスカ島の日本軍は7月29日に無事に撤退したが、玉砕ではなく撤退を選んだひじょうに稀なケースであった。
  米海軍は1943年の夏までに新鋭空母「エセックス」級6隻と巡洋艦改造の小型空母9隻を太平洋艦隊に編入。艦隊機も新鋭のグラマンF6Fに替えて、防御システムを強化し、空母を防衛するという戦術をとった。一方、日本海軍のほうは、ミッドウェー海戦後に新たに建造した空母は、そのほとんどが商船を改造した防御力の弱い小型空母で、正規の空母は終戦までに3隻が建造されたが、完成した時点では搭載機と燃料不足のために、1隻も実戦に参加できなかった。しかも、海軍主力戦闘機零戦は、米軍が次々と製造した新鋭戦闘機に、開戦当初もっていた優越性を覆されたために、多くの搭乗機と優秀な搭乗員を失い、日本の航空戦力は急速に低下していた。日本軍の場当たり的な戦術戦略の結果と工業技術・生産力の格差が、すでにこの時期、航空戦力に如実に表れていた。また1943年後半から日本の軍需生産が次第に低下してきた理由の一つは、米潜水艦による商船撃沈によって資源確保が困難になってきたことである。
  9月8日にはイタリアが連合軍に無条件降伏したため、連合国側は米軍戦力の一部をヨーロッパ戦線からアジア太平洋戦線に振り向けることができるようになった。日本はこれまでの敗退の連続も考え、戦略の根本的再検討を迫られた。そこで、9月30日の御前会議で「今後採るべき戦争指導大綱」を決定し、大東亜共栄圏を縮小する「絶対国防圏」なるものが設定された。これによって、絶対確保すべき要域が、太平洋「北端の千島東の小笠原諸島・マリアナ諸島(サイパン・テニアン・グアム) - 南端の西部ニューギニア・スンダ 西はマレーからビルマまで」を結ぶ線とされた。縮小されたとはいえ、いまだアジア太平洋の広域にわたる地域が「絶対国防圏」とされたが、それは日本の(経済的、軍事的)占領能力をはるかに超える地域であった。

しかし、その結果、この「絶対国防圏」の外にある南太平洋の最大の基地ラバウルの約10万の駐留兵、東部ニューギニアの密林で飢餓状況で闘っていた10数万の将兵、マーシャル諸島ほかいわゆる内南洋離島の駐留兵12万人と1万人ほどの官民たちは置き去りにされ、見捨てられることになった。つまり、かれらはその後の2年間ほど「自活」して生き延びなければならなくなったのである。換言すれば、「絶対国防圏」は、30万人以上の自国民を「棄民」するという政策と裏腹になったものだったのである。
  11月21日には米軍はギルバート諸島タラワ・マキンに上陸し、25日日には日本軍守備隊は玉砕。1944年2月5日には、マーシャル諸島クワジャレンの日本軍が全滅。続いて、2月17〜18日、米軍は、中部太平洋における日本海軍最大の基地であるカロリン諸島トラック島を猛爆撃し、43隻の戦艦を沈め飛行機約270機を破壊して、基地を壊滅させた。2月23日、米軍は、今度はマリアナ諸島のサイパン・テニアンを猛爆撃、両島の基地航空兵力は壊滅的な打撃を受けた。2月24日には、マーシャル諸島ブラウン環礁の日本軍が玉砕。3月末には西太平洋のパラオ諸島が陥落。
  6月11日、米軍はサイパン島に上陸開始。19〜20日には、マリアナ西海域で日米両海軍機動部隊の決戦が行われたが、この「マリアナ海戦」で、日本側は3隻の空母を撃沈され、395機を失った。これに対し、米軍側の沈没艦数はゼロ、撃墜37機(そのほか事故損出80機)にとどまった。日本海軍は、この惨敗で機動部隊が壊滅状態となった。一方、サイパン島に駐留していた約3万人の日本軍は、海と空の両方から支援を受ける約6万7千人の米軍の圧倒的な攻撃を受け、7月7日に最後の総突撃を決行し、翌日に玉砕全滅。非戦闘員の在留邦人犠牲者は約1万人いたが、その中の4千人は、島の北端に追い詰められて手榴弾や毒薬で自決、あるいは断崖(バンザイ・クリフ)から投身自殺した。さらに、軍の作戦上足手まといになるとして、兵たちに虐殺された現地住民もいた。マリアナ諸島の陥落で、制空権・制海権は米軍に握られ、太平洋側の「絶対国防圏」は完全に破綻した。
  太平洋には、日本軍が守備隊を配置した大小様々な島が25あった。そのうち米軍が上陸し占領したのは8島にしかすぎず、重要ではないと見られた残る17島を米軍は戦線の背後に放置しておいた。8島で玉砕した数は11万6千人。孤島に取り残されたのは16万人で、そのうち4万人ほどが米軍と闘うこともなく餓死、または熱帯病で死んでいった。
マーシャル諸島で餓死寸前に米軍捕虜となった海軍兵たち
 
「絶対国防圏」の西端のビルマに近いインド領インパールでも、多くの自軍兵士の命を奪う無謀な作戦が行われた。南方軍第15軍司令官牟田口廉也中将がインド・アッサム州の攻略「インパール作戦」を強硬に主張。これを直属上司であるビルマ方面軍司令官・河辺正三中将が支持(ちなみに、河辺と牟田口は、1937年7月の盧溝橋事件のときの支那駐屯歩兵旅団長と支那駐屯歩兵第1連隊長で、戦争開始の最高責任者)。1944年3月、第15軍所属の3個師団が、たった2週間分の携行食糧しか持たずインパール付近まで進攻。しかし、攻撃を開始した段階ですでに食糧も弾薬も不足。そのため、制空権を確保して圧倒的な火力と物資で支えられた英印軍の反撃を受けて苦戦。5月には雨期の激しい雨の中、武器も食糧も枯渇し、兵士は飢えとマラリヤや赤痢のため次々と倒れていった。にもかかわらず、牟田口は、攻撃に消極的な師団長3名全員を罷免して攻撃続行を命じた。結局、日本軍は壊滅状態となり、7月10日に作戦中止。氾濫する河川と泥濘の中を、英印軍に追撃されながら、日本軍は500〜1,000キロを退却するという悲惨極まる苦闘を強いられた。ようやく10月中旬に撤退が完了した段階で、参加者兵士約9万人のうち3万人が死亡、4万人が戦傷病に倒れた。日本軍が養成したチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍もこの作戦に参加して、壊滅。翌1945年3月にはビルマのマンダレー、5月にはラングーンが英軍に奪回され、アウンサンが率いる日本軍養成のビルマ国民軍も反乱を起こし、かくして「絶対国防圏」の西側も崩壊した。

第4期「壊滅的敗退と軍民無差別大量死」段階
  1944年6月のマリアナ沖海戦敗北と、同年7月のインパール作戦の失敗、サイパン島などマリアナ諸島での玉砕と放棄で日本の「絶対国防圏」が崩壊したあと、米軍は、今度はフィリッピンを目指して進攻。10月18日、アメリカ第7艦隊は650隻という大船団でレイテ湾に殺到。これを迎え撃つ日本海軍連合艦隊も残り少なくなった艦船を総動員して出撃し、三方向からレイテ湾突入をはかり、米機動部隊をひきつける「おとり艦隊」をルソン島に向かわせた。しかし、10月23〜25日に行われたこの「レイテ海戦」では、日本軍はレイテ突入に失敗し、空母「瑞鶴」1隻、戦艦「武蔵」など3隻を含む合計30隻を失って、連合艦隊はほぼ壊滅状態となった。これに対し、米軍側の損失は空母1、護衛空母2、駆逐艦3であった。
  このレイテ海戦では、海軍第1航空艦隊司令官・大西滝治郎中将の発案による、250キロ爆弾を搭載した零戦で戦闘機もろとも敵艦隊に体当たりする、「神風特別攻撃隊(特攻隊)」が編成され、初めて出撃。陸軍も万朶隊、富岳隊などの特攻隊を編成。11月中旬以降は、航空兵力を急減に消耗させる絶望的なこの特攻戦法が航空攻撃の主体となり、沖縄戦でも多くの青年たちが「特攻隊員」として自殺攻撃を強いられた。特攻隊で戦死した者は、合計3,948名であった。その上に、人間魚雷「回天」や小型ボート「震洋」を使った自殺攻撃の特攻戦死者が1,448名いた。特攻隊員のほとんどの青年たちは、自分たちが犠牲になることで日本が勝利するなどとは夢想もしなかった。彼らが期待していたのは、「特攻作戦」で米軍側に恐怖を与えることで、なんらかの形で「停戦」がもたらされることであった。しかし、実際には神風特攻は、それほど大きな成果をもたらさなかった。
  マッカーサー将軍が率いる25万人という大軍に囲まれたレイテ島の日本軍は、補給を全く受けられないまま苦戦を強いられ、12月には全滅状態。玉砕を強いられた日本軍の戦死者は79,561人、捕虜800人あまりという悲惨な結果であった。
  ルソン島の日本軍は、本土防衛の時間稼ぎのために持久戦を命じられた。1945年2月3日にマニラに突入した米軍と市街戦になったが、住民の抗日ゲリラ活動に悩まされた日本軍兵士たちは多くの市民を無差別殺傷・強姦し、市街地を廃墟と化した上で全滅。山中での持久戦をはかるため、マニラを捨てて北部山岳地帯に逃れた第14方面軍は、補給もないまま飢えとマラリヤに苦しみ、ニューギニアの日本兵同様、人肉を食べてまで米軍・フィリッピン・ゲリラと戦い、密林の中を彷徨する状態となった。結局、フィリッピン戦での日本軍戦死者総数は48万6千人以上という驚愕的な数字にまで達し、敗戦時の生存者は12万7千人であった(死亡率80%)。
  1945年2月19日、米軍は3万発におよぶ猛烈な艦砲射撃に続いて、7万5千人の兵力を動員する大編成軍を硫黄島に上陸させた。迎え撃つ日本軍は、栗林忠道中将が率いる守備隊2万3千人で、延長約18キロにもおよぶ坑道陣地にたてこもって持久・ゲリラ戦の戦法をとった。3月27日の栗林の自決まで、太平洋戦線でもっともすさまじい死闘が続いたが、この戦闘で日本軍は21,304人が戦死(死亡率93%)、米軍側も戦死傷者が約2万3千人に達した。硫黄島を確保した米軍は、ここに航空基地を建設して、日本本土爆撃に向かうB29爆撃機を護衛する戦闘機を配備。またB29の燃料補給や不時着飛行場としても活用した。
  敗戦が避けられないような非常に不利な戦況に深い不満と不安をおぼえた天皇裕仁は、1945年2月7日から26日にかけて、平沼騏一郎、広田弘毅、近衛文麿、若槻礼次郎、牧野伸顕、岡田啓介、東條英機を次々と個別に呼んで意見を聞いている。「1日も速やかに戦争終結の方法を考えるべき」という近衛の意見に対して、裕仁は、「戦闘で大戦果をあげ、戦争をこのまま継続すれば不利であることを敵にさとらせたうえで和平交渉に持ち込むこと、これ以外にうつべき手はなし」という広田の進言に基づき、「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思う」と述べた。裕仁は台湾で米軍に大打撃を与えて「大戦果」をあげ、停戦交渉のきっかけにしようと考えていたようで、そのためには沖縄を「国体護持」という自己保身のための「捨て石」にしようとしたと思われる。
  1944年12月、大本営は沖縄防衛のための第9師団を台湾に転出させ、さらに本土から第84師団を増援部隊として沖縄に送るという計画も中止した。フィリッピン同様、ここでもまた大本営は、沖縄に消耗戦を強いることで本土決戦の準備のための時間稼ぎをしようとしたのである。
  硫黄島の戦闘が終末段階に入った3月23日から連合軍の沖縄進攻が始まるが、沖縄攻略軍は、空母19隻・戦艦20隻を中心とする艦船約1,400隻、艦載機1,700機、人員45万からなる巨大軍団であった。猛烈な艦砲射撃に続いて、3月26日には慶良間諸島に、4月1日に米軍は沖縄本島に上陸。沖縄本島に上陸したのは、第10軍司令官バックナー中将率いる陸海軍合わせて18万3千人の将兵。これに対して、日本軍の兵力は陸軍86,400人(そのうち、戦闘部隊として本土から派遣されたのは5万名のみ)、海軍8,000人(武器操作ができたのはそのうち3千名のみ)。このため第32軍司令官・牛島満中将は、上陸軍には無抵抗で、島の南部で持久戦法をとる戦術をとった。上陸したその日のうちに米軍は北・中の両飛行場を占領。この無抵抗に大本営は驚き、裕仁も「現地軍はなぜ攻勢に出ないか」という叱咤もあって、第32軍は4月12日になってようやく総攻撃に出たが、大損害をこうむったため、再び持久戦法に戻った。
  裕仁は海軍へも攻撃を要求し、そのため4月5日、海軍は戦艦大和と駆逐艦など9隻からなる「海上特攻隊」に沖縄突入を命じた。この海上特攻隊は、航行2日目の4月7日午後、九州南西洋上で米機の攻撃にさらされ、大和ほか5隻が沈没、3,721名の将兵が戦死。これをもって連合艦隊の海上兵力は文字通り全滅した。この沖縄戦では神風特攻攻撃も激しく繰り返され、陸海軍合わせて2,393機の特攻機が投入された。そのうえ、海の特攻である人間魚雷「回天」も出撃させ、多くの能力ある若者の命が消耗された。米軍側の損害は沈没36隻であったが、しかし、その中に空母・戦艦・巡洋艦は1隻も含まれていなかった。
  5月にはドイツが降伏し、沖縄戦の見通しも極めて悲観的になってきたにもかかわらず、軍部の強硬派は「本土決戦」を主張して戦争を継続。6月末まで続いた沖縄戦では、降伏を許されない日本軍の玉砕戦法に多くの一般住民が巻き込まれたため、軍人・軍属の戦死者約9万4千人とほぼ同じ数の一般住民・戦闘協力者が亡くなった。軍人・軍属・一般住民の総戦死者数18万8千人のうち、沖縄県民の死亡者は12万人、さらにマラリヤ病死や餓死を含めると15万人になると推定されている。つまり、当時の沖縄県民の56万人の4人に1人以上が戦死したのであった。米軍の戦死者は12,520人であった。
  一般住民の戦死者がそれほど多かった理由には、戦力不足を補うため、17歳から45歳までの男子約2万5千人が防衛隊に組み込まれて戦闘に従事させられたこと;中学校・女学校の男女学生が鉄血勤皇隊・ひめゆり隊などの学徒隊として従軍させられたこと;米軍の猛烈な砲撃の犠牲となっただけではなく、日本軍による壕追い出しと食糧強奪、戦闘のじゃまになる、米軍に協力したというスパイ容疑などが原因での死亡や殺害;皇民化教育の結果としての集団自決、などが挙げられる。また、開戦時、沖縄には1万〜2万人と推定される朝鮮人が、飛行場や軍用施設の建設のための軍夫として連行されてきており、彼らの中からも多くの犠牲者が出た。さらに朝鮮人女性の中には軍性奴隷(いわゆる「慰安婦」)として、戦闘中も日本軍に酷使された人たちがいた。
  マリアナ諸島(サイパン・テニアン・グアム)を1944年7月までに確保した米軍は、ここにB29爆撃機の一大基地を設置し、同年11月下旬から日本本土への爆撃を開始した。当初は軍事施設を攻撃目標とする「精密爆撃」であったが、すぐに人口密集地の一般住宅も焼夷弾による爆撃の対象とするようになり、1945年8月15日までに、東京、名古屋、大阪、神戸、福岡などの大都市はもちろん、日本全国の100あまりの都市を含む393市町村に、米軍は最終的に16万8千トンにのぼる爆弾・焼夷弾を投下した。その推定死傷者は102万人、その半数以上の56万人が死亡者、死亡者の7割近くが女性と子供であったと言われている。これらの死亡者のうち、約10万人は3月10日深夜の東京大空襲での焼夷弾による猛火の犠牲者であった。
東京大空襲:焼夷弾で破壊された車と重なる焼死体 
 
  無差別爆撃とはいえ、なぜゆえにこれほど多くの一般市民の犠牲者が出たのであろうか。日本は1937年に「防空法」を成立させたが、この法律が実際に目的とするところは、国民の生命・財産を敵の空爆から守ることではなく、国民を防空演習・訓練に総動員することによって統制・支配することにあった。しかも、1941年の法律改正で、「退去の禁止」と「応急消火義務」が加えられることによって、幼児、老人、病人を除いて原則として市民が「空襲避難」することは認められず、居住者の事前退去、すなわち無断で居住地から避難することも禁止された。すなわち、焼夷弾が降り注いでも「避難することは許されず、消火作業に奮闘せよ」という命令である。海外戦闘地域の前線で兵士たちが玉砕を強いられたのと同様に、いわゆる「銃後」の日本国内においても、実は「防空」という名称で、この「玉砕」の思想が、戦闘地域のようにはっきり見えない形ではあるが、国民全員に強いられていたのであるということを、我々は明確に認識しておく必要があるすなわち、天皇制軍国主義のもとでは、戦争が激しくなるにしたがい、「前線」と「銃後」の実質的な差異はなくなり、国民はすべて自分の生命・財産を国家のために犠牲にすることを強いられるというのが、その国家論理だったのである。
  1945年8月6日、朝8時15分、B29エノラ・ゲイ号から投下されたウラニュウム爆弾「リトル・ボーイ」が広島上空で炸裂し、さらに8月9日午前11時2分にはボックス・カーと名付けられたB29からプルトニュウム爆弾「ファット・マン」が長崎に投下された。広島では原爆攻撃により一瞬のうちに少なくとも8万人あまりが死亡し、1945年末までの総死亡者数は14万人(うち3万人が朝鮮人)と推定されている。長崎では同年末までに死亡した被爆者は7万人(うち1万人が朝鮮人)と言われている。また広島で使用された原爆1個による被爆者総数は45万人と言われている。そのほとんどは一般市民であった。
  この原爆無差別爆撃殺戮が日本政府をしてポツダム宣言を受け入れ降伏させる決定的要因となったと、しばしば言われる。しかし現実には、長崎への原爆攻撃後も日本への空爆はポツダム宣言受諾を決定する8月14日までほぼ毎日続けられ、酒田、長野、大阪などが爆撃された。したがって、日本の連合諸国への全面降伏決定には、8月9日のソ連の参戦とソ連軍の満州への進攻、米政府による戦後の天皇制存続への保障の日本政府による確認など、原爆とは別の軍事的、政治的要因が強く働いていたのである。
  特に、ソ連の参戦が日本政府の降伏に及ぼした影響は決定的であった。日本時間で8月8日午後11時、ソ連は、日ソ中立条約がいまだ有効であったにもかかわらず、日本に対して宣戦布告。150万人という兵力が、モンゴル人民共和国南部国境から沿岸州地方と樺太国境までの5千キロ以上にわたる全戦線に侵攻。満州国の関東軍は70万人以上の兵力を一応持っていたものの、主力部隊は太平洋戦線に引き抜かれ、その補充を在留邦人の成年男子の根こそぎ動員で埋め合わせた弱体武力であった。そのため、関東軍は全線にわたって敗走し、満州国は一挙に崩壊。関東軍に置き去りにされた老幼婦女子の在留邦人は、ソ連軍の猛攻撃の中を逃げ惑い、略奪・暴行・強姦され殺傷されるという残虐行為の被害者となった。土地を奪われた中国人が、復讐のために日本人を襲うというケースも起きた。かくして在満邦人155万人のうち17万6千人が死亡。そのうちソ連との国境近くに居住していた開拓団員27万人のうち、7万8千5百人が亡くなっている。日本政府がひじょうに恐れたのは、ソ連が日本降伏後の戦後処理で、天皇制廃止を強く要求し、日本の領土の一部もソ連支配下に入る危険性があることであった。そうした最悪の事態を避けるためには、ソ連軍が日本本土に上陸しない間に、正式に連合軍に降伏する必要があったのである。

結論
  結局、太平洋戦争における軍人・軍属・民間人全てを含む日本人戦没者の総数は310万人と推定されている。これら戦没者の実に18パーセントが無差別爆撃による犠牲者であった。一方、自国本土が敵に襲われることがなかったアメリカは、アジア太平洋全戦域で、東京大空襲の死亡者数とほぼ同数のやく10万人の死者(その大半が兵員)を出した。日本は15年という長い戦争の間に、その30倍以上の数の自国民の命を失った。しかし、同じ15年の間に、その日本は、推定2,100万人という数の死傷者の犠牲を中国に、その他にも数百万という数にのぼる死傷者の犠牲をアジアの様々な国民に強いた国であった。  
  なぜゆえに日本は、これほどまで多くの他国民のみならず自国民を戦争の犠牲者としたのであろうか。その最も根本的な原因は、明治維新以降、日本国家が国家原理としてきた天皇制軍国主義イデオロギーが、あらゆる人間が先天的に有しているはずの人類普遍的な「基本的人権」を最初から否定するものであったからというのが私の考えである。あらためて言うまでもなく、「基本的人権」尊重は民主主義にとって不可欠のものであるが、敗戦後の日本の政治改革派は、残念ながら下からの強烈な民衆の民主主義獲得運動として行われなかったため、いまも日本人には「基本的人権」に対する意識が薄弱である。そのことは、例えば、在日韓国・朝鮮人や女性に対する差別の実態を考えてみるだけでも明白である。戦争責任に対する意識の低さは、「基本的人権」に対する意識の低さと密接に関連しているのである。

2018年5月1日火曜日

15年戦争史概観(IV)


- 戦争責任問題を考えるための予備知識
(4)日独伊三国同盟から日米開戦決定まで
*急変する世界大勢に翻弄される短命内閣の連続
*日独伊三国同盟締結と対ソ連戦略、武力南進
*さらなる武力南進から開戦決定まで
*結論:対米英開戦の原因と最終的結果

急変する世界大勢に翻弄される短命内閣の連続
  日中戦争が日本の陸軍や政府の予想に反して長期化する中で、1937年11月に成立していた日独伊三国防共協定を軍事同盟にまで格上げしようという提案が、1938年8月にドイツ側から出された。ドイツにとってソ連のみならず英仏両国に対しても圧力となるこの同盟は、日本陸軍にとっても日中戦争の膠着状況を打破するために有効であると考えられた。なぜなら、この軍事同盟により、英国とソ連と対抗しているドイツとイタリアが英ソを威圧することで、日中戦争のゆえに弱体化している日本の対ソ連戦準備を補うことができるし、英ソ両国が行っている蒋介石政権への軍事援助も阻むことができると考えたからである。ところが、元老・重臣などの宮中グループと海軍は、防共協定の軍事同盟への格上げは英米との関係をさらに悪化させると懸念してこれに反対。とりわけ、当時の近衛内閣の海軍大臣・米内光政と海軍次官・山本五十六が強く反対し、陸軍大臣・板垣征四郎と対立。この対立が他の閣僚たちの間にも確執を引き起こして閣内不統一状況となり、日中戦争の行き詰まりもあって、近衛は首相の座を投げだし、内閣は1939年1月14日に総辞職してしまった。
  翌日、右翼国家主義団体・国本社の会長で枢密院の議長でもあった平沼騏一郎が首相に任命され、組閣。ところが陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣をはじめ近衛内閣の閣僚7人を留任させたため、閣内対立をそのまま引き継ぐ形になってしまった。
  同年5月11日には、満州国興安北省とソ連支配下にあるモンゴル人民共和国(いわゆる「外蒙古」)との国境係争地近くのノモハン付近で、外蒙古軍と満州国軍との武力衝突事件が発生した。日本側は外蒙古軍が「越境」したと見なし、これを撃破しようと第23師団から部隊を出撃させたが、ソ連軍の反撃にあって全滅状態。これがきっかけで5月下旬から断続的に日本軍とソ連軍の間で大規模な戦闘が起き、8月20日にはソ連軍が4狙撃師団、3戦車旅団、3装甲旅団の大兵力で総攻撃を開始。この戦闘に投入された日本軍は、8月下旬までに壊滅状態となってしまった。日本側はこれを「ノモハン事件」と呼んだが、実際には「ノモハン戦争」と称すべき内容の激戦であり、日本軍側の死傷者は1万7千人(うち死亡者7,720人)を超え、兵力の消耗率は32.2%(第23師団の消耗率は79%)という高いものであった。ソ連側も1万人近い戦死者と1万6千人ほどの戦傷・戦病者を出した。
  ところが、この戦闘がまだ続いていた8月23日に、ドイツが突然に独ソ不可侵条約を締結した。ドイツは、ポーランド侵略計画の実施をまぢかに控え、東欧と西欧での同時二正面戦闘を避けるために一時的にソ連と提携しておく必要があったし、東方で「ノモハン事件」を抱えていたソ連側も、西方での安全を確保しておく必要があった。したがって、この条約は、両国にとって一時的な妥協策として締結されたものであった。しかし、対ソ政策という目的で、日独伊三国防共協定の軍事同盟への格上げを審議していた平沼内閣にとって、この突然の独ソ不可侵条約締結はあまりにも衝撃的なものであり、8月28日には政策の行き詰まりを理由に総辞職してしまった。
  8月30日に予備役陸軍大将(「予備役」とは現役を終えているが、非常時にだけ召集されて軍務に服す軍人)阿部信行が首相となり、組閣。その2日後の9月1日にドイツがポーランドに侵攻したのを受けて、英仏両国がドイツに宣戦布告し、ヨーロッパで第2次世界大戦が始まった。こうした突然の状況変化のため、日独軍事同盟で日中戦争の局面打開をはかろうとした陸軍も、方針再検討を迫られる事態となった。阿部内閣は、日中戦争解決を最重要視して欧州での大戦への不介入を宣言し、「ノモハン事件」を停戦に持ち込んだ。しかし、これに先立つ1939年6月には、日本軍が天津のイギリス租界を封鎖したことから、7月26日にはその報復として米国が日米通商航海条約の廃棄を通告。8月には日本軍がイギリス植民地・香港に隣接する深圳を占領し、さらに華北から英仏駐屯軍を撤退させたため、中国における権益を阻まれた英仏米との対立はさらに悪化。内政面でも軍需インフレーション、物資不足、増税、貯蓄・献金の強制、公債負担など、国民の負担と犠牲は「満州事変」期の状況と比較にならないほど増大していた。そのため、1939年末には阿部内閣退陣要求の声が強まり、軍部も阿部内閣を見限ったため、わずか4ヶ月半で退陣に追い込まれ、1940年1月14日に総辞職。
  1月16日、今度は、親英米派・穏健派である予備役海軍大将・米内光政を首相とする内閣が成立。しかし1月末には日米通商航海条約が失効し、米国はまず工作機械の対日禁輸を実行した。(1938年度の段階では、日本の輸入に占める米国の比率は、総額の34.4%、石油類の75.2%、鉄類の49.1%、機械類の53.6%に達しており、米国への依存度がひじょうに高かった。)米内内閣は、悪化した英米との関係の改善を少しでもはかろうと試み、3月には陸軍が汪兆銘政権という傀儡政権を南京に樹立させ、蒋介石政権とも、謀略的ではあるが、一応「和平工作」を進めることを了承した。
  ところが4月にドイツ軍はデンマーク、ノルウェーを制圧し、5月にはオランダ軍、ベルギー軍を降伏させて、英仏軍をダンケルクにまで追い詰め、6月中旬にはパリを無血占領するという電撃作戦を展開。この急激な大勢変化に押されて、6月10日、イタリアも英仏両国に対して宣戦を布告。日本、とりわけ軍部の中には、このドイツの圧勝に幻惑されて再び日独伊三国同盟を推進しようとする革新派がにわかに台頭。東南アジアを植民地支配していたフランス、オランダ、イギリスがドイツに敗北したことは、日中戦争に行き詰まって資源確保にも難渋していた日本にとって、仏印(フランス領インドシナ=現在のヴェトナム・カンボジア・ラオス)や蘭印(オランダ領東インド=現在のインドネシア)などの資源を確保し、援蒋ルート(蒋介石援助ルート=英領ビルマ - 仏領インドシナ雲南重慶を結ぶ線)を遮断する絶好の機会到来と彼らはとらえた。とりわけ、当時は一大産油地帯だった蘭印の石油は魅力的であった。蘭印や仏印がドイツ支配下に入る前に日本が東南アジアへの侵略を完遂させようという「南進(南方進出)論」と、その結果必然的となるであろう「対英米対決論」があからさまに主張されるようになった。
  政友会や社会大衆党の一部の親軍派政治家たちがこうした主張を支持するために「聖戦貫徹議員連盟」を組織し、これに親軍的ファッショ政党である国民同盟、日本革新党、東方会などの政治家たちも加わった。こうした支持を背景に軍部革新派は、親英米的な米内内閣を打倒するため、軍部大臣現役武官制を利用して、陸軍大臣・畑俊六を単独辞職させて、7月16日に米内内閣を総辞職に追い込んだのである。かくして、米内内閣もまたわずか6ヶ月という短命内閣で終わってしまった。平沼、阿部、米内と次々と短命内閣が続いたことは、英米協調路線かそれとも日独伊三国同盟路線か、どちらを国家方針とするかの模索に、この時期、日本が揺れ動いていたことの表れであった。

日独伊三国同盟締結と対ソ連戦略、武力南進
  1940年7月17日、枢密院議長・近衛文麿に再び組閣の大命が下り、東条英機を陸軍大臣、吉田善吾を海軍大臣、松岡洋右を外務大臣に任命して第2次近衛内閣が成立。7月26日の閣議で、陸軍省軍務局の立案による「基本国策要綱」を決定したが、その根本方針は、日本、満州、支那(中国)の「強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」ことを目的とし、そのために日独伊三国同盟と武力南進という2つの政策をとるというものであった。「大東亜共栄圏の確立」(松岡洋右が外務大臣就任談話の中で使った表現)と「高度国防国家体制の確立」いう軍事拡大主義的な方針によって、ここにその後の日本の運命が決定づけられた。日独伊三国同盟は9月27日にベルリンで調印され、これによって、三国枢軸(Tokyo-Berlin-Rome Axis)と米英陣営連合諸国(The Allied Power)の世界的規模での対抗、すなわち世界帝国主義の二大陣営の対抗が明白なものとなった。
  第2次世界大戦は、根本的には、この二大陣営による植民地再分割戦争であったと言える。すなわち、アジア・アフリカ諸国を植民地として領有し続けようとうとする富める先進資本主義諸国である英仏蘭米に対して、植民地を拡大しようともくろむ後発の資本主義諸国である日独伊の間の戦争であった。ヨーロッパ戦線での戦争は、アフリカ地域で英仏蘭が支配する植民地のドイツ・イタリアによる争奪戦であり、アジア・太平洋地域では英仏蘭米の支配下にある植民地・半植民地の日本による争奪という性格をもつ戦争であった。ただし、枢軸国側の政策は、全体主義に基づく「新秩序建設」という名目での膨張主義であるのに対し、連合国側は、先進資本主義諸国による植民地領有継続のための戦いを、「民主主義防衛」と「不拡大主義」という美名の旗を掲げることで正当化した。
  日本がとった最初の「武力南進」行動は、北部仏印への日本軍進駐であった。6月にフランスがドイツに敗退したのに乗じて、日本は仏印の援蒋活動の中止を要求。フランスがこれに応じると、その上で今度は、フランスに対して日本軍5千名の北部仏印駐屯、ハノイなど3飛行場の使用と日本軍の通過を認めさせる協定を9月22日に成立させた。ところが、翌日9月23日には、参謀本部作戦部長・富永恭二が武力進駐の強行を命じ、中国・仏印の国境に待機していた第5師団(広島、師団長・中村明人中将)が、協定を無視して越境・侵入。

  アメリカはこうした日本の行動に対し、7月には、石油ならびに兵器製造に必要な屑鉄の輸出許可性、航空機用ガソリンの対日禁輸を実施。9月23日の仏印武力侵攻の3日後には、屑鉄の輸出を全面禁止した。その一方で、9月25日、アメリカは中国に2,500万ドルの借款を供与。12月1日には対日禁輸品目に鉄鋼、鉄合金などを追加し、翌日の12月2日には中国への1億ドル借款案がアメリカ連邦議会で可決された。日本は、ロンドンに亡命政府を置いていたオランダとの交渉で蘭印からの石油輸入をはかろうとしたが失敗。敵国ドイツと同盟にある日本にオランダが協力するはずはなかったが、仏印に日本の軍事基地を置いて威圧すれば、蘭印も石油供給に応じるかもしれないという甘い考えは、果たして誤算に終わった。
  かくして南方資源の確保がますます切実な問題となってきた日本は、武力南進の態勢をさらに強化していくことになる。1941年4月17日に大本営陸海軍部が作成した「対南方施策要綱」では、仏印、タイ、蘭印での資源確保にあたり、「米国が単独若しくは英、蘭、支と協同し帝国に対する包囲態勢を逐次加重し帝国国防上忍び得ざるに至りたる場合」には「帝国は自在自衛の為武力を行使す」と明記され、米英との戦争も辞さないという決意が確認された。
  しかし、日本がこのような武力南進を推進していくためには、北方すなわちソ満国境地域の安全を確保しておく必要があった。ノモハン事件で惨敗した経験からも、対ソ戦準備のためには戦備の大増強が必要なことは明らかであったが、そのためには「南進」遂行の間はこの北方で静謐が保たれなければならなかった。そこで外務大臣・松岡洋右が考えたのは、日独伊ソの四国協商(「協商」とは同盟関係ではない親善関係)をつくり、これを日独伊三国同盟と連結させることで米英両国を圧倒し、日独伊が主導する「世界新秩序」を作るという構想であった。1941年3月から4月にかけて、松岡はこの構想を携えてソ連とドイツを訪問するが、独ソ不可侵条約にもかかわらず、すでに対ソ攻撃を計画していたドイツはこの提案を事実上無視。ドイツの計画について全く知らなかった松岡は、そこでソ連に日本との不可侵条約締結を提案したが、ソ連側は不可侵条約ではなく中立条約を提案。松岡はソ連の提案を受け入れ、4月13日に5年間有効の日ソ中立条約が調印された。
  日本が「南進」を遂行していくためには、北方での安全確保と同時に、南進に対する最強の妨害者とみなされるようになったアメリカとの交渉も決定的に重要となってきた。1940年11月、近衛首相は米国大統領フランクリン・ルーズベルトと親交のあった野村吉三郎海軍大将を駐米大使に任命し、翌年1941年2月から主として国務長官コーデル・ハルを通しての折衝が開始された。これとは別に、4月には、ジェームズ・ウォルシュ、ジェームズ・ドラウトの2名のアメリカ人神父と産業組合中央銀行理事・井川忠男らが作成した民間私案の「日米諒解案」が、日米両政府に提案された。しかし、その内容は、アメリカが日本軍の中国からの撤兵と満州国承認を前提に、蒋介石政権と汪兆銘政権の合流をはかり、「南進」も平和的手段によるものという、日本にとってはきわめて都合の良いものであったが、米国政府にとっては受け入れがたいものであった。
  一方、ハルは、5月に、領土主権の尊重、内政不干渉、機会均等、太平洋地域の現状不変更の、いわゆる「ハル四原則」を日本側に提示。ところが、親独強硬派の外務大臣・松岡は、「日米諒解案」にすら反対で、「ハル四原則」には絶対反対を主張。5月3日に開かれた大本営政府連絡会議では、松岡の強硬論が通り、陸軍側も、アメリカが要求する中国からの撤兵、南進論放棄、日独伊三国同盟からの離脱を拒否すべきだと主張した。
  6月22日、突然、ドイツ軍によるソ連への奇襲攻撃が決行され、当初、ソ連軍は総崩れとなった。日本は、三国同盟にしたがえば独ソ戦に参加しなければならないが(事実、イタリアは参戦した)、日ソ中立条約にしたがえばソ連に対して中立を保たなければならない。日ソ中立条約を結んだ本人の松岡は、即時対ソ戦を主張。しかし、大本営政府連絡会議では様々な意見が出されて紛糾。結局、7月2日の御前会議で、「対英米戦準備を整え……南方進出の態勢を強化」しながらも、「密かに対ソ武力的準備を整え……独ソ戦争の推移帝国の為め有利に進展せば武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す」と決定された。
  具体的には、極東ソ連軍の多くが対独戦投入のためにヨーロッパに移送され、ソ満国境地域のソ連防備が手薄になるのを待って、ソ連攻撃を実行することにしたのである。そのため、7月2日のうちに、日本帝国陸軍創設以来の空前の規模での、総兵力16個師団85万人にのぼる動員命令が允裁(天皇によって認可)された。この大作戦には、「関東軍特殊演習(関特演)」 という軍事演習を装う秘密作戦名が使われた。しかし、ドイツ軍の侵攻で当初大混乱におちいったソ連軍も、7月に入ると態勢を立て直して長期抗戦体制を整えたため、極東ソ連軍の西方移送は日本が期待していたほど大規模なものにはならなかった。そこに後述するような武力南進での問題が急迫したため、参謀本部は8月9日に年内の対ソ武力行使をあきらめ、南進とそれによって起きると予想される対英米戦の準備に専念することにしたのである。

さらなる武力南進から開戦決定まで
  「武力南進」の次なる目標は、北部仏印に続いて南部仏印であった。兵力4万の第25軍(軍司令官・飯田祥二郎中将)を海南島に集結させ、その上で7月14日からフランスのビシー政府と交渉を行い、日本の要求を承諾させた。7月28日から第25軍は南部仏印に上陸を開始し、サイゴンを中心に8航空基地、サイゴン・カムラン湾に海軍基地を設定。結局、こうして日本は仏印全土を日本軍の制圧下に置いたのである。これによって、英国の東アジア支配の最大の根拠地であるシンガポールが、日本軍の空爆圏内に入ることとなった。
  仏印=インドシナは、日本軍と仏印当局の二重支配下におかれ、日本軍は民族運動を厳しく弾圧していた仏印当局を使って、住民から食糧・労働力を供出させただけではなく軍事費まで負担させるという圧政を行った。この二重支配は、1945年3月に日本軍が仏印当局を攻撃して単独支配を行うようになるまで続いた。

  7月2日の御前会議の決定と南部仏印への進駐計画を諜報活動で知ったアメリカは、対抗処置として7月25日に在米日本資産(5億5千万円)の凍結を発表。翌日にはイギリス、オランダも同様の措置をとった。アメリカは、さらに8月1日、日本への石油輸出の全面禁止を決定。この決定は、日中戦争を通じてアメリカと敵対関係を深めながら、そのアメリカに戦略物資面で、とりわけ最も重要な石油の供給の75%をアメリカに依存してきた日本にとっては致命的な打撃となるものであった。
  この時期になると、軍部は、陸海両軍とも石油確保困難の焦りから、対米英戦の決意をさらに強めた。米国の対日石油全面禁輸決定の前日の7月30日、軍令部総長・永野修身は「油の供給源を失うこととなれば、……戦争となれば1年半にて消費し尽くすこととなるを以て、寧ろ此際打って出るの外なしとの考えなり」と天皇裕仁に上奏した。9月6日の御前会議では、裕仁は外交交渉の続行の希望を暗示させながらも、「帝国<=日本帝国>は自在自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整」し、「外交交渉に依り10月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於いては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」という内容の「帝国国策遂行要綱」の決定そのものは否認しなかった。「帝国の要求」とは、具体的には、米英が「帝国の支那事変処理に容喙し又は之を妨害せざること」、「極東に於いて帝国の国防を脅威するが如き行動に出ざること」、「帝国の所要物資獲得に協力すること」の3つであった。
  ところが、国民に対して政府は、無謀な中国占領や「武力南進」の実態については説明せず、もっぱら米英支蘭が一方的に日本を包囲封鎖しつつあるという「ABCDAmerica, Britain, China and Dutch)包囲陣」の不当性を強調し宣伝することで、来たるべき対米英蘭戦争の正当化に努めたのである。(日本の右翼たちはいまだに、このABCD包囲網で日本経済が立ち行かなくなったため、やむなく戦争という手段に訴えたという戦前プロパガンダをそのまま戦争正当化のために使っている。)
  近衛は9月6日の御前会議以降、米国との妥協策を模索し始め、10月に入ると、中国からの撤兵を陸軍大臣・東条英機に繰り返し促すようになる。ところが、中国からの撤兵を受け入れれば満州国も、引いては朝鮮統治も危うくなると考えていた東条は、近衛の提案を頑なに拒否し、10月14日の閣議で日米交渉打ち切りを力説した。これを受けて10月16日、近衛内閣はまたしても突然総辞職してしまった。(華族出身のお坊ちゃん育ちの政治家は、困難な状況にぶつかると、すぐに政権を投げ出してしまうという悪い癖がある。旧熊本藩主細川家の子孫で且つ近衛文麿の孫に当たる細川護熙も祖父同様に政権を途中で投げ出した。)
  東条は、後継首班に東久邇宮稔彦王を推薦した。しかし、アメリカとの戦争の結果はひじょうに厳しいものとなると思っていた内大臣・木戸幸一は、「皇室が国民の怨府となり国体に迄及ぶ」、すなわち開戦責任が皇室や天皇にまでおよぶ危険性があるとして、これを拒否。むしろ、裕仁に忠実な東条自身に、「陛下より御命令ありて御前会議(決定)を白紙に返し更に事態を検討せしめる外ない」という考えから、東条を首相(陸軍大臣兼務)に任命することを推薦したと、木戸は戦後述べている。10月17日に東条に組閣命令が下ったが、木戸日記によると、木戸からは「9月6日の御前会議の決定にとらはるる処なく、内外の情勢を更に広く検討し、慎重なる考究を加ふることを要すとの思召し」であるという裕仁のメッセージが東条に伝えられた。また裕仁からも東条に直接、「時局重大なる事態に直面せるものと思う。此の際、陸海軍は其協力を一層密にすることに留意せよ」という言葉がかけられてはいるが、「御前会議決定の白紙撤回」要求を実際に行ったという記録は木戸日記の中には全く見当たらない。最強硬の対米開戦論者である東条を首相に任命して、「決定白紙撤回」にも触れず、戦争を回避しようなどというのは、木戸自身が認めていたように「一歩誤れば不用意に戦争に突入する」危険な賭けであった。そんな危険な賭けを勧めた木戸に、裕仁もまた「虎穴に入らずんば虎子を得ずと云うことだね」と言って賛成したのである。したがって、太平洋戦争の開戦責任をもっぱら東条に負わせるのは不当であり、木戸や裕仁にも大いに責任があったことは明らかである。
  東条政権の下、10月23日以降連日、大本営政府連絡会議が開かれたが、9月6日の御前会議決定が抜本的に再検討されることはなかった。結局11月5日の御前会議で、12月初頭までに陸海軍は作戦準備を終え、12月1日午前0時までに対米交渉(日本は仏印以外には進出しないから、英米蘭は石油をはじめとする物資供給を保障せよという要求)が成功しなければ、12月8日(日本時間)に開戦ということが最終決定された。
  この御前会議に先立つ11月2日、裕仁は東条に対して「<戦争の>大義名分を如何に考えるか」と質問しているが、東条は「目下研究中」としか答えられなかった。11月4日の軍事参議院会議でも東久邇宮が「聖戦の趣旨」について問いただしたのに対し、同じく「目下研究中」と述べている。一国の首相が国家創設以来の大戦争を始めようという時に、その戦争の目的すら国民に説明できないというのが、このときの日本の状況だったのである。
  11月26日、アメリカ政府は最後通牒とも呼ぶべき「ハル・ノート」を日本側に提示。これによって、アメリカは日本に、中国ならびに仏印から全面撤退し、事態を満州事変前の状態に戻すことという、日本軍がとうてい受け入れないような要求をつきつけてきた。明らかにアメリカ側も、日本との全面対決で問題を解決することを決定した上での最後通告であった。
  11月29日、裕仁は首相経験者である8名の重臣若槻礼次郎、岡田啓介、広田弘毅、林鉃二郎、平沼騏一郎、阿部信行、米内光政、近衛文麿を集めて、対米交渉継続か開戦かに関する意見を聞いている。林が基本的に開戦賛成、阿部が慎重論を述べたのに対し、他の6名は全員が物資補給の面から戦争遂行は不可能であり、問題解決のためには外交交渉の継続が必要であるという意見であった。ところが裕仁は、11月30日、東条に会い、さらに海軍大臣・嶋田繁太郎と軍令部総長・永野修身を呼んで戦争遂行の是非について質問した結果、「いずれも相当の確信を以て奉答せる故、予定通り進むる様首相に伝えよ」(強調:引用者)と木戸に命じたのである。翌日12月1日には、開戦に関する最後の御前会議が開かれ、全員一致で開戦を決定。参謀総長・杉山元は、「本日の会議に於いて、お上は説明に対し一々頷かれ何等御不安の様子を拝せず、御気色麗しきやに拝し恐懼感激の至りなり」というメモを残している。この会議の最後に、裕仁は「此の様になることは已むを得ぬことだ。どうか陸海軍はよく協調してやれ」(強調:引用者)と出席者を鼓舞している。戦後、裕仁は、「開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲君主として已おえぬ事である」と述べているが、戦前・戦中の天皇制が「立憲君主制」であったなどとはとうてい言えないし、裕仁自身が最終的には東条内閣の開戦決定をかなり積極的に支持したことは間違いないのである。

結論:対米英開戦の原因と最終的結果
  結局、対米英開戦の原因と最終的な結果については、以下のように要約できるであろう。
(1)侵略戦争である日中戦争の成果をなんとしても護持し、中国からの撤兵要求ではあくまでも妥協しないという日本の頑固な態度が日米交渉を決裂させ、対米英戦へと繋がった。その意味で、アジア太平洋戦争はまさに日中戦争の延長であった。したがって、日中戦争の原因を明確にしないで、アジア太平洋戦争の原因を理解することは不可能である。
(2)日中戦争の長期化とその結果の武力南進政策によって、日本は米英との対立を深めながら、しかし同時に経済的には強く依存せざるをえないという矛盾をますます悪化させていった。米英という先進資本主義国家との「政治的対立」と「経済的依存」というこの矛盾が、後進資本主義国家=日本帝国主義が内包していた重大な問題であり、武力では解決不可能なこの矛盾を、無謀にも暴力的手段で一挙に解決しようと試み、未曾有の悲劇的な結果に終わったのがアジア太平洋戦争であった。
(3)アメリカが「ハル・ノート」で日本に突きつけてきたのは、満州事変以来、東アジアからインンドシナ半島へと際限もない暴力的拡大を続けてきた日本帝国主義に対する、米英覇権からの全面的且つ根底的な対決宣言であった。しかしながら、同時に、「ハル・ノート」には、明らかに「大西洋憲章」(1941年8月14日発表)で謳われていた反軍事膨張主義、反ファシズムの理念が反映されていた。家永三郎も名著『戦争責任』で指摘しているように、「ハル・ノート」はその意味でポツダム宣言の原型と称せるものであり、「ハル・ノート」を発展させたものがポツダム宣言であり、それが「平和憲法」にまで一貫して繋がっているのである。「ハル・ノート」を拒否して対米英戦へと突き進んだ日本は、最終的には、2千数百万人という膨大な数のアジアの様々な人々と310万人にのぼる自国民を死に追いやり、米軍の原爆を含む無差別爆撃で国土を焦土化したあげく、ようやくポツダム宣言を受諾して降伏した。こうした結果から考えるならば、「ハル・ノート」を最初から受け入れていた方が、よほど賢明であったことは明らかである。「いったい、何のために戦争をしたのか」という悔恨の問いは、ほとんどの戦争の後で常に問われる間抜けた問いであるが、なぜか人間はこの間抜けた悔恨の問いを数千年もの間繰り返している。その犠牲になった人間の総数は、間違いなく億単位の数字であろう。