2019年10月23日水曜日

天皇即位を祝う前に


再び「天皇制」について考えてみよう

  昨日10月22日の天皇即位儀式の「宣言」で、徳仁は、「国民に寄り添いながら、憲法にのっとり……つとめを果たす」と述べました。先の台風で大被害にあった東北各地、長野、千葉などの多くの「国民」が、大量の泥水で破壊され汚された我が家を目の前に途方にくれている状況(=憲法で保障されている「平和的生存権」を脅かされている状況)であるにもかかわらず、誰の目にもはっきりと違憲行為と分かる儀式と贅沢極まりない晩餐会のために、たったの数時間で160億円もの国民の血税を使っておきながら、「国民に寄り添いながら」などと破廉恥にもよく言えたものです。160億円あれば、どれほど被災者が助かるか、そのことにすら思いがいかない「天皇」とは「人間」なのでしょうか?そうした破廉恥行為を背後から画策し、天皇を操っている首相・安倍晋三を、わたしたちは一体何者と呼べばよいのでしょうか?
テレビに天皇即位式の様子が映し出されている長野市内の避難所(東京新聞記事より)


  この儀式では、私が常に主張している、<憲法「前文」の人類普遍原理と「9条」の絶対平和主義>と憲法1章<「天皇」の狭隘な国家主義>の間の根本的、決定的矛盾が、またまたはっきりと露呈したと私には見えました。奥崎謙三が喝破したように、「天皇」の存在そのものが憲法前文で唱われている憲法原理にいたく反しているのです。そのことに多くの国民が気がつかない、この状況。これをどうすればよいのでしょうか?

  8月に札幌で私の講演会を企画していただいた松元保昭さんによる、「祝う前に考えよう」のメッセージ第2弾を下に紹介させていただきます。



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天皇即位礼?
祝う前に考えよう!札幌講演会第二部 天皇制にかんする自由討議[元石原都政下の都教委に免職された田都子さん、ピアカウンセラー障がい者活動家の安積遊さんほか。]ぜひ、散を!

ところで、ごまめの歯ぎしり
 
即位礼正殿の儀?って、もはや神でもない天皇が、瑞の国であれ大和の国であれ日本国であれ、この列島を支配するとなる神話の儀式でしょ。でも神話と伝によるものではないと、ヒロヒトが言ってたけど。じゃ、何によるの? は人民=人々じゃないの?
 
いまにいたる差別の源泉となりけている外のまつろわぬ民たちを排外敵視属し、民草(タミクサ)國民(クニタミ)をあらためて臣下にするぞ、という神話の儀式でしょ。
  誰も臣下赤子(セキシ)だと思ってもいないのに、首相はじめの長が国民を代表して誓いのことばを述べるって、それ服属するぞっていう儀式でしょ。これってあからさまな憲法違反じゃないの?
  いまどきこんなの宗教なの? こんなのを日本人の宗教だと思ってる人は何人いるんだろう? 政教分離とか信教の自由とかあるのに、ヘンな特定の宗教を国事行為なんてヘンじゃない?
  こんな空で無意味な儀式に、160億円!もういいかげん、やめたら? さらに何百億円もの金で養ってる皇族一家、この空で無意味なフリい込まれた人生、いいかげん解放してやったら?
  皇室宗教つまり神道と天皇制って、何の道義も倫理も持ち合わせていない宗教だってことは、この1300年の歴史が証明してるんじゃない? かつてのアジア侵略争のように、ただひたすら、夜郎自大の膨張略と姑息な誤魔化し恥知らずな泥縄戦術で、外幾百千万の命を牲にし故を荒させただけだったんじゃない?
 
のない無限遡行の皇国史と靖国神社遊就館と心中したいだけの、ただ低劣卑劣な歴史偽造主義の日本会議の連中=つまりアベ自公政っ取られた日本国、ああ、いま日本人はちてゆく。
  天皇制なんて、もう賞味期限は切れたんじゃない? 植民地主義とレイシズム(人種主義)、差別と排外の元凶、天皇制をホントにみ切ることなしに、新しい未って望めないんじゃない?
  さぁ、いよいよ天皇制み切るときがきたぞ。まずは一人ひとりの心の中で。(松元ごまめ) 



2019年10月18日金曜日

徳仁の天皇即位儀式が行われる前に


もう一度「天皇制」について考えてみよう

  台風大被害を受けて困窮する市民が大勢いる中で、即位儀式や55万人「恩赦」などで再び日本中を「天皇万々歳」で浮かれ騒ぎにし、その祝賀ムードを利用して、「壊憲」を一挙に推し進め、日本の軍国化と国民支配をますます強化しようと企む安倍政権。そんな状況の中で、もう一度、「天皇制」とは一体何なのか、我々の日常生活での思考をどれほど麻痺させているのか、本当は「民主主義」をいかに虚妄のものにしてしまっているのか、について沈思黙考する機会にしようではありませんか。
  そのための資料として、僭越ですが、以下の3つの拙論を参考にしていただければ光栄です。

 今日発売の『週刊金曜日』10月18日号に天皇制批判の拙論が掲載されました。
天皇制と憲法
1022日は「即位礼正殿の儀の行われる日」として、今年に限り「国民の祝日」となる。5月1日の「天皇の即位の日」前後のように、またメディア含めてお祝いムード一色となることが予想されるが、祝意を示すことへの強要や天皇の政治利用など、問題はどこにあるのか。今回は憲法の観点から考えたい。まずは教育現場から。
  • 東京八王子市
    日の丸振らせるため小学生を動員
    永尾俊
  • 大阪市立小学校
    朝礼で天皇賛美の歌 皇国史押しつけ
    平野次郎
  • 歯止めなき天皇の公的行為
    生身の人間をとする怖さ
    植野妙実子
日本国憲法は個人の尊重と法の下の平等を謳いながら、それと矛盾する存在の天皇を置く。私たち主権者はこの矛盾と向き合いつつ「象徴」をどう捉えるか、そこから何を引き出し何を引き出してはならないかを、常に考え続けなければならない。
  • 日米共同の謀議
    田中利幸
戦争犯罪の隠蔽が日本の民主主義を歪めた日本国憲法の1条から8条は国家原理でできており、前文と9条は普遍原理と絶対平和主義でできている。まったく異なるものがひとつの憲法に入っているのはなぜか。元広島市立大学教授で歴史家の筆者が、日本社会の問題の根っこを問う。

 8月10日に札幌でさせていただいた講演の録音テープ起こしを、札幌の活動家・松元保昭さんが東京の活動家・増田都子さんのご支援も受けながら完成されました。拙い講演内容を活字にする努力をしていただいたお二人に、心から感謝いたします。下記がその講演録をダウウンロードできる案内文です。

《天皇即位礼? 祝う前にいま考えよう、万人平等と天皇制 天皇制止に向けての第一《田中利幸札幌講演
https://drive.google.com/file/d/1XPQuTPpEeHPM9L5yd1FuGje8e5bBTMDo/view?usp=sharing  ぜひ、拡散を!
ちなみに、この講演容は、田中利幸著後民主主義:わたしたちはなぜ争責任問題を解決できないのか(三一書房、2019年)で展開されている議論の重要点の幾つかを、要約的に紹介したものです。

※ 少し長い英文ですが、「ヤマザキ、天皇裕仁を撃て!日本国憲法第1章(天皇)廃止を目指した奥崎謙三の法的活動」と題する拙論がAsia-Pacific Journal: Japan Focus に掲載されました。ニューギニア戦での死に物狂いの生存のための闘いを踏まえて、戦後、天皇裕仁の戦争責任を徹底追及するために法廷闘争を行い、法廷の場で憲法第1章「天皇」が明らかに違憲であることを喝破した奥崎。その奥崎の思想と行動の熾烈さと狂気から私たちが学ぶべきものは何か、についての私論です。

“Yamazaki, Shoot Emperor Hirohito!” Okuzaki Kenzo’s Legal Action to Abolish Chapter One (The Emperor) of Japan’s Constitution

2019年10月9日水曜日

問題の核心を忘れた「表現の不自由展」をめぐる議論


以下は、日本軍<慰安婦>問題解決ひろしまネットワーク」のニュース・レター最新号掲載のために、2千字という字数制限で2019年9月16日に執筆した拙論です。この「表現の不自由展」問題では、9月16日以降これまでにもいろいろな動きがあり、10月8日には1回につき30人という入場制限の下で一応再開となりました。まだまだ紛糾は続きそうですが、9月16日以降の経緯については、また改めて私見を述べるつもりです。とりあえず、9月16日の段階での私の考えということで、ご笑覧、ご批評いただければ幸いです。

問題の核心を忘れた「表現の不自由展」をめぐる議論
    - 歴史認識欠如を恥とも感ずることができない無能さこそが問題 -

  名古屋で開催された国際芸術祭「あいちトリエンナーレ 2019」の企画イベントの一つとして8月1日から開幕した「表現の不自由展・その後」は、わずか3日後に中止された。その表向きの理由は、この芸術祭の芸術監督であるジャーナリスト・津田大介の説明によると、「抗議電話が殺到し、対応する職員が精神的に疲弊していること」だった。8月2日午後の段階では、展示について「内容の変更も含めた対処を考えている」と津田は説明。テロ予告や脅迫めいた「抗議」に対応するために、いったいどのように展示内容を変更するつもりであったのだろうか。果たして、展示内容が容易に変更できるような性格のものであったのだろうか。後述するように、この対応の仕方自体が、脅迫の標的にされた「平和の少女像」が「表現の不自由展」に含まれていることの意味を、芸術監督と称する人物自身が全く理解できていないことを露呈している。
  最終的には、名古屋市の河村たかし市長による展示中止要求と負担金取り下げの可能性、菅義偉官房長官による文化庁の助成事業補助金交付取りやめの可能性など、本質的には「脅かし」と呼ぶべき政治的抑圧に、主催者愛知県知事の大村秀章が屈して「表現の不自由展」は中止された。しかし、その大村も2日後の記者会見では、河村の発言を「憲法21条で禁止された<検閲>ととられてもしかたがない」と批判。津田もまた、「河村名古屋市長の発言は、日本国憲法第21条に違反する疑いが極めて濃厚であり、アーティストの皆と同じく、異を唱えます」と、「表現の不自由展」中止から20日もたってから述べている。河村発言が由々しい違憲行為と初めから考えていたのなら、展示を中止することをあくまでも拒絶すべきであったのだ。中止に賛成しておきながら、「何をいまさら」と言いたい。
  「表現の不自由展」中止に対する批判は様々な団体や個人から発せられた。例えば、日本ペンクラブも「憲法21条2項が禁じている<検閲>にもつながる」だけではなく、「それ以上に、人類誕生以降、人間を人間たらしめ、社会の拡充に寄与してきた芸術の意義に無理解な言動と言わざるを得ない」と批判。憲法学者の清水雅彦も、「表現の不自由展」は「表現の自由から逸脱している」と述べて河村を支持する神奈川県の黒岩祐治知事の発言に対して、「自由は人権と人権が衝突した場合に制限されるこがあるが、少女像に不快感を覚えた人がいたとしても、自由を侵害されたわけではない」とし、逸脱に当たらないと指摘。憲法に照らして「表現の不自由展」中止を批判する同じような意見は、これまでに他にもたくさん出された。確かにそれらの批判は間違ってはいないのだが、この問題を単に「表現の自由」の憲法問題としてしかとらえておらず、実は問題の本質を全く理解していないことを露呈している。つまり、批判のマトが全くはずれてしまっているのである。
  大阪市長の松井一郎は、「平和の少女像」は、「われわれの先祖がけだもの的に取り扱われるような展示物」であり、「事実ではない、デマの象徴の慰安婦像」、「日本人をさげすみ、おとしいれる展示」などと罵倒。同じように、河村たかしも、「日本人の心を踏みにじる展示」と、戦争の加害者と被害者を完全に入れ替える破廉恥きわまりない発言をした。つまり問題の核心は、日本がアジア太平洋戦争という15年の長い期間にわたって、多くのアジア人、オランダ人、メラネシア人、日本人の女性たちを「性奴隷化=長期監禁強姦」したという「人道に対する罪」。松井や河村は、その罪を少女像という形で告発する表現の権利を表現の不自由展中止によって暴力的に奪ったという点にあるのだ。
  つまり、それは「表現の自由」の憲法論の問題以前の、戦争犯罪に対する加害国としての責任、ひいては人間としてとるべき「責任」の問題なのである。その「責任」の問題を、こともあろうに、加害者と被害者の立場を逆転させて、被害者の表現の自由という権利を奪った、この事実にこそ「表現の不自由展」中止問題の核心があるのだ。
  本当に情けないのは、津田や大村などの当事者はもちろん、多くの評者のほとんどが、これほど明らかな「問題の核心」に気がつかないことである。それはなぜであろうか?その重要な理由の一つは、教育の問題である。2006年の教育基本法 改悪以降、教科書から「慰安婦」をはじめ戦争犯 罪関連の記載が徐々に減少している(中学校歴 史教科書では、2012年に「慰安婦」記述はなくなったが、2016年『学び舎』1社のみ復活している)。その後の世代が学校で戦争責任問題について学ぶ機会が奪われていきつつある。さらには、2014年に安部晋三首相が朝日新聞を「慰安婦問題」で狙い撃ちにするような卑劣で激しい批判を展開して以降、大手メディア が「慰安婦問題」について触れることがほとんどなくなってしまったことであろう。
  「慰安婦問題」に限らず、戦争責任問題を深く考えることで形成されるはずの重厚な倫理観に基づいた「歴史認識」が、日本の政治家のみならず「有識者」と呼ばれる者たちの間にさえ欠落してしまっている。典型的な一例は、1965年の日韓請求権協定に関して、前外相の河野太郎が8月27日の記者会見で、「韓国が歴史を書き換えたいと考えているならば、そんなことはできないと知る必要がある」と韓国側を恥ずかしくもなく批判したことである。自分の歴史認識欠如を恥とも感ずることができない、日本の政治家や「有識者」の無能さこそが、「表現の不自由展」の真の問題なのである。

田中利幸(歴史家)
(2019年9月16日)


2019年9月20日金曜日

再びジャン・ラフ・オハーンさんの追悼

先月19日に亡くなられたオランダ人元日本軍性奴隷のジャン・ラフ・オハーンさんのための拙著英語追悼文を9月1日にこのブログに載せましたが、その英文追悼文に少し加筆したものと、『週刊金曜日』9月13日号に掲載された日本語の記事、さらにジャンさんの娘さんのキャロルさんとお孫さんのルービーさんが共同執筆してジャンさんのお葬式で読み上げられた英文追悼詩、これらを全てまとめてウエッブ・ジャーナル Asia Pacific Journal/Japan Focus に掲載してもらいました。

下記ウエッブ・アドレスをクリックしてください。

2019年9月15日日曜日

出版と講演のご案内


* 『週刊読書人』2019年9月13日号に、拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』の書評が掲載されました。
評者:松村高夫(慶応大学名誉教授)
矛盾を包する憲法がなぜ制定されたか
神と人間の中間的存在を強いられつづけた天皇

* 『週刊金曜日』2019年9月13日号に拙論「ジャン・ラフ・オハーンさんを偲ぶ」が掲載されました。

* かなり先のことですが、東京有楽町駅近くにある外国特派員協会で11月13日(水曜)夕方、日本の戦争犯罪と戦争責任問題について講演する予定です。非会員(外国特派員協会の会員でない人)も、参加できます。ただし、講演は英語で行います。詳しくは下記の案内をご覧ください。
Book Break : Yuki Tanaka, author of “Hidden Horrors: Japanese War Crimes in World War II Second Edition”