2018年12月7日金曜日

書評:731部隊と天理教


エイミー・ツジモト著『満州天理村「生琉里」の記憶天理教と731部隊』
    発行 えにし書房 2018年2月 定価:2000円+税

この書評は『季刊ピープルズ・プラン』最新号Vol.82に掲載されました。

  本書は、満州国建国宣言が出された1932年3月から2年半あまりの後、1934年11月から始まった天理教信者たちの満州開拓団移民の艱難辛苦の歴史を、「天皇制軍国主義の被害者」と「侵略戦争の加害者」という複眼的な視座から明徹に分析した労作である。天理教団による満州開拓団の積極的な公的歴史評価を、体験者のオーラル・ヒストリーに依拠して厳しく批判しながらその実態をえぐり出し、新興宗教組織の戦争責任を鋭く追及している。
  本書内容の紹介に入る前に、満州移民の歴史的背景について簡単に説明しておく必要があるだろう。
  満州国は、「五族協和」という多民族協調社会の基に「王道楽土」を実現するというスローガン=プロパガンダを謳い文句とする、日本の傀儡国家であったことは周知のところ。満州国内には関東軍が無制限、無条件に駐屯し、関東軍が必要とする鉄道・港湾・水路・航空路などの管理は全て「日本に委託」するという形をとることで、満州国は関東軍の強力な軍事的支配下に置かれた。また、「日満経済ブロック」構築(満州を日本の排他的な経済圏にする)という目標のため、1930年代には満州に対する投資が飛躍的に拡大。満州産業開発の重点は、対ソ連戦争準備のための軍需産業の建設に置かれ、その基礎として、1932〜36年に3千キロに及ぶ満鉄新線路が建設され、同時に、製鉄や石炭などの大規模増産がはかられた。
  これと並行して、日本国内の農村窮乏の緩和と満州における日本人の人口増加という一石二鳥をねらい、満州への農業移民政策が推進された。実は、この農業移民政策には、関東軍の戦力補強にも役立たせるという目的が含まれていた。小規模な試験的移民は1932年から始まっており、当初は、一村(母村)から分割して村の一部が集団で移民する「分村移民」が行われた。1936年8月、日本政府は、20年で百万戸=5百万人の満州移民を送り出すという妄想的とも言える計画を発表。日中戦争が始まった1937年8月には、この計画を推進するために満州拓殖会社を設置し、移住者のための助成、土地取得、分譲などの業務にあたらせた。さらに、1938年1月からは、貧農の次・三男の単身者(16〜19歳)によって組織される「満蒙開拓青少年義勇軍」が募集された。
  日本人移民のための土地・家屋は入植地の現地農民である中国人から「買収」したが、その実態は、極安の値段での強制的収用であった。こうした土地・家屋の収奪は抗日武装活動を活発化させ、移民村が襲撃されるという事件が頻発。関東軍は抗日ゲリラを「匪賊(集団で略奪・殺人・強盗を行う賊)」と呼び、これ以降、「匪賊討伐」に明け暮れることになる。同時に「匪賊討伐」では、抗日ゲリラに通じているとみなされた村落が日本軍によって焼き払われ、住民が虐殺されるケースが各地で起きている。
  したがって、「青少年義勇軍」も実際には「武装移民」であり、明治政府が北海道に送った「屯田兵」と同様の性格のものであった。1936年からの5年間で、こうして満州拓殖会社が確保した土地は2千万町歩で、中国東北部の14.3パーセントに当たる。そのうち既耕農地は350万町歩で、これは当時の日本の耕地面積の過半数を超える広大な土地であった。しかし、1941年までの実際の移民農家数は、集団開拓団の2万7千戸を含む5万6千戸で、百万戸移民計画の約5パーセントにしか過ぎなかった。とはいえ、民衆、とりわけ貧農に土地所有への期待を煽り、豊かな生活への夢をもたせ、国内の不満を対外的に解消させる侵略戦争へと国民を動員する上で、一定の役割を果たしたことは明らかである。
  本書でも説明されているように、新興宗教の天理教信者たちだけが、宗教団体としての満州開拓団移民であったわけではない。天理教団と同様に「反政府的」あるいは「政府に非協力的」な宗教組織ではないかという疑念の目で見られていた日本キリスト教団、それだけではなく既存の諸仏教団体も、政府への服従・協力姿勢を表明するために満州移民政策に「賛同」し、満州開拓団を送った。これらの宗教団体は、形式的には「布教」も開拓活動の目的としていた。
  天理教団の場合には、1934年11月の第1次移民から1945年5月の第12次移民までの合計2千人近くが満州に送り込まれた。「ひとはいちれつ みなきょうだい」という徹底した人間平等主義を教義とする天理教は、天皇を絶対者とする国家神道とは本質的に異なるため、国体に反する共産主義的な組織とみなされて常に政府の弾圧の対象となってきた。しかし、教団解散の危機を避けるため、明治・大正期を通して教団は戦争協力の姿勢を徐々に強め、結局は侵略戦争に加担する開拓移民まで満州に送り込み、教義とは全く相反する中国人搾取を行いながらの「開拓」に勤しんだのである。
  天理教団が与えられた1千町歩の土地は、ハルビンから15キロほど離れた関東軍指定の「分譲地」であったことからも分かるように、当初から関東軍はこの「天理村」を軍のために利用することを考えていたと思われる。天理教団は、国内各地の信者から移住家族を募集、すなわち「分村移民」に似た「家族集団移民」という形態であった。天理村の周囲には鉄条網が張り巡らされ、東西は城壁のような門で固められており、警備が常駐するというものものしい環境。村の周辺で活動する抗日ゲリラに備え、常に関東軍が警備し、襲撃を受けたときには徹底した討伐を行った。関東軍が村の近くで演習を繰り返しただけではなく、村民たちにも小銃や実弾が配られ、関東軍による演習が男たちに課せられた。第1次移民団の場合は、半数以上が在郷軍人であったことからも明らかなように、「武装移民」という性格を強くおびていた。
  実はこの天理村は、かの悪名高い731部隊の一大研究施設が建設された平房に隣接する場所にあった。1938年にこの施設建設が開始されたときには、天理村の多くの成人男子が研究施設のレンガ積み作業に従事させられた。さらに、施設完成後には、ハツカネズミを飼育せよという指示が天理村の小学校に与えられ、子どもたちがその任務に励んだ。ハツカネズミは、明らかに731部隊の細菌兵器(ペスト菌)開発のために利用されたものと考えられる。ペスト菌だけではなく、731部隊が培養した炭疽病、腸チフスなどが天理村周辺で発生、流行し、天理村の村民や家畜にも犠牲者が出た。
  戦争末期になり戦況が悪化してくると天理村の青年たちも招集され、入隊訓練後に731部隊に配属された者も数人いた。筆者ツジモトは、その一人である人物からも聞き取り調査を行い、1945年8月9日のソ連参戦宣言発表直後、急遽殺害された人体実験用の多くのマルタ=捕虜の屍体焼却や施設建物の破壊など、731部隊証拠隠滅作業について詳しく記している。
  731部隊が貴重な研究成果、関係書類、食糧などを積み込んだ百輌にも及ぶ貨物列車とともに満州から逃避し、南洋戦域に送り出した精鋭部隊を戦闘体験のほとんどない満州開拓団の青年たちで代替した関東軍がすぐに総崩れしたあと、ソ連軍侵攻についてなにも知らされていなかった総勢27万人(その多くが女性、子ども、老人)の満蒙開拓団は文字通り置き去りにされた。天理村とその周辺の天理開拓団部落の住民たちも、侵攻してきたソ連軍兵士襲撃による殺戮、略奪、強姦、暴行などの残虐行為と、中国人「匪賊」による同じような復讐的な襲撃の被害者となった。結局、1946年10月になってようやく帰国できた天理村住民は合計千十八名、もともとの村民2千名のほぼ半数にしか過ぎなかった。しかも、この帰国は、国内での再び貧しい農業開拓生活の始まりでしかなかった。
  天理教団は、満州国天理村のこうした歴史を「大陸開拓の聖業に奉仕」したものと記録し、教団の戦争加担責任と、教団仲間を被害者にした責任をすっかり忘却しただけではなく、正当化してしまった。日本にとって極めて重要な戦争責任問題について宗教組織の側面からの考察を試みている本書は、ひじょうに示唆に富む労作である。

2018年10月12日金曜日

笑話「庶民は下品!」


朝日新聞「絢子さまの結婚一時金は1億675万円 現行法の上限額」

  この記事によると「一時金は皇室経済法で定められ、品位を保つため、皇室を離れる際に国から支給される」そうです。このニュースをめぐって熊サンと八ッツアンが交わした会話が次のようなものです。

熊「ね、ね、聞いたか?今度結婚する皇室の絢子ちゃんがもらう『手切れ金』が1億675万円だとよ。天チャンお爺ちゃんが親族の娘にやる『手切れ金』が1億円以上、豪気だね。とはいえ、もとはと言えばワシらが払ってる税金なんだけどさ。それにしても羨ましいね。ただ、675万円というハシタの数字がどこからはじき出されるのか、オレには分からんのだけど。」

八「あのね、あれは『手切れ金』などという下品なものではないんだよ。ヤクザじゃないんだからね。皇室の方々がもっておられる品位、その品位を保つための必要資金なんだよ。」

熊「あ〜、品位ね。そういや、もうだいぶ昔のことだけど、オレが結婚したときにカアチャンが持って来た嫁入り道具の掃除機、冷蔵庫、テレビなどはみんな古道具で、全く品位がなかったね。けど、文句は言えないけどね。というのは、オレのオヤジが貧乏でしかもケチンボだったから、向こうのオヤジに持っていった結納金がめちゃ少なかったということを、結婚した後でカアチャンから聞いたからね。」

八「この場合の品位というのは道具の品位なんかじゃない。皇室の方々は、我々庶民とは違って、生まれつき高貴な品位を持っておられる。その血統とも言える品位のことなんだよ。オレたちは、そんな高貴な品位というものは持ち合わせちゃいないわな。」

熊「おい、ちょっとまってくれよ。それは差別で、おかしいんじゃないか。だって天皇はオレたち国民の『象徴』だろう。その象徴が高貴で品位があるけど、天皇に象徴されてるオレたちには品位がないというんじゃ、おかしいんじゃ。オレたちも品位を保つために一時金をもらってるてんなら分かるけどさ。税金は取られっぱなしだぜ。」

八「おまえはバカだね。オレたち庶民だけじゃないよ。政治家、とりわけ首相や財務大臣、そのほかの大臣の顔を見てみろよ。品位のある顔をしている奴が一人としているか。いないだろう。だから、品位のある高貴な天皇陛下に国の顔、国の象徴になっていただき、品位のない政治家や庶民にあたかも品位があるかのごとく見せる重要な役割を担っていただく。そのことによって国民みんなが民主主義的で幸せでいられるわけだ。これが『民主主義的な天皇制』といわれるユエンなんだよ。」

熊「ん〜、なんだか難しい話になってきたな。うちの隣に口やかましいご隠居さんが住んでるの知ってるだろう。あのご隠居さんはね、『天皇が民主主義という表現がそもそも矛盾で、なぜなら、男しか天皇になれないような男女差別、それに叙勲で勲一等から八等まで国民に差をつけて、しかもその勲章を天皇が授与するなんてのは、何が民主主義か』っていつも怒ってるぜ。それに昨日は、『人間の品位というのは金で作ったり保ったりできるもんではない。人間が自分を切磋琢磨することで、自ずから身についてくるもんだ』なんて、坊主が説教するような難しいことを言ってたぜ。」

八「あ〜、あのご隠居は60年代安保闘争の全学連くずれのアナキスト。あんなアナキストの言うことは信じるな!バカ」

熊「は?穴キス〜ト?あの爺さん、連れ合いの婆さんの鼻のにでもキスするかよ?汚ねえな。知らなかった、あの爺さん変態だとは。」

八「おまえは本当に、救いようのないバカだね」

熊「オレをバカ、バカと言うがね、じゃあ、自称インテリのおまえさんに訊くが、皇室の連中が生まれつきそんな高貴な品位をもってるんなら、わざわざ金使ってそれを保つ必要なんてないじゃん。すでに持ってるもんに、なんで大金使わなきゃいけねえんだ。」

八「地獄の沙汰も金と言うだろう。金はなんにせよ必要なんだよ。」

熊「なにを、このやろう。いくらバカでも、今のは全く説明になってねいことはオレにだって分かるぜ。地獄と品位とどういう関係があるんだよ。地獄に堕ちたら閻魔大王から逃げ回るので必死で、品位なんて言ってられないぜ。それじゃもう一回訊くが、品位を保つために、そんな金はいったいどんなことに使うんだ?」

八「(このやろう、バカだけど質問だけはシツコクしてくるな)それは……まあ……いろいろな・・・・。(なんか考えなきゃな)例えば……例えばだな、高貴な品位のあるお顔につける高級化粧品、品位のあるオツムにのせる高級デザインのお帽子とか、我々庶民には分からないものがいろいろあら〜な。」

熊「それにしても、少しでもいいからオレたちも品位とやらを身につけてみたいね。」

八「オレもおまえもヒンイはちゃ〜んと身につけているぜ。それも産まれた時から。」

熊「え!ほんとかよ、どんな品位?」

八「ヒンイはヒンイでも『ヒン』の字が少々違ってるんだがな……

熊「字が違ってる?どんな字?」

八「我々のヒンイのヒンは『貧困』の『貧』で、『貧位』と書く。」

熊「ああ〜、なんとも情けないけど、当たってるわな。それでは、『庶民のヒンイ万歳』というわけで、屋台の飲み屋の安酒で一杯飲もう!ちくしょう、1億675万円か。宝くじで5億円当てたら、カバンに札束詰め込んで、皇居の一般参賀に行ってあいつらに見せびらかしてやる!それとも、奥崎謙三をまねて、パチンコ玉のかわりに一万円札を丸めて天皇に向けて3発ほど飛ばしてやろうか。『ヤマザキ、品位を高めるために天皇に3万円めぐんでやれ』と叫びながら!」

- 完 -


2018年9月20日木曜日

杉田水脈「LGBTは非生産的」発言は憲法1条と関連している?!


この論考は、今月末に発行予定の「日本軍『慰安婦』問題解決ひろしまネットワーク」のニュース・レター9号に掲載予定のものです。

杉田水脈発言の「国家犯罪行為」助長的な意味
  我々には悪名高い「慰安婦バッシャー」でおなじみの杉田水脈が、「LGBTは子どもを産まないから生産性がない」という意見を『新潮45』で7月に述べたことは記憶に新しい。(なお、杉田水脈がこれまで日本軍性暴力被害者問題へ解決を執拗に妨害してきたことについてすでに色々な情報が拡散されているし、その妨害活動のためにオーストラリアにも来ていることについては、私もニュース・レター2号やブログ「吹禅」2015年11月18日/2017年6月29日で報告している。)杉田と彼女の支援者のネトウヨたちから猛烈なバッシングを受けている私自身にとっては、「またまたこんな劣悪な発言か」と思うだけで、別段、驚きはしなかった。この発言で彼女への厳しい批判がまたたくまに全国に広がっただけではなく、これがきっかけで「自分はLGBTの一人」とカミング・アウトしてきた人たちがいたことに私は嬉しい驚きを感じた。カミング・アウトした人物の一人に、私の尊敬する友人である岡野八代さん(同志社大学教授)がおられたことに私はとりわけ感動し、その感動を早速彼女に個人メールで伝えた。(なお、岡野さんご自身の杉田発言に対する批判論考は『世界』10月号掲載の差別発言と、政治的文脈の重要性を参照されたし。また、つい最近、『新潮45』は10月号で杉田批判は見当違いだという特集号を組んだ。日本のメディアはどこまで劣化するのか、恐ろしい。)
  「子どもを産まないことは生産性がない」と主張する杉田は、性のない人に金を投入するのは無駄である」という意味の発言もしている。彼女が「生産性」という言葉で意味するところは、「金銭的利益をもたらす経済的生産性」というものであると思われる。「生産性」という言葉に「どのような性関係であれ、精神的に豊かで幸せな人間関係の創造」を見ることができない人間、「生産性」が人間諸個人の生活の「質」にとって一体何であるべきかという深みのある思想について考えることができない薄っぺらな脳の持ち主の人間が、その国家社会のあり方を決めることに多大な影響力を持つ政治家になっているような国、そんな国の国民は本当に不幸である。
  彼女の「生産性のない人間には厚生福利面で税金を無駄使いするな」という意味の主張をおしすすめていけば、「生産性のない人間は生存すべきでない」ということになり、これはLGBTのみならず、身体障害者、精神/知的障害者なども含むことになる。これは明らかに「ナチスの優生思想」そのものであるし、日本も同じような政策の旧優生保護法(1948〜96年)で1万6千人といわれる人たちに強制不妊手術を行い、その被害者たちの声が今になってようやく取り上げられるようになってきた。ハンセン氏病患者への強制不妊手術にいたっては、旧優生保護法が導入される以前から行われていた。杉田発言を問題にするとき、この由々しい「人権侵害」という国家犯罪行為の歴史事実を私たちは決して忘れてはならない。杉田発言をのさばらせることは、したがって、単なる「差別問題」ではない。それは、「国家犯罪行為」につながる重大な発言を容認することなのである。
  ところが、自民党の二階俊博幹事長も杉田発言のその重大性を理解できる能力を持ち合わせていないようで、「人それぞれ政治的立場、いろんな人生観、考えがある」と述べ、「個人の人生観」の問題としてしか理解できていない。問題は、したがって、杉田という一国会議員だけの問題ではなく、杉田を比例代表制選出議員の候補者として選び、同時に党員と官僚のセクハラを野放しにしている自民党、とりわけ杉田を強く推した党首・安倍晋三という政治家の思考能力と「人権意識」の問題なのである。2013年、麻生太郎はドイツのワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法にわっていた。誰もが付かなかった。あの手口に学んだらどうかねという発言で壊憲提案をしたことはよく知られているが、自民党にはナチス信奉者が多いのである。こんな政党が政権を握っている国も、世界ではめずらしい。ドイツではこんな発言をすること自体が犯罪行為とみなされるし、即刻、議員辞任に追い込まれるはずである。
  杉田発言のさらなる問題は、子どもが欲しくても産めない人たちが大勢いるにもかかわらず、その人たちの心の痛みも理解できない人間が政治家になっているという事実である。さらには、今のような重苦しい生活状況、とりわけ性差別の激しい日本社会の中では、子どもを産んで育てたくはないと考えている人たち、とりわけ女性たちも多い。そんな社会状況をいかにしたら改善させることができるか、子どもを産んで幸せで安心して平和な生活ができる社会をいかにしたら構築できるか、という最も基本的な発想すらできない人間が国会議員の職に就いているというこの厳然たる事実である。再度述べておくが、こんな低劣な政治家を国会議員にもつ国民は実に不幸である。

杉田発言と天皇制の性差別主義の関連性
  「子どもを産まないような人に金を投入するのは無駄である」という内容の杉田発言を聞いて私が思い浮かんだもう一つのことは、皇太子妃・雅子のことである。周知のように、雅子は長い不妊治療のあとにようやく妊娠し、女子・愛子を出産。不妊治療も実は雅子はいやがったのであり、愛子を出産のあと妊娠ができなくなったことも事実のようである。とすると、杉田発言をこのケースに当てはめるなら、将来の天皇となる男児を「産まないような人に税金を投入するのは無駄である」ということになる。杉田を含む右翼天皇崇拝主義者たちにとって、これは多額の税金を使っている皇室への侮辱とも言える発言になるはずだが、この点を指摘する右翼の意見を耳にしない。
  雅子が、皇室に入ることによって一女性としての市民の人権を完全に失ったことは誰の目にも明らかである。皇位継承者である男児を産む「天皇製造機」になることを強制され、それに失敗し、「適応障害」と「診断」され、人間としての尊厳を踏みにじられた女性の悲哀、心の痛みの深さは察するに余りある。これを「女性差別」による「人権否定」と称さなければ、なんと呼ぶべきなのか私には言葉がみつからない。
  日本国憲法1条では、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く 」と規定されている。「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるならば、「日本国民たる要件」を含む日本国憲法の諸規定も象徴していなければならないはずである。ところが、摩訶不思議なことには、その「象徴」であるはずの天皇をはじめ皇室メンバーには、11条〜14条や24条などで全ての国民に保障されているはずの基本的人権が保障されていない。とりわけ、皇室の女性メンバーの人権が完全に否定されていることである。
  この矛盾は、家父長制的絶対主義である天皇制イデオロギーの中心をなす要素の一つである「男性優位主義」をなんら改革しないまま、日本国憲法の中に滑りこませてしまったことに起因している。とりわけ「皇室典範」は旧憲法下での典範規定の多くをそのまま継承しており、その最も典型的なものが1条の「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを承する」という規定である。
  憲法24条は、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と定めている。この条文中の「両性」は「両人」に変更すべきであるという主張を私は以前から機会あるごとに述べてきたが、それはさておき、婚姻によって皇室を離れ一般市民になる女性にすら「両性の合意のみに基いて」結婚を決める自由は事実上ない。そのことは、最近の秋篠宮内親王・眞子と小室圭との婚約問題からも明らかなように、両人の思いがどうあろうと、皇室会議で最終的に承認されなければ、結婚どころか婚約内定発表すら正式なものとは認められない。これも女性の皇室メンバーに対するはなはだしい人権侵害=違憲行為であると私は考えるが、このことを指摘する憲法学者のコメントやメディア報道はほとんど目にしない。
  問題は、憲法や皇室典範だけではない。皇室の伝統儀式といわれるもののほとんどが、これまた「男性中心主義」である。一例をあげれば、来年の新天皇皇位継承の際に行われる「剣璽等 承継の儀」(三種の神器の受け継ぎ)の儀式には、女性が出席することは許されていない。これには政府閣僚の全員が出席するのが慣例になっているが、女性閣僚の出席を認めるかどうか未だ政府は最終決定を下していないようである。もし女性閣僚の出席が許されるならば、女性の皇室メンバーの出席を許さないということは難しくなることは明らかだ。
  しかし、実を言えば、皇室の様々な儀式に女性の出席を許さないというのは近代になって導入された家父長制的イデオロギーに基づく新しい「慣例」で、神道の伝統的な慣例ではない。元来、神道では、禊やお祓いなど神を鎮める様々な儀式を行うのは女性である巫女の役割であり、男性ではなかった。ところが、近代、とりわけ明治になり天皇制が国家権力との関わりで政治制度化されるにあたり、家父長制=男性中心主義と神道儀式が急速に一体化された。最近問題になった相撲土俵に女性が上がることを禁止している大相撲の「慣例」も、あたかも「神道儀式慣例」のように言われているが、実はこれも、近代の天皇儀式の模倣であると考えられる。江戸時代には女相撲すら盛んに行われていたことからも分かるように、相撲協会のこんな「慣例」は文字通りナンセンスである。

結論:杉田発言を封じ込めるために天皇制廃止を!
  いずれにせよ、近代民主主義国家といわれる世界の国々の中で、憲法で男女平等を唱っておきながら、その憲法に明らかに違反する様々な行為を「国家の象徴」である天皇とその家族に堂々と行わせているような摩訶不思議な国は、日本以外にはないのではなかろうか。そして、そのことを政治家たちだけではなく、憲法学者もメディアも国民の大多数もたいして矛盾とも思わないような国である日本。それを考えると、人権意識を欠いた杉田のような性差別主義者で同時に天皇崇拝主義者という人間がワンサと日本にいるのは、したがって、本当は驚くべきことではないのであろう。換言すれば、天皇が象徴する性差別と国民の多くが矛盾と思わない性差別とは、互いに照らし合っている鏡映だと言える。
  軍性奴隷(いわゆる「慰安婦」)制度は、天皇制軍国主義が産み出した由々しい暴力的人権侵害制度であった。考えてみれば、現在我々が直面しているはなはだしい「性差別」と「人権侵害」もまた、根本的には天皇イデオロギーを拠り所にしている。その点で、戦後は戦中・戦前と密接に繋がっているのである。この二つの問題を切り離して考えることはできないのである。
  では、解決策はなにか?その答えは、天皇制を即刻廃止し、皇室メンバーを奴隷的存在から解放し、国民同様の「人権」を認めて一般市民とすること、それが私には最も手っ取り早い方策のように思える。明仁・美智子のご両人、退位する前に皇室メンバーを辞めませんか!貴方たち自身の人権獲得と国民の人権擁護のために!

2018年9月5日水曜日

「象徴天皇制の虚妄に賭ける」?!




『未完のファシズム』戦後と象徴天皇制
最新号の『季刊ピープルズ・プラン』Vol.81は、いま人気のある「リベラル」と言われる「天皇賛美者」の批判の特集号 『象徴「天皇陛下」万歳の≪反安倍=リベラル』でいいのか?代替わり状況下の<安倍政治>と<天皇政治>』です。批判の対象となったのは、島薗進、白井聡、内田樹などですが、私は片山杜秀批判を担当しました。以下はその批判の全文です。ご笑覧、ご批評いただければ光栄です。

なお、この特集号の目次と前書「<天皇陛下の《反安倍》でいいのか特集にあたって(天野恵一)は下記リンク先でめます。
http://www.peoples-plan.org/jp/modules/news/article.php?storyid=577
http://www.peoples-plan.org/jp/modules/article/index.php?content_id=207

《片山杜秀》批判
「象徴天皇制の虚妄に賭ける」?!
 『未完のファシズム』戦後と象徴天皇制
片山杜秀の出版歴
 私に与えられた課題は、片山杜秀の象徴天皇制支持論の批判的検討である。正直なところ、私は片山がどのような思想の人物か、どのような著書・論考を発表しているのかこれまで全く知らなかった。したがって、『未完のファシズム - 「持たざる国」日本の運命』(新潮新書)を読むにあたって彼の経歴を調べてみたところ、政治思想史を専攻しながらも、クラシック音楽にも造詣があり、音楽関連の著書や論考も多々あるとのこと。小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』を連続掲載したことでも知られている扶桑社出版の『週刊SPA!』に、1994〜2002年に、「ヤブを睨む」というコラムで、音楽や映画・演劇評論のみならず、右翼、歴史、政治問題などに関する評論も発表して大人気を得たとのこと。2008年には、音楽関連著書で吉田秀和賞とサントリー学芸賞を受賞。2012年出版の『未完のファシズム』では司馬遼太郎賞も授与されるという活躍ぶり(しかし、サントリー学芸賞、司馬遼太郎賞の両方とも私個人は高く評価していないが)。
 私は故・吉田秀和のファンの一人で、長年、とりわけ彼のモーツアルト音楽解説の愛読者であった。吉田秀和賞は、音楽・演劇・美術関連の秀れた芸術評論の著者に与えられる賞として1990年に設置されたが、当初の選考審査委員は吉田自身を含め加藤周一と武満徹の3人があたっていた。2012年からはフランス文学者・文芸評論家の杉本秀太郎と片山の2人が審査委員となり、2015年に杉本が他界してからは、片山と建築家の磯崎新が審査委員となっているとのこと。『週刊SPA!』で好評を博した人物が、吉田秀和賞を受賞し、しかも今は審査委員を務めているという事実が、私にはひじょうに奇異に感じられてしかたがないのであるが、片山の音楽関連著書を全く読んでいないので、彼の音楽評論に関してコメントする資格は私にはない。
  さて肝心の『未完のファシズム』であるが、端的に言えば、この著書の主たる目的は、なぜゆえに日本はアジア太平洋戦争で敗戦したのか、その理由を探求しようというものである。結論的に片山は、敗戦の理由を、「総力戦体制」をとれなかった日本の経済的後進性、「総力戦」に代わるものとして日本が独自に採用した戦略自体の欠陥、さらには当時の政治体制=明治憲法体制が国家社会全体を強力に統合して、そのような独自の戦略を一挙に推進していけるようなファシズム体制にはなれなかったこと(すなわち「未完のファシズム」であったこと)に求めている。こうした片山の敗戦理由の説明は、彼の『国の死に方』(新潮新書)や島薗進との対談『近代天皇論「神聖」か、「象徴」か』(集英社新書)でも繰り返し述べられている。
片山による「持たざる国」の戦略説明
 改めて解説するまでもないが、「総力戦体制」とは、一国家が有するあらゆる物的資源と人的資源の両方を「戦争勝利」という目的のためにできる限り合理的かつ効果的に活用するために作り上げられる非常時の政治社会体制のことである。ところが、日本は対戦国である米英をはじめとする連合諸国とは対照的に、総力戦に必要な物的資源そのもの、とりわけ兵器製造のための鉱物資源や、戦艦・戦車・戦闘機などを動かす石油資源などが決定的に欠乏していた。かくして、「持たざる国」である日本が「持てる国」である豊かな米英仏蘭諸国と全面戦争を展開して勝利することは、経済的にはほとんど不可能であった。この事実は、片山の指摘を待つまでもない。
 片山は、「持たざる国」という状況の中での日本軍の戦略案にまず焦点を当て、当時の陸軍内部の「皇道派」と「統制派」の代表的な複数の軍人の戦略思想と彼らの間での確執を紹介する。満州に「日満経済ブロック」という日本の排他的経済圏を構築することで「持たざる国」日本を「持てる国」にまで数十年かけて強化した後で米国との「世界最終戦」をと主張した関東軍参謀・石原莞爾が、そうした軍内部での確執の結果、いかに陸軍から排除されていったかも説明する。
 「持たざる国」が「持てる国」と長期戦争に入れば勝算は極めて少ないことは明らか。したがって、勝利するための戦略として日本軍が1920年代末に考案したのは、敵軍を包囲して殲滅戦を速戦・即決で展開して短期間で勝利をおさめ、その結果、有利な形で敵国と停戦交渉に入るというもの。この戦略は当時の参謀本部のスタッフであった皇道派の荒木貞夫、小畑敏四朗、鈴木率道が中心となって作成したこと、とりわけ小畑の貢献が大きかったことを片山は説明する。しかし、十分な兵站を持たずに、大胆に殲滅戦を速戦・即決で展開して一気阿成に戦闘を終わらせるには、将兵たちが並外れた強靭な戦意を持っていなければならない。そこで日本軍は極端な精神主義をとらざるをえなくなったとも片山は述べる。
 ところが、この殲滅作戦も実は敵軍が劣勢であるときにのみ成功するのであって、強敵の場合は長期戦になってしまい成功しないことは、作戦を提唱した小畑たちも十分理解していた。しかし当時の状況から、形式上は、この作戦はいかなる敵に対しても採用できるというスタンスを小畑たちはとらざるをえなかったのだと片山は主張する。1936年の2・26事件で皇道派が統制派に敗れて失脚した後も、皇道派のこの殲滅作戦と極端な精神主義だけは修正されずにそのまま生き残り、アジア太平洋戦争に突っ込んでいった。殲滅作戦を展開しながら、東南アジアの資源を確保し、生産力・労働力を拡大し、戦争を続けながら「持たざる国」を「持てる国」にしようとしたが、これに失敗。したがって、結局、極端な精神主義の強調が、殲滅作戦貫徹のためには自分たちが殲滅しても戦い続けるという「玉砕」の思想を生み出してしまった。その最も極端な思想の持ち主が東条英機のブレーンで、「戦陣訓」の作成にも関与した中柴末純で、日本軍が玉砕を太平洋各地で繰り返すことで連合軍を怖気づかせ、彼らの戦意を殺ぎ、最終的には勝利に持っていけると中柴は主張するまでになった。このように片山は、「総力戦」を展開する能力を持たない「持たざる国」、その日本の軍隊がとった戦略そのものに失敗があったと主張する。
片山の「総力戦体制」と「ファシズム」論
 日本が「総力戦体制」をとれなかった理由として、日本政治のタテ割り主義と秘密主義を片山は重要視する。しかも、そのタテ割り主義と秘密主義の原因は、明治憲法体制にあったと片山は主張する。明治憲法は西洋近代政治思想に倣って立法・司法・行政の三権分立制をとった。立法府である帝国議会は貴族院と衆議院の二院制であったが、立法府が強力に機能しないように、両院に対等の権限が与えられていた。行政府である内閣に対しては、内閣の判断を覆すことができる枢密院が設置されていた。帝国陸海軍は立法府からも行政府からも独立し、形としては天皇が「統帥権」を持っており、そのうえ陸海両軍が常に対立する形となっていた。権力がこうしてタテ割りに分散され、様々な国家組織が互いに確執しあうため、一組織や一個人が絶対的権力を掌握できないような体制となっていた。三権と軍の頂点には唯一天皇だけが存在し、天皇親政は理論的には可能であったが、実際には天皇はなるべく自分の意見は明示せず、どうしても必要な場合には「しらす」=暗示することに努めた。明治憲法の第1条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の「統治」は、実際には「しらす」という意味であったと片山は言う。
  かくして、権力が分散されていたため強権的リーダーシップをとる者は誰もおらず、タテ割りにされた様々な国家組織間の連絡も希薄で、各組織内では秘密主義がはびこるという形となった。「大東亜戦争」になったとき、東条英機が、初めて、分離している各組織を統合し「総力戦体制」を作ろうと首相・陸軍大臣・参謀総長を兼務するということが起きた。ところが、こうした慣例をもたない明治憲法下の政治では強権的統合が嫌われ、ファシズム的に統合しようとする東条に、ファッショはだめだと「東条つぶし」が行われた。かくして片山は、「強力に束ねて一元化をめざすという意味での『ファッショ』は明治憲法体制と常に矛盾するものとして退けられる運命にありました。かくして総力戦体制は最後まで未完でした」と述べる。「強力政治や総力戦・総動員体制がそれなりに完成してこそ日本がファシズム化したと言えるわけでしょうが、実態はそうでもなかった。むしろ戦時期の日本はファシズム化に失敗したというべき」だと主張し、この状況を「未完のファシズム」と呼ぶのだと説明する。畢竟、片山は、日本はファシズム体制が未完であったため、総力戦体制作りも未完に終わったと主張するのである。
 その一方で、片山は、「総力戦体制のためにはデモクラシーが重要だ」とも主張する。いわく、「民主主義の国では国民自身が戦争することを選択する。もっと豊かになりたい。自由な社会を守りたい。悪を倒したい。動機はいろいろあるでしょうが、国民全員の責任で、国民全員が戦うことを選び取る。だから戦線が膠着しても、簡単にやめられないし、誰かの責任にはできない。ゆえに勝てた」と。なんとも極端に単純な論理である。そうなると、明治憲法体制下で総力戦体制が作れなかったのは、明治憲法体制下の日本社会が民主的でなかったから、すなわち「未完のデモクラシー」のゆえだったのか。それとも「未完のファシズム」であったからなのか、一体どちらだと彼は言いたいのか。このように、「総力戦」と「ファシズム」、「デモクラシー」の関連性の彼の説明は、支離滅裂である。片山のこの論理的支離滅裂は、「総力戦」と「ファシズム」、とりわけ「天皇制ファシズム」の本質を全くつかめていないという決定的な思考的欠陥に原因しているが、これについては後述する。
批判的分析を欠いた「包囲殲滅作戦」と「ファシズム」の解説
 とりあえず、以上が片山の『未完のファシズム』の要旨であるが、まず指摘しておかなければならないのは、彼の視点はあくまでも「なぜ日本は総力戦体制を確立できず、アジア太平洋戦争に勝利できなかったのか」という、戦争勝敗を決定づけたもっぱら軍事的要因の検討におかれている。アジア太平洋戦争という未曾有の軍事暴力活動が、いったいどれほど悲惨な結果を日本軍将兵、日本国民のみならず、アジア太平洋各地の地域社会と無数の住民や連合軍将兵(とりわけ捕虜)にもたらしたのか、さらには、明治憲法体制=天皇制をとっていた日本は国家としてそれに対してどのような責任を負っているのか、というアジア太平洋戦争の批判的分析には全く関心がない、ということである。単刀直入に言うならば、彼の論理展開は、勝ちか負けかの「ゲーム論」であり、「人が殺されるか生き延びれるか」という問題からの視点が完全に欠落している。
 したがって、「総力戦」に代わる「包囲殲滅作戦」がどのように参謀本部内で作成されてきたかについてはマニアック的に長々と解説するのであるが、例えば、兵站を持たずに殲滅作戦を中国各地で展開した日本軍が、食糧略奪、住民虐殺、強姦などいかに残虐な行為を犯したかについては一言も言及しない。「包囲殲滅作戦」を議論するならば、その作戦を実践した日本軍将兵が、なぜゆえに残虐化し、各地ですさまじい戦争犯罪行為を行えるようになったのか、という問題も必然的に問われなくてはならない。ところがそうした疑問も片山の脳裏には浮かんですらこない。なぜなら、片山には、最初から、作戦が社会に与える具体的な破壊的影響には全く関心がないからである。
 同じように、総力戦に関する石原莞爾の思想を「日満経済ブロック」との関係で議論する際にも、関東軍による満州支配、ひいては日本軍の中国各地への侵略について、例えば軍の統帥権との関連でそれらを検討することを通して、明治憲法体制=天皇制そのものを再検討してみるという構造的分析には全く繋がっていかない。日本軍の戦略思想だけを軍事オタク的にいかに詳細に議論してみても、統帥権を盾に軍部がいかに政府と帝国議会を無視して侵略戦争を推進していったのかという過程を明らかにすることはできない。侵略戦争の過程を明治憲法体制=天皇制の構造の問題として分析することは、日本「ファシズム」の特徴を明らかにするために欠かせないことは改めて言うまでもない。ところが、片山は、「ファシズム」を説明するにあたって、ヒットラーやスターリンという独裁者が権力をいかにして分散させずに自己の手中に掌握し続けたかについて解説しているように、彼にとって「ファシズム」とは、一個人が絶対的権力を独占する形態という、ひじょうに単純で一面的なものとしてしか捉えられていない。したがって、絶対的権力を独占するような人物が現れなかった戦時の日本は「ファシズム」でなかったという、あまりにも短絡な結論になるわけである。
「天皇制ファシズム」と「総力戦体制」構築失敗の相互関連性
 これまた改めて言うまでもないことなのだが、日本のファシズムは天皇制を、とりわけ天皇制イデオロギーを抜きにして解明することは不可能である。日本のファッショ化過程は、ナチスのようにワイマール体制下のデモクラシーの規範を破壊する形で進んだのではなく、それとは逆に、既存の天皇制支配体制のさらなる強化というかたちで進んだ。すなわち、イデオロギー的には、家父長制的家族制度を基礎とする郷土=農村共同態への復帰、したがって、そうした共同態のイデオロギー的集合体としての「家族国家」観の異常なまでの強化、つまり天皇を全国民=赤子の神がかり的な「父」と崇める「家族国家」への強烈な「里帰り」という形をとった。日本のファシズムは、この天皇を中心軸とする「幻想の共同性」に支えられて初めて拡大することが可能であった。
 問題は、天皇制は、一方で資本主義によって推進される近代国家としての合理的機構化が存在しながら、他方で封建的で前近代的な家父長制的共同態の伝統的価値観が常に全国的規模で再生産続けられるという、この深刻な矛盾を孕んでいたことである。そこに、1930年、経済恐慌によって引き起こされた中小零細企業と農村の危機が発生し、天皇制の矛盾がますます顕在化。この経済危機と政治社会的矛盾を脱出するための手段を満州に、さらには中国各地、東南アジアに求めて侵略戦争を進めていくという形で日本のファッショ化は進んだ。したがって、戦争拡大のスローガンが「家族国家」の拡大版である「八紘一宇」であり、最終的に「持たざる国」の軍隊が「父」である天皇に命を捧げる「玉砕」を兵に強いる戦闘方式に行き着いてしまったのもなんら不思議ではない。
 総力戦体制とは、国家が保持している物的と人的の両方の資源を、戦争行動に計画的に合致させる形で、極力、合理的かつ効率的に利用することであり、そのためには物的資源を生産目的に合わせて計画的に配分し、人的資源も計画的に動員し、適材適所に配置することが必要となってくる。そのためには、当時の日本の伝統的な家族主義に基づく職業分布や雇用形態、「親方・徒弟」関係的な職場の人間関係は、徹底して合目的的な動員・配置を必要とする総力戦体制には全く適していなかった。
 実は、日本も日中戦争の最中の1938年に「国家総動員法」を初めて施行した。ところが、「国家総動員法」でこうした家族主義の職業分布、雇用形態、職場関係を根本的に変更することは、家父長制的家族主義に基づく天皇制国家自体の崩壊につながらざるをえない。そのため、国家総動員法が出されたにもかかわらず、現実には、当時の商工省官僚が指導したごとく、「事業そのものを成るべく現状において維持することが主眼」とされたため、全く総力戦体制のための社会再編成にはつながらなかった。したがって、天皇制ファシズムにおける総力戦体制確立の努力が、結局は、総力戦にとって最も重要な人的資源である将兵と市民の「玉砕」=自己破壊という極端な矛盾を産み出したのも当然の帰結であった。総力戦体制の構築失敗は、片山が言うような「東条おろし」といった単純な問題ではない。
結論:「象徴天皇制の虚妄」の穴
 こうして片山の「総力戦」や「ファシズム」の解説を検討してみると、あまりにも非学問的で、単純で一面的な説明に、これが政治思想・歴史を専攻する「学者」の仕事かとあきれかえる次第である。(吉田秀和賞を受賞したとは言え、こんな浅薄な人間が書いた音楽評論を私は読みたいとも思わない。) 
 したがって、日本の戦争とファシズムを問題にしながら天皇制の問題については全くなにも考えていない学者先生に、天皇制の本質が理解できるはずはないし、それゆえ、当然、戦前・戦中の天皇制と戦後の天皇制の連続性について理解できる能力が完全に欠落しているのも不思議ではない。よって片山は、島薗進との対談で戦後の天皇裕仁に言及して、脳天気にも、「日本に民主主義を根付かせようと、政治家に向かって内々に意見を伝えるべく、秘密の使者を遣わしたりもした。マッカーサーにも同じことをした。つまり民主主義時代の象徴天皇は民主主義を促進し、あるいは擁護するためには身命を賭すものだという覚悟が、昭和天皇から今上天皇へと受け継がれていると思うのです」と述べている。裕仁がマッカーサーに沖縄をタダで売り渡すような、明らかに憲法違反の言動をしたことが、民主主義擁護のために「身命を賭す」行動だと述べ、その自分の無知を恥ずかしいとも思わない。
 国内外での戦没者慰霊の旅を続けながらも、無数の戦没者を出した自分の父親と天皇制自体の責任については一切口にしない明仁を、片山は「象徴天皇についての最大の思想家」と持ち上げる。さらには「父である昭和天皇の未完に終わったとも言える『人間宣言』を、ほとんど原理主義的とも言える苛烈さと言いますか、極めて倫理的に厳しく貫徹しようとすると、『<生前退位の>お言葉』になる」とまで明仁を絶賛する。ここまで来ると、もう「学者」と言うより「太鼓持ち」としか言えない。しかも、丸山真男の「戦後民主主義の虚妄に賭ける」という言葉に擬えて、「象徴天皇の虚妄に賭けたいと考えます」と片山は述べる。天皇制の「虚妄」がどれほど恐ろしいものであるのか、片山には全く分かっていないようである。私にとっては、このような非学問的で軽薄な「学者」をもてはやす日本のメディアがすでに「象徴天皇制の虚妄」の穴に落ち込んでいることが恐ろしい。
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2018年8月30日木曜日

国家主義を突き破る人道主義


  栗原貞子の思想と沼田鈴子の実践から学ぶべきもの

以下は去る8月10日、武蔵野公会堂第1会議室で行った講演のために用意した講演概要に大幅に加筆したものです。ご笑覧、ご批評いただければ光栄です。

1)栗原貞子の生涯と反戦反核文学作品
2)沼田鈴子の生涯と平和構築実践活動
3)憲法9条と前文に象徴される栗原貞子と沼田鈴子の非戦平和思想・実践活動
4)記憶が芸術的表現を介して象徴表現化されるとき、その記憶は訴える力を持ち永続化する
5)結論:文化的記憶の創造を!
6)補論: 7〜8月の一時帰国を終えて、日本のメディア報道について考えること

1)栗原貞子の生涯と反戦反核文学作品
1913年3月4日:
  広島県安佐郡可部町(現在の広島市安佐北区)の農家の次女として生まれる。旧姓は土居。大正デモクラシーの比較的自由な雰囲気の中で育ったこともあってか、読書好きの文学少女として育った。可部高等女学校時代には、短歌や詩を同人誌で発表したり中国新聞に投稿するなどの活動。
1931年(18歳):
  女学校卒業の1年後、文芸活動で知り合った栗原唯一との結婚を決意。栗原唯一はアナキストで警察からマークされる存在。親はそんな唯一との結婚に反対したため、家出をして二人で四国を転々とするが、夫の実家に戻り、32年に長男を出産(2歳で死亡)。1935年:長女・真理子、39年:次女・純子誕生。
 (アナキズムとは、人間の自由と尊厳を重んじ、あらゆる権力からの自由、無権力・無支配社会の実現を理想とする、ヒューマニズム獲得の思想。しかし、国家権力を認めないことから、「無政府主義」と訳され、「国家転覆思想」として危険視された。幸徳秋水、大杉栄、伊藤野枝らが殺害されたのも、無政府主義が「危険分子」とみなされたから。)
1940年:
  夫の唯一が徴用されて中国に送られるが、脚気のためにすぐに送還された。唯一が中国で実際に見聞し衝撃を受けた日本兵の残虐行為について、バスの中で知人に話したところ、乗客に警察に密告されて起訴された。貞子は、戦時下、夫が秘蔵していたクロポトキンの『パンの略取』、『田園・工場・仕事場』、『青年に訴う』などのアナキズム関連の本を読んで、自由発意と自由合意にもとづく平和な無権力社会の実現を夢見ていた。同時に反戦の短歌、詩、エッセイなども密かに書き綴っていた。
1945年8月:
  8月6日広島原爆無差別殺戮の3日後に、隣家の娘を探すために爆心地から4キロ離れた当時住んでいた自宅から市内中心部に入り、入市被爆。夫は三菱重工祇園工場に勤めていたが、工場から市内に家屋解体作業に出ていた従業員を救出するために市内に入って入市被爆。「黒い雨」にもうたれ放射能をかなり浴びたため、11月頃まで原爆症で苦しんだ。
1945年11月:
  夫の呼びかけで、作家・細田民樹らを顧問に「中国文化連盟」を創設。60人が参加。
1946年3月:
  文芸雑誌『中国文化』の創刊号「原子爆弾特別号」を、GHQの検閲を受けて発行。百人ほどが短歌、詩、散文を寄稿。栗原貞子は「悪夢」と題した12首の歌と「生ましめん哉」(後に「哉」を平仮名に変えて「生ましめんかな」)を寄稿。3千部を完売。同年7月、反戦・原爆詩歌集『黒い卵』を自費出版。『黒い卵』では、「戦争とは何か」を含む3編の詩と11首の短歌が検閲で削除され、自己規制で9首の短歌も削除。詩29編、短歌250首を収めた本となった。(1983年に、削除された作品も全部収録する形で「完成版」を出版。)
  興味深いことには、検閲では、戦時中の1942年10月に日本軍の残虐行為をテーマに密かに作詩した「戦争とは何か」は削除され、原爆直後の出産をテーマにした「生ましめんかな」は削除の対象とはならなかった。おそらく検閲した占領軍検閲官は、「戦争とは何か」で栗原がとりあげた残虐行為を、単に日本軍のみならず、当時の占領軍が日本市民に対して犯していた強姦・強盗をはじめとする様々な犯罪行為への非難とも受け取れると考えたからではないかと推測される。この詩の中では、例えば、「殺人。放火。強姦。強盗。/逃げおくれた女達は敵兵の前に/スカートを除いて手を合わせるというではないか。…… 女に渇いた兵士達が女達を追い込んで/百鬼夜行の様を演じるのだ」といった表現が含まれている。その一方で、「生ましめんかな」には、原爆被害にあったにもかかわらず、産気づいた若い女性に「人々は自分の痛みを忘れて気づかった」のであり、「かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた」という表現に、原爆被害がそれほど酷いものではなかったかのような印象を与えているだけではなく、原爆にもかかわらず新しい生命が生まれるという積極的な面があると、米軍検閲官は理解したのではなかろうか。
  ちなみに、「生ましめんかな」は、以前から小中高校の平和教育のための教材として使われ、現在も国語教材として一部の教科書に使われているが、1988年には、先生たちが赤子をとりあげた産婆の行為を「自己犠牲」の美徳として讃えることで、「修身道徳の美談として矮小化」してしまったと、栗原は嘆いている。(現在はこのような「美談」解釈は、幸いにしてなされていないようである。)
1950〜60年代初期:
  1950年、5号までという少ない数であるが『ヒロシマ婦人新聞』を発行。戦争直後に多かった戦争で夫を亡くした寡婦の問題(「未亡人」という言葉の人権無視性を指摘)や男女平等問題について論評。その後、夫が発行する『広島平民新聞』と統合。
  1951年4月に夫は町議会議員に、55年4月に県議会議員に社会党から立候補、当選し、3選される。貞子は夫とともに地域問題のために奔走。1958年の第4回大会から原水爆禁止大会に参加し、1959年9月に「原水爆禁止広島母の会」を仲間たちと結成し、機関紙『ひろしまの河』を発行。1961年第7回大会後の分裂問題で運動そのものよりも組織体制を重視する原水禁運動に失望して離脱。しかし、62年第8回大会では和英対訳のThe Songs of Hiroshima の詩集(栗原貞子と大原三八雄、米田栄作、深川宗俊らとの合同詩集)が配布された。
1960年代半ば〜60年代末:
  米国のベナム戦争介入が本格化する65年代から、日本でも急速に高まったベトナム反戦運動に栗原貞子も深く関わるようになり、小田実や鶴見俊輔が率いる「ベ平連」に参加、「広島ベ平連」代表となる。68年9月から数カ月間は、ベトナム脱走兵・清水徹雄(広島出身、被爆者で米国滞在中に徴兵される)救出のため奔走する。
  同時に、韓国人被爆者の存在と問題も知るようになり、「差別」批判の声も強めるようになる。この時期、こうした運動を通して、栗原貞子の反核・反戦意識は、「被爆国日本の基地が、ベトナム戦争の基地として使われ、それを許している日本国民の加害者であり、被爆者も軍都広島の市民として戦争に協力した加害者である」という、原爆被害者の戦争「被害と加害」の二重性を強く認識するようになる。


1970年代:
  1970年、岩国米軍基地の200メートル沖に停泊する上陸用船艇に核兵器が複数貯蔵され、核兵器部隊も存続していることが判明。沖縄の本土化を危惧し、岩国基地への抗議デモ、基地撤去要求デモ、基地前座り込み、街頭宣伝などにも積極的に参加。1972年の沖縄全面返還により米軍沖縄基地問題にも関心を強めるようになった。1971年7月、「ヒロシマというとき」を発表。
  当時の高度経済成長時代、水俣や四日市をはじめ日本各地で公害問題が発生すると同時に、石油危機、電力需要の高まりなどもあって、「クリーンなエネルギー源」として原発建設が急速に推進されるようになった。この状況を栗原貞子は深く憂慮。75年2月、東京の市民グループ「原爆体験を伝える会」での講演でも「エネルギー源としての核による新しい被曝者ができつつある」と述べた。同年、中国新聞が市民から募った懸賞論文「昭和50年代への提言」に応募した論考「核文明から非核文明」でも原発事故の危険性のみならず、原発稼働と核兵器製造が表裏一体になっていることを鋭く指摘。被団協を含め被爆者の大部分が「原子力平和利用」を支持していた当時、原発反対を公に唱えた被爆者は稀であった。
1980〜90年代:
  80年10月、唯一が原爆後遺症の膵臓癌で死去。その後も、「広島・長崎への原爆投下は、人道上、国際法上許すべからざる犯罪である。しかし、その絶対性は、その誘発を許した国民の責任やアジア諸国民への加害責任を不問にしたり相殺したりすることはできない。被害と加害の複合的自覚に立つとき、初めて他国民間の連帯が可能になる」という信念から、多くの詩を創作。しかし、90年12月、栗原が時常任理事を務めていた広島県原水禁のニュースに載った問われるヒロシマ被害と加害の複合的自が、被爆者は戦争加害者ではなく、原爆被害の実情を伝えることこそが使命と考える理事たちから反発を受け、栗原は常任理事を降りる。
  栗原の憲法9条擁護思想は晩年になるほど強まっていき、1992年に「第九条の会ヒロシマ」が立ち上げられ、その年の8月6日以来ほとんど毎年この会は新聞に意見広告を出し続けているが、92年の標語、「憲法九条はヒロシマの誓いそのものです。再び、アジアの人々へ銃を向けさせまい」は、栗原が提案したもの。93年、94年の標語も彼女の案による。
 91年2月、長女・真理子が安佐北区可部町の栗原家の墓地に、父母のために憲法9条「護憲碑」を設置。当時、貞子は78歳。


2005年3月8日死去。
  栗原貞子は「詩人」として世に知られているが、私は彼女の評論を集めた数冊の著書もひじょうに鋭利な政治社会評論集であり、読まれ続けるべきものであると考えている。とりわけ、『核・天皇・被爆者』(三一書房 1978年)は、天皇裕仁と日本の戦争責任、米国の原爆無差別殺戮に対する責任問題を考える上で、ひじょうに重要な本であると思っている。

生ましめんかな
(『中国文化』1946年3月)
こわれたビルディングの地下室の夜だった。/ 原子爆弾の負傷者たちは
ローソク1本ない暗い地下室を / うずめて、いっぱいだった。
生ぐさい血の匂い、死臭。 / 汗くさい人いきれ、うめきごえ
その中から不思議な声が聞こえて来た。 / 「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。
この地獄の底のような地下室で / 今、若い女が産気づいているのだ。
 
マッチ1本ないくらがりで / どうしたらいいのだろう
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。 / と、「私が産婆です。私が生ませましょう」
と言ったのは /さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で / 新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな / 生ましめんかな / 己が命捨つとも
 
ヒロシマというとき
(「ヒロシマというとき」1976年3月) 

〈ヒロシマ〉というとき / 〈ああ ヒロシマ〉と / やさしくこたえてくれるだろうか
〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉 / 〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉
〈ヒロシマ〉といえば 女や子供を / 壕のなかにとじこめ / ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑 / 〈ヒロシマ〉といえば / 血と炎のこだまが 返って来るのだ
 
〈ヒロシマ〉といえば / 〈ああ ヒロシマ〉と / やさしくは返ってこない
アジアの国々の死者たちや無告の民が / いっせいに犯されたものの怒りを噴き出すのだ
〈ヒロシマ〉といえば / 〈ああヒロシマ〉と / やさしくかえってくるためには
捨てた筈の武器を/ ほんとうに捨てねばならない
異国の基地を撤去せねばならない / その日までヒロシマは / 残酷と不信のにがい都市だ
私たちは潜在する放射能に / 灼かれるパリアだ
 
〈ヒロシマ〉といえば / 〈ああヒロシマ〉と / やさしいこたえがかえって来るためには
わたしたちは / わたしたちの汚れた手をきよめねばならない
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  戦時中の日本の反戦詩(当然ながら、当時そのほとんど全てが未発表)には、栗原の作品だけではなく、他にもひじょうに秀れた作品がある。例えば、竹内浩三の「骨のうた」は、私はそうした秀作の一つだと考えている。
「戦死やあわれ/兵隊の死ぬるやあわれ/とおい他国で ひょんと死ぬるや/だまって だれもいないところで/ひょんと死ぬるや/ふるさとの風や/こいびとの眼や/ひょんと消ゆるや/国のため/大君のため/死んでしまうや/その心や/
苔いじらしや あわれや兵隊の死ぬるや/こらえきれないさびしさや/なかず 咆えず ひたすら 銃を持つ/白い箱にて 故国をながめる/音もなく なにもない 骨/帰っては きましたけれど
/故国の人のよそよそしさや/自分の事務や 女のみだしなみが大切で/骨を愛する人もなし
/骨は骨として 勲章をもらい/高く崇められ ほまれは高し/なれど 骨は骨 骨は聞きたかった
/絶大な愛情のひびきを 聞きたかった/それはなかった/がらがらどんどん事務と常識が流れていた/骨は骨として崇められた 骨は チンチン音を立てて粉になった/
ああ 戦場やあわれ/故国の風は 骨を吹きとばした/故国は発展にいそがしかった/女は 化粧にいそがしかった/なんにもないところで/骨は なんにもなしになった」

  傑作ではあるが、戦時中のこのような日本の反戦詩は、どれもみな自分の戦争「被害者」としての痛みと苦悩を謳うばかりで、栗原の「戦争とは何か」のように、加害の痛ましさ、加害と被害の重層性を謳っているものはほとんどない。
  この観点からするならば、ベトナム戦争時代にボブ・ディランが作った、戦争で傷つき醜い身体になった兵士が故郷に帰ってきて駅で母親に会うという話の歌、「ジョン・ブランウン」は最高傑作の一つだと私は考えている。その一節に次のような歌詞がある。
「ああ、ぼくは戦場にいたとき、ああ、神さま、いったいぼくはここで何をしているんだと思ったよ/ぼくは人を殺そうと一生懸命になった、でなきゃぼくが死んじゃうと/でも本当に怖かったのは、敵の兵士がぼくの身近までやってきて、そして彼の顔をみたとき/ぼくとまったく同じような顔じゃないかと気がついたとき」 (余談であるが、ディランがノーベル文学賞を拒否するものとばかり思っていた私は、最終的に彼が授与を承諾したことに痛く失望させられた。)

2)沼田鈴子の生涯と平和実践活動
1923年〜:
  沼田鈴子は、7月30日、大阪で生まれる。父はジャーナリスト。兄と妹がおり、5歳のときに父の仕事の関係で広島に移転。典型的な家父長制的、愛国主義的な教育を受け、天皇を崇拝する当時の典型的な女学生として育った。
1940年〜42年:
  女学校を卒業し、しばらく父の助手として働くが、父がジャーナリストの仕事を続けるのが難しくなり、父は逓信局広島支局事務員となった。太平洋戦争開戦の4ヶ月後の1942年4月より、鈴子も逓信局広島支局事務員となり、兄も妹も同じ逓信局広島支局に勤務。
1943年秋〜44年:
  父の親友の息子(27歳)と婚約、44年に結婚の予定。しかし、44年3月に婚約者が徴兵されて海外に送られたため、結婚延期(戦後、南太平洋で婚約者が戦死したことを知らされる)。
1945年8月6日〜47年3月:
  爆心地より1,300メートル離れた広島逓信局ビル内で被爆。崩れたビルのコンクリートの下敷きになり、左足を負傷しながらも助かる。しかし、左足が腐敗したため、膝上から切断手術を受ける。その後、1年半の入院生活の間に4回も手術を受けなければならなかった。
1947年3月〜57年:
  被爆後しばらくは精神的打撃から立ち直ることができず、自暴自棄になり、自殺を何度も考える。しかし、両親や妹の愛情に支えられながら、1947年9月には教員となることをめざして再び立ち上がり、51年に教員資格を獲得、安田女子高校の家庭科の教員となる。にもかかわらず、学生のときも、教員となってからも、身体障害者と被爆者に対する二重の差別に苦しめられるという苦い経験から、被爆者であることを隠し続ける生活をその後長年続けた。
1957年:
  沼田にプロポーズした同僚の男性が、彼の親が被爆者との結婚には猛烈に反対したため、自ら命を絶つという悲惨な出来事が起きた。そのため、彼女は「もう再び人を愛することはすまい」と決意=多くの戦争/暴力犠牲者にみられる「感情的反応の心理的閉め出し」(ロバート・リフトンの言う「精神的麻痺」という現象)。
1979年3月退職:
  教職を通しての学生との交流、教職を退いた後も原爆特別養護老人ホームでのボランティア活動を行ったことが、徐々に「人間関係構築」=「人間性回復」につながったと考えられる。
1981年5月:
  入手可能となった1946年の米国戦略爆撃調査団制作フィルムを使って、広島の市民グループが映画『人間をかえせ』を制作する「10フィート運動」を展開。このフィルムに写っていた当時の沼田鈴子の映像を、沼田は編集段階で見せられた。切断された痛々しい左足をさらけ出した35年前の自分の映像と対面させられた彼女は、その公開承諾を初めは躊躇したものの、被爆者で当時すでに語り部であった坂本文子と出会い、彼女の「私もあなたも生かされている」という言葉に勇気づけられ、証言活動を始めることを決意(=ロバート・リフトンが「真に包括的な精神的再生」と称したものに近い現象を体験)。

1982〜83年:
  映画『人間をかえせ』の海外上映隊に参加してヨーロッパ、カナダ、アメリカを訪問し、各地で証言を行う。帰国後の83年から、本格的に証言活動を始めた。証言内容は、自分と逓信局の職場の同僚たちが体験したすさまじく残酷な被爆状況を、涙を流しながら語るということに終始したものであり、一貫して「被害描写」に集中していた。
1983年11月:
  大阪府立西成高校2年生220名の一行が修学旅行で広島訪問。在校生のほぼ4分の1が被差別部落出身、在日韓国人・朝鮮人、崩壊家庭、貧困家庭といった背景をもつ生徒たちで、彼らに対する根深い差別意識のために、学校は低学力、非行、校内暴力で荒廃していた。学生たちは、沼田を含む数人の被爆者から被爆体験を聴き、原爆で家族を失った悲しみや差別や病気の苦しみを乗り越えて生きているという証言に、自分たちがおかれている境遇との共通点を発見し、深く心を動かされる。この修学旅行の後、西成高校に大きな変化が見られるようになった=生徒たちと被爆者の間に「痛みの共有」、「他者の痛みの内面化」という現象が起きた結果。
1984年8月:
  西成高校生徒の50名ほどのグループが再び広島を訪れ被爆者と再会。生徒たちは、このとき原爆病院に入院を余儀なくされていた沼田を見舞う。沼田は、若者たちとの「痛みの共有」を通して、自分自身が強く勇気づけられたと明言。
1984年12月23日:
  沼田は日本キリスト教団府中教会にて洗礼を受け、キリスト教者となる。「洗礼」は、キリスト信仰を通して自分が精神的に生まれ変わる、すなわち「自己再生」という意味をもつものであり、このことも沼田の後の証言内容の重要な要素の一つである「命の再生」と、思想の上では深く関連していると思われる。
1985年3月:
  在韓被曝者実態調査団に加わって初めて韓国を訪問し、韓国人被爆者と交流。1988年8月には「ヒロシマとオキナワを結ぶ市民の会」のメンバーとして沖縄を訪れ、沖縄戦で市民がなめた様々な苦汁について学ぶと同時に、米軍基地の実態についても直に自分の目で見ることになった。かくして沼田は、徐々に広島以外の戦争被害者と出会い、戦争関連の知識を精力的に吸収しはじめた。しかし、いまだ彼女の反戦反核思想の中心軸は「被害者」に置かれていた。
1986年4月:
  チェルノブイリ原発事故が起き、原爆被害者も原発事故被害者も同じ放射能汚染の被害者であるという信念から、沼田は「反原発」を講演でしばしば言及。日本での原発事故の危険性についても予言的に語るようになる。当時、反原発を訴える被爆者は稀であった。
1988年8月15日:
  大阪で開かれた市民集会「アジア太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会」に参加。ここに招かれた5人のマレーシア人の証言 - シンガポール・マレー半島での日本軍による10万人にのぼる大量虐殺を聞いて衝撃を受ける。5人は、マレー半島のネグリセンビラン州で抹殺された4千人を超える住民虐殺で親や兄弟姉妹を殺され、自分たちも銃剣で傷つけられた人たちだった。しかも、このマレー半島を侵略し虐殺に加わった兵隊たちの一部は、広島に本部が置かれていた第5師団歩兵第11連隊所属の兵員。このマレーシア人たちとの出会いによって、沼田は戦争行為が持つもう一つの局面=「加害」の局面に直面。
1989年3月下旬〜4月上旬:
  沼田は、吉野誠(美術教師)夫妻と共に、マレーシアに慰霊と証言を聴く旅に出て、さらに詳しく「加害」の状況について学んだ。自分の「加害者」としての責任を自覚し、沼田は被害者親族に謝罪。そうした謝罪によって、沼田のそれまでの限定された「他者の痛み」への配慮が、一挙に深みと広がりをみせ、「いかなる人の人権も尊重する」という普遍的で根本的な原理に裏打ちされた「他者への痛み」への共感として、強く且つ深く彼女の思想の中に根を下ろしたものと考えられる。
1990年〜91年:
  南京虐殺の犠牲者や重慶爆撃の犠牲者とも出会い、日本軍戦争犯罪行為の責任を認め、謝罪することによって、中国人被害者との「痛みの共有」にも成功。
 1990年代初期頃から沼田の証言内容に変化が表れたように思われる。自分の被爆者としての痛みについての言及は必要最低限な情報提供におさえ、むしろ、その「痛み」と「苦しみ」から自分が学びとったもの、すなわち「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」といった点に重点を置くようになった。それらを表す象徴として、被爆青桐の話が沼田の証言に使われるようになった。おそらくは、1990年以前は、被爆青桐は、沼田の記憶の中ではそれほど鮮明に残っていなかった可能性がある。しかし、「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」といった要素が沼田の思考の中で重要性を増すにつれて、被爆青桐の記憶はこれらの要素と連結し、その意義を強調するような形で、記憶自体が彼女の中で鮮明にされ、高められ、説話化されていった可能性がある。沼田が被爆青桐に、私たちの誰にとっても重要な「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」という象徴性を持たせ、被爆青桐の種を発芽、成長させた苗の植樹運動、種の拡散運動を日本国内のみならず世界中に広めたことは、広島から世界に向けての「平和のメッセージ」発信という意味で、極めて重要なこと。
  にもかかわらず、広島の被団協は、「我々は戦争被害者であって、加害者などではない」と主張して沼田を激しく非難し、事実上、彼女を被団協から追い出してしまった。



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   「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」は、世界に共通する普遍的価値をもつ、我々人間誰にとって欠くことのできない要素であり、平和構築と維持にとって不可欠の要素である。それゆえ、これらこそ「ヒロシマの思想」の確立にとっての支柱となるべきものであり、広島市民が被爆体験から学びとり、継承すべき叡智であると私は考える。その意味で、沼田の証言・平和活動は、今後の私たち広島市民の反核・反原発・平和運動にとってのモデルを提供している。新しい人との「出会い — 感動 — 発見 — 出発」を通して、さらには「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」に努力することで、平和の絆は必ず広がっていくはず。

3)憲法9条と前文に象徴される栗原貞子と沼田鈴子の非戦平和思想・実践活動
*アナキストであった栗原貞子はなぜ、国家権力を正当化する日本国憲法の擁護を唱えたのか?
  栗原は日本国憲法の全てを受け入れていたわけではなく、もっぱら憲法9条を重視し、その擁護を主張した。では、なぜ非戦・非武装を唱える憲法9条をそれほどまでに重要視したのか。おそらく栗原は、本来は憲法9条が内在化させている「国家否定」の思想を、無意識ながらも感知していたのではないか、というのが私の考えである。すなわち、栗原は、憲法9条には国家主義を超える普遍的平和主義の思想が根底に存在していることを感知していたと思われる。
  9条は、本質的には国家性規定という国家原理、すなわち「国家権力」を、否定する思想を内包している。国家原理を否定する思想は、9条2項の最後の条文「陸海軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」の中に含まれている。なぜなら、「国家」は軍事力を保持し且つ「交戦権」を持ってはじめて「国家」としてその存在を他国から認められるという考えが、第二次世界大戦終結まで絶対的且つ支配的であったし、日本が1946年公布の自国の憲法で「交戦権否定」を表明したあと、現在も世界ではこの考えが圧倒的に支配的である。国際連合も、基本的には武力と交戦権を保持した諸国家の連合という形をとっており、ただ侵略戦争を禁止しているだけである。したがって、逆説的に言えば、「交戦権」を持たない武力組織は「国家」ではない、つまり「テロ組織」と見なされるわけである。その最も典型的な例は、イスラエルとパレスチナの関係であろう。イスラエルがパレスチナを断固として国家として承認しない理由は、パレスチナが独立国家として世界に承認されれば「交戦権」を有するため、その軍事力をイスラエルはもはや「テロ」扱いできなくなるという重大な問題が発生するからである。つまり、パレスチナが国家になれば、イスラエルとパレスチナの間の武力紛争は「戦争」となり、国連が介入することになるため、イスラエルはこれまでのように任意にパレスチナに武力攻撃ができなくなる。同じように、過激派イスラム・テロ集団が「IS(イスラーム)国家」と自称する理由は、「国家」を名乗ることによって交戦権保有を主張し、その武力活動を正当化することにある。
  日本国憲法9条に、国家否定の思想の内在化を鋭く感知した人が、栗原のみならず、数は少ないにせよ、これまでにいたことは確かである。例えば、1950年代に次のように述べたアーノルド・トインビーがその一人である。「原子兵器が発明された今の時代では、もはや国家主義にふけっているわけにはいかない。日本人はそういった面を体験して生きぬいてきたのだし、痛ましい経験によって国家主義の限界を学びえた。」(A.J. トインビー『歴史の教訓』)<強調:田中>日本では、大熊信行、平井啓之、小田実が、同じように、国家主義否定の思想を9条に見ている。

*沼田鈴子が証言活動で唱えた「いかなる人の人権も尊重する」という普遍的で根本的な原理は、憲法前文で確認された、世界の全ての人々が持っている「平和的生存権」であった。
  9条の絶対的な非戦・非武装主義は、憲法前文で展開されている憲法原理思想と密接に絡み合っているのであり、したがって、9条は前文と常にセットで議論されなくてはならない。とりわけ、前文の第1段落の「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意し」という文章と、以下の第2、第3段落部分が重要である。
  日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
   われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。

  日本は天皇制軍国主義の下で、アジア太平洋全域で、文字通り「専制と隷従、圧迫と偏狭」を作り出してきた国家であった。これを深く反省し、その責任を痛感し内面化することによって、国家=政府が再び戦争を起こすことを国民がさせないという決意をここで確認している。その上で、人間相互の平和的関係を構築する上で国際社会に大きく貢献し、そのことで名誉ある地位を占めたいと主張しているのである。さらには、全世界のあらゆる人々(日本語の前文では「国民」となっているが、英語の原文はpeople である)が平和的生存権を有していることも確認している。つまり、この前文では、日本人が自分たちの政府に戦争を再び起こすことを許さず、世界のあらゆる人間が平和を享受する権利を持っているという認識に立って、国際社会で平和的な人間関係を創り出していくことに積極的に貢献していきたいと主張しているのである。ここには、平和とは人権の問題、生存権の問題であり、地球的・普遍的正義論の問題であり、国際協調主義の問題であることが唱われている。
  その意味では、一国の憲法前文でありながら、普遍的、世界的な平和社会構築への展望と決意を展開しているという点で極めて特異な前文と言えよう。この点に注目して、小田実は、この前文を「世界平和宣言」であると主張した。第2次大戦後には、戦時中のホロコーストなどの大量虐殺と人権弾圧の反省から、「世界人権宣言」や「国際人権規約」が作られた。しかしながら、「正義の戦争」という旗を掲げて大量の市民を無差別殺戮(その典型が原爆殺戮)した戦勝国が主導して創設した国連では、「世界平和宣言」を作れるはずがなかった。ところが、日本国憲法の前文には、「世界平和宣言」と呼べる普遍的正義論が含まれている、というのが小田の主張である。憲法学者・樋口陽一も、この前文で取り上げられている「平和的生存権」に触れ、「平和のうちに生存する権利は、いわば、二一世紀的人権を日本国憲法が先どりしようとしたものとして、位置づけることができる」 と述べ、その先駆性を強調している。

   このように栗原貞子と沼田鈴子の思想と実践には、国家権力を超えた「個人の権利」の重要性への確固たる信念が深く刻み込まれている。では「個人の権利」とは具体的には何か?加藤周一は、「その本質のひとつは、差別されないことです。たとえば、日本人か中国人か国籍に関係ない、ジェンダー・性別に関係ない、年齢に関係ない。『一人ひとりの個人に、これだけの権利が備わっている』というのが人権です。だから『個人の権利』は、『人権』とほとんど同じでしょう」と説明している。ところが問題は、日本人は観念的にはこれを理解していても、信念としてこれをしっかり身につけ、内面化していないといことを加藤周一は厳しく指摘して、次のようにも述べている。「<日本では>『人権』といっても、じっさいには『日本人権』でしょう。『人間』で想起されるのは日本人なんじゃないでしょうか。…… 私は日本の大衆の多くは国境を超える『人権』にコミットしていないと思います。『平和』なときはそれでもいいかもしれないけれど、戦争になったら何をするかわからないし、現にあの戦争ではそれが起きた。」(『ひとりでいいんです 加藤周一の遺した言葉』講談社 2011年から <強調:田中>)
  最近の杉田水脈の「LGBTは生産性がない」というような甚だしい差別発言を聞くと、国境を超えるどころか、国内の人間に対してすら「人権」を認めない下劣な人間が国会議員になっている事実に、またそのような人間を議員候補に推薦した下劣な首相に、あらためてあきれかえると同時に怒りをおぼえないわけにはいかない。
  この意味でも、栗原と沼田の二人は国境を超える「人権=人道性」にコミットした真に国際的な稀にみるヒバクシャであったと私は考えている。再度述べておくが、戦争の加害と被害の重層性とその責任問題を無視しては、国境を超える「人権」、「普遍的な人道性」にコミットすることは不可能である。

4)記憶が芸術的表現を介して象徴表現化されるとき、その記憶は訴える力を持ち永続化する
  被爆者の平均年齢が82歳を超え、被爆者数も急激に減少しつつあるところから、 最近、「被爆体験の継承」ということが盛んに広島では議論されている。そうした「継承」運動の広島市の主たる取組みは、被爆証言者=語り部の証言内容を、戦後生まれの非被爆者ボランティアがノートに書取り記憶し、語り部が亡くなった後は、語り部に代わって証言を行うという役割を担う、そのような人間を育成するというものである。これは「継承」ではなく単なる「伝承」である。「伝承」は限られた人間の間でほそぼそと伝えつがれるものであって、「平和メッセージ」のような世界各地の多くの市民を対象としたものではない。「自分の被害」状況だけを一方的にほそぼそと語る内容の「伝承」であるならば、それは「共感」をよぶことは難しく、拡散されることもなく、遅かれ早かれ消滅していく。
  真の「継承」、すなわち「語り」の内容が多くの市民の共感をよび、長年にわたってそれが人々の心を震わせ感動し続けるためには、「語り」の内容が「国境を越えた」普遍的要素を強く具えていなければならない。つまり、「普遍的要素」がなければ、そのメッセーシが拡散し永続化することは極めて難しい。したがって、「被爆体験の継承」には、沼田鈴子の証言活動に深く根づいていた「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」といった「普遍的要素」が欠かせない。沼田鈴子の証言・平和活動に、今後の私たちの反核・反原発・平和運動にとっての一つのモデルを見ると私が主張するのは、そのような理由からである。
  しかしながら、被爆樹木の種を発芽、成長させた苗の植樹・拡散には、被爆樹木には「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」といった「普遍的要素」が象徴化されているというメッセージを同時に伝えていかなければ、植樹・拡散運動も遅かれ早かれ消滅するであろうし、運動としての力も最初からひじょうに弱いものとなってしまう。広島市当局が行っている植樹運動には、そのような象徴的メッセージが全く欠落している。ひじょうに残念ながら、したがって、生前に強い影響力を発揮していた沼田鈴子のメッセージは、いま急速に忘れ去られつつある。
  一方、栗原貞子の詩には、戦争の「被害と加害の複合性」、「被害者と加害者の痛みの同時的内面化」、「痛みに打ち勝ち立ち上がる人間の感動的な力」が、文学芸術作品として強烈に象徴化された形で表現されている。よって、その「象徴化された表現」=「普遍的メッセージ」が、彼女の作品を読む者に深く強く迫ってきて、心を震撼させるのである。それが、英語に翻訳された彼女の作品が、いまも海外で読まれている大きな理由であろうと私は考える。
  人間の記憶は、残念ながら極めて不確かで不安定で且つ短期的なものである。記憶を確実なものとして永続化するには、その記憶で伝えたいメッセージを凝縮させた核心部分を強烈に象徴的に表現し、その表現に触れる人間の魂を動かすことが必要である。そのためには、その表現が誰の心をも動かすような普遍性を内包していなければならない。
  したがって、「記憶の継承」には必ずしも言葉は必要ではない。最も重要なことは、悲惨な歴史的事実の「本質」をいかに単純明晰に、しかし強烈な形=シンボリズム表現で伝え、情報を受け取った人間の心を深く強く打ち、いかにその人をしてその情報を他者にどうしても伝達したいと思わせるようにするかである。そのためには、「記憶」そのものが、時間と場所にかかわらず存続する「普遍性」を内包していなければならない。
  そのような理想的な形での「記憶の継承」の具体例として、私は次の2つを指摘しておきたい。
1)虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑(ホロコースト記念碑)」
  (地下が博物館)の2,711個の様々な大きさの長方形のコンクリートが並べられているベルリンのこの記念碑は、ピーター・アイゼンマン(建築家)とブロ・ハポルド(土木技師)による共同制作。名前も個性も消滅させられ「忘却の穴」へと入れられた老若男女のホロコースト被害者を悼む記念碑であるが、ほとんど何の説明もなく、2,700個以上いう数の長方形のコンクリートが並べられているだけ。しかし、なにも説明がなくても訪れた人の心を強く打つ、大量虐殺被害者への想いを強く深く想起させるシンボリックなオブジェである。このオブジェは、ホロコーストのみならず、広島・長崎原爆無差別虐殺、南京虐殺、マレーシア華僑虐殺、ベトナム空爆被害者、ボズニア戦争被害者など、あらゆる戦争における大量虐殺被害者を悼むものとして受けとめることが可能である


2)ユダヤ博物館内の「記憶の真空」(高さ20メートルの空間)の床に設置された『Shalechet (Fallen leaves 落葉)
  同じくベルリンにあるユダヤ博物館の一角には、1万枚の厚さ3センチほどの丸い鉄板が床一面に敷き詰められており、それらの鉄板1枚1枚に目・鼻・口を表す穴が開けられ、哀しげな人間の顔が表現されている。これらの顔は1枚として同じ形のものはない。これら人間の顔の鉄板を踏まずにここを通ることはできず、踏むたびに人間の泣き声のような大きな音が空間に響き渡るように作られている。この展示コーナーは、イスラエルの彫刻家メナシェ・カディシュマンによる制作であるが、ここにもほとんど説明書きがなく、これまたホロコースト犠牲者の「痛み」を強烈なシンボリック表現で我々に伝えてくる。しかし、これらの顔も、ホロコースト被害者という特定の被害ケースの記憶を超えて、あらゆる暴力被害者の「痛みの記憶」をシンボリックに表すオブジェとなっている。

(ドイツの「記憶の継承」方法については、当ブログの下記の拙論を参照されたし。



5)結論:文化的記憶の創造を!
  日本の我々も、上記のドイツのような「文化的記憶」と称せるような形での「記憶の継承」方法を探り、それを大いに活用していくことを考える必要がある。例えば、丸木美術館所蔵の「原爆の図」、「南京大虐殺の図」、「沖縄戦の図」や、四国五郎の作品、中でも「黒い雨」シリーズの絵と「ヴェトナムの母子」シリーズ、「アパルトヘイト 否!」などをもっと広く活用すること。「原爆・戦争文学館」を設置し、栗原貞子、峠三吉、大田洋子、原民喜などの関連作品、ならびに世界各国の戦争・平和関連文学作品を蔵書とし、それらを活用する運動を展開すること、などが考えられる。また、「普遍的、人道的なメッセージ」を強く持つ絵画、彫刻、映画、演劇や音楽を新しく創造し活用することも考える必要がある。
  あまり知られていないが、実は新作「能」にも原爆や戦争の加害・被害をテーマにしたすばらしい作品がある。例えば、被爆の残虐性、非人道性を見事にシンボル表現化した「原爆忌」と「長崎の聖母」、沖縄戦の地獄を描いた「沖縄残月記」、若い時代に強制連行で夫を失った韓国人老婆の痛恨の悲しみを描いた「望恨歌」など、多田富雄の新作能の作品である。多田の作品は、日本の戦争加害と被害の両面を取り扱い、能という芸術作品で「過去の克服」を見事に成功させている。(多田富雄の新作能に関しては、当ブログの記事を参照されたし:

  最近の新聞報道によると、元駐日ポーランド大使であるヤドビガ・ロドビッチ氏は、ナチスのホロコーストの象徴であるアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所を題材に、東日本大震災への哀悼の念も含めた新作能「鎮魂」を作ったとのこと。私はまだ実際にこの新作能を鑑賞していないのでコメントできないが、このように新作能は「国境を超えた」芸術となっている。栗原貞子の詩を基にした新作能や、沼田鈴子の生涯を新作能にするという試みがあるべきだと私は考えている。  
  数百年、数世紀という長い時間での「記憶の継承」ということを考えるならば、ギリシャ神話が数世紀にわたって継承されてきたように、こうした新しい形での「文化的記憶」を創造し活用していくことが最も有効な方法の一つであると私は考える。

6)補論: 7〜8月の一時帰国を終えて、日本のメディア報道について考えること
  例年のことであるが、7〜8月の3週間あまりの一時帰国中には、好むと好まざるに関わらず、この時期に新聞やテレビが大量に流す戦争関係報道を目にする。今年も私は、多数のNHKテレビのドキュメンタリー番組の中で、下記の番組を見た。

「ルソン決戦最期の記録:ある衛生兵が見た戦場」
アメリカと被爆者「シュモーハウス: 被爆地に建った『平和』の家」
アメリカと被爆者 「赤い背中が残したもの『NAGASAKI』の波紋」
「船乗りたちの戦争:海に消えた6万人の命」
「私たちは見捨てられた:戦争孤児たちの戦後史」

この他にも、私が見過ごした番組を含め、ほとんどすべての番組が、日本人が被害となっているケースであった。毎年のことであるが、日本軍の加害問題に関するテレビ番組は稀にはあるが、ほとんど皆無と言ってよい。「私たちは見捨てられた:戦争孤児たちの戦後史」の番組は、ひじょうに心痛む番組であり、なかなかの力作だと思う。では、中国、フィリッピン、マレー等々、アジア太平洋の様々な地域でも日本軍に親を殺害された無数の戦争孤児がいるにもかかわらず、この人たちにも視点を同時に当てるような番組を制作しようという考えが、なぜゆえにジャーナリストやテレビ局には浮かんでこないのか。さらに、このような苦しい人生を歩まなければならなかった戦争孤児を生み出した責任はいったいどのような組織に、さらには組織内の誰にあったのか、という重要な問題には番組は全くタッチしない。責任追求が大切なのは、そのことによって、それが起きた原因の追求になるからである。原因が明らかにならなければ、同じ誤ちを繰り返す危険性はひじょうに高い。
  8月17日のネット版朝日新聞は「戦争報道、マンネリ化していないか、記憶承へ各社模索」と題した記事を載せた。この記事は、太平洋戦争に関する記事が、たとえば東京空襲を繰り返し載せることでマンネリ化しているのではないか、どうすれば記憶を継承していけるような記事が書けるのか、というような議論を、記者たちが集まって同月2日に行ったことを報告している。しかし、ここでも自分たちが書く記事がほとんど全て「日本人の被害」にだけ焦点を当てていることに、当の記者たちが全く気がついていないようである。空襲を問題にするなら、日本軍が上海、南京、重慶で行った無差別爆撃とその被害者たちと、東京、名古屋、大阪、神戸など多くの日本の都市空襲の被害者たちの両方に焦点を当てるような記事を書いてみようという考えが、なぜゆえに記者たちには思いつかないのか。日本人の加害行為で、いかにアジア太平洋各地の無数の人々が、どれほどの「痛み」を受けたのかについては、実に不思議と言えるほど彼らには関心がないのである。そしてここでも、中国に対する無差別爆撃殺戮の責任、日本に対する無差別爆撃殺戮の責任はいったいどこにあるのか、という問題についてはいつも、必ずと言ってよいほどノー・タッチである。
  「私たちは戦争でこんなひどいめにあいました。たいへんでした。ですから平和は大切です」というありきたりのメッセージが、毎年繰りかえされるだけである。実際、こんな「加害責任を全く問わない自己哀悼」では平和構築などできるはずがない。この点では、敗戦直後に多くの日本人が強く持った「戦争はもうこりごりだ」という強い「厭戦気分」(「反戦意識」ではない)を、70年以上たった今も、戦争がどれほど惨たらしいものであるかを全く知らない人たちに向かって、ただ繰り返しているだけに過ぎない。マンネリ化するのもあたりまえであろう。いや、これでは、マンネリ化しないほうがおかしい。
  自己被害者意識の視点にだけ立つ一国主義は、自国の加害行為で他国民がどのような悲惨な体験を強いられたかを全く無視するという意味で、「敗戦国ナショナリズム」と称すべきものである。これに対し、加藤周一が言う狭隘な「日本人権」観を克服し、「国境を超える『人権』にコミットする」形で、「加害と被害の重層性の観点」から様々なケースを取り上げ、そうした観点から責任問題を追及するなかで戦争の原因の本質に迫り、そこから平和構築に向けての積極的で力強い展望を模索しようという気概が、日本の新聞記事を読んでいても全く感じられないのである。
  すでに見たように、加藤周一は、「私は日本の大衆の多くは国境を超える『人権』にコミットしていないと思います」と述べたが、この言葉は日本のほとんどのメディアにもそのまま当てはまる。なぜこんな情けないことになっているのであろうか。民主主義とは、言うまでもなく、主として「人権」の問題である。真に普遍的な「人権」にコミットできない人々に、強靭な「民主主義」を打ち立てることができるはずがないのは当然であろう。日本に民主主義思想が根付かないのは、まさにこの「人権」意識の希薄性の問題なのである。


- 完 -