2018年4月15日日曜日

広島 集会・講演会案内


(1) 5・3 憲法記念日集会・講演会
(2) 5・11 田中利幸講演会
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日本国憲法公布71年憲法記念日
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9条改憲NO! 平和といのちと人権を! 5・3ヒロシマ憲法集会2018
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日 時:5月3日(木・祝)13:00~14:30
会 場:ハノーバー庭園(旧市民球場の北側)
デ モ:14:45~16:00
安倍晋三首相は昨年53日、日本会議が主導する改憲集会にビデオメ
ッセージを寄せた。「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」
と語り、9条改憲に強い意欲を示した。だが、いま、「森友」公文書
改ざん事件を契機に、安倍政権は終焉に向けて大きく動き始めた。止
めを刺すことができるかどうか、それはひとえに3000万人署名運動の
成否にかかっている。市民としっかり手を結び、民主主義、基本的人
権の尊重、平和主義が生かされる政治を求め、ありったけの声を結集
しよう。輝け!9条、平和・いのち・人権!
【記念講演】「復帰46年の沖縄から伝えたいこと」
仲村未央(なかむら みお)さん
 1972年沖縄市(旧コザ市)生まれ。戦後27年間続いた米軍占領から
 沖縄が日本に返還された年で、この年に生まれた世代のことを沖縄
 では「復帰っ子」(ふっきっこ)と呼ぶ。
 琉球新報記者として沖縄県政、沖縄市政、那覇市政を担当。米軍用
 地の強制収用、米軍基地から発生する爆音被害や事件事故、日米地
 位協定など住民の命とくらしに直結する基地問題を追う。その原点
 として沖縄戦と住民の犠牲、国策と地方自治についても掘り下げて
 きた。
 2002年に沖縄市議会議員(2期)、2008年から沖縄県議会議員(現在3期)。
 沖縄市立山内小学校、大口明光学園中学校・高等学校(鹿児島県在)
 琉球大学法文学部社会学科マスコミ学専攻卒。
【特別報告】「岩国からの報告」
田村順玄(たむら じゅんげん)さん
 1964年岩国市役所に就職。職場では港湾行政をあゆみ、組合では市
 職員組合委員長など就任、岩国市職平和研究所を設立し平和運動を
 になう。
 1995年市議に初当選。一人会派のリベラル岩国で23年目。基地監視
 団体「リムピース」運営委員、「ピースリンク広島・呉・岩国」世
 話人を務める。米海軍横須賀基地を母港とする原子力空母ロナルド・
 レーガンの艦載機61機の厚木基地からの移転により岩国基地配備機
 は米軍機120機(それに自衛隊機43機)となり、極東最大の攻撃拠点
 となろうとしている情勢下、岩国からの特別報告をしていただく。
『安倍9条改憲NO! 憲法を生かす全国統一署名』にご協力をお願いします。
【関連行事】2018広島憲法集会「マイライフ マイ憲法」(憲法ミュージカル)県民文化センター15時開演
【主 催】戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会(略称:ヒロシマ総がかり行動)
<主な構成団体>戦争をさせないヒロシマ1000人委員会/広島県9条の会ネットワーク/
               
     秘密法廃止 !広島ネットワーク/憲法と平和を守る広島共同センター   
【事務所】730-0805 広島市中区十日市町1-5-5坪池ビル2F 
     日本ジャーナリスト会議広島支部内(090-8362-1142 高瀬)
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5・11 田中利幸講演会
 「日本国憲法の光と影:憲法前文・9条と1章『天皇』の根本的矛盾」

  今年を「勝負の年」と宣言した安倍晋三は、2020年公布と明言した改憲に向けて、
「二段階革命」戦略(まず自衛隊明記、次に全面的復古的改憲)に後退しながらも、突
進している。その半クーデター的手法(内閣法制局長官、日銀総裁、最高裁判事、NH
K会長、マスコミトップを手なずけ、官僚機構全体の人事への介入と操縦、解釈改憲の
強行と戦争法、秘密法、共謀罪新設・・・)と悪選挙制度の活用(得票率と得票議席の
乖離)で、この5年4か月政権を維持してきた。
 この安倍政治に抵抗し、安倍9条改憲をつぶし、多少ともまともな政治を回復しよう
とする社会・政治勢力(以下「われわれ」と呼ぶ)は多種多様な共闘関係を深めながら
創意工夫をこらしながら対決してきた。
 ここにきて天皇主義教育を掲げた森友学園への国有地8億円不正値引き売却の疑獄事
件を隠蔽するための公文書改ざんが公然化した。さらに加計学園獣医学部新設(異常な
設立認可、異常な補助金支出決定と建築費の水増し)を巡る巨大疑獄事件の中心が安倍
晋三その者であることがついに「首相案件」という言葉で白日の下にさらされようとし
ている。さらには、防衛省、自衛隊海外派兵の日報・データ改ざん・隠ぺい・国会無視
の軍国主義体質の根深さ。厚労省、働かせ方改革法案強行のためのデータ改ざん、東京
労働局野村不動産特別指導過労自殺隠ぺい事件・・・。木は森の中に隠せとの方針か?
 情勢は大きく展開した。安倍極右私党グループによる国家の、行政の私物化の姿が明
白となり、いよいよ安倍政権は終焉に向かって転がりだした。
 われわれが安倍政権打倒の向こうを見すえるには、どうしても戦後73年の総括が必
要だ(さらに明治以降150年のとらえなおしが必要だろう)。また、被爆と敗戦を巡
る日米関係・国際関係の中での攻防を経て誕生した日本国憲法に体現されている力関係
とそこに表現されている根本的矛盾を見なければならない。
 その根本的矛盾は、実は、憲法前文・9条と第1章「天皇」の間に深く横たわってい
るのだが、なぜか、それが今まで全く問題にされてこなかった。この矛盾の実相を知る
ためには、憲法9条とそれを理念的に支える憲法前文がいかなる政治的背景から作られ
たのか、天皇裕仁の戦争責任を全く問わないまま憲法第1章で「天皇」がなぜ国民の象
徴とされるようになったのか、それらがどのようにわれわれの日常の民主主義を求める
思考・行動と関連しているのかを解き明かす必要がある。
 そのうえで、われわれは安倍のようなデマゴーグ政治家を産み出す日本の政治社会を
真に改革するために、いかにこの憲法の矛盾と立ち向かい、憲法9条をいかにすれば有
効に活用できるのかについて議論する必要がある。安倍政権が終焉しても、憲法を実際
に生かす展望がわれわれになければ、問題はいつまでも解決しない。
 当実行委員会代表の田中利幸が満を持して、問題提起をする。
 題して、
 「日本国憲法の光と影:憲法前文・9条と1章『天皇』の根本的矛盾」

日 時:5月11日(金)18:30~20:00
会 場:中区民文化センター大会議室B(4階)
参加費:500円
主 催:8・6ヒロシマ平和へのつどい2018実行委員会(代表/田中利幸)
連絡先:広島市中区堺町1551001 
     電話:090-4740-4608 Fax082297-7145 
         
Eメイル:kunonaruaki@hotmail.com(久野成章)
 
田中利幸さんの広島訪問滞在は、5月10日と11日の二日間のみです。
 ぜひ、この貴重な機会に、ご参集ください。
 なお、終了後の田中さんを囲む懇親会には事前の申し込みが必要となります(締め切り5月5日)。

2018年4月13日金曜日

15年戦争史概観(III)


- 戦争責任問題を考えるための予備知識 - 
(3)日中全面戦争
*華北分離工作から「盧溝橋事件」へ
*日中全面戦争への拡大
*南京虐殺・軍性奴隷・毒ガス兵器
*日中戦争の泥沼化 

華北分離工作から「盧溝橋事件」へ
  さて、もう一度、中国における日本軍の動きに目を戻してみよう。すでに述べたように、1933年5月末の塘沽停戦協定で、日本軍は一旦華北への侵略を停止したが、1935年になると再び、「華北分離工作」と呼ぶ策動をめぐらせはじめた。「華北分離工作」とは、華北5省(河北、山西、山東、チャハル、綏遠<下の地図参照>)を中国から分離し、準満州国化するという計画であった。華北地域の鉄・石炭・綿花などの資源を獲得し開発することで、日満経済ブロックの自給自足性を高めようというのがその目的であった。 
地図中のページ数は無視してください
 
1935年6月には、支那駐屯軍(軍司令官・梅津美治郎少将)は、抗日事件の取り締まりや排日運動の禁止を口実に、河北省やチャハル省からの国民党軍の撤退や日本軍飛行場建設を要求。さらに11月には、親日の中国人政治家を利用して、塘沽停戦協定での非武装地帯に「冀東防共自治委員会」(「冀」は河北省の別称)なるものを発足させ、12月にこれを「冀東防共自治政府」と改称させた。この冀東政権ができると、日本の資本が急速にこの非武装地帯に進出。さらに冀東政権は、関東軍の指導の下、国民政府が定める関税率より極端に低い輸入税を設定したため、日本商品がこの地域になだれ込んだ。関東軍が裏で操る麻薬の密造・密売も盛んに行われ、天津では麻薬入りキャンディーまで売られた。さらに35年12月には、関東軍の傀儡部隊である徳王が率いる内蒙軍をチャハル省東部に侵攻させ、翌36年2月には関東軍の指導の下にチャハル省スニトに「蒙古軍政府」という傀儡政権を樹立させた。

  こうした日本側の露骨な動きが中国人の間での抗日運動をさらに激化させ、北平(現在の北京)、上海、青島をはじめ華北全土に抗日・日貨排斥運動が広がった。中国共産党は、1935年8月1日、「8・1宣言」を発表し、国民党に対して内戦をただちに中止して、抗日救国のために民族統一戦線を結成することを呼びかけた。関東軍によって満州から追い出され、国民党軍の指揮下に入っていた張学良が率いる軍隊は、延安の共産党軍と闘っていたが、1936年12月になって、共産党提案の抗日民族統一戦線を実現させるために、突然クーデターを起こし、西安を訪れていた蒋介石を監禁。中国共産党は周恩来を西安に派遣して調停にあたらせ、蒋介石に内戦停止と抗日連携を受け入れさせた。実際に抗日民族統一戦線での「国共合作」が打ち立てられたのは、後述するいわゆる「盧溝橋事件」の2ヶ月あまり後、つまり日中戦争が全面化した1937年9月になってからであった。しかし、結局は、日本の「華北分離工作」は、中国民族全体を敵に回すという状況を作ってしまったのであるが、その重要性を真に理解する軍指導者が、軍中央部にも現地陸軍にもいなかったのである。

  1937年7月7日の夜10時40分ごろ、北平(北京)郊外の永定河に架けられている盧溝橋付近で、日中両軍の間で小さな衝突が起きた。義和団事件(1900年に中国で起きた反キリスト教、排外主義の民衆蜂起。この蜂起に押されて清朝政府が英米仏露日など8カ国に宣戦布告したが敗北)をきっかけに、1901年以来、日本軍は北平郊外に駐屯軍を置いていた。1936年の増兵にともなって、この支那駐屯軍である歩兵第1連隊第3大隊の第8中隊(清水節朗大尉が率いる135名)が、この夜、盧溝橋近くの荒蕪地で演習中に、中国軍が駐屯している龍王廟の方角から数発の銃声が響いた。清水中隊長が兵の点呼をとったところ、2等兵・志村菊次郎がいなかった。すぐにこの報告を清水から受けた第3大隊長・一木清直少佐は、即刻、連隊長・牟田口廉也大佐に連絡して部隊出動の許可を得た。ところが、行方不明であった志村は、点呼集合の20分後には無事に帰隊していたのである(志村が暗闇で迷って中国軍に近づきすぎたため、威嚇射撃を受けたのではないかと推測されるが、真相は分からない)。したがって、とにかく、この時点で問題は解決していたのであった。

  ところが一木大隊長は、「実弾射撃をやれば日本軍は演習をやめて逃げて行くという観念を彼ら[中国側]に与えるのは遺憾だから、これはどうしても厳重に交渉しなければならぬ……要するに日本軍の面目さへ立てばよいので……軍の威信上奮起した」と後日述べている(強調:引用者)。その結果、午前3時25分ごろ再び龍王廟方面から銃声が響いたのをきっかけに、夜明けを待って攻撃を開始。盧溝橋付近では、8日から10日まで中日両軍の間で戦闘が続いた。しかし、支那駐屯軍参謀長・橋本群少将、北平特務機関長・松井太九郎大佐、北平駐在武官補佐官・今井武雄少佐たちが事件収拾のために奔走し、11日夜8時になって、中国側と停戦協定が成立した。この協定内容は、(1)中国第29軍代表の日本軍に対する遺憾の意の表明と責任者処分、(2)盧溝橋城・龍王廟からの中国軍の撤退、(3)抗日各種団体の取り締まり、という中国側の一方的な譲歩であった。
日中全面戦争への拡大
  こうして現地では駐屯軍が停戦協定を成立させるために努力していたにもかかわらず、7月10日、「在留日本人保護のため」という(安倍政権の自衛隊派遣正当化にも使われている)理由から、陸軍中央は関東軍2個師団、朝鮮軍1個師団、内地3個師団の華北への派兵を決定。11日午後になって、日本政府(「盧溝橋事件」の1ヶ月前に成立した近衛文麿内閣)は、「事件が支那側の計画的武力抗日であることは疑いの余地はない。本日の閣議において重大決意をなし、北支那派兵に関し政府として採るべき所要の処置をなすことに決した」、との政府声明を発表した。11日夜に現地での停戦が成立したにもかかわらず、日本政府はこの決定を撤回することはせず、しかも「柳条湖事件」と同じように、この侵略武力行為をまたもや「戦争」とは呼ばず、「北支那事変」と命名して誤魔化した(戦争が拡大した9月2日には「支那事変」と改称)。その最大の理由は、中国に「宣戦布告」すれば、アメリカが中立法の発動によって軍需関連物資の日本への輸出を停止する恐れがあることであった。

  なぜ、停戦成立にもかかわらず、陸軍は戦争を拡大していったのか。実は当時、陸軍内部では、近い将来の対ソ戦を考えてここでは日中戦争不拡大の道をとるべきだと主張する、参謀本部第1作戦部長・石原莞爾を中心とする「不拡大派」と、この機会をとらえて中国軍に致命的な打撃を与えることで、一挙に華北支配を実現させようと考えていた作戦課長・武藤章や関東軍参謀長・東条英機らの「拡大派」との間に対立があった。いろいろな経緯から、結局は、防共・資源・市場の確保のために華北を制圧しようという「拡大派」の主張が勝って、近衛内閣の決定となったのである。「柳条湖事件」では、現地軍が謀略によって戦争を拡大したのに対して、一応、政府は不拡大方針を当初はとった。ところが、「盧溝橋事件」ではそれとは全く逆に、現地駐屯軍が停戦協定を成立させたにもかかわらず、近衛内閣は、事件が発生するや「重大決意」と称して、陸軍本部の決定どおりに早々と華北派兵を決定し、日本全体を「挙国一致」の戦争協力体制にまで押し上げた。「満州事変」から「支那事変」までの6年間に、いかに日本の政治がますます軍の思うままに動かされるようになったかを、このことは明示している。

  7月28日、日本軍は北平・天津に総攻撃を開始、30日までに両市を占領。(29日には親日の冀東政権の保安隊が反乱をおこし、日本のアヘン・麻薬密売に憤激した中国人民も加わって日本人居留民223名を惨殺する事件が起きている。)8月13日には、海軍も加わって上海への攻撃を開始。14日、海軍航空隊は台湾基地から杭州などを渡洋爆撃(海を越えての爆撃)し、翌15日には長崎県大村基地から首都南京への爆撃を開始。関東軍は、参謀長・東条英機中将の指揮下、支那駐屯軍に増派された第5師団(本部は広島)と連携してチャハル省内に侵攻し、8月27日には張家口を占領。かくして、日本軍は内蒙古、華北、華中の3地域への同時侵攻を推進し、9月初旬から1937年末にかけて各占領地に「自治政権」と称する傀儡政権を樹立した。華北では、1937年末までに河北・山西・山東の3省の主要都市と鉄道を支配下におさめ、12月14日に、華北占領全域の傀儡政権として「中華民国臨時政府」を北平に設立した。一方、国民政府側は、8月14日に「抗日自衛」を宣言し、翌15日には全国総動員令を出して、蒋介石が軍総司令官に就任。22日には、中国共産党軍の紅軍が国民政府軍第八路軍に改編され、前述したように、9月23日に国民党軍と共産党軍の「国共合作」が正式に成立して、日中間の戦争は文字通り全面戦争化した。

   日本軍が最も苦戦したのは上海であった。上海派遣軍は中国軍の猛烈な抵抗に直面したため、9月11日になって、3師団を増援軍として派遣したが、それでも苦戦を強いられ死傷者が続出。そこで11月5日にはさらに3師団から成る第10軍を杭州湾に上陸させ、11月13日にはさらに1師団を、上海の北西75キロ地点の揚子江下流に上陸させた。11月9日なって、蒋介石は上海からの撤退命令を出し、日本軍は11日にようやく上海を占領。日本側の戦死傷者数は4万人を超えた。

南京虐殺・軍性奴隷・毒ガス兵器
  上海を占領するや中支那方面軍司令官・松井石根大将は、参謀本部が定めた任務(上海付近の敵の掃滅)と作戦境界線を無視して、上海派遣軍と第10軍の諸部隊に南京攻略への先陣争いをさせた。3ヶ月も苦戦を強いられて多くの戦友を失い、疲労しきっていた上に、今度は南京に向けての進撃を命じられた兵たちはヤケクソな精神不満状態になった。しかも、急進撃のために、戦闘部隊に兵站部隊(前線の戦闘部隊に物資や食糧を供給する部隊)が追いつけなかったために、食糧は「現地にて徴発、自活」せよとの命令。「現地徴発」とは、早く言えば地元住民から「略奪」するという日本軍独自の用語であった。かくして、南京進撃の途上のいたるところで、日本軍将兵たちは捕虜・敗残兵を殺害し、民家に押し入って略奪。抵抗する市民には放火・暴行・虐殺で応酬した。(日本軍の「現地徴発(または現地調達)」はアジア太平洋戦争中に各地で行われたが、これがそれに伴う戦争犯罪行為<とくに市民の殺害と強姦>を引き起こし、それがさらに反日感情と抗日運動を高めるという悪循環を生み出したことが重大な特徴である。)

  12月13日に南京を占領するや、ここでも虐殺・略奪・強姦・放火などを行い、その後2ヶ月にわたりこうした残虐行為をくりひろげた。市街地をはじめ一般住民居住区が戦闘地域となる侵略戦争では兵士と民間人の区別が困難となるため、民間人の大量虐殺が起きやすくなるが、南京はその典型的なケースであった。逃げおくれた中国兵が軍服を脱ぎ捨てて、難民である一般市民の中に逃げこんだ。日本軍は「更衣兵(衣服を変えたゲリラ)狩り」と称して、一般市民の中からゲリラらしき者を選んで次々と処刑していったため、多くの一般市民も巻き添えとなった。ゲリラといえども、武器を捨てて抵抗する意志のない人間を法的手続きもなしに殺害することも戦争犯罪行為である。南京での中国人死亡者推定数は4万人から30万人と様々な説があるが、おそらく、どんなに少なく見積もっても十数万の中国人が日本軍による虐殺の犠牲になったと考えられる。

  このことは、南京に侵攻した高級軍人の一人、第16師団長・中島今朝吾中将の日記の中の以下のような記述からも明らかである。「大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたれ共……之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当たらず、一案としては百二百に分割したる後適当のか処に誘きて処理する予定なり」。捕虜はとらず敵兵は全て殺害するという方針で、100〜200名の敵兵を一まとめにして殺戮し、屍体を「処理」=埋めるか河に流してしまうという方法をとると説明しているのである。第16師団は、このやり方で、12月13日の1日だけで約2万4千人の捕虜を「片付」けたと、中島は臆面もなく記している。こうした「片付」け=集団処刑が翌年の1月まで南京市内外のあちこちで行われた。日本軍は中国ゲリラ兵を「匪賊(集団で略奪・殺人・強盗などを行う賊)」と呼んだが、日本兵こそ「匪賊」そのものであった。

  南京を占領した日本軍将兵が多くの女性を強姦・輪姦したことも、否定しがたい事実である。戦後の東京裁判には、中国人犠牲者の証言のみならず、日本軍が南京を占領した当時、南京市内に居住していた米英などの国からの宣教師や一般市民が実際に見聞した、日本軍兵士たちの性暴力の蛮行に関するおぞましい証言が提出された。昼夜を問わずあちこちで強姦・輪姦が行われ、拒む女性を銃剣で殺傷したケースが詳細に語られている。また、他の外国人居留者と協力して南京安全区国際委員会を立ち上げ、その委員長となり、中国人民間人を少しでも保護しようと努力したドイツ人商社員のジョン・ラーベも、日本軍兵士の蛮行について日記に詳細に記している。

  こうした大量強姦・輪姦が中国人の間に強烈な反日意識を生み出したため、これ以降、日本軍は性暴力犯罪を防止するという目的から、日本軍が侵攻する先々で軍専用の「慰安所」を設置するという方針をとることになった。「慰安所」は、1932年1月の「第1次上海事件」の時からすでに海軍が設置していたが、陸軍の「慰安所」が急増するのは、この南京占領の後からである。しかし、「慰安所」を設置しても強姦・輪姦を防止することは全くできなかった。

  「慰安所」で働かされた女性の中には日本人女性もいたが、その大半は当時植民地であった朝鮮と台湾の若い女性たちで、その多くが「看護婦見習い」とか「給仕」といった仕事で雇うと騙されて連れられてきた人たちであった。中国各地でも、日本軍は地元の女性を強制的に「慰安婦」にしていった。女性たちは、一旦「慰安所」に入れられたならば、長期間、兵士たちに性的奉仕を強制されたことから、彼女たちもまた強姦の犠牲者だったと言える。彼女たちの証言を読んだり聞いたりして分かることは、その実態は「軍性奴隷」と称すべき由々しい人権侵害であり、したがって女性たちは「人道に対する罪」の犠牲者であったことである。この「日本軍性奴隷制度」は、中国だけではなく、1941年12月の対米英蘭開戦の後には、日本軍が侵攻したアジア太平洋全域にわたって導入され、多くの東南アジア人やオランダ人女性も犠牲者となった。
  
  日中戦争が全面化すると、日本軍は大量の毒ガス兵器も使うようになった。使用された毒ガスはイペリット(びらん性ガス)、青酸ガス、ホスゲン(窒息性ガス)などであったが、それらは主に広島県大久野島で大量生産され、中国に輸送された。満州では、関東軍化学部が731(細菌戦)部隊と連携して毒ガス兵器の人体実験や訓練を行った。日本軍は、毒ガスを1937年から中国各地の実戦で使用し始め、いわゆる「ゲリラ掃討作戦」で423回以上使用し、3万3千人以上の兵士・民間人を殺傷。中国軍との正規戦では少なくとも1,668回使用して、4万7千人以上を殺傷した(うち死亡者約6千人)。日本軍は、敗戦前後に、保有していた大量の毒ガス弾を中国各地の十数都市で遺棄した。例えば、吉林省敦化市のハルバ嶺地区には、推定30万から40万発の日本軍の毒ガス弾が遺棄されたと言われている。戦後、それらの都市では、漏れ出した毒ガスで多くの住民が被害を受け、1947〜69年に行われた毒ガス弾回収作業では、作業中の事故で300人ほどが死亡したとも言われている。

  中国で日本軍が行ったもう一つの残虐行為は「三光作戦」と呼ばれるもので、「三光」とは、中国語で、殺光(殺し尽くす)、焼光(焼き尽くす)、搶光(奪い尽くす)を意味している。1940年8月から10月にかけて、中国共産党軍は、華北で八路軍40万人を動員して総力をあげて日本軍を攻撃する「百団大戦」と呼ぶ作戦を展開して、日本軍に大きな打撃を与えた。これに対する報復として、日本軍は同年9月から、共産党の抗日根拠地を燼滅させる作戦、「晋中作戦」(「晋」は山西省を指す)を開始。この作戦では、(1)「敵性あり」と考えられる住民中15歳以上60歳までの男子は殺傷、(2)敵が隠匿または集積している武器弾薬や糧秣(食糧のこと)は押収または焼却、(3)「敵性部落」は焼却破壊する、の3つが命令とされた。つまり、「敵性あり」とみなされた者は殺戮し、所有物資は奪い、住居は燃やすことで、「敵をして将来生存するに能わざるに至らしむ」ことが目的とされたのである。この「三光作戦」展開中にも強姦•輪姦が頻発し、大量の毒ガス兵器も使用された。残虐なこの「三光作戦」は、「第2期晋中作戦(40年10〜11月)」と「三西西方作戦(40年12月〜41年1月)」でも行われ、41年8月から43年7月にかけては、北支那方面軍(司令官・岡村寧次大将)がチャハル省、河北省、河南省、山東省の各地で展開した「燼滅・粛清作戦」でも実施された。

  さらに日本軍は、中国共産党軍の活動を封じ込めるために、住民を強制移住させて無人区にし、幅6メートル・深さ4メートルの遮断壕や、幅1メートル・高さ2メートルの石垣で作った封鎖線を張りめぐらした。これらの遮断壕や封鎖線の長さは、総合すると1万1,860キロにも及んだと言われている。「三光作戦」と遮断壕・封鎖線設置作戦によって、1941年から42年の間に、華北地域の共産党解放区の面積は6分の1縮小し、人口も4千万人から2千5百万人にまで激減した。

日中戦争の泥沼化 
  1938年1月14日、国民政府はドイツを介して、日本側が提唱する「和平交渉」の日本側の要求の詳細を知りたいと日本側にアプローチ。翌15日の大本営政府連絡会議(1937年11月に設置された、大本営<戦時中に設置される陸海軍の最高統帥機関>と政府との間の協議のための会議。出席者は首相、外務大臣、陸軍大臣、参謀総長、海軍大臣、軍令部総長。幹事役として内閣書記官長、陸海軍の軍務局長が同席)で、参謀本部側は、将来のソ連との戦争準備を考慮して、この時点では早期講和を目指したほうが良いと考え、国民政府と交渉を続けることを提案。ところが、南京陥落で強気になっていた近衛首相は、交渉打ち切りを強硬に主張して参謀本部側の提案を拒否してしまった。これに対して、参謀本部側は、参謀総長・閑院宮載仁を通して、直接、裕仁に交渉継続希望を伝えようとしたが、裕仁は、一旦決まったものを変更できないと、閑院宮に会うことを拒否して、近衛の交渉打ち切り決断を支持したのであった。近衛は16日、「帝国政府は爾後国民政府を対手(あいて)とせず」という声明を発表した。こうして日本は中国との長期戦の泥沼に、自ら足を踏み込んでいくことになった。興味深いのは、通常、戦時中の政策決定では、往々にして軍部が国務側(政治家)を従属させていくのであるが、陸軍内部での(「拡大派」対「不拡大派」の)対立もいまだ残っており、首相が公家華族の名門のメンバーという威厳もあってか、このときは近衛首相のほうが軍部を圧倒した形となった。

  北平(北京)、上海、南京を占領した日本軍は、1938年5月19日に徐州を占領。8月末からは、中支那派遣軍の9個師団(約30万人という大兵力)を動員して武漢攻略作戦を開始。炎天下のマラリアと、首都を重慶に移して抗戦を続けていた国民党軍に苦しめられ、10月26日なってようやく漢口を占領し、武漢地区を制圧した。同時に日本軍は、中国軍への主要な補給路線である香港ルートの遮断を目指して広東作戦も展開し、10月21日に広東も占領。こうして中国の多くの重要都市と鉄道を占領はしたものの、 広大な中国全域、とりわけ内陸部の農村部を制圧することはとうていできず、これが日本の軍事動員力の限界であった。1939年までに、中国への日本軍派兵数は85万人という数に膨れ上がっていた。海外にこれだけ多くの兵員を駐屯させ、武器・弾薬などの必要物資を供給するには膨大な予算が必要となり、1938年度の軍事予算は60億円ほど(国家財政の77%近く)までに膨張してしまった。

  一方、厳格な規律と高い政治的理念を持った共産党の軍隊である八路軍や新四軍は、抗日戦での活躍で民衆からの支持が強まり、中国全土で4千万人もの民衆を支配下におくまで勢力を拡大していた。こうした中国共産党に対して強い不安を感じていた、国民党内部の反共派である国民党副総裁・汪兆銘らは、「対日早期妥協」を主張しはじめた。手詰まり状態になった近衛は、この汪兆銘を蒋介石政権から分裂させ国民党政府を弱体化させた上で、汪の新政権と講和しようと画策。1938年11月3日、「国民政府を対手とせず」という前言を取り消して、「東亜新秩序声明」なるものを発表し、蒋介石と絶縁した汪と交渉を始めた。ところがこの「和平建議」で、日本側は中国側に賠償を求めただけではなく、撤兵時期についても何も確約しなかった。こんな理不尽な日本の要求を受け入れる汪兆銘に同調してまで蒋介石に反抗しようという動きは国民党の中に起こらず、結局、日本政府の工作は失敗した。

  日本が中国で戦火を拡大したことは、英米などの列強諸国の中国での権益を侵すことになったため、英米は国民党政権を物的・人的の両面での支援を開始。日本にとっては仮想敵国であったソ連もこの支援に参加。そのような国民党の首都である重慶に、日本軍は無差別爆撃を1938年12月から1943年8月まで断続的に218回も繰り返し、合計2万人近い数の市民を殺害した。列強諸国からの援助があるため国民党政権は屈服しないと考えた日本側は、1938年後半からは支援ルートの遮断にも力を入れるようになり、1939年にはそのルートの拠点である海南島・南寧・汕頭を占領し、1940年には北部仏印(フランス領インドシナ<現在のベトナム・ラオス・カンボジア>)にまで侵攻。日本のこの武力南進がさらに英米との対立を深めることになり、結局、1941年12月の対米英蘭との開戦へと日本を追い込むことになった。

  その後も日本は、中国各地での共産党軍ならびに国民党軍との戦闘のために、1945年8月の敗戦まで、70万人から100万人という数の兵力を中国に常駐させなければならなかったのである。15年という長期にわたる戦争で、日本軍の犠牲になった中国人の数は1千万人を超えると言われている。

2018年4月6日金曜日

新刊・学習会案内


新刊案内

『思想の墟から: 歴史への責任、力への峙のために』
鵜飼哲 岡野八代 田中利幸 前田朗
四六判 / 240ページ / 並製
2,300 +
書店発売日:2018410

容紹介

民主主義の中にはデーモンが隠れている。
あるいは、民主主義の中からデーモンが生まれてくる
――
戦争責任、戦争犯罪、象徴天皇制、靖国参拝、
「慰安婦」問題、自衛隊、日米安保、沖縄米軍基地、
核兵器、原発事故、原発再稼働……
私たちの民主主義とはいったい何だったのか。
何度も問われてきたはずの問いを、
今なお私たちは問い続けなくてはならない。
フランス滞在から帰国後の思想家・鵜飼氏、
ハンナ・アーレント等、政治思想の研究者・岡野氏、
軍事史が専門の田中氏に、
前田朗氏がインタビューで鋭く斬り込む。

目次
はしがき - デーモンクラシーと闘うために

第1部 歴史、記憶、責任、そして
-
第1章 「慰安婦」=性奴隷について語る意味/岡野八代
第2章 世界の中の「慰安婦」問題/田中利幸
第3章 レイシズムに覆われた世界/鵜飼哲

第2部 権力としての原発、対峙する民衆
第1章 民主主義にとって原発とは/岡野八代
第2章 原発と原爆の密接なつながりを問う/田中利幸
第3章 私たちはどこにいるのか/鵜飼哲

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学習会案内

インタヴュー講座<憲法再入門>第4回 
平和力フォーラム2018

第4回日本国憲法の光と影――憲法前文・9条と1章天皇の根本的矛盾
田中利幸(歴史家、6ヒロシマ平和へのつどい代表)

日時:5月20(日)開場午後13時30分、開会14時~17時閉会
スペースたんぽぽ(4F)
千代田三崎町2-6-2 ダイナミックビル4F
03-3238-9035
JR水道橋から5分。

資料代:500円

プロフィル
田中利幸(たなかとしゆき):歴史学、争犯罪史。著書に知られざる争犯罪――日本軍はオーストラリア人に何をしたか(大月書店)、空の争史(講談社現代新書)、再論東京裁判――何を裁き、何を裁かなかったのか(共編、大月書店)、思想の墟から(共著、彩流社)。Japan’s Comfort Women: Sexual Slavery and Prostitution during World War Ⅱ and the US Occupation(Routledge, 2002). Hidden Horrors: Japanese War Crimes in World War Ⅱ (Second edition, Rowman & Littlefield, 2017). Bombing Civilians: A Twentieth-Century History (Co-edited, New Press, 2010).

インタヴュアー:前田朗




2018年4月4日水曜日

森友スキャンダルとは何か

森友スキャンダルとは何か
極右私党の公権力私物化とその破綻
武藤一羊

私が日本で最も尊敬する評論家/活動家の武藤一羊さんの新しい書き下ろし論考を、武藤さんの許可を得てご紹介します。この論考はすでにピープルズ・プラン研究所のホームページにも載せられていますが、安倍晋三内閣の本質を知る上で、ひじょうに役に立つ秀悦した論考ですので、ここでも紹介させていただきます。

32日の朝日新聞の決裁文書改ざんの暴露は、くすぶっていた森友スキャンダルに再点火した。ふたたび安倍内閣の辞職を求める人びとの行動が沸き起こり、議会では野党が政府、自民党を追い詰め、かなりの主流メディアが安倍批判に回り、内閣支持率は大きく低下した。野党が要求していた佐川前理財局長の証人喚問は、佐川が刑事訴追の恐れを理由に肝心の点については証言を拒んだため、土地取引についても公文書改竄についても真相に迫ることはできなかった。だがそれは政権の犯罪への疑惑を一層深めた。安倍政権は危機的状況に追い込まれている。
しかし私は、この間の野党による安倍権力への攻勢は肝心なところで詰めが甘いという印象をぬぐうことができないでいる。肝心なものとは、(1)森友スキャンダルの性格をどう認識するか、(2)このたたかいで何をなしとげるか、という二点についである。この二つは重なっている。
国会での応酬を聴いていると、(2)については大部分の野党が一致しているようである。すなわち、安倍首相の辞任、安倍内閣総辞職、つまり安倍政権を退陣させることである。しかしそれは何を意味するか。安倍晋三という憲法を捻じ曲げ、議会を愚弄し、嘘を重ね、責任を取らぬ腐敗した政治家をその取り巻きとともに追放することなのか。そして安倍が最大の政治課題とした改憲の計画を頓挫させることなのか。
それらすべてであることは明らかだ。しかしそれだけでは足りないと私は思う。
森友スキャンダルは、この5年間の安倍統治の骨格を明るみに引き出した出来事であり、ほかならぬこのスキャンダルで安倍政権を打倒することは、その骨格全体を公衆の前に可視化し、解体し、廃棄することであると私は理解する。打倒するだけでは足りない。根を残してはならない。この前代未聞の不祥事の核をなす主体を特定し、明るみに引き出して公衆の目にさらし、政治の世界で無力化することが必要だと私は思う。
森友など一連の問題の本質が公権力の私物化にあるという点では広い同意が得られるであろう。だが私物化した主体は何者なのか。安倍晋三個人か、安倍夫妻か、官邸グループか、それとも自民党か。野党は、もっぱら、安倍昭恵を手掛かりに安倍晋三本人に迫るという線で攻勢を進めているかに見える。安倍の「私か妻が関係していれば総理も、議員も辞任」という発言を言質に安倍個人の責任に迫り、辞任を迫るためである。経過から言って、これはむろん当然追求さるべき筋である。
安倍本人がすべての中心に存在することは疑いない。しかしこれは安倍夫妻による狭い意味でのクロニイズム、近親者や仲間にたいする利益供与のケースであろうか。加計学園スキャンダルの方はその性格が強いかもしれない。しかし、森友問題の性格は違う。たしかにこれは公権力の私物化という性格の腐敗であるが、私は、その私物化の主体が個人でも一つの政治派閥でもなく、極右政治運動体とでもいうべきものであることがこの事件の本質であると考えている。そのことは安倍個人の責任を分散させたり、軽くしたりするものではない。いや、むしろ責任を加重する。安倍は自民党党首であるとともに、この極右政治体の代表でもあり、同時に首相でもある。この三面を背中合わせに結合する独特のトポロジー構造がここには確認できる。この構造は不正行為に対する彼の責任を格段に重くするよう働くのである。
安倍政権の成立に導いた推進力が1990年代の後半に加速的に勢力を拡大した大日本帝国の復権を唱える極右勢力であったことは改めて指摘するまでもないであろう。(この経緯、意味については、拙著「憲法平和主義と戦後国家―「帝国継承」の柱に斧を」、〔2016年、れんが書房新社〕で詳説したので、参照乞う)。安倍は自民党での政治生活の最初からこの潮流に属し、血統も手伝ってこの潮流の「プリンス」として扱われるようになっていった。この極右潮流は、「新しい教科書をつくる会」の運動などを通じて地域社会にも活動を伸ばした。神社本庁など宗教団体を含む極右団体の結集体である日本会議は、その国会版である超党派の日本会議国会議員懇談会をつうじて影響力を広げた。2012年以来の安倍政権の閣僚のほぼ全員が、日本会議系の極右組織のメンバーであることは広く知られている。この潮流は、在特会など排外主義的行動グループを生み出すとともに、夥しい反中、嫌韓、日本礼賛の出版物を書店にあふれさせ、ネットを通じて彼らの気に入らぬ論者に誹謗中傷を集中するなど、社会の各分野に活動を広げた。かれらのジャーゴンである「反日」というレッテルが平気で閣僚の口から発せられるようになったのは安倍内閣になってからである。
この極右運動は、戦後憲法に体現される国家原理―平和と民主主義―をアメリカ占領軍に押し付けられた原理としてことごとく拒否し、天皇制下の日本帝国の侵略と戦争を合理化する歴史観を正史の位置に置き、(不十分ながら)戦争と侵略の反省の上に立つ戦後の歴史観を「自虐史観」として攻撃することに専念してきた。
日本会議はこの極右運動の結集軸であるが、極右の活動全体が組織としての日本会議に集約されているわけではなく、政界、財界、メディア、宗教界、文化界、学会、芸能界など各界にわたった散在する極右傾向が重なり合いつつ極右世界とでもいうべきものを形成していると見るべきであろう。便宜上これらを合わせて「日本会議系」と呼ぶことにする。
自民党内では90年代、極右勢力が支配的になっていった。2006年、「戦後レジームからの脱却」を掲げた第一次安倍政権は、小泉政権の跡をついで、右翼の「お仲間」を基盤に成立し、改憲の第一歩として教育基本法を改訂したが、一年にして安倍は突如政権を投げ出した。2009年麻生自民党政権は、民主党に大敗を喫し、自民党は野に下り、政権は民主党政権に移った。野にある期間自民党は極右化していった。自民党は公党であるが、その公党からすれば私党である極右が公党を乗っ取ったのである。極右勢力はすでに90年代半ばから自民党の内部に勢力を拡大し、党内最大勢力となっていたから、党を乗っ取り、政権を乗っ取ることは容易であった。一度政権を放り出した安倍晋三はふたたび極右の旗頭に担ぎ出され、党総裁となった。
民主党政権はこの間に破綻していた。201212月総選挙で、民主党政権に失望した選挙民の多数は、自民党に圧勝をもたらし、安倍は総理の座を獲得した。党内では安倍一強体制が、政府組織では総理官邸独裁が成立した。
民主党政権を見放した選挙民の多くはこのとき長年政権党として親しんでいた自民党に投票した。自民党に投票した人びとの圧倒的多数は、自民党に投票したのであって、極右に投票したつもりではなかったであろう。自民党を公党とするなら、極右勢力は私党である。もし、極右勢力が自身の極右歴史観と政策を掲げる党として選挙に臨んでいたなら、彼らは確実に多数獲得に失敗し、政権につくことはなかったであろう。自民党というブランド名の下でのみ、極右私党が権力を握るという事態が起こりえたのである。
公党の傘のもとで私党が権力をふるうというのはかなり無理な話であった。公党は憲法のもとで公党であるので、憲法を公然と否認するわけにはいかない。他方乗っ取った方の私党は、憲法を否認し、破壊することを存在理由とする。公党の代表として総理となった私党の代表者である安倍晋三は、この不可能な状況を勇んで引き受けた。そして彼は、憲法破壊の私党の使命を自己の至上の使命としつつ、なお公党の見掛けを維持するという芸当によって困難を過程的に乗り切ろうと試みた。5年にわたる彼の支配がたどってきたジグザグー戦後70年の折衷的総理談話は代表的なケースであろうーは彼の政権の二股構造に由来すると見ることができよう。この困難からの出口は、憲法を事実上破壊しつつ(安保立法など)、最終的には憲法の方を彼らの要求に沿って改訂する、実は、まったく別の原理に従う彼らの憲法と取り換える、ことであった。
繰り返そう。2012年に実質権力を握ったのは、自民党のブランドを手に入れた極右私党だったのである。彼らは自己と自民党を等号で結ぶことで自民党を事実上私党化した。安倍晋三は、私党のリーダーのまま、行政権力のトップとなった。それは公権力の私党による支配、私物化をもたらす条件の出現であった。
安倍の率いる自民党は、公党としての地位を利用しつつ、直ちに私党としてふるまい始めた。私党の同志たちをNHK、日銀、内閣法制局、などの要職に任命することが手始めであった。内閣に集約された高級官僚の人事権を駆使して官僚組織を私党の組織としても使える状況を整えた。権力は全面的に濫用され始めた。特に2013年参院選での勝利以後は、安倍とその仲間たちは、議会を国権の最高機関などではなく、どんな決定でも通せる投票機械と見なし、憲法違反が疑われる法案を、真面目な討論を一切回避し、割り当てた審議時間さえ過ぎれば、自動的に強行採決し、採択するというしきたりを恒常化した。それは、政治にとって本質的であるはず言語から意味と品位を奪った。首相への質問には答えではなく、関係ない事柄での長い饒舌が返された。

安倍とその追従者の二重籍

では安倍晋三は実際誰に対して責任を負っているのか、と問わなければならない。安倍晋三が、総理として本来負うべき責任は、国会にたいしてであり、党総裁としては、彼の選出母体である自民党に対してである。憲法改正という最重要問題について、彼がまず提起するべき相手は自民党の執行部であり、かれを総理に選出した議会であると考えるのが自然であろう。しかし安倍は違った行動をとった。
安倍が、明確に改憲の狼煙をあげたのは、20151110日、日本武道館で開かれた「今こそ憲法改正を!1万人大会」という右翼の結集する大集会だった。この日の状況を情報サイトLiteraの記述から拾ってみよう。(Litera 20151111

(この集会の)主催は昨年10月に結成された「美しい日本の憲法をつくる国民の会」という団体だが、実態は、共同代表として櫻井よし子氏と並んで田久保忠衛・日本会議会長、三好達・日本会議名誉会長の名があるように、日本最大の極右組織・日本会議の“改憲キャンペーン大集会”だ。この日、会場につめかけた参加者は、主催者発表で11328人。武道館の駐車場には何台もの大型バスが駐車されていたが、これは、地方の日本会議が「12日の東京研修ツアー」などと称して、全国からシンパを動員していたからだ。…
そして驚くべきは、そんなカルト的極右組織の集会に、なんと安倍晋三が現役総理大臣として登場したことである。
70年間のときの流れとともに、世の中が大きく変わりました。この間、憲法は一度も改正されていませんが、21世紀にふさわしい憲法を追求する時期に来ていると思います」
「憲法改正に向けて渡っていく橋は整備されたのであります」
 そう改憲は眼前だと意気込むメッセージを寄せ、来場者から大喝采を浴びた安倍首相。当日の会場アナウンスによれば、安倍首相は本来会場入りして生演説を行う予定だったが、衆院予算委と日程が被ったため、やむなくビデオメッセージでの出演となったという。…会場には古屋圭司、衛藤晟一、下村博文、山谷えり子、新藤義孝、城内実、有村治子、礒崎陽輔……など安倍首相の盟友や側近をはじめ、多数の政治家が来賓として出席していたが、彼らが所属する日本会議国会議員懇談会の特別顧問を務めるのが、他ならぬ安倍晋三だ。

これが安倍が、いよいよ改憲の時は来た!と宣言した最初の場所だったことは何を意味するだろうか。閣議も、党議も、国会も一気に飛び越して、日本会議の大集会で、改憲という最も公的な事柄について最初のアピールをおこなうとは。この集まりは、安倍にとってもう一つの議会なのではあるまいか。ここにずらりと顔を並べた現役の極右政治家たちも「本籍」はここにあるのではないか。かれらは、公党たる自民党には一種の「加入戦術」として加わっているのではあるまいか。
極めつけは、安倍が、92項維持プラス自衛隊という今回の改憲提案を最初に行ったのも日本会議系の集会だったことだ。201753日憲法記念日に開かれたこの集会は、日本会議系の「美しい日本の憲法をつくる国民の会」と「民間憲法臨調」共催の「憲法フォーラム」というものである。そこには衆院の憲法審査会の自民、公明、維新などのメンバーも参加していたという。この集会に、安倍は「自由民主党総裁として」彼の改憲についての全面的な見解を盛ったメッセージを送り、そのなかで「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」ことを提起した。自民党の中でも一度も提起されたり、議論されたりしたことのない提案であった。
58日、民進党の長妻昭議員が、自民党の2012年憲法草案に「基本的人権の尊重」がないことについて安倍総理に質問したのに対して、安倍は読売新聞のインタビューで詳しく述べているので、それを「熟読」せよ、と答えて満場を唖然とさせた。安倍の頭には、国会への応答責任という観念が存在しないかのようである。
一国のリーダーが、全国民に対して所信を述べる、あるいは訴えをおこなうということはありうる。しかし安倍が、改憲という国家にとって最重要なことがらでの方針提起をまず行った相手は全国民ではなく、極右政治団体の集会であった。安倍は、この極右政治世界に対してまず報告し、提案し、承認を求めることを必要と考えているのだ。
一国の総理がそのようであるとき国家は解体に向かう。彼は総理なので公式の行政の長である。したがって公権力外の手続きで成立した彼の決定は、公権力を通じて実施される。公権力外での決定は、法の外にあるので、合法的とは限らない。しかしどうであれそれは公権力の手続きを通じて実施されうるし、されている。それが野党やジャーナリストによって追及されると、ありえないような理屈が発明され、大真面目で主張される。論理的に破綻しても意に介さない。同じことを言い続ける。
この異様な関係は、それ自体として野党の追及の対象にはならなかった。安倍が、首相であるのに、なぜ重大な決定や決意表明を議会に向かって行わず、いつもまず日本会議系の集会に向かって行うか、と厳しく詰問し、それ自身を議会への侮辱として議題にすることもしなかった。結果として私党の優先は黙認された。

誰が公権力を私物化したかー憲法破壊者の全姿を明るみに

森友スキャンダルの核心が、公権力の私物化にあることは明らかであるが、さて私物化したのは誰か。すなわち私物化の主体は誰か。そう正面から問うべきである。答えは、安倍を代表者とする極右私党そのものであるというのが、私の回答だ。なぜなら籠池プロジェクトへの肩入れは、(籠池本人を別とすれば)極右私党にのみ有利に働くものだったからである。安倍晋三夫妻はこの不正な肩入れによって私的利益を得るわけではない。しかし私党のトップである安倍晋三の全体計画にとって、森友が先進的極右教育のモデルケースとして例外的扱いに値するものだったのは間違いない。彼とその私党の観念の中では、森友学園の園児教育は、あまりにも「先進的」なので、まだ一般化はできないにせよ、驚嘆すべき模範であると考えられていたことは疑いない。安倍昭恵は、ここで教育された園児が小学校に入ってせっかく学んだ良き資質を失ってしまうのはもったいない、という趣旨のことを述べたと伝えられたが、安倍夫妻ばかりでなく、極右私党がこの学園をさらに広めるべき模範と位置付けていたことは明らかであろう。日本会議系の有名人たちが次々とこの学園詣でをし、講演したり、賛辞を送ったりしていたのである。そこにはある極右文化圏とでもいうべきものが形成されていて、その内部に通用する常識があったに違いない。安倍は、権力を握った私党の代表である以上、このモデルに特別の便宜を図るのは当然のことと考えられたであろう。しかしこの安倍が同時に行政府を率いる総理であるので、私党指導部(官邸)は官僚にその意向を公式、非公式に伝達し、公式の行政手続きに移すことができた。私党の意向を公権力のパイプでながしたのである。(伝達の方式については、加計学園についての国会審議のなかでかなり具体的に明らかになっている)。森友のケースでは、安倍明恵経由という傍系の経路も加わって、私党の意思に従って官僚が動かされ、私党の意思が貫徹された。
森友問題の解明とは、この私党と公党と公的機関の特殊な癒着構造を明るみに出すことであるべきなのである。それは私党が公党を乗っ取ったことで実現した私党による公的行政機関の支配であり、その私党は現行憲法を破壊することを目的としている存在なのである。
森友スキャンダルについて、野党の質問者は、安倍が、幼稚園児に教育勅語を暗唱させているこの学園をどう評価していたか、を徹底的に追及すべきであった。妻の明恵が、籠池夫妻と昵懇であり、学園の教育内容をたたえ、名誉校長を引き受けたことを当時どう受け取っていたか、をただすべきであった。そして、彼自身は森友モデルをどう評価していたか、をただすべきであった。彼と彼の妻が、この極右学園の教育方針と教育実践を高く評価していたことは明らかである。だからこそ安倍自身が講演の約束までしたのであろう。
これは国有地問題とは別に問われるべき質問である。なぜ、彼も彼の妻も、また少なからぬ自民党の国会議員が、この学園の教育を高く評価していたのか、その理由をまず糺すべきである。そして彼の森友学園の評価は、彼の内閣の一般教育の政策とつながるのかどうかを糺すべきである。土地問題、改竄問題を通じて、このスキャンダルの下部構造に迫るべきである。ここに露頭として表れているのは、組織としてもイデオロギーとしても、極右が公的な領域に侵入し、根を下ろし、憲法の土台を掘り崩しつつある姿である。その全身が公衆の目にさらされることが必要である。
それは改憲問題全体を新しい姿でわたしたちの面前に立ち上げるかもしれない。

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2018年3月23日金曜日

ノーベル平和賞と核兵器問題についての私見

- 平和賞に観る「反核運動」の政治的虚脱化

この論考は、近く発行されるHibaku Studies2018年春創刊号(編集発行:被ばくの歴史平和学市民コンソーシアム全国事務局)に掲載予定です。

受賞選考基準のいかがわしさ
  2017年のノーベル平和賞にはICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)が選ばれ、米国による広島・長崎での原爆無差別殺戮という体験から、反核運動を強く推進してきた日本の被爆者団体と反核市民運動諸組織が大喜びしたことは記憶に新しい。しかし、ノーベル平和賞受賞を諸手を挙げて喜んでよいのかどうか、私は発表当時から強い違和感を持たざるをえなかった。それにはいろいろな理由があるが、最も大きな理由は「ノーベル平和賞」を選考するノルウェー・ノーベル平和賞委員会自体の、「受賞者選考」基準の「いかがわしさ」にある。

  周知のように、ノーベル平和賞は、5部門あるノーベル賞の中で唯一、スウェーデン政府ではなくノルウェー政府が授与主体となっている賞であるが、これは平和賞がスウェーデンとノルウェーの両国の「和解と平和」を祈念して設置されたという背景から来ている。受賞の対象となるのは、元々は「国家間の友好関係、軍備の削減・廃止、及び平和会議の開催・推進のために最大・最善の貢献をした人物・団体」という限定であったが、いつの頃からか、人権擁護、非暴力的手段による民主化や民族独立運動、慈善事業、保健衛生の推進や環境保護などの分野で活躍した人物・団体もその対象に加えられるようになった。つまり、「平和」の範疇の中に、ヨハン・ガルトゥングの提唱する「積極的平和」が含まれている形になっているが、その「平和」の広範な定義自体は賞賛すべきことである。

  問題は、ノーベル平和賞委員会が選ぶ受賞者/団体である。例えば、選考の「おかしさ」としてしばしば例に挙げられるのは、ベトナム戦争中の1973年に「パリ協定調印」結実のために努力したという理由で、当時の米国務長官ヘンリー・キッシンジャーとベトナム民主共和国政治局員のレ・ドゥク・トの2人が共同受賞者に選ばれた。レ・ドゥク・トは、「ベトナムに平和はいまだ達成されていない」という至極当然の理由から、受賞を辞退。(ちなみに、これまで平和賞を辞退したのはレ・ドゥク・ト唯一人である。なお、これまでにノーベル賞全部門で授与を辞退した人物は彼を含めて4人で、そのうちの一人は文学賞を辞退したジャンポール・サルトル。サルトルは「賞と名のつくものはジャガイモ一袋すら拒否する」とあらゆる賞の受賞を拒否した。)ところが、キッシンジャーは厚顔無恥にも授与式に堂々と出かけ、その後もアメリカの軍事介入が1975年4月まで続いたことは改めて述べるまでもないであろう。授賞式の73年末から75年4月までに、どれだけ多くのベトナム人が殺害されたことか。いや、それ以前に猛烈な北爆で無数の市民を殺傷した責任の一端は一体誰にあるのか、と問いただしたい。

  選考の「おかしさ」のもう一つの例証として引用されるのが、1994年の「パレスチナ和平合意締結」に貢献したという理由から共同受賞者に選ばれた、当時のイスラエル首相イツハク・ラビンと外相シモン・ペレス、PLO(パレスチナ解放機構)議長・ヤーセル・アラファットの3人である。この「和平合意」はほんの短期間しか続かず、再び武力紛争が起こり、以来これまで、主としてイスラエル軍の無差別殺傷でどれほど多くの幼児・子供を含むパレスチナ市民が犠牲者になったことか。しかもアラファトは、密かに放射性物質ポロニュウムで毒殺された。こんなことで驚いてはいけない。実は、(実際に受賞はしていないが)平和賞に推薦された人物の中には、イタリアのムッソリーニ、ソ連のスターリン、アルゼンチンのペロン夫妻といった、自国民を多数殺害した独裁者が含まれている。

  さらに問題なのは、平和賞受賞者が、受賞後に「平和賞」の名に値する活動を止めてしまうどころか、逆に、平和を破壊するような行動をとる場合も稀にではあるが起きている。例えば、非暴力でのミャンマー民主化運動で1991年に受賞したアウンサンスーチーは、2017年からミャンマー治安部隊が行っているイスラム教徒の少数民族ロヒンギャに対する殺害・強姦・(70万人にのぼる)強制国外追放などの「人道に対する罪」を、彼女が国家顧問という最高権力の座にありながら傍観し続け、事実上黙認している。読者の中には驚かれる人もいるかもしれないが、後述するように、バラク・オバマの場合もこれと同様のケースに当てはまる。

  では、これまで「核軍縮・核廃絶運動」で平和賞を受賞した人物・団体の功績には、どのようなものがあったであろうか。私が知る限り、核問題関連で平和賞を受賞したのは、1974年の佐藤栄作(元日本国首相)、1985年のIPPNW(核戦争防止国際医師会議)、1995年のパグウォシュ会議と同会議メンバーの物理学者ジョセフ・ロートブラット、2005年のIAEA(国際原子力機関)とIAEA第4代事務局長を務めたモハメド・エルバラダイ、2009年のバラク・オバマ(当時米国大統領)、そして昨年のICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)の4個人と4団体である。(まだ他にもあるかもしれないが、思いつかない。もしあるようなら、読者からご教示をいただきたい。)

冷戦期の受賞者/団体
  佐藤栄作(安倍晋太郎の大叔父)の受賞理由は、彼が首相として1967年末に表明した、いわゆる非核三原則「核兵器は持たず、作らず、持ち込ませず」を導入したこととアジア平和構築での貢献であった。この受賞のためには、当時、国連大使だった加瀬俊一や元自民党議員で鹿島建設会長の鹿島守之助などが盛んにロビー活動を行ったことは周知のところである。このロビー活動で、おそらくかなりの額の現金が使われたのではないかと想像する。ところが、佐藤は、実際には、米国との沖縄返還交渉の際に、米国側の要請で「有事の際には、沖縄への核兵器持ち込み及び通過を事前協議の上で認める」という内容の密約をニクソン政権と結んでいたことが、交渉の密使を務めた若宮泉によって、1994年になって明らかにされた。つまり、佐藤は、国民には文字通り大嘘をついていたわけである。

  ノーベル平和賞委員会もこの事実を認め、2001年に出版した『ノーベル賞平和への百年』という記念誌の中で、「佐藤氏はベトナム戦争で、米国の政策を全面的に支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。後に公開された米公文書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた」と記した。かくして、受賞理由が事実とは異なっていただけではなく、佐藤が原則的に核武装に反対していなかったのであり、したがって佐藤を選んだことは「ノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」と述べて、当時の選考を強く批判した。佐藤は核武装に反対していなかったどころか、佐藤政権下では日本の核兵器製造ならびに核兵器運搬手段(=ロケット技術)に関する複数の研究・検討が内閣、外務省、防衛庁、海上自衛隊幹部などによって、半ば公式に、半ば私的形式で精力的に行われたのである。

  佐藤の妻・寛子や息子・信二によると、佐藤は家庭内でかなり暴力的であったようで、在任中にはアメリカの雑誌で「wife beater(=妻を殴る夫)と紹介されたことがあるとのこと。現在の表現を使えば、「家庭内暴力DV」を振るう男であったようだ。これがノーベル平和賞受賞者の実際の姿だったのである。

  IPPNWは、冷戦期の大気圏核実験による放射性降下物が人体に及ぼす影響に深く懸念した米国ボストンの医師たちを中心にして組織された「PSR社会的責任遂行のための医師団」が母体で、このPSRがソ連の医師たちに、核戦争防止の世界的規模での運動組織を立ち上げることを提案。その結果、IPPNWが1980年末に創設され、一時は83カ国から約20万人近い医師・医学生その他の医療関連職業従事者がメンバーとなった。組織が立ち上げられてからわずか5年後のノーベル平和賞受賞という目覚ましい活躍であり、その後の運動でも活躍が期待された(受賞当時の副会長はオーストラリアの緩和ケア専門医イアン・マドックス。高齢で退職しておりもはや活動もしていないが、個人的に私は今も親しくしている)。ところが、東西冷戦が終結し1991年にソ連が崩壊すると、核戦争の危機が薄らいだという考えが世界的潮流となったためか、IPPNWの活動もすっかり活発さを失った。現在も、「核兵器廃絶」を唱えて、2〜3年毎に世界会議を開き、一応運動は続けているが、参加国も64カ国にまで減っている。現在4名の共同代表がいるが、その一人が、 ICAN創設者の一人であるオーストラリアの医師ティルマン・ラフである。

  問題は、医療関係者の反核組織でありながら、原発事故やウラン採掘による放射能汚染の影響に関してはほとんど無関心、というよりは、私には、いわゆる「核の平和的利用」による放射能汚染問題を取り扱うことを意図的に避けているように思えてしかたがないのである。例外は、原発反対を強く主張しているIPPNWのドイツ支部であるが、これはドイツ支部にはセバスチャン・プフルーグバイルというドイツ放射線防護協会会長がメンバーとして頑張っているからで、彼はチェルノブイリ原発事故以来、反原発運動をドイツで強く推進してきた人物である。それだけではなく、彼はもともと東ドイツ市民であり、東ドイツにはウラン鉱山があって、冷戦時代にはこの鉱山で採掘された大量のウランがソ連の核兵器製造に使われたが、その採掘作業中に放出された放射能で多くの鉱山労働者が死亡しているという、世界でほとんど知られていない事実についても多くの情報を持っているからである(私も、この事実をプフルーグバイルから個人的に教えてもらうまで全く知らなかった)。彼は、IPPNWが原発・ウラン採掘問題を取り扱わないという方針に対してひじょうに批判的で、福島原発事故の後、数回、日本を訪れて各地で講演を行っているので、ご承知の人も多いかと思う。

冷戦後の受賞者/団体
  1995年に平和賞を受賞したパグウォシュ会議は、「核兵器と戦争の廃絶」を訴えて1957年7月に、カナダのパグウオッシュに10カ国から22人の科学者が集まって会議を開いたことが出発点であった。共同受賞者であるポーランド出身で英国に移住した物理学者ジョセフ・ロートブラットは、この第1回パグウオッシュ会議に最も若い物理学者として参加した。日本からは、戦時中に日本の原爆開発研究プロジェクトに加わっていた湯川秀樹をはじめ朝永振一郎、小川岩雄が参加。もともとこの会議の発端は、1955年に英国の哲学者バートランド・ラッセルと物理学者アルバート・アインシュタインが、米ソの水爆実験競争を踏まえて、核兵器が持つ人類破壊的な危険性を強調し、米ソならびに世界の政治指導者たちに向けて国際紛争の解決を迫った「ラッセル・アインシュタイン宣言」 であった。ところがこの会議は、2回目の会議からすでに内部抗争が始まり、「核廃絶」を唱えるラッセルと「核抑止力による平和維持」を主張するレオ・シラード(マンハッタン計画に参加した科学者)が対立。次第に「核抑止力派」が力を強め、1964年の第12回会議では、「最小限核抑止の原則は、全面軍縮に至るための最も有効な道」という方針が採択されるまでになってしまった。

  その後も内部抗争は続き、米英ソ各国がこのパグウオッシュ会議を政治的に利用するという事態が続いた。また、運営資金として寄付金を様々な企業から受け取っており、ノーベル平和賞を授与された年の1995年7月には広島で会議が開かれたが、この会議では日本の原発関連企業から大口寄付を受けたと言われている。ロートブラット自身は、マンハッタン計画に参加はしたが、ドイツがもはや原爆を開発する能力がないと分かった1944年末の段階で、核兵器製造研究から降りることを希望し、広島・長崎に対して原爆が使われたことにも批判的であった。戦後はパグウオッシュ会議に核兵器廃絶主義者として長年貢献し、原子力研究は医学目的にのみ使われるべきだという信念を持ち続けた。しかし、パグウオッシュ会議同様に、原発やウラン採掘に反対の声を上げることはなかった。現在もパグウオッシュは核兵器のみならず大量破壊兵器の廃絶を訴えてはいるが、市民運動というよりは、どちらかといえば、いわゆるエリート科学者たちの知的活動にとどまっており、実際の大量破壊兵器廃絶に目立った影響力を及ぼすほどの組織とはなっていない。

  IAEA(国際原子力機関)は、周知の通り、事実上、原発推進の世界組織であり、核兵器問題では、NPT(核不拡散)条約で認められている米露英仏中の5カ国の核兵器保有国以外の条約署名国で、核兵器製造が行なわれていないかを査察する権限を持っている国際機関である。IAEAが設置された背景は、もう改めて説明するまでもないと思うが、1953年12月8日に当時の米国大統領ドワイト・アイゼンハワーが国連総会で行った演説「Atoms for Peace(平和のための核)」(演説の内容は、実際には、ソ連に対する米国の核兵器力の優位性誇示であった)にまで遡ることができる。親米国家に対して原発技術を輸出するが、同時に核兵器製造能力開発のための原子力技術の転用を許さないというアメリカ(ならびにアメリカに追従する当時の西側でのもう一つの核保有国・英国)と、同じような政策を共産圏でも採用するソ連も、核兵保有国による差別的な核管理制度化のための世界組織を設置することに賛成。その結果、1957年に設置されたのがIAEAである。

  原発推進組織であるから、当然、原発稼働や原発事故、ウラン採掘などで発生する放射能汚染に対してはひじょうに甘い規制しか要求しないことも、チェルノブイリや福島での原発事故へのIAEAの対応でも明らかなところである。核大国の出先機関のような役割を果たしているこのIAEAと、そのIAEAの法律顧問と事務局長補佐を長年務めたのちに、1997年から3期も事務局長の座を占めたモハメド・エルバラダイが、「原子力が軍事目的に利用されることを防止し、平和目的のための原子力が可能な限り安全な方法で利用されることを確保するために努力」したというのが、ノーベル平和賞委員会の授与推薦理由である。核兵器は、実際には、イスラエル、インド、パキスタン、北朝鮮が次々と製造・保有し、日本、イラク、シリアなどをはじめ幾つもの国が製造能力を十分持っている事態が、IAEAの「核管理」の下で作られてきたし、核兵器(とりわけ小型核兵器)拡散の危険性はテロ組織の活発化によって、近年、にわかに高まっており、いまやキッシンジャーですら「核兵器廃絶」を唱えている。チェルノブイリや福島での原発大事故を防げるような「安全利用の確保」にもIAEAは全く無能であることは、言うまでもない。

バラク・オバマとICANの受賞
  2009年のバラク・オバマへの授与の理由も、全く実質的な意味がない単なる「核廃絶の希望」を述べただけの演説を、「<核なき世界に向けた国際社会への働きかけ」であると評価した結果であった。演説内容を注意して読んでみれば、私は、甘い考えを持ってはいない。この目標は、直ちに達成されるではない - 恐らく、私の生きている間は無理であろう合衆国は、これらの兵器が存在する限り、如何なる敵をも抑止し、同盟諸国 - チェコ共和国を含む - の防衛を保証するために、安全かつ効果的な兵器を保持しける」と述べた。核兵器は抑止力として断固保有し続けるし、核廃絶は自分の生きている間は無理だと主張して、「核なき世界」に向けた国際社会への具体的な提案など、全くなにもしなかったのである。こんな演説なら、オバマでなくても誰でもできる。

  しかも、この演説で平和賞を受賞したにもかかわらず、オバマは在任中に核兵器未臨界実験を少なくとも5回行うことを許可した。オバマ政権下の2011年2月に米露間で発効した新START(第四次戦略核兵器削減条約)によって、確かに米露両国の戦略核弾頭配備数だけは大幅に減少した。しかし、ミサイルから取り外された核弾頭が即時に廃棄処分されるわけではなく、オバマ政権下のアメリカでは、取り外された核弾頭のうち4,600発以上をできるだけ長期にわたって維持するための「寿命延長計画」に多額の予算が注ぎ込まれた。2014年1月に、米国の民間団体であるジェームズ・マーティン核不拡散研究センターが出版した『1兆ドル戦略核戦力:今後30年にわたるアメリカ戦略現代化』によると、当時のオバマ政権の米国政府は、既存の核兵器製造工場の維持・改修と核兵器・核爆弾の改良に2014年以降の30年間で1兆ドル(約100兆円)を使う予定を立てたとのこと。これはもう正気の沙汰ではない。1964年に公開されたスタンリー・キューブリック監督製作の映画『博士の異常な愛情』でまざまざと映し出された核兵器をめぐる「狂気」が、決してフィクションなどではないことが、大量破壊兵器に使われるこの100兆円という数字に現実のものとして表れている。

  かくして、北朝鮮やイランに核兵器開発・保有をやめるよう軍事力で圧力をかけていた米国が(そしてその状況は今も全く同じであるが)、ノーベル平和賞を受賞した大統領の下で大量の核兵器を抱え込み、それらを少しでも長く維持するだけではなく、より強力な小型核兵器の開発にやっきになっていたという皮肉な状況であった。実は、オバマ政権で使われた核兵器関連予算額は、その前のブッシュ政権下の額よりもダントツに増えたのである。トランプ政権の核兵器政策はオバマ政権の政策をほとんどそのまま維持しようとしているのであり、オバマ政権との違いは、オバマ政権がその内実にはできるだけ言及せずに、建前上は様々な美辞麗句で隠蔽しようとしていたのに対し、トランプはあからさまに核軍事力を誇示しているということだけである。ところが、メディアはなぜかこの事実については報道しないどころか、今も「核兵器廃絶を唱えたすばらしい元米国大統領」という虚妄のイメージだけを拡散させているという、なんともだらしない状況である。日本のジャーナリストたちは、いったいどんな調査をしているのだろうか。オバマ政権下では、無人爆撃機ドローンによる対テロ「精密爆撃」も急増したが、この「精密爆撃」で病院や学校が攻撃され、多くの市民が殺傷された事実も、なぜかメディアは報道しない。

  2017年の受賞団体ICANは、その10年前に、もともとはIPPNWオーストラリア支部のティルマン・ラフを中心にメルボルンで創設された組織である。前述したように、IPPNWは東西冷戦終焉後から活動が不活発になったため、医師や医療関係者だけをメンバーとする組織ではなく、もっと広範な市民を巻き込む形での反核団体を作り上げることで、反核兵器運動を再度盛り上げたいというラフの考えのもとに始められたものである。すでに存在しているIPPNWのネットワークを活用したため、メンバーを増やし組織を拡大させるにもそれほど長い時間はかからなかった。その意味では、ひじょうにうまい活動拡大戦術だったと思う。

  確かにICANは、核兵器の開発・保有・使用などを全面禁止する「核兵器禁止条約」が2017年7月に国連で採択されるために、市民運動側からその動きを強く推進したという点で大きく貢献したことは間違いない。「核兵器禁止条約」の国連採択は、核廃絶というひじょうに困難な目標に向けての一歩前進であることも間違いない。しかし、条約採択で122カ国が賛成したにもかかわらず、2018年3月22日の段階で署名した国は57カ国、批准した国の数はわずか6カ国(ガイアナ、タイ、バチカン、メキシコ、キューバ、オーストリア)。50カ国が批准しない限り実際には発効しないし、しかも、既存の核保有国(米露中英仏とイスラエル、インド、パキスタン、北朝鮮)はどこもこの条約を無視しているのが現状である。さらに、この条約にはなんら法的拘束力がない。その意味では、たとえ発効したとしても、肝心の核保有諸国が動かなければ、NPT(核不拡散条約)と内実はなにも変わらないことになる。

  反核運動でノーベル平和賞を授与された団体だけではなく、国内外の他の多くの反核運動組織の活動を見ていると、「核兵器廃絶(あるいは核軍縮)」は強く訴えるのであるが、核兵器保有体制をこれほどまでに強固なものにしている世界の政治社会体制とは一体何なのかという根本的な問題についてはほとんど考えていない。これが私には、反核運動の大きな弱点であると思えてしかたがない。「核兵器で無差別に大量の市民を瞬時の間に殺戮することは、決して許されてはならない」という心情はもちろんよく分かるし、そこが反核運動の原点であると私も強く信じている。しかし、その心情だけでいくら「核兵器廃絶」を訴えても、核保有体制それは現実には核抑止力体制(それは本質的には核威嚇という「平和に対する罪」という犯罪行為) - はこれまで微動だにしなかったし、今後もしないであろう。

  ICANのノーベル平和賞受賞が、北朝鮮の核弾頭搭載可能なミサイル発射実験の繰り返しをめぐって米国が核兵器使用をちらつかせる恫喝的な発言を行ったときと時を同じくしていたことは、我々の記憶に新しい。ICANはこれに対して、相変わらず、繰り返し「核兵器廃絶」を訴えただけであった。本当はICANがここで世界に向けて問うべきだったのは、「いったいなぜそこまで北朝鮮は核兵器と核兵器運搬の開発にやっきになるのか」ということであった。つまり、軍事大国アメリカの「パックス・アメリカーナ」という世界支配体制が生み出している諸問題、これを問わずして、核兵器問題に関する意味のある議論は、実際には成り立たないのである。

  「パックス・アメリカーナ」という支配体制を問わずして、ロシアや中国の核戦略体制を議論することも、もちろん意味をなさない。「パックス・アメリカーナ」という支配体制を問わずして、日米軍事同盟や沖縄基地問題を議論することも無意味であるし、日本の米国核抑止力支持を議論することも意味をなさないのは自明のことである(この重要な「パックス・アメリカーナ」の問題については、ジョン・ダワーの近著『アメリカ 暴力の世紀』を参照されたし)。つまり、米国をはじめ核保有諸国の軍事支配体制、核戦略以外の戦争戦略、外交政策などに関する諸問題を全く切り離して、「核兵器」だけをいくら取り上げても、「核廃絶」はオバマが馬鹿正直に述べたように、彼の生きている間だけではなく、人類が生存し続ける限りなくなりはしない。

  「核廃絶」のために我々が考えなければならないのは、「パックス・アメリカーナ」という米国の世界支配政策を、いかにしたら国際協調主義政策に変革していくことができるかということである。そのための有効な手段の一つとしては、アメリカの大多数の市民が、広島・長崎に対する原爆無差別殺戮が重大な「人道に対する罪」であったことを深く認識するようになり、アメリカ政府もその罪の責任を明確に認め、被害者に対して謝罪するような状況を我々が作り出していくこと。そのことによって、核兵器は使わなくとも、様々な残虐な武器で、いまも世界各地で多くの市民を無差別殺傷の対象にしている現在のアメリカの「パックス・アメリカーナ」政策に、少しでも風穴を開けていく努力をしていくことではないかと私は以前から考え、機会があるごとに述べてきた。しかし、そのためには、我々日本の市民もまた、自国が15年という長期にわたってアジア・太平洋各地で犯した様々な日本軍の残虐行為の罪を日本政府がはっきりと認め、それに対する責任をとるという正義を果たすようにさせていくことが必要であることは言うまでもない。異なった(国家)共同体の成員である我々が、「ともに生きていく」ためには、自己の所属する共同体成員がその共同体の名前で他の共同体の成員に対して犯した過失や犯罪行為について、共同体としての集団責任をとるという正義を果たさなければ、共生共存は不可能なのである。自己の所属する共同体の(現在と過去の両方の)行為を厳しく自己検証することは、したがって、共同体間関係=国際関係の平和構築には不可欠な行為であると私は考える。

  ICANを褒め讃える広島の反核活動家仲間からの批判を承知で正直に述べるが、アメリカの世界支配政策を全く考慮に入れないICANの今のままのキャンペーンのスタイルでは、核廃絶にはほとんど役立たないというのが私の考えである。1973年、レ・ドゥク・トが、ベトナムに平和はいまだ達成されていないという理由から受賞を辞退したように、ICANも、「核廃絶がいまだ達成されていないので、受賞は辞退する」と述べるべきだった、と私は思っている。そのほうが、よほど世界の市民に感動と勇気を与えただろうし、今後のノーベル平和賞の授与決定にも、多少なりとも良い意味での影響を及ぼしたであろうとも思っている。実際には、結局、単なるお祭り騒ぎの自己賛美で終わってしまったのではないか、というのが私の率直な感想である。ちなみに、日本では「憲法9条にノーベル平和賞を」、「高校生平和大使活動に平和賞」といった運動もあるようだが、これほど無意味な運動はないと私は考えている。

  ICANのもう一つの問題は、核兵器製造の原点の問題、すなわちウラン採掘と原発稼働によるウラン濃縮の問題にはほとんど関与しないという弱点である。この点では、IPPNWやパグウオッシュと同じ弱点を抱えている。先にも述べたように、文字通り「核兵器」だけを対象としており、核兵器製造にかかせないウランとウラン濃縮にはほとんど言及しない。その点、福島原発事故で多くの被害者がいまも苦しい生活を強いられている日本のICAN日本は、原発とウラン問題をとりあげないわけにはいかない状況におかれているため、少々、活動の幅が広くなっているという点で、ICAN本部や他の国のICANの運動形態とは異なっている。この点については、積極的に評価してよい。

  余談になるが、実はティルマン・ラフは、ICANを設置する前までは、オーストラリアのウラン採掘に対しても鋭い批判を行っており、私は彼のウラン採掘問題に関する知識の深さに感心していた。ところが、理由はわからないが、ICAN設置とともに、彼はウラン採掘問題に関してほとんど言及しなくなったし、ICAN自体もウラン採掘や原子力問題にはほとんど言及しないという方針をとった。福島原発事故が起きた時、ラフは日本政府の原発事故に対する対応や原子力政策をさかんに批判したが、福島原発の核燃料がオーストラリアから輸入されたものであることについても言及しなかった。(少々個人的な話になるが、そのことを私は公の場で批判した。そのあとで、私は彼と直接会って私の批判内容を説明もした。そのとき彼は、彼の日本のある知人が、「ラフは企業から金をもらってウラン採掘に言及しなくなったと、田中は中傷誹謗している」と彼に伝えたと言って、私に向かっておおいに憤慨した。これに対する私の返答は、「私は君を今でも尊敬しているし、そんな馬鹿げたことを言ったり書いたりするはずがない。そのような証拠があるなら見せて欲しい」と述べておいた。)その後、ICANオーストラリアもウラン採掘問題を多少は取り上げるようにはなったが、私から見れば、取り扱い方がまだまだ副次的であるとしか思えない。1970〜80年代にはオーストラリアのウラン採掘反対運動はひじょうに強かったが、現在では、全く弱体化してしまっている。(オーストラリアのウラン採掘問題については、拙論「私たちは原発の動力源を忘れてはいないか?ウラン問題再考」を参照されたし。
 
結論: 平和賞が反核運動を虚脱化する
  こうして反核運動でノーベル平和賞を授与された過去のケースを検討してみると、平和賞の授与が、既存の政治社会体制を認めたままでの俗に言う意味での「反核運動」にとどまっていることに気がつくはずである。すでに述べたように、受賞対象である「反核運動」は、IPPMW、パグウオッシュ、ICANのように、米露を初めとする核保有国の「核保有」そのものと「核抑止力」だけを批判するにとどまっているか、あるいは佐藤栄作、IAEA・エルバラダイやオバマのケースのように、核保有国の「核兵器維持・拡大政策」の隠蔽を行っている似非「反核運動」である。

  佐藤栄作、IAEA・エルバラダイやオバマのケースは改めて批判する必要もないであろうが、しかし重大な問題は、これらの受賞ケースは、本来「核兵器」とは一体何なのかという、核兵器の根本的な問題を問う意欲を、世界の一般市民から削いでしまっているということである。換言するならば、形だけ、うわべだけの「反核運動」に平和賞を授与することで、「核兵器は重大な問題であるが、廃絶はもちろん削減も容易ではない」という現実肯定論、すなわち核兵器容認論を、実は無意識のうちに世界中の市民に浸透させてしまっているという、この現実である。つまり、これらの場合は、彼らがやった本来はひじょうに政治的な欺瞞行為の意味を、平和賞が「政治的に無意味化」してしまうという機能を働かせている。

  一方、IPPMW、パグウオッシュ、ICANの「反核運動」には、核保有体制の背後にある大きな問題、すなわち、ひじょうに重要な2つの問題があることを捨象してしまっているというということを、この拙論ではすでに指摘しておいた。それをもう一度述べておきたい。

  この2つの問題は、ひじょうに困難な問題であるが、これを「反核運動」と切り離してしまっては、最終的な目的達成は不可能である。その一つは、核保有体制を支えている各核保有国の政治社会体制、とりわけ米国の「パックス・アメリカーナ」という世界軍事支配体制をいかに崩していくかという思考と方法論である。それを、「反核運動」の思考と方法論と密接に結合させていかなければ、「核廃絶」への厳しい道を切り開いていくことは不可能なのである。もう一つは、核兵器製造の原点である、ウラン採掘とウラン濃縮をいかに停止させるかが決定的に重要な課題である。「パックス・アメリカーナ」と「ウラン採掘・濃縮」を黙認したままの「反核運動」では、「核廃絶」が達成できないことは自明である。

  ノーベル平和賞の授与は、授与された個人/団体の思想や活動を全面的に権威化あるいは神聖化してしまい、その思想や活動方法が全て正しいかのような印象を世界中に拡散させるという機能がある。ICANの場合も、ノーベル平和賞委員会が、核保有問題の裏にある政治社会支配体制を根本的には問わないというICANのスタンスをそのまま認めながら、その「反核運動」を賞賛、賛美することで、その「反核運動」を実質的には非政治化し、運動力を削いでしまっている。ところが、世界的に賞賛を浴びた受賞個人/団体を、たとえ積極的な意味であっても、批判することはひじょうに困難になる。私はこの現象を、「ノーベル平和賞による平和活動の政治的虚脱化」と呼ぶ。

  「平和活動の政治的虚脱化」を避けるためには、ノーベル平和賞だけではなく、いかなる賞の受賞も拒否すべきだと私は考えている。ジャンポール・サルトルが「賞と名のつくものはジャガイモ一袋であろうと拒否する」と述べたのは、賞を受け権威化、神聖化されることで、自分自信の思想・行動が「政治的に虚脱化される」ことを恐れたからではなかろうか、と私は思う。そのことは、以下のようなサルトル自身のノーベル賞受賞拒否の理由の説明からも明らかであると私は考えている。
「わたしはノーベル文学賞を拒否しました。なぜならば、わたしは自分が死ぬ前に人が“サルト ル”を神聖化することを望まないからです。いかなる芸術家も、いかなる作家も、そしていかなる人も、生きている間に神聖化されるだけの価値のある人はいません。なぜならば、人は全てを変えてしまうだけの自由と力をいつも持っているからです。ですから、ノーベル文学賞というものがわたしを名誉の絶頂に押し上げてしまうとしたら、わたしは現在完成しているものを終わらせることができませんし、またわたしは自分の自由というものを行使することもできませんし、 行為をおこすということもできなくなりますし、コミットメントをすることもできなくなります。このノーベル文学賞の後では、すべてがつまらぬものになってしまいます。なぜならば、すべてが回顧的な価値を認めるだけのものになってしまうからです。想像してごらんなさい。栄誉を得て、そしてその後転落していく作家と、栄誉はないが常に今歩前進していく作家と、この2つの作家のうち、どちらが本当に栄誉に値するのでしょうか。常に、今歩前進して自分の可能性の頂点に向かっていく人と、頂点に到達することなく神聖視されてしまった人、どちらでしょうか。わたしは、この2つのうちの1つになることはできていたでしょう。しかし、わたしがどんな可能性があるかは誰もいうことはできなかったはずです。人というものは、その人がなしえたものがその人であるのです。わたしは、行為することができる間は、絶対にノーベル賞を受け取ることはないでしょう。」 (強調:引用者)

- 終わり 

田中利幸
(歴史家)