2020年1月5日日曜日

この世界状況で、明けましていったい何がおめでたい?!


1)オーストラリア森林火災は人災だ
2)被服支廠保存問題を考える

1)オーストラリア森林火災は人災だ

  年が明けても「おめでとうございます」などとはとても言いたくない状況が、世界あちこちで続いています。米国大統領トランプは、大統領弾劾裁判を避けるためや再選のための人気向上を狙って、イランの革命防衛隊司令官を殺害。その結果、中東の不安定な状況を一挙に軍事衝突の危機にまで高め、すでに米軍約3千人の増派を行う予定とのこと。3千人ですむでしょうか。日本の安倍首相は、こんな危機的な状況の中で、米国支援という旗をトランプに向けて揚げてみせるだけの目的のために、中東海域への自衛隊派遣を決定し、自分はゴルフ三昧という相変わらずの無責任さ。
  オーストラリアは、昨年11月下旬からニュー・サウス・ウェールズ州で始まった森林火災が、12月に入って急速に同州沿岸部の広大な森林地帯に拡大。さらには、12月中旬から続く猛暑のために、隣のビクトリア州北東沿岸部の森林地帯にも火災が起こり、現在もオーストラリアの東南地域一帯の森林火災はいつおさまるのかほとんど見通しがつかない状態です。そのうえ、南オーストラリア州の、リゾート島として有名なカンガルー島はほとんど島全体が焼失。
  これまでに焼けた森林面積は、約1千4百50万エーカーというとんでもない広さ。これは2018年のカリフォルニアの森林火災による焼失面積の3倍、昨年のアマゾン火災の焼失面積の6倍という広さです。死傷者数は現在までのところ23名、行方不明者が6名、火災消失家屋が1500軒ですが、この火災によって死亡したコアラ、カンガルー、ウォンバットや野鳥など多種多様な動物の数は推定5千万匹、いま幸い生き残っている動物がいたとしても餌や水が全くない状況ですので、生き延びることはひじょうに難しいでしょう。オーストラリアの現状は、まさに「catastrophe 大破局」と称すべきものです。







 これは確かに地球温暖化が急速に悪化していることの証左ですが、しかし、こんな大破局に陥るまでにしてしまった原因は、いうまでもなく我々人間にあります。とりわけ、「地球温暖化には科学的根拠がない」と主張してきた政治家たちの責任は重大です。その一人は、オーストラリア首相のスコット・モリソンで、彼は、この大火災が起きている最中に、家族連れで休暇を楽しむために、密かにオーストラリアを離れてハワイに滞在。そのことがメディアで暴露されたため、あわてて帰国。ニュー・サウス・ウェールズ州の州政府の「緊急事態担当大臣」であるディビッド・エリオットも、州が「緊急事態」にあるにもかかわらす、ロンドンとフランスに妻と一緒に休暇に出かけるという、信じられないような無責任政治家。
  周知のように、昨年12月に、「気候行動ネットワーク」は、オーストラリア、日本、ブラジルの三ヶ国を、地球温暖化対策に最も後ろ向きな国に送る「化石賞」の受賞国にしました。オーストラリアは石炭とガスの輸出量で世界一を誇る(?)国で、気候変動対応国57カ国のうちの57番目の最低国となっています(ちなみにウラン輸出量ではカザフスタン、カナダに次いで三番目)。野党がだらしないのは日本だけではなく、オーストラリアでも同じで、最大野党である労働党の党首アンソニー・アルバネーゼは、モリソン首相がハワイで休暇を楽しんでいる頃、石炭輸出の全面的賛成を表明するために炭鉱地域を訪問していました。
  そんなわけで、大火災が起きているにもかかわらず、消火対策が1ヶ月以上たっても後手後手となり、今のような大破局事態に至らせてしまいました。これを「人災」と言わなければ、なんと称すべきでしょうか。オーストラリアの夏はまだ始まったばかりで、猛暑がこれから2月末まで続くでしょう。大火災がおさまるのは、いつになることやら……。馬鹿な政治家が権力を握る国家の国民は、どこの国であれ不幸です。政治家のモラルの激しい低下も世界的傾向、あるいは、低下したモラルしか持たない人間が政治家になっていると言うべきなのか。このめちゃくちゃな事態を変えるには、自分たち民衆の力で社会変革をめざすより方法はありません。今年もたいへんな一年になりそうです。

2)被服支廠保存問題を考える

  昨年末より、広島市内の南区出汐に現在4棟残っている陸軍被服支廠の取り壊し計画が盛んに報道されるようになり、この解体計画に対する反対運動がにわかに注目を浴びるようになりました。被服支廠とは、主として軍服や軍靴を製造する工場のことで、創設されたのは1905年(明治38年)4月で、同年12月に現在地にその工場建物が竣工されたとのこと。敷地は大正初期の時点で7万坪という広大なもので、近隣には陸軍兵器支廠や陸軍要塞砲兵連隊、演習砲台などの施設も設置されました。
  1945年8月6日朝の米軍による原爆無差別殺戮攻撃によって市内の建物は壊滅しましたが、被服支廠は爆心地から2.7キロ離れていたことと、工場の外壁の厚さが60センチとかなり分厚かったため、倒壊や火災もまぬがれて、被爆者救護所として使われました。この建物内でも多くの被爆者が亡くなっていきましたが、広島を代表する詩人の一人、峠三吉がその惨状を「倉庫の記録」や「仮繃帯所にて」という詩にしており、それらの詩は彼の『原爆詩集』の中にも含まれています。
  解体計画に対する反対運動団体 - 例えば「旧被服支廠の保全を願う懇談会」など - の意見を読んでみますと、そのほとんどが、「被爆建物であるから」保存すべきだというもので、しかも、建物を保存してどのように活用すべきか、というアイデアはほとんど出されていません。もっぱら「自分たちの戦争被害」意識の観点にのみたった、典型的な広島の「被爆被害関連資料保存運動」です。
  考えてもみてください。この工場では、海外に派遣された多くの日本軍将兵が着用した軍服や軍靴を生産していたのであり、例えば、1937年12月には、その多くがここで作られた軍服、軍靴を着用していた7万人を超える日本軍将兵が南京市内に侵入し、大量の虐殺、略奪、強姦などの残虐行為を数週間にわたって犯し続けたのです。1942年2月にシンガポールを陥落させた日本軍が、その後3月末までにシンガポールとマレー半島で数万人から10万人にのぼると推定される華僑を虐殺しましたが、この大量虐殺に加わった第5師団歩兵第11連隊所属(本部は広島)の兵員たちも、ここで作られた軍服・軍靴を着用していたはずです。犠牲者は中国人だけではありません。15年という長期にわたる戦争期間中、日本軍に占領された多くのアジア太平洋の地域の人たちが、軍服姿の日本人による様々な残虐行為の被害者となり、女性たちも軍服姿の日本人に怯えおののきながら強姦され、中には強姦された後で殺害された人たちも多くいました。
  こうした被服支廠の歴史的背景を考えるならば、この建物は、単に「被爆建物」として保存するのではなく、「戦争加害記憶遺産」として保存・活用することを真剣に考えるべきなのです。とりわけ広島には、旧軍関連の建物や設備がほとんど残されていませんので、この観点から、被服支廠を保存することはひじょうに重要です。いかにこの建物を、広島の戦争加害と被害の両面から、戦争防止と平和構築のために保存・活用するかという議論を大いにすべきだと私は強く感じています。ドイツには、日本とは対照的に、ナチス軍の様々な施設が再建・保存され、「戦争加害記憶遺産」として平和教育に大いに活用されています。このドイツの経験からも学ぶことは多々あります(ドイツの状況と広島との対照について、詳しくは、拙著『検証「戦後民主主義」:私たちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』三一書房、第5章を参照してください。)
  いずれにせよ、私の尊敬する広島の市民活動家、池田正彦さんの関連論考と、池田さんたちが企画されている石丸紀興さんによる講演プログラムの案内を下に貼り付けます。この問題を考える上でたいへん参考になると思います。

田中利幸
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旧・被服支廠活用について
広島文学資料保全の会・池田正彦

 旧・被服支廠の取り壊しの報道が、今月(2019年12月)あった。いくつかの団体が取り壊し反対の申し入れ、署名による要請を広島県に行ったと伝える。

 広島県は、来年度(2020年)4棟あるうち1棟のみを保存し、2棟を解体する方針を明らかにした。(12月4日に開かれた県議会総務委員会で、所有する3棟のうち1棟のみ保存し、あとの2棟は解体する方針を明らかにした)

 広島大学名誉教授・三浦正幸さんは、「日本で最も古いレベルの鉄筋コンクリートの建造物で、国の重要文化財にも指定される価値がある。日本の将来に禍根を残す」と語り、「財政事情の理由の一つに挙げている点についても、県が建物の価値を広く市民に訴え、寄付を募るなどして、財源の確保に努めるべきだ」という考えを示した。

 さて、私見になるが……いくつかの団体が広島県に「解体反対」の申し入れ、要請を行ったとのニュースが流れたが、不思議なことに、活用については、まったく触れられていない。(保存と活用はセットで語るべきだ) 広義に解釈すれば、現在の状況でも「保存」なのだ。ただ「活用」せず、長い間放置してきただけなのだ。

   広島県は、おためごかしに、これから市民・県民の意見を聞くというが(アリバイづくり……)
結論(1棟のみ保存・2棟解体)を先に出して、意見を聞くという不誠実さこそ問題なのである。広く意見を募り、結論は先延ばしすべきである。(市民団体は県の態度をもっと追及すべきである。)

   多くの報道も、広島県が1棟のみ保存・2棟解体との方針を伝えているが、広島市の連帯責任を追求しているものはほとんどない。(たしかに所有は広島県であるが、「平和・文化都市」を掲げる広島市は率先して平和施策の重要な課題として再生・保存に取り組むべきであり、他人事ではないはずである……広島市長は、保存・活用の費用は負担しないと、発表)

   実は、1992年、石丸紀興さん(元・広島大学教授)を中心に『赤れんが生きかえれ』(旧・陸軍被服支廠倉庫の再生にむけて)被服支廠活用提案がされており、長い間放置してきた責任は誰なのであろう。
 *「提案」は、再生・活用例も具体的に示されており、「広島にとって魅力的な空間を創出する」積極的意味をもっている。

   昨年から今年にかけて、原爆資料館の耐震工事中、たくさんの被爆した暮らしの遺品が出土したが、この出土品の活用・展示先はまだ決まっていない。(それこそ、この出土品を、被服支廠の一空間を利用して展示すれば……被服支廠も、出土品、双方が活きる)
  *だからこそ、広島県は広島市と共同し、保存・活用に向けて積極的なリーダーシップをとるべきだ。……そういう論調もないのも哀しい。

   私は長く「広島に文学館を!」の市民運動に携わってきた。広島市は文学資料収集の予算はゼロであり、残念ながら文学館構想は限りなくゼロに等しい。(広島市は、中央図書館の一角に小さな「文学資料室」を設けているが、多くの人はその存在すら知らない。(資料収集体制、展示・活用の実態はまったく貧弱といわざるをえない)
この被服支廠の一隅を利用し、峠三吉を中心とした「原爆文学資料室」があれば、峠三吉の詩(倉庫の記録)と被服支廠と直接繋がり、平和教育に大きく貢献すると考えるのは、私だけでないだろう。

   あまり知られていないが、ヒロシマを描きつづけた詩画人・四國五郎さんは、この被服支廠に勤務し出征した。現在、四國作品の常設施設は郷土・大和町(小学校の廃校を利用した教室)にあるが、広島市にはない。(四國作品を収蔵している施設もない)反戦・核兵器廃絶を訴えることに生涯をささげた四國五郎さんの生き方・作品は平和教育そのものであり、被服支廠の空間を埋めるもっとも適した作品群である。

   広島復興という視点も必要。
たとえば、一角を、「広島カープの誕生」「広島お好み焼きの歴史」「広島復興を牽引したマツダのバタンコ」など、広島復興の歴史が庶民的感覚で展示。

   被服支廠を広島回遊の拠点に。
宇品港、郷土資料館(旧・糧秣支廠)、広島大学医学部医学資料室(旧・兵器支廠)、旧・日本銀行、アンデルセン、袋町小学校平和記念館、本川小学校平和記念館、平和アパート(戦後復興第一号の鉄筋アパート:峠三吉を中心とした戦後広島ルネッサンスの拠点)、比治山(陸軍墓地など)などなど、マップを作成して多くの人が散策できるようにする。*「平和アパート」は、広島市は取り壊す予定。
*宇品には、当時陸軍輸送船を統括する運輸部がおかれ、そのための施設として、兵器廠・糧秣廠・被服廠がつくられた。宇品は文字通り、兵士・物資を大陸に送る拠点となった。(軍都・広島の歴史の視点も重要である)

   まだまだたくさんの活用についての意見はあるはずである。解体ありきではなく、積極的に「再生・活用」を求める活動が今問われている。

*遅ればせながら、12月18日、朝の記者会見で松井広島市長が保存について態度表明(全棟保存を県知事に要望)をしたとのこと。しかし、 「広島県に要望」にとどまっている。「平和・文化都市」を標榜する市長が、この程度で茶を濁すことを許してはならない。積極的に「平和市長」として、「再生・活用」にむけて、本腰を入れて行動することが今問われている。
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講演案内

旧・被服支廠
赤れんが よみがえれ ― 保存・活用をめざして
広島県は、旧・陸軍被服支廠を所有する3棟のうち1棟を保存し、2棟を解体する方針を明らかにした。この「赤れんが」は、国内最古の鉄筋コンクリートの建物であり、宇品から兵士・物資を大陸に送り出した軍都・広島の象徴的存在でした。
また、被爆時には被爆者の救護所となり、峠三吉は詩「倉庫の記録」(原爆詩集に収録)として惨状をつづった。戦後には、広島師範学校の授業、学生寮、図書館、日通倉庫などに使用され、復興広島の下支えとなった。
拙速に「広島の原風景」を消してはならぬ。保存・活用にむけて多くの県民・市民の意見を集約しよう。

中国新聞(20191220)社説(全棟保存・活用の議論を)のなかでも「重要性をあらためて考慮し、いったん凍結してはどうか。その上で、もう1棟を所有する国と、市の3者で、保存と活用の具体策と財源について早急に協議を始めるときだろう」と、述べている。

演題 赤れんが よみがえれ
講師 石丸紀興さん
   (元・広島大学教授)
とき 1月26日(日)
     午後2時~4時
   *皆さま方からのご意見・提案の時間も設けます。
会場 広島市ひとまちプラザ・北棟6Fマルチメディアスタジオ
   電話 082-545-3911
   (広島市中区袋町・袋町小学校隣)
   *無料

広島文学資料保全の会(広島市中区本川町2丁目1-29-301)
電話・FAX 082-291-7615 メール qqxn4he9k@cap.ocn.ne.jp



 

2019年12月19日木曜日

2019 End of Year Message


2019年末メッセージ(日本語版は英語版の後をご覧ください)
 
  May I begin this note by informing you of the recently published book, In Plain Sight: Sexual Violence in Armed Conflict (Zubaan, New Delhi, 2019) ed.by G. Zipfel, R. Muhlhauser and K. Campbell. This is the result of a collaborative research project “Sexual Violence in Armed Conflict” based in Hamburg. It is now available through Amazon. I believe it could be very useful as a reference text for university courses such as gender studies, sociology and international law, and for people working for NPOs in the field of prevention of military violence. 


Below is a brief description of the contents of the book:
Although it is now well-known how pervasive sexual violence is in situations of war and peace, not enough has been done to work towards its prevention. Compiled by the international research group Sexual Violence in Armed Conflict, this volume takes an interdisciplinary approach to understanding wartime sexual violence. Its inquiry employs four key relationships: war and power, violence and sexuality, gender and engendering, and visibility and invisibility. Within these subjects, the authors identify gaps in existing knowledge to develop a deeper and more nuanced understanding of the field. Through essays, reflections, and conversations, they show how such violence is polymorphic and heterogenous. Women’s activism and research, according to them, has done a great deal to draw attention to sexual violence, showing how it is man-made and is structured by cultural, social, and historical conditions. Together, the contributors make a powerful argument for urgency in addressing this major issue across the world by listening to the voices of women on the ground.
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  This year we saw many groups of young people in various parts of the world strongly demanding that politicians seriously tackle the issue of precipitously dangerous global warming. I sincerely hope that this new momentum may lead to a global movement calling for fundamental social change to the present state of chaotic political and social disorder – that Zygmunt Bauman referred to as “liquid modernity.”   
  To this end, I would like to draw your attention to some things I hope will bring you peace and enjoyment. The first is a cartoon entitled “Angels and Humans” by Michael Leunig, my favorite Australian cartoonist and poet. To me, this simple, but succinct illustration, which contrasts “angels holding leaves and flowers ”versus “smartphone zombies” – vividly symbolizes “liquid modernity.”

  I have also chosen four pieces of music. All praise “nature,” in particular “trees and leaves” and “birds.”

1) Ombra mai fu composed by George Handel

  This is the opening aria from the opera Serse (or Xerxes) composed by Handel in 1738. The melody for the second part of the lyrics is so exquisite that it is frequently sung on its own or alternatively performed without voice, simply by instruments such as violin, cello, piano or string ensembles, often under the title "Largo from Xerxes."
Ombra mai fu
Frondi tenere e belle               Tender and beautiful fronds
del mio platano amato
              of my beloved plane tree,
per voi risplenda il fato.
              let Fate smile upon you.
Tuoni, lampi, e procelle              May thunder, lightning, and storms
non v'oltraggino mai la cara pace,
       never disturb your dear peace,
né giunga a profanarvi austro rapace.
   nor may you by blowing winds be profaned.

Ombra mai fu
                     Never was a shade
di vegetabile,
                     of any plant
cara ed amabile,
                 dearer and more lovely,
soave più.
                     or more sweet.
Sung by Christopher Lowrey, an American countertenor, who holds degrees with distinction from Brown University, St John's College, Cambridge, and the Royal College of Music International Opera School.

Played by Cellis, Stjepan Hauser (Croatian)

2) L'Allegro, il Penseroso ed il Moderato ("The Cheerful, the Thoughtful, and the Moderate Man") composed by Handel  
  Handel asked James Harris, one of his admirers, to blend John Milton’s two complementary poems, L'Allegro (which means "the happy man" in Italian) and Il Penseroso ("the melancholy man") to create dramatic dialogues between the two characters. Using these combined poems, Handel composed a series of vignettes celebrating the English pastoral landscape. One piece from the series is an aria entitled “sweet bird, ” in which the singing nightingale is beautifully imitated by a baroque flute and a soprano voice.
  The baroque flautist is Emi Ferguson, who was born in Japan, and studied at the Julliard School of Music. While studying music, she also specialized in the study of epidemiology at Columbia University's Mailman School of Public
Health - a unique combination of study!
 The soprano singer is Amanda Forsythe, who was born in New York city and initially studied marine biology but graduated with a degree in music at Vassar College - another interesting combination.

3) Nightingale – a Chinese style nightingale song composed by Yanni.
Yanni (Yiannis Chryssomallis) is a Greek “New Age Songs” composer, pianist and keyboardist. He graduated from the University of Minnesota with a degree in psychology, but vigorously pursued a career as a musician and made a breakthrough in the late 1980s. Since then, he has been immensely popular throughout the world and has held concerts in more than 30 countries so far. The flautist, Pedro Eustache, is a Venezuelan-born, solo flautist, who performs on various traditional flutes from different ethnic groups across the world in the most beautiful manner.

4) Tsuru no Sugomori (The Nesting Crane)
By Yorita Mamino (Shakuhachi)
This is a classic piece of shakuhachi music that imitates the singing of cranes. Yorita began learning shakuhachi at the age of 8, and in 2013 graduated from the Tokyo National University of Fine Art & Music, majoring in shakuhachi. She is now one of a very small group of female shakuhachi grand-master players in Japan. This performance was conducted at the Miho Museum, a magnificent building designed by the world-renowned architect, I.M. Pei, in the mountains of Shiga Prefecture.

2019年末メッセージ(日本語版)

  最初に、私自身も寄稿している本の宣伝をさせていただきます。私が所属する「武力紛争時における性暴力」研究チーム(ハンブルグ社会研究所の資金援助によるプロジェクト)が、今年10月末に、これまでの研究成果を纏めた編集本を出版しました。題名は In Plain Sight: Sexual Violence in Armed Conflict (Zubaan Publishers, New Delhi, 2019) ed. By G.Zipfel, R.Muhlehauser, K.Campbell です。「武力紛争時における性暴力」を様々な観点から、私たち研究メンバー25名が分析した研究報告です。英語ですが、大学でのフェミニズム問題関連の講座や、性暴力問題で活動しているNPOのような団体にはとても役にたつ出版物だと思います。アマゾンで購入可能です。情報を拡散していただければ光栄です。
 
「武力紛争時における性暴力」研究プロジェクト・チーム 

 
新出版の編集本
 
  今年は若者たちが地球温暖化に対する批判の声を世界各地であげるという嬉しい動きが見られました。よって、自然賛美、とりわけ「木の葉」と「鳥」を賛美する曲を選んでみました。そのうちの2曲はヘンデルの作曲によるものです。また、漫画(私の大好きなルーニック作)も「木の葉」と「鳥」を含んでいるものを選びました。
 
  世界の社会状況がますます「液状化」する現在(「液状化社会」現象については今年8月14日のブログ記事をご参照いただければ光栄です)、若者たちの地球温暖化防止運動が、根本的な社会変革運動を世界的規模で巻き起こすようなものへと展開していくことを切に願って、以下の漫画(「木の葉/花」と「鳥」をやさしく持つ天使、それとは逆方向に携帯電話を持って歩いていく人間たち!)と音楽メッセージをみなさんに送ります。来たるべき新年を、なんとか変革の年にするようにしたいものです。

 


1)Ombra mai fuオンブラ・マイ・フ」
  この曲は、ヘンデルが作曲したオペラ『セルセSerse(またXerxesとも書きます)』の第1幕冒頭で歌われるアリアですが、第1節は抜かして、メロディーがとても綺麗な第2節だけが単独に歌われる場合がひじょうに多いです。2節目はとても短い歌詞ですので、ほんの3〜4分という長さの曲ですが、文字通り「心に滲みる」ような綺麗な曲です。歌詞の内容は、「自然賛美」というよりは、もうほとんど「愛の告白」に近いと言えるような感じを受けます。歌詞なしで、例えばチェロの独奏という形で演奏される場合もあります。

やさしくて美しい葉
私が愛する素朴な木に映える葉
運命があなたに微笑みかけますように
雷、稲光や嵐があなたの大切な平安を決してかき乱すことがないように
吹きつける風であなたの神聖さが汚されないように祈ります

かつてこのような木陰を見たことがありません
ほかのどんな木にもありません
これほど愛らしく、やさしく
心地よい木陰はどこにもありません
(拙訳)

米国生まれですがケンブリッジ大学で音楽を専攻したカウンター・テナーのクリストファー・ローリーによる歌唱です
私の大好きなチェロ奏者ステファン・ハウザーによる演奏です(なぜか聴いているだけで涙が出てきます)

2)「可愛い鳥」L'Allegro, il Penseroso ed il Moderato快活、思慮深く穏健な人」から)
  ヘンデルは、有名なイギリスの詩人、ジョン・ミルトンによる二つの別々の詩L’Allegro(快活な人)とil Penseroso「沈思の人」を、音楽にも造詣の深い知識人でヘンデルを尊敬していたジェームズ・ハリスに、対照的になるように組み合わせてもらい、その編詩を使って作曲しました。その中の一曲がこの「可愛い鳥」です。イギリスの牧歌的な田舎でナイチンゲールが可愛い声で鳴いている様子が、バロック・フリュートとソプラノの歌でひじょうに美しく表現されています。
  バロック・フリュート演奏は日本生まれの英国人で、ジュリアード音楽院を卒業したエミー・ファーガソン。彼女は、フリュートを学びながらコロンビア大学で疫学を学んだというユニークな背景をもった女性です。ソプラノ歌詞はニューヨーク生まれのアマンダ・フォイスター。彼女も、もともとは海洋生物学を専攻していましたが、途中から声楽専攻に変更したという変わった背景の女性です。

3)「ナイチンゲールNightingale
  この曲はギリシャ生まれのニュー・エイジ・ソング作曲家でピアニストのヤニー(本名Yiannis Chryssomallis)の作曲による、中国スタイルのナイチンゲールです。彼は、幼少の頃から音楽的才能を発揮しましたが、水泳も得意で、14歳の時に50メートル自由形でギリシャ国内記録を作りました。大学は米国ミネソタ大学で心理学を専攻。卒業後、音楽家として活動しはじめ、1980年代末から1990年代初めにかけて世界的に大ブレーク。その後これまで30カ国以上、世界各地で演奏会を開いてきました。今年は「海」をテーマにした「Into the Deep Blue (紺碧の海深く)」というアルバムを出しました。
  フリュート奏者はベネゼラ生まれのペデロ・ウスタッシ。世界様々な地域の民族の伝統的な笛を吹くすばらしい才能の奏者です。

4)「古伝籠(鶴の籠)
最後は尺八の古典本曲の一つで、親鶴の子鶴に対する深い愛情を鶴の様々な鳴き声で表現した名曲です。奏者は、昨年末にもこのブログで紹介しました、日本では数少ない女性のプロの尺八奏者で、京都在住の寄田真見乃さん。滋賀県のひじょうに美しくて静かな森の中に建てられた、ミホ美術館で演奏されたものです。



2019年11月24日日曜日

ドイツ旅行記(2019年11月)


ケルンのケーテ・コルヴィッツ美術館と聖アントニー教会を訪ねて

  10月31日から11月2日まで、ドイツのハンブルグで、私もメンバーになっている「武力紛争時における性暴力」研究プロジェクト・チームの出版記念会と研究会が開かれ、出席しました。私は、この研究プロジェクト・チームの研究会に出席するたびに、その機会を利用して、毎回、ドイツ国内の違った場所を妻と一緒に訪れるようにしてきました。今回は、11月4日から6日までの3日間をケルンで、7日から9日までの3日間をデュセルドルフで過ごしました。
  ケルンには以前からどうしても行ってみたいと思っていた理由がありました。それは、ケルンにはケーテ・コルヴィッツ美術館と、彼女の友人であった彫刻家エルンスト・バルラハの代表的な作品「空中に浮かぶ天使」が展示されている、聖アントニー教会があるからです。

繁華街の真ん中にあるケーテ・コルビッツ美術館

  ケルンのケーテ・コルヴィッツ美術館に収蔵されているケーテの作品の数は、ベルリンのケーテ・コルヴィッツ美術館よりはるかに多いということを、2015年7月にケーテのひ孫であるヤン・コルビッツを訪ねた折に、彼から聞いていました。ヤンはドイツ北部のシーズマーという小さな町に窯場を持つ、越前焼の陶芸家です(ヤン・コルビッツについては2015年7月16日のブログ記事を参照してください)。
  ケルンのケーテ・コルヴィッツ美術館は1985年に設置されたとのことですが、戦後長年経った1985年という時期に設置された美術館がなぜそれほど多くの作品を所有しているのか、その理由を私は詳しくは知りません。しかし、コルヴィッツ家の遺族たちが持っていた多くの作品がここに寄贈されたようです。ベルリンのコルヴィッツ美術館の場合は、独立した4階建の大きな建物全部が美術館になっているので、ケルンの美術館も同じような建物にちがいないと想像していた私と妻は、住所がケルンで最も繁華な商店街の真ん中になっているため、なかなか見つけられませんでした。それもそのはず、コルヴィッツ美術館は、レストランやお店が入っているショッピング・アーケードの最上階にあるのです。
  最上階の1千平方メートルあるフロワー全部が、展示室や講演のできるホールになっています。 美術館の案内パンフレットによると、ここにはケーテの初期の版画作品から最晩年の版画作品まで、さらには彼女の版画が使われているポスター(その多くが政治的なものです)を網羅的に所蔵しているとのこと。その中には、もちろん有名な「織工の反乱」(1893−97年)、「農民戦争」(1902−08年)、「戦争」(1921−22年)、それに「死」(1934−37年)といったシリーズ作品が含まれていますし、ブロンズの彫刻作品が15点あるそうです。
  また、この美術館では、ケーテと関係のあった芸術家たちの作品を紹介する特別展示をしばしば行っているそうで、私たちが訪れたときには、ワイマール時代の1910〜20年代のオットー・ディックス、ゲオルゲ・グロッスといった芸術家たちの痛烈な社会批評を込めた絵画の特別展「ベルリン市民のレアリズム」をやっていました。ナチが台頭する前の、ドイツの自由な雰囲気と芸術家たちの旺盛な批判精神が溌剌と表現されている展示会でした。
 
ブロンズ彫刻「ピエタ」についての私の考えは浅薄だった!

  展示されているケーテの多くの版画作品の中に、ベルリンのコルビィッツ美術館では見かけなかったような、これまで私が観たことがなかった作品が幾つかあることに気がつきました。数時間かけてじっくり多くの作品を鑑賞して、いろいろと考えさせられることがありましたが、そのことをゆっくり書いている時間的な余裕がいまはありません。そこで、今回は一つだけ、これまでの私のケーテ・コルビィッツの作品理解が極めて浅薄であったことを思い知らされた、そのことを説明しておきたいと思います。
  それは、彼女の晩年の彫刻作品「ピエタ」についてです。このブロンズ彫刻「ピエタ」のオリジナルがケルンのコルビィッツ美術館には展示されています。第1次世界大戦で戦死したケーテの次男ペーターを追悼するこの作品については、私は、今年5月に出版した拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』(三一書房)の323−25ページで、以下のように書きました。

  1914年に第1次世界大戦が勃発するや、息子のハンツとペーターが兵士志願。しかし次男のペーターは志願資格の21歳に達していなかったため、親の承諾が必要であった。コルヴィッツの夫は反対したが彼女が強く後押したため、夫も息子の志願に賛成するようになり、ペーターは入隊。ところが同年10月にペーターが戦死してしまう。この息子の戦死がコルヴィッツの思想を大転換させ、その後、彼女は徹底した反戦平和主義者、社会主義者となった。戦争で子どもを失う母親の深い心の痛みを抉り出すような感動的な版画(とくにシリーズ「戦争」)や彫刻を次々と制作し、第1次大戦後、反戦芸術家として高い評価を受けるようになった。………
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  コルヴィッツの作品「ピエタ」は、死んだ息子の死骸を母親が両足に挟み込んで、しっかり抱え込み、死んでも子どもを守りたいという悲哀、あるいは子どもを守りきれなかったという母の深い悲しみを強烈に表現したものである。「ピエタ(死んだキリストとマリア)」というタイトルがつけられているものの、ミケランジェロの「ピエタ」のような宗教性がほとんど感じられず、死者の「救済」といったメッセージは全く伝わってこない。伝わってくるのは「無惨な殺戮に対する母親の深い心的打撃」のみである。「ノイエ・ヴァッツヘ」と呼ばれる、元々は「(第1次)世界大戦戦没者慰霊館」(東ドイツ下で1960年以降は「ファシズムと軍国主義の犠牲者慰霊館」となる)が、1993年にドイツ連邦共和国中央慰霊館(通称「戦争と暴力支配の犠牲者に対する記憶と追悼の場」)となり、戦後は忘れ去られていた(オリジナルは小型の)コルヴィッツの彫刻「ピエタ」を拡大して、この慰霊館の中央に設置。

    私のこの文章では、ケーテがほとんどなんの迷いもなく次男の出征を後押しし、その次男が戦死したことで、すぐさま反戦平和主義者に思想転換したというような解説になっています。また、次男の死を追悼するブロンズ彫刻が「母の深い悲しみを強烈に表現したもの」としてしか理解されていません。
  ところが、今回、ベルリンの「ノイエ・ヴァッツヘ」の中心に置かれている大型の「ピエタ」ではなく、小型のオリジナル版を初めてケルンで真直に眼にし、じっくりとそれを観ることで、「どうも自分の理解は間違っているのでは……」と思うようになりました。というのは、このオリジナル「ピエタ」の母親の左手は確かに死んだ息子の身体を抱かえ込むような形になっていますが、右手は自分の唇と顎の間に置かれており、なにかを深く考えこんでいるような(ロダンの有名な彫刻「考える人」の手の置き方に少々似ている)形になっています。息子の死を前にただ悲しみに打ちのめされているだけならば、両手で息子の身体を強く抱きしめているはずでしょう。

ケーテ・コルヴィッツ作「ピエタ」
 


つまり、この母親は、息子の死を悼みながらも、「なぜ私は息子の出征を許してしまったのか、なぜ戦地に送ることに同意してしまったのか」と深く自問しているのだ、ということに気がつきました。ミケランジェロの「ピエタ」のような宗教性がほとんど感じられないのは、単なる悲しみの表現方法の違いからではなく、「息子を戦地に送って死に追いやってしまった自分の責任」、「母親の人間としての責任」を自問自答しているからではないでしょうか。なぜこんな重要なことに気がつかなかったのかと、正直なところ、私は恥ずかしくなりました。
  遅まきながらこのことに気がついた私は、ケーテがペーターの出征を「後押しした」その精神的な状況もそんなに単純なものではなかったのではないか、そのことをもっと知りたいと思いました。そこで、この点について詳しく書いたものがないか、ケルンのコルビィッツ美術館の学芸員の女性に尋ねてみたところ、アネッテ・ゼーラー(Annette Seeler)というベルリン在住の美術史の専門家が執筆した論考が英語に訳されているので、それを読んでみてはと勧められました。その論考は「もう死者はうんざり、もう誰も亡くなるべきではない:ケーテ・コルビィッツと第1次世界大戦」というタイトルの短いものですが、ペーターの死後、時を経るとともに、ケーテの微妙な心情変化が彼女の作品製作のアイデアの変化にどのように表れてきたかを簡潔に解説しているものです。
  この論考を読んで分かったことは、ケーテがペーターの出征を「後押しした」のは、戦争というものを彼女は憎悪していたにもかかわらず、愛する息子と精神的に常に一体でありたいという強い願望から、ペーターの希望に反対することに躊躇してしまい、最終的にはペーターの出征希望を受け入れてしまったこと。しかも当時のドイツ社会がひじょうに強い愛国的なムードで覆われてしまっており、ケーテもまた国家への忠誠が名誉なことであるという考えを他の多くの国民と共有していたのでした。
  したがって、ペーターの死の直後にケーテが製作しようと考えていた追悼碑もまた、ペーターの死が名誉なものであることを表明するような作品にすることを考えていたことが、作品案のスケッチから理解できるのです。アネッテ・ゼーラーのこの解説から私が想像することは、ケーテにとっても、息子を戦争で亡くした多くの両親と同様に、自分の息子の「死」にはなんらかの「価値」があった、つまり決して「無駄死に」ではなかったと思いたいという強い願望があったということです。誰とても、自分の親族の死を「犬死」などとは思いたくありません。しかし、戦争での「死」はそのほとんどがなんの価値もない「犬死」であるというのが残酷な現実で、しかし、その現実をなかなか人は心情的に受け入れられないとことが問題なのです。それを受け入れられないからこそ、国家権力によって常に悪用される「名誉の死」という神話のほうが容易に受け入れられてしまうという状況が、戦争が起きるたびに繰り返されるわけですそして、そのような弔い方が、過去の戦争だけではなく将来の戦争をも正当化するわけです。
  ところがケーテは、息子の死のほぼ2年後の1916年の8月の段階で、日記に「戦争はもう2年も続いており5百万人という数の若者が亡くなったし、以前よりもっともっと多くの人間が悲惨で困窮した状態に落ち込んでいる。こんな状況を正当化する理由などあるのだろうか?」と自問しています。その数週間後の日記では、「私は戦争に狂気しか見出せないが、こんなことを言うのは、ペーター、お前に対する不忠なのであろうか?」と書いています。つまり、彼女がここで言いたかったことは、「ペーター、申し訳ないが、お前の死に、もはや母である私はなんの価値も見出せないよ」と言っているのです。すなわち、ペーターの死が「犬死」であったことを彼女は認め始めているのですが、それと同時に、息子を「犬死」させた自分の責任を深く感じはじめていたことは、その後の彼女の追悼碑の製作案が変化し続け、最終的には1932年に「悲しみに打ちひしがれる両親」と題された彫刻に結実したことに表れています。残念ながら、その変化の具体的な詳細をここで書いている時間的な余裕が今ありませんが、いつか機会があれば紹介したいと思います。
  アネッテ・ゼーラーの論考は、「ピエタ」については全く触れていませんが、彼女のこの論考を読んでみて、私自身の「ピエタ」についての再考が間違っていないはずだという確信を得るようになりました。1937−39年の間に作られたオリジナルの「ピエタ」は、もう一度書きますが、息子を犬死に追いやった母が、悲しみながら自分の責任を自問しているものなのです。それを拡大したものが、現在、ベルリンの中心地にある 「ノイエ・ヴァッツヘ」という慰霊館に設置されているのです。ここには、戦地で亡くなった多くの若者を「英霊」として祀りあげることで、「犬死」したという事実を隠蔽している靖国神社、息子を亡くした両親や夫を亡くした妻の悲哀と多くの若者を死に追いやった責任を全く無視した靖国神社との対照的な違いが明らかに出ています。ドイツと日本のこの決定的な違いを、私たちはどう考えるべきなのでしょうか。

「表現の自由」を装った「表現の不自由」?!

  話は変わりますが、ケーテの「戦争」シリーズの版画作品の中で、今回私が初めて観た作品の一つに、1922年制作の「戦争未亡人II」というものがあります。死んだ赤子を胸に抱きながら、その母も死んでいるという悲惨な状態を描いた作品です。この版画を観たとき、すぐに、四國五郎の絵画「黒い雨」が私の頭には浮かんできました。四國はケーテのこの「戦争未亡人II」に心を動かされて「黒い雨」を構想したのではなかろうか、というのが私の想像です。「黒い雨」の場合は、生き残った子供が母の屍体を前に茫然としている状態であることから、私にはケーテの作品よりさらに悲哀に満ちたものに感じられます。その意味で、四國はケーテの作品のモチーフを用いながらも、「戦争の悲惨さ」をさらに強烈に表現することに成功していると私には思えます。

 
ケーテ・コルヴィッツ作「戦争未亡人 II」
 
四國五郎作「黒い雨」

 この数年で、四國の作品は急速に日本全国で知られるようになりました。各地で四國作品の展覧会が開かれ、来年は一年を通して広島の国立原爆死者追悼平和祈念館で四國の特別展が開かれるとのこと。それはそれでとてもよいことだと私も思います。しかし、その一方で、四國の原爆関係の作品のみを展示することで、広島を「戦争の被害地」としてのみ強調し、戦争を引き起こし多くの日本人を「犬死」させただけではなく、数千万にのぼるアジアの人たちを殺傷した日本国家と私たち日本人の責任を今以上に忘却させることに政治的に利用されないように、私たちが十分に気をつけ努力する必要があると私は思っています。その意味でも、上に述べたケーテの「ピエタ」の意味をもう一度熟考すべきだと私は考えます。
  他にも、例えば、広島市は、広島市の被爆者に対する長年の差別的な行政措置に対して写真集『ピカドン』で痛烈な批判をしていた福島菊次郎の傑出した作品被爆者である中村杉末に焦点をあてた写真 を、行政批判という意味をすっぽり抜きとった上で、最近改装した広島平和記念資料館(いわゆる「原爆資料館」)に展示しています。『ヒロシマの嘘』という本でも広島の戦争加害責任無視を痛烈に批判した福島菊次郎が、今も生きており、原爆資料館に展示されている自分の作品を眼にしたとしたら、どのように思われることでしょうか。
  「表現の不自由」ということがいま盛んに問題にされていますが、福島菊次郎のこの作品の展示を考えてみると、「表現の自由」を一見尊重しているように見えながら、実は、作者の本来の意図を全く削いでしまったやり方で展示するという欺瞞が堂々と行われているのです。それは、「表現の自由」を装った「表現の不自由」と称すべきものではないでしょうか。

聖アントニー教会の「空中に浮かぶ天使」

  ケーテ・コルヴィッツ美術館から徒歩で数分というとても近い場所に、小さなプロテスタントの聖アントニー教会があります。ケルンは、立派なケルン大聖堂があることからもわかりますように、カソリック信者が多い街ですので、プロテスタント教会は少ないようです(ケルン大聖堂は第2次対戦中に連合軍によるたび重なる空爆でかなり破損しましたが、戦後、長年かけて修復工事を行い、1956年に見事に修復完了。お昼頃行くと、30分ほど荘厳なオルガン演奏が聴けます)。
  ゴシック様式のこの教会の歴史は古く、14世紀半ばに建築が始まっていますが、1805年になってプロテスタントに移籍されたとのこと。「空中に浮かぶ天使」の歴史的な背景についても、拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』の第5章で説明しておきましたように、このユニークな彫刻は、ケーテと親しかった彫刻家エルンスト・バルラハが、ケーテの息子ペーターの死を悼んで、制作したものです。もともと、この彫刻はバルラハが住んでいたドイツ北部の小さな町グーストロウの教会に設置されました。天使の顔は、明らかにケーテの顔で、天使としてはとても哀しい顔に作られています。バルラハは、天使の顔として、コルヴィッツに代表される「子どもを戦争で失った多くの母の悲しみ」をシンボリックに表現したのでした。
  1937年8月、ナチスの命令により、この彫刻は教会の天井から取り外され、兵器製造利用のために溶解されてしまいました。しかし、その2年後の1938年10月のバルラハの死後、彼の友人や支持者が協力して、ベルリンの製錬所に保管されていた彫刻制作のための粘土の型から、もう一つ同じ彫刻を密かに作り、北ドイツのある小さな村に隠しておきました。戦後の1951年に、この彫刻はケルンのこの聖アントニー教会に設置され、彫刻の下に置かれた石には「1914-1918」、「1939-1945」という数字、すなわち第1次、第2次の両世界大戦の期間を示す数字が刻まれました。戦後の冷戦による東西ドイツの政治的摩擦にもかかわらず、1953年には「空中に浮かぶ天使」の3つ目の彫刻が作られ、当時は東ドイツ側にあったグーストロウに西ドイツからその彫刻が送られ、元々彫刻が置かれていた教会に再び設置されました。(グーストロウのエルンスト・バルラハ美術館への私の訪問記については、2015年7月16日のブログ記事を参照してください。)

 
エルンスト・バルラハ作「空中に浮かぶ天使」

  グーストロウの教会で初めて眼にした「空中に浮かぶ天使」を再びケルンで見たときには、グーストロウで初めて見たときの感動がまざまざと蘇ってきました。私たちが訪れたときは、誰も他には訪問者が教会にはおらず、管理人のおじさんも暇だったのか、バルラハの彫刻に私が興味があると分かるや、いろいろと親切に説明してくれ、「空中に浮かぶ天使」だけではなく、他にも2つの作品があることを教えてくれました。
  一つは、バルラハが第1次世界大戦直後に制作した「キリスト十字架刑の像」で、これは戦死した多くの兵隊たちを悼むためにバルラハが同じものを多数作って、多くの教会に寄贈したものであるとのこと。この教会に飾られているものは、そのうちの一つを所有していたある個人から、最近になって寄贈されたものだそうです。また、教会堂を入ってすぐ右側には「説教するキリスト」と題された、人間味のある、ほのぼのとした雰囲気が出ている、典型的なバルラハの作品スタイルと思われる木像彫刻が置かれています。「キリスト」というよりは、「好好爺」といった雰囲気の人物です。これも、最近、オークションで教会が入手したものとのことです。バルラハの作品を3つも所有している教会はドイツでもめずらしいのではないかと思いますが、訪問者が少ないところをみると、よく知られていないように思われます。
 
バルルラハ作「キリスト十字架刑の像」

 
バルラハ作「説教するキリスト」 
もしもケルンに行かれる機会がおありでしたら、ケーテ・コルヴィッツ美術館だけではなく、聖アントニー教会にまで足をのばされることを強くお勧めします。毎月1回、バッハのカンタータの中からの数曲を含む教会音楽会が開かれているそうですから、前もって調べて行かれるとよいでしょう。

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