2024年7月17日水曜日

中国山西省における日本軍性暴力 ~ 大娘たちの戦争は終わらない

上映とトーク  

大娘(ダーニャン)たちが裁判で闘ったもの・私たちが今向き合うもの

講師:石田 米子(山西省・明らかにする会共同代表、岡山大学名誉教授)

日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワーク結成12周年記念集会

  以下は2024420日に広島で開かれた石田米子さんによる講演録です。ご本人のお許しを得てここに全文を紹介させていただきます。この講演に先立ち、ドキュメンタリー映画『万愛花 闘いこそが人生だった』(池田恵理子制作、2022/29分)が上映されました。

石田さんの長年にわたる中国山西省での日本軍性暴力の被害者の方たちへの、顔を合わせての直接の聞き取り調査 ― その聞き取り調査を通して被害者側から強い信頼をえることが、事実を解明していくうえでいかに重要であるかが、ひじょうによく分かります。史料だけからでは決してえられない軍性暴力の残虐性と非人道性の生々しさが、ドキュメンタリー映画を観て講演を聴くことで、私たちの心に深く突き刺さってきます。

同時に、聞き取り調査を長年にわたって地道に繰り返すことで、石田さんご自身が被害者の方たちが受けた肉体的、精神的打撃をいかに深く理解されるようになっていったか、その経緯についても私たちは教えられます。ここには、加害者側が被害者の痛みを真に自己のものとして内面化することを通して被害者から信頼と赦しをえることで、はじめて深みのある和解が得られることの具体的な一例を知ることができます。とても貴重な映像・講演録だと思います。

(田中利幸 記)

 

 

はじめに

 


こんにちは。ご紹介いただいた石田米子です。 今、池田恵理子さんが制作された『万愛花 闘いこそが人生だった』上映を一緒に見ての私の話になりますけども、さっき岡原美知子(日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワーク事務局長)さんがご紹介してくださいましたように、池田さんのビデオの中で「私たちは」と語られるのは、説明でもありますように「山西省・明らかにする会」のことです。今まで25年あまりこの会の名前で、敗訴後少し変えましたけども、略称はずっとこの会の名前で活動してきました。この会が、会員でもある池田さんの現地での撮影にいつも同行して協力し、制作にあたっては何度も議論を重ねながらこの作品ができたわけですが、何度見ても私はそのたびに心を打たれるいい作品だと思います。この作品は、万さんが1992年に東京の国際公聴会で初めて世界に向かって自らの被害を訴えられた、あの時からちょうど30周年にあたる2022年に、池田さんが撮られた膨大な映像から制作された渾身の作品です。この作品の中に出てくる万愛花さんの迫力を改めて目の前にして、さて私が何をトークできるのかと改めて思ってしまうのですが、今考えること、自分が今できることをお話ししていきたいと思います。

 

それから今日この集会のために作って下さった素晴らしいチラシ、本当によく編集されていて、特に裏面などは資料的にも内容があり、とてもよく編集されたきれいなチラシだとすごく感心しました。この中で、既に集会の趣旨、万愛花さんの生涯、万愛花さんの被害と闘いについて、非常にコンパクトにまとめてくださっていると思います。このチラシの裏の下の方に、私のメッセージのようなものを入れて下さいましたが、このすぐ上に広島での万愛花さんたちの写真が入っているんですね。しばらくこの写真の存在を忘れていたのですけれども、少し前に岡原さんが私にこういうのがありますよと送ってくださったものです。98年ですから今から26年前の写真です。

 

この時が私がダーニャンたちと広島に一緒に来た最初で、たぶんこれが最後になったかと思うのです。あの98117日の集会で、3人の~お二人はダーニャン、お一人はダーニャンの娘さんで亡くなられた南二僕さんの娘さんで楊秀蓮さんですけど~その3人がそれぞれ、自分たちの被害、自分のお母さんの被害を語られて、裁判を闘うという意思を表明された。この数日前1030日に東京地裁で提訴され、そのすぐ後に名古屋、岡山を経て広島に来られたのですね。私もこのチラシのメッセージの中に、「多くの日本人の前で被害を語ることに大きな緊張がある中で真剣に証言を受け止める日本の市民の存在を実感し、それを闘いにしていくダーニャンの姿があった」と書きましたけど、本当にその通りでした。私もダーニャンたちからお話を聞くのに最初はガチガチでしたけども、日本に来られるダーニャンたちも日本人の前で話すということは非常な緊張だったわけですね。日本人がどういう風に捉えるのか、とりわけ日本人の面識のない男性は彼女たちを非常に緊張させる存在で、準備する方では前の方に男の人が座らないようにとそんなことまで考えたりしたくらいでした。でも男性も女性も問わず、そこに来た市民たちが、本当に真剣に自分たちの話に耳を傾けて一緒に闘おうとしている、そういう姿を見て、だんだんダーニャンたちも日本に来て変わっていかれたのですね。こういう証言の集会に出ることで、聞いている日本人市民からそういう反応を受け取りながらそれを力にしていかれたことを、私は証言集会に参加するたびに思っていました。広島に私がダーニャンたちと一緒に来てお話ししていただいた時にいろいろ準備してくださって、夜の交流会などもやってくださった方のお顔が、今ここで見られるのは嬉しい気がいたします。

 

1998.11.7. 広島での裁判提訴報告と証言の集会で語る趙潤梅さん、通訳、万愛花さん、楊秀蓮さん(左から)提供:石田米子



 

その時に、このチラシの写真に入っていないのですが、3人の原告の方の他に山西省政府外事弁公室の何清さんと盂県の農民で万さんの義理の親戚にあたる李貴明さん~彼は農民で、農村で初級中学校しか出ていなく、お父さんを早くに亡くされたので、4人の弟を全部養い、高級中学校まで行かせたという、そういうものすごい働き者の李貴明さんという方が一緒に来られました。この広島に来た時は、随行していた日本人は私1人だったかと思います。この写真で万さんの横に立っている彼女は、岡山大学大学院に来ていた留学生の方で、この方が非常に正確な通訳をして下さいました。ちょっと余談になりますけど、会場に来る時に、途中で車を降りて原爆ドームを一緒に見たんです。中国のみなさんの反応というのは、広島のイメージというのをあらかじめ持っておられない。万さんがドームを見て「あそこだけが 爆撃されたのか」と聞かれた。それで迎えにこられた広島の方が説明してくださったのですが、一般的に中国人が「広島」という問題に直面した時に、同時にいつも彼ら彼女たちが思うのが「南京」なんですね。その思いというのは非常に複雑で、あまり多くを語ろうとされない。それで何清さんと万さんが2人で「戦争してはいけない。平和でなければいけない」とまとめるべきまとめ方をされたのが記憶に残っています。

 

楊秀蓮さん 趙潤梅さん 万愛花さん 李貴明さん 何清さん 石田米子さん(左から)1998.11.7 広島


さて、今日の話ですが、私は話がどんどんあちこちにとっちらかって、何を喋ろうとしていたかに戻るのが大変な年齢にもうなってしまいました。今日の話は、万さんを中心にしてダーニャンたちが日本政府を相手に賠償請求裁判を闘った意味を、今もう一度 深く考えるということを中心にしたいと思います。

 

万さんやダーニャンたちが闘った裁判というのは、今から20年も前のことです。解決されていないからつい最近のことと思えるのですけれど、提訴から約30年、敗訴確定から約20年近く経ってしまったのです。裁判そのものについては、さっきの池田さんのビデオの中にもあったように、日本で闘われた日本軍慰安所の被害者、日本軍性暴力被害者の裁判というのは全部で10件あったのですが、それら全て敗訴しました。10件の裁判を支援してきた運動体はそれぞれにあって、お互いに協力しあってきました。私自身が関わった裁判は、さっきのビデオ『万愛花』に提訴の場面が出てきましたが、万愛花さんをはじめとする10人が原告となった「山西省性暴力被害者損害賠償請求訴訟」という正式名称の裁判です。10件の裁判の名称では、「従軍慰安婦」「慰安婦」「性暴力被害者」と被害女性の呼称はいろいろですが、さっきのビデオにもありましたように、私たちは、「慰安婦」という言葉は裁判でも使っていません。それは何より万愛花さんはじめ原告のみなさんが「慰安婦」と呼称されることを拒否されたからであり、もともとその呼称が日本軍の側からする侮辱的な意味を持つものであり、また万さんたちの被害は日本軍慰安所における性暴力被害と実態として異なるからです。

 

万さんたちの裁判には、私は責任を持って会のみんなと関わったと思っていますが、他の裁判の事は私はお話しできるようなことも具体的にはしていません。だから 私が今日お話しすることは、この「山西省性暴力被害者訴訟」の10人の原告との向き合い方という、そこに限定されると思います。それから、10人の原告は、ひとからげに語られるものではなかなかなく、それぞれの被害があり、それぞれの人生があります。でも、今日は、10人の方のことを全部お話しすることはできないので、主として万さんのことを中心にお話しします。

 

私と万愛花(ワン・アイホア)さんとの出会い

 

万愛花さん~ワン・アイホアと中国音では読みます。中国人と日本人の関係では、母国の音のままで呼び合うということがなかなか習慣としてありません。私も今日はみなさんについて漢字日本読みにさせていただきます。

 

私は、実は、万愛花さんとは岡山で初めて会いました。92年の東京での国際公聴会のあの万さんの衝撃的な証言から4年近くたって、初めてお会いしています。岡山で1996年の821日、これが初めて直接に対面してお会いした日です。お会いした日の夜に、万さんが性暴力被害にあった村に行くことを決めたのです。その時万愛花さんは満66歳で、私は61歳でした。万さんも若かったと思います。岡山で万さんに私自身最初に会った時の印象はものすごく強烈でした。一緒に来られた方は、ビデオ作品に何度も出ていらっしゃった、広島にも来られた山西省政府外事弁公室の何清さんです。何清さんは、とてもいい方なんですが、見たところ「お役人」という雰囲気を持っている方ですよね。何清さんだけを伴って、万さんと二人で来られたのです。

 

岡山県華僑華人総会主催のその時の証言集会会場というのは、今日のこの部屋よりもっと広くて、証言を聞きに来ている人はこの人数よりももっと少ない、そういう状況の中で万さんは最初に証言されました。広い会場の中で、壇上で証言しようとされる万さんは、ものすごく体が小さく、背が低く、年齢よりお年をとって見えました。自分は日本軍の暴力を受けて体のあちこちが骨折し、こんなに小さくなったとその時も言われましたが、万さんが被害に遭った村に行って村の人のお話を聞くと、「万さんはすごく背が高くて綺麗な人だった」と言われるんです。私たちが会った万さんというのは、本当に腰が短くなって背中も曲がって、小さくなっておられたのです。岡山でも壇上で全力を振り絞って語り始められたのですけど、途中で苦しくなってこれ以上話せないと言われて、その後はずっとその間通訳として随行されていた東京の中国人留学生の女の方が、万さんが語ろうとした被害の内容を代わって話されたのです。

 

14歳(数え年)というと、日本の中学生ですよね。14歳というまだ幼い時に、考えつくあらゆる暴力によって 、拷問され輪かんもされ、最後は死んだと思って真冬の河に裸で捨てられたというその暴力的なすさまじい被害は、慰安所で被害に遭われた方々の被害とまた性格の違う被害だということをその時に私は感じました。それまで「慰安婦」問題として読んだり、勉強したり、慰安所被害者の方の証言を聞いたりしたことで日本軍が行った性暴力や、南京マスレイプとも異なる万愛花さんの被害実態を、目の前にいる万さんから感じ取りました。

 

私はそれまで、直接岡山にお招きしたり、自分が韓国に出向いてお話をお聞きするハルモニたちが、主として女性の支援者たちに支えられて被害を証言し、被害者同士が連帯し、加害者を告発しようとされている姿に触れる機会がありましたが、同じ日本軍性暴力被害者と言っても、目の前に立って証言されようとしている万愛花さんは、何を以って、何に依拠して私たちの前に立とうとされているのかということの、万さん独特の強烈な「誇り」がありました。それは何か。万さんは「自分は日本軍に捕まって、村の抗日分子、共産党員の名前を言えと散々拷問を受けて、そして強かんもされ、気を失って最後は河に捨てられた。そういう被害を受けても決して一人の仲間も裏切らなかった。もし一人でも自分が仲間を裏切っていたら、私はこうして皆さんの前に立っていることもできなかっただろう」と言われた。 凛として、自分は抗日を貫いて闘ってきた、そのことによって被害にあったのだということを訴えられているのです。そして、自分の被害と闘いは、国家と党(中国共産党)によって認められているのだということも。国家と党、自らの一貫した抗日を拠り所に、万愛花さんはやっと私たちの前に一人で立って自らが受けた性暴力の被害を証言しようとしていました。

 

何清さんが傍らで非常に心配そうに万さんの発言やみんなに訴えることを見ておられるのですが、彼女の周りに女性とか市民のグループがいる、支えている人がいる、そういう情景が全然思い浮かばなかった。韓国から来られる方、フィリピンから来られる方、皆さん性暴力被害にあった方たちは、現地の支援者がおられて、そしてその現地の支援者と協力する日本の支援者がいて、日本に来られて証言され闘っておられるのに対して、万さんにはそれが感じられない。「万さんは一体、今、中国でどういう生活をしていて、こういう彼女を周囲の人たちはどういうふうに見ているのか。どう支えているのだろうか。知りたい、知らなければならない」。そういうことを思ったので、その日のうちに現地に行くということになったわけです。誘って下さったのは、その日、万さんを岡山に連れて来て下さった神戸の華僑(旅日華僑中日交流促進会代表)の林伯耀さんでした。

いま話してきたように、万さんの被害のことを、私は目の前で初めて万さんの姿を見ながら耳にしたわけなんですけど、その万さんが語っている14歳の時の被害というのは、その時からもう既に50年も前のことですね。その50年間、万さんがどういうふうに生活して来られたのかということは、ビデオ『万愛花』にありましたけれど、初めて万さんにお会いした時、その50年間の生活というものは、私の中では全然、想像もできていないことだったのです。万さんが14歳の時に被害を受けて、今64歳になって、小さなおばあさんとなって立っておられる。私は万さんと5つしか歳は違わないので、ほぼ同時代を日本と中国で離れているとしても、その50年間、同じ時代を少し離れた空間ではあっても同じ空間に生きてきたという、そのことを考える。とりわけ私が年を取るにつれて、万さんがあの苦しかった時代、そして闘った時代、自分は何をしてきたかという、そのことがいよいよ重なって見えてくるのです。いろんなことを思うわけです。そもそも、国際公聴会からもう4年以上経っているのに、私は万さんを岡山に呼ぼうとか考えてなかった。私は中国の近現代史が専門で、それで大学で教師をやっていて、学生には中国近現代史の話をたくさんしている。抗日の話もするし、日本軍性暴力の話とか、日本軍慰安所の問題も取り上げて来たのに、テレビや報道で、書籍やミニコミで万さんのことを知りながら、彼女のところに飛んで行こうとか、万さんを岡山に呼ぼうとか思っては来なかった。

そもそも私が中国近現代史を専門にやろうなどと思ったのはなぜかっていうことですが、私は生まれた時既に日中戦争、中国への日本の侵略戦争が始まっていた。1935年に生まれていますから、子どもの時はもうどっぷり「大東亜共栄圏」のベースの日本に自分がいるという、そういうアジア観、中国観、中国人観そういうものに、物心ついた頃から浸かって育っているのです。母が中国好きで中国文化を尊敬していたということが少し私の中に何かを残したかもしれません。でも学校で教わったり本で読んだりすることで作られたイメージというのは、完全に大東亜共栄圏の中の日本と中国でした。私は当時、東京にいましたけども、絶対に敗けるはずのない日本の東京にいて、空襲が始まったのは小学校、当時の国民学校の1年の終わり、すぐ近くに爆弾が落ちた。小学校3年生の秋になった頃からは空襲が非常に激しくなって、すぐ上の姉が先に学童集団疎開した。敗戦を目の前にした年の3月に東京大空襲があり、うちは焼かれなかったのですが大人たちは本当に驚いて、私は集団疎開をし、敗戦も集団疎開先の新潟県で迎えました。戦争について、私は時々この歳だと戦争経験者として話をせよと言われることがあるのですが、私は戦争らしい戦争を体験してない。集団疎開に行ったとか、戦後の一面焼け野原の東京に帰ってきて、その後1、2年はすごいお腹が空いて大変だったとか、そんな話はできますけども、本当の意味で私は戦場のことを知らない。焼夷弾爆撃の猛火の中を逃げまどったこともない。だから人の前で戦争のことを語ることを、できるだけ避けてきました。戦争の体験を語るなんておこがましいという気持ちがありました。私より少し上の世代のような深い挫折も経験していない。

私は小学校高学年から中学校時代を、今度は米軍占領下の焼け跡民主主義というか、戦後民主主義の中で大人になっていった「戦後派」です。 戦後たちまち女性が参政権を得るとか、学校の先生が私の親をつかまえて「あなたのお子さんを女と思って育てたらダメですよ」と言うとか、男女同権の観念とかがどんどん入ってきましたし、そういった変わりゆく日本というのは私にとってはすごく胸躍るものがありました。

一方で東京裁判が始まりました。中学生の頃ですから、 東京裁判の記事を読んですぐわかる年齢ではないですけど、同居していた私の姉のつれあいですとか、近所の大人たちの話してることで東京裁判のことを知り、南京事件という事件があったことを知り、おとながみんな大ショックを受けている。そのショックが間接的に自分に伝わってきたことは覚えています。それから慰安所というものがあったことも、いつからか覚えていませんが知りました。お風呂へ火をくべたりしているとき、同居家族が持ち帰る週刊誌などを燃やすわけですね。読みながら火をくべると、そんなところにも出てきましたし、それから映画などにも慰安所のような情景が出てきましたね。遊郭というもののなんとない知識が私もどこかにあって、それと同じものが戦場にもあったということくらいしか印象に残ってない。心にあんまり残らないまま通り過ぎてしまっていた。

一方で、日本が中国・アジアでやっていたことよりも自分の心を揺さぶったのは、中国やアジア一帯に起こっている変革とか革命の波だった。確か中学2年の時に、人民解放軍が長江を渡ったという新聞記事が第一面に出たのを覚えています。中国革命、近代から現代への植民地・半植民地、侵略されてきた国から生まれ変わっていく中国のことに関心を持ち始め、それがやがて自分の専門になったのです。

中国の変革を研究したいと思って大学に行きましたが、その時には日本の戦争責任の問題をあまり深く考えていなかった。大学では学生同士でよく議論し、やっと日本の朝鮮・中国・アジア侵略のことも学ぶようになりました。そうすると目の前で講義をしているアジア史の先生たち、この人たちはアジアを研究しながら戦争中何を考えていたんだろう、何事もなかったように、戦争中も今もこうやって学生を教えているんじゃないかと、そういう疑いの目を持って先生に向き合い、自分はもっと違う視点から研究をするのだと思い始めていました。でも研究者としての社会的責任という問題に至るにはまだ幼なすぎて、実際は学生運動で走り回っていました。日本の戦争・侵略の傷跡に苦しんでいる人たちのこと、東京裁判では終わっていない日本の戦争責任の問題などを真剣に考え、想像しようと、私はあまり深く自らを問わないまま、能天気に革命・変革をめざすものとの連帯を信じ、集会・デモで自らも歴史を動かす力に、などという日々が続いていました。

少し自分の話は飛ばしますけど、私が岡山に来たのは80年で、70年代80年代というのは、今振り返ればとても大事な時代であったと思います。私が、日本の国家・社会における民族差別とか、アジアの女性への性の侵略・搾取とか、そういう問題についてだんだん目を開くようになったのは、70年代の終わりから80年代に入ってからです。70年代はまだ東京にいました。80 年に岡山に来ました。岡山では岡山大学の教員でしたが、私はできるだけ大学のキャンパスから出ることを心がけました。学生たちと一緒に、あるいは市民の仲間を作りながら、キャンパスの外で、民族差別の問題とか、アジアの女性への性の侵略・搾取といったような問題に向き合おうとしました。日本軍慰安所の問題も、80年代に授業で取り上げ、学生と一緒に元日本軍憲兵の方の聞き取りに行き、加害の側の証言を聞くことの難しさも知りました。

金学順さんと万愛花さんの証言の衝撃~その意味

私にとっては本当に大きな衝撃だったのは、91年の金学順さんのカミングアウト、翌年万愛花さんの国際公聴会での証言です。特に金学順さんについて言えば、日本軍慰安所の被害女性の問題や、朝鮮人女性を慰安所に連行した問題というのは、80年代から既にいくつもの資料集や書籍や雑誌記事が出ていました。 それで学生と一緒に勉強したりしていたのですが、金学順さんがなぜ衝撃だったのかというと、知識で知ることとの違いです。学生よりも少し早くに知識を仕入れて、学生を前にして「あなたたち、知らないかもしれないけど、こういうことがあるんだ」と、慰安所の問題とかを語っていたわけですよね。しかし、金学順さんが自らの被害を証言しているのをテレビの画面で見て、そしてその証言を読んだことは、それまで知識として知ったこととは意味が違いました。同時代にこんな被害を受けて、長い沈黙の末についにその沈黙の壁を打ち破って、そして自らを語り出す。もう既にかなり年も取られている、そのような女性が実在しておられる。金学順さんに続いて、次々と証言者が現れました。

私は、万さんのお話を直接聞く前に、韓国からのハルモニのお話を聞くことが何回かありましたが、やはりいろいろ書かれたものを読むということと、直接目の前にいる方の話を聞くということと、さらに大きな会場で聞くということだけじゃなくて対面、11とか、1対数人で対面でお話をするということは違うと思いました。その方の息遣いや生活が何となくわかる、そういう関係でお話を聞くということは、とても違うことなのです。

金学順さんや万愛花さんの証言のあった90年代という時代を考えてみますと、この時代の世界で起こっていたこと、日本で起こっていたことから見る90年代というのは、すごい時代だった。70年、80年とはまた違う90年代というのは、今に至っても、私にとって人生の一つの転換点になる、そういう時代でした。それはそれ以前からのフェミニズム運動とその視点からのいろいろな問題のとらえ直しが積み重ねられてきた。あるいは、戦後補償裁判が始められていて、その戦後補償という問題について知識が広がり、戦争責任の問題を自らの問題、何もしてこなかった戦後責任の問題として考えるようになった。それから「人権という視点から、戦争というものを考える」ということ。それらが蓄積されてきて、90年代には日本でも国際的にも大きな波になったと思います。日本軍性暴力問題、いわゆる「慰安婦」問題が日本国内でも国際的にも大きな問題となりました。私もそういう中で、岡山の女性たちと一緒に取り組みを始めて、ハルモニたちとの出会いとか、ハルモニを岡山に呼ぶとか、そういう動きができたと思います。ただ、その当時の中国の中で、中国の遠い村で実際に起こっていたことは、私には見えていなかった。さっきのビデオ『万愛花』の中にあった北京女性会議における中国政府の対応とかは、ニュースとして、あるいは行った人の話として私の中に入っていましたが、中国の遠い村の中で、どういうことが、この時代に、世界の動きに呼応しながら起こっていたのかということが、私には全然見えていなかったのです。

ビデオ『万愛花』の中に張双兵さんという農村の小学校の先生が出ておられました。この方が、侯冬娥さんという万さんと同じような被害を受けた女性を見出して、その女性の生活を助けて、聞き取りをしようとしたのが既に80年代でした。同じような被害に遭った女性たちを探し出し、その話を聞くというのを張双兵さんが始められたのは90年代ですが、それは金学順さんの証言が大きなきっかけとなったのです。金学順さんの証言と、世界各地からカミングアウトする女性たちを知った中国の全人代代表の童増さんという方が、「中国にはこういう被害者はいないのか」と呼びかけられた。その呼びかけに応じて、張双兵さんが「自分が知っている」と言って、すぐそこで童増さんと連絡を取られ、さらに聞き取りを周りに広げながらその材料を童増さんに送られたのです。そのことを私はずっと知らず、現地に行くようになって初めて知りました。張双兵さんは、万さんが被害にあった時に住んでおられた羊泉村の小学校の先生だったのですが、小さな山西省盂県のまた小さな山の中の羊泉村という村が、世界に向かって繋がり得る、そのいわば細い糸のようなものが最初にできたのは、童増さんの呼びかけがそこを繋げたのです。それは金学順さんと世界の女性たちの立ち上がりに呼応するものであったわけです。その張双兵さんの呼びかけによって、万さんの義理の親戚である農民の李貴明さんという方が、自分の住んでいる周りにでも同じ被害にあったという人を聞き出し、その人たちの聞き取りを始めた。こうして盂県西部の農村の村々の中で、日本軍性暴力を訴える動きが始まっていたのです。

その訴えを「申訴書」という各々紙1枚に納まるぐらいの長さで、自分はどういう被害にあったか、自分はどの村の誰それであるということを訴えている。女性たちが自分で文字を書けませんから、語ったことを聞き取った人が書いて、誰が聞き取ったかという署名をして、証言した女性は拇印を押し、それを張双兵さんがまとめて童増さんのところに送っている。それを集めて日本大使館に提出しているのです。その提出された「申訴書」は童増さんがwebで公開されています。92年のものと94年のものがありますから、1回ではなくて後から出てきた方の訴えもまた、後から出しているのでしょう。でも、日本政府は、日本大使館は、全く無視したわけです。

私たちが行く前にすでにそういう動きが現地にあったということは、とても大事なことです。その中に万さんの「申訴書」もあります。それは、万愛花の名前ではなくて、「劉林魚」という当時名乗っていた名前で訴えは書かれています。そういう動きがあったのですが、私たちは具体的なことをよく知らないまま現地に行きました。後に日本での裁判の原告になった被害女性の多くがこの「申訴書」を出されています。被害を訴える女性たちは、張双兵さん、李貴明さんという村の方々によって一人ずつ見出されてきたのです。

大森典子さんという弁護士さんが、中国の康健さんという弁護士さんと協力して、私たちより少し前に同じ盂県西部の性暴力被害者6人を原告とする「中国人『慰安婦』損害賠償請求訴訟」を日本で始められています。提訴前の現地聞き取りは康健弁護士がされており、張双兵さんが深くかかわっておられます。日本で私たちが先行裁判と呼んでいるこの裁判は、958月に第一次、962月に第二次が始まっていて、この動きは、私たちがかかわった万愛花さんたち10人の原告に影響はあっただろうと思います。支援グループの、聞きとり調査や現地調査、資料調査や活動のスタイルは違ったと思います。

万愛花さんに出会って、山西省の現地へ

968月、万さんに初めて出会って、私は変わったと思います。最初はともかく1回行こうと思って行ったのですが、1回どころではなくて、それから年に2回、3回行くようになって、2019年の夏だったかを最後に40数回通うということになったわけです。お手元に配った資料の中に、山西省というのは中国のどの位置にあるかとか、その中の盂県はどこにあるかという地図だけをお示ししております。最初に行った時は、私は岡山から一人で行っております。東京から何人か来られるということは聞いていて、東京から来られる方は、強制連行とか花岡の裁判に関わっている方々で、誰が来られるのか全然私知らずに岡山からともかく一人でそのグループに加わろうと思って行ったのです。東京から来られた方達は、裁判を闘うという明確な目標を持って来られたかもしれないのですが、私は裁判を闘うために聞き取りに行くという意識は全然なかったのです。東京から来られるグループが飛行機が遅れ、先に現地に入ったのは、川口和子さんという弁護士さん。当時31歳、若手の弁護士さんで、北京大学に留学中でした。この方との出会いもまた大きくて、川口弁護士とは実によく議論しました。

万愛花さん(満66歳 前左) 故川口和子弁護士(当時32歳 後ろ左)

羊泉村に行く途中で 1996.10.18 撮影:韓燕明


その時最初に村に行ったときの写真が、皆さんのお手元の資料にあります。これが最初に行った時です。まだ日本からは私だけで、通訳さんが2人と川口さんがいただけです。まず万さんが嫁に売られて、その村で抗日の活動をして被害にあった羊泉村に行くことにし、そこに行く途中がこの風景のところです。ビデオ『万愛花』でもこのような黄土台地の村の風景は分かりますが、この風景に驚きました。羊泉村に行って、万さんの結婚した相手の親戚にあたる村の共産党書記さん(つまりは村長さん)の家に行って、日本の侵略を受けた時に日本軍にひどい目にあったおじいちゃんが突然出てきて話をされたりしました。そういうお話を聞いたり村の姿を見た時に、何で日本軍はこんなに何にもない農村に入ってきて、ここに拠点を築いたのか。なぜトーチカを山の上に築いたのか。最初は全然わからなかったです。日中戦争というものについての、私のそれまでの観念がひっくり返ってしまったんですね。日中戦争~中国ではそういう呼称ではなく、抗日戦争と言いますが~というのは日本軍と国民党軍・八路軍が戦って取ったり取られたりする、八路軍ゲリラが夜中に活動するという、そこは知っていたけれど、取ったり取られたりする村で何が起こったのかという実態への想像力がすごく乏しかったと痛感させられていきました。現地に行って聞き取りを重ねてわかったのは、こういう村々の中で、日本軍分遣隊が人数の少ない部隊で圧倒的な武器を持ってトーチカを山上に築き、村の外から連れて来た中国人傀儡部隊のトーチカを麓の村に築き、さらに村の武装集団を手先に使い、日本軍に協力する維持会などの行政機能を持つ組織を作って物資、人力、女性の供出などに当たらせた。一つの分遣隊がこうして支配するのは周囲10数か村、20数か村。日本側から「治安地区」とよばれる支配地区をこうして拡大していく。拡大・維持のための「討伐」、つまり村民虐殺、破壊、放火、略奪、強かん、拉致が繰り返されました。それに対して、抗日のゲリラの活動は常に起こっています。村にずっと住んでいる人達は、どっちかに取ったり取られたりされているわけですね。どっちの顔も持ちながら、村に二重政権をつくりながら、とにかく生き延びていかねばならない。そういう中で起こっている性暴力被害だということが分かりました。資料の中の「ダーニャンたちの被害の背景」という図を見て下さい。

50年」が意味するもの

初めて羊泉村に行った時、この写真でも万さんはすごい険しい顔をしていますが、だんだん羊泉村が近づくにつれて、万さんの顔もきつくなっていきました。その2日後に、拉致されて監禁・拷問・輪かんされた進圭社に行った時のビデオ『万愛花』にあった進圭社のヤオトン前での映像では、あの時も証言しようとして途中で話ができなくなってしまいました。倒れはしなかったけど、万さんはあの村にはいつも行きたくない。一緒に進圭社の村内に行ったの 1回だけです。いつも「バスの中で待っている」と言って降りては来られませんでした。

大娘たちの被害の背景

最初に羊泉村に行った時、帰りに李貴明さんの家で朝から1日私たちを待っていた、王改荷さん、趙存妮さん、尹玉林さんと付き添いの家族の方たちがおられました。夜遅く、そこから一緒に太原まで行きました。最初は私たちが村の中に入って証言を聞けるなどという状況は村になかった。隠れるみたいにして、夜、バスで太原の私たちの宿舎に来ていただいて、その2日後から聞き取りが始まった。聞き取りを始めて、私がボーッとしていた、先にお話ししたような、観念ばかりを追いかけて何も知らず知ろうとせず出会おうとせずにいた「50年」というものがどういうものであったのかを、思い知らされることが起こりました。

万愛花さんが監禁・拷問・輪かんされた進圭社のヤオトン

 
羊泉村 白い壁の小学校(手前) 奥の方にあった池のほとりで万さんは拉致されたが、今は水はない

さっき言いました 3人の方が来てくださって、私は、尹玉林さんの聞きとりを担当することになりました。聞き取りをする女性一人と通訳一人という非常に少ない人数で聞き取りをしようと3グループをつくりました。来られる被害者のダーニャンは、家族を伴って来られます。それは、娘であったり、夫であったり、孫娘であったり、義理の兄。尹玉林さんは、義理の兄と来られました。3人のダーニャンから聞き取りをする前に、私たちが一体何のためにここに来たのかを説明しようと、グループの代表の清井さんという弁護士さんが、みんなが座っている中で立ち上がって話し始められたのです。そうしたら私の隣に座っていた尹玉林さんが急に顔がこわばって、ガタガタガタガタ震えて、その震えが全然止まらなくなった。それで彼女は私の部屋で聞き取りをすることになっていたから、とにかく部屋に帰ろうと言って私の部屋に戻りました。部屋に帰ってもまだ震えていてなかなか止まらない。同行してきたその義理のお兄さん楊時通さんが、「50年ぶりに見た日本の男性が日本語をしゃべったから、急に昔のことを思い出したんだ」と言われたんです。それで、清井さんという弁護士さんなのですが、その日本の男性と彼が話す日本語を聞いて、いっぺんに50年が昨日のこと、今のことになったということに、私は本当にすごい驚きを覚えました。

また話を聞こうとする私のことを信用してくれない。尹玉林さんはちょっと何かしゃべろうとしては、隣のお義兄さんに、「この人はいい人か、この人にしゃべったら言いつけられて仕返しされないか」って聞く。私に日本軍がこんなことをした日本兵がこんなことをしたとか言ったら、私が誰かに言いつけて仕返しされるって怖れているんです。昔彼女が被害にあった頃、そうだったんですね。そう言ってなかなか話が始まらないのですよ。その間、 お白湯を飲んだり、なんとない話をしたりなんかして、お義兄さんに促されて、それでやっと彼女の話が始まったのです。実は、前の晩に、川口さんと質問表を作っていました。何を聞くかって。名前、年齢、住んでいる村、あといくつも項目作って、だいたいこの項目で聞こうとか言っていたのですが、そんなものは全然何の役にも立たなかったですね。年齢だって、干支の生まれ年しか聞けません。

50年」というのは、本当に昨日のこと、今のこと。万さんにとってもそうだし、尹玉林さん、ダーニャンみんなにとってそうですね。私の方は、私の方で、日本人ですから中国人に囲まれて被害を聞く時に、やはりある種の恐怖でガチガチになっている。これは差別の問題とか、加害の問題とかで被害者に直面する時、自分が加害する側、差別する側に立っている、あるいは自分が気づかなかった自分の加害・差別をむき出しにするのではないかと思う恐怖感・緊張感で、私は何度も経験しているものです。だけど、その被害を受けた人、差別されている人の持つ恐怖感はそんな程度のものではない。それをやはり十分には分かってなかった。こわばっている私よりも、はるかに尹玉林さんは怖いのだ、女である私でも、日本人であるということで、日本人グループに属する人であるということで、怖がっている。性暴力を受けたことを語ることのためらいよりも先に、です。

尹玉林さんは最も屈辱的だったおぞましい被害を、吐き出すように断片的に語ると、これでみんな話したと言い、それで終わったかと思うとまた話す、という語り方でした。横にいる楊時通さんは、彼女の話が途切れると、待っていたように自分の経験したこと、記憶していることを話してくれました。楊時通さんは字が書けるから、男の人からの聞き取りというのはとても楽です。図が読める、描ける男の人はいるけど少ないです。ここに山があってトーチカがあってここに家があって、それはどの辺にあったか聞くと、なんとか説明してもらえます。万さんを含め、 女性は自分の名前も書けません。楊時通さんは、通訳さんが文字がわからない地名・人名などに困ると、私のノートをとってちょこちょこって字を書いて、日本兵の名前、あだ名とかを書いてくれ、50年経っても忘れていないいくつかの日本語も教えてくれました。

楊時通さんがトーチカの麓の村や近村の当時のことに詳しいのは、彼の履歴にありました。かつて共産党員で活動していたのですが、日本軍が自分の村に入ってきた時に村の被害を少しでも少なくしようとして、逆に日本軍側に雇われて、維持会の役員になるんですね。ですから彼は戦後、対日協力者として罪を問われ、監獄に入れられました。日本軍には、お前は共産党のスパイ、抗日のスパイじゃないかと拷問されて、戦後は対日協力者ということで苦しめられた。その話をされて「漢奸も楽ではなかった」と言って突然すごく泣かれたのです。日本軍の拠点となった村の中で、なんとか間に自分が入れば村人や家族の被害を少なくできると思った人たちが、戦後に日本軍加害の加担者として刑罰を受けるという個人の責任を負っているのです。自分の果たした罪に対する罰を受けている。それなのに、頼みもしないのに侵入してきて、村を支配し村民に深い傷を残した日本軍、その日本軍の指導者や日本国家、その責任の最後に行くところの天皇、それらが具体的な犯罪を認め、処罰を受け、賠償することもなく、被害者が亡くなるのを待つということはあっていいのかと、楊時通さんが泣いて苦しみを50年ぶりに語った時に、そのことを強く思いました。

提訴までの過程を振り返って 

私たちが聞き取りでこだわったこと

さて、提訴までの話を丁寧にしようかと思っていたのですけど、時間が来てしまったので、あとは質問を受けてお話しするということにして、大急ぎでお話しします。

私たちは聞き取りするということに強くこだわっていました。日本人が聞き取るということが大事だというこの軸は絶対ずらさなかった。「こんなに何人もの日本人がお金使って遠くからはるばるやってきて、通訳を立ててぼちぼち聞いたりしていても能率が悪いから、私たちに費用となるお金をくれて質問表を送ってくれたら、自分の学生を農村に散らばらせて調査をしてあげる」という提案を、私は何件も受けました。弁護士さんと大学の先生からです。私たちは全部それを断りました。能率が悪いかどうかの問題ではなくて、私たちが聞き取るということに意味があると。それはなぜかというと、聞き取る項目の問題や回答の量の問題ではなく、日本人がちゃんと対面して被害を聞き取るということによって、私たちが受け取る認識の変化とか心の変化とか生き方の変化とか、そういうのがあるからです。そのことを持ち帰って日本で伝える、それをしなければ本を読むのと同じですよね。ばっと広く質問表を配って、何かのことがいくらかはわかるかもしれないけど、それでわかることはこれまで中国で出版された書籍を読めばわかる範囲のことだから、私たちはなんと非能率的で行き当たりばったりだと言われようがそこを崩さなかったのです。

『黄土の村の性暴力』(発行 2004)にダーニャンや村の人たちの証言を一人一人まとめて叙述する時は、積み重ねた聞き取りとその記録、記録から証言の記述にまで私たちがやったことの手順を、読む人にわかるように詳しく書きました。

実態と背景の認識を深めるために

それから、慰安所の被害者と戦場の被害者との関係について、いつも質問を受けます。「なぜあなた方は『慰安婦』と言わないのか」は既に述べた通りです。「万さんは『慰安婦』と呼ばれたくないというけれど万さんが受けた被害と慰安所の被害とはどういう関係にあるのか」という疑問については、アジアにおける日本軍性暴力の全体像は、一人一人の被害者の被害実態の個別性にこだわり、その背景の連続性を構造的に明らかにしていくことが重要で、簡単に括ったり分断したりしては見えてこないと思います。その疑問への問題意識はずっとありました。

盂県にいた部隊の上級の部隊がいた県城の日本軍の大隊本部。それが属する混成旅団の本部があったのはもう一級上の都市=陽泉。さらにそれが属する北支那方面軍第1軍の司令部のあった太原市。そのそれぞれで、何も資料がないですから、ともかく当時を知る人に聞き、現地を歩き回って、「あそこに慰安所があった」「あそこに、朝鮮人の女性が来ていた」「定期的な性病検査に自分が付き添った」という話をとにかく聞いて聞いて、それで作ったのがお配りした資料の「盂県西部の日本軍部隊とその所属する上級部隊の性暴力」の図です。軍隊の編成に沿って、各都市から農村に慰安所があり、強かん所があり、占領時のあるいは戦場での強かんがあるわけです。そういうものを作りながら認識していく。とにかくいつも一人一人の被害女性、ダーニャンからの視点を外さずに調査をして、自分たちの認識を作っていきました。性暴力の態様でその連続性・構造性を示そうとしたのが、資料の「日本軍の構造」の図です。

村の日本軍性暴力から都市慰安所まで、この地域に関する本や資料は出来る限り集めましたが、個別の性暴力被害の記録は他の日本軍暴行に比べてまったく少なく、私たちがかかわった裁判の原告10人の中で、万さんを含め誰一人記録に残されている人はいません。 記憶にはその人生と共に生涯残っていても記録にはならなかった被害です。 ですから私は歴史研究の畑にいながら、史料というものの見え方が変わりました。今さらの如く、「そもそも史料というものは」などということをしゃべるようになりました。この図を一つ考えるにも、とにかく記憶を大事に大事に掘り起こして、そこで描ける日本軍性暴力の全体像をしっかり自分で認識していく、再構成していくという方法に、私たちはこだわってきました。

万さんの話やダーニャンの話を少し話すと「あ、『慰安婦』問題ですね」とかよく言われます。「あなたが言っている『あ~ 慰安婦』とか『慰安婦問題』というのは何なの」と、本当に聞き返したくなるくらいです。西岡力氏など右派は「中国人慰安婦問題研究会」などを作って『中国人慰安婦問題に関する基礎調査』なるものを発表していますが、「名乗り出た中国人慰安婦」の大部分は「慰安婦」ではなく「戦時性暴力被害証言者」であるとして、「慰安婦」はもともと中国にあった妓院・妓女の「横滑り」、「戦時性暴力被害証言者」は「軍紀を逸脱した一部兵士」による例外的被害だとし、この二分法を使って日本軍の性暴力加害の構造性を無視し、被害女性を貶め、分断し、加害の責任を徹底して曖昧化しています。彼らは何も具体的な調査をしていません。みなさんにお配りした資料の図の中にある、「慰安所」と「マスレイプ」 と「戦場強かん」と戦場の「強かん所」というのは、全部一体の日本軍の組織的な構造的な性暴力で、それは相互に連続し、連関しています。私たちは一人一人の被害女性から出発し、出来る限りの聞き取り調査、史料調査をして実態と背景を調べていき、これで訴状が書ける、これなら右派の上げ足取りで崩れたりはしないというというところまで認識を深めてから提訴に入りました。それで2年かかったということです。

提訴までの過程の中での万愛花さんの役割と大娘たちの変化

ダーニャンたちにも過程がありました。最初は途切れ途切れの話しかできなくて、途中で気分が悪くなる人もいて、もう今日は終わりにしましょうと言うと、誰がそんなことを言ったのかと怒る人もいて、こんなことがいくつもありました。何度も何度も話を重ね、こちらの聞く人も変わりますし、聞いた人によって出てくる話も変わります。私たちは、聞きとりの夜みんなで共有し、これはどういうふうに考えたらいいんだろう、次はどういうことを聞いたらよいのだろうということを12時過ぎまで議論しました。こういうことを重ねる中で、ダーニャンたちはだんだん自分の被害を一つのストーリーとして話せるようになった。ストーリーとして話せるというのは、ストーリーを作って欲しいということではないです。自分の苦しかった人生の経験をストーリーとして話せるようになったということは、自分が自分の人生に正面から向き合うことができるようになっていく、そういう過程なんです。そういう形で、ダーニャンたちは自分の被害を語っていくうちに、「こんなことは恥ずかしい」「言ってはいけない」「黙ってなきゃならない」という、ずーっと50年 思ってきたそのこと、話せなかった心にわだかまることを自分の人生の問題として語れるようになる。私たちは繰り返し言いました。「恥ずかしいのはあなたたちじゃない」と。そう言われても性暴力被害は名誉なことではない、恥ずかしいと思っている。自分はその時どうして抵抗できなかったかを彼女たちはみな語りました。結局のところ悪いのは誰か、「自分たちは被害者だ。恥ずかしいのは、自分たちじゃなくて加害をした日本兵だ」「目の前に現れてきたら自分の靴でひっぱたいてやりたい」と言った人もいるし、万さんは「日本兵が死ぬほど憎い」と日本での証言で言っていました。自らの人生被害の加害者を訴えたい、人生被害を日本の法廷に出て被害を語り、胸にわだかまってきたものを全部吐き出したい。だから提訴する意思を固めたのです。

万愛花さん 王改荷さん 趙潤梅さん 高銀娥さん 楊喜何さん 趙存妮さん (左から) 提訴前太原にて 1998.8 撮影:川田文子


ダーニャンたちの並んでいる写真が資料にあるでしょう、これが提訴を決めた98年の夏の晴れやかなダーニャンたちの姿です。983月と8月に、私は川口弁護士に訴訟意思確認を手伝ってくれと言われ、その時彼女に「日本の裁判は敗けるに決まっているけれど、それでも提訴したいか」の意思確認をし、しかし「敗けてもやることに意味がある」ことをはっきり言ってくれと言われました。 私は、実際に一人一人に訴訟意思の確認をするわけですけど、「たいてい、敗ける」が「それでも提訴しますか」と聞く。そうすると川口弁護士に叱られるんです。「たいていなんてだめです」と。「9割敗ける」というと、「あまい!それもダメ」と叱られる。「完全に敗けるんです」って、川口さんは言うんです。提訴したら日本政府の謝罪と賠償が勝ち取れるなんて甘い期待を持たせないでほしいと。私がとうとう「99%敗けるが」と言ったら、その時訴訟意思確認をしていた王改荷さんが泣き出したのです。ちょうど横にいた川田文子さんが、「石田さん、そんなひどいこと言わなくたっていいじゃない」と叫んで王改荷さんと一緒に泣いたんですね。弁護士さんたちはそれでも無償で全力で頑張る、敗けても裁判することにどういう意味があると思うかを話したら、王改荷さんがそのことについては何も言わなかったけれど、「自分は胸にわだかまるものを吐き出さなければ死んでも死にきれない。そのために裁判する」と言ったのです。彼女がその時に言った「出口气」(チュウコウチ)という、自分の心にわだかまったものを吐き出すために裁判をすると言ったその「出口气」は、私たちの会誌の『出口气』という会誌の名前に第1号から今までなっているんです。同じ言葉は、法廷に向かう他のダーニャンたちからも、よく聞くようになりました。この胸につかえてきたものを吐き出さなかったら死んでも死にきれない、と。

裁判の意味は第一に名誉回復のための闘い、自尊の回復にあった

でもそれは謝罪と賠償はいらないということではないです。絶対自分たちの訴えは正しいと確信しているからです。だからその裁判に敗けた時にダーニャンたちが受けた打撃はものすごく大きく、深かったです。弁護団や私たち支援のグループは、敗訴しても国側がなんの反論もできず、個々の原告の被害について全面的に事実認定されたことをせめてもの成果と思いますが、ダーニャンたち原告は、事実認定したのになぜ敗訴なのかがどうしても納得できず、国家無答責などという理屈はさらに理解不能です。最初から敗けるって言っていたでしょなんていう問題じゃないです。やっぱりわずかな光が見えていたら、そこに向かって闘わなければいられないから、あれほど万愛花さんも頑張った。原告みんな7年間(裁判中に3人が亡くなりましたが)命を削るように病と裁判で闘った。だけど裁判は敗けた。被害事実に関して国側は全く反論しない。法廷でのダーニャンたちの渾身の訴えもただ聞き流しただけ。ダーニャンたちにすれば、事実を認めたのに謝らない、一生の苦しみを背負わせたこの被害に賠償もしないというのは、ハレンチな、理不尽な、どうしても容認できないことでした。

彼女たちは、日本の裁判所まで行って日本政府と闘い始めたことで、家族の中でも村の中でも、かつてその被害は知っているが言わないでおくことにされていた不幸な、不運なダーニャンという関係を変えてきました。はじめ村の中にダーニャンを訪ねることなどなかなかできなかったのに、提訴してからは私たちは村に行って彼女たちの家を訪ねることが出来るようになり、遠巻きに見ている村人たちがいても、私たちが帰るときは見送るためにわざわざ家の外まで出て来てくれるようになりました。川口さんと、ダーニャンたちは既に尊厳の回復、名誉の回復を自分たちの闘いで成し遂げていると、感慨深く話し合ったことがあります。でも、敗訴した、ということは、その関係を再びもとの関係に押し戻す打撃となりました。

大きな打撃を受けて、その後、ダーニャンたちは次々に亡くなられました。それでも、謝罪と賠償を勝ち取らなければ問題は解決しないし、子々孫々まで闘うと、趙潤梅さんもそう言いました。子々孫々まで闘うと、万さんもダーニャンたちもみなそう言われました。万さんは「自分の跡継ぎは李拉弟(リ・ラーディー)だ」と言い、次の世代も李拉弟がみんなを世話し、代表になる、だから問題解決まで絶対闘うと言われました。生きている間に勝訴して名誉回復できなかった無念の思いを抱きながら、皆さんお亡くなりになりました。

配布資料の中にもビデオ『万愛花』の中にも、万愛花さんを病床に見舞った20138月の映像・写真と、万さんの私たちへの遺言があります。「決して諦めないで」という万さんの遺言とあの時の万さんの目の力を、私は忘れることができません。

 

万愛花さん 太原の病院にて 2013.8.26 撮影:高村幸子

 

おわりに~ダーニャンたちを支えてきた遺族たちの底力

お話ししようと考えていたことの半分にもいかない、まとまりの無い終わり方になって申し訳ありません。万さんの遺言やダーニャンたちの無念の思いを決して忘れないとは言っても、今のあの日本政府のもとで、私が生きている間に解決が得られるとはやはり思えません。日本政府の歴史的責任にかかわることは、事実関係を示す史料的根拠がいくら公開されていても、「それを示す資料は、内閣にはございません」とか平気で言える政府です。史料を示されても「その存在を自分たちは承知しておりません」とか。都合の悪いものを見ない、無かったことにする。去年の関東大震災朝鮮人・中国人大虐殺100年のいろんな取り組みの中で、日本政府は、あったことをなかったことにする、「自分たちは材料を持ってない」とか、それについては「いろいろな意見がある」、「これは歴史の審判を待たなければならない」などと、あったことをないことにして、そのうちみんなが忘れるのを待つという姿勢が非常にはっきりしました。政府もそうだし、右派もそうだし、メディアもそうです。歴史的責任の問題では特に今そういう圧力がすごい。

それは中国の中でも別の意味で起こっていると私は思っていました。ダーニャンたちの次の世代は、もう子どもがいて孫がいる。親戚も仕事仲間も増える。その家族関係、社会関係の中で、おばあちゃんが性暴力被害にあったというのは、やはり名誉なことではない。日本政府と闘うために日本まで行った名誉回復の裁判は敗訴した。母親の闘いに対する敬意はしっかりとあり、その闘いの歴史的意味を理解はしていても、農村であまり周囲に目立つことをしてほしくないという気持ちが娘さんたちにはあって、この34年は、私たちに集団で来てくれるな、グループで来て誰かの家に集まるというようなことはやらないでほしいという人も多く、私たちは、コロナもありましたけれど次世代との交流にちょっと行き詰まっていたのです。太原に住む万さんの娘・李拉弟は一人でも意思は明確でしたが、やはり万さんの役割を彼女に期待することはできません。

日本の国の中では、広島の皆さんも精いっぱい頑張っておられますが、日本政府がすぐに変わるとは思えず、私たちは諦めないで、後ろに下がらないで、前に行くことを考えていけばどこかで開ける、その希望を捨てないで行くしかないというふうに思っていました。そうした中で、今日最初に岡原さんが言われたように、おととい急なニュースが入ってきたのです。それが、先行裁判の6人の原告、私たちのやった裁判の10人の原告の娘さん、息子さんたちが、しかもその中で、万さんの娘さんの李拉弟さんが前面に出て、中国の裁判所で日本政府を相手に裁判を起こされたのです。それに、最初の方でお話した張双兵先生が80年代にすでに話を聞いておられた侯冬娥さんのお孫さんと、もう一人日本での裁判には加わっていなかった被害女性の遺族の方も加わり、18人の被害女性の遺族の方が原告になり、中国の山西省高級人民法院、日本でいう高等裁判所に、日本政府に対する謝罪と賠償を求めて民事訴訟を起こされたのです。提訴は415日と17日と書かれていました。びっくりしました。

万さんは日本での裁判に敗けてから、私に何度か言われました。もう1回裁判やりなおせないかって。日本は一事不再理で駄目なんですね。中国で裁判をやったらあなたたちは協力してくれるかとも聞かれました。当時は、「主権免除」の壁は破れないと弁護団も私たちも考えていましたし、もし中国でやるのだったら、中国の弁護士さんがついて、まさに中国人の力でやらなければならないと話したことがあります。あの敗訴当時は、「中国で日本政府相手に民事訴訟を起こしても見込みはない」とみんな考えていました。万さんはそのまま亡くなりました。でも韓国で、今日資料が配られているように、昨年11月、韓国の裁判所が慰安所被害者の訴えを認め、日本政府に賠償命令を出す判決を出しましたね。「主権免除」の壁を破ったのです。このニュースはすぐに山西省の農村にも伝わりました。金学順さんの時と同じく、中国山西省のあんな農村の辺鄙なところのダーニャンたちの後代も、内外の情報をしっかり持っています。かなり前、私たちが行って娘さんたちが集まった時に、韓国の政府があれだけ日本政府に言える、やれるのに、なぜと発言した娘さんがいました。中国ではグループを作ったり、勝手な集会をやったりしてはいけない。日本人がやってきて、被害者遺族が集まって、そこで韓国の政府と比べて中国政府を批判するということが、どこかから漏れたら大変です。話は結局そこまでで続けられなくなりました。韓国の動きをよく見ておられることはその時もわかりました。韓国のように裁判を起こせないかという動きは、去年あたりからあり、いろいろ準備されていたようです。詳しい経過は分かっていません。まとめ役の張双兵さんから出るニュース以外は、私たちの長い協力者である何清さんとか、他の現地の方々からは入りません。受理されるかどうかも分かりませんし、不受理になる可能性も非常に大きいと思うのです。しかし、中国の性暴力被害者の遺族が中国で日本政府を相手に裁判を起こしたということは、とても大きなことです。もしこれが中国のメディアに取り上げられたら、これもまたすごく大きな出来事です。それはできるはずないということとか、やったってだめだとか、いろんな批評やらバッシングがこれから出てくると思うのですが、私は、立ち上がった遺族たちはすごいと思うのです。壮挙です。ダーニャンたちが立ち上がったのと同じです。ダーニャンたちが立ち上がった時、農村の人たちは最初はそんなに支持していたわけじゃないのはお話しした通りです。自分たちの村の恥を晒すようなものだと思っている人もたくさんいたわけです。その中から立ち上がったのと同じように、今やはり性暴力被害を不名誉と思う意識が非常に強い中で、母たち・祖母たちが被害を受け生き抜き闘った山西省の現地で、結束して裁判に立ち上がったのは本当にすごい。これも長い時間がかかるかもしれませんが、中国社会で伝わったらやはり大きな衝撃、大きな力になると思います。私が思いがけず起こされた裁判によって、また私が思い直したことは、中国の農村の中に脈々と残ってきたダーニャンたちの闘いの影響、世代を超えた闘いの底力というものです。私は見る目が少し短かすぎたし、浅すぎた、ということを今思っています。

「受け継ぐ」ということは、いつも再認識し、再発見して、新たな自分ができる闘いをどうやって作っていくかっていうことです。「アラナイン」の私でも、再認識を怠らないで、できることを生きている間にやろう、いつも万愛花さんのことを思い浮かべながらそう考えています。

4.20講演に石田さんが加筆修正されました。


石田米子さん プルフィール

山西省における日本軍性暴力の実態を明らかにし、大娘たちと共に歩む会

(略称:山西省・明らかにする会)共同代表/岡山大学名誉教授/中国近現代史

1996年 中国山西省盂県で日本軍による性暴力被害者の聞き取り調査を開始、損害賠償請求裁判を共に闘う

2004年 『黄土の村の性暴力大娘たちの戦争は終わらない』出版(共著・創土社・山川菊枝賞受賞)

2005年 『ある日本兵の二つの戦場近藤一の終わらない戦争』出版(共著・社会評論社)

2009年~「日本軍性暴力パネル展」を中国各地で開催

2015年 『10歳の少女が描いた疎開生活絵巻』出版