2018年8月30日木曜日

国家主義を突き破る人道主義


  栗原貞子の思想と沼田鈴子の実践から学ぶべきもの

以下は去る8月10日、武蔵野公会堂第1会議室で行った講演のために用意した講演概要に大幅に加筆したものです。ご笑覧、ご批評いただければ光栄です。

1)栗原貞子の生涯と反戦反核文学作品
2)沼田鈴子の生涯と平和構築実践活動
3)憲法9条と前文に象徴される栗原貞子と沼田鈴子の非戦平和思想・実践活動
4)記憶が芸術的表現を介して象徴表現化されるとき、その記憶は訴える力を持ち永続化する
5)結論:文化的記憶の創造を!
6)補論: 7〜8月の一時帰国を終えて、日本のメディア報道について考えること

1)栗原貞子の生涯と反戦反核文学作品
1913年3月4日:
  広島県安佐郡可部町(現在の広島市安佐北区)の農家の次女として生まれる。旧姓は土居。大正デモクラシーの比較的自由な雰囲気の中で育ったこともあってか、読書好きの文学少女として育った。可部高等女学校時代には、短歌や詩を同人誌で発表したり中国新聞に投稿するなどの活動。
1931年(18歳):
  女学校卒業の1年後、文芸活動で知り合った栗原唯一との結婚を決意。栗原唯一はアナキストで警察からマークされる存在。親はそんな唯一との結婚に反対したため、家出をして二人で四国を転々とするが、夫の実家に戻り、32年に長男を出産(2歳で死亡)。1935年:長女・真理子、39年:次女・純子誕生。
 (アナキズムとは、人間の自由と尊厳を重んじ、あらゆる権力からの自由、無権力・無支配社会の実現を理想とする、ヒューマニズム獲得の思想。しかし、国家権力を認めないことから、「無政府主義」と訳され、「国家転覆思想」として危険視された。幸徳秋水、大杉栄、伊藤野枝らが殺害されたのも、無政府主義が「危険分子」とみなされたから。)
1940年:
  夫の唯一が徴用されて中国に送られるが、脚気のためにすぐに送還された。唯一が中国で実際に見聞し衝撃を受けた日本兵の残虐行為について、バスの中で知人に話したところ、乗客に警察に密告されて起訴された。貞子は、戦時下、夫が秘蔵していたクロポトキンの『パンの略取』、『田園・工場・仕事場』、『青年に訴う』などのアナキズム関連の本を読んで、自由発意と自由合意にもとづく平和な無権力社会の実現を夢見ていた。同時に反戦の短歌、詩、エッセイなども密かに書き綴っていた。
1945年8月:
  8月6日広島原爆無差別殺戮の3日後に、隣家の娘を探すために爆心地から4キロ離れた当時住んでいた自宅から市内中心部に入り、入市被爆。夫は三菱重工祇園工場に勤めていたが、工場から市内に家屋解体作業に出ていた従業員を救出するために市内に入って入市被爆。「黒い雨」にもうたれ放射能をかなり浴びたため、11月頃まで原爆症で苦しんだ。
1945年11月:
  夫の呼びかけで、作家・細田民樹らを顧問に「中国文化連盟」を創設。60人が参加。
1946年3月:
  文芸雑誌『中国文化』の創刊号「原子爆弾特別号」を、GHQの検閲を受けて発行。百人ほどが短歌、詩、散文を寄稿。栗原貞子は「悪夢」と題した12首の歌と「生ましめん哉」(後に「哉」を平仮名に変えて「生ましめんかな」)を寄稿。3千部を完売。同年7月、反戦・原爆詩歌集『黒い卵』を自費出版。『黒い卵』では、「戦争とは何か」を含む3編の詩と11首の短歌が検閲で削除され、自己規制で9首の短歌も削除。詩29編、短歌250首を収めた本となった。(1983年に、削除された作品も全部収録する形で「完成版」を出版。)
  興味深いことには、検閲では、戦時中の1942年10月に日本軍の残虐行為をテーマに密かに作詩した「戦争とは何か」は削除され、原爆直後の出産をテーマにした「生ましめんかな」は削除の対象とはならなかった。おそらく検閲した占領軍検閲官は、「戦争とは何か」で栗原がとりあげた残虐行為を、単に日本軍のみならず、当時の占領軍が日本市民に対して犯していた強姦・強盗をはじめとする様々な犯罪行為への非難とも受け取れると考えたからではないかと推測される。この詩の中では、例えば、「殺人。放火。強姦。強盗。/逃げおくれた女達は敵兵の前に/スカートを除いて手を合わせるというではないか。…… 女に渇いた兵士達が女達を追い込んで/百鬼夜行の様を演じるのだ」といった表現が含まれている。その一方で、「生ましめんかな」には、原爆被害にあったにもかかわらず、産気づいた若い女性に「人々は自分の痛みを忘れて気づかった」のであり、「かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた」という表現に、原爆被害がそれほど酷いものではなかったかのような印象を与えているだけではなく、原爆にもかかわらず新しい生命が生まれるという積極的な面があると、米軍検閲官は理解したのではなかろうか。
  ちなみに、「生ましめんかな」は、以前から小中高校の平和教育のための教材として使われ、現在も国語教材として一部の教科書に使われているが、1988年には、先生たちが赤子をとりあげた産婆の行為を「自己犠牲」の美徳として讃えることで、「修身道徳の美談として矮小化」してしまったと、栗原は嘆いている。(現在はこのような「美談」解釈は、幸いにしてなされていないようである。)
1950〜60年代初期:
  1950年、5号までという少ない数であるが『ヒロシマ婦人新聞』を発行。戦争直後に多かった戦争で夫を亡くした寡婦の問題(「未亡人」という言葉の人権無視性を指摘)や男女平等問題について論評。その後、夫が発行する『広島平民新聞』と統合。
  1951年4月に夫は町議会議員に、55年4月に県議会議員に社会党から立候補、当選し、3選される。貞子は夫とともに地域問題のために奔走。1958年の第4回大会から原水爆禁止大会に参加し、1959年9月に「原水爆禁止広島母の会」を仲間たちと結成し、機関紙『ひろしまの河』を発行。1961年第7回大会後の分裂問題で運動そのものよりも組織体制を重視する原水禁運動に失望して離脱。しかし、62年第8回大会では和英対訳のThe Songs of Hiroshima の詩集(栗原貞子と大原三八雄、米田栄作、深川宗俊らとの合同詩集)が配布された。
1960年代半ば〜60年代末:
  米国のベナム戦争介入が本格化する65年代から、日本でも急速に高まったベトナム反戦運動に栗原貞子も深く関わるようになり、小田実や鶴見俊輔が率いる「ベ平連」に参加、「広島ベ平連」代表となる。68年9月から数カ月間は、ベトナム脱走兵・清水徹雄(広島出身、被爆者で米国滞在中に徴兵される)救出のため奔走する。
  同時に、韓国人被爆者の存在と問題も知るようになり、「差別」批判の声も強めるようになる。この時期、こうした運動を通して、栗原貞子の反核・反戦意識は、「被爆国日本の基地が、ベトナム戦争の基地として使われ、それを許している日本国民の加害者であり、被爆者も軍都広島の市民として戦争に協力した加害者である」という、原爆被害者の戦争「被害と加害」の二重性を強く認識するようになる。


1970年代:
  1970年、岩国米軍基地の200メートル沖に停泊する上陸用船艇に核兵器が複数貯蔵され、核兵器部隊も存続していることが判明。沖縄の本土化を危惧し、岩国基地への抗議デモ、基地撤去要求デモ、基地前座り込み、街頭宣伝などにも積極的に参加。1972年の沖縄全面返還により米軍沖縄基地問題にも関心を強めるようになった。1971年7月、「ヒロシマというとき」を発表。
  当時の高度経済成長時代、水俣や四日市をはじめ日本各地で公害問題が発生すると同時に、石油危機、電力需要の高まりなどもあって、「クリーンなエネルギー源」として原発建設が急速に推進されるようになった。この状況を栗原貞子は深く憂慮。75年2月、東京の市民グループ「原爆体験を伝える会」での講演でも「エネルギー源としての核による新しい被曝者ができつつある」と述べた。同年、中国新聞が市民から募った懸賞論文「昭和50年代への提言」に応募した論考「核文明から非核文明」でも原発事故の危険性のみならず、原発稼働と核兵器製造が表裏一体になっていることを鋭く指摘。被団協を含め被爆者の大部分が「原子力平和利用」を支持していた当時、原発反対を公に唱えた被爆者は稀であった。
1980〜90年代:
  80年10月、唯一が原爆後遺症の膵臓癌で死去。その後も、「広島・長崎への原爆投下は、人道上、国際法上許すべからざる犯罪である。しかし、その絶対性は、その誘発を許した国民の責任やアジア諸国民への加害責任を不問にしたり相殺したりすることはできない。被害と加害の複合的自覚に立つとき、初めて他国民間の連帯が可能になる」という信念から、多くの詩を創作。しかし、90年12月、栗原が時常任理事を務めていた広島県原水禁のニュースに載った問われるヒロシマ被害と加害の複合的自が、被爆者は戦争加害者ではなく、原爆被害の実情を伝えることこそが使命と考える理事たちから反発を受け、栗原は常任理事を降りる。
  栗原の憲法9条擁護思想は晩年になるほど強まっていき、1992年に「第九条の会ヒロシマ」が立ち上げられ、その年の8月6日以来ほとんど毎年この会は新聞に意見広告を出し続けているが、92年の標語、「憲法九条はヒロシマの誓いそのものです。再び、アジアの人々へ銃を向けさせまい」は、栗原が提案したもの。93年、94年の標語も彼女の案による。
 91年2月、長女・真理子が安佐北区可部町の栗原家の墓地に、父母のために憲法9条「護憲碑」を設置。当時、貞子は78歳。


2005年3月8日死去。
  栗原貞子は「詩人」として世に知られているが、私は彼女の評論を集めた数冊の著書もひじょうに鋭利な政治社会評論集であり、読まれ続けるべきものであると考えている。とりわけ、『核・天皇・被爆者』(三一書房 1978年)は、天皇裕仁と日本の戦争責任、米国の原爆無差別殺戮に対する責任問題を考える上で、ひじょうに重要な本であると思っている。

生ましめんかな
(『中国文化』1946年3月)
こわれたビルディングの地下室の夜だった。/ 原子爆弾の負傷者たちは
ローソク1本ない暗い地下室を / うずめて、いっぱいだった。
生ぐさい血の匂い、死臭。 / 汗くさい人いきれ、うめきごえ
その中から不思議な声が聞こえて来た。 / 「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。
この地獄の底のような地下室で / 今、若い女が産気づいているのだ。
 
マッチ1本ないくらがりで / どうしたらいいのだろう
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。 / と、「私が産婆です。私が生ませましょう」
と言ったのは /さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で / 新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな / 生ましめんかな / 己が命捨つとも
 
ヒロシマというとき
(「ヒロシマというとき」1976年3月) 

〈ヒロシマ〉というとき / 〈ああ ヒロシマ〉と / やさしくこたえてくれるだろうか
〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉 / 〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉
〈ヒロシマ〉といえば 女や子供を / 壕のなかにとじこめ / ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑 / 〈ヒロシマ〉といえば / 血と炎のこだまが 返って来るのだ
 
〈ヒロシマ〉といえば / 〈ああ ヒロシマ〉と / やさしくは返ってこない
アジアの国々の死者たちや無告の民が / いっせいに犯されたものの怒りを噴き出すのだ
〈ヒロシマ〉といえば / 〈ああヒロシマ〉と / やさしくかえってくるためには
捨てた筈の武器を/ ほんとうに捨てねばならない
異国の基地を撤去せねばならない / その日までヒロシマは / 残酷と不信のにがい都市だ
私たちは潜在する放射能に / 灼かれるパリアだ
 
〈ヒロシマ〉といえば / 〈ああヒロシマ〉と / やさしいこたえがかえって来るためには
わたしたちは / わたしたちの汚れた手をきよめねばならない
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  戦時中の日本の反戦詩(当然ながら、当時そのほとんど全てが未発表)には、栗原の作品だけではなく、他にもひじょうに秀れた作品がある。例えば、竹内浩三の「骨のうた」は、私はそうした秀作の一つだと考えている。
「戦死やあわれ/兵隊の死ぬるやあわれ/とおい他国で ひょんと死ぬるや/だまって だれもいないところで/ひょんと死ぬるや/ふるさとの風や/こいびとの眼や/ひょんと消ゆるや/国のため/大君のため/死んでしまうや/その心や/
苔いじらしや あわれや兵隊の死ぬるや/こらえきれないさびしさや/なかず 咆えず ひたすら 銃を持つ/白い箱にて 故国をながめる/音もなく なにもない 骨/帰っては きましたけれど
/故国の人のよそよそしさや/自分の事務や 女のみだしなみが大切で/骨を愛する人もなし
/骨は骨として 勲章をもらい/高く崇められ ほまれは高し/なれど 骨は骨 骨は聞きたかった
/絶大な愛情のひびきを 聞きたかった/それはなかった/がらがらどんどん事務と常識が流れていた/骨は骨として崇められた 骨は チンチン音を立てて粉になった/
ああ 戦場やあわれ/故国の風は 骨を吹きとばした/故国は発展にいそがしかった/女は 化粧にいそがしかった/なんにもないところで/骨は なんにもなしになった」

  傑作ではあるが、戦時中のこのような日本の反戦詩は、どれもみな自分の戦争「被害者」としての痛みと苦悩を謳うばかりで、栗原の「戦争とは何か」のように、加害の痛ましさ、加害と被害の重層性を謳っているものはほとんどない。
  この観点からするならば、ベトナム戦争時代にボブ・ディランが作った、戦争で傷つき醜い身体になった兵士が故郷に帰ってきて駅で母親に会うという話の歌、「ジョン・ブランウン」は最高傑作の一つだと私は考えている。その一節に次のような歌詞がある。
「ああ、ぼくは戦場にいたとき、ああ、神さま、いったいぼくはここで何をしているんだと思ったよ/ぼくは人を殺そうと一生懸命になった、でなきゃぼくが死んじゃうと/でも本当に怖かったのは、敵の兵士がぼくの身近までやってきて、そして彼の顔をみたとき/ぼくとまったく同じような顔じゃないかと気がついたとき」 (余談であるが、ディランがノーベル文学賞を拒否するものとばかり思っていた私は、最終的に彼が授与を承諾したことに痛く失望させられた。)

2)沼田鈴子の生涯と平和実践活動
1923年〜:
  沼田鈴子は、7月30日、大阪で生まれる。父はジャーナリスト。兄と妹がおり、5歳のときに父の仕事の関係で広島に移転。典型的な家父長制的、愛国主義的な教育を受け、天皇を崇拝する当時の典型的な女学生として育った。
1940年〜42年:
  女学校を卒業し、しばらく父の助手として働くが、父がジャーナリストの仕事を続けるのが難しくなり、父は逓信局広島支局事務員となった。太平洋戦争開戦の4ヶ月後の1942年4月より、鈴子も逓信局広島支局事務員となり、兄も妹も同じ逓信局広島支局に勤務。
1943年秋〜44年:
  父の親友の息子(27歳)と婚約、44年に結婚の予定。しかし、44年3月に婚約者が徴兵されて海外に送られたため、結婚延期(戦後、南太平洋で婚約者が戦死したことを知らされる)。
1945年8月6日〜47年3月:
  爆心地より1,300メートル離れた広島逓信局ビル内で被爆。崩れたビルのコンクリートの下敷きになり、左足を負傷しながらも助かる。しかし、左足が腐敗したため、膝上から切断手術を受ける。その後、1年半の入院生活の間に4回も手術を受けなければならなかった。
1947年3月〜57年:
  被爆後しばらくは精神的打撃から立ち直ることができず、自暴自棄になり、自殺を何度も考える。しかし、両親や妹の愛情に支えられながら、1947年9月には教員となることをめざして再び立ち上がり、51年に教員資格を獲得、安田女子高校の家庭科の教員となる。にもかかわらず、学生のときも、教員となってからも、身体障害者と被爆者に対する二重の差別に苦しめられるという苦い経験から、被爆者であることを隠し続ける生活をその後長年続けた。
1957年:
  沼田にプロポーズした同僚の男性が、彼の親が被爆者との結婚には猛烈に反対したため、自ら命を絶つという悲惨な出来事が起きた。そのため、彼女は「もう再び人を愛することはすまい」と決意=多くの戦争/暴力犠牲者にみられる「感情的反応の心理的閉め出し」(ロバート・リフトンの言う「精神的麻痺」という現象)。
1979年3月退職:
  教職を通しての学生との交流、教職を退いた後も原爆特別養護老人ホームでのボランティア活動を行ったことが、徐々に「人間関係構築」=「人間性回復」につながったと考えられる。
1981年5月:
  入手可能となった1946年の米国戦略爆撃調査団制作フィルムを使って、広島の市民グループが映画『人間をかえせ』を制作する「10フィート運動」を展開。このフィルムに写っていた当時の沼田鈴子の映像を、沼田は編集段階で見せられた。切断された痛々しい左足をさらけ出した35年前の自分の映像と対面させられた彼女は、その公開承諾を初めは躊躇したものの、被爆者で当時すでに語り部であった坂本文子と出会い、彼女の「私もあなたも生かされている」という言葉に勇気づけられ、証言活動を始めることを決意(=ロバート・リフトンが「真に包括的な精神的再生」と称したものに近い現象を体験)。

1982〜83年:
  映画『人間をかえせ』の海外上映隊に参加してヨーロッパ、カナダ、アメリカを訪問し、各地で証言を行う。帰国後の83年から、本格的に証言活動を始めた。証言内容は、自分と逓信局の職場の同僚たちが体験したすさまじく残酷な被爆状況を、涙を流しながら語るということに終始したものであり、一貫して「被害描写」に集中していた。
1983年11月:
  大阪府立西成高校2年生220名の一行が修学旅行で広島訪問。在校生のほぼ4分の1が被差別部落出身、在日韓国人・朝鮮人、崩壊家庭、貧困家庭といった背景をもつ生徒たちで、彼らに対する根深い差別意識のために、学校は低学力、非行、校内暴力で荒廃していた。学生たちは、沼田を含む数人の被爆者から被爆体験を聴き、原爆で家族を失った悲しみや差別や病気の苦しみを乗り越えて生きているという証言に、自分たちがおかれている境遇との共通点を発見し、深く心を動かされる。この修学旅行の後、西成高校に大きな変化が見られるようになった=生徒たちと被爆者の間に「痛みの共有」、「他者の痛みの内面化」という現象が起きた結果。
1984年8月:
  西成高校生徒の50名ほどのグループが再び広島を訪れ被爆者と再会。生徒たちは、このとき原爆病院に入院を余儀なくされていた沼田を見舞う。沼田は、若者たちとの「痛みの共有」を通して、自分自身が強く勇気づけられたと明言。
1984年12月23日:
  沼田は日本キリスト教団府中教会にて洗礼を受け、キリスト教者となる。「洗礼」は、キリスト信仰を通して自分が精神的に生まれ変わる、すなわち「自己再生」という意味をもつものであり、このことも沼田の後の証言内容の重要な要素の一つである「命の再生」と、思想の上では深く関連していると思われる。
1985年3月:
  在韓被曝者実態調査団に加わって初めて韓国を訪問し、韓国人被爆者と交流。1988年8月には「ヒロシマとオキナワを結ぶ市民の会」のメンバーとして沖縄を訪れ、沖縄戦で市民がなめた様々な苦汁について学ぶと同時に、米軍基地の実態についても直に自分の目で見ることになった。かくして沼田は、徐々に広島以外の戦争被害者と出会い、戦争関連の知識を精力的に吸収しはじめた。しかし、いまだ彼女の反戦反核思想の中心軸は「被害者」に置かれていた。
1986年4月:
  チェルノブイリ原発事故が起き、原爆被害者も原発事故被害者も同じ放射能汚染の被害者であるという信念から、沼田は「反原発」を講演でしばしば言及。日本での原発事故の危険性についても予言的に語るようになる。当時、反原発を訴える被爆者は稀であった。
1988年8月15日:
  大阪で開かれた市民集会「アジア太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会」に参加。ここに招かれた5人のマレーシア人の証言 - シンガポール・マレー半島での日本軍による10万人にのぼる大量虐殺を聞いて衝撃を受ける。5人は、マレー半島のネグリセンビラン州で抹殺された4千人を超える住民虐殺で親や兄弟姉妹を殺され、自分たちも銃剣で傷つけられた人たちだった。しかも、このマレー半島を侵略し虐殺に加わった兵隊たちの一部は、広島に本部が置かれていた第5師団歩兵第11連隊所属の兵員。このマレーシア人たちとの出会いによって、沼田は戦争行為が持つもう一つの局面=「加害」の局面に直面。
1989年3月下旬〜4月上旬:
  沼田は、吉野誠(美術教師)夫妻と共に、マレーシアに慰霊と証言を聴く旅に出て、さらに詳しく「加害」の状況について学んだ。自分の「加害者」としての責任を自覚し、沼田は被害者親族に謝罪。そうした謝罪によって、沼田のそれまでの限定された「他者の痛み」への配慮が、一挙に深みと広がりをみせ、「いかなる人の人権も尊重する」という普遍的で根本的な原理に裏打ちされた「他者への痛み」への共感として、強く且つ深く彼女の思想の中に根を下ろしたものと考えられる。
1990年〜91年:
  南京虐殺の犠牲者や重慶爆撃の犠牲者とも出会い、日本軍戦争犯罪行為の責任を認め、謝罪することによって、中国人被害者との「痛みの共有」にも成功。
 1990年代初期頃から沼田の証言内容に変化が表れたように思われる。自分の被爆者としての痛みについての言及は必要最低限な情報提供におさえ、むしろ、その「痛み」と「苦しみ」から自分が学びとったもの、すなわち「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」といった点に重点を置くようになった。それらを表す象徴として、被爆青桐の話が沼田の証言に使われるようになった。おそらくは、1990年以前は、被爆青桐は、沼田の記憶の中ではそれほど鮮明に残っていなかった可能性がある。しかし、「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」といった要素が沼田の思考の中で重要性を増すにつれて、被爆青桐の記憶はこれらの要素と連結し、その意義を強調するような形で、記憶自体が彼女の中で鮮明にされ、高められ、説話化されていった可能性がある。沼田が被爆青桐に、私たちの誰にとっても重要な「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」という象徴性を持たせ、被爆青桐の種を発芽、成長させた苗の植樹運動、種の拡散運動を日本国内のみならず世界中に広めたことは、広島から世界に向けての「平和のメッセージ」発信という意味で、極めて重要なこと。
  にもかかわらず、広島の被団協は、「我々は戦争被害者であって、加害者などではない」と主張して沼田を激しく非難し、事実上、彼女を被団協から追い出してしまった。



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   「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」は、世界に共通する普遍的価値をもつ、我々人間誰にとって欠くことのできない要素であり、平和構築と維持にとって不可欠の要素である。それゆえ、これらこそ「ヒロシマの思想」の確立にとっての支柱となるべきものであり、広島市民が被爆体験から学びとり、継承すべき叡智であると私は考える。その意味で、沼田の証言・平和活動は、今後の私たち広島市民の反核・反原発・平和運動にとってのモデルを提供している。新しい人との「出会い — 感動 — 発見 — 出発」を通して、さらには「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」に努力することで、平和の絆は必ず広がっていくはず。

3)憲法9条と前文に象徴される栗原貞子と沼田鈴子の非戦平和思想・実践活動
*アナキストであった栗原貞子はなぜ、国家権力を正当化する日本国憲法の擁護を唱えたのか?
  栗原は日本国憲法の全てを受け入れていたわけではなく、もっぱら憲法9条を重視し、その擁護を主張した。では、なぜ非戦・非武装を唱える憲法9条をそれほどまでに重要視したのか。おそらく栗原は、本来は憲法9条が内在化させている「国家否定」の思想を、無意識ながらも感知していたのではないか、というのが私の考えである。すなわち、栗原は、憲法9条には国家主義を超える普遍的平和主義の思想が根底に存在していることを感知していたと思われる。
  9条は、本質的には国家性規定という国家原理、すなわち「国家権力」を、否定する思想を内包している。国家原理を否定する思想は、9条2項の最後の条文「陸海軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」の中に含まれている。なぜなら、「国家」は軍事力を保持し且つ「交戦権」を持ってはじめて「国家」としてその存在を他国から認められるという考えが、第二次世界大戦終結まで絶対的且つ支配的であったし、日本が1946年公布の自国の憲法で「交戦権否定」を表明したあと、現在も世界ではこの考えが圧倒的に支配的である。国際連合も、基本的には武力と交戦権を保持した諸国家の連合という形をとっており、ただ侵略戦争を禁止しているだけである。したがって、逆説的に言えば、「交戦権」を持たない武力組織は「国家」ではない、つまり「テロ組織」と見なされるわけである。その最も典型的な例は、イスラエルとパレスチナの関係であろう。イスラエルがパレスチナを断固として国家として承認しない理由は、パレスチナが独立国家として世界に承認されれば「交戦権」を有するため、その軍事力をイスラエルはもはや「テロ」扱いできなくなるという重大な問題が発生するからである。つまり、パレスチナが国家になれば、イスラエルとパレスチナの間の武力紛争は「戦争」となり、国連が介入することになるため、イスラエルはこれまでのように任意にパレスチナに武力攻撃ができなくなる。同じように、過激派イスラム・テロ集団が「IS(イスラーム)国家」と自称する理由は、「国家」を名乗ることによって交戦権保有を主張し、その武力活動を正当化することにある。
  日本国憲法9条に、国家否定の思想の内在化を鋭く感知した人が、栗原のみならず、数は少ないにせよ、これまでにいたことは確かである。例えば、1950年代に次のように述べたアーノルド・トインビーがその一人である。「原子兵器が発明された今の時代では、もはや国家主義にふけっているわけにはいかない。日本人はそういった面を体験して生きぬいてきたのだし、痛ましい経験によって国家主義の限界を学びえた。」(A.J. トインビー『歴史の教訓』)<強調:田中>日本では、大熊信行、平井啓之、小田実が、同じように、国家主義否定の思想を9条に見ている。

*沼田鈴子が証言活動で唱えた「いかなる人の人権も尊重する」という普遍的で根本的な原理は、憲法前文で確認された、世界の全ての人々が持っている「平和的生存権」であった。
  9条の絶対的な非戦・非武装主義は、憲法前文で展開されている憲法原理思想と密接に絡み合っているのであり、したがって、9条は前文と常にセットで議論されなくてはならない。とりわけ、前文の第1段落の「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意し」という文章と、以下の第2、第3段落部分が重要である。
  日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
   われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。

  日本は天皇制軍国主義の下で、アジア太平洋全域で、文字通り「専制と隷従、圧迫と偏狭」を作り出してきた国家であった。これを深く反省し、その責任を痛感し内面化することによって、国家=政府が再び戦争を起こすことを国民がさせないという決意をここで確認している。その上で、人間相互の平和的関係を構築する上で国際社会に大きく貢献し、そのことで名誉ある地位を占めたいと主張しているのである。さらには、全世界のあらゆる人々(日本語の前文では「国民」となっているが、英語の原文はpeople である)が平和的生存権を有していることも確認している。つまり、この前文では、日本人が自分たちの政府に戦争を再び起こすことを許さず、世界のあらゆる人間が平和を享受する権利を持っているという認識に立って、国際社会で平和的な人間関係を創り出していくことに積極的に貢献していきたいと主張しているのである。ここには、平和とは人権の問題、生存権の問題であり、地球的・普遍的正義論の問題であり、国際協調主義の問題であることが唱われている。
  その意味では、一国の憲法前文でありながら、普遍的、世界的な平和社会構築への展望と決意を展開しているという点で極めて特異な前文と言えよう。この点に注目して、小田実は、この前文を「世界平和宣言」であると主張した。第2次大戦後には、戦時中のホロコーストなどの大量虐殺と人権弾圧の反省から、「世界人権宣言」や「国際人権規約」が作られた。しかしながら、「正義の戦争」という旗を掲げて大量の市民を無差別殺戮(その典型が原爆殺戮)した戦勝国が主導して創設した国連では、「世界平和宣言」を作れるはずがなかった。ところが、日本国憲法の前文には、「世界平和宣言」と呼べる普遍的正義論が含まれている、というのが小田の主張である。憲法学者・樋口陽一も、この前文で取り上げられている「平和的生存権」に触れ、「平和のうちに生存する権利は、いわば、二一世紀的人権を日本国憲法が先どりしようとしたものとして、位置づけることができる」 と述べ、その先駆性を強調している。

   このように栗原貞子と沼田鈴子の思想と実践には、国家権力を超えた「個人の権利」の重要性への確固たる信念が深く刻み込まれている。では「個人の権利」とは具体的には何か?加藤周一は、「その本質のひとつは、差別されないことです。たとえば、日本人か中国人か国籍に関係ない、ジェンダー・性別に関係ない、年齢に関係ない。『一人ひとりの個人に、これだけの権利が備わっている』というのが人権です。だから『個人の権利』は、『人権』とほとんど同じでしょう」と説明している。ところが問題は、日本人は観念的にはこれを理解していても、信念としてこれをしっかり身につけ、内面化していないといことを加藤周一は厳しく指摘して、次のようにも述べている。「<日本では>『人権』といっても、じっさいには『日本人権』でしょう。『人間』で想起されるのは日本人なんじゃないでしょうか。…… 私は日本の大衆の多くは国境を超える『人権』にコミットしていないと思います。『平和』なときはそれでもいいかもしれないけれど、戦争になったら何をするかわからないし、現にあの戦争ではそれが起きた。」(『ひとりでいいんです 加藤周一の遺した言葉』講談社 2011年から <強調:田中>)
  最近の杉田水脈の「LGBTは生産性がない」というような甚だしい差別発言を聞くと、国境を超えるどころか、国内の人間に対してすら「人権」を認めない下劣な人間が国会議員になっている事実に、またそのような人間を議員候補に推薦した下劣な首相に、あらためてあきれかえると同時に怒りをおぼえないわけにはいかない。
  この意味でも、栗原と沼田の二人は国境を超える「人権=人道性」にコミットした真に国際的な稀にみるヒバクシャであったと私は考えている。再度述べておくが、戦争の加害と被害の重層性とその責任問題を無視しては、国境を超える「人権」、「普遍的な人道性」にコミットすることは不可能である。

4)記憶が芸術的表現を介して象徴表現化されるとき、その記憶は訴える力を持ち永続化する
  被爆者の平均年齢が82歳を超え、被爆者数も急激に減少しつつあるところから、 最近、「被爆体験の継承」ということが盛んに広島では議論されている。そうした「継承」運動の広島市の主たる取組みは、被爆証言者=語り部の証言内容を、戦後生まれの非被爆者ボランティアがノートに書取り記憶し、語り部が亡くなった後は、語り部に代わって証言を行うという役割を担う、そのような人間を育成するというものである。これは「継承」ではなく単なる「伝承」である。「伝承」は限られた人間の間でほそぼそと伝えつがれるものであって、「平和メッセージ」のような世界各地の多くの市民を対象としたものではない。「自分の被害」状況だけを一方的にほそぼそと語る内容の「伝承」であるならば、それは「共感」をよぶことは難しく、拡散されることもなく、遅かれ早かれ消滅していく。
  真の「継承」、すなわち「語り」の内容が多くの市民の共感をよび、長年にわたってそれが人々の心を震わせ感動し続けるためには、「語り」の内容が「国境を越えた」普遍的要素を強く具えていなければならない。つまり、「普遍的要素」がなければ、そのメッセーシが拡散し永続化することは極めて難しい。したがって、「被爆体験の継承」には、沼田鈴子の証言活動に深く根づいていた「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」といった「普遍的要素」が欠かせない。沼田鈴子の証言・平和活動に、今後の私たちの反核・反原発・平和運動にとっての一つのモデルを見ると私が主張するのは、そのような理由からである。
  しかしながら、被爆樹木の種を発芽、成長させた苗の植樹・拡散には、被爆樹木には「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」といった「普遍的要素」が象徴化されているというメッセージを同時に伝えていかなければ、植樹・拡散運動も遅かれ早かれ消滅するであろうし、運動としての力も最初からひじょうに弱いものとなってしまう。広島市当局が行っている植樹運動には、そのような象徴的メッセージが全く欠落している。ひじょうに残念ながら、したがって、生前に強い影響力を発揮していた沼田鈴子のメッセージは、いま急速に忘れ去られつつある。
  一方、栗原貞子の詩には、戦争の「被害と加害の複合性」、「被害者と加害者の痛みの同時的内面化」、「痛みに打ち勝ち立ち上がる人間の感動的な力」が、文学芸術作品として強烈に象徴化された形で表現されている。よって、その「象徴化された表現」=「普遍的メッセージ」が、彼女の作品を読む者に深く強く迫ってきて、心を震撼させるのである。それが、英語に翻訳された彼女の作品が、いまも海外で読まれている大きな理由であろうと私は考える。
  人間の記憶は、残念ながら極めて不確かで不安定で且つ短期的なものである。記憶を確実なものとして永続化するには、その記憶で伝えたいメッセージを凝縮させた核心部分を強烈に象徴的に表現し、その表現に触れる人間の魂を動かすことが必要である。そのためには、その表現が誰の心をも動かすような普遍性を内包していなければならない。
  したがって、「記憶の継承」には必ずしも言葉は必要ではない。最も重要なことは、悲惨な歴史的事実の「本質」をいかに単純明晰に、しかし強烈な形=シンボリズム表現で伝え、情報を受け取った人間の心を深く強く打ち、いかにその人をしてその情報を他者にどうしても伝達したいと思わせるようにするかである。そのためには、「記憶」そのものが、時間と場所にかかわらず存続する「普遍性」を内包していなければならない。
  そのような理想的な形での「記憶の継承」の具体例として、私は次の2つを指摘しておきたい。
1)虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑(ホロコースト記念碑)」
  (地下が博物館)の2,711個の様々な大きさの長方形のコンクリートが並べられているベルリンのこの記念碑は、ピーター・アイゼンマン(建築家)とブロ・ハポルド(土木技師)による共同制作。名前も個性も消滅させられ「忘却の穴」へと入れられた老若男女のホロコースト被害者を悼む記念碑であるが、ほとんど何の説明もなく、2,700個以上いう数の長方形のコンクリートが並べられているだけ。しかし、なにも説明がなくても訪れた人の心を強く打つ、大量虐殺被害者への想いを強く深く想起させるシンボリックなオブジェである。このオブジェは、ホロコーストのみならず、広島・長崎原爆無差別虐殺、南京虐殺、マレーシア華僑虐殺、ベトナム空爆被害者、ボズニア戦争被害者など、あらゆる戦争における大量虐殺被害者を悼むものとして受けとめることが可能である


2)ユダヤ博物館内の「記憶の真空」(高さ20メートルの空間)の床に設置された『Shalechet (Fallen leaves 落葉)
  同じくベルリンにあるユダヤ博物館の一角には、1万枚の厚さ3センチほどの丸い鉄板が床一面に敷き詰められており、それらの鉄板1枚1枚に目・鼻・口を表す穴が開けられ、哀しげな人間の顔が表現されている。これらの顔は1枚として同じ形のものはない。これら人間の顔の鉄板を踏まずにここを通ることはできず、踏むたびに人間の泣き声のような大きな音が空間に響き渡るように作られている。この展示コーナーは、イスラエルの彫刻家メナシェ・カディシュマンによる制作であるが、ここにもほとんど説明書きがなく、これまたホロコースト犠牲者の「痛み」を強烈なシンボリック表現で我々に伝えてくる。しかし、これらの顔も、ホロコースト被害者という特定の被害ケースの記憶を超えて、あらゆる暴力被害者の「痛みの記憶」をシンボリックに表すオブジェとなっている。

(ドイツの「記憶の継承」方法については、当ブログの下記の拙論を参照されたし。



5)結論:文化的記憶の創造を!
  日本の我々も、上記のドイツのような「文化的記憶」と称せるような形での「記憶の継承」方法を探り、それを大いに活用していくことを考える必要がある。例えば、丸木美術館所蔵の「原爆の図」、「南京大虐殺の図」、「沖縄戦の図」や、四国五郎の作品、中でも「黒い雨」シリーズの絵と「ヴェトナムの母子」シリーズ、「アパルトヘイト 否!」などをもっと広く活用すること。「原爆・戦争文学館」を設置し、栗原貞子、峠三吉、大田洋子、原民喜などの関連作品、ならびに世界各国の戦争・平和関連文学作品を蔵書とし、それらを活用する運動を展開すること、などが考えられる。また、「普遍的、人道的なメッセージ」を強く持つ絵画、彫刻、映画、演劇や音楽を新しく創造し活用することも考える必要がある。
  あまり知られていないが、実は新作「能」にも原爆や戦争の加害・被害をテーマにしたすばらしい作品がある。例えば、被爆の残虐性、非人道性を見事にシンボル表現化した「原爆忌」と「長崎の聖母」、沖縄戦の地獄を描いた「沖縄残月記」、若い時代に強制連行で夫を失った韓国人老婆の痛恨の悲しみを描いた「望恨歌」など、多田富雄の新作能の作品である。多田の作品は、日本の戦争加害と被害の両面を取り扱い、能という芸術作品で「過去の克服」を見事に成功させている。(多田富雄の新作能に関しては、当ブログの記事を参照されたし:

  最近の新聞報道によると、元駐日ポーランド大使であるヤドビガ・ロドビッチ氏は、ナチスのホロコーストの象徴であるアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所を題材に、東日本大震災への哀悼の念も含めた新作能「鎮魂」を作ったとのこと。私はまだ実際にこの新作能を鑑賞していないのでコメントできないが、このように新作能は「国境を超えた」芸術となっている。栗原貞子の詩を基にした新作能や、沼田鈴子の生涯を新作能にするという試みがあるべきだと私は考えている。  
  数百年、数世紀という長い時間での「記憶の継承」ということを考えるならば、ギリシャ神話が数世紀にわたって継承されてきたように、こうした新しい形での「文化的記憶」を創造し活用していくことが最も有効な方法の一つであると私は考える。

6)補論: 7〜8月の一時帰国を終えて、日本のメディア報道について考えること
  例年のことであるが、7〜8月の3週間あまりの一時帰国中には、好むと好まざるに関わらず、この時期に新聞やテレビが大量に流す戦争関係報道を目にする。今年も私は、多数のNHKテレビのドキュメンタリー番組の中で、下記の番組を見た。

「ルソン決戦最期の記録:ある衛生兵が見た戦場」
アメリカと被爆者「シュモーハウス: 被爆地に建った『平和』の家」
アメリカと被爆者 「赤い背中が残したもの『NAGASAKI』の波紋」
「船乗りたちの戦争:海に消えた6万人の命」
「私たちは見捨てられた:戦争孤児たちの戦後史」

この他にも、私が見過ごした番組を含め、ほとんどすべての番組が、日本人が被害となっているケースであった。毎年のことであるが、日本軍の加害問題に関するテレビ番組は稀にはあるが、ほとんど皆無と言ってよい。「私たちは見捨てられた:戦争孤児たちの戦後史」の番組は、ひじょうに心痛む番組であり、なかなかの力作だと思う。では、中国、フィリッピン、マレー等々、アジア太平洋の様々な地域でも日本軍に親を殺害された無数の戦争孤児がいるにもかかわらず、この人たちにも視点を同時に当てるような番組を制作しようという考えが、なぜゆえにジャーナリストやテレビ局には浮かんでこないのか。さらに、このような苦しい人生を歩まなければならなかった戦争孤児を生み出した責任はいったいどのような組織に、さらには組織内の誰にあったのか、という重要な問題には番組は全くタッチしない。責任追求が大切なのは、そのことによって、それが起きた原因の追求になるからである。原因が明らかにならなければ、同じ誤ちを繰り返す危険性はひじょうに高い。
  8月17日のネット版朝日新聞は「戦争報道、マンネリ化していないか、記憶承へ各社模索」と題した記事を載せた。この記事は、太平洋戦争に関する記事が、たとえば東京空襲を繰り返し載せることでマンネリ化しているのではないか、どうすれば記憶を継承していけるような記事が書けるのか、というような議論を、記者たちが集まって同月2日に行ったことを報告している。しかし、ここでも自分たちが書く記事がほとんど全て「日本人の被害」にだけ焦点を当てていることに、当の記者たちが全く気がついていないようである。空襲を問題にするなら、日本軍が上海、南京、重慶で行った無差別爆撃とその被害者たちと、東京、名古屋、大阪、神戸など多くの日本の都市空襲の被害者たちの両方に焦点を当てるような記事を書いてみようという考えが、なぜゆえに記者たちには思いつかないのか。日本人の加害行為で、いかにアジア太平洋各地の無数の人々が、どれほどの「痛み」を受けたのかについては、実に不思議と言えるほど彼らには関心がないのである。そしてここでも、中国に対する無差別爆撃殺戮の責任、日本に対する無差別爆撃殺戮の責任はいったいどこにあるのか、という問題についてはいつも、必ずと言ってよいほどノー・タッチである。
  「私たちは戦争でこんなひどいめにあいました。たいへんでした。ですから平和は大切です」というありきたりのメッセージが、毎年繰りかえされるだけである。実際、こんな「加害責任を全く問わない自己哀悼」では平和構築などできるはずがない。この点では、敗戦直後に多くの日本人が強く持った「戦争はもうこりごりだ」という強い「厭戦気分」(「反戦意識」ではない)を、70年以上たった今も、戦争がどれほど惨たらしいものであるかを全く知らない人たちに向かって、ただ繰り返しているだけに過ぎない。マンネリ化するのもあたりまえであろう。いや、これでは、マンネリ化しないほうがおかしい。
  自己被害者意識の視点にだけ立つ一国主義は、自国の加害行為で他国民がどのような悲惨な体験を強いられたかを全く無視するという意味で、「敗戦国ナショナリズム」と称すべきものである。これに対し、加藤周一が言う狭隘な「日本人権」観を克服し、「国境を超える『人権』にコミットする」形で、「加害と被害の重層性の観点」から様々なケースを取り上げ、そうした観点から責任問題を追及するなかで戦争の原因の本質に迫り、そこから平和構築に向けての積極的で力強い展望を模索しようという気概が、日本の新聞記事を読んでいても全く感じられないのである。
  すでに見たように、加藤周一は、「私は日本の大衆の多くは国境を超える『人権』にコミットしていないと思います」と述べたが、この言葉は日本のほとんどのメディアにもそのまま当てはまる。なぜこんな情けないことになっているのであろうか。民主主義とは、言うまでもなく、主として「人権」の問題である。真に普遍的な「人権」にコミットできない人々に、強靭な「民主主義」を打ち立てることができるはずがないのは当然であろう。日本に民主主義思想が根付かないのは、まさにこの「人権」意識の希薄性の問題なのである。


- 完 - 

2018年8月26日日曜日

「8・6ヒロシマ平和へのつどい2018」講演を終えて


「8・6ヒロシマ平和へのつどい2018」で講演していただいた金鐘哲さんから、以下のようなエッセーを送っていただきましたので、ご紹介します。

金鐘哲(『緑色評論』発行・編集人)
翻訳:金亨洙

  8月の最初の週末、日本の広島に行ってきた。毎年この時期になると広島では日本や世界から平和を願う数多い市民や活動家たちが集まり様々な集会が行われる。言うまでもなく8月6日が広島にあの原爆が投下された日であるからだ。
  私が今回、初めてあの広島を訪れたのは、長らく平和運動を行ってきた、とある日本の市民団体のおかげであった。「8・6ヒロシマ平和へのつどい2018」と言う名のもとで今年の集会を準備するなか、最近の朝鮮半島の情勢に関して韓国人の話を聞いてみようという案が出たらしい。そこで私に講演の依頼がきたのだが、その依頼を受けた5月には今年の夏の暑さがこれだけ酷いことになるとは予想できなかった。約束の日が近づいてくるにつれ、暑さに弱い私はソウルより少しも劣らないはずの広島の暑さの中に入っていくことが、非常に心配に思えて来た(どこかで読んだ証言の記録によると、原爆投下から奇跡的に生き残った生存者たちの鮮明な記憶の一つは、73年前のあの日の朝、爆弾が落とされる直前のヒロシマはとても暑かったと言うことだそうだ)。
  しかし、暑さのせいで広島行きをキャンセルするわけにはいかなかった。それで、8月5日、酷暑のなか広島にて講演・討論会が行われた。韓国からの見ず知らずの人間の話を聞くために、かなり広い講堂には多くの聴衆が集まっていた。講演の冒頭で私は、朝鮮半島問題に関する言わば専門家の識見ではなく、韓国の一市民・知識人のアマチュアとしての常識を話すと言い、「安保論理から平和共生の道へ」というタイトルの発表をした。そして1時間余り参加して下さった方々と多様な意見を交わした。
  私の講演の要旨は単純なものであった。つまり、第2次世界大戦以降朝鮮半島と東アジア、延いては世界全域に渡る第一の支配論理は安保論理であり、その安保論理のせいで人類社会(特に朝鮮半島と東アジア)においては如何なる創造的な生き方の可能性も徹底的に遮られて来た。最近、「ロウソク革命」以降韓国に民主的な政権が成立し、その後朝鮮半島を中心に展開されている平和ムードは、安保論理に囚われて来た既存の世界秩序を打破するのみならず、我々の想像力を開いてくれる決定的なきっかけになり得る。そしてそうなってきた際、朝鮮半島の住民は言うまでもなく、東アジアの人々は未だかつて経験したことのない、より高い質の人間的な生き方を自由に探索できる機会にめぐまれることになるであろう。そして、このせっかくの機会を生かすのに最も必要なのは鳩山由紀夫元日本総理(2009~2010在任)が唱えた「友愛に基づいた東アジア共同体」といった概念、あるいはそれに近き政治哲学であり、そのために欠かせないのは民族や国境という境界を超えた、東アジアの市民たち同士の自由で活発な交流と対話、連帯に向かっての努力である
  講演が終わるとフロアからの質問と意見の発表が活発に続いた。質問の中には私としては答え難いものも多かった。例えば、「一帯一路」という一大プロジェクトを掲げ、物凄い勢いで勢力を広げている現在の中国の指導層に「友愛に基づいた東アジア共同体」のような政治哲学を期待することが現実的に可能なのだろうか、という質問があった。この質問にすっきりした答えを出すのは私の能力を超えることだった。しかし、私は昨年10月の第19次共産党大会にて習近平主席が中国の未来像について語りながら、殊に小康社会、美麗社会、そして生態文明社会として表したのは、単なる政治的な修辞というより現在の中国の政治指導者たちの本音が含まれた抱負を表現したものではないだろうかと、そうであればそこには東アジア共同体の潜在的可能性があるのではなかろうかと、恐れ憚りながら答えた。
  しかし、このような難しい問題以外にもより根本的な憂慮も示された。それは、東アジア共同体という概念自体には何ら問題もないが、その言葉にはどこか「アジア主義」を標榜しながらも実際においてはアジアに対する侵略を正当化するイデオロギーとして機能した、日本帝国主義時代の右翼思想を思わせるところがあるという指摘であった。この指摘に対して私は、我々が目指すべき東アジア共同体とはどこまでも「友愛」に基づいたものであり、そのためある特定の国家が東アジア共同体の構築を主導するというような発想自体を捨てるべきだという点を強調する必要があると、ただ常識的な答えしかできなかった。
  しかしフロアは全体的に韓国がロウソク革命を通して民主的政権を成立させ「希望的」社会になり得たことを、非常に羨ましがる雰囲気だった。参席した方々は殆どが68年学生闘争を経験した高齢者の方で、大概の方が年金生活者のようだった。私の目にも問題は見えてきた。社会に不条理が溢れ、総理をはじめとする政治家や官僚たちが絶えず嘘ばかりをついている状況が続いているにもかかわらず、日本の若者たちは政治には何の関心もなく自らの生活ばかりに埋もれ、飼育された家畜のようになりつつあると、誰か嘆いている声が聞こえてきた。それが事実かどうか、私にはよく分からないが、一時世界的に最も強烈な反体制運動を展開していた往年の学生運動家たちの嘆息が、私の胸を打った。(彼らの発言を聞きながら私は昼夜を問わずスマホに夢中になっている昨今の韓国の若者を思い出し、やるせない気分になった。)
  ところが、今度の広島行きで私が得た最も大きな収穫の一つは栗原貞子(1913~2005)という詩人の存在を知ったことであった。栗原は1945年8月6日ヒロシマに原爆が投下された時、爆心地から4キロメートル離れたところに住んでいた住民だった。彼女は原爆投下直後から完全なる廃墟と化した現場に向かい、見るに堪えないあの惨状を目撃し、極度の苦痛のなか死に、喘いでいる被爆者たちを助けるために必死の努力をした。その経験から彼女は、戦後日本における数少ない優れた「原爆詩人」となった。しかし彼女は原爆の残酷な後遺症やその惨状を記録するにとどまったわけではなかった。彼女は社会主義を信奉するご主人と共に、早くから日本のアジア侵略を批判し、反対していた反戦思想家でもあったのだ。
  彼女は生涯を通して反戦、反核、平和のために人間である我々が如何にすべきかということを、詩と行動を通じて問い続け、また訴えた。その延長線上において、彼女は日本社会が全般として原爆の犠牲者としての立場を強調しながら「平和」云々するのは、根本的に偽善で虚偽であると指摘し、ヒロシマの惨劇だけではなくアジア・太平洋地域で犯した日本軍国主義の蛮行に対する歴史的責任を認識すべきだと、繰り返し強調した。しかし戦後にも日本は朝鮮戦争やベトナム戦争に積極的に関与し、再び「他者の犠牲」の上で経済復興を成し遂げ、結局ヒロシマの悲劇から一つも学んだことのない結果となってしまったと、厳しく批判し続けた。そのため彼女は日本社会の中で酷い孤立を耐え続けるしかなかったが、少数の良心的な人の中では尊敬の対象となった。
  韓国には殆ど知られていないこの詩人の詩を読んでみると、その根底には真の詩人であれば誰しもがもつ共通の資質とも言えるアナキスト的精神が熾烈に生きていることを感じ取ることができる。彼女は「文学は政治に従属するのではなく、政治に先行するものである」と言い、また「どの時代にも政治的支配に対して文学は反対の立場をとってきた」と述べ、文学の意義と役割に関する強烈な信念を語っていた。同時に「政治的無知と無関心」こそ「平和と民主主義の敵」であと、強調してやまなかった。
 国益という論理、安保という論理をもって、いつまでも真実を隠蔽し世の中を危険にさらしている支配層によるありとあらゆる弾圧や世論操作にも、我々が人間としての感受性を失わず平和と民主主義を守るための戦いを続けられるのは、結局栗原のような「不敗の精神」を持った詩人の存在のおかげかもしれない。
(この文章は8月10日付「ハンギョレ新聞」に掲載されたコラムの一部を修正・加筆したものである。)


2018年8月18日土曜日

Radio Interview: Fukushima Nuclear Power Plant Workers; Emperor Akihito’s Performance and Japan’s War Responsibility


オーストラリア公共放送 ABC ラジオ番組 Japan in Focus: 福島原発労働者被曝問題、天皇明仁と戦争責任問題(2018年8月17日放送)

「天皇明仁と戦争責任問題」では5分ばかりという短い時間ながら、私見を述べておきました。英語圏に知人をお持ちの方は、拡散していただければ光栄です。

ABC (Australian Broadcasting Corporation) News Radio Program: Japan in FocusAugust 17, 2018
  This week: The United Nations says workers used to clean up the Fukushima nuclear disaster in Japan are at grave risk of radiation exposure and exploitation, Emperor Akihito has made his last appearance as reigning monarch at an annual ceremony marking Japan's World War Two surrender and we take a look at the postal service on top of Mount Fuji.
  Eleni Psaltis speaks to UN Special Rapporteur Baskut Tuncak, representative of the August 6 Hiroshima Peace Assembly Dr Yuki Tanaka, and Tokyo bureau chief at the New York Times Motoko Rich.

Below is the text I prepared for this short interview:
  In order to understand Emperor Akihito’s performance concerning Japan’s war responsibility, we must first know the unprecedented scale of the human toll that resulted from the Asia Pacific War. The total number of deaths of Japanese military personnel and civilians is estimated at 3.1 million. Eighteen percent of these deaths, i.e., 560,000 deaths were victims of indiscriminate U.S. aerial bombing including the fire bombing of Tokyo and the atomic bombing of Hiroshima and Nagasaki in the final year of the war. This was due to the fact that Akihito’s father, Hirohito, and his military and political leaders needlessly wasted time by delaying their surrender to the Allied nations. Approximately 60% of more than 2.5 million Japanese soldiers who died were due to starvation, malnutrition and tropical diseases. Many others were victims of forced suicide attacks known as “banzai attacks” on many Pacific islands such as Guadalcanal, Saipan and Peleliu. In addition, the reckless 15 year-long war that Japan conducted between 1931 and 1945 victimized 21 million Chinese as well as several million people in various other parts of the Asia-Pacific. Apart from the soldiers who were killed in action, more than sixty thousand Allied POWs and civilian detainees also died.
   It should be clear from these figures that Emperor Hirohito was partly responsible for this huge number of deaths, and that the whole system of Emperor Fascism and ideology was also responsible for this tragedy. It is also true that Hirohito was deeply involved in making decisions on major battles such as the Battle of the Philippines and the Battle of Okinawa, despite the myth created after the war that he was totally manipulated by his military leaders such as General Tojo Hideki.    
  It is true that Akihito and his wife Michiko have been sincerely concerned about the victims of the war and visited many wartime battlefields and prayed for the dead. In general Japanese people admire this warm-hearted gesture by their emperor and empress and thus respect them as symbols of peace, democracy and reconciliation. Yet, in each visit, they met only Japanese survivors or Japanese relatives of war victims to console them. They have not met, for example, survivors of the Nanjing Massacre or the Massacre in Singapore and Malaysia that the Japanese committed and offered apologies to them. In each visit, Akihito has repeatedly stated that we must not forget this sad history and must make sure that the ravages of war will never be repeated. However, in order to make sure that the tragedy of war is never repeated, it is essential to know why Japan conducted such a war of aggression and who was actually responsible. In his statements Akihito has never touched on these questions and never referred to his father’s responsibility or the wartime Emperor ideology.
  Of course his performance is better than that of Prime Minister Abe Shinzo, who adamantly denies any responsibility for many atrocities that the Japanese forces committed during the war. Yet, simply emphasizing Japan’s war victimhood without identifying who actually victimized them and without truly admitting Japanese national responsibility for the atrocities committed against vast numbers of people in the Asia Pacific will never bring peace and reconciliation. For me, Emperor Akihito, like his father, is still a symbol of the irresponsibility of Japan’s war of aggression and war crimes.
  Akihito’s gesture is indeed a reflection of the Japanese mentality that can be called a “sense of war victimhood without identifying victimizers.” The same mentality can also be identified in their attitude towards the atomic bombing of Hiroshima and Nagasaki. Japanese people always talk about the horrific victimization by the fire bombing and atomic bombing, yet hardly pursue the US responsibility for this grave crime against humanity.
  Precisely because they do not thoroughly interrogate the criminality of the brutal acts the U.S. committed against them or pursue U.S. responsibility for those acts, they are incapable of considering the pain suffered by the Asian victims of their own crimes or the gravity of their responsibility for them. This is the reason Japan has willingly subordinated itself to US military control, although it has never been trusted by neighboring Asian nations and cannot establish a peaceful relationship with them.

Yuki Tanaka


2018年8月8日水曜日

「8・6ヒロシマ平和へのつどい2018」講演録


1)金鐘哲氏講演録: 安保論理を超えて平和共生の道へ
2)栗原貞子「崩れぬ壁はない三十六年と四十六年と -

安保論理を超えて平和共生の道へ
— 昨今の朝鮮半島平和ムードについて —

金鐘哲(『緑色評論』発行・編集人)
翻訳:金亨洙

.現在の南北対話の背景と韓国の民主化運動  
  本日、この「広島平和への集い」において皆様とお話できますことを大変嬉しく思っております。ご存知のように昨年まで朝鮮半島には戦争前夜の空気が漂っておりました。しかしながら、年を越してから雰囲気は急変します。北朝鮮の金正恩委員長は新年の辞にて非常に重要な発言を行います。つまり、7回に渡る核実験と大陸間長距離ミサイル開発の成功を通して北朝鮮は核武力を完成した、今後は経済建設に力を注ぐと宣言したのです。
 私はこの発言を聞いて、北朝鮮と韓国が対話再開に向けて動き出すだろうと、そして北朝鮮は韓国を通して米国との関係改善をはかることと予想しました。米国が主導し国連で決議された強力な経済制裁の圧力を北朝鮮がこれ以上耐えるのも難しいでしょうし、絶えず核兵器とミサイルの性能を発展させていっても、もはや行けるところがないことも明白な事実だからです。そして最近の北朝鮮の社会経済の状況は以前とはかなり変わっていると、私たちは聞いております。何百万人の平壌の市民は携帯電話を持っており、北朝鮮全域に500余の自由市場(ジャンマダン)経済が活気付いているということです。1990年代における非常に厳しかった飢餓の状況を、国家の助け無しにほぼ自力で乗り越えてきたのが北朝鮮の人民たちです。彼らの生活向上を求める要求に北朝鮮当局がこれ以上背を向けられなくなったのも重要な事実です。したがって、北朝鮮当局が南北間、そして米朝間の関係改善を積極的に模索するであろうということは十分に予想できたことです。
 それにタイミングよく平昌冬季オリンピックが開催されました。金正恩委員長の発言の意味を理解していた文在寅大統領は北朝鮮がオリンピックに参加するよう積極的に促し、北朝鮮もこれに快く応じました。そこで北朝鮮と韓国の交流が10年余ぶりに再開され、これを基についには427日に板門店にて歴史的な南北首脳会談が開催されました。
 日本からは板門店会談をどうご覧になったか分かりませんが、韓国の我々にとっては感激極まりない出来事でした。南北の首脳会談は、金大中や盧武鉉政権時にも行われました。しかし今回の会談は質的に異なりました。板門店で出会った両首脳からは平和の道へと進みたいという熱意が伝わってきました。文在寅大統領は対話に乗り出してきた金正恩委員長の決断と勇気を重ねて讃えましたし、北の若い指導者は南の指導者の言葉を謙虚に受け止め、終始礼儀正しい態度を見せていました。もちろん、このような言動も単なる見せかけかも知れません。しかし、独裁者には似合わない、そのような「演技」まで見せながら朝鮮半島の緊張関係を終わらせたいという自らの意思を表したのであれば、それはむしろ彼の平和に対する熱望がとても大きく、またそれが本物であることを意味するとも解釈できます。
 今回の板門店会談の特別な点は他にもあります。つまり、今度こそ朝鮮半島を囲んだ冷戦構造が真の意味において崩壊し、新しい南北関係および国際関係が築けられる兆しがかなり具体的に垣間見えたという点であります。朝鮮半島と東アジアに平和体制を構築するには様々な条件が整っていないといけません。その点、今は絶好の機会だと思われます。
 今まで朝鮮半島の諸問題の解決を妨げてきたもっとも大きな要因は、当事者である米国と北朝鮮、そして韓国の国家権力が相手の意見に耳を塞いでいたことだと言えます。ところが、現在は幸いにも南北はもちろん米国のトランプ政権もが北朝鮮の核問題の平和的解決を、実際に望んでいる状況となりました。
 周知のようにトランプ大統領は今政治的に相当厳しい状況に置かれています。それは彼が大統領に就任して以来見せてきた乱暴な言動と理性的とは言えない一連の政策の当然な結果だと言えます。しかしながら、トランプ氏も畢竟は政治的な支持基盤の拡大を通して今年の秋に行われる中間選挙での勝利と再来年の次期大統領選挙における再選を望んでいることでしょう。その彼が歴代の大統領たちは解決できなかった難題、つまり北朝鮮の核問題を解決するのであれば、彼にとって非常に大きな政治的資産になるに違いありません。
 事実、昨今の朝鮮半島の情勢は関連している当事者たちの利害関係が運良く合致してもたらされた、稀に見る状況です。単刀直入に言えば、従来の米国の北朝鮮政策は「現状維持」政策でした。北朝鮮と米国は、時には厳しい言葉を交わしながらすぐにでも戦争に突入するかのような態勢を演出してきましたが、実際において北朝鮮には米国を攻撃できる能力も、その理由もありません。そして米国も実際に戦争が勃発するのであればとてつもない被害が双方にもたらされることを重々承知しています。つまり、戦争はお互いにおいて脅迫の文言にすぎません。
 そして最も重要なことですが、朝鮮半島における緊張状態が続くことは、米国の実質的な支配勢力、即ち「軍産複合体」の利益に符合します。東アジアにおける冷戦構造がこれだけ持続してきた理由も結局はそのためだと言えるでしょう。
 ところで、そのような米国政府がなぜ態度を変えたのでしょうか。明確に説明することはできません。しかし、二つほど重要な理由を挙げられます。まず一つ目は、トランプ大統領が軍産複合体とあまり関わりのない人物であるという点です。米国優先主義を主張するという点において、トランプ氏もアメリカの他のエリート政治家たちと変わらないのですが、不動産業で富を得た彼は主流既得権層の支援を受けることなく大統領に当選されました。したがって、軍産複合体の利益を優先的に考慮する理由がない、例外的な政治家だと言えます。もう一つの要因は米朝首脳会談の必要性をトランプ大統領に切実に説明し、ついにはその説得に成功した文在寅大統領の仲裁者としての役割です。
 実は、私は文在寅大統領がとってきた姿勢と役割こそ最も大事であったと申し上げたいです。彼が、北朝鮮を対話の場に導き出し、また米国の大統領を説得するのに成功したのは、平和に対する彼の切実な思いがあったためでもあるでしょうけれども、朝鮮半島の将来に対する彼の堅実で、また現実的なビジョンのためでもありました。例えば彼はとある公の場で「南北が共に暮らすかどうかはともかく、お互いに干渉せず被害を与えることなく共に繁栄し、平和に暮らせるようにしなければいけない」と発言したことがあります。この言葉には所謂「吸収統一論」を排除する立場が表明されています。思うに、文在寅大統領のこの発言は北朝鮮を対話路線へと転換させた大きな力となっていたのではないでしょうか。
 文在寅大統領のこの発言は、観念的で非現実的な主張ばかりを繰り返しても、それは現実的には状況をより難しくするだけだと、痛感した結果だと思われます。そしてそれだけ分断体制と冷戦構造を乗り越えていこうという思いが切実であることを意味するでしょう。
 この70年間の分断体制が朝鮮半島の住民たちにとって如何なる鎖となり、また束縛であったか、日々痛いほど痛感しながら生きてきた当事者でなければ、平和を願う想いというのを実感するのも、理解するのも難しいでしょう。その上、朝鮮戦争以降の停戦体制のなかで銃声は止んだにしろ、お互いこれ以上ない仇敵のように銃を向け合い、終わりの見えない敵対関係のなかで生きるしかない、険しい状況が続いてきました。それで韓国と北朝鮮には長らく非常体制が維持されてきたのです。非常体制のなかでは人間らしい自由な暮らしは根本から否定されます。独裁支配体制の世襲を固く守ってきた北朝鮮は言うまでもなく、韓国においても長らく独裁政治と軍事政権による暴圧政治が繰り返されましたし、市民の権利と人権が根本から抑圧されてきました。
 大韓民国の憲法はこの国が民主共和国であると宣言しており、全ての権力が国民から生ずると明示しています。にもかかわらず、実際において1948年大韓民国政府が樹立して以来韓国を実質的に統治してきたのは憲法ではなく国家保安法でした。この国家保安法というのは思想、言論、表現、結社の自由を抑圧する目的でつくられた、日本の植民地時代の治安維持法を受け継いだ悪法です。もちろんこれは韓国で共産主義を取り締まるための法律です。したがって、国家保安法は反国家団体(北朝鮮)に対する協力はもちろん、好意的、肯定的な意見表明も禁止しました。そしてそれに違反すると重刑に処されました。結果、歴代の独裁政権はこの法律を、政権に批判的な人々や、また反対勢力の弾圧に積極的に活用しました。それで数多い良心的な知識人たちや学生、労働者、市民、海外の同胞に北朝鮮の工作員という嫌疑をかけ、無慈悲に人権を蹂躙してきたわけです。絶対的な権力が思うがままに人々を逮捕し、拷問し、また殺害までしてもこの全ての国家的暴力と悪行が国家保安法違反といった論理で正当化されてしまう状況の中、人は結局奴隷として生きるしかありません。事情を知らない外国の方は、分断というと少し不便で不安な状況だと思うかもしれません。しかし、分断された朝鮮半島の住民にとって、それは口では言い難いほどに苦しい抑圧と恐怖、そして極端に不合理で不条理な生活を体系的に強要されるシステムとして作動してきました。
 「ロウソク革命」を通して誕生した新政権の文在寅大統領は人権弁護士出身です。だからこそ彼は国家保安法の弊害を誰よりも良く解っています。それで彼は国家保安法という一つの法律の改廃よりもこの国家保安法の根本的な存立根拠、つまり敵対的な南北関係の解消が必要だと思っているのかもしれません。大統領に就任してすぐに直面した北朝鮮の核危機状況のなかでも、以前の保守派政権のように安保体制の強化のみを強調するのではなく、北朝鮮が対話に応じるように繰り返し訴えたのはそのためであるでしょう。
 ここで私が特に強調したいのは、文在寅大統領のこのような対話路線は、戦争の恐怖はもちろん奴隷的な生活を強いる「安保論理」からも逃れることを熱望している多数市民の絶対的な支持を基盤にしているという点です。つまり、今ようやく朝鮮半島に訪れてきた平和ムードは、多数の市民がロウソクを持って広場に集い、民主主義を求めた結果だと言えます。
 2016年の冬から2017年の春まで続いた韓国の大規模のロウソクデモは、無能で腐敗した政権の崩壊だけをもたらしたのではありません。ひいては朝鮮半島の冷戦構造を終わらせ、平和体制をつくりあげる起爆剤になったと言えるでしょう。これは非常に重要な事実です。つまり、市民が心を一つにして能動的に行動するときに民主主義は蘇り、その結果自らの運命を根本から改善できる可能性が生じてくるという真理を、我々はもう一度確認できます。


. 朝鮮半島冷戦構造の終息が持つ世界史的意義
  冷戦構造が清算され、それで人々の生活を根本から縛り付ける安保論理の支配から逃れることができたら、朝鮮半島の南と北には、たとえ統一は遠い未来のことだとしても人間らしい生活に対する新しい模索と実験が自由に行われるに違いありません。しかし考えてみれば、これは朝鮮半島の住民たちだけに重要なことではありません。朝鮮半島の緊張状態が解消されるのであれば、それは今日残っている最後の冷戦地域の一つが消滅することを意味します。ならば、今まで世界を支配してきた安保論理は著しく弱体化するだろうと充分に予想できます。
 私が思うに、複合的な危機に直面している今日、最も必要なのは平和な共生の思想とその実践です。ところが、この平和な共生への道を妨げる最も大きい障害は、政治・社会的体制と理念の違いを認めようとしない冷戦的思考、そしてそれと一対になっている安保論理だと言えます。その点、朝鮮半島の冷戦構造の終息は世界史的にも非常に大きな意義があります。
 振り返ってみればこの70年間米国が世界の覇権国家として君臨できたのはその膨大な経済力と軍事力だけのためではありませんでした。何よりも第2次世界大戦において米国が最大の勝者となり、そしてソ連という新しい「敵」を作り出し、その敵に対抗するための安保体制を集中的に構築したことによって可能になったと言えます。そしてこの安保体制の強化に決定的に寄与したのが朝鮮戦争でした。世界大戦が終結され、米国の政府と支配層としては国民に巨額の安保及び国防関連予算の必要性を納得させるための名分がなくなりました。その時、都合よく朝鮮戦争が勃発したのは、米国の国務長官ディーン・アチソンが言ったように、「天佑神助」でした。その結果朝鮮戦争はこんにち米国の安保体制を構成する核心的な機関、即ち国家安保会議(NSC)やCIA、ペンタゴン等の新設ないし強化に重要な口実となり、延いてはその後米国と世界を実質的に統治することになる「影の支配者」、軍産複合体の形成にも決定的な影響を与えました。
 そしてその朝鮮戦争が終結することなく長らく停戦状態が続いたのは、米国の覇権的世界支配と軍産複合体の温存や拡大にも大きく役立ったと言えます。そればかりではありません。1990年代の初め頃ソビエト社会主義圏が崩壊するにつれ突然「敵」を失ってしまった軍産複合体からすれば、朝鮮半島の緊張状態や中近東地域における不安な情勢が変わらず持続しないといけませんでした。この両地域における戦争、あるいは準戦時状況が終息に向かえば軍産複合体の存立根拠が消滅してしまうからです。
 皆様もお分かりだと思いますが、この数ヶ月間の朝鮮半島の平和ムードについて世界の主要メディアが見せた反応は非常に否定的なものでした。保守、リベラルを問わず世界の大概のメディアがそうでありました。その中でも日本のメディアは特異でした。日本の主要メディアは最近の朝鮮半島の情勢の変化が如何に重大な歴史的意味を持つことであるかを完全に無視して、ほとんど例外なく「拉致問題」ばかりを集中的に取り上げていました。私にはこのような日本のメディアの態度は情けないというよりは、あまりにも安易でまた愚かにしか見えません。
 ところで、メディアがこのような態度を見せてくるのはなぜでしょうか。彼らは今まで北朝鮮の核問題の解決に失敗してきたのは北朝鮮側の騙しのせいだと断定し、今度も北朝鮮の「時間を稼ぐための術策」だと主張しています。しかし、このような論調は言論の基本的な責務である「事実確認」さえもない単なる主張にすぎません。これについてここで詳細に説明する余裕はありません。但し、長い間北朝鮮の核問題に実務的に携わってきたジョン・メリル国務省情報調査局元北東アジア室長の話に耳を傾ける必要があります。彼は52日付の『京郷(ギョンヒャン)新聞』とのインタビューにおいて、北朝鮮の核問題が解決に至らなかった責任は北朝鮮側にもあるが、米国と韓国側にもあると明確に指摘しています。つまり、米国と韓国も北朝鮮との間に交わした約束を破ってきたということです。
 それなのになぜ世界の主流メディアはまるで北朝鮮がペテン師でもあるかのように一方的に決め付けながら、せっかくの対話と交渉の努力に水をさそうとするのでしょうか。様々な理由があるでしょうが、結局のところ彼らは従来の安保論理を基にした世界秩序の変更を望まないからではないでしょうか。それに彼らには朝鮮半島の住民たちが感じる平和に対する切実さや強い思いもあるはずがありません。万が一朝鮮半島で戦争が勃発したとしてもそれは彼らにとっては「他人事」であり、せいぜい対岸の火事に過ぎないからです。
 有力なメディアが既存の秩序の変更を望んでいない理由を推察するのは難しいことではありません。今日大きな影響力を持つメディアはほとんど例外なく商業的論理に忠実なコーポレートメディアです。したがって、彼らの利害関係は世界秩序を実質的に支配している「軍産複合体」と直接乃至間接的に関わっているはずです。そのため軍産複合体の顕著な弱体化をもたらす可能性の高い朝鮮半島冷戦構造の終息を、彼らが歓迎するはずもありません。

.東アジア共同体構築への展望
 しかし既得権勢力のありとあらゆる妨害にもかかわらず、私は最近の朝鮮半島の平和ムードが逆行することはないだろうと思っております。関連する当事者たち、つまり現在の米国、北朝鮮、韓国の当事者たちが自らの必要のためにも平和を強く望んでいるからであります。
 もちろん韓国にも平和を歓迎しない既得権勢力が存在します。彼らは70年間朝鮮半島の分断と安保体制を利用して特権を享受し私的利益ばかりを追求してきた集団です。しかしロウソク革命を経て彼らの力は著しく弱化されました。これは去る6月に行われた地方選挙において明白に証明されました。守旧勢力を政治的に代弁している「自由韓国党」は、その存立が危うくなるほどまで完敗しました。
 いま最も懸念すべきは米国エリート層の動向です。現在トランプ大統領は「ロシアゲート」で政治的に追い込まれており、対外的にも伝統の友邦または同盟国とあまり良い関係を築けておりません。そういった中で、欧米のメディアによって長年悪魔のように描写されてきた北朝鮮と、協議を行うのは容易なことではないでしょう。しかしトランプ氏は従来の政治的慣行にとらわれない人ですから、彼が歴代の大統領たちにできなかったことを成し遂げる可能性が高いということもまた事実です。
 トランプ氏は米国が世界を指導しなければいけないとか、世界警察の役割を担う責任があるといったような観念など特に持っていないように見えます。実際彼に重要なのは実質的な利益であって、観念的イデオロギーや思想、信条などではないことは明白です。この点において彼は今までのエリート政治家たちと確然と区別されます。彼は伝統的な同盟である西欧の諸国を他の「外国」と変わらない態度で接しており、西欧の防衛になぜ米国が費用を払うのかと、一見乱暴にも聞こえますが、考えてみれば非常に正当な主張をしています。東アジアの現代史に精通しているブルース・カミングズ教授の言葉をお借りして言うならば、トランプ氏のこのような言動は彼が固定観念にとらわれず、イノセントアイズ(innocent eyes)で今日の世界を見ているからかもしれません。実際、世界に変化をもたらすためには利害関係や固定観念に縛り付けられない、イノセントアイズが必要だと言えます。そのような点において、トランプ氏は私たちが人間的には尊敬できない人物ではありながらも、彼の非主流的かつ異端的性格のために世界の変革に大きく寄与する人物になれるかもしれません。問題は、それが人類を希望と救済に導く変革か、それとも混沌と絶望に追い込む変革かということです。気候変化を無視し、難民や移民に対する彼の乱暴な態度を見ると先を楽観するにはまだ躊躇があります。
 しかしながら、612日のシンガポール米朝首脳会談直後の記者会見で、「米韓合同軍事訓練は北朝鮮の立場から見れば非常に脅威的である」といった、相手を思いやる発言を行い、その訓練の暫定的中断を宣言する姿などを見ると、トランプ氏はこの北朝鮮核問題だけは何が何でも解決したいと思っているに違いありません。だからこそ、我々はこの貴重な機会を活用し、今度こそ朝鮮半島及び東アジアの平和共存体制を実現していかなければなりません。
 朝鮮半島の冷戦構造が崩壊され平和体制が構築されれば、東アジア全域の雰囲気も根本から変わってくることでしょう。考えてみれば、互いに相手を思いやりながら相手の生存権利を認めるのであれば、個人や国家が相互間において敵対する理由はありません。にもかかわらず、韓・中・日をはじめとする東アジアの国々はあまりにも長い間敵対ないし嫌悪の関係から抜け出せずにいます。
 このような状況に対する最も大きい責任は、大東亜共栄圏という虚妄な目標の下、東アジア全域をとてつもない災いに陥れた日本が、戦後70年もの歳月が経っても自らの歴史的過ちを虚心坦懐に認め、謝罪する努力を見せてくれないことにあると言わざるを得ません。日本のこのような態度はもっぱら米国との関係ばかりが重要であり、アジア人との関係はどうなっても構わないという、非常に無責任でまた愚かな心理が働いてきたためだと思われます。近代初期の脱亜入欧の論理、つまりアジアに対する蔑視と西洋に対する崇拝の思想は未だ払拭されず日本社会に深く根付いているのではないかと思います。
 もちろん日本社会やその文化の底流には素晴らしい平和思想、共生思想が流れています。明治維新直後の岩倉使節団が帰国した後芽生え、192030年代に平和主義者であり、またジャーナリストでもある石橋湛山に受け継がれた「小日本主義」思想はその代表例だと言えます。そしてこの小日本主義の思想的伝統は戦前あるいは戦後において平和と民主主義を信奉する多くの人々の思想の中核を成してきました。問題はこの思想的伝統が一般市民の基本的教養となり、更には政治、経済、社会的性格を規定する原理にならないといけないという点です。そうなってきた際、かつて鳩山由紀夫元総理が唱えた「友愛を土台にした東アジア共同体」の実現は時間の問題になることでしょう。
 振り返ってみれば、鳩山元総理が提唱した「友愛を土台にした東アジア共同体」という概念はこの間東アジア地域に登場した政治哲学の中でも最も新鮮で貴重な政治哲学として評価されるべきでした。しかし鳩山元総理の尊い理想が実現するには当時の東アジアを巡る情勢があまりにも殺伐としていて、またそれは何よりも米国の支配層の利害関係と衝突するものでした。その上鳩山元総理の構想には具体的な方法論が欠如していました。また彼の在任期間も短かったため、今日鳩山元総理の政治哲学を記憶している東アジア人はあまりいないと思います。しかし私は、私の考えている「平和で共生する東アジア体制」と、鳩山元総理の「東アジア友愛の共同体」とが本質的に変わらないと思います。名称は何であれ、このような共同体の実現のために我々が民族や国家の境を越えて協力しない限り、我々に未来は開かないと思います。
 昨年の10月、19次中国共産党大会において習近平主席が唱えた中国の未来像も、結局は似ているものでした。習近平主席は、中国は小康(シャオカン)社会を目指しながら世界が共通に直面している様々な難題を解決すべく他の諸国と緊密に協力することを約束し、殊に美麗社会と生態文明を強調しました。つまり現在東アジアにおいて日本の安倍政権を除けば、東アジアが目指すべき方向についての根本的な認識は共有されていると言えます。
 この認識は今後北朝鮮が進むべき方向に関しても一つの指針になれます。北朝鮮には今後かなりの時間を費やし基本的な生活問題を解決するための産業開発やインフラ構築が必要となるでしょう。そしてその過程において世界資本主義システムへの編入は避けられないはずです。しかしその開発が共同体の崩壊や乱開発、極度の環境破壊、そして不正腐敗の蔓延といったもう一つの怪物社会の出現をもたらすのであれば、その影響は北朝鮮のみならず東アジア全域に及ぶことでしょう。北朝鮮の開発、発展が生態的かつ人間的に如何に健全に行われていくかという問題は北朝鮮社会に限った問題ではありません。
 如何なる視座から見ても今東アジアはお互い反目し、葛藤や紛争に囚われている時ではありません。絶えず北朝鮮と中国の脅威ばかりを強調しながら、人種主義的かつ民族主義的感情を煽る既得権勢力にこれ以上籠絡されてはいけません。ご存知のように今世界は政治的、経済的、社会的、そして環境的に非常に危うい状況におかれています。そういったなか東アジアの国々がお互い敵対し、葛藤することに時間を浪費しているのはナンセンスだと思います。
 朝鮮半島を中心に展開されている最近の情勢の変化は単なる地政学的変化に留まる事態では決してありません。それは我々が自ら閉じこもっている自閉的な枠組みを破り、国家と民族の境界を越え、真の平和な共生を構築できる新たな機会を与えてくれています。この、滅多にない機会を生かすためには東アジアの市民の間の活発な対話と協力が不可欠であると、改めて強調したいと思います。ご静聴ありがとうございました。

2)栗原貞子「崩れぬ壁はない三十六年と四十六年と -

集会の最後の挨拶代わりに、私(田中利幸)が、太平洋戦争46年後の1991年9月22日に栗原貞子が謳った詩「崩れぬ壁はない三十六年と四十六年と -」を朗読させていただきました。

「崩れぬ壁はない三十六年と四十六年と -

前の三十六年は
皇国臣民の誓いを誓わされ
一視同仁の天皇の赤子で
東方遥拝をさせられ
アマテラスを拝まされた

戦争が始まると百万人が徴募され
けがれを知らぬ少女たちは
天皇の軍隊の慰安婦にさせられた
男たちは強制連行されたあげく
ヒロシマ ナガサキでは
原爆に焼かれて 黒い死体になり
カラスに眼球を啄まれた

戦争が終わると祖国は
二つに分断され
分断された胴体から今も
おびただしい血が流れている
ひとつの国として
解放される筈だったのに
天皇制護持のため
おそすぎた 終戦の詔書

民族の胴体をたちきられ
裂かれた半身を 互いに呼びあいながら
生きてきた四十六年
北の半身は 主体思想をかかげて
外国の支配を斥け
白頭山の下で 新しい国を育ててきた
南の半身は千の核兵器をのせられ
若ものは光州で血を流し
ソウルで焼身自殺をして
自由と民主を求めて闘った

併合の三十六年間と
戦後の四十六年間と
朝鮮半島を血の海で溺らせ
朝鮮戦争では 神武景気で
肥え太り 経済大国となって
何の痛みも感じることなく
謝罪せず 拒みつづけて来た
アジアの国々への血債にも
口をぬぐい
その手は未だ血塗られたまま
国際貢献の名の下に
再び戦場を夢見る世界第三位の
軍事大国

北と南の被爆者と 日本の被爆者が手を結び
分断の壁に風穴をあけよう
核のないひとつの朝鮮をとりもどそう
沖縄や本土の核基地を
撤退させよう その時、
非核自由アジアは実現するのだ

どんな堅固な壁も
民衆の意志のあるところ
崩れぬ壁はないことを
ベルリンの壁は教えている
世界の三つの壁の
さいごの壁が
崩れる日は遠くない