2025年9月27日土曜日

敗戦80周年目の2つの新作「夢幻能」は私たちに何を語りかけているのか(1) 

英語能「Pae Pon-gi」― 沖縄の日本軍性奴隷ペ・ポンギの亡霊に遭遇する元日本兵

 

私は2019年に出版した自著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』の中で(341-350頁)、戦争の被害者の「痛み」に深く自己の情操を働かせながら戦争の記憶を継承させていくためには、日本の伝統芸能である能楽がひじょうに有効な文化的手段となりうることを、多田富雄が作った幾つかの夢幻能に焦点を当てて、できるだけ簡潔に論じでおいたつもりである。(2023年出版の英文拙著Entwined Atrocities: New Insights into the U.S.-Japan Alliance の第9章の中でも、そのことをさらに詳しく述べたつもりである。)

日本語の自著執筆が終わった直後から、私は日本軍性奴隷制の被害者になった女性をシテ(主役)とする新作能が作られ、日本だけではなく世界各地で演じられるべきだと考えるようになり、そのことを知人の2人の能楽師にもお伝えしたこともある。202111月、そんな私に、アメリカのノースカロライナ州立大学教授の戴英華(たい えいか)さんという(日本による台湾植民地化問題や「慰安婦」問題の研究専門家)からメールがあり、同じ大学の彼女の同僚に演劇の研究者で能楽師でもあるGary Mathews (ガリー・マシューズ)という教授がおられ、彼が沖縄の「慰安婦」ペ・ポンギさんをシテとする英語の夢幻能の脚本を最近書き下ろしたので、読んでもらってコメントをいただけないかという依頼を受けた。

戴英華さんは台湾出身の父親と日本人の母親を両親として、日本で生まれ育ち、アメリカに留学して人類学を専攻され、その後ずっとアメリカの大学で教えておられるとのこと。ガリーさんは、若い頃は長年バレーをやり、またギリシャ語、ラテン語にも精通しており、能楽と同時にギリシャ悲劇もやるという実に幅広い文化活動に関わっておられるように思えた。日本ではあまり知られていないが、実は能楽とギリシャ神話にはかなり共通性があり、例えばMae Smethurst, Dramatic Action in Greek Tragedy and Noh: Reading with and beyond Aristotle というアメリカ人女性による優れた研究書も出版されている。外国人の能楽研究者としては、長年日本に住んで能楽を研究するだけでなく、外国人に能楽を教える「シアター能楽」という演劇集団を率いる武蔵野大学文学部教授Richard Emmert (リチャード・エマート) さんがおられるが、ガリーさんはエマートさんから能楽を習ったそうである。沖縄の「慰安婦」ペ・ポンギさんをシテとする英語の夢幻能は、どうもこのお二人の共同制作ではなかろうかと私は考えた。

脚本執筆の元になったのは、川田文子さんの著書『赤瓦の家:朝鮮から来た従軍慰安婦』だとのこと。私も川田さんとは松井やよりさんを介して知り合いとなり、しばしば文通もしていたので、「脚本を読ませていただきます」と直ぐに返信。川田さんのこの著書は、ペ・ポンギさんが体験した言語に絶するような激しい「性虐待」と「貧困」の悲惨な生涯に焦点を当てることで、日本の植民地支配や軍事占領下におかれた地域の多くの女性が日本軍性奴隷として強いられた狂気のような凄惨さを抉り出した、名著であると私は考えている。軍性暴力の「狂気」を、その「狂気」ゆえに死後も幽冥界を彷徨い続けなければならない一人の女性の亡霊が発する言葉で、我々に直に伝えてくれる ― そのような夢幻能の脚本執筆のためには、最も理想的な作品だと私も考えていた。

 


 

私自身にはとても新作能の脚本を書けるような能力はないので、この分野で他人の仕事にコメントをするというのはおこがましいとは自分では思ったのであるが、日本軍性奴隷の被害者女性たちの証言についてはかなり読みあさったので、少しは役に立つだろうと思い引き受けた次第である。送っていただいた脚本に目を通したが、正直なところ、まだまだ改良の余地があると思い、少々厳しいと思われるコメントをつけさせていただいた。私にだけではなく、他の方たちにもコメントを依頼されているであろうから、私は忌憚のない意見を述べさせていただいた。川田さんの著書を元にしているとはいえ、まだ出来あがってもいない脚本なので、川田さんには私はこのことはお伝えしないままにしておいた。

その後、アメリカのお二人からはしばらく連絡がないままで、20234月にはひじょうに残念なことに川田さんが亡くなられたという悲報を受け、「夢幻能ぺ・ポンギ」は未完成に終わるのかと残念に思っていた。ところが嬉しいことには、昨年12月にガリーさんから再びメールがあり、長くかかっているが脚本執筆は諦めたわけではなくいまだ進行中で、2025年秋には、完成版ではないが「未完成版」の試作として上演することを考えているし、将来は、広島、台湾、韓国、アメリカでも上演できればと願っているとの知らせであった。さらに驚いたのは、英華さんとガリーさんのお二人は、退職して昨年2月に鎌倉に移住されたとのお知らせであった。鎌倉は言うまでもなく能楽が盛んなところであるので、お二人の新作夢幻能の制作にはさらに磨きがかけられるだろうと期待していた。

そして今月92日に英華さんからメールがあり、いよいよ英語夢幻能「Pae Pon-gi (ペ・ポンギ)」が鎌倉能楽舞台で「試作演技」の形ではあるが1020に上演されることになったというお知らせを、告示チラシを添えて送っていただいた。ガリーさんからは大幅に修正された、というよりは全く新しい英語脚本を送っていただき、それに目を通した私は素晴らしい出来に驚き感激した。ガリーさんご本人も言われているように、まだまだ改良できる可能性を秘めた脚本ではあるが、この試作版でも十分に能楽堂で上演する価値があると私は思う。こうした試作上演を通して改良を重ね、近い将来、この夢幻能が世界各地で上演され、日本の軍性奴隷制度がどれほど酷く女性の「性」をむさぼり「生命」を侮辱したのかを炙り出すことで、世界さまざまな地域で武力紛争が起きるたびに必ず引き起こされる軍性暴力がいかに人間にとって哀しいことであるのかを、単なる知識ではなく深く心の内に刺さる「痛み」として多くの人に受けとめてもらえることを願ってやまない。

日本軍性奴隷(いわゆる「慰安婦」)をテーマにした世界初のこの夢幻能の公演の詳細は、下記のURLでダウンロードできるチラシをご覧いただきたい。なお、謡は全て英語であるが、ストーリーの場面ごとの概略を日本語で説明したものが当日配布されるとのこと。シテを務めるのは英国人女性、ワキは日系米国人、そのほかにも台湾やアメリカから参加する文字通り国際的な能楽のパフォーマンスである。ぜひとも観覧をお勧めしたい。

https://drive.google.com/file/d/1APWkmOXg2M8LjxGHMhX_9jQouKbT77gj/view?usp=sharing

 

 

次回は、杉本博司の創作による夢幻能「巣鴨塚 ハルの便り」について私見を述べてみたい。

 

 

 

 

2025年9月8日月曜日

Australia's first Chinese comfort woman statue recalls “silent, unspeakable humiliation” | ABC NEWS

オーストラリア初の中国人「慰安婦像」が「沈黙の、言葉で表せない屈辱」を想起させる(オーストラリア放送協会ABCニュース)

英語のYoutube放送で日本語の字幕はついていませんが、ご視聴いただければ嬉しいです。

As Australia's Chinese community marks the end of World War II, a bronze statue honouring Chinese comfort women is finding a permanent home in Melbourne. Hailed as "a beautiful call for peace," it has spent a year in storage. This story was reported by the ABC Chinese team.

オーストラリアの中国系住民が第二次世界大戦の終結を記念する中、中国大陸の日本軍性奴隷制度(いわゆる「慰安婦制度」)の犠牲者に敬意を表するブロンズ像のメルボルンにおける恒久的な設置場所を現在探しています。「美しい平和の呼びかけ」と称賛されるこの像は、これまで1年間保管庫に収められていました。オーストラリア放送協会ABC中国語チームによる報道です。

https://www.youtube.com/watch?v=9uyf2ohpLC4

 


 



2025年9月5日金曜日

天皇はいかにして「敗戦国ナショナリズムの象徴」となったのか(上)

― 戦争責任を問わない「慰霊の旅」による「平和の祈り」の荒唐無稽 ―

 

田中利幸(歴史家)

(この論考は『反天ジャーナル 天皇制を知る・考える』 20259月号に掲載されました。https://www.jca.apc.org/hanten-journal/ )

 

一面的で虚飾に満ちた戦後50年と80年の「慰霊の旅」

 

天皇徳仁と皇后雅子は202547日の硫黄島訪問を皮切りに、6月4〜5日には長女の愛子を伴って沖縄へ、61920日には広島に、さらに91214日には再び愛子を連れて長崎への、「戦争犠牲者に寄り添う」と称する「戦後80年の慰霊の旅」を続行中である。実際にはこの「慰霊の旅」は、徳仁の両親である明仁と美智子(現在の上皇と上皇后)が「戦後50年の慰霊の旅」として1994年から95年にかけて訪問した硫黄島、長崎、広島、沖縄という訪問地を、順番は異なっているが、大枠ではそのままなぞる変わり映えのしない旅である。

あらためて言うまでもないが、これらの場所は15年戦争という長期にわたるアジア太平洋戦争の末期1945年の2月から8月にかけて大量の死傷者を出した場所であった。硫黄島戦では日本軍2万2千人の死者と米軍7千人の死者を出し、沖縄戦では住民94千人、(沖縄出身者を含む)日本軍が同じく約94千人、その上に米軍側が1万3千人近い、合計20万人もの死者を出した。米軍による広島・長崎の原爆無差別大量殺戮では1945年末までに合計21万人が死亡、そのうち朝鮮人は4万人余りであった(数は少ないが被爆者の中には数十名の台湾人もいた)。

「戦後50年の慰霊の旅」でも今回の「戦後80年の慰霊の旅」でも、天皇・皇后による慰霊の対象はもっぱら日本人の戦争被害者であって、実質的には敵軍将兵や外国人市民はもちろん、戦時中は「国籍が日本」であった朝鮮人や台湾人の死亡者ですら国家追悼行事の対象には含まれない。

そのほかに、今回、これまでになかった訪問先として、78、天皇夫婦がモンゴル訪問中に訪れた首都ウランバートル郊外に設置されている「日本人死亡者慰霊碑」が加わった。この慰霊碑は、戦後旧ソ連シベリアに抑留された日本人捕虜のうち1万4千人がモンゴルに移送されたが、そのうち重労働や伝染病で亡くなった1700人ほどを追悼する慰霊碑である。ここでも慰霊の対象は、あくまでも日本人である。

明仁・美智子たちは天皇・皇后在位中の2005 ~16年の間に3回の海外への「慰霊の旅」を行った。訪問先は サイパン、パラオ、ペリリュー島、フィリッピンであったが、これらの場所でも、慰霊の対象はあくまでも日本軍将兵と日本人市民であって、敵軍将兵や地元住民、それに強制労働目的や軍属としてこれらの地域に送り込まれた朝鮮人や台湾人は、天皇・皇后の「国民への慈愛あふれる寄り添い」の対象からは排除されている。

フイリッピンでの米軍との激しい戦闘は、レイテ島、ルソン島、フィリッピン中央部・南部の全土にわたって194410月から45815日まで続き、日本軍側は34万人近い死亡者を、米軍側は14万人の大量の死亡者を出した。しかし、この戦闘で最も多くの被害者が出たのはフィリッピン住民で、その死亡者数は約100万人といわれている。中でも、マニラ市街地では、日米両軍の間に挟まれて逃れることができなくなった市民が、日本軍には虐殺され米軍には無差別砲撃によって殺戮されて、10万人を超える死者を出した。

明仁は、2016126日のフィリッピンへの「慰霊の旅」出発に当たっての公式メッセージの中で、このあまりにも多いフィリッピン人死亡者数に触れないわけにはゆかず、以下のような文章を読み上げた。「フィリピンでは、先の戦争において、フィリピン人、米国人、日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています。旅の終わりには、ルソン島東部のカリラヤの地で、フィリピン各地で戦没した私どもの同胞の霊を弔う碑に詣でます。この度の訪問が、両国の相互理解と友好関係の更なる増進に資するよう深く願っております。」

ところが驚くべきことには、これだけ多くの住民殺害に対する「謝罪」は、日本国と日本国民統合の象徴である天皇明仁のメッセージの中には一言もない。「日本人同胞の慰霊」が目的で私は行くとだけ述べて、破廉恥にも自国の責任を完全に無視しながら、「両国の相互理解と友好関係の更なる増進」を願うという極めて身勝手な言葉で「お言葉」を締めくくっている。ここには、無数の「無辜のフィリピン市民犠牲者」が舐めた艱苦に、一人の人間として倫理的想像力を働かせてみようという想いすら天皇には欠けていることが分かる。

 

「慰霊の旅」の特質性

 

こうして明仁、徳仁の二世代夫婦にわたる「慰霊の旅」を見てみると、以下の2つの特徴があることが分かる。

(1)          慰霊の対象が日本人だけであり、天皇・皇后が戦争の被害者や遺族者の代表らとの会見で呼びかける言葉は、「たいへんでしたね」、「ご苦労されたのですね」、「つらい思いをされましたね」「これからも頑張ってください」といった類いの、ごく月並みのなんの変哲も無いものにしか過ぎない。これらの言葉からは、被害者の「痛み」を自分の「痛み」として内面化してみようという個人的情感が少しも伝わってこない。ところが、メディアは常にこれらを「被害者の心に寄り添う」、「慈愛あふれるお言葉」と褒めあげる。戦争被害者や遺族のほうもまた、お決まりの「とてもおやさしいお言葉をかけていただき、感激しました」といった具合の天皇・皇后賛美を繰り返す。

 

徳仁も、天皇家における「悲惨な戦争の記憶の継承」のために、今回初めて「慰霊の旅」に同行させた愛子について談話でコメントし、「初めて訪れた愛子も、苦難の道を歩んできた沖縄の人々の歴史を深く心に刻んでいました」と述べた。しかし、いったいどのような歴史的背景から、何のために、誰によって沖縄が戦場にされたのか、その究極的責任は誰にあるのかを学ばずに、日本人被害者がどれほど酷い艱難辛苦を舐めたのかだけに耳を傾けるだけの極めて浅薄な「お勉強」を天皇家が何世代続けたとしても、そこから具体的な平和構築の展望が果たして少しでも見えてくるのか。同じことが、原爆無差別大量虐殺についても言える。いったい、どのような歴史的背景からアジア・太平洋戦争の最終段階で米国がこのような凄まじい「人道に対する罪」を犯すに至ったのか、なぜ米国はその責任をいつまでたっても認めないのか、またそこまで戦争を悪化させてしまった日本の責任は誰にあるのか ― それらを問うことなく、日本国と日本国民統合の象徴である天皇が「(朝鮮人・台湾人を排除して)日本人被害者だけを慰霊」することの意味はいったい何なのか。「記憶の継承」にとって最も根本的なこれらの問いが、「慰霊の旅」をする天皇夫婦だけではなく、彼らの「慰霊の訪問」を大歓迎する市民の側にもスッポリと抜け落ちているのである。

 

(2)          すでに指摘したように、天皇・皇后の「国民への慈愛あふれる寄り添い」は、極めて形式的なものにせよ、日本人の戦争被害者にのみ向けられる。日本軍の残虐な加害行為の犠牲となった中国人をはじめとする多くのアジア太平洋地域の住民と連合軍捕虜、それに当時の植民地であった朝鮮・台湾から「日本人」として動員させられ、日本人と同じように残虐な戦争犯罪の加害者とも被害者ともなることを強いられた朝鮮人・台湾人たちには、天皇・皇后の「慈愛」が注がれることはないのである。よって、各訪問地で天皇夫婦が直接会談する戦争被害者や遺族に、在日朝鮮人・台湾人が含まれることは全くない。

したがって、天皇夫妻の旅は、結局、日本人の「戦争被害者意識」を常に強化する働きをしているが、日本軍戦犯行為の犠牲者である外国人とその遺族の「痛み」に思いを走らせるという作用には全く繋がらない。すなわち、日本人の「加害者意識」の欠落を糺し、戦争被害を加害と被害の複合的観点から見ることによって、戦争の実相と国家責任の重大さを深く認識できるような思考を日本人が養うことができるような方向には、「慰霊の旅」は全く繋がっていないのである。こうして、「日本国、日本人は戦争被害者でこそあれ加害者などではない」という国家価値観が作り上げられ、それが今も国民の間で広く強固に共有されている。そればかりではなく、非日本人の戦争被害者、とりわけ日本軍の残虐行為の被害者には目を向けないという排他性が、日本人の他民族差別と狭隘な愛国心という価値観を引き続き産み出す、隠された原因ともなっているのである。

 

敗戦国ナショナリズムの象徴としての天皇

 

日本国と日本国民統合の象徴としての天皇の「慰霊の旅」が果たしている以上のような政治的機能から「象徴」の意味をいま一度再考してみるならば、この天皇の「象徴性」には「戦争被害国日本と戦争被害者日本国民の統合の象徴」という重要な特質が含まれていることが分かる。しかも、この「象徴」には実は「日本国と日本人ほど悲惨極まりない戦争の被害(特に原爆を忘れるな!)を被った国家・国民はない」という「日本人特殊論意識」― いわば「敗戦国ナショナリズム」と称することができる ― 隠された「ナショナリズム」が無意識のうちに国民の中に植えつけられてきているのである。実は日本政府の常套セリフ「唯一の核被害国」の裏にも、同じようにこの「敗戦国ナショナリズム」が隠されているのである。こうして、国民の間に「私たちはみな戦争被害者だ」という国家幻想=「幻想の共同性」をもたせる働きを、天皇の「象徴性」は強力に果たし続けている。ナショナリズムは通常は戦勝国が誇示するものであるが、敗戦国もまた、このような複雑に歪曲した形で政治的に狡猾に利用することを、私たちは忘れてはならない。

そのような「敗戦国ナショナリズム」=国家幻想の価値観を共有することが国民の知らないうちに強制されていくという、「国家価値規範強制機能」が天皇の「象徴権威」にはあるのである。天皇夫婦のこうした「慰霊の旅」のパターンと「象徴権威」の機能は、そのまま上皇夫婦から天皇夫婦にも受け継がれてきているのである。「天皇の象徴活動」は、このように、実際には極めて政治的な意味を強く且つ深く内在させているものなのである。それは戦前・戦中の天皇制「国体構成要素」の1つである天皇の「象徴権威」を巧妙に活用する国民支配機能、すなわち被支配者に「支配」を「支配」とは感じさせない国民支配機能であり、権力支配者側にとっては極めて都合の良い政治機能なのである。天皇の政治性を全く否定したかのように映る8条からなる憲法第1章は、実はこのように、国民の社会政治意識支配という面で、並々ならぬ影響力を深く内在させているのである。

 

再度述べておくが、「慰霊の旅」を報道する日本のメディアは、天皇家一族の「慈悲深さ」をこぞって絶賛し続ける。同時にほとんどの日本国民が、そうした報道をなんの疑問も感ぜず全面的に受け入れ、天皇夫婦を深く尊敬し、二人の慈愛活動をいたくありがたがる。「このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います」と毎年繰り返される天皇の言葉を真に実践し、「戦争の尊い犠牲」という一種の美辞で呼ばれる被害者にさせられた人間のことを記憶に留め、同じような歴史をくり返さないようにするために絶対不可欠なことは、日本人は「なぜゆえに、このような悲しい歴史を歩まなければならなかったのか」、「そのような悲しい歴史を作り出した責任は誰にあるのか」という問いである。ところが、天皇の「ありがたいお言葉」には、「悲しい歴史」を作り出した「原因」と「責任」に関する言及は、どの「慰霊の旅」でも、また例年の「終戦の日」の「戦没者追悼式」での「お言葉」でも、常に完全に抜け落ちている。最も重大な責任者であった上皇の父親であり天皇の祖父である、裕仁の責任をうやむやにしたままの「慰霊の旅」は、結局は裕仁の責任を曖昧にすることで、国家の責任をも曖昧にする。つまり、換言すれば、天皇夫婦の「慰霊の旅」は、本人たちの意識にかかわらず、裕仁と日本政府の「無責任」を隠蔽する政治的パフォーマンスなのであるが、この本質を指摘するメディア報道は文字通り皆無である。それどころか、日本国家には戦争責任があるという明確な意見を持っている進歩的知識人と呼ばれる者たちの中にさえ、こと天皇の「慰霊の旅」については、この本質を見落とし、天皇・皇后尊敬の念を表明する人間が少なくない(例えば、半藤一利や保坂正康)。

 

「慰霊の旅」と並んで進む天皇神格化

 

「敗戦国ナショナリズム」の象徴として天皇の今回の「戦後80年の慰霊の旅」では、30年前の「慰霊の旅」より一層、天皇の「神格化」を急速に高める傾向が強まっている。沖縄でも広島でも5千人ほどの市民が、天皇夫婦と愛子が宿泊するホテルに近い広場に集まり、提灯と日の丸小旗を宿泊先のホテルの一室から見下ろす天皇一家に向かって掲げて振り、「天皇陛下万歳」を三唱し、これに応えて天皇一家も提灯を振るという「提灯奉迎」が行われた。長崎でも同じような「提灯奉迎」が912日に予定されている。まさに戦時中の北京、上海、南京などの攻略のたびに、さらには真珠湾攻撃の際にも、皇居に向けてだけではなく日本全国各地で大々的に行われた「陥落祝い 提灯行列」を想起させる。広島での「提灯奉迎」を主宰したのは「天皇陛下奉迎広島委員会」で、その名誉会長:湯崎英彦(広島県知事)、会長:池田晃治(広島県商工会議所連合会会頭)、後援:広島県・広島市・広島県教育委員会・広島市教育委員会となっている。しかし実質的には極右政治団体「日本会議(広島)」が企画し、提灯や小旗も無料で配布し、小学生200名には記念品も配布したようである。

 

1937年12月南京陥落祝賀提灯行列

 

2025年6月19日広島 提灯奉迎

また59日、広島市秘書課は、両陛下の訪問にあたって社会科で天皇の地位について学習する機会があることを踏まえて、「御視察の様子を間近で見ることで、学習内容に対する理解等を深めるきっかけになる」という詭弁としか思えない説明で、平和公園近隣の市立本川小学校、中島小学校の校長宛てに「お出迎えを行うに当たり、次世代を担う若い世代にその役割をお願いしたい」と、6年生の児童の参加を求めた。さらに516日、広島市は広島県からの指示を受け、「警備目的で宮内庁と共有するため」という理由で、両校に児童の名簿の提出を要請した。しかし、保護者からは個人情報の使用目的が不明確だという疑問が寄せられ、市民団体からも児童に「お出迎え」に参加させること自体が「思想・良心の自由に配慮していない」という批判の声があがった。そのため、69日の記者会見で、松井一実市長は名簿提出について問われると「(県から)不要だと返事がきたので扱いを変えた」と説明し、「撤回」という表現は避けて「不要になった」ということでこの問題を決着させた。

その松井市長は2012年から毎年、市職員向けの研修で「教育勅語」の一部を「民主主義的な言葉が並んでいる」、「先輩が作り上げたもので良いものはしっかりと受け止め、後輩につなぐことが重要」などと主張して、紹介していたことが2023年になって初めて報道され、多くの市民からの批判がいまもよせられている。にもかかわらず、その後も市長は毎年の研修で「教育勅語」を研修資料として使い続けている。

国民道徳の基本と教育の根本理念を明示する目的で1890年に発布された「教育勅語」には、12の「徳目」が入れられており、その中には親孝行、夫婦相和、朋友相信、博愛など儒教主義道徳教育が提唱した徳目も使われている。しかし問題は、「教育勅語」ではこれらの徳目が、天皇を神聖なる父と仰ぎその父に絶対的服従を誓う臣民を赤子とみなす「家父長制家族国家」という天皇制イデオロギーの正当化のために、明瞭には見えない形で利用されているということである。そのことは、12の徳目の中では、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ)」が最重要視されていることから明らかである。つまり「天皇のためにはいつでも一命を捧げよ」が、最も重要な徳目なのである。

かくして、この「教育勅語」が全国の学校で徹底して教え込まれることで、「神話的国体観」や「神聖君主絶対服従」の思想が全国民の思考の中に浸透させられていった。その無知と傲慢の結果が、朝鮮人・中国人をはじめとする多くのアジア民族の蔑視に繋がり、ひいては朝鮮・台湾植民地化、満州支配、中国への侵略戦争、そして最終的には壮絶な太平洋戦争へと突入し、自国民を焼夷弾・原爆無差別大量殺戮の大悲劇へと追いやり、国内外のアジア太平洋全域で数千万人という膨大な数の多民族の人命を失わせた。この厳然たる歴史経緯を忘れて、「教育勅語には民主主義的な言葉が並んでいる」などという愚鈍な発言を恥ずかしくもなく発することのできる人間が、いまや自称「平和文化都市」を名乗る広島市の市長を務めているのである。

さらにまた、広島市教育委員会は2023年度から、世界各地で愛読されている、戦争と核兵器の恐ろしさ、命の大切さを強力な視覚メッセージで伝える名作漫画、「はだしのゲン」を平和学習教材から削除してしまった。同時に日本各地では小学校の段階で、憲法9条を教える前に、自衛隊の「わが国の平和と安全を守る重要な防衛の役割」について、いろいろな形で教え込む手段がすでにとられるようになってきている。

このように、天皇の「象徴権威」を巧妙に活用する国民(意識)支配機能が、「敗戦国ナショナリズム」の象徴としての天皇の「慰霊の旅」と並行する形で、国民の気がつかない間にジワジワと強化され、最近はますますその速度が速まっているのが現状である。自分たちの戦争加害と被害がどのように絡み合っているのかを深く理解しながら、自他両方の戦争責任問題を追求していくという確固たる姿勢を持続していくことなしには、真の意味での平和構築は不可能である。なぜなら、平和構築とは、言うまでもなく他国との国際関係の問題である。一方的に「敗戦国ナショナリズム」にのみ依拠しながら「戦争の尊い自国の犠牲者」の「痛み」のみを強調することだけで、他国の戦争犠牲者を無視し続けることからは健全な国際関係が成り立つはずがない。

成り立たないどころか、「敗戦国ナショナリズム」は、「悲しい犠牲を再度出さないための防衛」という「防衛ナショナリズム」にいとも容易く転換させられる危険性を常に孕んでいるからである。この転換の危険性がもうすぐそこまで迫ってきていることは、現在の日本の状況 ― 猛烈な勢いで進む自衛隊の「敵地攻撃能力」強化と憲法9条の実質的な無効化、米軍への全面的追従に基づく沖縄、岩国をはじめ日本各地の軍事要塞化など ― から明らかである。

 

結論:戦争責任問題にとって不可欠な「惻隠の情」

 

孟子の教えに『四端・不忍人之心』というのがある。その教えの中で彼は、「人には皆、他人の不幸を見過ごせない<忍びざる心>がある。昔の聖王は、人の不幸を見過ごせない<忍びざる心>を持って、人の不幸を見過ごさない(思いやりのある)政治を行った。人の不幸を見過ごせない<忍びざる心>で、人の不幸を見過ごさない政治を行うならば、天下を治めることは、手のひらに物をのせて転がすように(たやすく)できる」と述べている。この「忍びざる心」を孟子は、「もしも今、人が急に幼児が井戸に落ちそうになっているのを見たならば、誰もがはっと驚いてかわいそうに思う心を持つだろう。そして、助けようとするだろう」と説明し、それは自然と人の心に生まれる「あわれみの心」であり、これを「惻隠の情」と彼は呼んだ。「惻隠の情(あわれみの心)」は仁の端(芽生え)でもあると孟子は説明している。さらに孟子は、「惻隠の情」を持って仁の政治を行わない皇帝や王は排除すべし、という易姓革命の思想を唱えた。

この孟子の言葉を読むたびに私は、政治家はもちろん、ごく普通の市民個々人にとっても戦争責任問題を考える場合、「惻隠の情」で被害者の「痛み」を自分の「痛み」として内面化すること、そのためには「仁の端」=「倫理的想像力を芽生えさせる」ことが必要であると考えさせられる。同時に、なぜ日本の天皇や政治家だけではなく一般市民も、自分たちの父や祖父の世代の男たちが日本軍将兵として海外で犯した残虐行為の被害者やその遺族の「痛み」に、「倫理的想像力」を働かせて、その「痛み」を自分の「痛み」として心のうちに深く強く内面化することができないのであろうか、と考えざるをえないのである。「敗戦国ナショナリズム」を崩すには、単に政治・社会・歴史などの理論的学習だけでは到底不可能であり、戦争責任問題でこの「惻隠の情」を如何に日本人の心に芽生えさせるかという、「精神文化の構築」の問題として取り組むことが必要不可欠だと私は考える。戦後80年という長い年月、日本人は「惻隠の情という精神文化の構築」をいたく蔑ろにしてきた ― そしていまそのツケが我々の日常生活に回ってきつつあるとも私は考えている。これは極めて大きな問題なので長い時間をかけて議論する必要がある。

それとは別に、この80年の間、なぜゆえに日本は自国の戦争加害にこれほどまでに感知不能となってきたのか、その原因と歴史的経緯を簡単に次回の論考で辿ってみたい。

 

関連ニュース:

「人間がやることではない」日本軍が東南アジアで行った華僑粛清その実態【報道ステーション】(2025811)

https://www.youtube.com/watch?v=mwQT196hTc0

 

戦後80年 謝罪求め政府に請願書 「細菌戦」などの被害訴える中国人らが来日

https://news.yahoo.co.jp/articles/11a83fa582adebbfd9802a37e0a15812ea652567

被害訴えるために来日した中国の人たちに関するニュースでは、請願書提出に立ちあった畏友・増田都子さんから以下のようなメールをいただきました。

「応対したのは外務省の二人の若いお役人。新聞にあるように「持ち帰り検討させていただきます」と何度も何度も言われるのですが、80年経っても「これから検討する」!? で、その回答もわかっています。「政府部内に資料が見当たりませんでした」!?

  添付森さんの資料にあるように、最高裁も「731部隊、1644部隊が人体実験を行い、細菌兵器を製造し細菌戦を行った」と認定していますし、共産党山添拓議員の国会質問でも防衛研究所にある公文書を示しているのに日本政府は事実を認めようとしません。添付資料にあるように、2011年には国会図書館でに「1943年12月14日『陸軍医学校防疫研究報告』第一部60号」にある、細菌兵器作戦としてペスト菌を投下しての報告も発見されているにもかかわらず

  これは細菌戦だけでなく、大日本帝国が国家として行った反人道犯罪である関東大震災における朝鮮人・中国人大虐殺、従軍慰安婦等々、全てにおいて、れっきとした公文書があるにもかかわらず日本政府は「見当たらない」と厚顔無恥な回答を出し続けています

 請願者代表の鐘恵明・中国抗日戦争歴史史実維護会会長が「安倍談話でも『反省』と『お詫び』という言葉が入っていましたが、本当に反省しているというなら、どうして、サンフランシスコ条約第11条で『東京裁判を受け入れる』と約束して国際社会に復帰できたのに(戦争犯罪の最高責任者の極悪人として絞首刑となったA級戦犯を神と崇める)靖国神社に国会議員達がたくさん参拝できるんですか? 『反省』しているのに、なぜ『謝罪』ができないんですか?」と発言されました。心が痛いですね

 新聞にある馬燕さんは牧師さんとのことでしたが「日本に初めて来ました。街はどこもとても綺麗でした。でも、政府の人の心は黒く汚れているのではないしょうか?」

ん~~ため息。」

2025年8月6日水曜日

Canadian Newspaper Coverage of the Atomic Bomb Issue and Melbourne University Zoom Lecture

This year marks the 80th anniversary of the indiscriminate massacre caused by the atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki, which were carried out by US forces. Both Japan’s domestic and overseas media outlets are actively covering this issue. One such outlet is Le Devoir, a major French-language Canadian newspaper, which recently published a three-part series on the atomic bombings. The first article is titled ‘Was it the atomic bombs that forced Japan to surrender?’, while the second is titled ‘Hiroshima, Nagasaki: when Japan turned from aggressor to victim.’ Both articles focus on the historical context of the atomic bombs. The third article is an interview with Mr. Tanaka Hiromi, representative of the Japan Confederation of A- and H-Bomb Sufferers.

The first two articles introduce the views of three historians. The first is J. Samuel Walker, a former historian at the US Nuclear Regulatory Commission and author of Prompt and Utter Destruction: Truman and the Use of Atomic Bombs Against Japan. The second is Tsuyoshi Hasegawa, Professor Emeritus of History at the University of California, Santa Barbara, and author of Racing the Enemy: Stalin, Truman, and the Surrender of Japan. The third is myself, Yuki Tanaka.

Samuel Walker is regarded as a representative of the many American historians who adhere to the official US government view that ‘the atomic bombing was essential to end the long-lasting and bloody war.’ Conversely, Hasegawa’s book is a meticulous analysis of official documents from the United States and the Soviet Union, which reveals that the entry of the Soviet Union into the war was the most decisive factor in Japan’s surrender. I also share Hasegawa’s view.

 

A distant view of Hiroshima immediatley after the atomic bombing

 

When the Le Devoir journalist who wrote this series of articles asked me for an interview, I told her that my views were detailed in my book Entwined Atrocities: New Insights into the US–Japan Alliance. She can also find a summary of the book in a paper titled ‘Political Lies Are More Plausible Than Reality: American and Japanese Lies about the Atomic Bombing,’ which I recently published in an English-language online journal. This paper is available at https://apjjf.org/2025/6/Tanaka. I then asked her to read the paper before conducting the interview.

However, from the questions she asked me in her email interview, it became clear that she had not read my article, let alone my book. The only book of mine that she might have read is Hidden Horrors: Japanese War Crimes in World War II, in which I do not address the issue of the atomic bomb at all. Her questions focused solely on the relationship between the post-war political exploitation of Hirohito’s authority as emperor by the United States, and Japan’s lack of a national sense of responsibility for the war. My responses to these questions are presented in the second article.

However, the two most important issues that I discuss in my recent English book and essay are as follows: (1) The interrelationship between Emperor Hirohito’s (and the Japanese government’s) responsibility for prolonging the war unnecessarily, which resulted in the atomic bombings, and the US’s responsibility for plotting to make Japan induce the atomic bombings for political reasons. (2) The major falsehood created by the United States was that ‘the war could not have ended without the use of atomic bombs,’ while the falsehood created by Emperor Hirohito and the Japanese government was that ‘Japan ended the war because of the atomic bombings.’ For the past 80 years, these two nations’ myths, or political lies, have been firmly believed as if they were true, not only by the Japanese and American people, but worldwide. Unfortunately, this issue is not addressed at all in this three-part series published in Le Devoir.

Over the past few years, I have realized that exposing the blatant lies told by both Japan and the United States is no easy task, and ensuring that people around the world are fully aware of the historical facts is even more challenging. As Hannah Arendt said, ‘Political lies sound much more plausible than the truth.’

Le Devoir's three-part series on the atomic bomb issue:

https://www.ledevoir.com/monde/906472/est-ce-bombe-atomique-force-reddition-japon

https://www.ledevoir.com/monde/906478/hiroshima-nagasaki-ou-quand-japon-est-passe-agresseur-victime

https://www.ledevoir.com/monde/906475/ce-j-ai-vu-marque-vie-temoignage-survivant-nagasaki

I tried to explain the above two issues as concisely and clearly as possible in my Zoom lecture for the Modern Japan History Association of the US in April this year. Shortly afterwards, I was honored to receive a message from Professor Ogawa Akira, Head of the Japanese Studies at the University of Melbourne, inviting me to deliver the same lecture via Zoom on Wednesday, 13 August from 12:30 to 13:30 Melbourne time (11:30 to 12:30 Japan time). I am delighted to accept this invitation. This lecture is a joint project between the University of Melbourne and Tokyo University of Foreign Studies, and it seems that members of the public will also be able to attend for free. However, those who wish to attend must register in advance. If you wish to attend, please click on the ‘Register’ button at the URL below to complete your registration.

https://events.humanitix.com/political-lies-are-more-plausible-than-reality-american-and-japanese-lies-about-atomic-bombing

With best wishes,

Yuki