2024年6月28日金曜日

核兵器を抱きしめて(7)

― 広島を抱き寄せる米国、抱きしめられたい日本と広島 ―

<手塚治虫が描いた「戦争と平和」: 壮大な漫画に込められたヒューマニズム>から私たちは何を学べるか?

 

前回の「核兵器を抱きしめて(6)」の結論で、「非暴力の実践」とは、日々の暮らしの中で、平和的文化を創造していく活動でなくてはならないという持論を述べておいた。そのような理想的な文化創造は一朝一夕にしてできるものではなく、幾世代にもわたって、様々な形での「非暴力の実践」を行なっていくことで、徐々に創り上げられていくものでしかない。それには、常にそのような文化活動を受け継いでいく若者世代の積極的な参加を促すような、興味深い文化活動でなければならない、とも私は述べておいた。

現在、「若者世代に積極的な参加を促すような、興味深い文化活動」の一つは、漫画やアニメを活用にするものであろう。そこで今回は、私が個人的にひじょうに高く評価している手塚治虫の漫画作品について私見を述べておきたいと思う。

ちなみに、先月一時帰国のおりには、大阪中之島の「子供の本の森」を訪問してみた。周知のように、この図書館は、建築家の安藤忠雄がデザインして建て、建築費用も安藤自身が全額負担の上で、大阪市に寄付したものである。素晴らしいデザインで、大人の私でも長時間座っていろいろ面白そうな本を読み続けたくなるような図書館である。書籍は国内外からの寄贈に頼っており、絵本や児童文学など約18千冊を超える書籍が収蔵されているとのこと。https://kodomohonnomori.osaka/

近年、安藤は同じような子どもの図書館を、岩手県遠野市、神戸市、熊本市、北海道大学、松山市などにも次々と自己負担で建築・寄附するという、「終活」と推測できる素晴らしい動きを見せている。つい最近、広島市にも同じ提案が出されたというニュースが流れた。

しかし、「子供の本の森 中之島」で残念だったのは、この図書館に一応「戦争と平和」に関する本のコーナーが設けられてはいるのであるが、寄贈に頼っているせいか、このコーナーに置かれている本の数は限られており、しかも手塚治虫の本は一冊も見当たらなかった。広島市に「子供の本の森」が設置された暁には、ぜひとも手塚治虫の作品の寄贈を市民の間で進めてもらい、活用してもらいたいと思う。手塚作品は、大人が子どもと一緒に読みながら、一緒に楽しみ、作品について話し合うことのできる漫画で溢れている。大人と子どもが平等な人間関係にたって、喜び、悲しみ、怒りを互いに共有しあう ― 私の表現では「非暴力の実践」 ― 活動を可能にしてくれる傑作が数多くある。手塚の漫画だけではなく、エッセイ集『ガラスの地球を救え』なども、ぜひ読んでもらいたい。広島で、手塚作品を子どもと一緒に読む定期的「手塚治虫作品読書会」の市民運動を、ぜひ長期にわたって続けてもらいたいと私は強く願う。

 

はじめに

手塚治虫は192811月に大阪で生まれ、19892月に60歳で亡くなった。比較的短い生涯で、長短合わせて700本以上の漫画を描き、その総ページ数は約15万ページにも及ぶ。したがって、手塚漫画のエッセンスを短い解説で要約することは非常に難しいが、大まかに言えば、彼の膨大な作品群の根底には、自然環境の尊重、生きとし生けるあらゆる生命の尊重、科学と文明に対する深い懐疑、反戦と平和への強いコミットメントという4つの大きな特徴があると言える。

 

この論考では、限られた時間の都合上、1950年代の初期の作品を中心に手塚漫画について論じたいが、1960年代、70年代、80年代の作品についても簡単に触れる。結論部分では、手塚の壮大な漫画に登場するヒーローを、アメリカの漫画作品のスーパーヒーローと簡潔明瞭に比較することで、手塚漫画の特徴を浮き彫りにすることを試みてみたい。 (なお、この論考は私の英語論文War and Peace as Illustrated by Tezuka Osamu: The Humanism in his Epic Manga’を和訳し、修正・加筆したものであることを記しておく。 https://apjjf.org/yuki-tanaka/3412/article

 

個人的背景

まず指摘しておくべきことは、手塚の家系が彼の思想に強い影響を与え、それが彼の作品の多くの基礎となっているということである。彼の曽曽祖父である手塚良仙と曽祖父である手塚良庵は、両人とも、江戸時代後期のいわゆる「蘭方医」(オランダ医学を学んだ医師)であり、1858年に江戸の神田に天然痘の予防接種所を開設したひじょうに進歩的な医師たちの小さなグループに属していた。手塚の先祖とその仲間たちは、封建的な日本社会にさまざまな西洋近代医療技術を導入しようと奮闘し、伝統的な医師の間だけではなく、一般庶民の間にも広まっていた「異質な手術」に対する深い不信感を克服した。(手塚は1981年から86年にかけて、手塚良庵と良仙の半伝記的漫画『陽だまりの樹』全11巻を制作している。)

手塚の祖父、手塚太郎は弁護士で、大阪地方裁判所の検事正、名古屋と長崎の検察庁長官を務めた。関西法律学校(現在の関西大学法学部)の創設者の一人でもある。手塚の父、手塚豊は住友金属工業のごく普通のサラリーマンだったが、写真や映画に深い興味を持っていた。1930年代、まだ多くの日本人にとって映画館に行くことが一種の特別な娯楽であった時代に、彼は「パティ・ベイビー」という映写機を持っており、自宅でよくチャーリー・チャップリンの映画やディズニーのアニメーションを上映していた。手塚の母・文子は、大日本帝国陸軍の高級将校・服部秀雄中将の娘であり、非常に厳格で伝統的な家父長的思想のもとに育てられた。しかし、この母もまた、そのような背景を持つ人物にしては驚くほど自由な考え方を持っており、漫画だけでなく、外国の小説や冒険小説の日本語訳など、他の文学作品も数多く子供たちに買い与えた。このように、手塚治虫が両親や先祖から多くの特徴的な要素を受け継いだことは明らかである。これらの要素は彼の膨大な作品群に反映され、彼の漫画のユニークなスタイル形成に貢献している。

1933年、手塚が5歳のとき、一家は大阪から宝塚に移り住んだ。大人気の宝塚歌劇団が常に上演し、現在も華やかなショーを行っている宝塚大劇場は1924年に建てられ、宝塚ルナパークなどの遊園地も同時期に建設されたが、その当時は、いまだ田んぼと山に囲まれた田園地帯の新興の小さな町だった。そのため、少年時代の手塚は昆虫や天文に強い興味を持ち、大阪の都会から移り住んできた田舎暮らしにとても魅力を感じていた。小学校低学年の頃から、昆虫採集に明け暮れ、それを丹念に絵に描いて記録した。そのような活動を通して、自然環境や生きとし生けるものへの深い敬意を抱くようになったのは確かなようだ。その一方で、母に連れられて宝塚歌劇団をよく観劇したことから、ミュージカルや演劇に魅了されるようにもなる。宝塚ミュージカルへの憧れから、物語を創作することも好きになったのであろう。小中学生時代には、面白い筋書きの漫画をよく描き、クラスメートだけでなく先生たちの間でも回覧されていた。

手塚治虫14〜5歳の頃のスケッチブック

日中戦争は1931年、手塚が9歳のときに始まり、太平洋戦争は1941年、13歳で中学に入学したときに始まった。 1944年夏、手塚は体力のない男子中学生のために設けられた特別訓練学校に送られ、集中的な軍事訓練を受けたが、重い皮膚病にかかった。同年9月からは中学校の授業は休講となり、そのため仲間とともに大阪の陸軍工廠に動員された。

1944年末から米軍は日本の都市への爆撃を開始し、翌年初めからは日本全土の主要な都市や町を標的にした焼夷弾爆撃が強化された。大阪市も幾度も攻撃された。最初の空襲は1945313日午前0時から3時間続き、7万発の焼夷弾が投下され、3,000人の市民が犠牲になった。61日以降、関西最大の都市である大阪は、67日、15日、26日、710日、24日、814日と繰り返し攻撃された。最後の爆撃は、日本が正式に降伏する前日の814日、150機のB29爆撃機から700発の1トン爆弾が投下された。主な標的は大阪城近くの陸軍造兵廠だったが、一部の爆弾は、ちょうど2列の旅客列車が到着した京橋駅に落とされた。この爆弾の直撃で多くの民間人が犠牲になった。この一連の米軍爆撃で、大阪市全体で1万人以上の市民が犠牲になったとみられている。        

手塚は工廠勤務中に大阪大空襲を経験している。仕事に集中せずに漫画を描いていたため、しばしば叱責され、罰として工場の庭にある監視塔に登ってB29爆撃機を見張り、見かけたら警告を出すよう命じられた。後年、彼は自分が体験したある空襲についてこう語っている:

空襲警報のサイレンが鳴り始めると、いつものように米軍爆撃機の編隊が淀川沿いに向かってくるのが見えた。「来るぞ」と思ったとたん、大雨のような音を立てて焼夷弾が降ってきた。爆弾は次々と工場に降り注いだ。監視塔の上に身をさらしていた私の人生もこれで終わりだと思った瞬間、真下2メートルの屋根に爆弾が落ちた。後で聞いた話だが、この爆弾で、この建物の下にあった防空壕に駆け込んだ人たち全員が亡くなったそうだ。私は気が狂ったかのように叫びながら、監視塔から転げ落ちた。辺り一面、火の海だった ...... 四方八方の家々が、ごうごうと音を立てながら、飛び跳ねる炎で燃えていた。そして黒いススを含んだ雨が降ってきた。私は淀川の川岸まで歩いた。そこからは、爆弾でえぐられた大きな穴がいくつも見え、そこに人体のようなものが無数に横たわっていた(遺体はバラバラになっていて人間には見えなかった)。

1974年、手塚はこの忘れがたい体験を描いた自伝的漫画『紙の砦』を発表した。この焼夷弾爆撃からの奇跡的な生還体験が、彼の戦争と平和に対する考え方に大きな影響を与えたことは間違いない。また、軍部の指導者や政治家に対して深い不信感を抱き、原爆や焼夷弾のような強力な破壊兵器を生み出す可能性のある科学知識の乱用を恐れるようになった。



 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

太平洋戦争が終わる直前の19457月、手塚は大阪帝国大学附属医学専門部に入学した。当時は医師不足の時代であったため、軍医速成のための医学部とは別の、医学専門部という制度が設けられ、一部の学生は高校を卒業せずに中学からそのまま医科大学に入学することができた。手塚は1951年にこの医学課程を修了したが、医師にはならず、プロの漫画家としての道を選んだ。しかし、医学を学んだことが、少年時代から育んできた生きとし生けるものの生命に対する畏敬の念につながったことは間違いない。実際、彼は生涯を通じて医学への関心を持ち続け、仕事が多忙を極める中、1961年に「異形精子」に関する論文を提出し、見事に医学博士の学位を取得している。

戦争における死の観察と、戦争の荒廃からの生命の復活は、手塚に生涯にわたる漫画創作の動機を与え続けた。現代日本画家として知られる横尾忠則との対談の中で、手塚は漫画やアニメーションの形の動きにはいつも強い生命力を感じると説明している。それは、戦時中の自分自身の生活に活力がまったくなかったためであるとも。戦争が終わったとき、自分の人生が蘇ったような感覚は、言葉では言い表せないほどエキサイティングなものだったという。それ以来、漫画を描くことにいつも強いエネルギーを見出していた。

彼は漫画のためのアイデアを得るために、いつも小説や冒険小説、演劇の台本を熱心に読んでいた。特にチェコの小説家・劇作家のカレル・チャペックの『R.U.R.』、『山椒魚戦争』、『白い病』、H.G.ウェルズの『月世界最初の人間』、ゲーテの『ファウスト』、ドストエフスキーの『罪と罰』などである。しかし、手塚がこれらの作家の作品を選び、自分の物語を創作するために利用したのは、単に作者が有名だからではなく、これらの物語が包含する深い人間性のためであることは明らかである。

 

鉄腕アトム:人間のようなロボット

手塚の初期の作品には、戦争、平和、人間性についての彼の考えが色濃く反映されているのは、彼が生死をさまよった爆撃体験があるからにほかならない。例えば、鉄腕アトムという有名なキャラクターは、もともとスーパーヒーローのロボットではなく、スーパーヒーローになることもなく、自分を作った科学者の天馬博士に捨てられた孤独で気弱な少年だった。鉄腕アトムは、交通事故で亡くなった科学者の実の息子の身代わりとして作られた。しかし、科学者は、ロボットは本物の人間の代わりにはなれないと悟り、鉄腕アトムを処分してしまった。鉄腕アトムは、戦後の日本社会から疎外された、戦争孤児の象徴のような存在だった。鉄腕アトムの漫画が発表された1951年当時、戦後6年を経た日本全国には多くの戦争孤児がいた。鉄腕アトムも戦災孤児たちと同じように、自分のアイデンティティを確立し、地域社会に貢献することで社会に受け入れられるよう努力しなければならなかった。鉄腕アトムは、平和の調停者として活動することで、それを成功させた。鉄腕アトムの第1話のタイトルが『鉄腕アトム大使』だったのはこのためである。

ただここで、ロボットの名前として「アトム」が使われたことに一言触れておく必要がある。周知のように、米国は、アイゼンハワー政権下で、「原子力平和利用」政策を国内外で推進する政策を1953年末に打ち出し、その結果、原子力エネルギーの利用で薔薇色の未来が開かれるような幻想が世界中を覆った。手塚もまた、この夢に一旦は惑わされ、ロボットを鉄腕アトムと命名し、アトムの妹のロボットもウランと名付けたのであろう。よって、当然、鉄腕アトムのエネルギー源も原子力であると読者は思ってしまう。実際には、漫画の中でロボットのアトムやウランが原子力で動くことを説明している場面は全くないにも関わらずである。手塚自身は、「原子力利用」に大きな問題があることに間もなく気がつくのであるが、そのときにはすでに「鉄腕アトム」の名称は全国に普及してしまっており、いまさら名称変更ができないような状況になってしまっていたのであろう。多数の原爆被害者をも賛成派に巻き込んだ当時の「原子力平和利用」プロパガンダに、手塚もまた惑わされてしまった事実について、私たちも深く考えてみる必要がある。

それはともかくも、この『鉄腕アトム大使』の漫画は、地球とまったく同じような別の惑星に住む宇宙人たちが、自分たちの惑星の爆発によって地球への移住を余儀なくされる物語である。宇宙難民となった宇宙人たちは、耳が大きいことを除けば、地球人とまったく同じである。地球人は当初、自分たち一人ひとりとそっくりの、自分の双子の相手、あるいは替え玉とも呼べるエイリアンたちを歓迎するが、やがて食糧危機に直面し、争いを始める。ここには、同じ人間がどうして互いに争い、殺し合うことができるのかという、単純明快な問いかけを通しての、戦争や紛争に対する手塚の批判が見て取れる。この漫画を通して、手塚の「あらゆる生命のために、ひとつになった地球」という、その後の彼の様々な作品の根幹に一貫して流れるコンセプトが、すでにこの作品の中で形になっていることがわかる。

手塚は、第二次世界大戦中の恐ろしい原爆・焼夷弾攻撃だけでなく、終戦直後の連合国軍占領下でアメリカ人GIから受けた暴力に遭遇したことで、異民族間の争いの不条理さを身をもって学んだ。米国兵に売るために自分が描いた絵を、ある米兵は破ろうとした。それを彼がなんとか止めようとしたとき、彼はその米兵にひどく殴られるという体験をしたのである。

鉄腕アトムは人工的に作られたため、異星人の中に自分の「替え玉」を持たず、人類にも異星人にも属さないため、仲介役を務めることができる。最終的に彼は、人類の半分とエイリアンの移住者の半分が地球を離れ、それぞれが平和に暮らせる別の惑星を探すよう手配し、2つの種族間の和平構築に成功する。興味深いのは、映画『GODZILLA ゴジラ』に代表されるように、戦後の怪獣による日本侵略物語の多くが、異様で危険な「他者」との対決における日本人の究極的な生存をテーマに構成されているのに対し、この『鉄腕アトム』第1話のメインテーマは、2つの異なる種族間の「和解」であることだ。実際、その後17年間続いた鉄腕アトムのエピソードでは、隔離と和解がこれらの人道的なロボット物語の中心テーマであり続けたが、2つの異なる種族の対立と和解という当初のテーマは、人間とロボットの対立というテーマへと発展していった。


鉄腕アトムが自分で考え、人間の幸せを実現するために行動する能力を持っていることも興味深い。逆に、1950年代に登場した他の人気ロボット漫画のヒーロー、例えば横山光輝の『鉄人28号』は、最終的にロボットの善悪を決める操縦者=コントローラーに従うだけである。そのため、これらのロボットは、誰が操縦するかによって、正義のために戦うロボットから悪役に転向したり、その逆に転向したりすることが簡単にできる。このような単純な機械生産のロボットとは異なり、鉄腕アトムは、他のロボットが人間に反抗するとき、しばしばどちらの側につくべきか合理的に判断できず、窮地に立たされる。しかし必然的に、鉄腕アトムは人間の幸せを実現するという使命を果たす。

このように、多くのエピソードで鉄腕アトムは死と再生のサイクルを繰り返し、修理されたり作り直されたりする。実際、19663月に完結した鉄腕アトムシリーズの最終回は、鉄腕アトムの究極の自己犠牲で幕を閉じた。この物語の中で鉄腕アトムは、人間に反抗するロボットのリーダーであるブルーナイト(青騎士)と呼ばれるロボットに襲われたロッソ博士を守ろうとした後、完全に破壊され、修復することはもうできなくなった。これらのロボットは、ロッソ博士自身の産物であった。したがって、アメリカの漫画のスーパーヒーローたち ― 例えばスーパーマンやスパイダーマン ― とは異なり、鉄腕アトムは不死身でも無敵でもない。鉄腕アトムは、ロボットとしての自意識と人間としての自意識のジレンマに常に悩まされているため、スーパーヒーローになることはできない。 鉄腕アトムは永遠に若く、肉体的には年を取らないが、普通の人間の少年と同じで、常に不完全であり、人生の困難との出会いや経験から学び続けている。

鉄腕アトムと鉄人28号の決定的な違いは、鉄腕アトムの行動思想に普遍性があることである。鉄腕アトムは世界の平和と正義を求め、常に世界中を動き回っている。彼は国籍や民族を超え、自由に国境を越える。何が本当に正義なのかを判断するのは難しいと感じることも多いが、最終的には正義を貫く者なら誰とでも手を組み、どんな悪党とも戦う。一方、鉄人28号の漫画では、善人はいつも日本人に見え、日の丸をあしらった飛行機や乗り物に乗っているが、悪人はいつも白人に見える。鉄腕アトムの世界では、紛争は通常、国家間や人種間で起こるのではなく、不道徳な大人と無邪気な子供との間で起こる。その意味で、この児童向け漫画は、政治、国籍、民族、宗教、人種や文化の違いといった偏狭なイデオロギー的要素と密接に絡み合った大人の活動に対する深い批判を含んでいる。鉄腕アトムのキャラクターが持つこの普遍的な側面が、世界的に絶大な人気を誇る大きな理由であることは間違いないだろう。

手塚は、1920年にカレル・チャペックが書いた有名なSF小説『R.U.R.』をはっきりと意識していたようだ。この物語でチャペックは、チェコ語の「ロボタ」(「奴隷労働」の意味)から「ロボット」という新しい言葉を発明した。R.U.R.は、人間自身が生み出したロボットの人口が増加した結果、人類が完全に滅亡するという結末で終わる。チャペックが生涯を通じて作品の中で探求し続けた重要な問いのひとつは、科学技術の発展が最終的に人間に幸福をもたらすのかどうかということだった。彼は常に科学がもたらす恩恵に懐疑的で、テクノロジーの乱用が最終的に人類の絶滅につながるのではないかと考えていた。手塚も同じ疑問に悩まされ続けたが、チャペックとは異なり、彼は、人間は基本的に科学技術の知識を自分たちの幸せのために活用できるくらい賢明であるという希望を捨てなかった。しかし同時に、彼は漫画を通して、そのような知識の乱用が人間だけでなく、環境や地球上の他の多くの生物にも害をもたらす可能性があることを常に警告していた。

 

未来の世界:科学技術の乱用への警告

1951年、手塚は『来るべき世界』という大作マンガも発表したが、 この作品には米国と当時のソビエト連邦の間の核軍拡競争を厳しく批判する内容が含まれている。この漫画では、敵対する2つの国、スター国とウラン連邦が長年にわたって核実験を行っているという設定になっている。その結果、多くの動植物が放射線の影響を受け、突然変異を起こした。そのような突然変異のひとつが「フウムーン」と呼ばれる優れた知性を持つ生物を生み出し、彼らは地球がまもなく有毒ガスに覆われ、それゆえすべての生物が絶滅することを察知する。そこでフウムーン一家は、ノアが箱舟で行ったように、地球上のすべての生き物を一組ずつ連れて、大型衛星で地球を離れることにした。

一方、スター国とウラン連邦は核兵器の開発に余念がなく、やがて核戦争を始めてしまう。この核戦争で両国がほぼ完全に破壊されたとき、両国の指導者たちは平和を回復することに同意する。しかし、その頃には地球は暗黒の毒ガスで覆われつつあった。毒ガスが降り注ぐ中、両国の首脳は抱き合いながら、「平和、平和が訪れた!世界文化万歳!」と叫ぶ。いまや、地球沸騰化によって地球全体が深刻な気候危機に見舞われている一方で、私たちはいまだに世界中で戦争に明け暮れ、2023年には世界全体で年間24,430億ドル(約378兆円)もの軍事費を費やしている。73年前に手塚が描いた漫画 『来るべき世界』での世界の危機的状況は、哀しいかな、今現在の危機的状況と変わらない ― いやそれどころか、ますます逼迫した状態に陥りつつある。


このメッセージに加え、『来るべき世界』が提起する問題には他にも多くの要素がある。この漫画では、3人の子供、フウムーン、ヒゲオヤジと呼ばれる私立探偵、山田野加賀士博士という名の生物学者、そしてスター国とウラン連邦のそれぞれの国家指導者が主人公として登場する。この2つの国の対立の物語は、登場人物たちの関係が進展するにつれて展開する。これらの登場人物は、重大な事件が次々と起こり、それらの事件は前の事件が解決する前に始まるという悪循環が生まれるのを目の当たりにする。日本の漫画家であり評論家である夏目房之介が適格に指摘しているように、この2つの強国間の国際紛争の物語は、主人公たちの個人的な関係の多くの物語が複雑に絡み合って構成されている。さらに、国際紛争は、人間とフウムーン族の文化的・知的差異を物語る重要な要素としても構築されている。しかし、結局のところ、これらの物語はすべて、宇宙という壮大な物語のほんの一部分としてしか提示されていないことに読者は気づく。2つの国の対立は、人間とフウムーン族の対立という文脈では無意味であり、同様に人間とフウムーン族の対立も、地球と地球上のあらゆるものが脅威にさらされている今、無益であることを読者に分わからせるのである。

手塚の漫画によれば、未来の世界は相互関連性の論理に基づいて構成されているのであり、特に普遍的な観点からすれば、この世界には「絶対的な正義」など存在しないことを示している。実際、手塚は彼のエンターテインメント性と想像力を駆使した漫画を通して、すべてのものは他のものとの関係によって条件づけられており、何事にも単純明快な答えは存在しないことを読者に伝えようとした。言い換えれば、人間を含むあらゆる存在は、他の存在との関係によって不可避的に条件づけられており、この相互関連性の関係なしに存在するものは何もないということだ。それゆえ、他の多くの児童漫画の物語とは異なり、この壮大な漫画には正義と平和のために戦うスーパーヒーローは登場しない。したがって、物語はスーパーヒーローの絶対的勝利で終わることはない。

しかし、手塚はこの漫画を人類の悲劇で終わらせたくはなかった。そこで彼は、毒ガスが地球に降り注ぐまさにそのとき、劇的な化学反応を起こして無害な酸素に変わり、人類が生き延び、生き続けることができるようにすることにしたのだ。しかし、彼は山田野博士の最後の言葉を通して、読者に警告を発している。言わく、「いつの日か、優れた生物が人間を征服するかもしれない。これは自然の法則である。もし私たちが自然の法則の下で生き、生き残りたいのであれば、互いに争うことをやめなければなりません」。手塚はまた、『メトロポリス』や『ゼロマン』など、1940 年代後半から 1950 年代初頭に制作した他の大作マンガの最後にも同様の警告を挿入している ― 例えば、「いつの日か、人類は科学が発達しすぎたために自滅するかもしれない」という言葉はその一つ。

カレル・チャペックの小説『山椒魚戦争』と手塚の『来たるべき世界』を比較すると、相互関連性の論理が驚くほど似ていることに気づく。どちらの物語でも、人間より優れた種 ― 『山椒魚戦争』ではサラマンダーが、『来たるべき世界』ではフウムーン ― が現れ、やがて地球上のあらゆるものが全滅の危機に直面する。どちらの物語でも、人間は地球上の多くの生物種の一つとして扱われ、人間同士の争いは地球全体に深刻な危機をもたらす。そしてまた、手塚の物語の結末は、人類が最終的に生き残るための希望を与えているのに対し、チャペックの物語は人類の致命的な悲劇を予言して終わっている。この違いにもかかわらず、手塚の初期の作品がチャペックの科学や人間の行動に対する懐疑主義から、大きな影響を受けていたことは間違いない。

 

核問題を描いた大作漫画

1953年、手塚は『太平洋Xポイント』という大作漫画を発表した。敵対する2つの核保有国、コスモポリタン国とユーラシア国が、より強力な兵器を開発しようと躍起になっている。やがてコスモポリタン国は、核爆弾よりもはるかに強力な「酸素爆弾」と呼ばれる新型爆弾を製造する。この新兵器の実験に反対する世界中の抗議にもかかわらず、コスモポリタン政府は太平洋上の「ポイントX」という場所で実験を行うことを決定し、実験場付近の島々の住民をすべて人里離れた場所に移住させる。このニュースを聞いた元泥棒で、今は普通の市民として暮らしているヒゲオヤジと呼ばれる老人は、実験前に兵器を破壊することを決意する。息子の協力を得て、彼はこの計画を成功させる。この漫画でも、政治家や軍国主義者の狂気と戦うのは、スーパーヒーローではなく、犯罪歴のある老人とその息子なのである。

「酸素爆弾」の恐ろしさを想像するヒゲオヤジ

手塚がこの漫画を書いたのは、アメリカがビキニ環礁で水爆実験を行う1年前であったことは注目に値する。アメリカがビキニ環礁で核実験を開始したのは19467月で、広島と長崎に原爆が投下されてから1年も経っていない。しかし、核実験問題が日本で大きな政治問題となったのは、19543月にビキニ環礁近くで行われたアメリカ初の水爆実験「ブラボー作戦」の結果、日本の漁船「第五福竜丸」が放射性降下物に覆われ、乗組員が被曝してからである。手塚を除けば、この時期の漫画界で核問題をメインテーマに取り上げた作家はほとんどいなかった。

その例外のひとつが、日本の反核運動がすでに強く広まっていた第五福竜丸事件から5年後の1959年に出版された白土三平の『消えゆく少女』である。原爆による放射能病で、家族全員を失った広島の少女の物語である。彼女自身も被爆によって病気になり、 被爆者に対する当時の根強い社会的差別の結果、彼女はホームレスとなる。そして彷徨い歩く森の中で彼女は、戦時中に日本に連れてこられ、日本の炭鉱で強制労働に従事させられていた朝鮮人男性と出会う。しばらくの間、ふたりは幸せに暮らしていたが、韓国人男性が警察に逮捕され、韓国に戻る船に乗せられる。彼は船から逃げ出し、森に戻るが、少女はすでに死んでいた。放射能差別と民族差別を真っ向から取り扱う感動的なストーリーであることは間違いないが、この漫画のメインテーマは、原爆問題そのものよりも、日本の社会的・人種的差別である。日本社会の問題に焦点を当てており、手塚の漫画とは異なり、核問題に立ち向かうに当たってグローバルな視点は持っていない。

第五福竜丸事件に触発され、1954年末に映画『ゴジラ』が製作されたことはよく知られている。その翌年には、同じく水爆実験に影響を受けた黒澤明が『生きものの記録』を制作している。どちらも日本人を核兵器の被害者として描いている。実際、1952年以降、新藤兼人監督の『原爆の子』など、原爆や核実験を題材にした映画が数多く製作された。これらの映画は例外なく、日本と日本人を被害者として描いている。そのずっと後、1970年代になって、中沢啓治が『はだしのゲン』を発表した。この漫画は、広島に対する原爆無差別大量殺戮を生き延びた少年とその家族の厳しく困難な人生を描いた大作である。この漫画は英語をはじめ数多くの外国語に翻訳されて世界中で広く読まれ、現在も国内外で人気を博している。しかし、手塚自身がかつてコメントしたように、この漫画の物語の主たる重点は、核兵器の問題よりも、想像を絶する災難を経験した家族の深い愛と強い絆に置かれている。この漫画でも、日本人は主として戦争の犠牲者として描かれ、中心テーマは、戦後の日本での生活のさまざまな困難 ― とりわけ日本政治社会の「正義に反する行為」に起因する困難 ― を懸命に乗り越えていく、その「正義を求めて」やまないゲンの姿である。その点で、もちろん感動的な作品であることは間違いないが。

実に興味深いのは、手塚は1955年にも核問題を扱った大作『大洪水時代』を描いていることだ。この漫画では、 日本が核兵器保有国という設定になっている。北極近くに建設された日本の秘密核兵器が突然爆発し、海水の大洪水が日本に降り注ぐという災害を描いている。その結果、日本の国土の3分の1が水没するというストリーである。当時、多くの日本人が核兵器の使用によって自分たちが犠牲になることだけに関心を寄せていたのに対し、手塚は戦争に参加しなくても日本も核保有国になる可能性があり、その結果、自然環境だけでなく人間にも災いをもたらす可能性があることを示唆することにためらいがなかったことが、この漫画を通してわかる。手塚がこの漫画を描いたのは、アメリカ軍が朝鮮戦争で戦うために日本の基地を使用していたため、近い将来日本人も戦争加害者になるかもしれないという懸念を表明するためだったのは明らかだ。この漫画でもまた、大量破壊兵器の製造を目論む大人たちの狂気と戦おうとする少年の姿が描かれている。

『大洪水時代』から

劇画マンガとアメリカン・ヒーロー

1960年代後半から1970年代前半にかけて、ベトナム戦争反対運動が盛んだった頃、手塚は『紙の砦』、『ゼフィルス』、『カノン』、『墜落した戦闘機』、『大将軍、森へ行く』など、アジア太平洋戦争を題材にした、短編ながら優れた劇画マンガ(大人向けマンガ)をいくつか発表した。手塚がこれらの漫画を描いたのは、米軍による度重なる激しい空爆の下で、ベトナム人が日々どんな苦しみを味わっていたかを想像してのことだったのは間違いない。これ以外にも手塚は劇画マンガを制作しており、特に『ブラック・ジャック』シリーズは、ベトナム戦争でアメリカ兵が経験した精神的外傷や身体的重傷を直接描いた作品である。

1970年代後半からその生涯を閉じるまで、手塚の物語の多くは、善と悪の共存という人間の本性の二重性の問題と、この生来の矛盾から生じる様々な問題、中でも最も深刻な戦争問題をどう解決するかという問題を扱っていた。この種の作品では、1976年に出版された2巻本『MW(ムウ)』と1983年に出版された5巻本の『アドルフに告ぐ』が代表作だろう。『MW』では、化学兵器などの大量破壊兵器を扱う人々の狂気を ― 同時に当時としてはほとんどタブー視されていた同性愛の問題も真っ向から ― 取り上げている。一方、『アドルフに告ぐ』は、それぞれ「アドルフ」と名付けられた3人の男をめぐる長大で複雑な戦争物語である ― その3人とは、アドルフ・ヒトラー、神戸に住むユダヤ人のパン屋の息子少年、神戸に住むドイツ人領事の父と日本人の母の間に生まれた少年である。この物語では、人種の純潔性、民族性、個人のアイデンティティ、ナショナリズム、国家イデオロギー、軍事暴力、非人間化、政治腐敗など、多くの重要な問題が問われている。ユダヤ人少年の父親は、第二次世界大戦中にナチスの将校となった日系ドイツ人の少年に殺される。しかし戦後、ユダヤ人の少年はイスラエルに移住し、パレスチナ人を残虐に弾圧するようになる。パレスチナ問題に関心を持つ日本人がほとんどいなかった1980年代初頭、手塚はすでにこの問題を日本の漫画読者に紹介し、戦争が同じ人間を被害者にも加害者にもしうることを明確に指摘していた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すでに述べたように、手塚の漫画にはスーパーヒーローがほとんど登場しない。聖人のようなブッダでさえ、目的を達成するために人間のさまざまな弱点や欠点を苦労して克服する人物として描かれている。『ブッダ』と題された全14巻の長編漫画に登場するブッダには、イエス・キリストのような生来完璧な人物とは異なり、個人的な欠点や弱点を持った人間である。

手塚の漫画には、スーパーマンやスパイダーマン、バットマンといった、アメリカの漫画で最も人気のあるキャラクターのようなスーパーヒーローは登場しない。これらのアメリカン・スーパーヒーローは、正義、道徳、倫理といった事柄に関する限り、判断を誤ることは決してない。彼らは常に正義と平和という崇高な目的のために戦い、やがて悪党や悪を倒すという壮大な使命を果たし、その驚異的なパワーで次々と危険を排除していく。

この点で、アメリカのスーパーヒーローは、実は米軍を象徴するような存在なのである。米軍は、スーパーヒーローの如く、独善的な「正義と平和」のためには世界のどこへでも侵攻して行き、強力な軍事力で「悪敵」を排除する。広島・長崎に原爆攻撃を行ったのも、まさに「自由と民主主義の勝利」という崇高な目的のために日本軍国主義ファシズムを崩壊させるためだった、というスーパーヒーロー的な神話を作り上げて、ジェノサイドという由々しい「人道に対する罪」を隠蔽してしまった。

しかし、2001年の9.11テロのような現実の大惨事が起こると、こうしたスーパーヒーローたちは突然、まったく無力になる。これは、スーパーヒーローたちが生きている想像の世界が現実世界から完全に切り離されているのに対し、手塚漫画の想像の世界は、現実世界の重大で複雑な問題と密接かつ強固に結びついているからである。したがって9.11テロでは、スーパーマンは言葉を失い、燃え上がるツインタワーを前に、何もできない自分の不甲斐なさに苦しむばかりである。2001年末に発表された漫画では、911日の救助ボランティアたち ― 消防士、警察官、看護師、医師 ― の特大の姿を前に、小さなスーパーマンは彼らを見上げて、ただ「すごい」と言って感激することしかできない。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スパイダーマンもまた、ツインタワーの瓦礫の前で、大勢の救助ボランティアたちが懸命に作業をしている姿を、茫然と見下ろすより他になす術がない。彼にできることは、絶望的に「グラウンド・ゼロ」の現場に立ち尽くし、「テロリストの世界を理解することはできない」と心の中でつぶやくことだけだった。実際、スパイダーマン初のハリウッド映画は911日のテロの直前に撮影されており、その中でスパイダーマンはツインタワーの間に巨大な網を張っていた。ところが、映画が公開される前に、世界貿易センタービルの映像はコンピューター技術によってすべて消去されたのである(気をつけて観ると、ほんの数秒間だけツインタワーの映像がまだ残っているが)。ツイン・タワーが崩壊した後、瓦礫の下敷きになった人を一人も救えなかったスパイダーマンが、ツインタワーの周りをジャンプできるはずがないからである。つまり、現実は、真のヒーローはスーパーマンやスパイダーマンではなく、救助ボランティアであることを明確に示しているのである。


3,000人近い市民が無差別に殺されたこの驚くべきテロ攻撃に対して、手塚が当時まだ生きていたなら、漫画を通してどのように反応しただろうか。繰り返して述べるが、手塚の漫画にスーパーヒーローが登場する余地はない。なぜなら、彼の漫画世界は複雑で、絶対的な正義や絶対的な公正など存在しないからだ。彼の漫画の世界は非常に想像力に富んでいるが、登場人物の誰かが正義と平和を願うなら、人間社会の複雑さ、特にさまざまな形の「対立」に直面しなければならないという現実、その厳しい現実を直視しなければならないからだ。

 

結論

手塚の壮大な長編漫画は、ストーリーが常に対立を軸に展開するため、どの作品もダイナミックである ―  強国対強国、人間対機械、原始的対近代的、組織対個人、理想主義対現実主義、科学対倫理などなど。これらの対立は、帝国主義、独裁、植民地化、大量虐殺、官僚主義といった普遍的な問題の形をとっている。しかし、こうした大人のテーマは常に明確に提示され、子供にも理解しやすいように単純化されている。実際、彼の膨大な量の漫画作品は「無邪気なセレモニー」と呼べるであろうと私は思う ― この表現は、1920年にアイルランドの有名な詩人ウィリアム・バトラー・イェイツが、子どもたちの世界を表現するのに使った素晴らしい言葉である。

このように、終戦直後から漫画家として活躍し始めた彼は、1989年にその生涯を閉じるまで、魅力溢れるビジョンと力強い想像力によって、自分たちをもっぱら戦争被害者としか見ない偏狭な日本人の見方にほとんど影響されることなく、世界的視野に立った深いヒューマニズムを維持し、それを自分の作品で次々に表現することができたのである。彼の作品は、小林よしのりのようなナショナリスティックな日本の低劣な戦争漫画とは対極にあることがよくわかる。なぜ手塚はこのようなヒューマニズムを獲得できたのだろうか?私たち自身は、どうすれば手塚と同じような強靭なヒューマニズムを獲得し、それを社会の文化基盤としてしっかりと根付かせ、普及させることができるのだろうか?これらの問いは、人種に関係なく、手塚の刺激的な漫画を読むすべての人が真剣に探求すべきものであると私は思う。

 

 



2024年6月5日水曜日

核兵器を抱きしめて(6)

 ― 広島を抱き寄せる米国、抱きしめられたい日本と広島 ―

米国の「ヒロシマ抱き寄せ戦略」をひっくり返す「平和文化創造運動」の構想を!

 

この論考は、<米国の「ヒロシマ抱き寄せ戦略」をひっくり返す「平和文化創造運動」の構想を!>と題して行なった広島講演(2024511日)のノートに少し修正を加えたものです。元々の講演ノートの結論部分<7)新しい市民運動としての「平和文化創造運動」の構想を!>は、ここでは全文をカットしました。

実は、2月末に前回の「核兵器を抱きしめて(5)」をブログに載せた際に、次回(6)は<「広島の平和教育」への私的提言 ― 『ひろしま平和ノート』改悪を乗り超える展望を ― >という内容にする計画でした。ところが突然5月の一時帰国中に広島で講演することになったため、この計画を変更しました。講演ノートを「核兵器を抱きしめて(6)」として発表することにし、カットした今回掲載の論考の結論部分は<「広島の平和教育」への私的提言>と重なる部分がかなりあるため、次回の「核兵器を抱きしめて(7)」は、この私的提言を含めた新しい論考にする予定です。

 

とりあえず、今回のこの論考をご笑覧いただき、ご批評いただければ光栄です。

 

1)   「戦争責任隠蔽」を出発点とする日米両国の戦後 ― 映画「オッペンハイマー」批判から考える

 

この映画は、私のブログでも詳しく述べておいたように、原爆開発の先頭にたってきたオッペンハイマーが、実際に原爆が使われたことで、原爆攻撃の壊滅的な破棄力と殺傷力の驚愕的な現実性に突然気づいたときの、彼自身のもっぱら精神的な痛み ― 罪悪感 ― に強く焦点を当てている。その罪悪感ゆえに戦後は水爆開発には加わらず、米ソ軍拡競争を防ごうと努力したにも関わらず、冷戦時代の米国の過酷な反共政策による吊るし上げにあう。その結果、苦しい人生を歩まなくてはならなくなった「善良な科学者」に光をあてる。よって、映画は最初から最後まで、新型大量破壊兵器の開発に関わった「科学者のモラル」と「心理的苦悩」の問題として観客に迫ってくる。しかし、その大量破壊兵器が、戦争を終焉させるためにはどうしても必要だったという「神話」を、この映画は、最終的に ― 実際にはそれが真実ではないことを彼自身が後で知ったにも関わらず ― オッペンハイマーに吐露させている。ところが映画自体は、晩年になってオッペンハイマーが、原爆使用の決定が極めて政治的な理由に基づいたものであったことを知らされたという事実には全く触れない。よって、結局この映画は、オッペンハイマーという一個人の心の苦しみにだけ焦点を当てることで、あたかも当時の米国の大統領をはじめ政治・軍指導層たちもまた、オッペンハイマーの「心理的苦悩」を多かれ少なかれ共有しながらも、戦争を終焉させるために原爆という新型大量破壊兵器を使用するという難しい決断を迫られたかのような印象を、強く観客に与えるものとなった。

事実は、原爆使用の決定は戦略的な必要性に基づいていたものでは全くなく、ソ連に原爆の威力を示すことによって戦争を終わらせ、しかもソ連が戦後の日本占領に加わる機会を得ないようにすることにあった。かくして、194586日と9日の原爆による21万人(内4万人は朝鮮人、3千人は日系アメリカ市民)にのぼる広島・長崎市民の無差別大量殺戮、それに続く815日の日本の降伏を、日本軍国主義ファシズムに対する「自由と民主主義の勝利」と米国は誇り高く主張した。同時に、トルーマン大統領は、戦争終結を早め「多数の民間人の生命を救うため」に原爆を投下したと述べて、アメリカ政府が犯した重大な戦争犯罪=「人道に対する罪」の責任をごまかす神話を作り上げた。この神話が、これまで長年にわたり米国市民の間で、強く広く、あたかも真実かのように信じられてきた。米アカデミー賞7冠に輝いたこの映画は、結局、世界各国で鑑賞した観客 ― 数百万人あるいは数千万人か? ― の意識に、この「神話」を再度強く埋め込んでしまったと思われる。

かくして、「正義の戦争」での勝利のために使われた手段であるという理由で、核兵器使用は正当化されてしまった。そのため、核兵器そのものの犯罪性が、その後現在に至るまで、厳しく追及されないままになってしまった。映画もまた、原爆の犯罪性については何ら言及しないままで終わっている。          

  一方、日本は、15年という長期にわたってアジア太平洋各地で行った戦争中に、様々な戦争犯罪や残虐行為で2千万人をはるかに超えるアジア人を犠牲者にし、それに加えて35千人を超える連合軍捕虜を虐待行為で死亡させ、310万人という日本人の戦没者を出した。戦争最終段階での、天皇裕仁と日本の軍事指導者たちにとっての最大の関心事は、原爆被害ではなく、日本がソ連軍に侵略される可能性であった。ソ連が日本占領に加われば、天皇裕仁が戦犯裁判にかけられることは確実であった。よって、戦後も天皇制維持を許されることが日本側の降伏条件であったが、連合国(実際には米国)側は、最終的にこれを受け入れた。ところが、1945815日に発表した終戦の詔勅(天皇メッセージ)で、「非人道的な原爆のゆえに降伏せざるをえなかった」と述べ、「原爆投下」だけを降伏決定要因とし、戦争は「アジア解放」のためであったとの自己正当化のために原爆被害を利用した。かくして戦争犠牲者意識だけを煽ることによって、天皇自身をはじめとする戦争指導者層の侵略戦争の責任はもちろん、日本国民がアジア太平洋のさまざまな人たちに対して負っている法的・倫理的責任をも隠蔽する手段の一つに「原爆投下」を利用した。こうして、アメリカ政府同様に、日本政府もまた原爆殺戮を政治的に利用して「神話」を創り上げ、天皇裕仁をはじめ自国民の戦争責任を隠蔽した。

  すなわち、日本の戦後は ― ごく少数の日本の戦争指導者の犯罪を除いて ― 米国と日本のそれぞれの戦争犯罪の隠蔽を、相互に認め合い、互いにその責任を追求しないという相互了解から始まったのである。

 

 

  こうした日米両国の無責任という歴史的背景から、戦後これまで、私たち自身が被害者となった米国の原爆殺戮犯罪の加害責任を厳しく問うことをしてこなかったゆえに、私たち日本人がアジア太平洋各地の人たちに対して犯した様々な残虐な戦争犯罪の加害責任も厳しく追及しないという、二重に無責任な姿勢を産み出し続けてきた。そのため、米国の軍事支配には奴隷的に従属する一方で、アジア諸国民衆からは信頼されないため、いつまでたっても平和で友好的な国際関係を築けない国となっている。

  核兵器そのものの犯罪性が厳しく追及されなかったため、「正義は力なり」という米国の本来の主張は、核兵器という大量破壊兵器を使ったことによって、実際には「力(=核兵器)は正義なり」とサカサマになっていたことを暴露する機会が失われてしまった。その結果、核兵器使用は「人道に対する罪」であり、核抑止力は「人道に対する罪」を犯す準備・計画を行う犯罪行為=「平和に対する罪」であるという核兵器の本質が、いまだに明確に普遍的な認識となって世界の多くの人たちに共有されていない。

映画「オッペンハイマー」は、核兵器をめぐるこうした現状に対して、観客になんらの再考も迫らないし、いささかの批判力にもなっていない。それどころか、米国が創り上げた「原爆神話」をひじょうに狡猾なやり方で幇助しており、その結果、間接的には日本政府がでっちあげた「原爆神話」も裏書する形となってしまっているのである。

 

2)相互に矛盾する「戦後国家の三原理(武藤一羊テーゼ)」と日本「戦後民主主義」の特徴

 

日本の戦後「民主主義」は、上に述べたように、日米各々の戦争犯罪と責任の隠蔽の相互了解を出発点としたが、その「民主主義国家」は、三つの国家正統化原理が一つの束となって成立した歴史的構成物であるというのが、武藤一羊がかなり以前から唱えてきたテーゼである。このテーゼは、特に安倍政権までの戦後日本の政治社会構造を極めて明瞭に理解するうえで、ひじょうに有効な分析方法であると私は考えている。日本戦後民主主義の特異な特徴を、この武藤テーゼほど簡潔明瞭に説明しているものはないのではなかろうか、と私は考えている。

 

 

武藤一羊
 

そこで、ここでは、この「三つの国家正統化原理」について簡単に解説し、次節で三つの原理の拮抗バランスがとりわけ安倍政権以降、どれほど急速に崩れ始め、現在に至っているかを説明してみたい。そこから、現在、「核兵器を抱きしめている」米国の「ヒロシマの抱き寄せ」が引き起こしている様々な問題の発生原因についても、より明確に理解できるようになるはずである。

戦後の日本国家は、米軍占領期を経て、相互に矛盾する以下のような三つの国家正統化原理が一束になって構成されたものとして成立し、長年それが維持されてきたと武藤テーゼは説明する。その第1原理とは、アメリカの「グローバル覇権原理」、第2原理は、「憲法の非武装平和・民主・人権原理」、第3原理は、「戦前日本帝国を継承する原理」である。占領終了後の日本国家はこの三つの原理を都合よく折衷し、相互に矛盾しているにもかかわらず、均衡を保ちながら政治的安定を維持してきた。

このうちアメリカ覇権原理とは、沖縄を中心に日本各地に軍事基地を置き、軍事・外交では日本を完全に米国に従属させること ― 実質的には「半植民地化」 ―   で日本を中露(旧ソ連)+朝鮮に対抗する前線基地として利用し支配する原理のこと。そのカナメとして安保体制が、深く有機的に戦後国家に組み込まれた。

パックス・アメリカーナ(軍事支配力による平和維持)というこの米国覇権原理は、日本を再び軍事大国にはさせない目的で日本に創設させた「平和憲法」 ― とりわけ憲法前文と9条 ― とは、決定的に矛盾する。とくに前文で謳われている「全世界の国民」に保証されている「平和的生存権」の確認と、9条の「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という確約が、アメリカ覇権原理と真っ向から矛盾撞着することは、誰の目にも明らかなところ。

ところが、国家政権は安保・自衛隊を堅持する自民党が掌握し、それに対抗する社会党・総評ブロック(共産党を含む)を主力とする「革新」勢力が、「憲法の非武装平和・民主・人権原理」を強調することで、反安保・護憲を掲げて対峙した。かくして、第1と第2原理の拮抗は、「1955年体制」と呼ばれる比較的安定した戦後国家を維持・継続することに貢献した。同時にこの時代は、日本資本主義の高度成長期で、経済拡大という目的さえ達することができれば、強力な政治的国民統合に国家を結集させていく必要性 ― 例えばナショナリズムの高揚 ― を保守政権がそれほど強く感じない時代だった。

3の「戦前日本帝国を継承する原理」とは、「神聖にして侵すべからざる」天皇の下で、明治維新以降、近代日本がアジア太平洋各地で行った戦争、侵略、植民地化は正当で輝かしい過去であり、それに比べて、1947年施行憲法の下での戦後日本は、アメリカに押しつけられた憲法の下、本来の「日本」が失われた忌むべき姿をさらす国となった、という時代錯誤の思考を中心軸とする。それゆえ、本来の、美しい日本を「とりもどす」ことが必要であり、そのためになすべき最も重要なことの一つが、「憲法」を日本の伝統的思想に基づいて全面的に「改正」することであると主張。

しかしこの第3原理は、1980年代までは、第1と第2原理に強く押さえられて、戦後国家の中に固く閉ざされていた。そのため、大日本帝国の所業を肯定・正当化し正統化するこの原理を公然と主張することは、戦後長年、困難だった。ところが、1960年代初めから文部省が導入した教科書検定 ― 実質的には「検閲」で、家永三郎教授がその後長年にわたりこれに対して裁判闘争を続けた ― が1980年代初めから、さらに悪化。これを機に、第3原理は、教科書問題をめぐって間歇泉のように噴き出す文部大臣を含む保守政治家の「妄言」などで表面化して、すでにその存在を示すようになった

以上が武藤テーゼの骨子であるが、実は矛盾はこの三つの原理の間だけではなく、2原理の「憲法の非武装平和・民主・人権原理」それ自体が、決定的な矛盾を内包しているという重大な問題がある。すなわちそれは、憲法前文と9条の間に、そのどちらとも根本的には背馳する憲法第1章「天皇」が挟み込まれているということである。

すでに述べたように、天皇裕仁の戦争責任は日米共同の隠蔽画策で、不問にされてしまった。この共同画策を基に、アジア太平洋戦争における日本の「全面降伏」にもかかわらず、少なくとも「国体」の「象徴権威」 ― 「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」 ― だけは基本的にはそのまま温存することで、天皇制維持をはかりたいという天皇裕仁ならびに日本政府の意向と、天皇が「象徴権威」をそのまま維持することを許し、直接的「権力」を剥がした上で、その「権威」を日本占領統治支配のためにできるだけ政治的に利用することを最初から企てていた米国側の思惑が一致し、「天皇」を第1章とする「平和憲法」が作られた。

194611日のいわゆる「人間宣言」にもかかわらず、新憲法の第1章「天皇」で規定された天皇の国事行為には「人間性」や「責任感覚」という要素は皆無であり、その意味で天皇は「人間」になることに失敗した、と私は考える。

天皇の戦争責任を隠蔽したまま天皇の「象徴権威」を温存していることで、将来、天皇の存在と地位が戦争のための「象徴権威」として、再び政治的に利用される危険性が十分あると考えたほうがよい。「そんな馬鹿げたことはありえない」などと考えていると、とんだシッペ返しにあうであろう。この危険性について戦後間もなく ― 天皇裕仁が「人間宣言」を行なった3ヶ月たらず後に ― 注意を促したのは、加藤周一であった。その危険性はますます高まっている。

 

加藤周一
 

それだけではなく、天皇制イデオロギーの家父長制的要素は、戦後も憲法1条で規定されている「象徴」にしっかりと根をおろしている。憲法14条が、「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的または社会的関係において、差別されない」と明言しているが、天皇の「象徴」の地位は、皇室典範第1条「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを承する」という規定によって、女性を明らかに差別。近代民主主義国家といわれる世界の国々の中で、憲法(24条第2項)で男女の「本質的平等」を唱っておきながら、その憲法に明らかに違反する差別行為を「日本国の象徴」である天皇とその家族に堂々と行わせているような摩訶不思議な国は、日本以外にはないのではなかろうか。

この点で、武藤テーゼの第2原理と第3原理は、矛盾しながらも、実は深く絡み合って相互に支えあっている面がある。この隠された第2原理の背後にある矛盾と第3原理の相互幇助関係が、日本の「戦後民主主義」を深く歪めている複雑な要因の一つであることを忘れてはならない。

 

3)拮抗する「戦後国家の三原理」の急速なバランス崩れと日本社会の崩壊

 

近年、米国の経済力の低下や中国の経済・軍事力の急成長もあり、米国のグローバル覇権力が低下する中、米国は日本列島に散在する米軍基地(自衛隊との共用施設73カ所に加え、日本専用基地54カ所)の維持・運用への財政拠出1978年から始まったいわゆる「思いやり予算」 ― を大幅に増額するようますます日本に圧力をかけ202226年の日本側負担額は総額で1551億円にまでなっている。米国はまた、太平洋やインド洋で活動する米軍との物理的な協力関係を緊密化するよう、日本の自衛隊に対する要求強めてきている。

日本側は、米国の「グローバル覇権原理」を支えるために、とりわけ安倍政権下で、沖縄米軍辺野古新基地の建設開始を強権的に決行、原子力空母ロナルド・レーガンを中心とする第5空母航空団(空母打撃群の主兵力)の厚木から岩国への移転、明らかに憲法違反である集団的自衛権行使容認の閣議決定、さらには日米軍事協力指針(新ガイドライン)を策定し、戦争法(安保法制)を強行成立、等々。かくして「専守防衛」は単なるタテマエとなり、集団的自衛権を行使し、米軍が世界で行う戦争に自衛隊が参加できるようにしてしまった。つまり、すでに「将来の戦争が正当化」されてしまったのである。そのうえ、戦前・戦中の「治安維持法」なみの悪法「共謀罪法」も制定

まさにこれは、ナチス政権がやったと同じように、事実上、憲法を「棚上げ状態」にしてしまったのである。結局、安倍は、立憲主義・議会制民主主義をなし崩しにし、法律や憲法は、さまざまな嘘と欺瞞を駆使して自分の都合の良いように曲解しながら、実際には法律違反、憲法違反を堂々と犯し続けた。

現在の岸田政権は、この「安倍レジーム腐敗構造」にドップリと足を浸し込んで、その全面的継承を行うことで、さらなる「憲法の空洞化」を激化させている。とりわけ、 「日本への攻撃が差し迫った場合」、朝鮮や中国のミサイル発射基地を攻撃する目的での巡航ミサイルの導入の計画は、文字通り「先制攻撃」の実施につながり、明らかに憲法9条違反となる。にもかかわらず、多くの政治家が、巡航ミサイルの配備は 「自衛」の定義に含まれると主張する。このように、日本の「自衛」という概念自体が無益になりつつある。

さらに岸田は、今年411日に米連邦議会で行った演説で、日本はかつて米国の控えめな地域パートナーだったが、今や「グローバル・パートナー」となったと述べ、米国が行う戦争には世界のどこであろうと追従する覚悟を表明。もはや憲法9条は、完全に日本政府に無視された形となってしまった

 

 

ちなみに、米国政府も、日本の憲法9条が現在のアジア太平洋地域での軍事戦略的対応の点から考えて障害になっており、改正または廃棄すべきと考えているものと思われる。近年の日本に対する防衛予算増額 ― GDP2パーセント ― の強い要望、それに対応する形での上記のような「先制攻撃」への日本の戦略変更などから考えても、明らかに米国政府は日本の「防衛戦略」が憲法9条を逸脱していると認識しているはずである。憲法9条再検討という圧力が、すでに日本政府に対して密かに米国政府からかかっていたとしても不思議ではない。

かくして、1原理であるアメリカの「グローバル覇権原理」と第2原理の「憲法の非武装平和・民主・人権原理」の拮抗バランスは、今や急速に崩壊しつつある。

一方、第三原理は、1990年代半ばから徐々に政治の表舞台に出てくるようになり、日本帝国陸海が15年という長きにわたってアジア太平洋で繰り広げた戦争と軍の残虐行為と植民地化に対する反省は、「自虐史観」として退けられるようになった。1997年には、日本を天皇中心の国家に戻すために新憲法の設置を目指す日本最大の極右団体「日本会議」が成立。今や、国会と地方議会の多くの自民党議員を含む4万人余りが会員となっている。

それと並行する形で、この20年間、日本政府、特に小泉政権(2001-06年)と安倍政権(2006-07年、2012-20年)は、靖国神社参拝の上に、「従軍慰安婦制度」・「徴用工強制労働」に対する国家責任無視、侵略戦争の否定などを、次々とあからさまに政策面で表明し、「戦前日本帝国を継承する原理」の強化に努めた。特に、安倍政権下での自民党は、この第三原理を奉じる極右私党と化し、公党の資格で国政を掌握し、国政を私物化する道具となってしまった。

バブル経済崩壊後の1990年代半ばから極右団体が台頭し始めたのは、日本経済が衰退し、それとは逆に韓国や中国の経済発展が急速に勢いをましてきたがために、「国家弱体化」を憂いてナショナリズムが急伸してきたという背景もある。

こうして、第2原理は、第3原理によってもひどく衰勢化され、実際に自民党の新憲法案(201212月発表)では天皇は国家の象徴ではなく「元首」となり、現行憲法の97条(基本的人権の保障)は全面削除され、代わりに国民の国家に対する責務が強く強調され、第2章の「戦争の放棄」の表題は「国家の安全保障」に変更され、新9条では「自衛隊」は「国防軍」に置き換えられている。さらに、普遍的な平和原則と基本的人権を明確に認め、強く強調している現行憲法の前文も完全に削除。この極端な改悪は、日本の憲法を基本的に明治憲法に戻すものだと言える。

以上見てきたように、「戦後国家の三原理」の急速なバランス崩れに伴う「戦後民主主義」の解体は、もうすでに始まっており、これを喰い止めるのは容易ではない。しかし、これをなんとしても喰い止め、さらには覆すための市民運動の展開方法を考える必要がある。いや、考えているだけでは手遅れで、有効な市民運動方法を早急に実践していく必要がある。

 

4)1950年代半ばに行われた「ヒロシマ抱き寄せ戦略」から学ぶべきこと

 

米国の「ヒロシマ抱き寄せ戦略」は、このような「戦後国家の三原理」の急速なバランス崩れと密接に関連して展開されている。よって、「ヒロシマ抱き寄せ戦略」に有効的に対抗し、それを押し返すための市民運動は、現在日本が置かれているこの非常に危うい状況をしっかりと踏まえて、いったいどのような運動を広島から展開すべきなのか、その確固たる信念と、広島を真の意味での「平和文化都市」にするための想像力と創造力に満ちた展望を備えたものでなければならない。

 ところで、「ヒロシマ抱き寄せ戦略」は、実はすでに1950年代半ばに米国が展開し、驚くほどの成功をおさめていた。それは、原子力平和利用=原発推進のために広島という原爆被害都市と被爆者を「抱き寄せ」て、広島から「原子力平和利用」賛成の声を世界に向けて発信させることであった。

  周知のように、19543月、ビキニ環礁で米国が行った水爆実験「ブラボー」による放射性降下物がマーシャル諸島民を汚染し、危険水域の外で操業していた第5福竜丸の乗組員23名を被爆させた。そのうえ、放射能を浴びたマグロが日本の市場に出回り、大勢の人がそれを食べたことで全国的なパニックが引き起こされた。これがきっかけで、またたく間に日本全国に水爆実験禁止署名運動が広がり、日本全国で32百万人、広島では100万人という驚くべき数の署名が集まった。その結果、195586日、広島で初の原水爆禁止世界大会が開かれた。

  一方、米国は「原子力が建設的な目的に使われれば、原子爆弾ももっと容易に受け入れられるであろう」という考えから ― 他にも理由はあるが、ここでは時間の都合上触れない ―、アイゼンハワー政権下で、「原子力平和利用」政策を国内外で推進する政策を1953年末に打ち出した。ところが、日本ではビキニ核実験で反核運動が急激な高揚をみせたため、この反核運動と反核感情を押さえつけ、さらには態勢を逆転させるために、米国は1955年初めから猛烈な「原子力平和利用」キャンペーンを開始し、広島を「狙い撃ち」にする宣伝工作を始めた。手始めに、「最初に原子力の破壊をこうむった広島こそ原子力の平和的恩恵を受ける資格がある」と、広島に原子力発電所を建設し、広島を原子力平和利用のセンターにするという提案が出された。同時に、米国が世界各地で開催を計画していた「原子力平和利用博覧会」を、広島でも大々的に開くことを決定。

 

 

実験用原子炉のモデルが展示された「原子力平和利用博覧会」広島

当初は米国のこうした「ヒロシマ抱き寄せ戦略」に反対していた原水禁運動広島協議会(中心的人物は当時、広島大学教授で協議会の本部事務局長でもあった森瀧市郎)も、メディア(とりわけ正力松太郎が社主の読売新聞・日本テレビ)をはじめとする全国的な強い賛成の声に押し流されて、多数の被爆者を巻き込む形で賛成派に変わってしまった。その結果、「原子力平和利用博覧会」が195656月に広島で開催されることが決まるや、「広島における原発設置提案」は、1955年秋には米国原子力委員会で葬り去れられた。(ちなみに、森瀧市郎は1975年被爆30周年の減衰金世界大会の基調報告で、「核エネルギーと人類は共存できない」と述べた。ちなみに、原水禁の反原発運動は1969年から。)

かくして、広島の被爆者に「原子力平和利用」を基本的に受け入れさせ、同時に日本のメディアが全面的にこれを支持するような状況を作り上げることで、第5福竜丸事件が日本全国に波及させた反核アレルギーをできるかぎり除去し、「原子力平和利用」政策を正当化させようという米国の真の目的は、見事に達成された。

その後長年、福島原発事故が起きる20113月まで、広島の被爆者のみならず、日本被団協が基本的に反原発運動に関わってこなかった背景には、このような「ヒロシマ抱き寄せ戦略」によって、大多数の被爆者が「<原子力>は<原爆>とは別物」というマヤカシの虜になった事実があったことをもう一度思い起こし、米国の周到で怜悧狡猾な計略に騙されないよう、肝に銘じておく必要がある。

 

5)現在進行中の「ヒロシマ抱き寄せ戦略」の目的は何か?

 

  1950年代の「ヒロシマ抱き寄せ戦略」以降、最近まで、米国の広島に対する態度は、原爆無差別大量殺戮の被害事実はあくまでも無視し、原爆こそが太平洋戦争を終わらせたという自作の「神話」を、世界に向けて強固に発信し続けてきた。つまり、「抱き寄せ」ではなく「徹底無視」と称すべき態度であった。米国は、「太平洋戦争は真珠湾で始まりヒロシマで終わったと」言う表現で、頻りに真珠湾の記憶を呼び覚ましながらも、実際にはヒロシマについては語ることを一途に嫌ってきた。ところが、20165月のオバマ大統領の広島訪問あたりから、「ヒロシマ徹底無視戦略」が、急速に「ヒロシマ抱き寄せ戦略」に180度転換しはじめた。

「原爆神話」を強固に維持し続けるという政策に変わりはないが、真珠湾を語りながら、同時にヒロシマについてもある程度言及するという態度は、真珠湾と広島平和公園の「姉妹公園」提携に如実に表れている。いったい米国のこの戦略変更の企みは何であろうか。

それは武藤テーゼの第1原理、米国の「グローバル覇権原理」が、前述したように、緊張が高まっているアジア太平洋地域で自国の覇権を維持しかつ強化するために、日本の軍事力を ― 豪州、韓国、フィリッピンの軍事力と束ねて ― 米軍の支配下に取り込み、できるかぎり利用しようという戦略に変わってきたことと深く関連していると思われる。そのためには、日本政府のみならず、日本国民も「米国の核抑止力」を全面的に受け入れるような、国民的総意を創出していくことが必要であるというのが、新しい「ヒロシマ抱き寄せ戦略」展開の理由であると私は考える。

よって、「ヒロシマの核被害」の実相をある程度米国も受け入れ、核兵器が使用されればヒロシマのような惨たらしい状況になるからこそ、敵の核使用を防ぐ「核抑止力」を米国が維持し、日本も ― さらには豪韓比などの太平洋諸国も ― その「拡大核抑止力」で防衛されることで、「平和」を持続させなければならないというメッセージを、ヒロシマから世界に向けて発信していこう ― これこそが、米国が最近盛んにいろいろな形で見せている「ヒロシマ抱き寄せ戦略」の目的であろう。つまり、一言で表現するなら「核被害グラウンド・ゼロのヒロシマを、核抑止力のシンボルに!」である。本来は「核ジェノサイドの原点」という広島が持つシンボルを、「核抑止力=米国の軍事力支配の下での<平和維持>」というシンボルに変えてしまおうという企てである。

米国の広島に対するこうした姿勢の変化には、最近、外国人による日本への観光客が激増している中で、世界遺産の原爆ドームがある広島はとりわけ外国からの訪問客が多い都市であることも影響しているように思われる。広島を訪れるほとんどの観光客が、原爆資料館を見学する。よってそうした観光客に対しても、核戦争を避けるためには「核抑止力」が必要不可欠であるというアメリカのメッセージを、なんとしても受け入れさせたいという意図も働いていると思われる。

米国は、近い将来、アジア太平洋地域を米日韓比豪の軍事力で囲い込み、沖縄あたりに核兵器を常備することで、欧州のNATOのような集団軍事地域をここにうち建て、中露朝を欧州と太平洋の両側から挟み込むことで睨みをきかそうという構想の実現に向けて、すでに動き出しているものと思われる。「ヒロシマ抱き寄せ戦略」は、米国のこの構想と密接に関連していると思われる。

昨年8月下旬から9月初旬にかけてNATO加盟国の英空母打撃群をはじめオランダとカナダのフリゲート艦、米海軍哨戒機P-8Aや米戦闘機F-35と海上自衛隊艦船ならびに潜水艦との「パシフィック・クラウン21」と題する大規模な演習が、日本(特に沖縄)近海から東シナ海にかけて行われた。これも、上に述べた米国の構想と密接に関連していると思われる。

 

 

 

これに対し、米国の「核抑止力に抱きしめられたい」日本は、「将来は核兵器廃絶が私の夢」と言いながら、「核兵器現代化」=小型核兵器の開発と増産に史上最大の核予算をつぎ込んだオバマの20165月の広島平和公園訪問を大歓迎した。そのため、「戦前日本帝国を継承する原理」の申し子とも称すべき首相・安倍晋三が、両手をあげてホスト役を務めた。本来は矛盾関係にある「グローバル覇権原理」と「戦前日本帝国を継承する原理」が、広島平和公園でしっかりと握手するという、奇妙な姿をここに見せた。互いに矛盾しながらも、その2つの原理が物理的に衝突しないかぎり、各々がその政治的利益を確保することを相互に認め合うという虚飾に満ちた儀式を、あろうことか、「憲法の非武装平和・民主・人権原理」の具現的姿であるべきはずの広島平和公園で行ったのである。その結果が、「憲法の非武装平和・民主・人権原理」の破壊でなければ、いったい何であったのか?!

同じように米国の「グローバル覇権原理」を全面的に支持し、同時に「戦前日本帝国を継承する原理」を安倍からそのまま受け継いで首相の座についた岸田文雄は、20235月、G7サミットを広島で開催し、再度、広島平和公園を安倍と同じように政治的にトコトン利用して、広島から、実質的には「米英仏の核抑止力維持」というG7メッセージを世界に向けて発信した

 

 

 

同じように米国の「核抑止力に抱きしめられたい」広島市は、アメリカに対して「謝罪なき和解」を提案し、「姉妹公園」提案を簡単に受け入れ、米国の原爆攻撃の責任追求 ― 実際には全くやっていない追求 ― の「棚上げ」を公言し、米国と日本の両政府が喜んで受け入れるような学校教材『ひろしま平和ノート』を改悪したりと、忖度にやっきになっている。『ひろしま平和ノート』というタイトルにもかかわらず、日本の平和憲法についての言及は、この教材のどこにも見当たらない。

 

 

広島県のほうもまた、201110月から、『国際平和拠点ひろしま構想』と称するプランを立ち上げ、毎年変わり映えのしない『ひろしまレポート』を発行して、実質的には米国の「核抑止力」の支持に努めている。この『国際平和拠点ひろしま構想』でも、平和憲法は完全に無視されている。市長も知事も、いたるところで「核兵器のない平和を」と繰り返し述べていながら、「憲法の非武装平和・民主・人権原理」を強調するような発言はほとんどしない。

ちなみに、今年3月、カトリック系平和団体「パックス・クリスティ」米国支部の巡礼団が広島を訪問し、被爆者とも面会した上で、世界平和記念聖堂で被爆者6団体代表らとの対話集会に臨んだ。この対話集会で、巡礼団一行11名は、米国の原爆攻撃の責任をはっきりと認め、「朝鮮半島出身者を含む被爆者たちに心からの謝罪を伝える」と同時に、「和解に向けた対話を始めたい」と明言。米国の市民団体で、原爆無差別攻撃に対する謝罪を広島で行い、「和解」を求めたのは、この巡礼団が初めてではなかろうか。その意味では、画期的な出来事である。さらにこの対話集会では、日米両政府が核兵器禁止条約に署名し、米国政府も公式謝罪を行うように求める共同宣言を発表した。

ところが、広島被爆者7団体のうちの一つ、被爆者2世の松井一実市長が会長を務める市原爆被爆者協議会だけは集会に参加しなかった。その理由は、対話集会が「協議会の設立目的から外れる。市としても米国に謝罪を求めてきていない」という説明とのこと。市長は、原爆無差別大量殺戮の米国の責任を追求することは、考えてもいないのである。重大な「人道に対する罪」のその責任追求が、どこの国であろうと同じ犯罪を再び犯させないための、被害者側の人間としての責務である、ということが全く分かっていないのである。その背後に、米国の「グローバル覇権原理」に自国日本を全面的に従属させ、米国の「核抑止力に抱きしめられたい」という日本政府と国会議員の重鎮たちの思いへの、市長の阿(おもね)りがあることがあからさまである。

それだけではなく、松井市長にいたっては、2012年度から毎年、新規採用職員向けの研修での講話で、まさに「戦前日本帝国を継承する原理」を体現している「教育勅語」の一部を引用した資料を使っていることが最近になって明らかになり、複数の市民団体から強い批判を浴びた。これに対し、市長は、「教育勅語の中にも、博愛や公益を説く良い部分があるので、良いものはしっかりと受け止める必要があるという意図から使っている」という趣旨の反論で応えた。奇しくも、2012年は第2次安倍内閣が発足した年である。

「教育勅語」の中で使われている「博愛や公益」を説く部分は、元々は『論語』の中の表現である。(なぜ『論語』の中にこのような普遍的な思想が含まれているのか、興味深い問題であるが、残念ながら、今これについて議論している時間はない)。したがって、「博愛や公益」を強調したいなら、『論語』を使うべきで、天皇を神聖化し軍国主義の高揚を目的として作成され、戦前の道徳教育の根幹とされた時代錯誤的な「教育勅語」をあえて使う必要は全くない。

  ところが批判が止まないため、松井は今年4月の講話では、憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という部分や、憲法99条の公務員の憲法尊重擁護義務も合わせて紹介したと弁明。先に述べたように、「憲法の非武装平和・民主・人権原理」に基づいた発言をほとんどしない市長が、突然、憲法を利用して「戦前日本帝国を継承する原理」とのバランスを ― もちろん一時逃れのためであろうが ― とろうとする行動に出た。

この出来事は、「憲法の非武装平和・民主・人権原理」がひじょうに弱まっているとはいえ、いまだ全面的に崩壊してはおらず、「戦前日本帝国を継承する原理」に対抗する上で、有効であることを教えてくれている。我々は、日常生活の中で、この原理に沿った活動をもっともっと頻繁に且つ強力に展開していく必要がある。

 

6)広島から「無差別空爆大量虐殺」反対のグローバルな市民連帯運動の展開を!そして「非暴力の実践」理念の滲透波及を!

 

  日本政治社会の現状に関する以上のような分析から、「ヒロシマ抱き寄せ戦略」に取り込まれないよう強力な市民運動を展開していくためには、反核理念だけではなく、「憲法の非武装平和・民主・人権原理」の理念をできるだけ多くの市民の意識の中に深く浸透させ、米国の「グローバル覇権原理」と「戦前日本帝国を継承する原理」に抗していく必要がある。これまでのように、もっぱら核兵器にマトを絞り、核廃絶を目指す反核という市民運動だけでは、到底、「ヒロシマ抱き寄せ戦略」には太刀打ちできない。

  「ヒロシマ抱き寄せ戦略」に抗するための、強力に「憲法の非武装平和・民主・人権原理」の理念を広島に直結させる行動には、「核被害グラウンド・ゼロのヒロシマを、核抑止力のシンボルに!」というアメリカの狙いに真っ向から立ち向かう、我々の側の独自の戦略が必要である。それには「原爆無差別大量虐殺とジェノサイドのシンボルとしてのヒロシマ」を、いかにしたら世界に向けて広く且つ強力に発信できるか、このことを熟考しなければならない。

  そうした戦略の一つとして、第1次世界大戦から本格的に始まった空爆が、第2次大戦を経て、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、コソボ紛争、アフガン・イラク戦争、シリア内戦など、さらには現在進行中のガザ区攻撃に至るまで、ほぼ100年にわたる様々な「空爆による無差別大量虐殺」の連続であること、そしてその空爆の規模と破壊力の点で広島がシンボル的ケースであることを踏まえて、その歴史事実を活用するグローバルで屈強な市民運動を展開することが重要だと私は思う。そのようなグローバルな運動ためには、各国、各地の被害地市民との反無差別空爆の連帯運動を展開する本拠地を広島に置き、これまでの数多くの戦争で「空爆による無差別大量虐殺」の罪を最も頻繁に犯してきた米国への、徹底的で継続的な責任追求運動を行うことが効果的だと私は考える。

 

 

ベトナム戦争で北爆中の米空爆機         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イラク戦争での米軍空爆の被害者の子ども
 

しかし、この市民運動を展開するためには、日本も、そして広島も、無差別空爆と大量虐殺=ジェノサイド ― その両方とも「人道に対する罪」 ― の点では、加害者としての重大な責任を負っていることをはっきりと認め、謝罪することが必要不可欠である。最近、カトリック系平和団体「パックス・クリスティ」米国支部が広島で行ったと同じように、広島の市民活動家たちが被害者側を直接訪問し、謝罪し、和解を求めること ― それなしで、自分たちの被害だけを強調する運動では、グローバル連帯運動をしっかりと築き上げることはできないからである。

  具体的には、15年戦争初期に日本軍が中国での行動を急速に拡大するに伴って、上海、南京、武漢、広東、重慶といった都市住民を次々と無差別爆撃の目標としたこと。特に、現在では広島の姉妹都市となっている重慶は、1938年から3年間にわたり200回以上の攻撃にさらされ、12千人近い死傷者を出した事実を明確に認め、公式に謝罪し、和解を求めること。さらには、空爆によるものではないが、ジェノサイド的とも呼べる大量の市民を南京虐殺やマレー半島でのマレーシア華僑虐殺などで殺害し(それぞれどちらとも、推定被害者数は数万から10万人)、それらの虐殺には広島に本部が置かれていた第5師団からの部隊も加わっていたことも認め、これについても深く謝罪することを怠ってはならない。

 

 

日本軍の重慶爆撃による殺戮現場

  すなわち、「原爆無差別大量虐殺とジェノサイドのシンボルとしてのヒロシマ」の「シンボル」とは、被害のシンボルであるだけではなく、加害のシンボルでもあることを、常に市民運動の中で強調していくことが、被害者側からの信頼はもちろん、全世界の人々からの信頼を得るためには、絶対に必要だと私は信じる。

戦争加害者としての日本国民としての我々自身の責任を忘れないためには、すでに論じたように、憲法自体の中に埋め込まれている深い矛盾 ― 日本の「戦後民主主義」を著しく歪めている憲法第1章「天皇」と「戦前日本帝国を継承する原理」の相互幇助関係 ― に、我々はどのように立ち向かうべきか。同時に、「憲法の非武装平和・民主・人権原理」を、できるだけ多くの市民の日常生活における共有理念として、大衆意識のなかに、いかにして浸透させていくのか。このことを真剣に考えなければ、広島の市民運動、ひいては日本の市民運動に将来的な展望は見えてこないと私は考える。

「憲法の非武装平和・民主・人権原理」は、すでに述べたように、具体的には、とりわけ憲法前文と9条に明確に表明されている。その理念を一言で表現するならば、それは「非暴力」であろう。なぜなら、ジュディス・バトラー(アメリカのフェミニスト哲学者)の言葉を借りれば、「非暴力とは単に暴力の不在、あるいは暴力の行使を自制する行為ではなく、持続的な関与であり、平等や自由という理想を擁護するために攻撃性を転換する方法でさえあると考えることができる………非暴力は平等への関与がなければ意味をなさない」(強調:田中)からである。しかも、その「平等」のうちで、最も重要なのは「個人の命」が誰にとっても重要であるという意味で、「生存権」を含む「基本的人権」とも深く関連している。「基本的人権」擁護は、言うまでもなく、民主主義の確立にとって極めて重要な要素の一つである。

このことは、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という、憲法前文に明文化されているところである。

ところが、憲法14条「すべての国民の法の下の平等」や24条第2項「男女平等」にもかかわらず、天皇の地位は「皇統に属する男系の男子のみが継承」とされ、女性を明らかに差別。さらに、憲法2条で、天皇としての地位は「世襲のもの」であると決められているということは、実際には天皇家の家系のみが尊重されるという意味で、明らかに14条の「門地(=家柄)」による差別の禁止に抵触。しかも天皇は「日本国民統合の象徴」として「万世一系」の「純粋な日本人」の家系の人とみなされることから、外国人、とりわけ「在日」と称される韓国・朝鮮系、中国系などの市民を差別するイデオロギー上の拠り所を、一部の国民に提供している。すなわち、天皇の存在そのものが他者に対するさまざまな差別の元凶と言えるのである。

「戦前日本帝国を継承する原理」を活動理念とする日本会議などの右翼団体は、こうした差別を「ヘイト・スピーチ」で盛んに煽っている。その日本会議のメンバーでもある国会議員の杉田水脈や松川るいなどは、アイヌ民族、在日コリアン、元日本軍性奴隷(いわゆる「慰安婦」)、LGBTなどに対する揶揄・蔑視発言で、「基本的人権」の侵害を公然と行っている。こうした差別言動は、一見、憲法12条とは関係がないように見えるが、実は、天皇の存在が、国民の無意識的な感情レベルに深く且つ広く影響していることと密接に関連している。これが、私が主張する<憲法第1章「天皇」と「戦前日本帝国を継承する原理」の相互幇助関係>の具体的な例である。

こうした「基本的人権」の侵害と闘うにためには、「憲法の非武装平和・民主・人権原理」の根本的理念である「非暴力」が、我々市民の日常生活の堅実な規範となるように、我々の文化そのものを改革していく必要がある。なぜなら、非暴力とは、ジュディス・バトラーが述べているように、「単に暴力の不在、あるいは暴力の行使を自制する行為ではなく」、他者と平等な人間関係 ― 二人の主体が相互に相手を対象化することなしに持つ主体的な関係 ― を積極的に築くことで、個々人が互いに相互信頼できる平和な関係で結びつき合う行動を意味しているからである。その行動とは、具体的には、他者と喜び、悲しみ、怒りを互いに共有しあうことであろう。

そうした平等な結びつき合いの関係の網を共同社会全体に地道に深く張り巡らしていく活動、それが本当の意味での「非暴力の実践」だと私は思う。この非暴力の実践は、海外の市民共同社会と平和的な関係の結びつきを強めるためにも必要である。例えば、他国の人に戦争で被害を与えたのであれば、その人の痛みと悲しみを自分の痛み・悲しみとして内面化し、それらを共有する「非暴力の実践」で、謝罪を受け入れてもらうことで、はじめて「平等な人間関係」の結びつきができる。戦争犯罪加害国の市民に対しては、被害者である自分たちの痛み・悲しみをどのようにしたら理解してもらい、どのようにしたら自分のものとして共有してもらえるのか ― その「非暴力の実践」の方法を模索する努力を通して、「平等な人間関係」の再構築を促すことが必要である。

しかし、これは、今までのような反核・反戦という政治的運動にのみ我々の活動を集中させる形での市民運動では、決して達成できない。(だからといって、そのような政治的活動をやめるべきと私は言っているのでは決してない。誤解のないように願う。)

市民共同体の全員が積極的にこの「非暴力の実践」に参加し、新しい、平和な社会関係を創り出していくことがいかに喜びに満ちた楽しいことであるかを、毎日の暮らしの中で発見する ― そのような文化の創造活動でなければならない。繰り返し述べておくが、「非暴力の実践」とは、単に暴力を使わない、あるいは自制する行為ではない ― それは、ごく小さなことであれ、日々の暮らしの中で、他者のいろいろな思いに倫理的想像力を働かせ、平和な人間関係、社会関係をどうしたら築くことができるかを見つけ出し、その発見に喜びを感じることができるような文化的活動のことである。平和な文化創造とは、暮しの中にそのような「非暴力の実践」という生きた思想を浸透させることである。暮らしに密着した堅実な文化思想でなければ、順境にあるときにはともかくも、逆境に陥ればたちまちにして、暮しが思想を裏切ることになる ― そのことは、これまでの歴史が証明している。

もちろん、そのような理想的な文化創造は一朝一夕にしてできるものではない。幾世代にもわたって、様々な形での「非暴力の実践」を行なっていくことで、徐々に創り上げられていくものでしかない。それには、常にそのような文化活動を受け継いでいく若者世代の積極的な参加を促すような、興味深い文化活動でなければならない。現在の広島と日本全体が直面している憂慮すべき社会状況を考えると、「そのような悠長なことは言っていられない」という批判もあるだろう。しかしながら、時間をかけながらも、日々地道に努力していかなければ、「団塊の世代」と呼ばれる高齢者が中心の市民運動だけで現在の状況を大きく変革することは、もはやひじょうに困難、いやほとんど不可能であることは誰の目にも明らかないように思える。

 

 

参考文献:

 

武藤一羊著『戦後レジームと憲法平和主義: 〈帝国継承〉の柱に斧を』(れんが書房新社 2016年)

 

加藤周一著「天皇制を論ず」 『言葉と戦車を見すえて』(筑摩文庫 2009年)に収録

 

田中利幸 ピーター・カズニック共著『原発とヒロシマ:「原子力平和利用」の真相』(岩波ブックレット 2011年)

 

田中利幸著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』(三一書房 2019年)

 

田中利幸著『空の戦争史』(講談社現代新書 2008年)

 

原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島 https://web.archive.org/web/20061019065808/http://www.k3.dion.ne.jp/~a-bomb/index.htm

 

ジュディス・バトラー『非暴力の力』(青土社 2022年)