2023年8月28日月曜日

核兵器を抱きしめて(2)

ヒロシマを抱きよせる米国、抱きしめられたい広島と日本 ―

 

第2回:ヒロシマを抱きよせる米国 (その1)

 

 芳名録のメッセージと大統領の「折り鶴」が意味するもの

  「ヒロシマを抱きよせる」ことの目的と、アメリカの核戦争法マニュアル

 自国の「歴史的暗黒面と折り合いをつける偉大な」米国と、日系アメリカ人被爆者の排除

  「ヒロシマを抱きよせる」戦略実行はオバマの広島訪問時から始まっていた

  被爆者を抱きしめながら米軍捕虜の霊を抱きしめることで、「ヒロシマを抱きよせる」ことに成功したオバマ

 

 

 芳名録のメッセージと大統領の「折り鶴」が意味するもの

 

G7広島サミットの初日の519日、G7EUの首脳9人が広島市の原爆資料館を訪問し、約40分間視察した後、被爆者の小倉桂子氏の証言を聴いたとのこと。資料館を40分で視察するというのは、かなりの急ぎ足での視察であるが、20165月に同資料館を訪問したオバマ大統領の場合が、ロビーでいくつかの展示資料に目を通しただけの、わずか8分あまりの文字通りの「おざなり視察」だったのに比べれば、まだマシと言えるかもしれない。オバマの場合は(韓国人を一人も含まない日本人だけの少数の)被爆者を前に、自分の演説は行ったものの、被爆証言を聴くことは全くなかった。これと比べG7首脳の場合は、たった一人とはいえ被爆者証言に耳を傾けた。おそらく、オバマの広島平和公園訪問の「おざなり視察」に対する批判を繰り返さないための配慮がとられた結果であろうと推察できる。

 

その後で、G7EUの首脳9人は資料館の芳名録に記帳したが、その各人の筆記内容が公開されている。その内容を見てみると、カナダ首相トゥルードーと英国首相スナクの2人の芳名録だけが、被爆者証言を聴いての個人的感想を描出した内容となっている。他の7人のメッセージはどれもみな凡庸で、原爆被害者の筆舌に尽くし難い苦悩を、一人の人間として理解してみようという想いが全く欠落しているとしか思えない。どれも、無味乾燥な言葉の羅列でしかない。

 

とりわけバイデン大統領の以下のようなメッセージは、彼が、被害者の証言から、原爆がどれほど徹底的に「人間性」を抹殺する兵器であるかについて、倫理的想像力を働かせてみようという想いが全くないことを吐露しているように思える。それだけではなく、核兵器の脅威については、あたかも他人事のように、いたって軽く触れているだけである。曰く「この資料館で語られる物語が、平和な未来を築くことへの私たち全員の義務を思い出させてくれますように。世界から核兵器を最終的に、そして、永久になくせる日に向けて、共に進んでいきましょう。信念を貫きましょう。」同時に、オバマが訪問の折に彼自分が折ったと称する「折り鶴」が原爆資料館に展示されていることを前もって伝え聞いていたと思われるバイデンは、自分の「折り鶴」も原爆資料館に収蔵されるべきだと考えたのであろう、それを持参したとのこと。

 

「核抑止力維持」を広島サミットで強力に主張したバイデンにとっては、オバマ同様に、原爆無差別殺戮という由々しい犯罪に対する米国政府の責任を ― とりわけグラウンド・ゼロの広島という場所で ― 認めることは決してできなかったに違いない。それを認めれば、核の全面的廃絶を受け入れなければならなくなる。よって、芳名録のメッセージでも、「原爆投下」という過去の事実そのものには一切触れず、「未来」に向けての「平和構築の願い」という、何の変哲もない内容にならざるをえなかった。よって、バイデンのメッセージには、被害者となった「人間」への想見が全く含まれていない。あたかも原爆の被害にあったのは、単に「広島」という一つの「都市」だったかのような印象を与える。

 

一方、「折り鶴」のほうは、今では、「原爆の悲惨さ」のシンボルという意味はとっくに薄らいでしまっており、世界中ですっかり「(未来の)平和を願う」シンボルと化しているので、米国にとっても広島で「抱きしめたい」ものの一つである。なぜなら、「折り鶴」は、原爆無差別大量殺戮という「罪」と「責任」を問うことはないし、謝罪も要求しない。「折り鶴」は、健康回復を願って死の間際まで折り続けた健気な一少女の悲しい想いにだけ焦点を当てることで、もっぱら「平和の大切さ」だけを訴える。よって、米国大統領に限らず、誰にとっても、この単純な ― いや、むしろ「あまりにも単純化された」と言うべき ― 「平和希求」のメッセージは、誰が「抱きしめて」もなんら支障がない。それどころか、「折り鶴」をやさしく「抱きしめる」ことで、あたかも原爆無差別大量殺戮という過去の行為を反省しているかのような印象を与える可能性すらある。そんな理由から、米国大統領が折った「折り鶴」は、資料館を訪れる観覧者にも喜ばれることは、すでにオバマの前例で証明済みである。「心やさしい人」であるオバマやバイデンが折った「折り鶴」が原爆資料館で展示されることで、逆に、原爆無差別大量虐殺という「罪」と「責任」の問題を忘却させてしまう効果がある、ということに観覧者たち自身気がつかない。この意味で、すでに広島は、アメリカにかなり強く「抱きよせられ」てしまっているのである

 

オバマ大統領が折ったと称する折り鶴

これに比べ、トゥルードーの次のようなメッセージには、被害者の苦悩を自分も共有したいという個人的な思いが強くあることが伺える。曰く「多数の犠牲になった命、被爆者の声にならない悲嘆、広島と長崎の人々の計り知れない苦悩に、カナダは厳粛なる弔慰と敬意を表します。貴方の体験は我々の心に永遠に刻まれることでしょう。」したがって、サミット会議が閉幕したあと、トゥルードーだけが、もう一度「じっくり見て回りたい」と平和公園と原爆資料館を再度訪れたというニュースにも、私は驚かない。

 

結局、バイデンの芳名録メッセージが意味するところは、以下のように要約できるであろう。広島から発信するメッセージは、米国が犯した戦争犯罪とその責任追求という「過去」を問うものであってはならない。メッセージは、あくまでも、パックス・アメリカーナ(=アメリカの軍事支配の下での平和)を受け入れ、その維持に向けて積極的な協力を各国に促す内容でなければならない。そのためには、広島という「一都市」を一瞬にして瓦解させた強力な威力を持つ大量破壊兵器が持つ「核抑止力」を、強く「抱きしめる」内容のメッセージでなければならない。そんなメッセージが、核兵器による破壊から見事に復興した広島から発信できるなら、それを大いに「抱きよせたい」、というのが、アメリカの意図するところなのである。なにしろ、広島は、アメリカが日本を原爆で徹底的に罰した「正義の制裁」から、殊勝にも「立派に復興」したのだから。

 

  「ヒロシマを抱きよせる」ことの目的と、アメリカの核戦争法マニュアル

 

あらためていうまでもなく、バイデンが「世界から核兵器を最終的に、そして、永久になくせる日に向けて、共に進んでいきましょう」と芳名録に記したことは、日本政府がいつも使う表現、「核兵器の最終的廃棄」と全く同じである。「核兵器の最終的廃棄」という形式的目標を表明することによって、「反核」は空洞化される。こうして、「反核」という「人道的普遍原理」を空洞化したまま維持することは、為政者側にとっては政治的には非常に都合がよい。そのため「ヒロシマ」が政治的に大いに利用され、これまで様々な国際会議(核不拡散・核軍縮に関する国際会議、G7下院議長会議、G7外相会議など)がG7サミットの前にも広島で開かれてきた。そして、これからも同じような国際会議が広島で開かれるであろう。

 

そうした会議が発する公的「宣言」は、ほとんど全て、「核兵器廃絶」や「平和構築」という点で、実質的にはなんら有効な政策を欠いているのがその実態である。いや実質的にはなんら有効な政策を欠いているからこそ、「核被害の原点」である広島で会議が開かれるのである。なぜなら、空洞化された人道主義的普遍原理を形式的に掲げることによって、実質的には核兵器廃絶にとっては全く無効なメッセージであるにもかかわらず、それが「核被害の原点・ヒロシマ」から出されるということで、あたかも普遍原理を体現しているかのごとく装うというマヤカシを行うには、広島で会議を行うことが好都合だからである。

 

マヤカシの「反核普遍原理」でヒロシマを利用しながら、実際には、核抑止力によるパックス・アメリカーナという米国支配原理をグローバルに貫徹させていく。その有効な手段として「ヒロシマを抱きよせたい」、それが米国の重要な目的の一つなのだ。

 

ここで我々が問うべき問題は、「ヒロシマを抱きよせる」米国の「核戦略」が、広島・長崎への原爆攻撃が「無差別大量殺戮」になったことからの反省を、少しは考慮した上での「戦略」になっているかどうか、である。確かに、現在、核兵器を使用することを想定した米国防総省の戦争法マニュアルでは、広島・長崎のような無差別大量殺戮を避けるために、軍事作戦にいくつかの制約を課している。例えば、核攻撃は「軍事目標に限定した」ものでなければならないこと:作戦実施が米国にもたらす利益は、単に「仮定的または推測的」なものではなく、「明確に現実的」でなければならないこと:(民間人の)巻き添え被害は予想される軍事的利点に釣り合ったものでなければならないこと:軍需工場で働く民間人は有効な軍事標的ではないこと:軍は民間人を保護するために実行可能な予防措置を講じなければならないこと等々、その他にも多くの制約が課されてはいる。

 

しかし、現実には、強大な破壊力を持つ核攻撃は ― たとえ小型の戦略核兵器であれ ―「軍事目標に限定した」ものには決してならないことは誰の目にも明らかである。核兵器を使った場合の「巻き添え被害」は、「巻き添え」と呼べるような少数の被害では決してすまず、必然的に「無差別大量殺戮」にならざるをえない。「軍需工場で働く民間人は有効な軍事標的」にしないとは言っても、戦時中の軍需工場はほとんどフル稼働で、労働者が常時働いている。また、戦争が勃発すれば、民間設備ですら軍事設備に転用されるので、設備に民間と軍事の違いがなくなり、全てが簡単に軍事目標となる。よって、民間人を被害者にしない軍事設備破壊というのは、まさに空論である。つまり、核兵器使用の軍事作戦は、どうしても「仮定的または推測的」なものにならざるをえないし、「民間人を保護するために実行可能な予防措置を講じる」ことなど不可能である。こんなことはいまさら議論するまでもなく、明白なのであるが、米国防総省としては、建て前だけでも、「無差別大量殺戮」に制約を課しているというスタンスだけはとっておく必要があるのだろう。

 

オバマ政権は「米国は意図的に民間人や民間物を標的にすることはない」と大々的に表明した。そのオバマ政権下で、無人爆撃機ドローンの使用がアフガニスタン、パキスタン、イエメン、ソマリアなどで大幅に拡大され、病院や学校などを含む多数の誤爆から、大勢の民間人が殺傷された。米軍による無人爆撃機ドローンの使用は、トランプ政権でも、さらにはバイデン政権でも引き続き行われており、今や米軍の全ての攻撃機のうち3分の1が無人機になったとも言われている。さらには、つい最近、バイデン政権下の米国政府は、ウクライナ支援のための武器供与の一つとして、無差別殺戮爆弾であるクラスター爆弾を供与することを決定した(周知のようにクラスター爆弾禁止条約<いわゆるオスロ条約>は2008年に採択され、締約国は123カ国に上っている)。

 

こんな状況の下で核兵器が使用されるならば、意図的であろうとなかろうと、結局は大勢の民間人が無差別に「標的」にされることは避けられない。すなわち、米国防総省の戦争法マニュアルは「言葉の遊び」で、端的に言うならば、これまた「大嘘」なのである。

 

政治家や軍人は、なぜこんな「大嘘」を、恥ずかしくもなく堂々と公言するのだろうか。オーストリアの作家カール・クラウス(18741936年)は、第1次世界大戦の自己体験から、「戦争とは嘘の体系である」と主張した。しかし、「戦争とはその準備段階から嘘の体系である」と言うのが、もっと正しいのではなかろうか。ところが問題は、どこの国でも、そんなあからさまな嘘を簡単に信じてしまう国民が、いつもいるからでもある。

 

 自国の「歴史的暗黒面と折り合いをつける偉大な」米国と、日系アメリカ人被爆者の排除

 

192153161日に、米国のオクラホマ州タルサ市で、白人暴徒が黒人居住地区であるグリーンウッド地区を攻撃し、住居や店舗、学校、教会、病院などを襲撃。その結果、多くの建物が焼失し、100300名が殺害されたと推定されている。通称「タルサ人種大虐殺事件」と呼ばれており、米国最悪の人種虐殺事件と言われている。202161日には、「タルサ人種大虐殺100周年追悼記念式典」が行われ、式典に参加したバイデン大統領は、次のように述べた。曰く「(人種間の)共通の基盤を築く唯一の方法は、(そのような社会)基盤を真に修復し、再建することである。沈黙を続けることで傷は深まるからだ。そして、ただ痛みは伴うが 事件を思い出すことによってのみ、傷は癒える。私たちはただ、思い出すことを選択しなければならない。……偉大な国家は、その暗黒面と折り合いをつけるものだ。」(強調:田中)

 

  これに先立つ同年219日、第2次世界大戦中に約12万人の日系アメリカ人が収容所で苦しい抑留生活を強いられたことを記念する「日系アメリカ人抑留記念日」に当たり、バイデン大統領は以下のような声明文を発表した。

「アメリカは、万人のための自由と正義という建国の理想に応えることができなかった。そして今日、私たちは、こうした政策が日系人に与えた苦痛に対して、米国連邦政府が正式に謝罪することを再確認する。日系アメリカ人の強制収容はまた、体系化された人種差別、外国人排斥、移民排斥主義がもたらす悲劇的な人的結果を思い起こさせるものでもある。私は、この憎悪に満ちた政策に立ち向かった多くの日系アメリカ人の勇気を思い起こす。その中には、日本人強制収容に反対し、希望の象徴として戦ったフレッド・コレマツのような公民権運動の指導者も含まれている。彼らの遺志は、市民的自由が力強く擁護され、保護されなければならないことを私たちに思い起こさせる。」(強調:田中)

  このように、バイデンは米国内での人種虐殺事件や戦時中の人種差別の結果、多大な苦痛を受けた被害者たちには深く謝罪し、そのような暗い歴史を記憶に留めることで、米国のような「偉大な国家は、その暗黒面と折り合いをつけるものだ」と、誇らしげに述べている。

ところが、同じ日系アメリカ人でも、広島への原爆無差別攻撃で被害にあい、放射能汚染による病気を患っているアメリカ市民に対しては、米国政府は、謝罪はもちろんのこと、何の補償も一切与えてこなかったし、今も与えていない。原爆攻撃当時の広島市内には、太平洋開戦以前に親戚への訪問や日本国内への留学を理由として来広し、開戦によって帰米できなくなり、そのまま広島に在住していて被爆した日系アメリカ人=アメリカ市民が大勢いた。戦後、そのうち約1,000名がアメリカへ再移住(=帰国)したと言われている。原爆を生き残ったこれら1,000名の上に死亡者数を含めれば、被害者総数は数千名にのぼるものと推定される。これらの日系アメリカ人被爆者たちは、1970年に原爆被害者協会(CABS: Committee for A-bomb Survivors)を設置し、米国政府に対してCABS メンバーの被爆の認知と医療費の無料化を求める運動を開始した。しかし、アメリカ政府の反応は極めて否定的で、医療保障の提供を拒否している。(この後、日系アメリカ人被爆者の中には日本政府の医療保障を受けるようになった人たちが少数いる。)

もちろん、バイデンやオバマを含め、戦後の歴代の大統領で、日系アメリカ人被爆者に対して謝罪したものは一人もいない。ちなみに、1990年、米国議会は、核実験によって負傷したアメリカ人に障害者援助を提供するための「放射線被爆者補償法」を通過させた。しかし実際には「補償」という名称は欺瞞であって、一度限りの5万ドルの支払いに過ぎず、継続的な医療費の無料化は全くないし、被害者たちのために制度化された医療制度が立ち上げられたわけでもない。補償法には「謝罪」の言葉が、一応含まれてはいる。しかし、放射線を浴びた被害者が補償を受けるには、「米国政府の責任を問わず、今後司法手続きには訴えないない」とする書類に署名しなければならない。日系アメリカ人被爆者には、この一回限りの「補償費」すら、与えられていない。こうした米国政府の態度は、「核抑止力」維持という「核兵器の抱きしめ」政策と決して無縁ではない。

  「ヒロシマを抱きよせる」戦略実行はオバマの広島訪問時から始まっていた

  日系アメリカ人原爆被害者に対する差別は、バイデンだけではなく、後述するように、オバマにもはっきりと見てとれる。オバマもまた米国内における人種(とくにアフリカ系アメリカ人)差別や貧困者差別などの解消に向けては、それなりの努力をしたことは周知のところである。そのオバマが2016527日に広島の原爆資料館と平和公園を訪れ、資料館では8分ほどの視察を、平和公園ではごく少数の招かれた被爆者を前に、17分ばかりの「所感発表」と称する演説を行った。

 

  まずは、その所感発表で、オバマが原爆無差別殺戮の「罪」と「責任」を認めることを、いかに徹底的に拒んだかを見ておこう。演説の冒頭の発言は次のようなものであった。「71年前、晴天の朝、空から死が降ってきて世界が変わった。閃光と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自分自身を破壊する手段を手に入れたことを示した。」原爆攻撃を、「空から死が降ってきて……閃光と炎の壁がこの街を破壊した」とあたかも天災のごとく描写した。まずこの冒頭の表現で、原爆無差別大量殺戮問題にとって最も重要な問題、つまり「罪」の問題を取り上げることを彼は拒否した。いったい誰が、どんな理由で、どれほど残虐な殺戮破壊行為を犯したのかを確認し、言明することを被害者の前で拒否した。

 

そして次の文言、「人類が自分自身を破壊する手段を手に入れた」という表現で、今度はその「罪」を「人類」全体に負わせてしまい、そのことによって自国の責任、とりわけ責任を最も強く継承しているはずの米国政府の首長である大統領としての自己の責任を認めることを拒否した。つまり、最初の一言で、原爆無差別大量虐殺という犯罪にとって決定的に重要な2つの問題、すなわち「罪」と「責任」について、認識することを完全に拒否したのである。畢竟、「罪」を「人類」全体に負わせてしまい、誰の「責任」でもないということにしてしまったということは、オバマは、原爆による「都市破壊」を一種の「天災」にしてしまったと言えるのである。なにしろ、「死は、空から降ってきた」のだから。

 

したがって、所感発表のその後の内容が、いかに空虚で無意味なものとなるかは、もはや聞くまでもなく想像できたことであった。人類全てに「罪」があるならば、誰にも「罪」はないということになり、よってその「責任」も誰もとらなくてもよいということになる。事実、オバマもバイデンもアメリカには「罪」も「責任」もないと考えているに違いない。したがって、もちろん「謝罪」の言葉もなかった。

 

  実は、その前年の2015年の夏に、翌年のG7外務大臣会合の開催地に広島が決定したことを受けて、当時外務大臣であった岸田文雄と外務事務次官の斎木昭隆の二人が当時の米国大使キャロライン・ケネディに会い、オバマの広島訪問を要請した。その折、岸田と斎木は、日本側はオバマには「謝罪」を要求することはないと伝えていたのである。最初から大統領が「謝罪」することなど考えてもいなかった米国政府にとっては、日本政府側のこの態度は極めて好都合であったことはいうまでもない。したがって、オバマの広島訪問を前にして、ライス大統領補佐官(国家安全補償問題担当)が「興味深いことに日本は謝罪を求めていないし、私たちはいかなる状況でも謝罪しない」と堂々と述べたのも全く不思議ではない。(私たち広島の有志は、20142月に公開書簡をオバマとケネディ宛に送り、オバマが広島を訪問するならはっきりと「謝罪」すべきであるという意見を伝えておいた。この書簡の英語版が同年25日に Japan Times 紙にも掲載されたが、岸田と斎木の発言は、その私たちの「謝罪要求」を意識しての言動と思われる。)

 

  「罪」も「責任」もうやむやにしてしまったとはいえ、オバマは全く被害者に触れないわけにはいかなかった。なにしろ、彼の目の前には、少数とはいえ、被爆者たちが座って、彼の言葉に耳を傾けているのだから。しかし、この被爆者問題にどういう形で演説の中で触れるかについては、すでに前もってオバマ(ならびに彼のスピーチ・ライター)が周到に考え抜いて、原稿を用意していたようである。

 

オバマは原爆被害者の数に触れて10万人を超える日本人の男女と子供たち、数千人の韓国人、12人の米国人捕虜の死を悼むために私たちはここにやって来たWe come to mourn the dead, including over 100,000 in Japanese men, women and children; thousands of Koreans; a dozen Americans held prisoner」と述べた。(注意すべきことは、Koreans を「韓国人・朝鮮人」と和訳しているものがあること。しかしオバマ本人は、韓国と北朝鮮の両方の被害者を含める形で Koreans を使ってはいない。ここでは「韓国人」だけを意味するものとして使っていると思われる。もう一つ注意すべきは、広島での韓国人<当時の「朝鮮人」>の推定死亡者数は約3万人であって、「数千人」というような数ではない。)

 

被害者の中に日本人、韓国人、米国人(捕虜)がいたとオバマが指摘しているにも関わらず、日系アメリカ人が含まれていないことに驚く人たちもいるであろう。この点について、もう少し深く考察してみよう。

 

オバマのこの指摘 ―「天災」的な原爆の被害者の中には、日本人だけではなく、米国人も韓国人もいたという指摘 ― の裏には、「米日韓の三国は同盟国」であるということをこの場で再確認し、そのことを日本だけではなく韓国にも想起させておきたいという政治的メッセージが込められていたのである。なぜなら、オバマの広島訪問の真の目的は、米日軍事同盟 ― 実際には米国による日本の軍事的属国化 ― 関係の強化のために、さらにはその延長として米韓軍事同盟の強化のために、「ヒロシマを抱きよせる」ことにあったからだ。「抱きよせる」ためには、米日韓の各国から「被害者」が出たこと ― 私もあなたも、人類が犯した罪の同じ被害者― を強調することが都合良い。(ところが、「史上唯一の被爆国」を売り物にして「戦争被害国」であることを強調することで、「加害責任」を隠蔽しようといつも躍起になっている日本政府は、最初から、この場に韓国人被爆者を1名たりとも招待するつもりはなかったのだ。)

 

  しかし、ここでは、「数千人」が死亡したと推定可能な米国市民=日系アメリカ人については全く言及がない。まるで敵国市民扱いである。これは一体なぜであろうか?先にも見た通り、米国政府は、アメリカ国内における米国市民の「人権擁護」には、一応、熱心に取り組んでいるという姿勢をとっている。同じ日系市民である約12万人を、戦時中に収容所に閉じ込めてしまったことに対しては、明確に且つ繰り返し「謝罪」している。

 

原爆による21万人(内4万人は朝鮮人)にのぼる広島・長崎市民の無差別大量殺戮、それに続く815日の日本の降伏を、日本軍国主義ファシズムに対する「自由と民主主義の勝利」と米国は誇り高く主張した。同時に、トルーマン大統領は、戦争終結を早め「多数の民間人の生命を救うため」に原爆を投下したと述べて、アメリカ政府が犯した重大な戦争犯罪=「人道に対する罪」の責任をごまかす神話を作り上げた。かくして、「正義の戦争」の目的達成のために使われた手段であるという理由で、核兵器使用と核抑止力は正当化されてしまった。よって、この正義の戦争に勝利をもたらすために必要であったと主張する原爆攻撃で、数千人にものぼる多数の自国市民=民間人を虐殺してしまったという事実を認めることは、自国民の「人権擁護」をしっかり行っていると自負する米国政府にとっては、極めて都合が悪い

 

なぜなら、このような「米国市民」を被爆者として米国政府が公式に認め、補償の対象とするならば、原爆攻撃の「罪」と「責任」を認め、日本人・韓国人のすべての被爆者に対して「謝罪」と「補償」をしなければならなくなる。これでは「ヒロシマを抱きよせる」どころか、逆に「ヒロシマに抱き込まれ」てしまう。そこで、被爆した日系アメリカ人 ― 米国政府にとって幸いなことに、そのほとんど全員が日本人の血統を持ったアメリカ人 ― の数を、日本人被害者総数の中に入れてしまい、誤魔化してしまったというのが真相ではなかろうか、というのが私の推測である。今もその誤魔化しを、オバマを含む歴代大統領は継承しているものと思われる。

 

  被爆者を抱きしめながら米軍捕虜の霊を抱きしめることで、「ヒロシマを抱きよせる」ことに成功したオバマ

 

オバマは、演説が終わるや、当時日本被団協代表委員であった故・坪井直氏の手を握りながら、坪井氏が話しかけるのに数分間耳を傾けた。しかし、当時の映像を観る限り、オバマの方から坪井氏に何かを語りかけることはなく、ただ黙って坪井氏の発言を聞いていただけだ。次に、被爆死亡者の中に12人の米国人捕虜がいたことをつきとめ、彼らのことを詳しく調査してきた被爆者の森重昭氏をやさしく ― 文字通り抱きよせた。森氏に特別のお礼を述べて労わったのである。森氏もこれに感激したようで、むせび泣きながらオバマに ― しっかりと抱きよせられた。坪井氏に対しては、どちらかと言えば冷ややかな態度で対応したオバマが、森氏に対してはまるで「身内」のような振る舞いをみせた。この違いはなんであろうか?

 

被爆者・森重昭氏を抱きよせるオバマ大統領

森氏は、原爆攻撃当時、広島市内の中国憲兵隊司令部などで取り調べを受けていた米軍捕虜について、長年調査してきた被爆者である。当時、広島には捕虜収容所は存在しなかったが、日本上空で撃ち落とされた米軍空爆機の乗務員たちの中で、広島県や山口県内に不時着して生き延び、捕虜となった米軍兵がいた。これらの捕虜の中には、捕虜収容所に移送される前に、広島市内の中国軍管区司令部や憲兵隊司令部に送られて、米軍空爆機の動きについて尋問される者たちがいた。原爆攻撃当時、広島市内にはそのような米軍捕虜が12名いたのである。

 

この12名について調査を続けてきた森氏がインタビューに応える記事が、今年85日の「朝日新聞」に掲載されている。このインタビューで森氏は、「僕は米兵を敵じゃなくて人間と思った」、「相手を一人の人間と見たら悲しみもみんな同じ」、「相手を憎むのではなく尊敬するということです。憎しみが戦争につながる」と述べており、原爆無差別大量殺戮の「罪」と「責任」については、全く問うことをしていない。被爆者でありながら、米国が犯した「罪」と「責任」を問わない森氏は、米国大統領にとっては好都合な人物である。先にも述べたように、私もあなたも、人類が犯した罪の同じ被害者というオバマの主張で、ピッタリと「抱きしめる」ことができる被爆者である。

 

被爆者である森氏を抱きよせながら、実は、オバマは広島で被爆し亡くなった12名の米軍捕虜の霊を「抱きしめる」ことで、「ヒロシマを抱きよせる」ことに、ある程度、成功したのである。なぜなら、森氏を抱きしめることで、広島市民をはじめ日本人に、「ヒロシマを抱きしめている」ことをアピールすることができた。同時に、日本に対する「正義の戦争」を1日も早く終わらせるために、原爆ではなくても焼夷弾で日本の市町村を徹底的に破壊する上で英雄的な行動をとり、その結果「犠牲者」となったアメリカ軍人を「抱きしめる」ことを、アメリカ市民に対して強烈にアピールすることができたからである。こうして「ヒロシマを抱きしめる」ことで、原爆無差別大量殺戮の罪と責任だけでなく、焼夷弾による日本全国の(少なく見積もっても50万人と私は推定する)無差別大量殺戮という由々しい戦争犯罪の罪と責任をも、オバマは忘却させてしまった。

 

森氏へのインタヴューを行った朝日新聞の副島英樹・編集委員は、「取材を終えて」で次のように述べている。

「森さんの語りは過去の歴史ではなく現在につながる教訓だ。ウクライナ戦争の衝撃でメディアも世論も好戦的になっていないか。敵も味方もない、同じ人間だとの思考に立ち返り、戦争はいけないという当たり前のことを今こそ再確認できないか。被爆国日本の立ち位置はそこにあるはずだ。」

 

  「敵も味方も同じ人間」、同じ人間が「憎しみあうことから平和/幸せは生まれない」としばしば言われる。確かに「当たり前」である。しかし、同じ人間同士が殺しあう戦争で、敵であろうと自分であろうと、人間が他者に対して犯した「罪」を、「同じ人間がやったことだから赦しましょうよ」などと ― そんな簡単なことで、戦争は決して避けられない。なぜなら、自他にかかわらず、人間が犯した「罪」を問うことは、同じような過ちを誰にもふたたび犯させない、という未来に向けての我々の人間としての「責任行為」だからである。その「責任」をほったらかしておいて、「憎しみはいけませんね」、「罪を赦しましょうね」などと呑気なことを言うのは、無責任極まりない。

 

私たちの父や祖父の年代の日本軍兵士がアジア各地で犯した様々な残虐行為を、「敵も味方も同じ人間」、「憎しみあうのはやめましょう」と ― 例えば南京大虐殺記念館で ― 言ってすませるであろうか。「戦争はいけないという当たり前のことを今こそ」いかに「再確認」するかを問わずして、副島編集委員が言う「被爆国日本の立ち位置」を、真の意味で築くことなどできるはずがない。

 

「被爆国日本」は、あらためて言うまでもなくアジア太平洋の人々にとっては「戦争加害国」でもあった。その被爆国としての日本が、米国が日本人に対して犯した戦争犯罪の罪と責任を問わない。自分たち自身が被害者となった米国の原爆無差別大量殺戮という犯罪の加害責任を厳しく問うことをしてこなかったゆえに、われわれ日本人がアジア太平洋各地の民衆に対して犯したさまざまな残虐な戦争犯罪の加害責任も厳しく追及しない。自分たちの加害責任と真剣に向き合わないため、米国が自分たちに対して犯した由々しい戦争犯罪の加害責任についても追及することができないという、二重に無責任な姿勢の悪循環を産み出し続けてきた。それゆえにこそ、米国の軍事支配には奴隷的に従属する一方で、アジア諸国からは信頼されないため、いつまでたっても平和で友好的な国際関係を築けない情けない国となっている。これが、現在の「被爆国日本の立ち位置」なのである。こんなことすら理解できない人物が編集委員を務める「朝日新聞」は、なんとも情けない。

 

日本が、戦後長く抱え込んできたこの決定的な欠陥に、日本人の我々が真剣に立ち向かってこなかったからこそ、今再び我々はアメリカによる狡猾な「ヒロシマを抱きよせる」戦術に、いとも簡単に「抱きよせられて」しまうのである。

 

 

<次回  ヒロシマを抱きよせる米国 (その2)に続く>

 

 


2023年8月21日月曜日

「安倍国葬 違憲」訴訟 意見陳述書

昨年927日に日本武道館で行われた安倍晋三国葬儀への招待名簿について、今月はじめに共同通信が内閣府に情報公開を請求したところ、その名簿の74%がいわゆる「のり弁」=黒塗り、つまり非公開だったとのこと。外国からの出席者 734 人を含め 4,170 名が出席したが、『東京新聞』(86日)によると、安倍と交友があった著名人を含む「遺族・遺族関係者」は 96% が、元国会議員は 100% が不開示だった。

この国葬に使われたほぼ 12 億円もの多額の経費の全額を国が つまり国民の税金で 賄ったわけであるが、自分たちの税金を使われた国民としては、当然、出席者に関する情報を知る権利があるはずである。出席者が名前を知られることに不都合を感じるような「国葬」であるならば、その「国葬」のやり方自体に「正当性がない」という「後ろめたさ」を、岸田首相をはじめ政府関係者たちが抱いていると推測できる。国葬については「法的根拠や基準がない」との批判が当初から続出したにもかかわらず、国会での説明もほとんどないまま、「閣議決定」で決めてしまった。法的根拠がない場合には「閣議決定」という文字通りの「無法な決定」で押し通してしまうというメチャクチャなやり方も、岸田政権は安倍政権から継承している。まさにこれは無法国家のやり方で、日本は「民主主義」国家とは言えない状況にまでなっている。

 

黒塗りされた安倍晋三国葬儀・招待名簿

 

 

私は前回のブログ記事で、政治家たちの大嘘が日常茶飯事化しつつあり、その結果「真実の言葉が空虚化」していることを指摘しておいたが、国葬問題の裏にも、この「真実の言葉の空虚化」という由々しい問題がある。

現在、東京地方裁判所で審理中の「安倍国葬 違憲」訴訟で、増田都子さんが述べられた意見陳述書を、ご本人のご承諾をえて、ここに紹介する。ここには、安倍や岸田の嘘を、さらには正義感を失っている日本の裁判官の情けなさを、増田さんが「真実の言葉」で厳しく抉り出していることに、私は痛快を感じる。増田さんはジャーナリストではないが、日本のジャーナリストの中には、増田さんのように「真実の言葉」で「政治家の嘘」を徹底的に追求する記者や評論家がひじょうに少ない。まれにそのような人がいるとすれば「奇人」扱いされるという日本の今の状況は、まさに「異常」であるというべきである。つまり、そこまで日本の「民主主義」は崩壊しつつある、と私は言いたい。

 

(ちなみに、私も昨年8月に、このブログで「国葬は民主主義を破壊する」と題する評論を載せておいたので、あわせてお目通しいただければ光栄である。

http://yjtanaka.blogspot.com/2022/08/blog-post.html

 

 

東京地方裁判所 御中

陳述書

2023年7月24日

増田都子(元中学校社会科教員)

 

1,安倍晋三は国賊というにふさわしく、国葬など全くふさわしくないこと。

 私は去年7月8日、たまたま見ていたテレビに「安倍首相、銃撃される」のテロップが流れた時、心の中で力いっぱい彼に向って引き金を引いた者です。

 

私は博愛主義者ではありません。彼は万死に値する! と確信しています。ただ1回の銃撃死などでは足りません。彼は日本国憲法の平和主義を破壊し、この憲法を作らせるに至ったアジア太平洋戦争での犠牲者、日本人310万人…その中には暴力で無理やり日本人にした朝鮮半島出身者もいます…と中国人を中心とするアジア人2000万人の犠牲者の「日本はもう二度と戦争をしないで!」という魂の叫びを踏みにじったのです。2310万回、死んでもいいはずです。

 

大日本帝国敗戦後、通算8年8か月にも及んだ最長政権と言いますが、彼が日本国の最高権力者である内閣総理大臣としてやったことは我が国の最高法規である日本国憲法の破壊活動です。彼は日本国の「国の形」の破壊、すなわち、最高法規であるはずの日本国憲法の大原則、平和主義・民主主義を破壊しました。今、刑務所にいる殺人犯など足元にも及ばない大罪人です。

 

彼が尊敬する祖父・岸信介が東条内閣の閣僚として真珠湾攻撃開始に判を押して始まった太平洋戦争の結果、大日本帝国は焦土となり、原爆投下までされて、日本人310万人の死者と、それに数倍する2千万人ともいわれる膨大なアジア人の死者…日本軍による虐殺者を含め…の山が築かれました。

 

岸は侵略国家、即ち他国に対する強盗殺人国家であった大日本帝国がでっち上げた傀儡国家満州国の官僚の実質NO.1であり、莫大なアヘン専売の利益を一部私物化し敗戦時、GHQにも極秘情報と共に差し出した可能性があります。東条がA級戦犯として死刑なら彼も死刑が相当のところ、A級戦犯容疑者でありながら不起訴となり釈放された理由でしょう。そして、彼はCIAのエージェントとなり(『CIA秘録』上巻)、石橋湛山死後、日本国民にとってはあまりにも不幸にも転がり込んできた内閣総理大臣として安保条約を改定し、日本国の主権をアメリカにさらに深く売り渡し属国化への道を深めました。そして当時でも反社会集団であることが明らかだった統一協会の創始者と深く親交を結び、我が国に統一協会を扶植しました。この親交は安倍晋三まで三代続きました。まさに、彼は正真正銘、国賊の嫡孫です。

 

その安倍晋三が、統一協会によって家庭も人生もメチャクチャに破壊された若者によって銃撃死したことは、まさに因果応報の見本といえましょう。

 

しかし、こうしたことは敗戦当時の人たちには夢にも考えることはできず、国の内外2310万人の惨死と彼らを愛した家族たちの無慮何千万の涙と、焦土と化した国土の上に、やっとやっと、日本国民が手にすることができたのが「もう二度と戦争はしない」という日本国憲法なのです。「戦争放棄の平和主義・国民主権・基本的人権の尊重」を三大原則とするのが現在の「『日本という国』の形」です。「天皇の命による戦争主義・天皇主権・無基本的人権」の大日本帝国とは全く正反対の「国の形」になったのです。

 

ところが、安倍晋三ときたら、あるネット番組で公言しました。

「日本国憲法の前文には『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』と書いてある。つまり、自分たちの安全を世界に任せますよと言っている。そして『専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う』。

 自分たちが専制や隷従、圧迫と偏狭をなくそうと考えているわけではない。いじましいんですね。みっともない憲法ですよ、はっきり言って。それは、日本人が作ったんじゃないですからね。そんな憲法を持っている以上、外務省も、自分たちが発言するのを憲法上義務づけられていないんだから、国際社会に任せるんだから、精神がそうなってしまっているんですね。」

 この発言からも安倍晋三という人物には日本語の読解力が不足していることは明らかで、かつあまりにも無知で無教養であることが明らかです。

「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」からには、日本国自ら「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努め」ることが前提であることは中学生でも読めばわかります。中学校社会科の教員として、日本国憲法前文の暗唱を課した時「この部分が好きだ」という生徒が多くいました。

 日本国憲法は「日本人がつくったんじゃない」事実はあるけれども、天皇制を何とか残したい日本人為政者とGHQとの合作が原案であり、帝国議会で修正をしながら圧倒的多数で採択されたものであることは、少しでも憲法史を学習すれば理解できることであるのに、己の無知を棚に上げ、膨大な犠牲の山の上に日本国民が手にした最高法規を「いじましい、みっともない憲法」などと貶め、侮辱し、この平和主義を破壊することを信条として恥じない人物、それが安倍晋三でした。彼は大日本帝国が始めた侵略戦争による我が国内外の2310万人の犠牲者の魂が書き込ませた、ともいうべき日本国憲法を踏みにじって恥じない人物でした。

 

「国賊」の定義は「自国害をなす者、国に損害を与えたり国家尊厳貶めたりする者をののしっていう語」ですが、安倍晋三にピッタリ当てはまります。

 

ジャーナリストの青木理氏の著作『安倍三代』によれば、晋三の母校・成蹊大の恩師でもある加藤節(成蹊大名誉教授、政治学)氏にインタビューした際、加藤氏は安倍政権の顕著な特質を「『ふたつのムチ』--すなわち『無知』と『無恥』に集約されると辛辣に批判した」ということです。

 

 そういう晋三がやったことが「集団的自衛権行使は合憲」という閣議決定です。国の憲法の番人である内閣法制局長官が歴代「違憲」と言い続けていたことを、自分の言いなりになる人物を長官の座に座らせて「合憲」と強行しました。既に日本国は安倍晋三によって「法の支配」は無くなり「人の支配」に落ちぶれてしまっています。中国などを非難するとき、日本政府は「法の支配」という言葉を振りかざしますが、どの口が言うのか? いわゆる「おまゆう?(お前が言うか?)」です。

 

2014年7月1日のこの違憲の閣議決定は、日本国最高権力者・内閣総理大臣である安倍晋三による憲法破壊クーデターと言うべきではないでしょうか?

 

 集団的自衛権を実行・行使すれば…具体的には、他国の戦争、つまり、アメリカを守る戦争の為に自国の若者である自衛隊員の命を差し出すことになるでしょう。

彼はハッキリ言っています。「わが国の領土と領海は私たち自身が血を流してでも護り抜くという決意を示さなければなりません。…まず日本人が命をかけなければ、若い米軍の兵士の命もかけてくれません(『ジャパニズム』20125月号)」

軍事同盟というのは血の同盟です。日本がもし外敵から攻撃を受ければ、アメリカの若者が血を流します。しかし、今の憲法解釈のもとでは、日本の自衛隊は、少なくともアメリカが攻撃されたときに血を流すことはないわけです。…双務性を高めるということは、具体的には集団的自衛権の行使だと思います。(『この国を守る決意』より)」

 自分は絶対に「自衛員とともに血を流す」ことはないのです。「私たち自身が血を流してでも」と言いながら、「私たち」の中には自分が入るつもりはなかったでしょう。

 

 また、「ひとたび攻撃を受ければこれを回避することは難しく、この結果、先に攻撃したほうが圧倒的に有利になっているのが現実であります首相在任中の2018年2月14日の衆院予算委員会)」とか「憲法上は原子爆弾だって問題ではないですからね、憲法上は。小型であればですね」(「サンデー毎日」0262日号)とまで発言しています。内閣総理大臣が「先制攻撃が圧倒的に有利だ」とか「日本核武装も今の日本国憲法下でできる」などと公言したのです。

 安倍政権によって、既に、日本国憲法第9条は無視され、安全保障関連法案というアメリカを守るための戦争関連法案が強行成立させられてしまいました。その憲法破壊者・安倍晋三を国葬を以って顕彰したのが岸田政権です。そしてこの政権による安保三文書などという「戦争やる気満々」三文書によって、いつでも、アメリカ軍の指揮下、自衛隊員たちはアメリカを守るために戦争する体制が出来上がってしまいました。

 

 こんな日本国憲法の大原則である「平和主義・憲法9条」破壊の大悪事を、憲法尊重擁護義務を持つ安倍晋三は内閣総理大臣としてやりおおせたのです。

 

 他にも安倍晋三の悪事・違法行為は、数えるのも困難なほどたくさんあります。WEB論座「安倍政権の7年余りとは、日本史上の汚点である」(白井聡 京都精華大学人文学部准教授)の2020年の論考を利用させていただければ以下のようなものがあります。

 

山口敬之レイプ事件=自分の子分の性犯罪もみ消しの為に権力を行使」「森友学園事件=夫と共に『教育勅語が大好き』昭恵夫人のために国有地を叩き売り、権力を使って公文書を改ざん」「加計学園事件=法を破ってでも友達優遇、公金の横流し」「桜を見る会=公金を使って有権者を買収」…「公金チューチュー」どころか「公金ガブガブ」です。さらに「河井夫妻の事件=公金を使って子分への肩入れ」等々。

 

どれ一つとっても内閣が潰れてもいい案件だと思いますが、最高法規ではなく、最高権力者に靡き忖度する司法の下、日本国は既に法治国家ではなくなっているので、安倍晋三政権は続きました。

 

また、これらの悪事・違法行為を隠ぺいするために安倍晋三は約二百回、国会で嘘を吐きました。彼ら夫婦が「教育勅語」道徳が大好きなのは「嘘を吐くなかれ!」という万国普遍である道徳の根本原則が無く、ひたすら「上が言うがままに従え・戦争しろ」が根本原則だからでしょう。

 

 さらにアベノマスク等の愚策もありますが、許せないのは愚かな思い付きで「全国一斉休校」をさせたことです。2020年3月2日から、安倍晋三内閣総理大臣の思いつきの指示によって、保育園・幼稚園から大学まで、ほぼ日本全国で一か月も休校ということになりました。まだ、それほどコロナ患者は出ていなかったのです。あの頃の数字で休校しなければならないのなら、ほぼ3年間、全国の学校は一斉休校しなければならなったでしょう。

 

 安倍は小学校から大学まで私立のエスカレーターで受験をしたことがなく、就職もコネ入社です。血統書がものを言い、受験でも就職でも苦労したことは無いわけです。政治家…政治屋と言いたいですが…になっても血統書の威力が、彼の無知・無能・無教養を覆い隠してくれました。血統書などない庶民は、学力をつけること、受験すること、就職試験を受けること等のためにどれだけ苦労することか…

 

 島根県・岩手県など、良識ある知事の判断で一斉休校をしていない所もほんの少々はありましたが、この「全国一斉休校」という超愚策は、安倍晋三にとっては「次世代の学力などどうでもいい」ということです。また、保育園を休ませなければならなくなった勤労市民がどれだけの苦労をするかなど、想像もできなかった、ということです。

 

 「全国一斉休校」という、子どもたちの「教育を受ける権利」の侵害という大悪事については、なぜか安倍の大罪を言う人でも現在はあまり出されませんが、子どもたちは「補償しろ」などとモンクを言わないからでしょうか…。

 

 まだまだ安倍晋三が内閣総理大臣として成した悪事は挙げればきりがないのですが、これほどまでに「日本国に害をなした内閣総理大臣、日本国損害を与え、国家尊厳貶めた内閣総理大臣」は、岸信介を除けば大日本帝国敗戦後、いなかったのではないでしょうか。もしかしたら岸田首相が超えるかもしれませんが…。

 

 こんな人物が「国家に最高の貢献をした人物に対する追悼儀式」としての「国葬」に値しますか? 彼は「日本国」という国家の「国の形」である「戦争放棄という平和主義」の破壊活動に奔走し、違憲・違法活動を積み重ねて「日本国という国家の破壊に貢献した人物」であり、まさに「国賊」という名称を与えるのがふさわしい人物です。

 

安倍晋三は絶対に「国葬」などに値する人物ではありません!

 

2,安倍晋三の国葬に法的根拠はなく、この強行は行政法律主義に反すること。

 現在、「国葬」の法的根拠はありません。岸田首相は「内閣府設置法4333号に、内閣府の所掌事務として国の儀式に関する事務に関することが明記されている」ことを根拠としていますが、憲法学者小林節氏は、それは「皇室典範(法律)25条で決まっている国葬などの儀式を内閣が執行する規定であって、内閣が元首相の国葬という新しい儀式類型を創出して良いという規定ではありません。だから、今回の閣議決定は明らかに違憲です」(AERA 2022年07月27日号)と断定しています。

 

 日本国憲法の破壊活動を続け、戦争放棄・平和主義を破壊し「日本国に害をもたらした人物」を、事実とは真反対に「国家に最高の貢献=益をなした人物」などと偽り、高額の税金…私が支払った税金も含まれています…を費やしての「国葬」強行は、思うだけでも今もって私に大きな精神的苦痛をもたらしています。

 

 今まで、日本国憲法と法律を判決の判断基準としない裁判官の方々は「政府が税金を使って安倍元首相を国葬したからって、別にあなたが不利益処分を食らったわけではないでしょう?」として訴えを却下して平然としています。

 

しかし、「国葬」とは「国家葬」であり「この国葬される人物は、国家に最高の貢献を行い、益をもたらした人物であるから、国家成員全員が最高の敬意の精神を持って追悼しなければならない」と日本国家の成員全員に精神的強制をするもので、それぞれの成員が独立した人格として持つ「精神の自由」に対する「強制処分」以外の何でもありません。

 

常識的判断力さえあれば、安倍晋三ほど「国賊」という名称がふさわしく、「国葬」には全く値しない、という判断は容易なはずです。

 

国民主権の現在の日本国憲法下で,閣議決定によって法律には無い元首相の「国葬」という儀式を日本国行政府が執行したことを日本国司法府が合法とするなら、もし、岸田首相が一議員となって死亡した場合も、後継政権が閣議で「国葬にする」と決定しても合法となるでしょう。それでいいでしょうか?

 

日本国の最高法規である日本国憲法の平和主義、民主主義国家の大原則である行政法律主義を安倍晋三という内閣総理大臣が破壊し続け、岸田政権はそれを踏襲し続け、日本国は今「法治国家」とか「法の支配」の下にある、などとは言えないほどに落ちぶれてしまっています。その原因の一つは彼らをチェックするどころか忖度し、追認し続けた司法機関であり、大きな責任があると私は思います。

 

裁判官の皆様、

日本国憲法第99条の憲法尊重擁護義務を果たしていますか? 第76条三項「良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束され」ていますか?

 

この裁判は裁判官の方々の良心を問うものでもあることを、どうか忘れないでください!

以上