歴史克服を目指す「文化創造」運動の躍動性についての想い
はじめに
死者20万人、難民250万人を出したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争から30年目。またしても東欧で大規模戦争が勃発、というよりは、正しくはロシアのウクライナへの明白な侵略戦争で、再び多くの市民が難民化し、死傷者も続出しています。いつものことながら、武力行使側は開戦を正当化するため様々な最もらしい理由を挙げます。しかし、結局は、武力行使の動機の根本的な要素の一つは民族(優位)主義に基づくナショナリズム(=他民族支配欲求)であると、戦争が起きるたびに私は思います。ナショナリズムは本当にやっかいな問題ですね。
現在進行中のウクライナ戦につては、この論考の最後にまた少し触れることにして、今回は、ごく手短にですが、戦争責任と文化の相互関連性について、私見を述べておきます。なぜなら、このことは、すでに広報済みの3月20日開催予定のウェビナー「軍性暴力の傷みを生きる力に変える ― ジャン・ラフ・オハーンさんご遺族の芸術活動 ―」の目的と深く関連していることなので、なぜこれを企画したのか、その意図を知っていただきたいからです。
戦争責任と文化の相互関連性: 加藤周一の論評から
実は、戦争責任と文化の相互関連性については、2008年に亡くなった加藤周一の膨大な著作の中のあちこちに散らばる形で書かれています。恥ずかしながら、私もまだその全てに目を通してはいませんが、自分が読んで発見した彼の関連文章をノートに書き写す努力をしています。その一つを、まずここで紹介しながら持論を述べさせていただきます。
加藤が長年にわたって朝日新聞に連載した時評エッセイ「夕陽妄語」の1992年5月20日の論考「『ユダヤ人の生活と文化』展」は、同年4月に加藤がベルリンで観た「ユダヤ人の生活と文化」に関する大展覧会の紹介から始まっています。彼は次のように書いています。
準備期間十年、全世界から集めた資料二千五百点、旧約聖書の古代から、中世を通して、現代まで、三千年にわたる。四カ月間の入場者は、三十万人を越えたという。……ユダヤ人についての歴史的事実を知るために、なぜ今、なぜドイツで、これほど大がかりな展覧会が行われたのか。それは私にはよくわからない。しかしそれがドイツの統一と係りのなかったことだけは、たしかである。準備に十年を要したとすれば計画が始まったのは、伯林(ベルリン)の「壁」が崩れた八九年末よりもはるかにまえである。
つまり、東西ドイツの統一とは関係なく、当時の西ドイツは自分たちが犯した由々しい犯罪ホロコーストの犠牲者であるユダヤ人が、数千年という長い歴史の間に築いてきた文化を知るために、10年という歳月をかけて準備をしてきた結果がこの大展覧会だったというわけです。こうした努力は、2001年に開館したベルリン・ユダヤ博物館に繋がっているはずだと思います。この博物館でも、1千年紀から現代までのドイツにおけるユダヤ人の歴史や生活の記録を収集・研究・展示しています。
加藤はまた、こうした大展覧会が開かれることを可能にした当時の政治的な背景についても寸評して、以下のように述べています。
戦後早くも一九五一年に、当時のアデナウァ首相は、ナチが過去に行ったユダヤ人虐殺の責任をとることを明言し、五二年には「ルクセンブルク協定」に署名して、イスラエルに対する賠償の大きな財政的負担を引き受け、ドイツ人自身による責任者の追究と裁判を行って、今日に及んでいる。五一年に彼がイスラエルとの関係修復の必要を説いた言葉のなかには、次のような文句がある。「これは単なる外交問題ではない。ドイツ国民とユダヤ民族との間に平和と友好関係をつくり出すのは、私が人間として真に必要とすることである」これは「ドイツとユダヤ民族との間には、過去に、不幸なことがありました」というのとはあきらかにちがう。(強調:田中)
アデナウァの政策は、実際には1950年代後半から末にかけてかなり後退し、その結果、反ユダヤ主義の残存を窺わせる(例えばユダヤ人墓地が荒らされるなどの)事件が増加しています。(詳細につては拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』第5章を参照してください。)しかし、にもかかわらず加藤の以下のような日独比較は適確です。
戦後ドイツ政府がナチの犯罪に対してとってきた態度は、あきらかに、日本政府が帝国陸軍のアジア諸国にあたえた損害に対してとってきた態度とちがう。そのちがいは、一方で、ユダヤ民族の生活と文化を理解するための大展覧会が成りたち、他方、たとえば朝鮮民族のそれを理解するための大規模な展覧会が容易に成りたたない理由の、少くとも一つであるだろう。(強調:田中)
大展覧会が成り立たないのはもちろん、朝鮮民族の生活と文化を理解するための公立博物館の設置にいたっては、残念ながら日本では夢のような話です。
加藤周一 |
「雑種文化」の積極的活用に失敗してきた日本
ドイツの文化が、長年にわたって、ドイツにおけるユダヤ人の文化から様々な影響を受けてきたことは言うまでもありません。同じように、日本の文化も、長い歴史の中で、中国、朝鮮、アイヌ民族、沖縄民族、さらには西欧文化など様々な異文化の影響を受け、それら諸々の要素を取り入れながら、加藤周一が大著『日本文学史序説(上)(下)』で詳細に分析したように、独特の「雑種文化」を創り上げてきました。ところが、日本文化のこの「雑種性」の存在を深く認識し、その独特の文化を積極的に活かしながら、さらに良質なものに変化・発展させようという努力を、基本的に明治以降、近代日本は怠ってきました。怠ってきたどころか、15年戦争前後からは、「雑種性」の存在を強烈に否定し、天皇制イデオロギーを狂信的なナショナリズムの中心に据え、結局は自国と自国民を壊滅的な悲劇へと追い込んでいきました。
日本人が純粋な「日本文化」と信じているものの多くが、実は海外から取り入れられた文化です。例えば茶道は、唐の陸羽(733〜804年)が著した『茶経』や、鎌倉時代に日本に禅宗を伝えた栄西(1141〜1215年)が中国の茶と一緒に源実朝に献上した自著『喫茶養生記』などがなければ、日本の文化の一部とはならなかったはずです。
日本の伝統的な和楽も、海外からのさまざまな影響を受けています。とても興味深い一例を紹介しておきましょう。箏曲の有名な一つに「六段の調べ」というのがあります。この曲は、盲目の箏曲奏者、八橋検校(1614〜1685年)の作曲によると言われており、最も典型的な日本のメロデイだと思われています。ところが、西洋音楽史が専門の皆川達夫(2017〜2020年)が、「六段の調べ」は、16世紀後半から日本で布教されたキリスト教とともに日本に入ってきたグレゴリオ聖歌のうちの「グレゴ」が元になっている、という驚くべき説を2010年頃に唱え始めました。1613年にキリスト教が禁止され信者が迫害されはじめると、「隠れキリシタン」たちは聖歌を、仏教のお経のように聞こえるような節回しで唄うようになり、この独特の歌は「オラショ」と呼ばれました。オラショの「グレゴ」は、まさに「六段の調べ」とひじょうに似ているのです。今では、お琴と共に尺八や三味線との合奏としてもしばしば演奏されます。下のYou tubeで聴いてみてくだい。
https://www.youtube.com/watch?v=K1QZtbDpRfM
ちなみに、皆川は、聖歌「グレゴ」と箏曲「六段の調べ」の両方の演奏と、自分の解説を入れたCDアルバム、「箏曲<六段>とグレゴリオ聖歌<グレド>〜日本伝統音楽とキリシタン音楽との出会い」を出しています。
さて、戦後のいわゆる「民主主義制度」の導入によって、米国占領軍が持ち込んだアメリカ文化が、日本の「雑種文化」をさらに雑種化したといえるでしょう。しかしながら、いろいろな可能性を秘めた雑種性にも関わらずその雑種性を認めず、「日本文化は他国には見られない純粋で独特な文化」だと勝手に思い込んで、日本文化優位主義という一種のナショナリズムに実は浸っているのです。現実の「雑種文化」を、反人種差別、反性差別、人権擁護、強い倫理観と人道主義など、人間の普遍的理念を内にしっかりと根づかせた良質な文化へと発展させる努力は相変わらず怠ってきた、としか言えないと私は考えています。とりわけ自民党、とくに安倍晋三を親分と仰ぐ一派と、それを背後から支える日本会議などは、「雑種文化」否定主義者の集まりであるヤクザ集団です。
この日本の独特の文化のあり方は、敗戦と「戦後民主主義改革」にもかかわらず、基本的に変わっていないというのが加藤周一の考えで、私も同感です。ドイツ、フランスと比べて、日本ではいかに戦前・戦中と戦後が連続したままであるかという事実を、加藤周一は以下のように説明しています。少し引用が長くなりますが:
フランスの場合には、ナチと協力したヴィシー政権と、それと戦った「抵抗」運動─ ドゥ・ゴール将軍のロンドン亡命政権によって代表される ─ から成立した戦後フランス政府との間には、あきらかな断絶がある。したがって少くとも形式的には、現在のフランス政府にヴィシー政権の冒した犯罪の責任はない。旧西独の場合には、戦後の政府および社会が、ナチ政権の犯罪をみずから曝露し、糾弾することで、それとの断絶を強調してきた。ここでは、断絶が深いから過去の責任をとらなかったのではなく、過去の責任をとることによって断絶を深めようと努力したのである。
日本の戦後の政府は、十五年戦争に反対し抵抗した勢力を引きついで成立したのではない。また戦後の政府と社会が、一九四五年以前の独仏の場合とくらべて、四五年の前後の国家の連続性ははるかに強い。そのことは、東条内閣の有力な閣僚の一人が戦後日本の首相になったという事実にも典型的にあらわれている。ヴィシー政府の閣僚が戦後フランスの政治的指導者になるとか、ヒトラー内閣の大臣が戦後ドイツの首相になるとかいうことは、独仏両国において、到底想像もできないことであったろう。犯罪を冒した権力との連続性が強ければ強いほど、過去の犯罪に対する現在の国家の責任は重いはずである。(強調:田中)
あらためて説明するまでもないと思いますが、「東条内閣の有力な閣僚の一人が戦後日本の首相になった」というその人物は、安倍晋三の祖父、岸信介です。
戦争責任と新しい文化の創造の関係
したがって、戦争責任を問わない文化、戦争中の蛮行を十分に批判しない文化をそのまま継承している日本文化の中で育った(現在の若者を含む)戦後世代には、日本軍が犯した様々なおぞましい戦争犯罪に対しての直接の責任はないけれども、そのような文化にどっぷり浸ったまま育ってきたことの責任は重いはずだ、というのが加藤の主張するところで、これにも私は全面的に賛成です。その点を加藤は次のように述べています。
問題は、いくさや犯罪を生みだしたところの制度・社会構造・価値観 ─ もしそれを文化とよぶとすれば、いくさや犯罪と密接に係りあった文化の一面との断絶がどの程度か、ということである。文化のそういう面が今日まで連続して生きているとすれば、─ 今日の日本においてそれは著しいと私は考えるが、─ そういう面を認識し、分析し、批判し、それに反対するかしないかは、遠い過去の問題ではなく、当人がいつ生まれたかには係りのない今日の問題である。……
しかし間接の責任は、どんなに若い日本人も免れることはできないだろう。彼または彼女が、かつていくさと犯罪を生みだした日本文化の一面と対決しないかぎり、またそうすることによって再びいくさと犯罪が生み出される危険を防ごうと努力しないかぎり。
たとえば閉鎖的集団主義、権威への屈服、大勢順応主義、生ぬるい批判精神、人種・男女・少数意見などあらゆる種類の差別……そういうことと無関係に日本帝国主義が成立したのではなかった。(強調:田中)
ちなみに、少々余談になりますが、米国人で法政大学准教授のグレゴリー・ケズナジャットが昨年出版し、京都文学賞を受賞した自伝的小説、『鴨川ランナー』は、この点でとても面白い作品です。若いアメリカ人の英語教師にとって日本文化がとても興味深いものでありながらも、日本人がどれほど「閉鎖的集団主義」であり、国籍や人種の違いに関わらず外人を一個の人間として、自分たちのコミュニティーの一員として完全に受け入れるということをしないことを、経験から具体的に描写している、ひじょうに興味深い作品です。日本文化がいかに奇妙で非人間的かを、面白い形で外国人から指摘される、一読の価値がある作品です。
加藤の言う「いくさと犯罪を生みだした日本文化の一面と対決」するとは、具体的にどういうことを意味しているのでしょうか。私は、その対抗とは「雑種文化」を積極的に活かすことで、新しい文化=正義と平等主義を追求し、そうした活動に喜びを感じて止まない文化を創造していくこと、これを指していると考えます。私は、市民運動は「新しい文化創造運動」であるべきだと強く考えています。例えば、憲法九条擁護運動は憲法九条を制度としてあくまでもまもるという政治的活動だけではなく、理念としてもしっかり私たちの思想の中に根づかせていく文化運動 ─ 文学、美術、音楽その他の芸能などで新作品を創造し活用する運動 ─ としての展開が必要だと思います。つまり、憲法九条の理念を私たちの文化の重要な要素の一つとして、私たちの心の中に内面化し、多くの市民の間で共有し、且つその共有をみんなで一緒に楽しむという文化運動です。その結果、知らない間に憲法九条の理念が、自分たちの日常生活の文化の一部になっていた、という文化的状況を作り出すことが必要だと私は思います。
戦争責任問題についても同じことが言えると思います。いわゆる「歴史の克服」は、自分たちの文化の戦争責任を明確に認識し、その文化を、戦争責任を自己追求する、正義に基づいた文化へと変革する継続的運動によってはじめて達成できるものだと私は思っています。歴史事実を教え、被害者の声に耳を傾けることはもちろん大切ですが、それだけでは私は「記憶の継承」は不可能だと思っています。「記憶の継承」は、その記憶が文化の一要素として私たちの心を感動させ、内面化されることで、その文化が継承されていくことによってこそ達成されるというのが私の信念です。そうした文化創造運動の一つとして、新作能を活用するという私の提案については、これまでにいろいろなところで書いたり述べたりしてきましたので、ここでは繰り返しません。
私が、ウェビナー「軍性暴力の傷みを生きる力に変える ― ジャン・ラフ・オハーンさんご遺族の芸術活動 ―」を提案した理由は、日本軍性奴隷として痛ましい被害を受けたオハーンさんの娘さんとお孫さんが、美術と映画制作という芸術活動で、いかに被害者側が一つの文化を創造し、その文化創造を通して被害者の記憶の継承をはかろうとされているのか、その実態を出来るだけ加害者側のみなさんに知ってもらいたいからです。それを知ることで、「それでは私たちは、加害者側としていったいどのような文化の創造ができるだろうか」ということを考えていただきたいからです。
最後に
現在進行中のウクライナ戦争は、この論考の出だしでも述べましたように、ロシアのウクライナへの侵略戦争に他なりません。しかし、プーチンがウクライナを支配下に置きたいという欲望の裏には、ウクライナがNATOに取り込まれ、アメリカのパックス・アメリカーナ(アメリカの帝国主義的な軍事支配による「平和体制」)に組み込まれることでロシアへの脅威になるという深い懸念があることを忘れてはなりません。ロシア軍のウクライナからの早急な全面撤退を要求すると同時に、私たちはアメリカに対してもNATO体制の解体と核兵器の廃絶を強く要求しなければなりません。ロシアがウクライナを「ナチス」と称するプロパンガンダが、いかに虚妄であるかは誰の目にも明らかです。しかし同時に、米国の「民主主義防衛」という主張もまた空虚な、実体のないプロパガンダ以外の何ものでもないことを、しっかり把握しておきましょう。
このことを把握しておかないと、安倍晋三の軽佻浮薄な発言、「非核保有国が米国の核兵器を配備し、運搬などを担うことで核を『共有』する政策」だと称する「ニュークリア・シェアリング」の提案に、騙されてしまいます。「核の共有」などという表現は、事実を隠蔽するために作られた言葉の遊びで、これまた虚妄以外の何ものでもありません。米国もロシアも、その他どの核保有国であれ、他国と「核の共有」をしようなどという意志は全くありません。NATOに配備されている核兵器の使用を最終決断するのは、あくまでもアメリカ政府です。日本に核兵器が配備されたら、その使用を決断するのもアメリカ政府であり、米国と対等の立場に立って共同で決断するなどという選択は日本に与えられるはずがありません。こんな簡単なことも理解できずに、日本維新の会の愚昧な議員たちは、「核共有の議論の開始」を政府に提言しました。「唯一の被爆国」というバカの一つ覚えのような表現をことあるごとに使いながらも、アメリカの核の傘下から抜けることは考えようともしない「広島選出」の首相。みないずれも、自分の「知力の低さ」と「文化意識の浅薄さ」を曝け出しながら、なんら恥ずかしいとも感じない者ばかりです。
このような虚妄の政治体制を内側から崩すには、戦時体制に入ってしまってからでは遅すぎます。日常から、そのような体制をじわじわと崩す重厚な文化を、私たち市民が連帯して、日頃の地道な活動で築きあげ、強化し、広げ、共有する運動を続けていくことが必要だと思います。平和運動は、畢竟、私たちの日常生活と直接つながっている、喜びをもたらす文化活動でないと、本当の民衆の力とはならないのではないでしょうか。
― 完 ―