2021年8月28日土曜日

ブログ記事「インドネシア人労務者を使った人体実験」に関する質問を受けて:

ワクチンの「人体実験」と「治験」の違いの判断から、コロナ感染症問題を考える

 

8月9日にこのブログに載せた記事「インドネシア人労務者を使った人体実験」を読まれた匿名の方から、以下のような質問がありました。その質問をコメント欄に掲載させていただき、私の応答もコメント欄に載せようと思い書き始めました。しかし、書いているうちに長くなってしまい、コメント欄に載せるには長くなりすぎてしまいました。さらに、ご質問自体もたいへん重要な問題だと思いますので、ここにご質問と私自身の考えを記しておきます。読者のみなさんからも、ご意見、ご批評をお聞かせいただければ幸いです。

 

質問:ワクチンの治験と人体実験の違いの判断基準はどこに置くのか?

 

今回、ご紹介いただいたNHK.BSの番組、オンデマンドで視聴しました。
南方戦線の悲惨さ、日本軍の悪行は目を覆いたくなりますが、過ちを繰り返さないためにも、しっかりと目を見開き、事実を知らなければならないと思いました。

ところで、私には以前からわからないことがあります。

 

人体実験と治験の境目はどこだろうか、ということです。
10
年くらい前、友人に誘われ治験ボランティアに登録しました。
登録はしたものの、健康体の私には治験参加要請はありませんでしたが、考えるきっかけとなりました。

インドネシアの労務者が破傷風ワクチンで亡くなったのは痛ましいことですが、もし、ワクチンが成功して効いていたとすれば、それでも、人体実験と言えるのでしょうか。
翻って現在、世界中でコロナワクチンが接種されていますが、ファイザー社もモデルナ社もアストラゼネカ社も治験は終わっていません。
緊急事態だということで、治験の終わっていないワクチンを世界中で接種しています。
戦時中のインドネシアでの破傷風ワクチン接種を人体実験と言うなら、現在のコロナワクチン接種も人体実験です。
コロナは非常事態だから問題ないと言うなら、戦時中も非常事態であり問題ないという事になります。
ちなみに、現在日本では、コロナワクチン接種後の死亡者数は2週間ごとに発表されています。7月末で919人。825日で1000人を越えているようです。戦時中のインドネシアと比較すると圧倒的に少ない割合ですが、従来のインフルエンザワクチンと比較すると悲鳴をあげたくなるほど多くの死者がでています。
とんでもない薬害が起きているのではないかと危惧していますが、マスコミ報道は一切ありません。気持ち悪いほどに。

 

応答:被験者の「命の価値」を低く見なすのが「実験」ではないでしょうか

 

人体実験と治験の境界はどうやって判断するのかというのは、確かに難しい問題ですよね。医学の専門家でない私には明確なお答えはできかねますし、お答えする資格があるかどうかも、正直なところ分かりませんが、一応、私の考えを書かせていただきます。

 

ロームシャを被験者とした破傷風ワクチン接種はなぜ「人体実験」なのか

熱帯病研究者のケビン・ベアードも書いていますように、通常の新ワクチンをテストする場合には、まずはモルモットを使って実験を行い、それで安全が確認されてから今度はサルを使って実験するという段階的テストを行うのが通常のようです。動物実験で効用・安全性が確保された上での少数の人間での実験が第一段階での「治験」で、それで安全がさらに確保されてから徐々に「治験対象者数」を増やしていって、最終的には数千人単位での結果をみて、そのワクチンを大量生産するかどうかの判断をする、というのが通常ではないかと思います。

ところが、当該事件の場合は、動物実験もやっていない新型ワクチンを、本番ぶっつけの形で、インドネシアの多数のロームシャに、事前了解もなしに無理矢理に注射しています。ワクチン開発の目的は、太平洋各地に派遣されている多くの日本兵を破傷風から守ることにありました。その「日本軍将兵の生命保護」のために開発した新型ワクチンの効用・安全性の確認を目的に、動物実験を抜いて最初からインドネシアの多数のロームシャに注射しているわけです。したがって、万一、それが安全であることがロームシャでの「治験」で分かったとしても、その「危険性」から判断して、これは「治験」ではなく、明らかに「人体実験」と言わなくてはならないと思います。言い換えるなら、危険であることが分かっていたから日本兵を治験の対象とせずに、まずはロームシャで試してみたわけです。つまり、動物のかわりに「日本人でない人間」を実験の対象としたわけです。換言すれば、ロームシャの命は「人間」としてよりは、「動物」の命と同じように「価値の薄い」ものとして取り扱われているわけです。

 

米国での人体実験で「命の価値が差別化」されていた被験者

ご存知かと思いますが、米国は冷戦の初期の時代に、プルトニュウムの放射能の危険性を知るための数多くの人体実験を国内でやっています。例えば、オレゴン州の刑務所に入っている131人の受刑者を対象に大量のX線投影をやったり、ボストンの知的障がい者用施設に入っていた49人の子どもたちの朝食に、放射線を浴びせたシリアルを食べさせるなどしています。サンフランシスコでは、病気で末期症状にある18人の(子ども含む)患者にプルトニュウム液を注射しています。実験の対象者は明らかに「健常者」とはみなされていない人たちでした。しかも、その大部分が、黒人あるいは下層の労働者階級の人たちでした。

こんな酷い実験をやった理由は、核戦争が起きて米国全土が放射能汚染された場合に、その影響が人体にどれほど出るのかを知り、どうしたら多くの人命を放射能汚染から救えるかという医学的対処法を考えるためでした。同じ冷戦時代、米国は、そのほか、ポリオ(急性灰白髄炎)、肝炎、風疹のワクチン開発でも、多くの人体実験をやっていますが、対象者は孤児院の子供たちや精神病院の入院患者など、通常の社会から排除されていた人たちでした。

 

731部隊の「人体実験」の特異性

731部隊がやった様々な人体実験の対象者も、ほとんどが「中国人犯罪者」とみなされた人たちでしたが、この場合は敵兵や敵軍を支援する住民の命を奪うために使う生物・化学兵器の開発のために、「犯罪者」というレッテルをはられた中国人を実験の対象にしています。これは「人命を救う」という医学の本来の目的からすれば、それとは全く逆の「人命を奪う」=殺傷するために医学を使うというものです。したがって、一応は「(自分たちの)人命を救う」ための「医学実験」という観点から見ても、731部隊の「実験」は、医学の最たる腐敗形態としか言えません。しかし731部隊の実験の中には凍傷のように、凍傷になった日本兵をいかに早く治療し、回復させるかを見つけ出すために中国人を使ったものもあります。とにかく、731部隊の場合は、大量殺傷をするための大量破壊兵器を開発するために、同じ民族の人間を人体実験で殺してみる、というめちゃくちゃな犯罪行為でした。

 

「人体実験」と「治験」を分離する基準は「命の価値の差別化」にあるのではないでしょうか

731部隊の場合は特殊な例としても、「人体実験」の判断には、単なる医学的な病気予防や治療という観点からだけではなく、実験をやる人間によって、「生命の価値が薄い」とみなされている者をその対象者=被験者としているかどうかが、「治験」と区別する重要な判断基準になると私は思います。

外国人の場合は、敵国人や植民地、占領地の住民の生命、同国人の場合は国内の少数民族や下層(貧困)階級、身体・知的障がい者など、差別されている人々の生命です。これらの人たちの「命」の価値が、国家権力によって、通常の国民の「命」の価値と比較され、「価値が劣っている」とみなされているわけです。したがって、人体実験の合理化の裏には、「通常の国民」=マジョリティの「命」を守るために、それらの「劣った人間」の「価値の低い命」を役立てることは許される、という「命の価値の差別化」があることを忘れてはならないと私は考えます。劣った人間の命は、優れた人間の命をできる限り健康に保ち活用化するために犠牲にしてよい、というこの考を極端に押し進めたのがナチスのホロコーストであったことは言うまでもありません。

「治験」の場合の最初の段階での動物の利用も、モルモットの命の価値はサルの命の価値より低く、サルの命の価値は人間の命の価値より低い、という思考がこの「段階的治験」の背後にあることは間違いないと思います。生命倫理学の権威であるピーター・ジンガー的な見方をすれば、人間は動物の権利をいたく侵害していることになります。ここに、「人体実験」と「治験」の間に、ある程度の類似性があることは確かです。それはともかくも、「人体実験」の被験者は、動物と同じように、その生命の「価値が薄い」とみなされているわけです。

 

戦時中の国内での「命の価値の差別化」と現在のコロナ感染下での国民の「命の価値」

ただし、戦時中の日本軍将兵の命の価値が、破傷風実験に使われたロームシャの命の価値より国家権力によって比較的高く評価されていたからといって、その将兵たちの人権が尊重されていたとは決して言えないことはあらためて言うまでもないことです。日本軍将兵や国民の命は、病気によって無駄に奪われるべきではなく、天皇の身体=国体に象徴されている国家のために奪われてこそ価値がある、という考えから、日本軍将兵と国民の命の価値も、天皇からの物理的・精神的な距離によって等級づけられていたことを忘れてはならないと思います。玉砕と称して死に追いやられた無数の将兵たちの命や、沖縄戦がその最たるケースであったように、戦闘や空襲で死んでいった多くの国民の命の価値も、はっきりと差別化されていました。

しかし、「命の価値の差別化」は平和時の社会においても日常茶飯事に行われています。最近、それが私たちの目に見える形でもろに現れています。オリンピック・パラリンピックを開催し成功させるためには、国民の間にコロナ感染者数が増え、重傷者数が激増して医療崩壊が起こり、国民の多くの「命が奪われてもしかたがない」という現政府の考え方は、まさに国家のために「国民の命の価値の差別化」が行われているわけです。その意味では、戦時中の「命の価値の差別化」と、実は深く繋がっている国家主義的思考です。

また感染症とは別としても、難民や外国人労働者の人たちの命の価値は、名古屋出入国在留管理局に収容されていたスリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさんが、病気の治療も受けられずに死亡した例からも分かるように、極めて低いものとしてしかみなされていません。

さらに、コロナ感染症で重症化した患者の間でも「命の価値の差別化」が行われています。多くの重症患者を抱えた病院内では、老齢患者の命を助けるよりは、比較的若い年齢の患者の命を助けることに力が注がれます。なぜ若者の命の価値は、老齢者の命の価値よりはるかに高いと判断されるのか、その判断基準は何なのでしょうか?長生きしてきた人間の命の価値を、若い人たちの命の価値との比較では低くみてよい、というその正当化の根拠はどこにあるのでしょうか? たいへん難しい問題です。(正直、古稀を超えた一応「高齢者」の私にとっては他人事ではない問題です<苦笑>)

 



結論:現在の段階で私が言えること

「人体実験」と「治験」の間に、「命の価値の差別化」の類似性がある程度あることに私は言及しておきましたが、しかしそれでも、人体実験による「命の価値の差別化」は、最初から意図的に、政治的目的に基づいて差別化されているという点で、「治験」とは異なっているのではないでしょうか。通常、「治験」の場合の被験者の場合は、人間の命の価値を最初から差別した上で被験者を選択する、あるいは被験者になることを強制する、ということは行われていないように思います。

コロナ感染症で世界各地に死亡者が続出し、累計感染者数が2億1千5百万を超え、死亡者が450万人近くになっている緊急事態が長く続いている現在、完全に治験の終わっていないコロナ・ワクチンを世界各地で接種することが盛んに推進されています。しかし、これは「命の価値の差別化」を最初から組み込んだ人体実験と見なすことは難しいのではないでしょうか。「命の価値の差別化」を判断基準とすれば、むしろワクチン接種を受けたいにもかかわらず、受けることができない大勢の人(とりわけ開発途上国の住民)、つまり感染防止をできない人の命の価値の方が低く見られている傾向がある、と言ってよいのではないでしょうか。

コロナワクチン接種後の死亡者数が、日本では8月25日で千人を越えているという情報は私には驚きです。ワクチン接種と死亡との因果関係が、明確に確認されているのでしょうか?死亡者の中には、すでに糖尿病とか高血圧とか何か持病がすでにあり、ワクチン接種で合併症を起こした結果というケースはないのでしょうか?

オーストラリアでのワクチン(これまではほとんどがアストラ・ゼニカ)接種の場合、7月下旬で、死亡者数は5名で全て血栓症が死因です。ワクチン接種の後で重い病気になったケースは87件、その疑いがあるケースは34件となっています。現在までのオーストラリアでのワクチン注射の数は、ほぼ1,840万回にのぼっています。注射数の絶対数と比較しての死亡者数の割合は 0.00000027% となっています。また、先住民であるアボリジニの人たちにもワクチン接種がさかんに行われつつあります。まだまだ、ワクチンの効用が今後どのように出てくるのかの判断を待たなくては決定的なことは言えないと思いますが、ワクチン接種の対象者から判断しても、また死亡者の数から見ても、オーストラリアの場合は、ワクチン注射を「人体実験」と見なすことは難しいように私には思えます。

 

 最初に申し上げたように、私は医学には全く専門知識がありません。身体にコロナ病原菌が入ったなら、「消毒薬を注射したらどうか」と堂々と言った阿呆な大統領がいましたが、私には笑えなかったです。というのも、好きな酒(アルコール)で体内を消毒すれば良いではないかと、私も、とりわけ酔っぱらって気持ちがよくなった場合には、半ば本気で思ったことがありますので(笑)。とにかく、全くの医学無知の私に言えることは以上のようなことです。お役に立ったかどうか自信もありません。なにとぞご海容のほど。

 

どうぞ、菅首相とその取り巻き連中による「命の価値の差別化」で、命が抹消されないように十分気をつけられ、この困難な時期を健康で乗り切ってください


2021年8月24日火曜日

私見 広島「被服支廠」の活用について(1)

1)本題に入る前に: 黒澤明の『夢』と私の父について


黒澤明が1990年に制作・監督した映画『夢』は、8篇の「夢」から成っています。その4番目の「夢」を観るたびに、私は自分の父親のことを憶い出します。その「夢」は次のような話です。

 

敗戦後、ひとり復員した陸軍将校(配役:寺尾聰)が戦死した部下達の遺族を訪ねようと、人気のない山道を歩いてトンネルを抜け出ると、自分の部下であった戦死した一人の兵の亡霊が、今しがた自分が歩いてきた暗いトンネルの中から出てきます。その亡霊は、山の下に見える一軒の家の明かりを指差し、あれが家族が待っている自分の家だと告げます。将校は「お前は死んだのだ」と告げると、悲しそうな顔をしながらもと来たトンネルを戻って行きます。ところが、突然、今度は大勢の兵隊たちの軍靴の音がトンネルの中から聞こえてきます。どのような者たちが出て来るのかとおどおどしながら待ちかまえていると、現れたのは自分が指揮していた小隊全員の、戦死させてしまった兵たちの亡霊でした。彼らの霊魂も故郷に帰りたかったのです。その将校は、部下たちの霊魂に向かって、この世を彷徨い続けることの虚しさを説き、「静かに眠ってくれと」頼み、「廻れ右」の号令でトンネルの暗闇に向かってもと来た道を帰らせます。母国を遠く離れた戦地で死亡し、故郷に帰ることができなかった無数の日本兵たちの無念と哀しみを、凄まじく悲壮な象徴的表現で観客に突きつけ、心を深く震わせる映像芸術だと私は思います。黒澤の仕事らしい、傑作であることは間違いないと思います。

https://www.youtube.com/watch?v=wovssrluaD0

  にもかかわらず、この映画には決定的な問いかけがスッポリ抜け落ちています。それは、日本という内地から見れば哀しい戦争被害者であったこの兵隊たちは、彼らが侵略した土地の住民からみれば、日本軍の軍服・軍帽・軍靴を着用し、菊の紋章がつけられた銃を抱え、日章旗と軍旗を掲げた、残虐極まりない男たちだったのです。彼らは、その地で、略奪・強姦・殺戮など、さまざまな残虐行為を犯しました。その被害者や遺族たちは、日本兵の霊魂がこの世を彷徨い続ける姿に、目に涙を滲ませることすらないのは当然です。その被害者とその遺族の感情的な深い痛みへの倫理的想像力が、この「夢」にはスッポリ抜け落ちているということです。

  私の父は、戦時中は関東軍中尉(中隊長)として満州で主として中国共産党軍(いわゆる八路軍)と戦ったようです。ところが、ある日、戦闘で敵弾が腹部貫通するという重傷を負い、ハルビンの陸軍病院に搬送されて入院。回復するや、内地の故郷・福井県の鯖江市の歩兵第36連隊駐屯地に転任となり、なぜか再び外地に出されることはなく、敗戦まで鯖江にいました。そのため、中国で自分が指揮した中隊の部下の若者たちはほとんど戦死したにもかかわらず、自分だけが生き残ったという罪意識にずいぶん苛まれていたようです。私がまだ幼い頃、父は毎年1〜2回、行き先も告げずに突然いなくなることがあり、1週間あまり帰って来ませんでした。母は父がどこに行っているのか分かっていたようですが、私は「家出した」のではないかと(父は「婿養子」でしたので<笑>)、その度に心配したことを覚えています。後年になって分かったことですが、父が隊長を務めた中隊の兵たちの多くは岩手県の農村出身だったとのことで、父は福井の田舎の永平寺町から岩手県まで、戦死させてしまった部下たちの墓参りと、部下たちの母親に会って謝罪するために、出かけて行ったとのこと。父の気持ちは、映画『夢』の中のあの将校と同じように、「この世を彷徨い歩く部下たちの亡霊」に時折悩まされ、岩手まで出かけずにはいられなかったのではないかと想像します。その負い目からだと思いますが、軍人恩給を受け取ることを一切拒否しました。

  しかし、その父が、岩手の若者たちと一緒に殺害したであろう敵兵あるいは中国市民に対して、罪意識を感じていたような気配は全くありませんでした。私は、父から戦死した部下たちの話はよく聞きましたが、敵兵や中国住民に関する話はほとんど聞いたことがありません。敵兵については「八路軍の士気とモラルはひじょうに高く、その点では日本軍は比較にならないほど劣っていた」ということだけは繰り返し述べていました。聞かされたのは、それだけです。「中国の人に謝罪したい」という言葉を、父の口から聞いたことはありませんでした。

 

2)動画レポート「被服支廠赤レンガ倉庫 ~浮かび上がる軍都・廣島」を観て

 

さて、本題に入ります。最近、ノンフィクション作家の高瀬毅さんが制作した動画、「被服支廠赤レンガ倉庫 ~浮かび上がる軍都・廣島」をぜひ観てみるようにと、広島の私の尊敬する友人で、被服支廠の建物保存運動を熱心にすすめておられる「広島文学資料保全の会」代表の土屋時子さんと、最近全国的に注目を集めている広島の画家・四國五郎氏の息子さんである四國光さんのお二人からお薦めがありました。土屋さんは「Hifukusho ラジオ」という番組も昨年から始められ、広島に関心を持って市民活動を行なっておられる全国さまざまな人にインタヴューを行い、被服支廠建物を保存し、どのように活用したら良いのかという議論を展開しておられます。

Youtube被服支廠赤レンガ倉庫 ~浮かび上がる軍都・廣島」は、Hifukusho ラジオ」で出されてきた様々な意見の総まとめ的な報告とも言えるものだと思います。

 https://www.youtube.com/watch?v=V62jdHW-DoI

  土屋さんたちが、この運動で訴えたいことは以下のようなことだと思います。日本軍将兵が着用した様々な種類の軍服と軍靴を製造し、同時に日本国内の他の地域にあった被服支廠から広島に送られてきた軍服・軍靴を宇品港から海外の戦地に送り出すための中継地の役割を果たしていたこの被服支廠=軍服・軍靴製造工場は、広島が単なる地方都市ではなく、軍に密接に協力していた「軍事都市(軍都)」であったことの一つの証である。軍都であったからこそ広島は原爆攻撃の目標になったのであり、原爆攻撃の直後には、破壊を免れたこの被服支廠の建物の中に瀕死の状態になった多くの被爆者が逃げ込み、医療手当もほとんど受けられずに次々に亡くなっていったという、その原爆被害の実相を記憶する意味でも、この建物をしっかりと保存し、平和構築のために活用すべきである、ということです。

「軍都の証」として今も残っている被爆建物は、確かに広島にはほとんどここにしか存在しません。同じ広大な陸軍の敷地には、武器弾薬を製造し、またそれらの兵器を集積・補給するための兵器補給廠の建物もありましたが、1970年代に解体されたため、現在は残っていません。

動画「被服支廠赤レンガ倉庫」では、土屋さんや元広島市長の平岡敬さん、それに戦時中に被服支廠で働いておられた切明千枝子さん、若い世代で被服支廠の保存・活用運動に意欲的な若者たちへのインタヴューを入れながら、被服支廠だけではなく宇品港に当時あった陸軍の建物などを紹介し、被服支廠がいかに「軍都の証」であるかということを示すと同時に、原爆無差別大量殺戮の被害者の多くが亡くなっていった場所としても記憶されるべき建築物であるというメッセージが力強く発信されています。動画の最後近く、四國光さんが見事にそのメッセージを簡潔明瞭にまとめる形でご自分の意見を提示されています。

それによると、被服支廠の建物は①戦争記憶を継承するための「戦争遺構」として、②原爆被害者の鎮魂のための墓標である「被爆遺構」として、保存すること。同時に③現在広島に残されている芸術・文学関連作品(四國五郎の絵画や、峠三吉、原民樹、大田洋子など被爆者詩人・作家などのオリジナル原稿や出版物)、さらには原爆関連の漫画、アニメ作品などの収集、保存、展示のためにもこの建物を活用すること。この三つが被服支廠保存・活用をめざす市民運動の目標として掲げられています。私もこの提案の根本的な構想方針に、一応、大枠としては賛成します。

 


 

3)「戦争記憶継承」と「鎮魂」は誰のために、何のためにあるべきか

 

  私が「一応、大枠として」という条件をなぜ入れたのか、その理由を説明します。それは、「戦争記憶継承」と「鎮魂」の仕方そのものに関わってくる重要な問題だからです。

 

動画「被服支廠赤レンガ倉庫」やHifukusho ラジオ」でインタヴューされた人たちのほとんどが、被服支廠を「軍都の証」として保存・活用すべきということを主張されています。確かに広島は、明治維新後の10年後の1877年に広島城跡地に広島鎮台司令部が置かれ、1888年には陸軍第5師団が設置されました。翌年1889年に築港された広島宇品港が陸軍の軍用港に指定され、1894年の日清戦争では、この宇品港から歩兵第11連隊が朝鮮半島を経て中国東北部に送りこまれました。しかも、第5師団司令部には戦争指揮のための大本営が置かれ、明治天皇・睦仁をはじめ政府ならびに軍首脳も広島に移り住み、大本営のそばには臨時の国会議事堂まで建てられました。日清、日露戦争で勝利した日本は、宇品港をもつ広島に様々な軍事施設を設置して「軍都」として発展させ、ここを起点に中国、さらにはその他のアジアと太平洋地域への侵略行為をエスカレートさせていったことは周知のところです。

みなさんのインタビューを聴いていますと、したがって、広島がアメリカに原爆攻撃をさせる原因を作っていたのは、広島が一大軍事都市となっていたからであり、その歴史的事実を知らしめるためにこそ、被服支廠を「軍都の証」として残すべきすべきである、というのが保存・活用の最も重要な理由と考えておられるように思えます。そのこと自体については、私も全く同感です。

しかし、それとの関連で、動画の中で、宇品から海外戦地に送り出された「8割の兵士たちが(日本には)戻って来れなかった」と、案内役を務めた河口悠介さんが説明されているように、ここでの「戦争記憶」の焦点は、あくまでも「私たち日本人が、軍都のせいでいかに戦争被害者にされたか」に置かれていることに気がつきます。動画の中では、私が気がついた限り、被服支廠との関連で加害の具体的な例をとりあげられたのは、多賀俊介さんが広島での朝鮮人強制労働に一言触れておられるカ所だけです。

不思議なことに、被服支廠で製造された軍服・軍靴を着用し、兵器補給廠から出された兵器を手渡されて宇品から海外に出陣していった兵たちが、いったいどのような蛮行をはたらいたのか、その点を「軍都」との関連で言及する人はほとんどおられません。戦争記憶を継承するための「戦争遺構」を提唱された四國光さんも、市長時代に「アジアに対する加害責任」を強調された平岡敬さんも、この動画では、記憶の重要な要素としての戦争加害の問題には一言も触れていません。(ただし、平岡さんはHifukusho ラジオ」でのインタヴューでは、被服支廠を「加害の遺産」とはっきりと述べられていますし、加害と被害の両方に視点を当てる戦争記憶継承の重要性を強調されています。インタヴューでも実際には述べられたのかもしれませんが、編集段階でカットされた可能性もあるかと思います。)

日本帝国陸海軍は、日清戦争前の「東学党の乱」の時点から朝鮮農民の虐殺という残虐行為を行い、日清戦争では旅順で多くの捕虜や市民を虐殺。日露戦争には当初から日本の朝鮮半島植民地化の狙いが含まれていたのであり、戦時中は、朝鮮での発、軍用品輸送や土木作業のための人夫役に反抗する多くの朝鮮人を日本軍は刑しました。戦争直後には、日本による朝鮮植民地化に反する義兵運動が高まり、1906〜11年には朝鮮各地で義兵争が起きました。日本軍はこれにし、暴行、略奪、いなどで弾圧を試み、その結果、朝鮮人義兵側には推定死傷者2万4千名が出ました。

日清争後の1895年5月に台植民地化のために台湾北部に上陸した日本軍は、台南占領までの約5ヶ月間に、軍民合わせて1万4千人以上を殺害。その後起きた北部蜂起にする日本軍による報復殺害の牲者は3千人近く。1898〜1902年までに台総督府が刑した叛徒1万人以上にのぼりました。このように日本は、朝鮮・台湾植民地化の当初から虐殺行為を繰り広げました。

1931年9月になると、日本軍は侵略の口実としてデッチ上げた「満州事変」をきっかけに、中国への侵略戦争を拡大していき、その過程で、南京虐殺や三光作戦、731部隊による人体実験、日本人経営の鉱山や工事現場で使いものにならなくなった数多くの中国人労働者を生き埋めにした「万人坑」など、様々なおぞましい戦争犯罪行為を中国各地で犯し、無数の中国人を殺傷しました。

1941年12月には日本は戦域をアジア太平洋全域に一挙に拡大し、連合諸国との全面戦争という破滅への道を急速に駆け落ちていきました。1942年2月にシンガポールを陥落させた日本軍第25軍は、シンガポールやマレー半島で、「抗日分子」または「抗日ゲリラ」が潜んでいるとみなした村落を皆殺しにしました。マレー半島での犠牲者数は数万人から10万人にのぼると推定されていますが、このマレー半島での虐殺に加わった兵隊たちの一部は、広島に本部が置かれていた第5師団歩兵第11連隊所属の兵員でした。

戦時中、日本軍は同じような住民虐殺をフィリッピン、ボルネオ、インドネシア、マレーシアなど各地で犯しました。インドネシアでは、日本軍占領地域における軍関係の様々な建設工事のための労務者が徴発され、ジャワ島のみならず、マレー半島、ビルマ、太平洋の島々に連行されて強制労働に従事させられました。その数、400万人にのぼったと言われています。泰緬鉄道の建設工事現場にも数多くの労務者(ロームシャという用語はインドネシア語になっています)が送り込まれましたが、ここではインドネシア人だけではなく、地元のタイ、ビルマ、マレーなどから合計35万人を超えるアジア人ロームシャが酷使され、過酷な労働や熱帯病、飢餓で多くが亡くなりました。泰緬鉄道の工事に駆り出された5万5千人の連合軍捕虜のうち、1万3千人あまりが過酷な強制労働と熱帯病で死亡しました。ベトナム北部では日本軍占領下の1944年末から45年にかけて大飢餓が発生し、200万人が餓死または飢餓関連の病気で死亡したと言われています。

さらに、アジア太平洋戦争中には朝鮮・台湾から100万人以上の人たちが、軍事工場、土木工事などでの労務のために強制連行され、広島の原爆で被爆した朝鮮人の数は約5万人、そのうち死亡者が3万人いたということについてはあらためて述べるまでもないと思います。その上、多くの女性たちが軍性奴隷としてアジア太平洋各地に送り込まれた事実も周知のところです。

日本軍による虐待・虐殺ケースは例をあげればキリがありませんので、これ以上言及しないでおきますが、日本が15年間にわたって繰り広げたアジア太平洋戦争での日本軍による虐待・虐殺や強制労働などの犠牲者はどんなに少なく見積もっても1千万に近いと思われます。第2次大戦中5年ほどの間における、主としてユダヤ人という一人種の計画的な大量虐殺と、場当たり的で、どちらかと言えば無計画な15年にわたるアジア多民族の殺害とを単純には比較できません。しかし、それでも絶対数だけからすれば、日本軍残虐行為の犠牲者はホロコーストをはるかに超えるものであったと言えると私は考えています。

そして、その残虐行為に加わった日本兵士の多くが、広島の被服支廠で製造された軍服・軍靴を着用し、兵器補給廠からの兵器を手渡されて宇品から海外に出陣していった、この事実!日本のこの凄まじい加害行為にほとんど触れない「軍都の証」=「戦争記憶継承」とは、いったいどんな「戦争記憶継承」なのでしょうか?それが本当に「戦争記憶継承」と呼べるのでしょうか?

このことを考えていただくために、拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』(339〜40ページ)で、栗原貞子の詩を引用しながら私が記しておいた「記憶」のあり方についての部分を下に紹介せていただきます

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このことの重要性を、詩という形で見事に表現したのが栗原貞子の『ヒロシマというとき』である。とりわけ、その詩の最後の言葉は、その本質を象徴的に表現している。

 

<ヒロシマ>といえば

<ああヒロシマ>と

やさしいこたえがかえって来るためには

わたしたちは

わたしたちの汚れた手を

きよめなければならない

 

  このように他者(とりわけ私たち自国の残虐行為による被害者)の「記憶」を自分のものとして内面化することを経て、はじめて我々自身の「記憶」が他者によって継承されるのである。記憶」とは他者と自己との継続的な相互交流の中でこそ機能し継承されるものであり、「文化的記憶」はこのような二重性、相互関連性を最初からしっかりと具えていなければならない。自己の「記憶」だけを一方的に相手にむかって発信しても、そして、たとえそれが一時的に受けとめられたとしても、それが時間と場所を超えて長く広く継承されることはない。

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したがって、<鎮魂のための墓標である「被爆遺構」>という被服支廠の活用の仕方も、極めて自己被害中心的で且つ狭隘な捉え方であると思いますので、この提案には私は残念でなりません。この建物は、もちろん被爆者を鎮魂するためと同時に、宇品から出動し、ここで作られた軍服・軍靴を着用し、兵器補給廠から出された銃器で日本軍兵士が、明治時代から1945年8月までの長期にわたって、アジア太平洋各地で繰り広げた虐待と殺戮の無数の被害者の人たちの「痛み」に倫理的想像力を働かせ、自分の「痛み」として内面化するための場所ともなるべき空間なのです。

映画『夢』の中の、故郷に帰ることを願いながらも彷徨っている「日本兵の深い心の痛みと哀しみ」。同じように、その兵隊たちに虐殺されて愛する人を失った夫や妻、子供を失った親、親を失った子供などなど、その人たちの「痛みと悲哀」をも私たちは自分のものとして深く内面化すべきだと思います。それが、日本軍兵士であった父親や祖父の世代を持つ私たち日本人の、人間として当然とるべき責任倫理だと私は思います。

その行為を通してこそ、自分たちの「被爆の痛み」を、日本軍の加害行為の犠牲者の遺族の方たちにも共有してもらうことができるはずです。すなわち、この建物を「痛みの共有機構」としなければならないと私は思います。いうまでもなく、「戦争記憶継承の機構」と「痛みの共有機構」は表裏一体となっているべきもので、分離できるものではありません。「痛みの共有」の上にこそ、真の平和的生存関係が築かれるはずだと私は信じます。

  私は、この被服支廠の三棟の一つを、日本の戦争加害の歴史と、その加害歴史に広島がどれほど深く関与したかを詳しく解説すると同時に、原爆被爆当時にこの建物がいかに悲惨な阿修羅地獄と化したかの実相を描写する、しかも「加害」と「被害」がいかに緊密に絡み合っているかが実感できるような、「戦争博物館」にすべきだと思っています。「加害の歴史」は、広島に現存する博物館や美術館では完全に無視されていますので、ぜひこれを実現してもらいたいです。「平和文化都市」を自称する広島市が、「痛みの共有」の上に立った文化施設を作れないなら、「平和文化都市」と自称するのを止めるべきです。

  

長くなりますので、今回はこれで一応終わらせていただきます。四國光さんが被服支廠活用のためのアイデアとして述べられている「芸術の利用」についての私自身の考えは、日をあらためて、「私見 広島『被服支廠』の活用について(2)」としてこのブログで紹介させていただきます。

 

  ちなみに、上に述べた「痛みの共有」の重要性を、文学作品で強調したのが栗原貞子であり、その重要性を証言活動で実践したのが沼田鈴子さんでした。この稀有なお二人の被爆者の思想と活動については、このブログに掲載してある「国家主義を突き破る人道主義:栗原貞子の思想と沼田鈴子の実践から学ぶべきもの」(2018年8月30日)と「沼田鈴子の思想と実践:<痛みの共有>に関する補論」(2020年8月29日)を参照してください。戦争被害者のご遺族の心の痛みを具体的に知っていただくためには、豪州人の例として、今年6月30日のブログ記事で紹介しているお二人の遺族のスピーチ(私の講演録の後に載せてあります)を是非ともご一読いただければありがたいです。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。

 


2021年8月16日月曜日

日独「終戦記念式典」における式辞の読み比べ

「戦争責任」と「民主主義」の関連性を再考する

 

例年のごとく、昨日の敗戦記念日では、政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館で行われ、天皇徳仁と首相菅義偉が式辞を述べました。式辞の内容は毎年ほとんど同じ内容の、ひじょうに形式的で、読み手の犠牲者に対する深い人間的情感が聞き手には全く伝わってこないものでした。無味乾燥で、心に響いてくるものが何もない無感動的なものでした。しかも、読み手にとって「犠牲者」は、菅がはっきり述べているように「300万余の同胞」、すなわち「日本人」だけです。強制労働や軍性奴隷とされた、当時の植民地であった朝鮮・台湾の人たちや、15年という長期にわたって日本が行った侵略戦争と残虐行為の直接・間接的に犠牲者となった数千万人という膨大な数にのぼる、中国をはじめとするアジア太平洋地域の様々な人たち、激しい虐待を受けた連合軍捕虜たちなどの苦しみや悲しみに対する想いは、微塵もありません。

 

この2人の式辞を、昨年、ドイツの大統領シュタインマイヤーがヨーロッパ戦線での終戦記念日である5月8日にベルリンで行った演説と読み比べてみると、「国家としての品位」と、読み手の「人間としての品位」のその雲泥の差をまざまざと見せつけられます。シュタインマイヤーの演説からは、国家として戦争責任をとることが、その国家の「民主主義」を育むことにとっていかに重要であるかを、明確に教えられます。日独のこの「式辞」の違いに注目し、「戦争責任」と「民主主義」の深い関連性についてもう一度熟考してみたいと思います。

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天皇徳仁の全国戦没者追悼式での式辞

2021年8月15日

 

本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。

終戦以来76年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。

私たちは今、新型コロナウイルス感染症の厳しい感染状況による新たな試練に直面していますが、私たち皆がなお一層心を一つにし、力を合わせてこの困難を乗り越え、今後とも、人々の幸せと平和を希求し続けていくことを心から願います。

ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

 

菅義偉首相の式辞

 

 天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表のご列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行いたします。

 先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました。

 祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦場にたおれた方々。戦後、遠い異郷の地で亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、各都市での爆撃、沖縄における地上戦など、戦乱の渦に巻き込まれ犠牲となられた方々。今、すべてのみ霊の御前にあって、み霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。

 今日、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆さまの尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念をささげます。

 いまだ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、決して忘れません。一日も早くふるさとにお迎えできるよう、国の責務として全力を尽くしてまいります。

 わが国は、戦後一貫して、平和を重んじる国として歩んでまいりました。世界の誰もが、平和で、心豊かに暮らせる世の中を実現するため、力の限りを尽くしてまいりました。

 戦争の惨禍を、二度と繰り返さない、この信念をこれからも貫いてまいります。わが国は、積極的平和主義の旗の下、国際社会と力を合わせながら、世界が直面するさまざまな課題の解決に、全力で取り組んでまいります。今なお、感染拡大が続く新型コロナウイルス感染症を克服し、一日も早く安心とにぎわいのある日常を取り戻し、そして、この国の未来を切り開いてまいります。

 終わりに、いま一度、戦没者のみ霊に平安を、ご遺族の皆さまにはご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。

 

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シュタインマイヤー大統領スピーチ

ナチスからの解放と欧州における第二次世界大戦終戦75周年

戦争と暴力支配の犠牲者のためのドイツ連邦共和国中央追悼施設(ノイエ・ヴァッヘ)にて

202058

於 ベルリン

 

国民の皆様

欧州の友人の皆様

世界中の友好国、同盟国の皆様

 

75年前の本日、欧州において第二次世界大戦が終結しました。194558日、ナチスの暴力支配が終焉し、空爆の夜と死の行進が終焉し、ドイツによる比類のない犯罪と文明の断絶であるショアーが終焉しました。ここベルリンにおいて、絶滅戦争は考案され、勃発し、巨大な破壊力を持って再び戻ってきました。そのベルリンにおいて、私たちは本日、ともに記憶を呼び起こしたいと考えていました。

 

多大な犠牲のもと、欧州を解放した東西双方の連合国関係者とともに、記憶を呼び起こしたいと考えていました。ドイツ占領下で苦しみながら、それでも和解の意思を示してくれた欧州各国のパートナーとともに。ドイツによる犯罪を生き延びた人々や、私たちに手を差し伸べてくれた実に多くの犠牲者遺族の人々とともに。この国に、再出発のチャンスを与えてくれた世界中のすべての人々とともに。

 

また、あの時代を自ら経験した我が国の高齢者の人々とともに、記憶を呼び起こしたいと考えていました。飢え、逃亡、暴力、追放。子どもの頃こうしたあらゆる過酷な経験をし、戦後、東側、西側の双方でこの国を築き上げた人々です。

 

そして若い人たちとともに追悼をしたいと考えていました。今日、自分たちはそもそも過去から未だに何を学べるのかと問うている、当時から数えて三世代目にあたる若い人々です。私は彼らに呼びかけます。「君たちが頼りだ。まさに君たちが、あの恐ろしい戦争の教訓を将来に伝えなければならないんだ」と。だからこそ私たちは本日、世界中から何千人もの若者をベルリンに招いていました。先祖が敵同士であり、今は友人同士である若い人たちです。

 

このようにして、本日58日、ともに記憶を呼び起こしたいと考えていたのです。しかしコロナの世界的流行により、私たちは大切に思う人、感謝を抱いている人と離ればなれのまま、孤独に追悼するという状況を余儀なくされています。この「孤独」という状況は、私たちを今一度、194558日のあの日にしばし身を置いてみるきっかけになるかもしれません。当時、ドイツ人は実際に孤立していたからです。ドイツは軍事的に敗北し、政治的・経済的に壊滅し、倫理的に打ちのめされていました。私たちは全世界を敵に回していたのです。

 

75年後の今日、私たちは、孤独に追悼をせざるを得ない状況にあります。しかし孤立はしていません!これこそ、今日という日がもたらしてくれる福音です。私たちの国は、力強く堅固な民主主義を有し、今年ドイツ再統一から30年目を迎え、平和で統合された欧州の中央部に位置しています。私たちは信頼を享受し、世界中の連携と協調の果実を得ています。解放の日は感謝の日である。私たちドイツ人は今、そう言えるのです。

 

心の底からこうした確信が得られるまで、三世代の歳月がかかりました。確かに、194558日は解放の日でした。しかし当時はそれが、人々の頭と心にまだ届いていませんでした。

 

1945年、解放は外からやってきました。解放は外から来ざるをえなかった。この国はそれほどまでに深く、自らが生み出した災厄と罪にその身を絡めとられていたのです。西ドイツの経済復興と民主主義の再出発も、かつての敵国が示してくれた寛大さ、先見の明、和解の意思があったからこそ果たすことができたのです。しかし、私たち自身もまた解放の一端を担っています。それは内なる解放でした。内なる解放は、194558日に起こったものでも、一日にして起こったのものでもありません。長く、痛みを伴う道のりでした。犯罪行為を知っていた者やそれに加担していた者の過去に関する総括と解明、家族内や世代間の葛藤をもたらした辛い問いかけ、沈黙と隠蔽に抗する闘い。

 

それは、私と同世代の多くのドイツ人が、少しずつこの国に普通の感情を持つようになっていった数十年の歳月でした。ドイツの近隣諸国において新たな信頼が醸成され、欧州の統合プロセスから東方条約に至るまで、慎重な接近が可能となっていった歳月でもありました。東欧諸国における勇気と自由への憧れが、壁の内側に収まりきれなくなり、最終的に、解放における最も幸福な瞬間、すなわち平和革命と再統一に至った歳月でした。私たち自身の歴史と格闘してきたこの歳月は、ドイツにおける民主主義が成熟していった歳月でした。

 

そしてこの格闘は今日まで続いています。記憶するという営みに終わりはありません。私たちの歴史から解き放たれることはありません。記憶を呼び起こさなければ、私たちは将来を失ってしまうからです。

 

私たちドイツ人が、自らの歴史を直視し、歴史的責任を引き受けたからこそ、世界の国々は我が国に新たな信頼を寄せてくれました。だからこそ、私たち自身もまたそのような国となったドイツを信頼できるのです。そこにあるのは、啓蒙された民主主義的愛国心です。分裂を伴わないドイツの愛国心はありません。光と陰への視座、喜びと悲しみ、感謝の念と恥を伴わないドイツの愛国心はありません。

 

ラビ・ナフマンは次のように書いています。「引き裂かれた心ほど完全な心はない」。ドイツの歴史は引き裂かれた歴史であり、何百万人もの人々に対する殺戮と、何百万人もの人々の苦しみに対する責任を伴います。このことは今日に至るまで私たちの心を引き裂きます。だからこそ、引き裂かれた心を持ってしか、この国を愛することはできないのです。

 

これを耐え難いと思う者、終止符を求める者は、戦争とナチス独裁の災禍を記憶から排除しようとするのみならず、私たちが成し遂げてきたあらゆる善きものの価値を失わせ、我が国における民主主義の中核的本質すら否定してしまうのです。

 

「人間の尊厳は不可侵である」。我が国の憲法の第一条に掲げられたこの一文には、アウシュビッツで起きたこと、戦争と独裁体制下で起きたことが、すべての人の目に見える形で刻み込まれています。そうです、過去を想起する営みは重荷ではありません。想起しないことこそ、重荷になるのです。責任を認めることは恥ではありません。責任の否定こそ、恥ずべきことなのです。

 

しかし75年後の今日、私たちの歴史的責任とは、どのようなものなのでしょうか。今日、私たちは感謝の念を抱いていますが、そこから安逸に走ってはいけません。記憶の営みは、厳しい課題や義務をつきつけてくるのです。

 

「もう二度と」戦後、私たちはこう誓いました。この「もう二度と」は、私たちドイツ人にとっては特に「もう二度と孤立するな」ということでもあります。そしてこれは、他のどこよりも欧州においてあてはまります。私たちは欧州の結束を保たなければなりません。欧州人として考え、感じ、行動しなければなりません。欧州の結束を、このパンデミック下において、また収束後において保てないのであれば、私たちは58日という日を節目の日とする資格はありません。欧州の失敗は、「もう二度と」という誓いの失敗でもあるのです。

 

国際社会は「もう二度と」というこの誓いから学びました。1945年以降、戦争の惨禍を教訓として、共通の土台、すなわち人権と国際法、平和と協力のルールを作り上げていきました。

 

甚大な災厄を引き起こした私たちの国は、国際秩序を脅かす危険な存在から、時を経て、秩序の推進者となりました。私たちは今、この平和秩序が私たちの目の前で溶融するのを許してはなりません。この秩序を作り上げた人々との心理的距離が広がり続ける状況を受け入れてはなりません。パンデミックとの戦いでもそうですが、私たちが目指すのは国際協力の拡大であって縮小ではないのです。

 

58日は解放の日であった」。リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー元大統領のこの有名な言葉を、改めて別の角度から理解する必要があると思います。当時この言葉は、私たちの過去との格闘におけるマイルストーンとなりました。しかし今日、この言葉は未来に向けたものとしても理解しなければなりません。すなわち、「解放」の過程には決して終わりはなく、また、私たちは受け身にとどまっていればよいわけではなく、日々能動的に解放を実現することが求められているのです。当時、私たちは他者により解放されました。今日、私たちは自らを解放しなければなりません。

 

新たなナショナリズムの誘惑から、権威主義的な政治の魅力から、各国間の相互不信、分断、敵対から自分たちを解放するのです。憎悪や誹謗・攻撃、外国人敵視や民主主義軽視からの解放を進めるのです。これらはみな、装いを新たにしているだけで、かつてと同じ悪の亡霊です。今日、今年の58日、私たちはハーナウの外国人銃撃事件、ハレのシナゴーグ襲撃事件、カッセルの政治家射殺事件の犠牲者を悼みます。コロナ禍で彼らが忘れ去られることはありません。

 

イスラエルのルーベン・リブリン大統領は今年、ホロコースト犠牲者追悼の日にドイツ連邦議会での演説で「ここドイツで起きるなら、どこでも起こりうる」と述べました。ここで起きるなら、どこでも起こりうる。しかし今日、その危険から私たちを解放してくれる人は誰もいません。自らの解放は自分で行わなければならないのです。私たちは、自ら責任を担うために解放されたのです。

 

確かに、今年の58日は、激しい変化と大きな不確実性の只中で巡ってきました。コロナ以前からそうでしたが、コロナによってその状況に拍車がかかりました。いつ、どのようにこの危機から脱することになるか、今は分かりません。しかし、どのような心構えで今回の危機を迎えたかは分かっています。この国と私たちの民主主義への強い信頼、ともに担うことができるものへの強い信頼を胸に、私たちは今回の危機を迎え対応したのです。これはまさに、私たちがこの75年の間にいかに大きな進歩を遂げてきたかの証左です。これを見ると私は、今後何が待ち受けていようとも、私たちのこれからに希望を抱くことができるのです。

 

国民の皆様、

コロナのため、私たちはともに記憶を呼び起こし、式典に集まることはできません。しかし、この静寂を活かしましょう。立ち止まりましょう。

 

全てのドイツ人へのお願いです。どうか今日は静かに戦争とナチスの犠牲者に思いを馳せてください。ご自身の出身にかかわらず、ご自身の記憶、家族の記憶、そして私たちの国の歴史に問いかけてみてください。解放が、58日が、ご自身の人生と行動にいかなる意味を持つのかを考えてみてください。

 

終戦から75年。私たちドイツ人は多くの感謝すべき状況に恵まれています。しかし、あれ以来得られてきたそうしたありがたい成果のうち、ひとつとして永遠に保障されているものはありません。従ってその意味においても、58日は解放が終わった日ではないのです。むしろあの日以来、自由と民主主義の追求が託され続けているのです。私たちに、託され続けているのです。

 

 


2021年8月9日月曜日

インドネシア人労務者を使った人体実験?

NHK BS1番組「感染症に斃れた日本軍兵士~追跡・防疫給水部2万5千人」の放送にあたって

 

8月22日午後10時からNHK BS1 「感染症に斃れた日本軍兵士~追跡・防疫給水部2万5千人」と題するドキュメンタリーが放送される予定になっています。今年の3月初旬、この番組の制作チームのスタッフの一人から私に連絡があり、私の著書 Hidden Horrors: Japanese War Crimes in World War II の第5章 Japanese Biological Warfare Plans and Experiments on POWs (日本軍生物兵器戦計画と捕虜人体実験)で私が使っている資料について質問したいので ZOOM で相談させて欲しいという要請がありました。この章では、私は主に、日本軍が豪州軍捕虜を使って「栄養失調症」や「マラリア」に関連する人体実験を行い死亡させた戦争犯罪ケースについて、戦後、豪州軍が調査した記録資料を分析して、その事実について解説しました。NHKの制作スタッフは、この豪州軍資料について詳しく知りたかったのです。

ZOOM での相談に応じましたが、その折、戦時中にインドネシアの日本陸軍が運営する「防疫研究所」が生産した「発疹チフス+コレ+赤痢」の混合予防ワクチンを、インドネシアの900人ほどの労務者に注射して全員を死亡させた事件を詳しく分析した、ケビン・ベアードのことも話題になりました。と言うのも、ケビンのこの貴重な研究については、私は2014年に、カナダの友人、乗松聡子さんのブログで紹介しておいたからです (その時は、私はまだ自分のブログを設置していませんでした)NHKのスタッフはこの拙論にも目を通したようで、ケビンともすでに連絡をとり、この事件についても番組で取り上げる予定だと教えてくれました。

ケビンのこの研究結果は2015年にWar Crimes in Japan-Occupied Indonesia: A Case of Murder by Medicine (University of Nebraska Press)として出版されています。出版にあたって私は短い推薦文を書くように頼まれましたが、その推薦文が本の裏表紙に印刷されています。また、この本の内容の要旨を彼自身が論文にしたWar Crimes in Japan-Occupied Indonesia: Unraveling the Persecution of Achmad Mochtar を2016年1月に、The Asia-Pacific Journal/Japan Focus に掲載してもらいました。

日本では全く知られていなかったこの戦犯冤罪ケースが、今回、NHKで取り上げられるならば、ひじょうに有意義だと思います。ちなみに、8月号の『世界』には、インドネシア史専門の倉沢愛子さんが、「それは日本軍の人体実験だったのか? - インドネシア破傷風ワクチン謀略事件の謎」という論考を寄稿しておられるようです。私はまだ読んでいませんが、おそらくケビンの研究成果を紹介されているのではないかと推察しています。

  そこで、今日は、2014年8月にすでに乗松聡子さんのブログ「ピース・フィロソフィー」に掲載していただいた、ケビン・ベアードによる研究の内容を紹介した私の論考を、乗松さんの許可をいただいて下に転載させていただきます。テレビ番組を観るための参考にしていただければ光栄です。

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日本軍が犯した様々な残虐行為については、すでに私はいろいろなところで発表していますので、ここでは繰返しません。しかし、7月上旬に突然インドネシアから送られてきた興味深い関連メールについて紹介させていただきます。

メールは、ジャカルタにある熱帯病研究所「エイクマン研究所」の一研究員からでした。送信人は、この研究所と共同研究を行っているオックスフォード大学の研究プロジェクトに携わっているアメリカ人ケビン・ベアードという人で、マラリア病専門研究家です。彼と「エイクマン研究所」所長のサコット・マズキ(インドネシア人でオーストラリアのモナシュ大学医学部教授を兼任)という2人の熱帯病専門家が、太平洋戦争時代にインドネシアで日本軍が犯したある重大な人体実験=戦争犯罪行為について共著の本の原稿執筆を終えたところだという知らせでした。来年アメリカで出版される予定になっており、ついては私に原稿を読んで推薦文を書いて欲しいとの要請でした*。8月中旬までは忙しくて原稿を読んでいる時間がないが、その後でもよいならと引き受け、全原稿と数多くの関連写真をメール添付で送ってもらいました。(*J. Kevin Baird and Sangkot Marzuki, The Mochtar Affair: Murder by Medicine in Japanese Occupied Indonesia 1942 – 1945 2015年出版予定とのことですが、出版社名は知らされていません。)

340ページほどある大著で、しかも医学的解説を多く含んでいるので、熱帯病予防ワクチンについて全く知識のない私には決して読みやすいとはいえない難解な著作ですが、今日なんとか全部読み終えました。その内容をごく簡潔にまとめて紹介すると次のようになります。 

「エイクマン研究所」は、オランダ人医師クリスチャン・エイクマンが1888年にバタビア(現在のジャカルタ)に設置した熱帯病研究ラボが基盤となり、1938年に「エイクマン研究所」と改名され拡大発展しています。エイクマンは当時オランダ植民地であったインドネシア(当時は「オランダ領東インド」)に滞在中に脚気の原因を発見し、1929年にはノーベル生理医学賞を授与されている傑出した医学者で、インドネシア医学校設置にも尽力した人物です。このインドネシア医学校からは優秀なインドネシア人医師が生まれ、その中にはアムステル大学にまで留学して医学者になった者も少なくありません。植民地支配下でこのように現地住民が医学者となって育っていたことを、恥ずかしながらこの原稿を読むまで私は全く知りませんでした。オランダ植民地下のインドネシアでは、「エイクマン研究所」の他に、「パスツール研究所」もオランダ政府の資金で設置され、熱帯病予防研究と熱帯病予防ワクチン生産が行われていました。

19421月から2月にかけて日本軍がオランダ領東インドに侵攻し、3月初めにはバタビアを攻略して、インドネシア全土が日本軍支配下に入りました。インドネシア医学校、隣接するエイクマン研究所からもオランダ人医師や医学者は排除され、彼らは収容所に送られました。医学校と研究所は日本軍支配下に入り、インドネシア人スタッフだけが引き続き仕事に従事することを許されました。医学校の事実上の校長とエイクマン研究所・所長の両ポストに任命されたのは、当時、黄熱病研究などで世界的な功績をあげていたアクマド・モクターというインドネシア人医学者でした。パスツール研究所も日本軍に接収され、「防疫研究所」と改名されました。ここでは、当初はオランダ人研究者も研究を続けることを許されましたが、間もなく彼らも収容所に送られ、「防疫研究所」は完全に日本陸軍によって運営されるようになりました。パスツール研究所では、戦争が開始される前には、「発疹チフス+コレ+赤痢」の混合予防ワクチンを大量生産しており、日本陸軍がこれを引きついでいます。同時にパスツール研究所は破傷風予防のための新ワクチンを開発中でしたが、日本軍が侵攻してきたため、この研究は中断されています。当時は、破傷風は負傷した多くの兵がかかる致命的な病気で、そのため兵力維持のためにはこのワクチン開発が極めて重要な課題でした。

一方、日本軍は数多くのインドネシアの若者や農民(1540歳ぐらいまで)を強制労働に駆り出し、ジャワ島のみならず、マレー半島やビルマなどにまで連行して建設工事や道路工事などの重労働に従事させました。連合軍捕虜を酷使した悪名高い泰緬鉄道建設にも、多くのインドネシア人たちが使われました。彼らは「労務者」と呼ばれましたが、「ロームシャ」はインドネシア語にもなり、英語圏でも日本軍のインドネシア人酷使を表現する用語として知られるようになりました。正確な人数は分かりませんが、400万人以上いたと推定されています。その内、28万人あまりがタイ・ビルマ(その多くが泰緬鉄道建設工事のため)に送り込まれましたが、戦後、インドネシアに帰国したのはわずか52千人ほどだったと言われています。連合軍捕虜同様、彼らロームシャも、わずかな食糧と乏しい医薬品のもとで重労働を強制され、次々と亡くなっていったことは、生き延びた連合軍捕虜たちの証言からも知ることができます。

戦後、スカルノ政権は死亡した労務者400万人に対する戦後賠償金として日本政府に100億ドルの支払いを要求しましたが、日本政府は「証拠無し」と主張して支払いを拒否しています。実は、スカルノ自身が戦時中に日本軍に協力して、「ロームシャ」を駆り出すことに加担した人物でした。「慰安婦」問題では「河野談話」で、一応、日本政府からの謝罪が出されていますが、「ロームシャ」問題では、これまで日本政府からの謝罪は一切ありません。ちなみに、ロームシャを集めるにあたっては、「高い賃金支払い、十分な食糧提供」などという嘘の条件で騙すという方法がしばしばとられたとのこと。日本軍性奴隷を集める手口と類似していたことが分かります。

19447月下旬、バタビアの郊外のクレンダーという所に設置されていたロームシャの集合施設、つまりロームシャとして集められた人たちを一旦この場所に集合させ、ここから東南アジア各地に分散して送り込むまでの仮の居住施設にいた900人あまりのインドネシア人全員に、防疫研究所が生産した「発疹チフス+コレ+赤痢」の混合予防ワクチンの注射が行われました。ところが、それから1週間ほど経った8月初旬、次々と彼らには破傷風の症状があらわれ、七転八倒の苦しみの中でバタバタと死んでいくというたいへんな事態となりました。最初は患者を医学校病院に送り込んでいた日本陸軍は、すぐにクレンダー集合所を立入り禁止として、部外者を入れないようにして、900人あまり全員を集合所内で死亡させてしまいました。防疫研究所の陸軍医療スタッフが「発疹チフス+コレ+赤痢」の混合予防ワクチンにさらに未完成の破傷風予防の新ワクチンを加えたものを作り、それを注射したものとしか考えられないと、この本の著者2人は詳しい医学的分析によって結論づけています。通常は、この種の新ワクチンをテストする場合には、まずはモルモットを使って実験を行い、それで安全が確認されてから今度はサルを使って実験するという段階的テストを行うのが通常であるとのこと。陸軍医療スタッフはこうした基本的手順を抜いて、最初からインドネシア人にワクチン注射を行ったわけですから、パスツール研究所から受け継いで開発した新ワクチンにそうとう自信があったものと思われます。日本兵に新ワクチンを投与する前に、インドネシア人ロームシャでまずは試してみようと考えたものと思われますが、このような重大な事態になるとは予想していなかったものと思われます。

防疫研究所はこの大失態の責任を逃れるために、憲兵隊と共同画策して大嘘をつくことを考え出しました。それは、エイクマン研究所・所長のアクマド・モクター教授が、日本軍占領支配に打撃を与えるために、破傷風菌毒素でワクチンを汚染し、ロームシャを大量殺戮して日本軍の信用を崩壊させる目的で行った破壊工作であったということにしてしまうというものでした。エイクマン研究所にも医学校にも破傷風菌毒素などは保管されておらず、そのような破壊工作はどう考えても不可能でした。しかし、憲兵隊は10月初旬にモクター教授をはじめエイクマン研究所や医学校のインドネシア人スタッフ19名を逮捕し、やってもいない犯罪を白状するよう、様々な拷問を彼らに加えました。間もなく、そのうちの1名が拷問の結果なくなりました。モクター教授は同僚の命を救うために、憲兵隊が用意した全く虚偽の告白状に署名し、自分一人で行った犯罪であると主張したのです。その結果、同僚たちは全員釈放されました。もしかすると、そのような交換条件がモクター教授と憲兵隊の間で取り交わされた可能性もあります。

しかし、不思議なことにその後もモクター教授は監禁され続け、ようやく翌1945年の73日になって処刑されています。もはや日本の敗戦が明白となった1ヶ月少々前になって処刑が行われた理由は、敗戦になり、連合軍が日本軍の戦争犯罪行為を調べ出して、このでっち上げ事件が明らかになることを日本軍が恐れたためではないかということです。つまり、「主犯」である人物を処刑してしまい、この事件は解決済みということにしてしまったわけです。日本軍の思惑通り、この「モクター事件」は、連合軍による日本軍戦争犯罪調査には全く含まれませんでした。熱帯病に関する相当の医学的知識をそなえた検察官でないと、当時はこの事件の真相について疑いをもつことはできなかったと思われます。

この本の共著者であるケビン・ベアードとサコット・マズキは、モクター教授がワクチンを破傷風菌毒素で汚染することが不可能であったこと、ロームシャに注射したワクチンを生産した防疫研究所による全くの準備不足による結果以外に死亡事件が起きるはずがなかったことを、医学的分析を駆使して裏付け、さらには関連生存者がのこした様々な回想記や、今も存命中のただ一人の関係者への聴き取り調査などでその裏付けを補足するという方法をとっています。

私のように、医学に無知な単なる歴史家ではとうてい果たせない実証方法です。なぜこのような重大事件がこれまで歴史家によって明らかにされてこなかったのでしょうか。それは、この戦争犯罪ケースの分析には、通常の歴史家が持ち合わせていない、医学的分析力が欠かせなかったからに他ならないと思います。ケビン・ベアードとサコット・マズキという熱帯病専門家の知識と、モクター教授ならびにエイクマン研究所の名誉挽回への彼らの強い熱望があったからこそ、「モクター事件」の真相がようやく明らかにされたのです。

処刑されたモクター教授には妻と2人の息子がいました。息子の一人はオランダに渡り父親同様に医者になっており、オランダ人女性と結婚しています。彼らの悔しさ、苦しみはいかほどのものであったろうかと想像せずにはいられません。この著書が世に出ることで、戦後70年目にしてようやくモクター家の名誉が回復されます。どう少なく見積もっても数十万というインドネシアの若者たちがロームシャとして故郷を遠く離れた場所で重労働に喘ぎながら亡くなっていきました。息子や夫、父親を強制労働で失った多くのインドネシアの人たちの悲しみと、一家の働き手を失ったその後の生活苦難はいかほどであったろうかと考えずにはいられません。

この紹介文が、現在のあまりにも独善的な日本の一方的戦争被害観に対して疑問を投げかける一機会となれば幸いです。

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「ピース・フィロソフィー」に掲載しただいた拙論の全文は下記のアドレスで読めます。

http://peacephilosophy.blogspot.com/2014/08/1942-45-mochtar-affair-murder-by.html