ワクチンの「人体実験」と「治験」の違いの判断から、コロナ感染症問題を考える
8月9日にこのブログに載せた記事「インドネシア人労務者を使った人体実験」を読まれた匿名の方から、以下のような質問がありました。その質問をコメント欄に掲載させていただき、私の応答もコメント欄に載せようと思い書き始めました。しかし、書いているうちに長くなってしまい、コメント欄に載せるには長くなりすぎてしまいました。さらに、ご質問自体もたいへん重要な問題だと思いますので、ここにご質問と私自身の考えを記しておきます。読者のみなさんからも、ご意見、ご批評をお聞かせいただければ幸いです。
質問:ワクチンの治験と人体実験の違いの判断基準はどこに置くのか?
今回、ご紹介いただいたNHK.BSの番組、オンデマンドで視聴しました。
南方戦線の悲惨さ、日本軍の悪行は目を覆いたくなりますが、過ちを繰り返さないためにも、しっかりと目を見開き、事実を知らなければならないと思いました。
ところで、私には以前からわからないことがあります。
人体実験と治験の境目はどこだろうか、ということです。
10年くらい前、友人に誘われ治験ボランティアに登録しました。
登録はしたものの、健康体の私には治験参加要請はありませんでしたが、考えるきっかけとなりました。
インドネシアの労務者が破傷風ワクチンで亡くなったのは痛ましいことですが、もし、ワクチンが成功して効いていたとすれば、それでも、人体実験と言えるのでしょうか。
翻って現在、世界中でコロナワクチンが接種されていますが、ファイザー社もモデルナ社もアストラゼネカ社も治験は終わっていません。
緊急事態だということで、治験の終わっていないワクチンを世界中で接種しています。
戦時中のインドネシアでの破傷風ワクチン接種を人体実験と言うなら、現在のコロナワクチン接種も人体実験です。
コロナは非常事態だから問題ないと言うなら、戦時中も非常事態であり問題ないという事になります。
ちなみに、現在日本では、コロナワクチン接種後の死亡者数は2週間ごとに発表されています。7月末で919人。8月25日で1000人を越えているようです。戦時中のインドネシアと比較すると圧倒的に少ない割合ですが、従来のインフルエンザワクチンと比較すると悲鳴をあげたくなるほど多くの死者がでています。
とんでもない薬害が起きているのではないかと危惧していますが、マスコミ報道は一切ありません。気持ち悪いほどに。
応答:被験者の「命の価値」を低く見なすのが「実験」ではないでしょうか
人体実験と治験の境界はどうやって判断するのかというのは、確かに難しい問題ですよね。医学の専門家でない私には明確なお答えはできかねますし、お答えする資格があるかどうかも、正直なところ分かりませんが、一応、私の考えを書かせていただきます。
ロームシャを被験者とした破傷風ワクチン接種はなぜ「人体実験」なのか
熱帯病研究者のケビン・ベアードも書いていますように、通常の新ワクチンをテストする場合には、まずはモルモットを使って実験を行い、それで安全が確認されてから今度はサルを使って実験するという段階的テストを行うのが通常のようです。動物実験で効用・安全性が確保された上での少数の人間での実験が第一段階での「治験」で、それで安全がさらに確保されてから徐々に「治験対象者数」を増やしていって、最終的には数千人単位での結果をみて、そのワクチンを大量生産するかどうかの判断をする、というのが通常ではないかと思います。
ところが、当該事件の場合は、動物実験もやっていない新型ワクチンを、本番ぶっつけの形で、インドネシアの多数のロームシャに、事前了解もなしに無理矢理に注射しています。ワクチン開発の目的は、太平洋各地に派遣されている多くの日本兵を破傷風から守ることにありました。その「日本軍将兵の生命保護」のために開発した新型ワクチンの効用・安全性の確認を目的に、動物実験を抜いて最初からインドネシアの多数のロームシャに注射しているわけです。したがって、万一、それが安全であることがロームシャでの「治験」で分かったとしても、その「危険性」から判断して、これは「治験」ではなく、明らかに「人体実験」と言わなくてはならないと思います。言い換えるなら、危険であることが分かっていたから日本兵を治験の対象とせずに、まずはロームシャで試してみたわけです。つまり、動物のかわりに「日本人でない人間」を実験の対象としたわけです。換言すれば、ロームシャの命は「人間」としてよりは、「動物」の命と同じように「価値の薄い」ものとして取り扱われているわけです。
米国での人体実験で「命の価値が差別化」されていた被験者
ご存知かと思いますが、米国は冷戦の初期の時代に、プルトニュウムの放射能の危険性を知るための数多くの人体実験を国内でやっています。例えば、オレゴン州の刑務所に入っている131人の受刑者を対象に大量のX線投影をやったり、ボストンの知的障がい者用施設に入っていた49人の子どもたちの朝食に、放射線を浴びせたシリアルを食べさせるなどしています。サンフランシスコでは、病気で末期症状にある18人の(子ども含む)患者にプルトニュウム液を注射しています。実験の対象者は明らかに「健常者」とはみなされていない人たちでした。しかも、その大部分が、黒人あるいは下層の労働者階級の人たちでした。
こんな酷い実験をやった理由は、核戦争が起きて米国全土が放射能汚染された場合に、その影響が人体にどれほど出るのかを知り、どうしたら多くの人命を放射能汚染から救えるかという医学的対処法を考えるためでした。同じ冷戦時代、米国は、そのほか、ポリオ(急性灰白髄炎)、肝炎、風疹のワクチン開発でも、多くの人体実験をやっていますが、対象者は孤児院の子供たちや精神病院の入院患者など、通常の社会から排除されていた人たちでした。
731部隊の「人体実験」の特異性
731部隊がやった様々な人体実験の対象者も、ほとんどが「中国人犯罪者」とみなされた人たちでしたが、この場合は敵兵や敵軍を支援する住民の命を奪うために使う生物・化学兵器の開発のために、「犯罪者」というレッテルをはられた中国人を実験の対象にしています。これは「人命を救う」という医学の本来の目的からすれば、それとは全く逆の「人命を奪う」=殺傷するために医学を使うというものです。したがって、一応は「(自分たちの)人命を救う」ための「医学実験」という観点から見ても、731部隊の「実験」は、医学の最たる腐敗形態としか言えません。しかし731部隊の実験の中には凍傷のように、凍傷になった日本兵をいかに早く治療し、回復させるかを見つけ出すために中国人を使ったものもあります。とにかく、731部隊の場合は、大量殺傷をするための大量破壊兵器を開発するために、同じ民族の人間を人体実験で殺してみる、というめちゃくちゃな犯罪行為でした。
「人体実験」と「治験」を分離する基準は「命の価値の差別化」にあるのではないでしょうか
731部隊の場合は特殊な例としても、「人体実験」の判断には、単なる医学的な病気予防や治療という観点からだけではなく、実験をやる人間によって、「生命の価値が薄い」とみなされている者をその対象者=被験者としているかどうかが、「治験」と区別する重要な判断基準になると私は思います。
外国人の場合は、敵国人や植民地、占領地の住民の生命、同国人の場合は国内の少数民族や下層(貧困)階級、身体・知的障がい者など、差別されている人々の生命です。これらの人たちの「命」の価値が、国家権力によって、通常の国民の「命」の価値と比較され、「価値が劣っている」とみなされているわけです。したがって、人体実験の合理化の裏には、「通常の国民」=マジョリティの「命」を守るために、それらの「劣った人間」の「価値の低い命」を役立てることは許される、という「命の価値の差別化」があることを忘れてはならないと私は考えます。劣った人間の命は、優れた人間の命をできる限り健康に保ち活用化するために犠牲にしてよい、というこの考を極端に押し進めたのがナチスのホロコーストであったことは言うまでもありません。
「治験」の場合の最初の段階での動物の利用も、モルモットの命の価値はサルの命の価値より低く、サルの命の価値は人間の命の価値より低い、という思考がこの「段階的治験」の背後にあることは間違いないと思います。生命倫理学の権威であるピーター・ジンガー的な見方をすれば、人間は動物の権利をいたく侵害していることになります。ここに、「人体実験」と「治験」の間に、ある程度の類似性があることは確かです。それはともかくも、「人体実験」の被験者は、動物と同じように、その生命の「価値が薄い」とみなされているわけです。
戦時中の国内での「命の価値の差別化」と現在のコロナ感染下での国民の「命の価値」
ただし、戦時中の日本軍将兵の命の価値が、破傷風実験に使われたロームシャの命の価値より国家権力によって比較的高く評価されていたからといって、その将兵たちの人権が尊重されていたとは決して言えないことはあらためて言うまでもないことです。日本軍将兵や国民の命は、病気によって無駄に奪われるべきではなく、天皇の身体=国体に象徴されている国家のために奪われてこそ価値がある、という考えから、日本軍将兵と国民の命の価値も、天皇からの物理的・精神的な距離によって等級づけられていたことを忘れてはならないと思います。玉砕と称して死に追いやられた無数の将兵たちの命や、沖縄戦がその最たるケースであったように、戦闘や空襲で死んでいった多くの国民の命の価値も、はっきりと差別化されていました。
しかし、「命の価値の差別化」は平和時の社会においても日常茶飯事に行われています。最近、それが私たちの目に見える形でもろに現れています。オリンピック・パラリンピックを開催し成功させるためには、国民の間にコロナ感染者数が増え、重傷者数が激増して医療崩壊が起こり、国民の多くの「命が奪われてもしかたがない」という現政府の考え方は、まさに国家のために「国民の命の価値の差別化」が行われているわけです。その意味では、戦時中の「命の価値の差別化」と、実は深く繋がっている国家主義的思考です。
また感染症とは別としても、難民や外国人労働者の人たちの命の価値は、名古屋出入国在留管理局に収容されていたスリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさんが、病気の治療も受けられずに死亡した例からも分かるように、極めて低いものとしてしかみなされていません。
さらに、コロナ感染症で重症化した患者の間でも「命の価値の差別化」が行われています。多くの重症患者を抱えた病院内では、老齢患者の命を助けるよりは、比較的若い年齢の患者の命を助けることに力が注がれます。なぜ若者の命の価値は、老齢者の命の価値よりはるかに高いと判断されるのか、その判断基準は何なのでしょうか?長生きしてきた人間の命の価値を、若い人たちの命の価値との比較では低くみてよい、というその正当化の根拠はどこにあるのでしょうか? たいへん難しい問題です。(正直、古稀を超えた一応「高齢者」の私にとっては他人事ではない問題です<苦笑>)
結論:現在の段階で私が言えること
「人体実験」と「治験」の間に、「命の価値の差別化」の類似性がある程度あることに私は言及しておきましたが、しかしそれでも、人体実験による「命の価値の差別化」は、最初から意図的に、政治的目的に基づいて差別化されているという点で、「治験」とは異なっているのではないでしょうか。通常、「治験」の場合の被験者の場合は、人間の命の価値を最初から差別した上で被験者を選択する、あるいは被験者になることを強制する、ということは行われていないように思います。
コロナ感染症で世界各地に死亡者が続出し、累計感染者数が2億1千5百万を超え、死亡者が450万人近くになっている緊急事態が長く続いている現在、完全に治験の終わっていないコロナ・ワクチンを世界各地で接種することが盛んに推進されています。しかし、これは「命の価値の差別化」を最初から組み込んだ人体実験と見なすことは難しいのではないでしょうか。「命の価値の差別化」を判断基準とすれば、むしろワクチン接種を受けたいにもかかわらず、受けることができない大勢の人(とりわけ開発途上国の住民)、つまり感染防止をできない人の命の価値の方が低く見られている傾向がある、と言ってよいのではないでしょうか。
コロナワクチン接種後の死亡者数が、日本では8月25日で千人を越えているという情報は私には驚きです。ワクチン接種と死亡との因果関係が、明確に確認されているのでしょうか?死亡者の中には、すでに糖尿病とか高血圧とか何か持病がすでにあり、ワクチン接種で合併症を起こした結果というケースはないのでしょうか?
オーストラリアでのワクチン(これまではほとんどがアストラ・ゼニカ)接種の場合、7月下旬で、死亡者数は5名で全て血栓症が死因です。ワクチン接種の後で重い病気になったケースは87件、その疑いがあるケースは34件となっています。現在までのオーストラリアでのワクチン注射の数は、ほぼ1,840万回にのぼっています。注射数の絶対数と比較しての死亡者数の割合は 0.00000027% となっています。また、先住民であるアボリジニの人たちにもワクチン接種がさかんに行われつつあります。まだまだ、ワクチンの効用が今後どのように出てくるのかの判断を待たなくては決定的なことは言えないと思いますが、ワクチン接種の対象者から判断しても、また死亡者の数から見ても、オーストラリアの場合は、ワクチン注射を「人体実験」と見なすことは難しいように私には思えます。
最初に申し上げたように、私は医学には全く専門知識がありません。身体にコロナ病原菌が入ったなら、「消毒薬を注射したらどうか」と堂々と言った阿呆な大統領がいましたが、私には笑えなかったです。というのも、好きな酒(アルコール)で体内を消毒すれば良いではないかと、私も、とりわけ酔っぱらって気持ちがよくなった場合には、半ば本気で思ったことがありますので(笑)。とにかく、全くの医学無知の私に言えることは以上のようなことです。お役に立ったかどうか自信もありません。なにとぞご海容のほど。
どうぞ、菅首相とその取り巻き連中による「命の価値の差別化」で、命が抹消されないように十分気をつけられ、この困難な時期を健康で乗り切ってください