個人的体験から考える日本の人種差別問題
本題に入る前に、私の大好きなメルボルン在住の漫画家・詩人、マイケル・ルーニッグの最新作を紹介しておきます。気が滅入るようなニュースばかりの毎日の連続にあって、なにか心をやさしくいたわってくれるような絵と詩だと思います。
「丘の上」
丘の上に静かにすわっていると
月が頭の上にふんわりとすわりました
すると、微笑んだ友が心の中にすわりました
微笑んでいるのは、ずいぶん前に亡くなった友でした
でも、二人は夜闇の中で久しぶりに話しあいました
天の川が流れ輝く下で
むかしむかし交わした会話で、言えなかったことを
流れ星がやさしく降っていく下で
歳を重ねて賢くなった月が輝き
星々が愛の言葉で歌をうたい
命は生き続けます
(マイケル・ルーニッグ作)
大坂なおみの人種差別抗議とアイデンティティーの確立
2月20日夜にメルボルンで行われた全豪オープン最終戦で、大坂なおみはジェニファ・ブレディを1時間17分ほどの短い時間で、ストレートで勝って優勝。この試合でも、またセリーナ・ウィリアムズ戦でも圧倒的な強さを見せたが、多くの評者が述べているように、技術が進歩したというよりは、彼女の精神的な強さが明らかに増した結果であろう。それは、昨年のBlack Lives Matter の運動に触発されて、彼女自身が 「私はアスリートである前に黒人女性」と主張するようになり、自分が一人の人間として何者であるのかという確固たる自己認識を獲得したことと密接に関連していると思われる。それはまた、同じ価値観を共有する、愛するパートナーを見つけたこととも関連しているであろう。一時スランプに落ち込んで自信を無くしていた大坂が、昨年の全米オープンの試合中に、人種差別に対する抗議の意思をマスクで表明することで自己の信念を確立・強化させ、優勝につなげたものと思われる。3歳でアメリカに渡り、「日本人」という国籍を保ちながらも、黒人差別の激しい米国社会で成長することは、アイデンティティーの確立という面では、精神的にひじょうに難しかったに違いないと私は思う。
いま彼女に「あなたは誰、なに人?」と問えば、「私は黒人」という応答が返ってくるであろう。彼女の中で「私は日本人」、あるいは「ハイチ人」という意識はひじょうに薄いのではなかろうかと私は推測する。日本人が勝手に彼女のことを「自分たちと同じ日本人」と独りよがりに思っているだけで、これは日本人の勝手なナショナリズム的思考である。メルボルンのテニス・スタジアムで「日の丸」の国旗を掲げて応援している日本人を見ていると、私にはそう思えてならない。日本という国は彼女にとっては、自分の母親がたまたま日本人であり、そのため国籍も日本に置いたままで、日本食が好きであるというぐらいの、ごくごく偶然的な要素であって、日本文化や日本的思考が彼女のアイデンティティーの極めて重要な要素になっているとは、自分自身の中では考えられていないのではなかろうか。日本のファンに対しては、もちろん表向きは「私は日本人」ということを言うであろうが、それはリップ・サービスとみなしたほうがよいと私はおもう。
いまも人種差別に苦しむ日本在住の混血児たち
私には成長した娘が二人いるが、彼女たちも日本の芸術や日本食は大好きで、日本語もたどたどしいながら話すことはでき、日本に旅行するのも大好きであるが、自分たちが「日本人」であるなどとは思ってもいない。彼女たちの連れ合いは、それぞれイタリア系とアイランド系で日本とは全く関係がない。彼女たちは、日本人である父親の私の顔を見ても、自分が日本人だとは夢にも思わない(笑)。日本に生まれ育ち住んでいる者なら別であるが、それが海外に住む国際結婚の夫婦から生まれた子供の大半に共通した自己意識であるように思える。つまり、日本に「根」を置いていないのである。
大坂なおみのケースに話を戻すが、もしも彼女が日本に住み続け、有名なテニス選手にもならなかったならば、日本でいま幸せな生活をおくっているだろうか?人種差別が激しい日本社会の中で、いわゆる「黒人」の混血児たちは、いまどのような対偶を受けているのであろうか。
2015年にミス・ユニバース日本代表に選ばれた宮本エリアナは父親がアフリカ系アメリカ人、母親が日本人である。私自身は「ミス・ユニバース」という企画そのものに反対であるが、それは別としても、日本で生まれ育ち日本国籍を持った彼女が日本代表に選ばれた時は、「ハーフが日本代表になるのはおかしい」という批判があちこちで出たとのこと。しかし彼女がミス・ユニバースに出場する決意をした理由は、彼女と同じ混血の友人が自らのアイデンティティーを見つけられずに悩み、2014年春に自死したため、それをきっかけに「ハーフへの偏見や差別をなくすためにも出場することを決意しました」とのこと。
ちなみに、「ハーフ」という表現自体が差別用語であると私は考えているため、私自身は使わないようにしているが、英語の「mixed race」に当たる適当な日本語表現がないので「混血」という表現を使っている。しかし、私に言わせれば、歴史をさかのぼれば、人間はみな多かれ少なかれ「混血」であって、それをあえて特定少数の人間にだけ使うことも差別表現だと思うのであるが、適当な表現が見つかるまで、あえて使うことにしている。この「混血」を、父母二カ国の文化的な背景があることから「ダブル(二倍)」と称する人たちもいる。しかし、私の娘たちの場合は、母親(つまり私の連れ合い)の背景からいえば、英国系、ドイツ系、ユダヤ系の三つがあり、それに私自身の日本系を加えれば「quadruple(四倍)」であり、「ダブル」どころではないので、この表現も適当ではない。つまるところ、「人は人種的背景がいかなるのものであれ、国籍が何であれ、一人の独立した人間である」と考えるべきなのである。ところが、哀しいかな、そんな簡単なことが世界の大半の人間には受け入れられない、というのが現状なのである。
それはともかく、宮本エリアナは日本の学校で受けた差別=いじめを次のように説明している。「ゴミを投げつけて笑われたり、知らんぷりされたりしました。<色が移る>と言われて、遠足や運動の時間に手をつないでくれませんでした。プールの時間もそう言われました。日本生まれ日本育ちなのに<アメリカへ帰れ!>と言われました。小さい時、5歳くらいまでですが、なぜ自分だけ外見が違うのか疑問を感じていました。」
個人的体験としての人種差別と私の抗議行動
しかし、こうした人種差別=いじめは「黒人」の混血児だけが受ける問題では決してない。実は、私の娘も日本で同じようないじめを受けた。1994年のことであるが、当時、私はメルボルン大学に勤めており、その年の後半の半年が研究休暇であったため、家族全員で日本に滞在した。私の親戚が横浜青葉区に所有していた一軒家がちょうど空いていたので、そこを借りて、長女は近くの公立小学校に、次女はキリスト教会が運営する幼稚園に通うことになった。幼稚園ではいじめの問題は全くなかったが、小学校2年生として通った長女は、通い始めて数週間後に同じクラスの男子生徒4名ほどのグループから、下校時に「汚いアメリカ人、アメリカに帰れ!」と言われ、ランドセルを傘で激しく叩かれ、突かれた。長女自身は、「私はアメリカ人ではないわよ、オーストラリア人よ!」と言い返し、毅然とした態度で帰宅した。しかし、そんなことがあったとは、彼女は私にも母親にも言わなかった。数日後、同じクラスの女子生徒数人が我が家に遊びに来た時、彼女たちが「ミカちゃん強かったわよ」と詳細を話してくれて、初めてそんないじめがあったことを私たちは知った。
半年という短い滞在なので、ランドセルは私の従姉の娘が使っていた「お古」のランドセルを借りたのであるが、オーストラリアの学校でランドセルなど使ったことない娘は、その少し汚れてはいるがピンク色のランドセルが大好きで、喜んでランドセルを背負って学校に通っていたのである。そんな「お古」のランドセルを持ち、英語は流暢に話すが日本語はたどたどしい娘を「汚いアメリカ人」と罵っただけではなく、傘で4人もの男の子がいじめたという話を聞いた私には、この「いじめ事件」を黙って見逃しておくわけにはいかなかった。
翌朝、私は学校に出かけ、担任の女性の先生に面会を申し込み、事件の内容を説明した上で、「このいじめを機会に、ぜひとも人種差別とは何かについてクラスで話し合ってもらいたい」とお願いした。彼女の返答は「できるだけの対応はします」というだけであった。あとで娘に訊いてみたところ、朝礼の時に男子生徒4名に私の娘に謝らせただけで、話し合いなどは全くなかったとのことであった。
ところが後日、男子生徒4名の母親たちが担任の先生に「子供の喧嘩に父親が介入するというのはおかしいのでは」という苦情があったという情報を、娘の友だちの母親から私たちは知らされた。そのことを聞いて、私は再び「これは許せない」と思い、親たちにも直接話をして、子どもたちの考えと暴力的行為が「人権侵害」であることについて家族でよく話し合うべきであると伝えなければと考えた。クラス名簿から男子生徒4名の親たちの名前と電話番号を調べ、父親も帰宅しているであろうと思われる夜8時ごろから電話を各家にかけた。
しかしながら、自宅に戻っていたのかどうか分からないが、父親が電話にでる家は一軒もなかった。母親が対応するばかりであったが、その母親たちは「子供の喧嘩に親が口を出すなんて、そんな子どもじみたことはすべきではない。そんな大袈裟な事件ではないでしょう……」というような口ぶりばかり。いくら時間をかけて冷静に、子どもがやったとはいえ、これは決して喧嘩などではなく、暴力的な人権侵害であるということを説明してもらちがあかないのである。私も最終的には堪忍袋の緒が切れて、「厳密にいえばこの行為は人権侵害という法律違反の問題であるので、あくまでも子どもの責任を親が認めないならば、法的手段に訴えるよりほかありませんね」という言葉で電話を切った。
数日後、私が留守中に子どもの母親たち4人が一緒に我が家を訪れ、私の連れ合いに深く頭を下げて謝罪し、謝罪の表明として高級和菓子の菓子箱を、連れ合いが受け取るのを幾度も断ったにもかかわらず、玄関先に置いて逃げ去ったのであった。これは彼女たちが本心から責任を感じて申し訳ないと思ったからではなく、「法的手段に訴える」という私の言葉に驚いて急遽とった反応だったに違いない。おそらく彼女たちは、「あの田中という人は変人よ、これ以上怒らせないほうがいいわよ。何をするか分からないわよ」などと言い合っていたに違いない(苦笑)。しかし、これが当時の子どもたちの平均的な両親に共通に見られた「人権意識の欠如」だったのであろう。
では、その後の状況はどうなのであろうか。ごく少数の具体的な例をあげておくが、例えば、1997年、愛知県・小牧市で、日系ブラジル人少年のエルクラノ君が外国人であるというだけで集団リンチにあい、殺された事件が起きている。2010年には母親がフィリピン人である上村明子さんが深刻ないじめを受けて、12歳という若さで自宅で自死した。カナダ人と日本人の両親の間に1989年に生まれた高校2年生の高橋美桜子さんも、容姿にまつわるいじめを受け続けて自死している。事態はなんら変わっていないように思われる。人間の確固たる信念として、自他両者の人権を尊重するという「人権意識」が、子どもにも親たちにもしっかり根付いていないのである。
周知のように最近はヘイト・スピーチ、特に在日コリアンに対するヘイト・スピーチが日本全国で見られる。いまも地震が起きると、1923年9月1日に起きた関東大震災時に「朝鮮人が日本人を襲う」、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などの流言飛語が流されたように、「朝鮮人や黒人が井戸に毒を投げ入れている、暴動を起こしている」というフェイク・ニュースがツイッターなどで流される日本。Black Lives Matterに代表される人種差別問題は決して米国だけの、「対岸の火事」のような問題ではなく、日本の問題でもあるのだ。
映画『キクとイサム』は昔の話か?!
ところで、戦後の連合軍占領下の日本には多くの戦争孤児がいたが、その上に、占領軍兵士、特にアメリカ軍兵士と日本人女性の間に生まれた混血孤児が全国で4万人いたと言われている。信頼できる統計数字がないので、あくまでも推定にすぎないが、実際にはもっと多かったのではないかと私は思う。この孤児たちは、戦後の厳しい貧困社会を生きのびるために売春業に従事した女性や、兵士たちの性暴力の被害者から生まれた子ども、自由恋愛の結果生まれた子どもたちなどであった。母親が育てることができずに、それらの多くの幼児が捨て子にされたり、他人にあずけられたりして孤児となった。そんな孤児を救おうと、1948年2月、神奈川県大磯町に混血児のための孤児院「エリザベス・サンダース・ホーム」を設置したのは、三菱財閥創業者・岩崎弥太郎の孫娘である沢田美喜であった。沢田は、結局、2千人あまりの子どもを社会に送り出した。沢田美喜については、別の機会に詳しく紹介したい。
そんな混血児の中で黒人兵士と日本人女性の間に生まれた子どもに焦点を当てた『キクとイサム』という映画が、1959年に、社会派映画監督の今井正によって作られている。ストーリーは、黒人兵士と親しくなった母親から生まれた2人の子ども(姉弟)の、差別に苦しめられながらも強く生きていこうとする話である。黒人兵士は日本を離れ、子どもを育てる経済力がない母親は、2人の子どもを祖母の住む福島県会津の山あいの田舎村のもとに送り、この村で2人は祖母に育てられ、いまはキクが12歳(小学6年生)、イサムが9歳(小学4年生)になっているという設定である。
当然ながら、キクの役にもイサムの役にも本当の黒人混血児が選ばれている。主人公候補者を探すために、制作スタッフたちが2ヶ月かけて仙台から岡山まで歩き、70人ほどの混血児に会ったそうである。ところが最終選考の結果選ばれた2人を、脚本家の水木洋子が気にいらなかった。水木は次のように述べている。「混血児探しに監督とプロデューサーが歩き回って、京都あたりでカッコイイ男女の黒い子が選ばれた。顔の良い朗読もできる、いわば優良児である。私は……ノウという答えを出した。・・・・・私の描こうとする主人公は、こういうお利口さんでは全くない。」結局、プロデューサーの市川喜一が「箸にも棒にもかからない問題児」といった高橋恵美子を水木は選んだ。キク役の高橋もイサム役の藤原喜久男も、父親のいない貧困家庭の子どもで、映画すらほとんど観たことのない、学校では落ちこぼれ生徒であった。高橋の背景は、映画のストリーに似ており、東京で祖母に育てられていたし、藤原も横須賀の貧困母子家庭の子どもであった。つまり、2人は、当時の混血児の代表ともいえる存在だったのだ。社会的背景からすれば、まさに適役であった。
映画もほとんど観たこともなく、お芝居などもちろんやったこともない2人に、お芝居の稽古をつけ台詞をおぼえさせることがどれほどたいへんなことであったかは、私の想像を超えている。しかも今井監督は、できるだけ現実感を出すために、台詞のほとんど全てを訛りの強い東北弁にした。祖母のしげ子婆さんを演じた名役者の北林谷栄も、強烈な東北弁でしゃべりまくる。3人の演技は、「見事」というより他に言葉が浮かばないが、言っていることがあまりにも強い訛りの東北弁なので、セリフの大半が聴いていても理解できず、何を言っているのか想像するよりほかはない。
しかし、映画は、当時の黒人の混血児がどれほど「奇異」な存在として差別され、疎まれ、苦しまなければならなかったかを鋭く描いており、最終的に、米国に養子として送られていったイサムがいなくなり、弟を失った悲しみをも克服してキクがいかにたくましく生きていくかというエンディングに観客は精神的に救われる。しかし、現実には、多くの混血児たちがみなキクのようなたくましさをもって人生を歩んでいったかどうか……。そうであったことを願ってやまないが・・・・・・。
ちなみに、高橋恵美子は映画撮影終了後も水木洋子のあたたかい励ましを受け、高校卒業後に作曲家の吉田正などの指導を受けて歌手・高橋エミとしてデヴュー。日本各地のキャバレーやバーで歌い続け、トークと歌唱力で全国に多くのファンを得たとのこと。いまも歌手として活動を続けている。藤原喜久男は、映画制作後にスタッフの一人だった角正太郎に引き取られて滋賀県草津市に移住。青年期に上京して奥の山ジョージという芸名でジャズ歌手となり、1970年代にはテレビ・ドラマ「水滸伝」の主題歌「夜明けを呼ぶもの」や、「ルパン三世」のテーマ音楽でボーカルを務めて大活躍をした。しかし、その後、極度のアルコール依存症にかかって第一線を退き、草津市に戻っている。今もご健在とのことである。
なお、『キクとイサム』の映画全編が下記のユーチューブで観れる。英語の字幕付きなので、東北弁が理解できなかったら英語の字幕を読むとよいかもしれない。 https://www.youtube.com/watch?v=xqEIwlM4rhE
結論
占領期に生まれた混血児たちが味わった極貧生活と人種差別の実態を考えると、確かに現在の混血児たちの経済生活そのものは比べようもなく良くなっていると思われる。しかし、「差別」による「精神的、身体的苦痛」については、宮本エリアナの個人的体験や、上記の集団リンチで殺されたり自死を選んだ若者の例からも分かるように、本質的には70年ほど前とほとんど変わっていないのではなかろうか。
現実には、日本にはアイヌ、沖縄の住民はもちろん、在日コリアン、日系ブラジル人をはじめ、中国、ベトナム、フィリッピンなど様々な国からの人々が在住しており、在留外国人の総数は約300万人といわれている。したがって、日本が「単一民族」などというのは全くの幻想であって、実際には多民族社会なのである。国籍がどうであれ、民族的背景が何であれ、同じ人間として同じ社会共同体の中で働き、暮らしているのである。にもかかわらず、多くの日本人は日本があたかも、いまだに「単一民族」であるとの幻想を抱き、あくまでも「外国人=他民族」を「日本文化」の外側に置き、混血児も、在日コリアンやアイヌ同様に、「日本文化」と「他民族文化」の境界線を崩す危険な存在とみなして激しく差別する。そして、その「差別」で他者を苦しめることを「人権侵害」とは全く考えもしない。日本の政治家や官僚もまた、基本的には「日本単一民族」という虚妄の上に立って、さまざまな関連政策や法案を作って外国人を差別し、難民をあたかも犯罪人のように扱っているのが実情である。
周知のように、憲法1条では「天皇は、日本国の象徴であり日本国民の統合の象徴」とされている。その「日本国民統合の象徴」としての天皇は「万世一系」の「純粋な日本人」の家系の人とみなされることから、意識的にであれ無意識的にであれ、外国人や他民族、とりわけ「在日」と称される韓国・朝鮮系、中国系などの市民を差別するイデオロギー上の拠り所を、一部の国民に提供している事実は否定できない。現在さかんに問題になっているヘイト・スピーチも、一見、憲法1〜2条とは関係がないように見えるが、実は、天皇としての存在が、国民の無意識的な感情レベルに深く且つ広く影響していることと密接に関連していることを忘れてはならない。実は、見えにくいかもしれないが、天皇は民族差別の象徴でもあるのだ。
日本の人種差別をなくすためには、「世界人権宣言」の第6条「すべて人は、いかなる場所においても、法の下において、人として認められる権利を有する」という条項を、私たち一人一人の心なかに深く強く銘記させ、人類普遍の倫理に反する非人道的な言動には、なにごとであれ徹底的に抵抗するという信念を、私たち自身のアイデンティティーの重要な要素の一つにする努力が必要である、と私は考える。
― 完 ―