– ケルンのケーテ・コルヴィッツ美術館と聖アントニー教会を訪ねて –
10月31日から11月2日まで、ドイツのハンブルグで、私もメンバーになっている「武力紛争時における性暴力」研究プロジェクト・チームの出版記念会と研究会が開かれ、出席しました。私は、この研究プロジェクト・チームの研究会に出席するたびに、その機会を利用して、毎回、ドイツ国内の違った場所を妻と一緒に訪れるようにしてきました。今回は、11月4日から6日までの3日間をケルンで、7日から9日までの3日間をデュセルドルフで過ごしました。
ケルンには以前からどうしても行ってみたいと思っていた理由がありました。それは、ケルンにはケーテ・コルヴィッツ美術館と、彼女の友人であった彫刻家エルンスト・バルラハの代表的な作品「空中に浮かぶ天使」が展示されている、聖アントニー教会があるからです。
繁華街の真ん中にあるケーテ・コルビッツ美術館
ケルンのケーテ・コルヴィッツ美術館に収蔵されているケーテの作品の数は、ベルリンのケーテ・コルヴィッツ美術館よりはるかに多いということを、2015年7月にケーテのひ孫であるヤン・コルビッツを訪ねた折に、彼から聞いていました。ヤンはドイツ北部のシーズマーという小さな町に窯場を持つ、越前焼の陶芸家です(ヤン・コルビッツについては2015年7月16日のブログ記事を参照してください)。
ケルンのケーテ・コルヴィッツ美術館は1985年に設置されたとのことですが、戦後長年経った1985年という時期に設置された美術館がなぜそれほど多くの作品を所有しているのか、その理由を私は詳しくは知りません。しかし、コルヴィッツ家の遺族たちが持っていた多くの作品がここに寄贈されたようです。ベルリンのコルヴィッツ美術館の場合は、独立した4階建の大きな建物全部が美術館になっているので、ケルンの美術館も同じような建物にちがいないと想像していた私と妻は、住所がケルンで最も繁華な商店街の真ん中になっているため、なかなか見つけられませんでした。それもそのはず、コルヴィッツ美術館は、レストランやお店が入っているショッピング・アーケードの最上階にあるのです。
最上階の1千平方メートルあるフロワー全部が、展示室や講演のできるホールになっています。 美術館の案内パンフレットによると、ここにはケーテの初期の版画作品から最晩年の版画作品まで、さらには彼女の版画が使われているポスター(その多くが政治的なものです)を網羅的に所蔵しているとのこと。その中には、もちろん有名な「織工の反乱」(1893−97年)、「農民戦争」(1902−08年)、「戦争」(1921−22年)、それに「死」(1934−37年)といったシリーズ作品が含まれていますし、ブロンズの彫刻作品が15点あるそうです。
また、この美術館では、ケーテと関係のあった芸術家たちの作品を紹介する特別展示をしばしば行っているそうで、私たちが訪れたときには、ワイマール時代の1910〜20年代のオットー・ディックス、ゲオルゲ・グロッスといった芸術家たちの痛烈な社会批評を込めた絵画の特別展「ベルリン市民のレアリズム」をやっていました。ナチが台頭する前の、ドイツの自由な雰囲気と芸術家たちの旺盛な批判精神が溌剌と表現されている展示会でした。
ブロンズ彫刻「ピエタ」についての私の考えは浅薄だった!
展示されているケーテの多くの版画作品の中に、ベルリンのコルビィッツ美術館では見かけなかったような、これまで私が観たことがなかった作品が幾つかあることに気がつきました。数時間かけてじっくり多くの作品を鑑賞して、いろいろと考えさせられることがありましたが、そのことをゆっくり書いている時間的な余裕がいまはありません。そこで、今回は一つだけ、これまでの私のケーテ・コルビィッツの作品理解が極めて浅薄であったことを思い知らされた、そのことを説明しておきたいと思います。
それは、彼女の晩年の彫刻作品「ピエタ」についてです。このブロンズ彫刻「ピエタ」のオリジナルがケルンのコルビィッツ美術館には展示されています。第1次世界大戦で戦死したケーテの次男ペーターを追悼するこの作品については、私は、今年5月に出版した拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』(三一書房)の323−25ページで、以下のように書きました。
1914年に第1次世界大戦が勃発するや、息子のハンツとペーターが兵士志願。しかし次男のペーターは志願資格の21歳に達していなかったため、親の承諾が必要であった。コルヴィッツの夫は反対したが彼女が強く後押したため、夫も息子の志願に賛成するようになり、ペーターは入隊。ところが同年10月にペーターが戦死してしまう。この息子の戦死がコルヴィッツの思想を大転換させ、その後、彼女は徹底した反戦平和主義者、社会主義者となった。戦争で子どもを失う母親の深い心の痛みを抉り出すような感動的な版画(とくにシリーズ「戦争」)や彫刻を次々と制作し、第1次大戦後、反戦芸術家として高い評価を受けるようになった。………
…………
コルヴィッツの作品「ピエタ」は、死んだ息子の死骸を母親が両足に挟み込んで、しっかり抱え込み、死んでも子どもを守りたいという悲哀、あるいは子どもを守りきれなかったという母の深い悲しみを強烈に表現したものである。「ピエタ(死んだキリストとマリア)」というタイトルがつけられているものの、ミケランジェロの「ピエタ」のような宗教性がほとんど感じられず、死者の「救済」といったメッセージは全く伝わってこない。伝わってくるのは「無惨な殺戮に対する母親の深い心的打撃」のみである。「ノイエ・ヴァッツヘ」と呼ばれる、元々は「(第1次)世界大戦戦没者慰霊館」(東ドイツ下で1960年以降は「ファシズムと軍国主義の犠牲者慰霊館」となる)が、1993年にドイツ連邦共和国中央慰霊館(通称「戦争と暴力支配の犠牲者に対する記憶と追悼の場」)となり、戦後は忘れ去られていた(オリジナルは小型の)コルヴィッツの彫刻「ピエタ」を拡大して、この慰霊館の中央に設置。
私のこの文章では、ケーテがほとんどなんの迷いもなく次男の出征を後押しし、その次男が戦死したことで、すぐさま反戦平和主義者に思想転換したというような解説になっています。また、次男の死を追悼するブロンズ彫刻が「母の深い悲しみを強烈に表現したもの」としてしか理解されていません。
ところが、今回、ベルリンの「ノイエ・ヴァッツヘ」の中心に置かれている大型の「ピエタ」ではなく、小型のオリジナル版を初めてケルンで真直に眼にし、じっくりとそれを観ることで、「どうも自分の理解は間違っているのでは……」と思うようになりました。というのは、このオリジナル「ピエタ」の母親の左手は確かに死んだ息子の身体を抱かえ込むような形になっていますが、右手は自分の唇と顎の間に置かれており、なにかを深く考えこんでいるような(ロダンの有名な彫刻「考える人」の手の置き方に少々似ている)形になっています。息子の死を前にただ悲しみに打ちのめされているだけならば、両手で息子の身体を強く抱きしめているはずでしょう。
ケーテ・コルヴィッツ作「ピエタ」
つまり、この母親は、息子の死を悼みながらも、「なぜ私は息子の出征を許してしまったのか、なぜ戦地に送ることに同意してしまったのか」と深く自問しているのだ、ということに気がつきました。ミケランジェロの「ピエタ」のような宗教性がほとんど感じられないのは、単なる悲しみの表現方法の違いからではなく、「息子を戦地に送って死に追いやってしまった自分の責任」、「母親の人間としての責任」を自問自答しているからではないでしょうか。なぜこんな重要なことに気がつかなかったのかと、正直なところ、私は恥ずかしくなりました。
遅まきながらこのことに気がついた私は、ケーテがペーターの出征を「後押しした」その精神的な状況もそんなに単純なものではなかったのではないか、そのことをもっと知りたいと思いました。そこで、この点について詳しく書いたものがないか、ケルンのコルビィッツ美術館の学芸員の女性に尋ねてみたところ、アネッテ・ゼーラー(Annette Seeler)というベルリン在住の美術史の専門家が執筆した論考が英語に訳されているので、それを読んでみてはと勧められました。その論考は「もう死者はうんざり、もう誰も亡くなるべきではない:ケーテ・コルビィッツと第1次世界大戦」というタイトルの短いものですが、ペーターの死後、時を経るとともに、ケーテの微妙な心情変化が彼女の作品製作のアイデアの変化にどのように表れてきたかを簡潔に解説しているものです。
この論考を読んで分かったことは、ケーテがペーターの出征を「後押しした」のは、戦争というものを彼女は憎悪していたにもかかわらず、愛する息子と精神的に常に一体でありたいという強い願望から、ペーターの希望に反対することに躊躇してしまい、最終的にはペーターの出征希望を受け入れてしまったこと。しかも当時のドイツ社会がひじょうに強い愛国的なムードで覆われてしまっており、ケーテもまた国家への忠誠が名誉なことであるという考えを他の多くの国民と共有していたのでした。
したがって、ペーターの死の直後にケーテが製作しようと考えていた追悼碑もまた、ペーターの死が名誉なものであることを表明するような作品にすることを考えていたことが、作品案のスケッチから理解できるのです。アネッテ・ゼーラーのこの解説から私が想像することは、ケーテにとっても、息子を戦争で亡くした多くの両親と同様に、自分の息子の「死」にはなんらかの「価値」があった、つまり決して「無駄死に」ではなかったと思いたいという強い願望があったということです。誰とても、自分の親族の死を「犬死」などとは思いたくありません。しかし、戦争での「死」はそのほとんどがなんの価値もない「犬死」であるというのが残酷な現実で、しかし、その現実をなかなか人は心情的に受け入れられないとことが問題なのです。それを受け入れられないからこそ、国家権力によって常に悪用される「名誉の死」という神話のほうが容易に受け入れられてしまうという状況が、戦争が起きるたびに繰り返されるわけです。そして、そのような弔い方が、過去の戦争だけではなく将来の戦争をも正当化するわけです。
ところがケーテは、息子の死のほぼ2年後の1916年の8月の段階で、日記に「戦争はもう2年も続いており5百万人という数の若者が亡くなったし、以前よりもっともっと多くの人間が悲惨で困窮した状態に落ち込んでいる。こんな状況を正当化する理由などあるのだろうか?」と自問しています。その数週間後の日記では、「私は戦争に狂気しか見出せないが、こんなことを言うのは、ペーター、お前に対する不忠なのであろうか?」と書いています。つまり、彼女がここで言いたかったことは、「ペーター、申し訳ないが、お前の死に、もはや母である私はなんの価値も見出せないよ」と言っているのです。すなわち、ペーターの死が「犬死」であったことを彼女は認め始めているのですが、それと同時に、息子を「犬死」させた自分の責任を深く感じはじめていたことは、その後の彼女の追悼碑の製作案が変化し続け、最終的には1932年に「悲しみに打ちひしがれる両親」と題された彫刻に結実したことに表れています。残念ながら、その変化の具体的な詳細をここで書いている時間的な余裕が今ありませんが、いつか機会があれば紹介したいと思います。
アネッテ・ゼーラーの論考は、「ピエタ」については全く触れていませんが、彼女のこの論考を読んでみて、私自身の「ピエタ」についての再考が間違っていないはずだという確信を得るようになりました。1937−39年の間に作られたオリジナルの「ピエタ」は、もう一度書きますが、息子を犬死に追いやった母が、悲しみながら自分の責任を自問しているものなのです。それを拡大したものが、現在、ベルリンの中心地にある 「ノイエ・ヴァッツヘ」という慰霊館に設置されているのです。ここには、戦地で亡くなった多くの若者を「英霊」として祀りあげることで、「犬死」したという事実を隠蔽している靖国神社、息子を亡くした両親や夫を亡くした妻の悲哀と多くの若者を死に追いやった責任を全く無視した靖国神社との対照的な違いが明らかに出ています。ドイツと日本のこの決定的な違いを、私たちはどう考えるべきなのでしょうか。
「表現の自由」を装った「表現の不自由」?!
話は変わりますが、ケーテの「戦争」シリーズの版画作品の中で、今回私が初めて観た作品の一つに、1922年制作の「戦争未亡人II」というものがあります。死んだ赤子を胸に抱きながら、その母も死んでいるという悲惨な状態を描いた作品です。この版画を観たとき、すぐに、四國五郎の絵画「黒い雨」が私の頭には浮かんできました。四國はケーテのこの「戦争未亡人II」に心を動かされて「黒い雨」を構想したのではなかろうか、というのが私の想像です。「黒い雨」の場合は、生き残った子供が母の屍体を前に茫然としている状態であることから、私にはケーテの作品よりさらに悲哀に満ちたものに感じられます。その意味で、四國はケーテの作品のモチーフを用いながらも、「戦争の悲惨さ」をさらに強烈に表現することに成功していると私には思えます。
この数年で、四國の作品は急速に日本全国で知られるようになりました。各地で四國作品の展覧会が開かれ、来年は一年を通して広島の国立原爆死没者追悼平和祈念館で四國の特別展が開かれるとのこと。それはそれでとてもよいことだと私も思います。しかし、その一方で、四國の原爆関係の作品のみを展示することで、広島を「戦争の被害地」としてのみ強調し、戦争を引き起こし多くの日本人を「犬死」させただけではなく、数千万にのぼるアジアの人たちを殺傷した日本国家と私たち日本人の責任を今以上に忘却させることに政治的に利用されないように、私たちが十分に気をつけ努力する必要があると私は思っています。その意味でも、上に述べたケーテの「ピエタ」の意味をもう一度熟考すべきだと私は考えます。
他にも、例えば、広島市は、広島市の被爆者に対する長年の差別的な行政措置に対して写真集『ピカドン』で痛烈な批判をしていた福島菊次郎の傑出した作品 – 被爆者である中村杉末に焦点をあてた写真 – を、行政批判という意味をすっぽり抜きとった上で、最近改装した広島平和記念資料館(いわゆる「原爆資料館」)に展示しています。『ヒロシマの嘘』という本でも広島の戦争加害責任無視を痛烈に批判した福島菊次郎が、今も生きており、原爆資料館に展示されている自分の作品を眼にしたとしたら、どのように思われることでしょうか。
「表現の不自由」ということがいま盛んに問題にされていますが、福島菊次郎のこの作品の展示を考えてみると、「表現の自由」を一見尊重しているように見えながら、実は、作者の本来の意図を全く削いでしまったやり方で展示するという欺瞞が堂々と行われているのです。それは、「表現の自由」を装った「表現の不自由」と称すべきものではないでしょうか。
聖アントニー教会の「空中に浮かぶ天使」
ケーテ・コルヴィッツ美術館から徒歩で数分というとても近い場所に、小さなプロテスタントの聖アントニー教会があります。ケルンは、立派なケルン大聖堂があることからもわかりますように、カソリック信者が多い街ですので、プロテスタント教会は少ないようです(ケルン大聖堂は第2次対戦中に連合軍によるたび重なる空爆でかなり破損しましたが、戦後、長年かけて修復工事を行い、1956年に見事に修復完了。お昼頃行くと、30分ほど荘厳なオルガン演奏が聴けます)。
ゴシック様式のこの教会の歴史は古く、14世紀半ばに建築が始まっていますが、1805年になってプロテスタントに移籍されたとのこと。「空中に浮かぶ天使」の歴史的な背景についても、拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』の第5章で説明しておきましたように、このユニークな彫刻は、ケーテと親しかった彫刻家エルンスト・バルラハが、ケーテの息子ペーターの死を悼んで、制作したものです。もともと、この彫刻はバルラハが住んでいたドイツ北部の小さな町グーストロウの教会に設置されました。天使の顔は、明らかにケーテの顔で、天使としてはとても哀しい顔に作られています。バルラハは、天使の顔として、コルヴィッツに代表される「子どもを戦争で失った多くの母の悲しみ」をシンボリックに表現したのでした。
1937年8月、ナチスの命令により、この彫刻は教会の天井から取り外され、兵器製造利用のために溶解されてしまいました。しかし、その2年後の1938年10月のバルラハの死後、彼の友人や支持者が協力して、ベルリンの製錬所に保管されていた彫刻制作のための粘土の型から、もう一つ同じ彫刻を密かに作り、北ドイツのある小さな村に隠しておきました。戦後の1951年に、この彫刻はケルンのこの聖アントニー教会に設置され、彫刻の下に置かれた石には「1914-1918」、「1939-1945」という数字、すなわち第1次、第2次の両世界大戦の期間を示す数字が刻まれました。戦後の冷戦による東西ドイツの政治的摩擦にもかかわらず、1953年には「空中に浮かぶ天使」の3つ目の彫刻が作られ、当時は東ドイツ側にあったグーストロウに西ドイツからその彫刻が送られ、元々彫刻が置かれていた教会に再び設置されました。(グーストロウのエルンスト・バルラハ美術館への私の訪問記については、2015年7月16日のブログ記事を参照してください。)
グーストロウの教会で初めて眼にした「空中に浮かぶ天使」を再びケルンで見たときには、グーストロウで初めて見たときの感動がまざまざと蘇ってきました。私たちが訪れたときは、誰も他には訪問者が教会にはおらず、管理人のおじさんも暇だったのか、バルラハの彫刻に私が興味があると分かるや、いろいろと親切に説明してくれ、「空中に浮かぶ天使」だけではなく、他にも2つの作品があることを教えてくれました。
一つは、バルラハが第1次世界大戦直後に制作した「キリスト十字架刑の像」で、これは戦死した多くの兵隊たちを悼むためにバルラハが同じものを多数作って、多くの教会に寄贈したものであるとのこと。この教会に飾られているものは、そのうちの一つを所有していたある個人から、最近になって寄贈されたものだそうです。また、教会堂を入ってすぐ右側には「説教するキリスト」と題された、人間味のある、ほのぼのとした雰囲気が出ている、典型的なバルラハの作品スタイルと思われる木像彫刻が置かれています。「キリスト」というよりは、「好好爺」といった雰囲気の人物です。これも、最近、オークションで教会が入手したものとのことです。バルラハの作品を3つも所有している教会はドイツでもめずらしいのではないかと思いますが、訪問者が少ないところをみると、よく知られていないように思われます。
もしもケルンに行かれる機会がおありでしたら、ケーテ・コルヴィッツ美術館だけではなく、聖アントニー教会にまで足をのばされることを強くお勧めします。毎月1回、バッハのカンタータの中からの数曲を含む教会音楽会が開かれているそうですから、前もって調べて行かれるとよいでしょう。
- 完 -