公開質問状
広島市長 松井一實さま
前略
本年4月16日~24日、広島市が管理する「まちづくり市民交流プラザ」1階ロビーで、「新しい歴史教科書をつくる会」広島支部が、「これが『慰安婦』の真実だ!日本政府は謂れなき謝罪と賠償を取り消せ!」というテーマの「慰安婦の真実パネル展」を開催しました。この展示では、「慰安婦=日本軍性奴隷」が日本軍に性奴隷にされたという話は全くの嘘であり、デタラメであると犠牲者を罵倒しました。この展示を閲覧したある市民が、あまりにも国際的な人権意識と歴史認識からかけ離れている内容に驚いて、広島市に苦情を申し立てたそうです。しかし、交流プラザの管理を担当している広島市市民局市民活動推進課から、「生涯学習や市民活動に取り組んでいる団体の『表現の場』として提供」、「市民の皆様には様々な考え方があることから、展示内容を直接の理由に使用を制限することは困難であると考えております」との回答が来たとのことです。要するに「表現の自由」という観点から、展示には問題がないとの回答だったわけです。
このことを知った「日本軍『慰安婦』問題解決ひろしまネットワーク」が、5月27日に、市長であるあなたに直接要請書を送り、「歴史の事実を歪曲し、誤った情報をもとに、ある特定の国や戦争被害者を誹謗・中傷するような内容の展示を市の施設で行うことを、市民活動の自由や表現の自由の名の下に許可されたことに対して、広島市はその責任を問われています」と述べ、市長の再考を求めました。これに対し、あなたと市民活動推進課は、「団体や展示内容によって犯罪行為や違法行為が行われるおそれが客観的に認められものでない限りは、どの団体に対しても平等に承認しています。本市としては、展示内容の正確性等は主催者の責任の範囲であると考えており、展示を承認したことが、市として主催者の考え・主張などを肯定したことを意味するものではありません」と、再び同じような回答をされました。
市長のそのご回答には、この問題が由々しい人権侵害であるという認識が完全に欠落していることが明白であるため、私は問題の重要性について説明させていただくと同時に、市長のご再考を強く要請することを目的に、ここに公開質問状を提出いたします。
なお、この質問状はあくまでもわたし個人の決断によるものであって、上記の一市民や「日本軍『慰安婦』問題解決ひろしまネットワーク」とは全く無関係であることをご了解ください(ちなみに、私は、「日本軍『慰安婦』問題解決ひろしまネットワーク」共同代表を7月17日に辞任しています)。
できるだけ簡潔に説明させていただくために、問題点を箇条書きにいたします。
(1)「慰安婦(=日本軍性奴隷)」問題に関する基本的な事実の再確認
日本がアジア太平洋地域で15年の長きにわたってくり広げた侵略戦争(1931〜45年)では、南京虐殺(1937年末)、シンガポール・マレー半島虐殺(1942年2〜3月)、731部隊による細菌・毒ガス兵器人体実験をはじめ、様々な残虐行為=「人道に対する罪」を犯したことは周知のところです。そのような「人道に対する罪」の中で、日本軍が無数の女性を犠牲者としたのが「慰安婦」制度(=日本軍性奴隷制度)でした。「慰安所」設置が日本軍駐屯地に急増するのは、大量強姦が起きた南京占領の後からで、設置目的は強姦防止でした。しかし、「軍性奴隷制度」を設置しても強姦・輪姦を防止することは全くできなかったことは、その後の日本軍の行動が明白に証明しています。それどころか、「軍性奴隷制度」そのものが「軍強姦制度」と呼ぶべきものでありました。この「日本軍性奴隷制度」は、1941年12月の対米英蘭開戦の後には、日本軍が侵攻したアジア太平洋全域にわたって導入され、多くの東南アジア人やオランダ人女性も犠牲者となりました。
戦時中、連合軍側も軍管理売春を行っていましたが、日本軍の軍性奴隷制の場合、他国の軍管理売春と比較して以下の5点において特殊性が見られます。
1)地理的な広範囲性(アジア太平洋全域、女性が移動させられた距離 – 例えば朝鮮からソロモン諸島 - の長さの点でも極めて特異)
2)性的搾取を受けた女性の絶対数の多さ(推定8〜10万人と言われています)
3)性的搾取を受けた女性の多民族性(朝鮮人、中国人、台湾人、インドネシア人、フィリッピン人、オランダ人、南西太平洋諸島のメラネシア人、それに日本人など)
4)女性に対する性的暴力の度合いの激しさと期間の長さ(数年にわたる監禁同様の状態での、しばしば暴力を伴う性奴隷的取り扱い)
5)軍指導部と政府による統制(陸軍省、外務省による関与)
以上のような、多くの女性に対する由々しい「人道に対する罪」の犯罪行為が厳然たる事実であったことは、戦後開かれた東京裁判やBC級戦犯裁判(とくにオランダによる戦犯裁判)に提出されたさまざまな証拠資料や被害者証言からも明白なところです。
ところが、この問題はその後、長年、無視されてきました。しかし、1991年8月14日に、被害者のお一人である金学順(きむはくすん・韓国)さんが日本政府の責任を告発されました。金さんの行動に勇気づけられ、それ以来、世界各地で多くの被害者が名乗り出られ、言葉では言い尽くせないような性奴隷としての艱難辛苦の個人的体験と、つらくて長い戦後の人生についての痛恨の思いを語られるようになりました。その結果、日本政府(宮澤喜一内閣)もこの問題について調査を行わざるをえないようになり、1948年にオランダが行った戦犯裁判「バタビア裁判」記録や戦時中に米軍が作成した関連報告書など、合計260点以上の資料を参考にすると同時に、実際に16名の被害者女性と「軍慰安所」関係者約15名からの聞き取り調査を行いました。その調査結果を1993年8月4日に公表し、日本軍が「慰安所」設置に関与していたことをはっきりと認めると同時に、河野洋平内閣官房長官が「談話」として日本政府の責任を認めました。
これに対し、2006年に初めて首相の座に就いた安倍晋三氏は、それ以前から、こうした歴史的事実と日本政府の責任を否定するさまざまな活動を行っており、2006年以降これまでも、「安倍内閣は河野談話をこれからも継承していく」と言いながら、実際には、「河野談話」があたかも歴史事実に基づいていない虚偽の報告書であるかのような発言や欺瞞的な画策を行い、韓国政府をはじめ関係各国政府の政治的信頼を失う結果をもたらしてきました。
ところが、結局、歴史事実を否定するこうしたさまざまな陰険な画策によってもなんら功をおさめることができなかったため、2015年12月末には、「日韓合意」という形でこの問題に決着をつけようと安倍氏は考えました。
「日韓合意」では、日本政府は「責任を痛感している」と表明し、日本側が「賠償」ではないと主張する10億円という資金を提供することで「最終的かつ不可逆的に解決」するという形で合意したと発表しました。ところが、安倍政権が「最終的かつ不可逆的に解決」という表現で具体的に要求したことは、10億円を受け取る韓国側が、これ以降、この問題を再び取り上げないという約束をまもり、且つ、ソウル日本大使館前に置かれている「平和の碑」(少女像)も移転させるということだったわけです。「責任を痛感している」はずの安倍政権が、本来の被害者である高齢のハルモニたちに対しては直接に「謝罪」表明は全くしないどころか、結局は「10億円出すから今後はこの問題については黙れ」と言ったわけです。しかも、「責任を痛感している」と言いながら、16年2月に開かれた国連女性差別撤廃委員会の対日審査では、日本政府代表の杉山晋輔外務審議官が、「慰安婦強制」を証明する資料は見当たらないし、朝日新聞の誤報のせいで全く間違った情報が行き渡ってしまったと、相変わらず、世界中から失笑を買うような虚妄発言を続けました。日本にとって絶望的なのは、安倍氏自身をはじめ安倍政権閣僚たちや安倍支持者たちが、自分たちがやっていることが、どれほど失笑を買う低劣な行為と海外から見られているのかを全く認識していないことです。
日本軍性奴隷問題は「政治決着」できるような性質のものではなく、由々しい「人権問題」であり、いかにすれば被害者の「人権回復」につながるのかという視点からのアプローチが必要であるという根本的認識が、安倍氏をはじめ自民党のほとんどの政治家には最初から欠落しています。結論的に言えることは、日本の法的責任も認めない「最終的、不可逆的な解決」とは、結局、10億円という金で日本軍性奴隷の存在という歴史事実に関する記憶、本来は金では買えない記憶を、買い取ったという形にして、その記憶を抹消してしまうことを狙ったものです。「最終的、不可逆的な解決」とは、実にあさましい、人間として恥ずべき、低劣な政治行為なのです。したがって、こんな欺瞞的な「日韓合意」が、結局は失敗に終わってしまったことも、全く不思議ではないのです。にもかかわらず、失敗を一方的に韓国政府のせいにし、今度は輸出禁止という愚策でさらに日韓関係を悪化させるという、本当に情けない状況です。
この「日韓合意」は、広島に譬えて言うならば、原爆無差別大量殺傷という「人道に対する罪」を犯した米国政府が、被爆者の人たちに対して、「金をやるから原爆被害体験については今後一切口にするな、反核運動もするな、被爆者の像を平和公園から除去せよ」という「米日合意」を提唱していることと同じことです。もちろん米国政府はこんな条件付きの謝罪すらするはずはありませんが、もしもそのような提唱があったとするならば、広島市長としてあなたは賛同されるでしょうか?よく考えてみてください、安倍政権はこれと同様の提案を韓国側に行ったのです。
(2)「慰安婦の真実パネル展」と「ヘイト・スピーチ/ヘイト表現」の犯罪性
あなたはご回答の中で、「本市としては、展示内容の正確性等は主催者の責任の範囲であると考えており、展示を承認したことが、市として主催者の考え・主張などを肯定したことを意味するものではありません」(強調:引用者)と述べておられます。しかし、問題は「主催者の考え・主張などを肯定するかしないか」ではありません。問題の核心は、展示内容自体が「他者の人権を侵害」している犯罪行為か否かです。侵害している場合には、主催者の責任が問われることはもちろん、そのような犯罪行為を容認して、市の公的設備での展示を許可する市当局、ひいては市長の責任であることも、あらためて言うまでもないことです。
「慰安婦の真実パネル展」では、被害者のハルモニたちが虚偽の証言をしているのであり、人権を侵害されて強制された性奴隷などではなく、それ相応の金銭的見返りを受けた自主的な売春婦であったと主張。「『日本軍に性奴隷にされた』話は全くの嘘」と主張して、戦争犠牲者を「嘘つき」だと明言することで、はなはだしく軽蔑、罵倒しています。これは、明らかに、「ヘイト・スピーチ/ヘイト表現」、すなわち「憎悪表現」と呼ばれる言動に当たるものです。憎悪表現とは、一般に「人種、出身国、民族、宗教、性的指向、性別、容姿、健康(障害)といった、自分から主体的に変えることが困難な事柄に基づいて、それらに属する個人または集団に対して攻撃、脅迫、侮辱する発言や言動のこと」とみなされており、さらには「憎悪を煽る行為」も含まれます。この展示パネルの場合、侮蔑の対象は「韓国人(民族)」という「女性(性別)」であり、「日本軍性奴隷」であったという「自分から主体的に変えることが困難な」過去の「事柄」に基づいて「攻撃、脅迫、侮辱」を行っています。したがって、韓国人に対する「憎悪を煽る」このパネル展は、元日本軍性奴隷という戦争被害者に対する、明らかな「侮辱罪」あるいは「名誉毀損罪」に当たる犯罪行為です。
「在特会(在日特権を許さない市民の会)」は、2009年12月に、京都朝鮮第一初級学校付近の児童公園で、拡声器を使って、「日本からたたきだせ」、「スパイの子ども」などと連呼しました。この「憎悪表現」を行った在特会メンバー4人は、すでに2014年に「侮辱罪」、「威力業務妨害罪」、「器物損壊罪」で有罪が確定しています。同じく朝鮮学校付近で、在特会元幹部が「この朝鮮学校は日本人を拉致しております」、「関係者がこの辺に潜伏しとるかもしれんので気をつけてください」などという「ヘイト・スピーチ」を行ったことに対し、2018年4月に、彼らを京都地検は「名誉毀損罪」で在宅起訴しました。「慰安婦の真実パネル展」での韓国人ハルモニに対する言動も、内容的には明らかに、これらと同じく「侮辱行為」あるいは「名誉毀損行為」にあたるものです。それでも、市長が「慰安婦の真実パネル展」内容を、「表現の自由」として他の展示と同様に「平等に承認」されたというのであれば、在特会の犯罪行為と確定された行為も「表現の自由」だと容認されることになるのではありませんか?
ご承知のように、日本では、2016年に、「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」(別称:ヘイト・スピーチ規制法、ヘイト・スピーチ対策法、ヘイト・スピーチ解消法)が成立施行されましたが、この法律は理念法で罰則規定はありません。1965年に国連で採択された「人種差別撤廃条約」、翌年に採択された「国際人権B規約」でも人種差別の助長や扇動は違法であると明記しています。日本は「人種差別撤廃条約」加盟国であり、「国際人権B規約」も批准していますが、具体的には差別撤廃のための対策はほとんどなにもとっていません。
「慰安婦」問題に関しては、国連の自由権規約人権委員会をはじめその他の人権関連諸委員会が、日本政府に対して、「被害者を誹謗中傷したり、事実を否定するいかなる試みも糾弾すること」、「この問題に関して学生ならびに一般市民を教育し、その教育には教科書による適切な参考書を含むこと」、「被害者ならびにその家族に正義がもたらされ、完全な賠償が与えられるようにすること」といった勧告を、繰り返し出しています。しかし、破廉恥にも、日本政府はこうした勧告を一切無視しています。
このような日本政府による「憎悪表現野放し」とも呼べるような現状を憂いた川崎市は、今年6月24日に、憎悪表現を行った者に対して50万円以下の罰金を科すことを盛り込んだ差別撤廃条例の素案を公表しました。これまで、憎悪表現を規制する条例に刑事罰を設けた例は日本ではありませんので、成立すれば、ようやく全国初めてのケースとなります。
海外、とりわけヨーロッパ諸国やカナダでは、「ヘイト・スピーチ(憎悪表現)」は明らかに犯罪行為とみなされ、厳しい罰則が科せられています。例えば、ドイツでは、ユダヤ人差別と大量殺戮への反省から、「特定の人々に対する憎悪を煽動したり尊厳を傷つける行為」を刑法130条で「民衆扇動罪」とみなし、重い罰則を科しています。とりわけ、ユダヤ人虐殺の歴史事実を否定するような「憎悪表現」は、まさしくこの「民衆扇動罪」にあたります。この法論理を「慰安婦の真実パネル展」に当てはめてみるならば、日本軍性奴隷の歴史事実を否定するパネル展を準備した人たちはもちろん、会場使用を許可した広島市も「民衆扇動罪」を犯したことになります。フランス議会では、目下、ヘイト投稿の削除をきちんと行わないSNS事業者に対して、最大で世界市場における年売上高の4パーセントの制裁金を科せるようにする、立法措置を巡る審議が行われています。
カナダでは、「言論の自由」はカナダ憲章第2章で保護されていますが、その一方で「憎悪表現」を、以下のような刑法319条で、明らかに犯罪行為とみなしています。
公共憎悪扇動(319条)何人も公共の場の通信言辞によっていかなる識別可能 な集団に対しても平和を侵害する恐れのある憎悪扇動は有罪[犯罪]とする。
この刑法の内容で注目すべきことは、「憎悪扇動」を「平和を侵害する恐れのある」ものと明確に認識していることです。
市長にここで考えていただきたいのは、あなたが「表現の自由」を守るために許可されたという「慰安婦の真実パネル展」は、戦争被害者に対する「侮辱罪」あるいは「名誉毀損罪」にあたるだけではなく、カナダの上記法律を適用するならば、「平和を侵害する恐れのある憎悪扇動」という犯罪行為でもあるということです。すなわち、「国際平和文化都市」であると世界にむかって誇っている広島市が、「平和を侵害する恐れのある憎悪扇動」に加担しているのだという事実に対して、その広島市の市長として、あなたはいったいどのように思われているのでしょうか。私たちは、今、川崎市が導入しようとしている日本最初の罰則付き差別撤廃条例こそ、本当は「平和文化都市」を唱える広島市が率先して導入すべき条例だと考えています。
あらためて言うまでもなく、平和は核兵器廃絶だけを唱えていれば創り出せるものではありません。毎日の日々の生活の中で、よりよい人間関係を創り出し維持していくこと、相互に相手を気遣う心を育み、温かい人間関係を築き広げていくという努力が、平和を構築するために最も基礎的なことであることはいまさら説明することもないと思います。これとは全く逆に、「慰安婦の真実パネル展」は、平和を侵害する憎悪扇動を行う目的で行われたものであり、その点で、明らかに「国際平和文化都市」の名称を深く傷つける、人間として実に恥ずかしい行為です。この事実について、もう一度、市長が熟考され、今後再びこのような「パネル展示」犯罪行為を容認しないという決断をされるよう、ここに強く要望いたしますが、あなたはこの要望にどう応えられますか?
田中利幸(歴史家)