2019年3月25日月曜日

拙著近刊案内


『検証「戦後民主主義」 - わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』

5月に三一書房から出版予定の拙著案が、三一書房のホームページに本日出ました。下記アドレスに本の各章の項目が出ています。情報散していただければ光栄です。

注文書をここからダウンロードできます。


本書の目的
  いわゆる「慰安婦(=日本軍性奴隷)」や「徴用工」の問題で日韓関係が最近ひじょうに険悪化していることからも明らかなように、戦後74年も経つというのに、なぜ日本は「戦争責任問題」を解決できないのであろうか。この疑問について考えるためには、単に日本の「戦争責任意識の欠落」だけに視点を当てるのでは解決にはならない。日本の「戦争責任問題」は、最初から、米国の自国ならびに日本の「戦争責任」に対する姿勢と複雑に絡み合っていることを知る必要がある。さらには、その絡み合いが日本の「戦後民主主義」を深く歪め、強く性格づけてきたのであり、そうした歴史的経緯の結果として、多くの日本人の「戦争責任意識の欠落」と現在の日本政府の「戦争責任否定」があることを明確にする必要がある。
  本書の目的は、そのような日米の「戦争責任問題」の取り扱い方の絡み合いを、空爆、原爆、平和憲法の3点に絞って分析し、どのようにそれが絡み合っているのかを分析することにある。さらには、その絡み合いの最も重要な要素の一つとしての「記憶」にも焦点を当て、日米の公的「戦争記憶」がいかにして作られ今も操持されているのか、その「公的記憶」に対して、我々市民が自分たち独自の「歴史克服のための記憶」の方法を創造していくにはどうすべきかについても議論する。

「あとがき」からの抜粋
  2015年3月末の定年退職をひかえ、その一ヶ月ほど前に、広島の平和活動仲間のみなさんに「さよなら講演」と題する講演会を広島市内で開いていただいた。本書の第5章は、そのときに準備した講演ノートを修正し、かつ大幅に加筆したものである。
  13年間暮らした広島を離れたとはいえ、その後も毎年8月6日前後の数週間は広島に戻り、いまも市民活動に参加させてもらっている。そのうえに、少なくとも毎年もう1回は広島に戻っているため、いつも私の頭から「広島、原爆、戦争責任」という問題が離れることはない。
  実は、「さよなら講演」のあと、広島の原爆問題をめぐる歴史、政治社会問題、文化問題を総合的に分析するような著作を、時間をたっぷりかけて書いてみたいと思い、まず書き始めたのが本書の第2章の元になる原稿であった。書き始めて、自分の構想がいかに自分の力量を超える能力を必要とするものであるかに、遅まきながら気がついた。しかし同時に、「天皇の戦争責任」問題が、戦後の日本の「民主主義」のあり方にひじょうに深い影響を及ぼしており、現在の日本の政治・社会問題を考えるうえでも、この問題を問わずには、いま我々が直面している様々な問題の根本的な原因を理解できないのではないかと考えるようになった。
  そこで天皇制に関する様々な資料を読みだしたのであるが、奇しくも、それが天皇明仁の「生前退位」発表と重なり、そのため、にわかに関連する出版物が増え、それらに目を通すことで私自身もいろいろ思考を重ねた。
………… (省略)
  本書の表紙には、私の大好きな広島の画家・四國五郎さん(1924−2014年)が残された数多くの秀れた作品のなかの一枚、「相生橋」を使わせていただいた。この絵が表しているように、戦後間もなくから1970年代末まで、広島には太田川に沿って原爆スラムと呼ばれるバラック街があった。親族を失って生き残った被爆者だけではなく、引揚者や在日の人たちなど、差別され貧困に苦しむ多くの人たちが住んだこの街は、戦後日本の「民主主義」の深い歪みを象徴的に表している一つであると私は考えている。
 




2019年3月2日土曜日

「雲上人」をいかにしたら地上に引き降ろせるか


- 「象徴権威」打破に必要な天皇の「人間化」 -

この論考は、反天連(反天皇制運動連絡会)のニュースレター『Alert』3月号に掲載されました。

明仁宛書簡の目的天皇「人間化」の試み
  私は、広島の活動仲間と私自身の2人の名前で、「退位する明仁天皇への公開書簡」を1月1日に自分の「ブログ吹禅」に載せた。反応は驚くほど大きなもので、中には熱烈な賛同を送ってくる人もおられた。天皇制に違和感を感じながらも、現在の「天皇万々歳」という日本の雰囲気に圧倒されて、その気持ちを率直に表明できない人が大勢いるのだということに私は気がついた。
  しかし、天皇制を批判するために、なぜ明仁個人宛への書簡という形をとらなければならないのか、との疑問を呈する人もいた。この疑問に対してすでにブログで私の見解を説明しておいたように、「書簡」の主たる論点は、天皇制、とりわけ天皇の「象徴権威」が持っている民衆(とりわけ民衆意識)支配のカラクリを暴き出し、そのような「象徴権威」(武藤一羊の用語では「象徴権力」)を持っている天皇個人を、天皇という神がかり的で雲上人的な地位からいかにしたら我々市民と同じレベルにまで引きずり降ろすことができるか、ということである。「引きずり降ろす」という意味は、我々大衆の意識の中で、「天皇は特別に崇敬すべき」と捉えられている存在から、長所短所の様々な性格要素と喜怒哀楽の感情をもった「我々と同じ人間」としての存在になるまで変革する、ということである。そうした我々の側の意識変革が、「象徴権威」を打破するためには必要であるし、天皇制廃止のためには「象徴権威」の打破は欠かせない。その点で、個人宛書簡は、受取人と対等の立場に立ってものを言うことで、相手を一人の「人間」として扱うには極めて有効な手段である。 
  この「天皇の人間化」に関連して言うならば、1946年1月1日に、「新日本建設に関する詔勅」なるものが発表され、天皇が「現人神」であることを裕仁自身が否定したことになっている。このことによって、この詔勅は「人間宣言」と一般には呼ばれている。しかしながら、この詔勅を読んでみると、「自分は神ではなく、人間である」とは一言も述べてはいない。ただ、「自分と国民の間の関係は、常に相互の信頼と敬愛によって結ばれており、それは単に神話と伝説によるものではない」と述べているだけである。しかも、この詔勅発表2日前の12月29日に木下侍従長が日記に書き残した文章によると、裕仁は自分が神であることを否定はするが、「神の子孫」であることは否定しないと述べたそうである。
  ジョン・ダワーはこうした天皇の敗戦直後の状態を捉えて、著書『敗北を抱きしめて』の中で、裕仁は「天から途中まで降りてきただけ」と絶妙な表現で描写した。雲上と地上の間で宙ブラリンとなった状態は明仁の場合も同じであるし、現憲法第1章が変わらない限り、今後の天皇でも続くことは間違いない。なぜなら、憲法第1章は、根本的には天皇を普通の人間とは認めていないからである。どこに行ってもありがたがられ、「おやさしい天皇」が人間的な間違いを犯すはずはないのである。この「象徴権威」を、安倍晋三のようなペテン師政治家は、トコトン自分の政治目的達成のために利用しようとする。

雲上人を地上に引きずりおろそうとした最初の市民活動ケース
  戦後の歴史において、天皇の「象徴権威」に力強く立ち向かい、天皇を雲上から地上に引きずりおろそうと試みたケースはごく少ないが、これまでにあることはある。
  その最初のケースは、いわゆる1946年5月19日の「食糧メーデー・プラカード事件」である。戦時中は食糧生産事情が悪化していた上に、1945年の夏は冷夏、秋には台風が幾つも襲来したため、1946年の年明け以降、食糧事情は危機的状況となり、全国で餓死者が続出。その一方で、戦時中に軍需として貯蔵されていた多量の食糧が戦時利得者や官僚によって隠匿されており、もちろん皇居の台所にも贅沢な食料品が山ほどあった。
  したがって、46年5月19日のメーデーが食糧配給を要求する「飯米獲得人民大会」 となったのも当然であった。25万人という驚くべき参加者数のこのメーデー集会で、田中精機工業社員(同時に同社労働組合委員長)で共産党員の松島松太郎が、表面に「ヒロヒト 詔書曰ク 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね ギョメイギョジ」、裏面に「働いても 働いても 何故私達は飢えねばならぬか 天皇ヒロヒト答えて呉れ 日本共産党田中精機細胞」と書いたプラカードを掲げて参加した。松島はこのプラカードのために検挙され、当時まだ効力のあった旧刑法の「不敬罪」 で起訴された。ところが「不敬罪」を反民主主義的な悪法と考えていたGHQの圧力のために、同年11月2日、東京地方裁判所での第一審判決では、不敬罪は認めずに名誉毀損罪が認められた。その結果、天皇に対する名誉毀損で松島は懲役8ヶ月の判決を受けた。ところがその翌日、日本国憲法の公布にともなう大赦令によって免訴とされた。免訴とはいえ、名誉毀損罪という犯罪歴そのものが消えるわけではないので、これを不服として松島は控訴。
  ところが、47年6月28日、東京高等裁判所での控訴審判決でも免訴。免訴により不処罰とはなるが、職権判断で改めて審理をしたところ、公訴事実となる不敬罪そのものは一応成立していたという判断が下された。今度は「不敬罪」にもかかわらず免訴となったことに対し、松島はさらに上告。これに対し、48年5月26日、最高裁は、大赦がなされた後において、なおも審理を継続し、まして犯罪の成立を認定する職権判断は違法であると判断。しかし、犯罪の成立決定は破棄されていないが、公訴権が消滅したのだという理由で上告を棄却した。つまり、大赦がなかったならば、「民主憲法」下においても、松島は天皇に対する「不敬罪」と「名誉毀損罪」で実刑を受けていた、という驚くべき結果となっていたのである。「民主化」されたはずの「天皇制」に対する一市民の非暴力的な反抗に対して、このような不条理な判断を裁判所は出したのである。
  私がこの裁判で重要視するのは、第一審の公判で松島の弁護人を務めた正木ひろし弁護士が主張したその内容である。すなわち、検察側が主張するように松島のプラカードが名誉毀損罪に確当するのであれば、それは刑法232条の「告訴ヲ待テ之ヲ論ズ」という親告罪を前提としている。したがって、裕仁本人が出廷してその「被害」を述べなければならない、という主張である。法廷に天皇を引きずり出しじかに発言させるこれは旧憲法で規定された天皇の神聖不可侵性」、それを継承する新憲法を拠りどころとする象徴権威に対する真っ向からの挑戦である。天皇が普通の人間であり、名誉毀損の被害者であるなら、出廷してはっきりと自分の意見を述べるべきだという、いたって当然の論理だ。おそらく、天皇を証人喚問するために出廷を要求したのは、日本の裁判史上これが初めてのケースであったと思われる。
  裁判長・五十嵐太仲は、この正木の要求に驚いて、最初はどう判断してよいのか困ってしまったようである。しかし、最終的に五十嵐は、「告訴は単に親告罪の訴追を被害者の意思に係らしめる形式的要件であって、犯罪の成立に必要な構成要件ではない」 とワケの分からない理由をあげて、天皇を喚問する必要なしという判断を下した。これは、「天皇の意思」を検事が忖度で尊重して、天皇に対して無礼な態度をとった人間を訴追することにはなんら問題がないと判断したと解釈してよいだろう。「天皇を法廷に呼び出すなどという不敬は、畏れおおくてとてもできない」というのが、五十嵐の本音であったのであろう。
雲上人の戦争責任を法廷で追求することによる天皇「人間化」の試み
  もう一つのケースも、やはり裁判闘争での天皇の雲上からの引きずり降ろしの試みである。それは、周知の「パチンコ玉事件」である。1969年1月2日朝の新年一般参賀で、皇居長和殿東庭側ベランダに立った裕仁を狙って、25.6メートルの距離から、ニューギニア戦線での生き残り兵であった奥崎謙三がパチンコ玉3発をまとめて発射、続いてもう1発を「おい、ヤマザキ、ピストルで天皇を撃て!」と大声で叫びながら投射。裕仁には1発も当たらなかったが、奥崎はその場で即座に逮捕された。というよりは、逮捕してくれるように警察に頼んだ。奥崎は、最初から法廷で裕仁の戦争責任を徹底的に追求する目的でこの事件を犯したのである。検察側も奥崎の意図を知ってか、最初は彼を偏執病に病んでいる人間としてかたづけてしまい、裁判を避けようとしたようである。しかし、精神科医の診断で「問題なし」という結果がでたため、裁判にもちこまざるをえなくなった。裕仁に対する「暴行罪」による起訴である。
  奥崎は、東京地方裁判所の第一審で、憲法上刑事被告人に保障された権利である「すべての証人を審問する権利」に基づき、「被害者」である天皇裕仁の証人請求を行うと同時に、10項目にわたる尋問予定事項を提出した。その中には、次のような質問が含まれていた。「被告人(奥崎)が、聖戦の名の下に行われた太平洋戦争に徴収され、ニューギニア島で戦い、傷つき、辛うじて生き残った帝国陸軍の一兵卒であったことを知っていますか。」「あなたは被告人が徴収された帝国軍隊(いわゆる皇軍)の統帥権者の地位にあり、その権威の下に右戦争が遂行されたこと、そして被告人が右戦争の犠牲者・被害者の一人であることを同じ人間としてどう考えますか。」「被告人が、ニューギニア島で飢え、傷つき、そして死んでいった同じ部隊の何千の戦友たちへの慰霊・供養として本件行為に出たことをあなたはどう考えますか。」(強調:引用者)
  ここには、奥崎が天皇をあくまでも一個の人間とみなし、その人間に対して、多くの人間を死なせたことの責任に対する個人的感情を問いただしていることが明瞭となっている。こうして問いただされた天皇からは、「神聖不可侵性」や「象徴権威」が見事に剥ぎ取られ、追求された責任問題に一個の人間としてどう思っているのか答えざるをえない状況に裕仁はおかれるはずであった。しかし、裁判長・西村法は、前述の五十嵐太仲のような説明も全くなしに、奥崎の請求に対してただ「必要なし」とだけ答えて、「暴力事件」の「被害者」に対する尋問請求を拒否したのである。こうして被害者側からの証言や供述調書の一通すらなく、この「暴行事件」は裁判にかけられ、奥崎は懲役1年6ヶ月という判決を受けた。事実上、奥崎の「暴行罪」は「不敬罪」なみの取り扱いを受けたのである。

結論:「象徴権威」打破のための方法について具体的な思案を!
  失敗したとはいえ、こうした前例からも、裁判という手段 例えば皇室典範第1条は性差別であり憲法違反であるとの訴え(天皇・皇后の証人喚問を要求) を通して天皇の「人間化」をはかることは、「象徴権威」の打破という点では極めて有効であることが分かる。しかし、裁判という方法をとらなくとも、「象徴権威」の打破のための方法はいろいろあるはずである。日本の民主化のために天皇制廃止を目指す運動は、そのための具体的な方法についてもっと真剣に考えるべきではなかろうか。

田中利幸(歴史家、「8・6ヒロシマ平和への集い」代表)

ニュースレターでは字数限定があるため、奥崎謙三に関する私見を十分述べることができませんでした。そこで下記を付記しておきます。

  奥崎のパチンコ玉発射という奇抜な行動は、奥崎と殺された彼の戦友にとっては戦争という「狂気」を生み出した張本人と彼らが見なす天皇裕仁に対し、暴力パチンコ玉発射という極めて小規模なものではあったが - という「狂気」で立ち向かうことで、天皇制そのものがいかに「人類普遍の原理」からみて「正常」を逸したものであるかを暴力的に暴露しようとの試みであった(ただし、私自身はどのような小規模な暴力行為であれ容認しないが)。当ブログ(2017年9月)の論考でも説明しておいたように、「日本国象徴」の「正統性」という国家原理に対し「人類普遍の原理」で挑戦した奥崎のこの行動には、したがって天皇制の否定だけではなく、天皇によって象徴される「国家」をも「悪」と見なし、戦争に国民を駆り出して死ぬことを強要する国家そのものの存在否定が秘められていたと言える。この点でも、奥崎の主張は、大熊信行や小田実の「国家悪」論に通じるものがある。
  人類普遍の原理で日本という国家とその象徴である天皇を徹底的に否定するという奥崎は、結局、彼独自の考えの「神」観念に基づく「地上唯一の宗教」である「改世教」なるものを考え出し、それを「媒体・手段として本当の大義を追求」するという目的で、殺人を含む奇抜な暴力事件をその後も複数起こしている。「人類全員が神様と神様の法律に従い、全体的・絶対的・客観的・永久的に生きられる神様の世界をつくる本当の大義を追求」するという彼を、ほとんどの人が「変人」扱いしてしまい、彼の言う「神」とは、戦争に人間を駆り出し、人を殺し、自分も殺されることを強要する「国家」の「狂気」に抗するための「人類普遍の原理」であったということを見逃してしまっているように思える。
  ただひじょうに矛盾していたのは、奥崎の「人類普遍の原理」追求の活動が、それに反対する人間、あるいはそれを理解しない人間を暴力で激しく押さえつけるという -  「人類普遍の原理」に明らかに反する - やり方であったため、ますます変人扱いされ、孤立した活動になってしまったことである。奥崎の決定的な欠点は、自分自身と亡くなった多くの戦友たちが舐めさせられた苦汁の戦争被害の責任を徹底的に追及する怨念のゆえに、日本帝国陸軍兵として自分たちが負っていた加害責任には無神経、無感覚になってしまっていたことである。
  戦争という暴力行動は、戦争に駆り出される兵士たちを凶暴化、残虐化し、人間性を剥奪する。その意味で兵士たちは戦争犠牲者である。しかし、その兵士たちの残虐な行為が多くの犠牲者を産むという観点からすれば、彼らはもちろん加害者でもある。その凶暴で残虐な加害行為が、彼らをさらに非人間的にするという悪循環を作り出す。加害と被害の悪循環に取り込まれた者が、この非人間化の悪循環から自己を解放するには、そのどちらか一方だけの責任を追及しても、その止めどのない循環を断ち切ることはできない。奥崎の悲劇は、自分と戦友を戦争被害者にしたその責任だけを一方的にだけ問う、そこにあった。しかも、その責任追求行動を非難したり妨害しようとする者を非人間化し、暴力で黙らせたことであった。
  しかし、それでは、その悪循環から自由になろうと苦悩し闘い続けていた奥崎を、全く自分とは関係のない奇異な人間の行動として傍観していた我々一般市民には何の責任もないのであろうか?戦争責任問題をないがしろにしたまま、「平和憲法」をありがたがっている我々大部分の日本人。「戦争責任」と「平和憲法」の2つの間の隠された密接な関係を暴露し、正義を求めようと苦闘し続けていた奥崎を「狂人」扱いしていた我々。そんな我々に、奥崎を非難する資格はあるのだろうか?奥崎のような悲劇的な人間を作り出した自分たちの社会、その社会の本質に目を向けないまま、奥崎の言動を黙殺すること自体が「無責任」ではなかろうか。無責任な天皇制を中軸とする日本の「民主主義」に対して、何の問題意識も持たずに同じように無責任な態度を取り続けている我々市民の側にも、奥崎を悲劇的な人間にしてしまった「責任」があるのではなかろうか。奥崎を無視続けることは、「難死」した多くの奥崎の戦友と他の日本軍兵士、日本市民、さらには日本軍兵士たちに「難死」させられた多くのアジアの民衆たちの苦悩を「人間化」することを否定することではなかろうか。
  なぜなら、奥崎が自分のほとんど半生を費やした「天皇人間化」の狂気的な闘いは、その天皇の無責任の犠牲にさせられたまさに奥崎自身の苦悩と怒りの「人間化」、戦死させられた多くの日本兵の魂の叫びの「人間化」を激しく求めるものであったからである。奥崎が完全に失敗したとはいえ、それはまた、本来ならば、戦争で犠牲を強いられた多くの日本市民の「人間化」、そして日本兵に殺害され、天皇を戴く日本帝国の支配拡大の犠牲にされた多くのアジア民衆の「人間化」を求める強烈な闘いに繋がるべきものであったからである。