この論考は、今月末に発行予定の「日本軍『慰安婦』問題解決ひろしまネットワーク」
のニュース・レター9号に掲載予定のものです。
杉田水脈発言の「国家犯罪行為」助長的な意味
我々には悪名高い「慰安婦バッシャー」でおなじみの杉田水脈が、「LGBTは子どもを産まないから生産性がない」という意見を『新潮45』で7月に述べたことは記憶に新しい。(なお、杉田水脈がこれまで日本軍性暴力被害者問題への解決を執拗に妨害してきたことについてはすでに色々な情報が拡散されているし、その妨害活動のためにオーストラリアにも来ていることについては、私もニュース・レター2号やブログ「吹禅」2015年11月18日/2017年6月29日で報告している。)杉田と彼女の支援者のネトウヨたちから猛烈なバッシングを受けている私自身にとっては、「またまたこんな劣悪な発言か」と思うだけで、別段、驚きはしなかった。この発言で彼女への厳しい批判がまたたくまに全国に広がっただけではなく、これがきっかけで「自分はLGBTの一人」とカミング・アウトしてきた人たちがいたことに私は嬉しい驚きを感じた。カミング・アウトした人物の一人に、私の尊敬する友人である岡野八代さん(同志社大学教授)がおられたことに私はとりわけ感動し、その感動を早速彼女に個人メールで伝えた。(なお、岡野さんご自身の杉田発言に対する批判論考は『世界』10月号掲載の「差別発言と、政治的文脈の重要性」を参照されたし。また、つい最近、『新潮45』は10月号で杉田批判は見当違いだという特集号を組んだ。日本のメディアはどこまで劣化するのか、恐ろしい。)
「子どもを産まないことは生産性がない」と主張する杉田は、「生産性のない人に税金を投入するのは無駄である」という意味の発言もしている。彼女が「生産性」という言葉で意味するところは、「金銭的利益をもたらす経済的生産性」というものであると思われる。「生産性」という言葉に「どのような性関係であれ、精神的に豊かで幸せな人間関係の創造」を見ることができない人間、「生産性」が人間諸個人の生活の「質」にとって一体何であるべきかという深みのある思想について考えることができない薄っぺらな脳の持ち主の人間が、その国家社会のあり方を決めることに多大な影響力を持つ政治家になっているような国、そんな国の国民は本当に不幸である。
彼女の「生産性のない人間には厚生福利面で税金を無駄使いするな」という意味の主張をおしすすめていけば、「生産性のない人間は生存すべきでない」ということになり、これはLGBTのみならず、身体障害者、精神/知的障害者なども含むことになる。これは明らかに「ナチスの優生思想」そのものであるし、日本も同じような政策の旧優生保護法(1948〜96年)で1万6千人といわれる人たちに強制不妊手術を行い、その被害者たちの声が今になってようやく取り上げられるようになってきた。ハンセン氏病患者への強制不妊手術にいたっては、旧優生保護法が導入される以前から行われていた。杉田発言を問題にするとき、この由々しい「人権侵害」という国家犯罪行為の歴史事実を私たちは決して忘れてはならない。杉田発言をのさばらせることは、したがって、単なる「差別問題」ではない。それは、「国家犯罪行為」につながる重大な発言を容認することなのである。
ところが、自民党の二階俊博幹事長も杉田発言のその重大性を理解できる能力を持ち合わせていないようで、「人それぞれ政治的立場、いろんな人生観、考えがある」と述べ、「個人の人生観」の問題としてしか理解できていない。問題は、したがって、杉田という一国会議員だけの問題ではなく、杉田を比例代表制選出議員の候補者として選び、同時に党員と官僚のセクハラを野放しにしている自民党、とりわけ杉田を強く推した党首・安倍晋三という政治家の思考能力と「人権意識」の問題なのである。2013年、麻生太郎は「ドイツのワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気が付かなかった。あの手口に学んだらどうかね」という発言で壊憲提案をしたことはよく知られているが、自民党にはナチス信奉者が多いのである。こんな政党が政権を握っている国も、世界ではめずらしい。ドイツではこんな発言をすること自体が犯罪行為とみなされるし、即刻、議員辞任に追い込まれるはずである。
杉田発言のさらなる問題は、子どもが欲しくても産めない人たちが大勢いるにもかかわらず、その人たちの心の痛みも理解できない人間が政治家になっているという事実である。さらには、今のような重苦しい生活状況、とりわけ性差別の激しい日本社会の中では、子どもを産んで育てたくはないと考えている人たち、とりわけ女性たちも多い。そんな社会状況をいかにしたら改善させることができるか、子どもを産んで幸せで安心して平和な生活ができる社会をいかにしたら構築できるか、という最も基本的な発想すらできない人間が国会議員の職に就いているというこの厳然たる事実である。再度述べておくが、こんな低劣な政治家を国会議員にもつ国民は実に不幸である。
杉田発言と天皇制の性差別主義の関連性
「子どもを産まないような人に税金を投入するのは無駄である」という内容の杉田発言を聞いて私が思い浮かんだもう一つのことは、皇太子妃・雅子のことである。周知のように、雅子は長い不妊治療のあとにようやく妊娠し、女子・愛子を出産。不妊治療も実は雅子はいやがったのであり、愛子を出産のあと妊娠ができなくなったことも事実のようである。とすると、杉田発言をこのケースに当てはめるなら、将来の天皇となる男児を「産まないような人に税金を投入するのは無駄である」ということになる。杉田を含む右翼天皇崇拝主義者たちにとって、これは多額の税金を使っている皇室への侮辱とも言える発言になるはずだが、この点を指摘する右翼の意見を耳にしない。
雅子が、皇室に入ることによって一女性としての市民の人権を完全に失ったことは誰の目にも明らかである。皇位継承者である男児を産む「天皇製造機」になることを強制され、それに失敗し、「適応障害」と「診断」され、人間としての尊厳を踏みにじられた女性の悲哀、心の痛みの深さは察するに余りある。これを「女性差別」による「人権否定」と称さなければ、なんと呼ぶべきなのか私には言葉がみつからない。
日本国憲法1条では、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く 」と規定されている。「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるならば、「日本国民たる要件」を含む日本国憲法の諸規定も象徴していなければならないはずである。ところが、摩訶不思議なことには、その「象徴」であるはずの天皇をはじめ皇室メンバーには、11条〜14条や24条などで全ての国民に保障されているはずの基本的人権が保障されていない。とりわけ、皇室の女性メンバーの人権が完全に否定されていることである。
この矛盾は、家父長制的絶対主義である天皇制イデオロギーの中心をなす要素の一つである「男性優位主義」をなんら改革しないまま、日本国憲法の中に滑りこませてしまったことに起因している。とりわけ「皇室典範」は旧憲法下での典範規定の多くをそのまま継承しており、その最も典型的なものが1条の「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」という規定である。
憲法24条は、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と定めている。この条文中の「両性」は「両人」に変更すべきであるという主張を私は以前から機会あるごとに述べてきたが、それはさておき、婚姻によって皇室を離れ一般市民になる女性にすら「両性の合意のみに基いて」結婚を決める自由は事実上ない。そのことは、最近の秋篠宮内親王・眞子と小室圭との婚約問題からも明らかなように、両人の思いがどうあろうと、皇室会議で最終的に承認されなければ、結婚どころか婚約内定発表すら正式なものとは認められない。これも女性の皇室メンバーに対するはなはだしい人権侵害=違憲行為であると私は考えるが、このことを指摘する憲法学者のコメントやメディア報道はほとんど目にしない。
問題は、憲法や皇室典範だけではない。皇室の伝統儀式といわれるもののほとんどが、これまた「男性中心主義」である。一例をあげれば、来年の新天皇皇位継承の際に行われる「剣璽等 承継の儀」(三種の神器の受け継ぎ)の儀式には、女性が出席することは許されていない。これには政府閣僚の全員が出席するのが慣例になっているが、女性閣僚の出席を認めるかどうか未だ政府は最終決定を下していないようである。もし女性閣僚の出席が許されるならば、女性の皇室メンバーの出席を許さないということは難しくなることは明らかだ。
しかし、実を言えば、皇室の様々な儀式に女性の出席を許さないというのは近代になって導入された家父長制的イデオロギーに基づく新しい「慣例」で、神道の伝統的な慣例ではない。元来、神道では、禊やお祓いなど神を鎮める様々な儀式を行うのは女性である巫女の役割であり、男性ではなかった。ところが、近代、とりわけ明治になり天皇制が国家権力との関わりで政治制度化されるにあたり、家父長制=男性中心主義と神道儀式が急速に一体化された。最近問題になった相撲土俵に女性が上がることを禁止している大相撲の「慣例」も、あたかも「神道儀式慣例」のように言われているが、実はこれも、近代の天皇儀式の模倣であると考えられる。江戸時代には女相撲すら盛んに行われていたことからも分かるように、相撲協会のこんな「慣例」は文字通りナンセンスである。
結論:杉田発言を封じ込めるために天皇制廃止を!
いずれにせよ、近代民主主義国家といわれる世界の国々の中で、憲法で男女平等を唱っておきながら、その憲法に明らかに違反する様々な行為を「国家の象徴」である天皇とその家族に堂々と行わせているような摩訶不思議な国は、日本以外にはないのではなかろうか。そして、そのことを政治家たちだけではなく、憲法学者もメディアも国民の大多数もたいして矛盾とも思わないような国である日本。それを考えると、人権意識を欠いた杉田のような性差別主義者で同時に天皇崇拝主義者という人間がワンサと日本にいるのは、したがって、本当は驚くべきことではないのであろう。換言すれば、天皇が象徴する性差別と国民の多くが矛盾と思わない性差別とは、互いに照らし合っている鏡映だと言える。
軍性奴隷(いわゆる「慰安婦」)制度は、天皇制軍国主義が産み出した由々しい暴力的人権侵害制度であった。考えてみれば、現在我々が直面しているはなはだしい「性差別」と「人権侵害」もまた、根本的には天皇イデオロギーを拠り所にしている。その点で、戦後は戦中・戦前と密接に繋がっているのである。この二つの問題を切り離して考えることはできないのである。
では、解決策はなにか?その答えは、天皇制を即刻廃止し、皇室メンバーを奴隷的存在から解放し、国民同様の「人権」を認めて一般市民とすること、それが私には最も手っ取り早い方策のように思える。明仁・美智子のご両人、退位する前に皇室メンバーを辞めませんか!貴方たち自身の人権獲得と国民の人権擁護のために!