- 戦争責任問題を考えるための予備知識 –
(4)日独伊三国同盟から日米開戦決定まで
*急変する世界大勢に翻弄される短命内閣の連続
*日独伊三国同盟締結と対ソ連戦略、武力南進
*さらなる武力南進から開戦決定まで
*結論:対米英開戦の原因と最終的結果
急変する世界大勢に翻弄される短命内閣の連続
日中戦争が日本の陸軍や政府の予想に反して長期化する中で、1937年11月に成立していた日独伊三国防共協定を軍事同盟にまで格上げしようという提案が、1938年8月にドイツ側から出された。ドイツにとってソ連のみならず英仏両国に対しても圧力となるこの同盟は、日本陸軍にとっても日中戦争の膠着状況を打破するために有効であると考えられた。なぜなら、この軍事同盟により、英国とソ連と対抗しているドイツとイタリアが英ソを威圧することで、日中戦争のゆえに弱体化している日本の対ソ連戦準備を補うことができるし、英ソ両国が行っている蒋介石政権への軍事援助も阻むことができると考えたからである。ところが、元老・重臣などの宮中グループと海軍は、防共協定の軍事同盟への格上げは英米との関係をさらに悪化させると懸念してこれに反対。とりわけ、当時の近衛内閣の海軍大臣・米内光政と海軍次官・山本五十六が強く反対し、陸軍大臣・板垣征四郎と対立。この対立が他の閣僚たちの間にも確執を引き起こして閣内不統一状況となり、日中戦争の行き詰まりもあって、近衛は首相の座を投げだし、内閣は1939年1月14日に総辞職してしまった。
翌日、右翼国家主義団体・国本社の会長で枢密院の議長でもあった平沼騏一郎が首相に任命され、組閣。ところが陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣をはじめ近衛内閣の閣僚7人を留任させたため、閣内対立をそのまま引き継ぐ形になってしまった。
同年5月11日には、満州国興安北省とソ連支配下にあるモンゴル人民共和国(いわゆる「外蒙古」)との国境係争地近くのノモハン付近で、外蒙古軍と満州国軍との武力衝突事件が発生した。日本側は外蒙古軍が「越境」したと見なし、これを撃破しようと第23師団から部隊を出撃させたが、ソ連軍の反撃にあって全滅状態。これがきっかけで5月下旬から断続的に日本軍とソ連軍の間で大規模な戦闘が起き、8月20日にはソ連軍が4狙撃師団、3戦車旅団、3装甲旅団の大兵力で総攻撃を開始。この戦闘に投入された日本軍は、8月下旬までに壊滅状態となってしまった。日本側はこれを「ノモハン事件」と呼んだが、実際には「ノモハン戦争」と称すべき内容の激戦であり、日本軍側の死傷者は1万7千人(うち死亡者7,720人)を超え、兵力の消耗率は32.2%(第23師団の消耗率は79%)という高いものであった。ソ連側も1万人近い戦死者と1万6千人ほどの戦傷・戦病者を出した。
ところが、この戦闘がまだ続いていた8月23日に、ドイツが突然に独ソ不可侵条約を締結した。ドイツは、ポーランド侵略計画の実施をまぢかに控え、東欧と西欧での同時二正面戦闘を避けるために一時的にソ連と提携しておく必要があったし、東方で「ノモハン事件」を抱えていたソ連側も、西方での安全を確保しておく必要があった。したがって、この条約は、両国にとって一時的な妥協策として締結されたものであった。しかし、対ソ政策という目的で、日独伊三国防共協定の軍事同盟への格上げを審議していた平沼内閣にとって、この突然の独ソ不可侵条約締結はあまりにも衝撃的なものであり、8月28日には政策の行き詰まりを理由に総辞職してしまった。
8月30日に予備役陸軍大将(「予備役」とは現役を終えているが、非常時にだけ召集されて軍務に服す軍人)阿部信行が首相となり、組閣。その2日後の9月1日にドイツがポーランドに侵攻したのを受けて、英仏両国がドイツに宣戦布告し、ヨーロッパで第2次世界大戦が始まった。こうした突然の状況変化のため、日独軍事同盟で日中戦争の局面打開をはかろうとした陸軍も、方針再検討を迫られる事態となった。阿部内閣は、日中戦争解決を最重要視して欧州での大戦への不介入を宣言し、「ノモハン事件」を停戦に持ち込んだ。しかし、これに先立つ1939年6月には、日本軍が天津のイギリス租界を封鎖したことから、7月26日にはその報復として米国が日米通商航海条約の廃棄を通告。8月には日本軍がイギリス植民地・香港に隣接する深圳を占領し、さらに華北から英仏駐屯軍を撤退させたため、中国における権益を阻まれた英仏米との対立はさらに悪化。内政面でも軍需インフレーション、物資不足、増税、貯蓄・献金の強制、公債負担など、国民の負担と犠牲は「満州事変」期の状況と比較にならないほど増大していた。そのため、1939年末には阿部内閣退陣要求の声が強まり、軍部も阿部内閣を見限ったため、わずか4ヶ月半で退陣に追い込まれ、1940年1月14日に総辞職。
1月16日、今度は、親英米派・穏健派である予備役海軍大将・米内光政を首相とする内閣が成立。しかし1月末には日米通商航海条約が失効し、米国はまず工作機械の対日禁輸を実行した。(1938年度の段階では、日本の輸入に占める米国の比率は、総額の34.4%、石油類の75.2%、鉄類の49.1%、機械類の53.6%に達しており、米国への依存度がひじょうに高かった。)米内内閣は、悪化した英米との関係の改善を少しでもはかろうと試み、3月には陸軍が汪兆銘政権という傀儡政権を南京に樹立させ、蒋介石政権とも、謀略的ではあるが、一応「和平工作」を進めることを了承した。
ところが4月にドイツ軍はデンマーク、ノルウェーを制圧し、5月にはオランダ軍、ベルギー軍を降伏させて、英仏軍をダンケルクにまで追い詰め、6月中旬にはパリを無血占領するという電撃作戦を展開。この急激な大勢変化に押されて、6月10日、イタリアも英仏両国に対して宣戦を布告。日本、とりわけ軍部の中には、このドイツの圧勝に幻惑されて再び日独伊三国同盟を推進しようとする革新派がにわかに台頭。東南アジアを植民地支配していたフランス、オランダ、イギリスがドイツに敗北したことは、日中戦争に行き詰まって資源確保にも難渋していた日本にとって、仏印(フランス領インドシナ=現在のヴェトナム・カンボジア・ラオス)や蘭印(オランダ領東インド=現在のインドネシア)などの資源を確保し、援蒋ルート(蒋介石援助ルート=英領ビルマ - 仏領インドシナ – 雲南 – 重慶を結ぶ線)を遮断する絶好の機会到来と彼らはとらえた。とりわけ、当時は一大産油地帯だった蘭印の石油は魅力的であった。蘭印や仏印がドイツ支配下に入る前に日本が東南アジアへの侵略を完遂させようという「南進(南方進出)論」と、その結果必然的となるであろう「対英米対決論」があからさまに主張されるようになった。
政友会や社会大衆党の一部の親軍派政治家たちがこうした主張を支持するために「聖戦貫徹議員連盟」を組織し、これに親軍的ファッショ政党である国民同盟、日本革新党、東方会などの政治家たちも加わった。こうした支持を背景に軍部革新派は、親英米的な米内内閣を打倒するため、軍部大臣現役武官制を利用して、陸軍大臣・畑俊六を単独辞職させて、7月16日に米内内閣を総辞職に追い込んだのである。かくして、米内内閣もまたわずか6ヶ月という短命内閣で終わってしまった。平沼、阿部、米内と次々と短命内閣が続いたことは、英米協調路線かそれとも日独伊三国同盟路線か、どちらを国家方針とするかの模索に、この時期、日本が揺れ動いていたことの表れであった。
日独伊三国同盟締結と対ソ連戦略、武力南進
1940年7月17日、枢密院議長・近衛文麿に再び組閣の大命が下り、東条英機を陸軍大臣、吉田善吾を海軍大臣、松岡洋右を外務大臣に任命して第2次近衛内閣が成立。7月26日の閣議で、陸軍省軍務局の立案による「基本国策要綱」を決定したが、その根本方針は、日本、満州、支那(中国)の「強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」ことを目的とし、そのために日独伊三国同盟と武力南進という2つの政策をとるというものであった。「大東亜共栄圏の確立」(松岡洋右が外務大臣就任談話の中で使った表現)と「高度国防国家体制の確立」いう軍事拡大主義的な方針によって、ここにその後の日本の運命が決定づけられた。日独伊三国同盟は9月27日にベルリンで調印され、これによって、三国枢軸(Tokyo-Berlin-Rome Axis)と米英陣営連合諸国(The Allied
Power)の世界的規模での対抗、すなわち世界帝国主義の二大陣営の対抗が明白なものとなった。
第2次世界大戦は、根本的には、この二大陣営による植民地再分割戦争であったと言える。すなわち、アジア・アフリカ諸国を植民地として領有し続けようとうとする富める先進資本主義諸国である英仏蘭米に対して、植民地を拡大しようともくろむ後発の資本主義諸国である日独伊の間の戦争であった。ヨーロッパ戦線での戦争は、アフリカ地域で英仏蘭が支配する植民地のドイツ・イタリアによる争奪戦であり、アジア・太平洋地域では英仏蘭米の支配下にある植民地・半植民地の日本による争奪という性格をもつ戦争であった。ただし、枢軸国側の政策は、全体主義に基づく「新秩序建設」という名目での膨張主義であるのに対し、連合国側は、先進資本主義諸国による植民地領有継続のための戦いを、「民主主義防衛」と「不拡大主義」という美名の旗を掲げることで正当化した。
日本がとった最初の「武力南進」行動は、北部仏印への日本軍進駐であった。6月にフランスがドイツに敗退したのに乗じて、日本は仏印の援蒋活動の中止を要求。フランスがこれに応じると、その上で今度は、フランスに対して日本軍5千名の北部仏印駐屯、ハノイなど3飛行場の使用と日本軍の通過を認めさせる協定を9月22日に成立させた。ところが、翌日9月23日には、参謀本部作戦部長・富永恭二が武力進駐の強行を命じ、中国・仏印の国境に待機していた第5師団(広島、師団長・中村明人中将)が、協定を無視して越境・侵入。
アメリカはこうした日本の行動に対し、7月には、石油ならびに兵器製造に必要な屑鉄の輸出許可性、航空機用ガソリンの対日禁輸を実施。9月23日の仏印武力侵攻の3日後には、屑鉄の輸出を全面禁止した。その一方で、9月25日、アメリカは中国に2,500万ドルの借款を供与。12月1日には対日禁輸品目に鉄鋼、鉄合金などを追加し、翌日の12月2日には中国への1億ドル借款案がアメリカ連邦議会で可決された。日本は、ロンドンに亡命政府を置いていたオランダとの交渉で蘭印からの石油輸入をはかろうとしたが失敗。敵国ドイツと同盟にある日本にオランダが協力するはずはなかったが、仏印に日本の軍事基地を置いて威圧すれば、蘭印も石油供給に応じるかもしれないという甘い考えは、果たして誤算に終わった。
かくして南方資源の確保がますます切実な問題となってきた日本は、武力南進の態勢をさらに強化していくことになる。1941年4月17日に大本営陸海軍部が作成した「対南方施策要綱」では、仏印、タイ、蘭印での資源確保にあたり、「米国が単独若しくは英、蘭、支と協同し帝国に対する包囲態勢を逐次加重し帝国国防上忍び得ざるに至りたる場合」には「帝国は自在自衛の為武力を行使す」と明記され、米英との戦争も辞さないという決意が確認された。
しかし、日本がこのような武力南進を推進していくためには、北方すなわちソ満国境地域の安全を確保しておく必要があった。ノモハン事件で惨敗した経験からも、対ソ戦準備のためには戦備の大増強が必要なことは明らかであったが、そのためには「南進」遂行の間はこの北方で静謐が保たれなければならなかった。そこで外務大臣・松岡洋右が考えたのは、日独伊ソの四国協商(「協商」とは同盟関係ではない親善関係)をつくり、これを日独伊三国同盟と連結させることで米英両国を圧倒し、日独伊が主導する「世界新秩序」を作るという構想であった。1941年3月から4月にかけて、松岡はこの構想を携えてソ連とドイツを訪問するが、独ソ不可侵条約にもかかわらず、すでに対ソ攻撃を計画していたドイツはこの提案を事実上無視。ドイツの計画について全く知らなかった松岡は、そこでソ連に日本との不可侵条約締結を提案したが、ソ連側は不可侵条約ではなく中立条約を提案。松岡はソ連の提案を受け入れ、4月13日に5年間有効の日ソ中立条約が調印された。
日本が「南進」を遂行していくためには、北方での安全確保と同時に、南進に対する最強の妨害者とみなされるようになったアメリカとの交渉も決定的に重要となってきた。1940年11月、近衛首相は米国大統領フランクリン・ルーズベルトと親交のあった野村吉三郎海軍大将を駐米大使に任命し、翌年1941年2月から主として国務長官コーデル・ハルを通しての折衝が開始された。これとは別に、4月には、ジェームズ・ウォルシュ、ジェームズ・ドラウトの2名のアメリカ人神父と産業組合中央銀行理事・井川忠男らが作成した民間私案の「日米諒解案」が、日米両政府に提案された。しかし、その内容は、アメリカが日本軍の中国からの撤兵と満州国承認を前提に、蒋介石政権と汪兆銘政権の合流をはかり、「南進」も平和的手段によるものという、日本にとってはきわめて都合の良いものであったが、米国政府にとっては受け入れがたいものであった。
一方、ハルは、5月に、領土主権の尊重、内政不干渉、機会均等、太平洋地域の現状不変更の、いわゆる「ハル四原則」を日本側に提示。ところが、親独強硬派の外務大臣・松岡は、「日米諒解案」にすら反対で、「ハル四原則」には絶対反対を主張。5月3日に開かれた大本営政府連絡会議では、松岡の強硬論が通り、陸軍側も、アメリカが要求する中国からの撤兵、南進論放棄、日独伊三国同盟からの離脱を拒否すべきだと主張した。
6月22日、突然、ドイツ軍によるソ連への奇襲攻撃が決行され、当初、ソ連軍は総崩れとなった。日本は、三国同盟にしたがえば独ソ戦に参加しなければならないが(事実、イタリアは参戦した)、日ソ中立条約にしたがえばソ連に対して中立を保たなければならない。日ソ中立条約を結んだ本人の松岡は、即時対ソ戦を主張。しかし、大本営政府連絡会議では様々な意見が出されて紛糾。結局、7月2日の御前会議で、「対英米戦準備を整え……南方進出の態勢を強化」しながらも、「密かに対ソ武力的準備を整え……独ソ戦争の推移帝国の為め有利に進展せば武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す」と決定された。
具体的には、極東ソ連軍の多くが対独戦投入のためにヨーロッパに移送され、ソ満国境地域のソ連防備が手薄になるのを待って、ソ連攻撃を実行することにしたのである。そのため、7月2日のうちに、日本帝国陸軍創設以来の空前の規模での、総兵力16個師団85万人にのぼる動員命令が允裁(天皇によって認可)された。この大作戦には、「関東軍特殊演習(関特演)」 という軍事演習を装う秘密作戦名が使われた。しかし、ドイツ軍の侵攻で当初大混乱におちいったソ連軍も、7月に入ると態勢を立て直して長期抗戦体制を整えたため、極東ソ連軍の西方移送は日本が期待していたほど大規模なものにはならなかった。そこに後述するような武力南進での問題が急迫したため、参謀本部は8月9日に年内の対ソ武力行使をあきらめ、南進とそれによって起きると予想される対英米戦の準備に専念することにしたのである。
さらなる武力南進から開戦決定まで
「武力南進」の次なる目標は、北部仏印に続いて南部仏印であった。兵力4万の第25軍(軍司令官・飯田祥二郎中将)を海南島に集結させ、その上で7月14日からフランスのビシー政府と交渉を行い、日本の要求を承諾させた。7月28日から第25軍は南部仏印に上陸を開始し、サイゴンを中心に8航空基地、サイゴン・カムラン湾に海軍基地を設定。結局、こうして日本は仏印全土を日本軍の制圧下に置いたのである。これによって、英国の東アジア支配の最大の根拠地であるシンガポールが、日本軍の空爆圏内に入ることとなった。
仏印=インドシナは、日本軍と仏印当局の二重支配下におかれ、日本軍は民族運動を厳しく弾圧していた仏印当局を使って、住民から食糧・労働力を供出させただけではなく軍事費まで負担させるという圧政を行った。この二重支配は、1945年3月に日本軍が仏印当局を攻撃して単独支配を行うようになるまで続いた。
7月2日の御前会議の決定と南部仏印への進駐計画を諜報活動で知ったアメリカは、対抗処置として7月25日に在米日本資産(5億5千万円)の凍結を発表。翌日にはイギリス、オランダも同様の措置をとった。アメリカは、さらに8月1日、日本への石油輸出の全面禁止を決定。この決定は、日中戦争を通じてアメリカと敵対関係を深めながら、そのアメリカに戦略物資面で、とりわけ最も重要な石油の供給の75%をアメリカに依存してきた日本にとっては致命的な打撃となるものであった。
この時期になると、軍部は、陸海両軍とも石油確保困難の焦りから、対米英戦の決意をさらに強めた。米国の対日石油全面禁輸決定の前日の7月30日、軍令部総長・永野修身は「油の供給源を失うこととなれば、……戦争となれば1年半にて消費し尽くすこととなるを以て、寧ろ此際打って出るの外なしとの考えなり」と天皇裕仁に上奏した。9月6日の御前会議では、裕仁は外交交渉の続行の希望を暗示させながらも、「帝国<=日本帝国>は自在自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整」し、「外交交渉に依り10月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於いては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」という内容の「帝国国策遂行要綱」の決定そのものは否認しなかった。「帝国の要求」とは、具体的には、米英が「帝国の支那事変処理に容喙し又は之を妨害せざること」、「極東に於いて帝国の国防を脅威するが如き行動に出ざること」、「帝国の所要物資獲得に協力すること」の3つであった。
ところが、国民に対して政府は、無謀な中国占領や「武力南進」の実態については説明せず、もっぱら米英支蘭が一方的に日本を包囲封鎖しつつあるという「ABCD(America, Britain, China and Dutch)包囲陣」の不当性を強調し宣伝することで、来たるべき対米英蘭戦争の正当化に努めたのである。(日本の右翼たちはいまだに、このABCD包囲網で日本経済が立ち行かなくなったため、やむなく戦争という手段に訴えたという戦前プロパガンダをそのまま戦争正当化のために使っている。)
近衛は9月6日の御前会議以降、米国との妥協策を模索し始め、10月に入ると、中国からの撤兵を陸軍大臣・東条英機に繰り返し促すようになる。ところが、中国からの撤兵を受け入れれば満州国も、引いては朝鮮統治も危うくなると考えていた東条は、近衛の提案を頑なに拒否し、10月14日の閣議で日米交渉打ち切りを力説した。これを受けて10月16日、近衛内閣はまたしても突然総辞職してしまった。(華族出身のお坊ちゃん育ちの政治家は、困難な状況にぶつかると、すぐに政権を投げ出してしまうという悪い癖がある。旧熊本藩主細川家の子孫で且つ近衛文麿の孫に当たる細川護熙も祖父同様に政権を途中で投げ出した。)
東条は、後継首班に東久邇宮稔彦王を推薦した。しかし、アメリカとの戦争の結果はひじょうに厳しいものとなると思っていた内大臣・木戸幸一は、「皇室が国民の怨府となり国体に迄及ぶ」、すなわち開戦責任が皇室や天皇にまでおよぶ危険性があるとして、これを拒否。むしろ、裕仁に忠実な東条自身に、「陛下より御命令ありて御前会議(決定)を白紙に返し更に事態を検討せしめる外ない」という考えから、東条を首相(陸軍大臣兼務)に任命することを推薦したと、木戸は戦後述べている。10月17日に東条に組閣命令が下ったが、木戸日記によると、木戸からは「9月6日の御前会議の決定にとらはるる処なく、内外の情勢を更に広く検討し、慎重なる考究を加ふることを要すとの思召し」であるという裕仁のメッセージが東条に伝えられた。また裕仁からも東条に直接、「時局重大なる事態に直面せるものと思う。此の際、陸海軍は其協力を一層密にすることに留意せよ」という言葉がかけられてはいるが、「御前会議決定の白紙撤回」要求を実際に行ったという記録は木戸日記の中には全く見当たらない。最強硬の対米開戦論者である東条を首相に任命して、「決定白紙撤回」にも触れず、戦争を回避しようなどというのは、木戸自身が認めていたように「一歩誤れば不用意に戦争に突入する」危険な賭けであった。そんな危険な賭けを勧めた木戸に、裕仁もまた「虎穴に入らずんば虎子を得ずと云うことだね」と言って賛成したのである。したがって、太平洋戦争の開戦責任をもっぱら東条に負わせるのは不当であり、木戸や裕仁にも大いに責任があったことは明らかである。
東条政権の下、10月23日以降連日、大本営政府連絡会議が開かれたが、9月6日の御前会議決定が抜本的に再検討されることはなかった。結局11月5日の御前会議で、12月初頭までに陸海軍は作戦準備を終え、12月1日午前0時までに対米交渉(日本は仏印以外には進出しないから、英米蘭は石油をはじめとする物資供給を保障せよという要求)が成功しなければ、12月8日(日本時間)に開戦ということが最終決定された。
この御前会議に先立つ11月2日、裕仁は東条に対して「<戦争の>大義名分を如何に考えるか」と質問しているが、東条は「目下研究中」としか答えられなかった。11月4日の軍事参議院会議でも東久邇宮が「聖戦の趣旨」について問いただしたのに対し、同じく「目下研究中」と述べている。一国の首相が国家創設以来の大戦争を始めようという時に、その戦争の目的すら国民に説明できないというのが、このときの日本の状況だったのである。
11月26日、アメリカ政府は最後通牒とも呼ぶべき「ハル・ノート」を日本側に提示。これによって、アメリカは日本に、中国ならびに仏印から全面撤退し、事態を満州事変前の状態に戻すことという、日本軍がとうてい受け入れないような要求をつきつけてきた。明らかにアメリカ側も、日本との全面対決で問題を解決することを決定した上での最後通告であった。
11月29日、裕仁は首相経験者である8名の重臣 – 若槻礼次郎、岡田啓介、広田弘毅、林鉃二郎、平沼騏一郎、阿部信行、米内光政、近衛文麿
– を集めて、対米交渉継続か開戦かに関する意見を聞いている。林が基本的に開戦賛成、阿部が慎重論を述べたのに対し、他の6名は全員が物資補給の面から戦争遂行は不可能であり、問題解決のためには外交交渉の継続が必要であるという意見であった。ところが裕仁は、11月30日、東条に会い、さらに海軍大臣・嶋田繁太郎と軍令部総長・永野修身を呼んで戦争遂行の是非について質問した結果、「いずれも相当の確信を以て奉答せる故、予定通り進むる様首相に伝えよ」(強調:引用者)と木戸に命じたのである。翌日12月1日には、開戦に関する最後の御前会議が開かれ、全員一致で開戦を決定。参謀総長・杉山元は、「本日の会議に於いて、お上は説明に対し一々頷かれ何等御不安の様子を拝せず、御気色麗しきやに拝し恐懼感激の至りなり」というメモを残している。この会議の最後に、裕仁は「此の様になることは已むを得ぬことだ。どうか陸海軍はよく協調してやれ」(強調:引用者)と出席者を鼓舞している。戦後、裕仁は、「開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲君主として已おえぬ事である」と述べているが、戦前・戦中の天皇制が「立憲君主制」であったなどとはとうてい言えないし、裕仁自身が最終的には東条内閣の開戦決定をかなり積極的に支持したことは間違いないのである。
結論:対米英開戦の原因と最終的結果
結局、対米英開戦の原因と最終的な結果については、以下のように要約できるであろう。
(1)侵略戦争である日中戦争の成果をなんとしても護持し、中国からの撤兵要求ではあくまでも妥協しないという日本の頑固な態度が日米交渉を決裂させ、対米英戦へと繋がった。その意味で、アジア太平洋戦争はまさに日中戦争の延長であった。したがって、日中戦争の原因を明確にしないで、アジア太平洋戦争の原因を理解することは不可能である。
(2)日中戦争の長期化とその結果の武力南進政策によって、日本は米英との対立を深めながら、しかし同時に経済的には強く依存せざるをえないという矛盾をますます悪化させていった。米英という先進資本主義国家との「政治的対立」と「経済的依存」というこの矛盾が、後進資本主義国家=日本帝国主義が内包していた重大な問題であり、武力では解決不可能なこの矛盾を、無謀にも暴力的手段で一挙に解決しようと試み、未曾有の悲劇的な結果に終わったのがアジア太平洋戦争であった。
(3)アメリカが「ハル・ノート」で日本に突きつけてきたのは、満州事変以来、東アジアからインンドシナ半島へと際限もない暴力的拡大を続けてきた日本帝国主義に対する、米英覇権からの全面的且つ根底的な対決宣言であった。しかしながら、同時に、「ハル・ノート」には、明らかに「大西洋憲章」(1941年8月14日発表)で謳われていた反軍事膨張主義、反ファシズムの理念が反映されていた。家永三郎も名著『戦争責任』で指摘しているように、「ハル・ノート」はその意味でポツダム宣言の原型と称せるものであり、「ハル・ノート」を発展させたものがポツダム宣言であり、それが「平和憲法」にまで一貫して繋がっているのである。「ハル・ノート」を拒否して対米英戦へと突き進んだ日本は、最終的には、2千数百万人という膨大な数のアジアの様々な人々と310万人にのぼる自国民を死に追いやり、米軍の原爆を含む無差別爆撃で国土を焦土化したあげく、ようやくポツダム宣言を受諾して降伏した。こうした結果から考えるならば、「ハル・ノート」を最初から受け入れていた方が、よほど賢明であったことは明らかである。「いったい、何のために戦争をしたのか」という悔恨の問いは、ほとんどの戦争の後で常に問われる間抜けた問いであるが、なぜか人間はこの間抜けた悔恨の問いを数千年もの間繰り返している。その犠牲になった人間の総数は、間違いなく億単位の数字であろう。