2018年3月23日金曜日

ノーベル平和賞と核兵器問題についての私見

- 平和賞に観る「反核運動」の政治的虚脱化

この論考は、近く発行されるHibaku Studies2018年春創刊号(編集発行:被ばくの歴史平和学市民コンソーシアム全国事務局)に掲載予定です。

受賞選考基準のいかがわしさ
  2017年のノーベル平和賞にはICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)が選ばれ、米国による広島・長崎での原爆無差別殺戮という体験から、反核運動を強く推進してきた日本の被爆者団体と反核市民運動諸組織が大喜びしたことは記憶に新しい。しかし、ノーベル平和賞受賞を諸手を挙げて喜んでよいのかどうか、私は発表当時から強い違和感を持たざるをえなかった。それにはいろいろな理由があるが、最も大きな理由は「ノーベル平和賞」を選考するノルウェー・ノーベル平和賞委員会自体の、「受賞者選考」基準の「いかがわしさ」にある。

  周知のように、ノーベル平和賞は、5部門あるノーベル賞の中で唯一、スウェーデン政府ではなくノルウェー政府が授与主体となっている賞であるが、これは平和賞がスウェーデンとノルウェーの両国の「和解と平和」を祈念して設置されたという背景から来ている。受賞の対象となるのは、元々は「国家間の友好関係、軍備の削減・廃止、及び平和会議の開催・推進のために最大・最善の貢献をした人物・団体」という限定であったが、いつの頃からか、人権擁護、非暴力的手段による民主化や民族独立運動、慈善事業、保健衛生の推進や環境保護などの分野で活躍した人物・団体もその対象に加えられるようになった。つまり、「平和」の範疇の中に、ヨハン・ガルトゥングの提唱する「積極的平和」が含まれている形になっているが、その「平和」の広範な定義自体は賞賛すべきことである。

  問題は、ノーベル平和賞委員会が選ぶ受賞者/団体である。例えば、選考の「おかしさ」としてしばしば例に挙げられるのは、ベトナム戦争中の1973年に「パリ協定調印」結実のために努力したという理由で、当時の米国務長官ヘンリー・キッシンジャーとベトナム民主共和国政治局員のレ・ドゥク・トの2人が共同受賞者に選ばれた。レ・ドゥク・トは、「ベトナムに平和はいまだ達成されていない」という至極当然の理由から、受賞を辞退。(ちなみに、これまで平和賞を辞退したのはレ・ドゥク・ト唯一人である。なお、これまでにノーベル賞全部門で授与を辞退した人物は彼を含めて4人で、そのうちの一人は文学賞を辞退したジャンポール・サルトル。サルトルは「賞と名のつくものはジャガイモ一袋すら拒否する」とあらゆる賞の受賞を拒否した。)ところが、キッシンジャーは厚顔無恥にも授与式に堂々と出かけ、その後もアメリカの軍事介入が1975年4月まで続いたことは改めて述べるまでもないであろう。授賞式の73年末から75年4月までに、どれだけ多くのベトナム人が殺害されたことか。いや、それ以前に猛烈な北爆で無数の市民を殺傷した責任の一端は一体誰にあるのか、と問いただしたい。

  選考の「おかしさ」のもう一つの例証として引用されるのが、1994年の「パレスチナ和平合意締結」に貢献したという理由から共同受賞者に選ばれた、当時のイスラエル首相イツハク・ラビンと外相シモン・ペレス、PLO(パレスチナ解放機構)議長・ヤーセル・アラファットの3人である。この「和平合意」はほんの短期間しか続かず、再び武力紛争が起こり、以来これまで、主としてイスラエル軍の無差別殺傷でどれほど多くの幼児・子供を含むパレスチナ市民が犠牲者になったことか。しかもアラファトは、密かに放射性物質ポロニュウムで毒殺された。こんなことで驚いてはいけない。実は、(実際に受賞はしていないが)平和賞に推薦された人物の中には、イタリアのムッソリーニ、ソ連のスターリン、アルゼンチンのペロン夫妻といった、自国民を多数殺害した独裁者が含まれている。

  さらに問題なのは、平和賞受賞者が、受賞後に「平和賞」の名に値する活動を止めてしまうどころか、逆に、平和を破壊するような行動をとる場合も稀にではあるが起きている。例えば、非暴力でのミャンマー民主化運動で1991年に受賞したアウンサンスーチーは、2017年からミャンマー治安部隊が行っているイスラム教徒の少数民族ロヒンギャに対する殺害・強姦・(70万人にのぼる)強制国外追放などの「人道に対する罪」を、彼女が国家顧問という最高権力の座にありながら傍観し続け、事実上黙認している。読者の中には驚かれる人もいるかもしれないが、後述するように、バラク・オバマの場合もこれと同様のケースに当てはまる。

  では、これまで「核軍縮・核廃絶運動」で平和賞を受賞した人物・団体の功績には、どのようなものがあったであろうか。私が知る限り、核問題関連で平和賞を受賞したのは、1974年の佐藤栄作(元日本国首相)、1985年のIPPNW(核戦争防止国際医師会議)、1995年のパグウォシュ会議と同会議メンバーの物理学者ジョセフ・ロートブラット、2005年のIAEA(国際原子力機関)とIAEA第4代事務局長を務めたモハメド・エルバラダイ、2009年のバラク・オバマ(当時米国大統領)、そして昨年のICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)の4個人と4団体である。(まだ他にもあるかもしれないが、思いつかない。もしあるようなら、読者からご教示をいただきたい。)

冷戦期の受賞者/団体
  佐藤栄作(安倍晋太郎の大叔父)の受賞理由は、彼が首相として1967年末に表明した、いわゆる非核三原則「核兵器は持たず、作らず、持ち込ませず」を導入したこととアジア平和構築での貢献であった。この受賞のためには、当時、国連大使だった加瀬俊一や元自民党議員で鹿島建設会長の鹿島守之助などが盛んにロビー活動を行ったことは周知のところである。このロビー活動で、おそらくかなりの額の現金が使われたのではないかと想像する。ところが、佐藤は、実際には、米国との沖縄返還交渉の際に、米国側の要請で「有事の際には、沖縄への核兵器持ち込み及び通過を事前協議の上で認める」という内容の密約をニクソン政権と結んでいたことが、交渉の密使を務めた若宮泉によって、1994年になって明らかにされた。つまり、佐藤は、国民には文字通り大嘘をついていたわけである。

  ノーベル平和賞委員会もこの事実を認め、2001年に出版した『ノーベル賞平和への百年』という記念誌の中で、「佐藤氏はベトナム戦争で、米国の政策を全面的に支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。後に公開された米公文書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた」と記した。かくして、受賞理由が事実とは異なっていただけではなく、佐藤が原則的に核武装に反対していなかったのであり、したがって佐藤を選んだことは「ノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」と述べて、当時の選考を強く批判した。佐藤は核武装に反対していなかったどころか、佐藤政権下では日本の核兵器製造ならびに核兵器運搬手段(=ロケット技術)に関する複数の研究・検討が内閣、外務省、防衛庁、海上自衛隊幹部などによって、半ば公式に、半ば私的形式で精力的に行われたのである。

  佐藤の妻・寛子や息子・信二によると、佐藤は家庭内でかなり暴力的であったようで、在任中にはアメリカの雑誌で「wife beater(=妻を殴る夫)と紹介されたことがあるとのこと。現在の表現を使えば、「家庭内暴力DV」を振るう男であったようだ。これがノーベル平和賞受賞者の実際の姿だったのである。

  IPPNWは、冷戦期の大気圏核実験による放射性降下物が人体に及ぼす影響に深く懸念した米国ボストンの医師たちを中心にして組織された「PSR社会的責任遂行のための医師団」が母体で、このPSRがソ連の医師たちに、核戦争防止の世界的規模での運動組織を立ち上げることを提案。その結果、IPPNWが1980年末に創設され、一時は83カ国から約20万人近い医師・医学生その他の医療関連職業従事者がメンバーとなった。組織が立ち上げられてからわずか5年後のノーベル平和賞受賞という目覚ましい活躍であり、その後の運動でも活躍が期待された(受賞当時の副会長はオーストラリアの緩和ケア専門医イアン・マドックス。高齢で退職しておりもはや活動もしていないが、個人的に私は今も親しくしている)。ところが、東西冷戦が終結し1991年にソ連が崩壊すると、核戦争の危機が薄らいだという考えが世界的潮流となったためか、IPPNWの活動もすっかり活発さを失った。現在も、「核兵器廃絶」を唱えて、2〜3年毎に世界会議を開き、一応運動は続けているが、参加国も64カ国にまで減っている。現在4名の共同代表がいるが、その一人が、 ICAN創設者の一人であるオーストラリアの医師ティルマン・ラフである。

  問題は、医療関係者の反核組織でありながら、原発事故やウラン採掘による放射能汚染の影響に関してはほとんど無関心、というよりは、私には、いわゆる「核の平和的利用」による放射能汚染問題を取り扱うことを意図的に避けているように思えてしかたがないのである。例外は、原発反対を強く主張しているIPPNWのドイツ支部であるが、これはドイツ支部にはセバスチャン・プフルーグバイルというドイツ放射線防護協会会長がメンバーとして頑張っているからで、彼はチェルノブイリ原発事故以来、反原発運動をドイツで強く推進してきた人物である。それだけではなく、彼はもともと東ドイツ市民であり、東ドイツにはウラン鉱山があって、冷戦時代にはこの鉱山で採掘された大量のウランがソ連の核兵器製造に使われたが、その採掘作業中に放出された放射能で多くの鉱山労働者が死亡しているという、世界でほとんど知られていない事実についても多くの情報を持っているからである(私も、この事実をプフルーグバイルから個人的に教えてもらうまで全く知らなかった)。彼は、IPPNWが原発・ウラン採掘問題を取り扱わないという方針に対してひじょうに批判的で、福島原発事故の後、数回、日本を訪れて各地で講演を行っているので、ご承知の人も多いかと思う。

冷戦後の受賞者/団体
  1995年に平和賞を受賞したパグウォシュ会議は、「核兵器と戦争の廃絶」を訴えて1957年7月に、カナダのパグウオッシュに10カ国から22人の科学者が集まって会議を開いたことが出発点であった。共同受賞者であるポーランド出身で英国に移住した物理学者ジョセフ・ロートブラットは、この第1回パグウオッシュ会議に最も若い物理学者として参加した。日本からは、戦時中に日本の原爆開発研究プロジェクトに加わっていた湯川秀樹をはじめ朝永振一郎、小川岩雄が参加。もともとこの会議の発端は、1955年に英国の哲学者バートランド・ラッセルと物理学者アルバート・アインシュタインが、米ソの水爆実験競争を踏まえて、核兵器が持つ人類破壊的な危険性を強調し、米ソならびに世界の政治指導者たちに向けて国際紛争の解決を迫った「ラッセル・アインシュタイン宣言」 であった。ところがこの会議は、2回目の会議からすでに内部抗争が始まり、「核廃絶」を唱えるラッセルと「核抑止力による平和維持」を主張するレオ・シラード(マンハッタン計画に参加した科学者)が対立。次第に「核抑止力派」が力を強め、1964年の第12回会議では、「最小限核抑止の原則は、全面軍縮に至るための最も有効な道」という方針が採択されるまでになってしまった。

  その後も内部抗争は続き、米英ソ各国がこのパグウオッシュ会議を政治的に利用するという事態が続いた。また、運営資金として寄付金を様々な企業から受け取っており、ノーベル平和賞を授与された年の1995年7月には広島で会議が開かれたが、この会議では日本の原発関連企業から大口寄付を受けたと言われている。ロートブラット自身は、マンハッタン計画に参加はしたが、ドイツがもはや原爆を開発する能力がないと分かった1944年末の段階で、核兵器製造研究から降りることを希望し、広島・長崎に対して原爆が使われたことにも批判的であった。戦後はパグウオッシュ会議に核兵器廃絶主義者として長年貢献し、原子力研究は医学目的にのみ使われるべきだという信念を持ち続けた。しかし、パグウオッシュ会議同様に、原発やウラン採掘に反対の声を上げることはなかった。現在もパグウオッシュは核兵器のみならず大量破壊兵器の廃絶を訴えてはいるが、市民運動というよりは、どちらかといえば、いわゆるエリート科学者たちの知的活動にとどまっており、実際の大量破壊兵器廃絶に目立った影響力を及ぼすほどの組織とはなっていない。

  IAEA(国際原子力機関)は、周知の通り、事実上、原発推進の世界組織であり、核兵器問題では、NPT(核不拡散)条約で認められている米露英仏中の5カ国の核兵器保有国以外の条約署名国で、核兵器製造が行なわれていないかを査察する権限を持っている国際機関である。IAEAが設置された背景は、もう改めて説明するまでもないと思うが、1953年12月8日に当時の米国大統領ドワイト・アイゼンハワーが国連総会で行った演説「Atoms for Peace(平和のための核)」(演説の内容は、実際には、ソ連に対する米国の核兵器力の優位性誇示であった)にまで遡ることができる。親米国家に対して原発技術を輸出するが、同時に核兵器製造能力開発のための原子力技術の転用を許さないというアメリカ(ならびにアメリカに追従する当時の西側でのもう一つの核保有国・英国)と、同じような政策を共産圏でも採用するソ連も、核兵保有国による差別的な核管理制度化のための世界組織を設置することに賛成。その結果、1957年に設置されたのがIAEAである。

  原発推進組織であるから、当然、原発稼働や原発事故、ウラン採掘などで発生する放射能汚染に対してはひじょうに甘い規制しか要求しないことも、チェルノブイリや福島での原発事故へのIAEAの対応でも明らかなところである。核大国の出先機関のような役割を果たしているこのIAEAと、そのIAEAの法律顧問と事務局長補佐を長年務めたのちに、1997年から3期も事務局長の座を占めたモハメド・エルバラダイが、「原子力が軍事目的に利用されることを防止し、平和目的のための原子力が可能な限り安全な方法で利用されることを確保するために努力」したというのが、ノーベル平和賞委員会の授与推薦理由である。核兵器は、実際には、イスラエル、インド、パキスタン、北朝鮮が次々と製造・保有し、日本、イラク、シリアなどをはじめ幾つもの国が製造能力を十分持っている事態が、IAEAの「核管理」の下で作られてきたし、核兵器(とりわけ小型核兵器)拡散の危険性はテロ組織の活発化によって、近年、にわかに高まっており、いまやキッシンジャーですら「核兵器廃絶」を唱えている。チェルノブイリや福島での原発大事故を防げるような「安全利用の確保」にもIAEAは全く無能であることは、言うまでもない。

バラク・オバマとICANの受賞
  2009年のバラク・オバマへの授与の理由も、全く実質的な意味がない単なる「核廃絶の希望」を述べただけの演説を、「<核なき世界に向けた国際社会への働きかけ」であると評価した結果であった。演説内容を注意して読んでみれば、私は、甘い考えを持ってはいない。この目標は、直ちに達成されるではない - 恐らく、私の生きている間は無理であろう合衆国は、これらの兵器が存在する限り、如何なる敵をも抑止し、同盟諸国 - チェコ共和国を含む - の防衛を保証するために、安全かつ効果的な兵器を保持しける」と述べた。核兵器は抑止力として断固保有し続けるし、核廃絶は自分の生きている間は無理だと主張して、「核なき世界」に向けた国際社会への具体的な提案など、全くなにもしなかったのである。こんな演説なら、オバマでなくても誰でもできる。

  しかも、この演説で平和賞を受賞したにもかかわらず、オバマは在任中に核兵器未臨界実験を少なくとも5回行うことを許可した。オバマ政権下の2011年2月に米露間で発効した新START(第四次戦略核兵器削減条約)によって、確かに米露両国の戦略核弾頭配備数だけは大幅に減少した。しかし、ミサイルから取り外された核弾頭が即時に廃棄処分されるわけではなく、オバマ政権下のアメリカでは、取り外された核弾頭のうち4,600発以上をできるだけ長期にわたって維持するための「寿命延長計画」に多額の予算が注ぎ込まれた。2014年1月に、米国の民間団体であるジェームズ・マーティン核不拡散研究センターが出版した『1兆ドル戦略核戦力:今後30年にわたるアメリカ戦略現代化』によると、当時のオバマ政権の米国政府は、既存の核兵器製造工場の維持・改修と核兵器・核爆弾の改良に2014年以降の30年間で1兆ドル(約100兆円)を使う予定を立てたとのこと。これはもう正気の沙汰ではない。1964年に公開されたスタンリー・キューブリック監督製作の映画『博士の異常な愛情』でまざまざと映し出された核兵器をめぐる「狂気」が、決してフィクションなどではないことが、大量破壊兵器に使われるこの100兆円という数字に現実のものとして表れている。

  かくして、北朝鮮やイランに核兵器開発・保有をやめるよう軍事力で圧力をかけていた米国が(そしてその状況は今も全く同じであるが)、ノーベル平和賞を受賞した大統領の下で大量の核兵器を抱え込み、それらを少しでも長く維持するだけではなく、より強力な小型核兵器の開発にやっきになっていたという皮肉な状況であった。実は、オバマ政権で使われた核兵器関連予算額は、その前のブッシュ政権下の額よりもダントツに増えたのである。トランプ政権の核兵器政策はオバマ政権の政策をほとんどそのまま維持しようとしているのであり、オバマ政権との違いは、オバマ政権がその内実にはできるだけ言及せずに、建前上は様々な美辞麗句で隠蔽しようとしていたのに対し、トランプはあからさまに核軍事力を誇示しているということだけである。ところが、メディアはなぜかこの事実については報道しないどころか、今も「核兵器廃絶を唱えたすばらしい元米国大統領」という虚妄のイメージだけを拡散させているという、なんともだらしない状況である。日本のジャーナリストたちは、いったいどんな調査をしているのだろうか。オバマ政権下では、無人爆撃機ドローンによる対テロ「精密爆撃」も急増したが、この「精密爆撃」で病院や学校が攻撃され、多くの市民が殺傷された事実も、なぜかメディアは報道しない。

  2017年の受賞団体ICANは、その10年前に、もともとはIPPNWオーストラリア支部のティルマン・ラフを中心にメルボルンで創設された組織である。前述したように、IPPNWは東西冷戦終焉後から活動が不活発になったため、医師や医療関係者だけをメンバーとする組織ではなく、もっと広範な市民を巻き込む形での反核団体を作り上げることで、反核兵器運動を再度盛り上げたいというラフの考えのもとに始められたものである。すでに存在しているIPPNWのネットワークを活用したため、メンバーを増やし組織を拡大させるにもそれほど長い時間はかからなかった。その意味では、ひじょうにうまい活動拡大戦術だったと思う。

  確かにICANは、核兵器の開発・保有・使用などを全面禁止する「核兵器禁止条約」が2017年7月に国連で採択されるために、市民運動側からその動きを強く推進したという点で大きく貢献したことは間違いない。「核兵器禁止条約」の国連採択は、核廃絶というひじょうに困難な目標に向けての一歩前進であることも間違いない。しかし、条約採択で122カ国が賛成したにもかかわらず、2018年3月22日の段階で署名した国は57カ国、批准した国の数はわずか6カ国(ガイアナ、タイ、バチカン、メキシコ、キューバ、オーストリア)。50カ国が批准しない限り実際には発効しないし、しかも、既存の核保有国(米露中英仏とイスラエル、インド、パキスタン、北朝鮮)はどこもこの条約を無視しているのが現状である。さらに、この条約にはなんら法的拘束力がない。その意味では、たとえ発効したとしても、肝心の核保有諸国が動かなければ、NPT(核不拡散条約)と内実はなにも変わらないことになる。

  反核運動でノーベル平和賞を授与された団体だけではなく、国内外の他の多くの反核運動組織の活動を見ていると、「核兵器廃絶(あるいは核軍縮)」は強く訴えるのであるが、核兵器保有体制をこれほどまでに強固なものにしている世界の政治社会体制とは一体何なのかという根本的な問題についてはほとんど考えていない。これが私には、反核運動の大きな弱点であると思えてしかたがない。「核兵器で無差別に大量の市民を瞬時の間に殺戮することは、決して許されてはならない」という心情はもちろんよく分かるし、そこが反核運動の原点であると私も強く信じている。しかし、その心情だけでいくら「核兵器廃絶」を訴えても、核保有体制それは現実には核抑止力体制(それは本質的には核威嚇という「平和に対する罪」という犯罪行為) - はこれまで微動だにしなかったし、今後もしないであろう。

  ICANのノーベル平和賞受賞が、北朝鮮の核弾頭搭載可能なミサイル発射実験の繰り返しをめぐって米国が核兵器使用をちらつかせる恫喝的な発言を行ったときと時を同じくしていたことは、我々の記憶に新しい。ICANはこれに対して、相変わらず、繰り返し「核兵器廃絶」を訴えただけであった。本当はICANがここで世界に向けて問うべきだったのは、「いったいなぜそこまで北朝鮮は核兵器と核兵器運搬の開発にやっきになるのか」ということであった。つまり、軍事大国アメリカの「パックス・アメリカーナ」という世界支配体制が生み出している諸問題、これを問わずして、核兵器問題に関する意味のある議論は、実際には成り立たないのである。

  「パックス・アメリカーナ」という支配体制を問わずして、ロシアや中国の核戦略体制を議論することも、もちろん意味をなさない。「パックス・アメリカーナ」という支配体制を問わずして、日米軍事同盟や沖縄基地問題を議論することも無意味であるし、日本の米国核抑止力支持を議論することも意味をなさないのは自明のことである(この重要な「パックス・アメリカーナ」の問題については、ジョン・ダワーの近著『アメリカ 暴力の世紀』を参照されたし)。つまり、米国をはじめ核保有諸国の軍事支配体制、核戦略以外の戦争戦略、外交政策などに関する諸問題を全く切り離して、「核兵器」だけをいくら取り上げても、「核廃絶」はオバマが馬鹿正直に述べたように、彼の生きている間だけではなく、人類が生存し続ける限りなくなりはしない。

  「核廃絶」のために我々が考えなければならないのは、「パックス・アメリカーナ」という米国の世界支配政策を、いかにしたら国際協調主義政策に変革していくことができるかということである。そのための有効な手段の一つとしては、アメリカの大多数の市民が、広島・長崎に対する原爆無差別殺戮が重大な「人道に対する罪」であったことを深く認識するようになり、アメリカ政府もその罪の責任を明確に認め、被害者に対して謝罪するような状況を我々が作り出していくこと。そのことによって、核兵器は使わなくとも、様々な残虐な武器で、いまも世界各地で多くの市民を無差別殺傷の対象にしている現在のアメリカの「パックス・アメリカーナ」政策に、少しでも風穴を開けていく努力をしていくことではないかと私は以前から考え、機会があるごとに述べてきた。しかし、そのためには、我々日本の市民もまた、自国が15年という長期にわたってアジア・太平洋各地で犯した様々な日本軍の残虐行為の罪を日本政府がはっきりと認め、それに対する責任をとるという正義を果たすようにさせていくことが必要であることは言うまでもない。異なった(国家)共同体の成員である我々が、「ともに生きていく」ためには、自己の所属する共同体成員がその共同体の名前で他の共同体の成員に対して犯した過失や犯罪行為について、共同体としての集団責任をとるという正義を果たさなければ、共生共存は不可能なのである。自己の所属する共同体の(現在と過去の両方の)行為を厳しく自己検証することは、したがって、共同体間関係=国際関係の平和構築には不可欠な行為であると私は考える。

  ICANを褒め讃える広島の反核活動家仲間からの批判を承知で正直に述べるが、アメリカの世界支配政策を全く考慮に入れないICANの今のままのキャンペーンのスタイルでは、核廃絶にはほとんど役立たないというのが私の考えである。1973年、レ・ドゥク・トが、ベトナムに平和はいまだ達成されていないという理由から受賞を辞退したように、ICANも、「核廃絶がいまだ達成されていないので、受賞は辞退する」と述べるべきだった、と私は思っている。そのほうが、よほど世界の市民に感動と勇気を与えただろうし、今後のノーベル平和賞の授与決定にも、多少なりとも良い意味での影響を及ぼしたであろうとも思っている。実際には、結局、単なるお祭り騒ぎの自己賛美で終わってしまったのではないか、というのが私の率直な感想である。ちなみに、日本では「憲法9条にノーベル平和賞を」、「高校生平和大使活動に平和賞」といった運動もあるようだが、これほど無意味な運動はないと私は考えている。

  ICANのもう一つの問題は、核兵器製造の原点の問題、すなわちウラン採掘と原発稼働によるウラン濃縮の問題にはほとんど関与しないという弱点である。この点では、IPPNWやパグウオッシュと同じ弱点を抱えている。先にも述べたように、文字通り「核兵器」だけを対象としており、核兵器製造にかかせないウランとウラン濃縮にはほとんど言及しない。その点、福島原発事故で多くの被害者がいまも苦しい生活を強いられている日本のICAN日本は、原発とウラン問題をとりあげないわけにはいかない状況におかれているため、少々、活動の幅が広くなっているという点で、ICAN本部や他の国のICANの運動形態とは異なっている。この点については、積極的に評価してよい。

  余談になるが、実はティルマン・ラフは、ICANを設置する前までは、オーストラリアのウラン採掘に対しても鋭い批判を行っており、私は彼のウラン採掘問題に関する知識の深さに感心していた。ところが、理由はわからないが、ICAN設置とともに、彼はウラン採掘問題に関してほとんど言及しなくなったし、ICAN自体もウラン採掘や原子力問題にはほとんど言及しないという方針をとった。福島原発事故が起きた時、ラフは日本政府の原発事故に対する対応や原子力政策をさかんに批判したが、福島原発の核燃料がオーストラリアから輸入されたものであることについても言及しなかった。(少々個人的な話になるが、そのことを私は公の場で批判した。そのあとで、私は彼と直接会って私の批判内容を説明もした。そのとき彼は、彼の日本のある知人が、「ラフは企業から金をもらってウラン採掘に言及しなくなったと、田中は中傷誹謗している」と彼に伝えたと言って、私に向かっておおいに憤慨した。これに対する私の返答は、「私は君を今でも尊敬しているし、そんな馬鹿げたことを言ったり書いたりするはずがない。そのような証拠があるなら見せて欲しい」と述べておいた。)その後、ICANオーストラリアもウラン採掘問題を多少は取り上げるようにはなったが、私から見れば、取り扱い方がまだまだ副次的であるとしか思えない。1970〜80年代にはオーストラリアのウラン採掘反対運動はひじょうに強かったが、現在では、全く弱体化してしまっている。(オーストラリアのウラン採掘問題については、拙論「私たちは原発の動力源を忘れてはいないか?ウラン問題再考」を参照されたし。
 
結論: 平和賞が反核運動を虚脱化する
  こうして反核運動でノーベル平和賞を授与された過去のケースを検討してみると、平和賞の授与が、既存の政治社会体制を認めたままでの俗に言う意味での「反核運動」にとどまっていることに気がつくはずである。すでに述べたように、受賞対象である「反核運動」は、IPPMW、パグウオッシュ、ICANのように、米露を初めとする核保有国の「核保有」そのものと「核抑止力」だけを批判するにとどまっているか、あるいは佐藤栄作、IAEA・エルバラダイやオバマのケースのように、核保有国の「核兵器維持・拡大政策」の隠蔽を行っている似非「反核運動」である。

  佐藤栄作、IAEA・エルバラダイやオバマのケースは改めて批判する必要もないであろうが、しかし重大な問題は、これらの受賞ケースは、本来「核兵器」とは一体何なのかという、核兵器の根本的な問題を問う意欲を、世界の一般市民から削いでしまっているということである。換言するならば、形だけ、うわべだけの「反核運動」に平和賞を授与することで、「核兵器は重大な問題であるが、廃絶はもちろん削減も容易ではない」という現実肯定論、すなわち核兵器容認論を、実は無意識のうちに世界中の市民に浸透させてしまっているという、この現実である。つまり、これらの場合は、彼らがやった本来はひじょうに政治的な欺瞞行為の意味を、平和賞が「政治的に無意味化」してしまうという機能を働かせている。

  一方、IPPMW、パグウオッシュ、ICANの「反核運動」には、核保有体制の背後にある大きな問題、すなわち、ひじょうに重要な2つの問題があることを捨象してしまっているというということを、この拙論ではすでに指摘しておいた。それをもう一度述べておきたい。

  この2つの問題は、ひじょうに困難な問題であるが、これを「反核運動」と切り離してしまっては、最終的な目的達成は不可能である。その一つは、核保有体制を支えている各核保有国の政治社会体制、とりわけ米国の「パックス・アメリカーナ」という世界軍事支配体制をいかに崩していくかという思考と方法論である。それを、「反核運動」の思考と方法論と密接に結合させていかなければ、「核廃絶」への厳しい道を切り開いていくことは不可能なのである。もう一つは、核兵器製造の原点である、ウラン採掘とウラン濃縮をいかに停止させるかが決定的に重要な課題である。「パックス・アメリカーナ」と「ウラン採掘・濃縮」を黙認したままの「反核運動」では、「核廃絶」が達成できないことは自明である。

  ノーベル平和賞の授与は、授与された個人/団体の思想や活動を全面的に権威化あるいは神聖化してしまい、その思想や活動方法が全て正しいかのような印象を世界中に拡散させるという機能がある。ICANの場合も、ノーベル平和賞委員会が、核保有問題の裏にある政治社会支配体制を根本的には問わないというICANのスタンスをそのまま認めながら、その「反核運動」を賞賛、賛美することで、その「反核運動」を実質的には非政治化し、運動力を削いでしまっている。ところが、世界的に賞賛を浴びた受賞個人/団体を、たとえ積極的な意味であっても、批判することはひじょうに困難になる。私はこの現象を、「ノーベル平和賞による平和活動の政治的虚脱化」と呼ぶ。

  「平和活動の政治的虚脱化」を避けるためには、ノーベル平和賞だけではなく、いかなる賞の受賞も拒否すべきだと私は考えている。ジャンポール・サルトルが「賞と名のつくものはジャガイモ一袋であろうと拒否する」と述べたのは、賞を受け権威化、神聖化されることで、自分自信の思想・行動が「政治的に虚脱化される」ことを恐れたからではなかろうか、と私は思う。そのことは、以下のようなサルトル自身のノーベル賞受賞拒否の理由の説明からも明らかであると私は考えている。
「わたしはノーベル文学賞を拒否しました。なぜならば、わたしは自分が死ぬ前に人が“サルト ル”を神聖化することを望まないからです。いかなる芸術家も、いかなる作家も、そしていかなる人も、生きている間に神聖化されるだけの価値のある人はいません。なぜならば、人は全てを変えてしまうだけの自由と力をいつも持っているからです。ですから、ノーベル文学賞というものがわたしを名誉の絶頂に押し上げてしまうとしたら、わたしは現在完成しているものを終わらせることができませんし、またわたしは自分の自由というものを行使することもできませんし、 行為をおこすということもできなくなりますし、コミットメントをすることもできなくなります。このノーベル文学賞の後では、すべてがつまらぬものになってしまいます。なぜならば、すべてが回顧的な価値を認めるだけのものになってしまうからです。想像してごらんなさい。栄誉を得て、そしてその後転落していく作家と、栄誉はないが常に今歩前進していく作家と、この2つの作家のうち、どちらが本当に栄誉に値するのでしょうか。常に、今歩前進して自分の可能性の頂点に向かっていく人と、頂点に到達することなく神聖視されてしまった人、どちらでしょうか。わたしは、この2つのうちの1つになることはできていたでしょう。しかし、わたしがどんな可能性があるかは誰もいうことはできなかったはずです。人というものは、その人がなしえたものがその人であるのです。わたしは、行為することができる間は、絶対にノーベル賞を受け取ることはないでしょう。」 (強調:引用者)

- 終わり 

田中利幸
(歴史家)

2018年3月13日火曜日

15年戦争史概観(II)


- 戦争責任問題を考えるための予備知識 - 

(2)日中全面戦争への道



前回の満州国成立の経緯に関する最後の部分で説明が少し足りなかったようなので、最初にその部分を補足しておきます。

今回の(2)の部分は、したがって、実際には満州国運営の実相から始まります。しかし、書き出してみたら、日中戦争の歴史的背景をいくら簡潔に説明するにしても、当初考えていたより少々長くなりそうで、読んでいただくにも1回ではたいへんだと思います。そこで、今回「日中全面戦争への道」と次回「日中全面戦争」の2回に分けることにしました。ご笑覧いただき、ご批評いただければ幸いです。



前回「(1)張作霖暗殺、満州事変から満州国成立へ」の補論

  1931年9月18日の関東軍の陰謀による、奉天郊外の柳条湖の満鉄線路爆破とそれに続く満州各地への日本軍侵攻は、中国各地における抗日運動を激化させ、特に上海では、9月22日に上海抗日救国委員会が、10月19日には対日経済絶交実施委員会が立ち上げられ、日貨排斥という対日ボイコット運動が起きた。これによって、上海を拠点にする日本の企業や商社は大打撃を受けた。関東軍参謀・板垣征四郎大佐は、満州国建設という謀略から国際世論の注目を、とりわけ米英両国の注意をそらすために、上海でのこの不安定な情勢を利用することを考え、上海駐在公使館付陸軍武官補佐・田中隆吉少佐に暴力事件を画策することで協力を要請。田中は、1932年1月18日、市内を歩いていた日本山妙法寺の僧侶と信者5人を、買収した数十人の中国人に襲わせ、重軽傷を負わせ、その結果、一人が数日後に死亡。これに対し、真相を知らない日本人居留民も暴動を起こし、排日絶滅運動を日本軍に要請。上海総領事は上海市長に抗議し、海軍が戦艦と陸戦隊を上海に派遣したため、28日には中国軍と激しい市街戦が開始された。これが後に、「第1次上海事件」と呼ばれるようなった事件の真相である。

  列強諸国、とりわけ対中国投資の8割ほどが上海に集中していた英国は、満州の場合とは異なって、日本の武力行動に強く反発。2月2日に、英米仏の三ヶ国駐日大使が日本政府に即時戦闘停止を要求した。3月下旬から国際連盟の勧告のもとに、日中両国と英米仏伊の4カ国による停戦会議が開始され、5月5日に停戦協定が成立。この戦闘策動で日本軍は、上海から撤退するまでに自軍に3,091名という死傷者を出した。これらの日本兵死傷者は、満州国建設のために列強諸国の注意を華南に釘付けにするという板垣の謀略の犠牲にされたわけである。

  柳条湖満鉄爆破事件と満州国設置の調査のために国際連盟が派遣したリットン調査団の報告書が、1932年10月に発表された。報告書は、日本の軍事行動を「自衛行為」とは認めず、満州国が日本の傀儡政権(名目上は独立国でありながら、実際には他国によって管理・統制・指揮されている政権)であると断定し、満州国が設置された中国東北部を国際連盟の管理下に置くことを提案した。この報告書が国際連盟で審議されている最中に、関東軍は、今度は満州と華北の間にある熱河省(「省」は中国の行政区分で最上位のもの)を占領する計画を立て、1933年2月に熱河省に侵攻するという暴挙を行った。この無謀な行動がさらに列強を怒らせ、米国大統領ルーズベルトは「満州国全面不承認」を発表した。2月4日、国際連盟はリットン報告書を採択し、満州国不承認を可決(報告書に対する賛成42、反対1<日本>、棄権1<シャム>)。日本代表の松岡洋右(元満鉄副総裁)は、その場で日本の国際連盟からの脱退を通告して退場。3月27日に、日本政府は、国際連盟脱退を正式に通告した。こうして日本は、ますます自国を孤立化させていった。



日中全面戦争への道

満州国運営の実相

  上述したように、東三省(遼寧省、吉林省、黒龍省)地域、すなわち満州全域を一応占領した関東軍は、国際連盟でリットン調査団報告書が審議されている1933年2月17日に、満州国南部に隣接する熱河省に侵攻し、熱河省の満州国への編入をはかったわけである。この熱河省はアヘンを特産品とする地域で、関東軍にとってアヘンは財源として絶大な魅力を持っていた。実は、関東軍は満州国運営のための財源確保のために、これ以降、大量のアヘン密造・密売・密輸に手を染めていった。つまり、戦後、東京裁判のために検察側が明らかにしたように、関東軍は「占領地において麻薬を蔓延させ、侵略のための収益を増やし、日本の意思に従うように占領地の人々を堕落させる政策」を推進していったのである。さらに後年、関東軍はアヘンをイランからも輸入するようになり、三井物産や三菱商事がこの輸入業務に携わった。関東軍がアヘン密売であげた収益は膨大な額であり、中国人社会に与えた悪影響も深刻なものであった。

  関東軍は、国民政府の中央軍による反撃にもかかわらず、熱河省を超えて華北省内にまで侵攻し、5月23日には北平(現在の北京)から30キロ近くにまで迫った。5月25日、中国側が日本軍に対して停戦を要求。5月末に塘沽(タンクー)で停戦交渉が行われた結果、日本軍側の提案による停戦協定が成立。この塘沽停戦協定によって、河北省北東部の万里長城の内側から中国軍が撤退し、この地域を非武装地帯とすることが決められた。結局、この停戦協定によって、日本軍は熱河省のみならず河北省の万里長城の以南の広大な部分を、「中立地帯」として潜在的に確保したことを意味していた。

  満州国設立をきっかけに、「日満経済ブロック」構築(満州を日本の排他的な経済圏にする)というスローガンのもと、1930年代には満州に対する投資が飛躍的に拡大。満鉄を中心に、一産業一社という国策会社独占による事実上の植民地経営による第1期産業開発(1932〜36年)から、新興財閥であった日産を中心とする満州重工業設立のための満州産業開発5カ年計画の第2期(1937〜41年)を経て、第3期(1941〜45年)には5カ年計画を放棄して、満州を戦争のために対日物資・食糧供給の基地にするという、3段階を満州経済は歩むことになる。

  第1〜2期での満州産業開発の重点は、対ソ連戦争の準備のための軍需産業の建設に置かれていた。その基礎として、1932〜36年までに3千キロに及ぶ満鉄新線路が建設された。同時に、鞍山の製鉄、撫順の石炭などの大規模増産をめざしたが、満州の資源不足が問題で、計画通りには進まなかった。したがって、後述する軍部の華北への勢力拡大は、華北地域の鉄・石炭・綿花などの資源を求めての侵攻という経済的に重要な意味を含んでいた。満州での産業開発で忘れてならないことは、製鉄所の日雇工や炭鉱での採炭工として雇われた多くの労働者が、安い賃金で搾取された中国人や朝鮮人であったことである。長時間労働を含む酷悪の労働条件からくる過労と栄養不良のために、死亡者が続出した。

  ちなみに安倍晋三首相の祖父・岸信介は、1936年10月、満州国の行政機関、国務院の実業部総務司長として満州に渡っている。37年7月には産業部次長、39年3月には総務庁次長となり、事実上、満州国運営の実権を握った。その間に、「戦争準備ノ為満州国ニ於ケル産業ノ飛躍的発展ヲ要望ス」という関東軍参謀部の方針に沿って作られた上記の第2期・産業5カ年計画の立案と実行に、岸は深く関わった。すなわち、満州国の軍需用工業を発展させることで満州を日本帝国主義の重要な戦略基地にすることに、岸は決定的に重要な役割を果たしたのである。戦争終了後に岸がA級戦犯(「平和に対する罪」を犯した)容疑にかけられた理由の一つは、この産業5カ年計画の立案に関わることで「侵略戦争の準備」に貢献したことであった。(岸はまた、満州での自分の地位を利用して蓄えた巨額の政治資金を東条英機に提供したとも言われている。東条とのそのような緊密な関係から、1941年10月には東条内閣の商工大臣のポストに就き、43年11月に軍需省が新たに設置され東条が軍需大臣を兼務すると、岸がその次官兼国務大臣となり、産業経済の全ての分野で総力戦体制を確立強化させていく様々な政策の立案と実施でも手腕を発揮した。)

1941年10月に発足した東條閣に商工大臣として入閣した岸信介
満州国設立との関係でもう一つ重大な問題は、1933年から始められた日本人の満州移住である。満州移住のために選ばれた土地は、移住農民を対ソ防備のためや満州工業地帯の防衛に使うという軍事的目的から、ソ満国境と満州中核都市の外縁地域が多かった。すなわち、日本国内の農村窮乏を緩和すると同時に、関東軍の戦力補強にも役立たせるための「武装移民団」が多かった。しかし、そのために確保された農地は、満鉄系列会社である東亜勧業会社や満州国官憲が関東軍の指揮のもとに中国人からただ同然の安い値段で取り上げた、実質的には強制的収容土地であった。このことが満州での抗日武装闘争、とりわけ中国共産党軍による武装闘争を強化させる大きな原因ともなった。

  前にも述べたように、日本軍はこうした中国側の武装組織を「匪賊」とみなして制圧しようとしたが、全く効果のない、終わりの見えない対ゲリラ戦にあけくれるという事態が続いた。満州国における「匪賊」の出現回数は、1933年度は13,072回、34年度は13,395回、35年度39,150回、36年度36,517回。陸軍省の統計数字によると、「満州事変」から1936年7月までの日本軍将兵の戦死・戦病死者数はほぼ4千名にのぼり、中国側の戦死者数は1933〜36年度の間に4万1千名を超えている。



日本国内のファシズム化
  一方、日本国内では、満州事変をきっかけに民間右翼組織と急進青年将校グループが結びついて、満州での関東軍の動きに合わせるような形で、暴力的手段で「国家改造」を企てようという、急進ファシズム運動が急激に高まった。この時期、1930年に始まった「昭和恐慌」で、全国で失業者が増大し、労働争議が頻発、農村も極端に窮乏化。彼らは、こうした危機的な民衆の生活状況に対して、財閥企業は自企業の利益を追求するだけで労働者には無慈悲であり、二大政党である政友会と民政党は両党とも無策であると激しく非難。汚職腐敗した政財界要人を暗殺することで、「日本民族を覚醒する」軍事革命が必要であると考えたのである。彼らに大きな影響を与えた民間右翼の代表的な思想家としては、北一輝、西田税、大川周明、頭山満、井上日召、権藤成卿、橘孝三郎などがいた。こうした背景から、2名の海軍青年将校に率いられた11名の陸軍士官候補生グループと、30名ほどの主として「血盟団」と呼ばれる右翼組織メンバーが、1932年5月15日に起こした首相暗殺事件が「5・15事件」であった。この事件では、孫文を含む中国要人とも親しく、しかも軍縮支持者であった首相・犬養毅が暗殺されたが、他にはほとんど死傷者を出さず、襲撃された複数の場所も小さな被害で終わり、「クーデター」と呼ぶような大規模な軍事行動には至らなかった。

「話せばわかる」と言った犬養首相に、青年将校は「問答無用」と射殺
 
しかし、この事件を契機に軍部が政党内閣排撃の強い要求を出したため、軍人の中でも穏健派と見られていた、海軍大将で元朝鮮総督の斎藤実が元老・西園寺公望(政界の超憲法的重臣で、天皇に閣首班の推薦を行い、国家の外の重要政務についても政府あるいは天皇に意見を述べた人物で、西園寺は最後の「元老」)によって首相に推薦された。天皇裕仁もこれを了承し、斎藤が民政•政友両党の協力を要請。かくして、軍部・政党・官僚の均衡の上に挙国一致内閣として斎藤内閣が成立したが、これによって、選挙による多数派政党が内閣を組閣するという、1924年以来8年間続いていた政党政治が崩壊。斎藤内閣の下で、1932年9月15日に、日本政府による傀儡国である満州国の公式な設立承認を意味する「日満議定書調印」が行われた。斎藤内閣以降は、軍首脳部の人間が首相の座につくか、あるいは軍部の支持なしには首相になれないという状況が、1945年8月の15年戦争集結まで続くことになる。

  斎藤内閣当時の軍内部、とくに陸軍内部では、陸軍大臣・荒木貞夫大将や参謀次長・真崎甚三郎中将に強く擁護され、上記の右翼思想家たちの影響を受けた、青年将校を中心とする「皇道派」と呼ばれるグループと、主として陸軍省や参謀本部の中堅幕僚将校に代表される「統制派」グループ(陸軍省軍務局長・永田鉄山、軍事調査部長・東条英機、作戦課長・武藤章など)の間での派閥抗争があった。皇道派は、腐敗した政財界を暴力的手段で排除し、天皇親政(天皇自身が政治を行うこと、あるいはそうした政治形態)の下で、軍部独裁で国家改造にとりくむという、極端に精神主義的な天皇中心主義を唱えたが、具体的な政策案に欠けていた。同時に彼らは、激しい反ソ連・反共産主義観念を抱き、対ソ主敵論を唱え、ソ連に満州が攻撃される前に予防戦争をできるだけ早く遂行すべきであるとも主張。一方、統制派は、軍部独裁による国家改造をめざすという点では皇道派と同じであったが、軍部を中核に財界・官僚とも提携し、資源確保、物資増産、軍備拡張を組織的、統制的に行うことで日本全体を総力戦体制にまでもっていこうという考えであった。したがって、対ソ戦の準備のためにも、満州国建設の完成と中国を屈服させることが先決問題であるという主張であった。すでに述べた「5・15事件」や後述する「2・26事件」を起こしたのは、皇道派の青年将校たちであったが、統制派はクーデター本位の国家改造には反対であった。この時期、岸信介のように、右翼寄りの、統制派に組する「新官僚」と呼ばれる官僚もまた政策作成面で影響力を急速に強めつつあった。

  皇道派、統制派の両方のみならず、日本軍全体と日本政府にとって、1930年代初期は、第1次・2次5カ年計画でますます経済力と軍事力を拡大・強化していたソ連が脅威であり、軍事力のみならず、共産主義思想の日本社会への浸透もまた天皇制国家を脅かす危険な社会要素とみなされるようになった。そのため、反体制運動の抑圧と思想統制が急速に強化されるようになり、左翼、とりわけ共産党員がそのターゲットとされた。1928年に改悪された治安維持法による左翼の検挙数は、1933年には14,622人と戦前最高の記録となった。1930年2月〜31年6月に行われた大規模弾圧では多くの共産党員が検挙され、共産党は壊滅状態となった。検挙された党員の中には、平野義太郎、山田盛太郎、三木清といった秀れた学者や、中野重治、林房雄、小林多喜二などの作家が含まれていた。1932年に、警察の取り調べで拷問を受け殺害された党員は114名にのぼったが、その中には委員長の野呂栄太郎や『蟹工船』の作者として有名な小林多喜二が含まれていた。

  治安維持法適用によるこうした思想弾圧の対象は、共産主義者にとどまらず、いわゆる進歩主義的な学問思想、とりわけ自由主義的な法学思想を唱える学者にまで広げられた。1933年12月には、貴族院と衆議院の両方で議員が、京都大学教授・滝川幸辰の著書が無政府主義であると非難。これを受けて、文部大臣・鳩山一郎(鳩山由紀夫・邦夫兄弟の祖父)が、滝川の著書が内乱を扇動し姦通(現代用語では「不倫」)を奨励する危険思想であるとまで主張。その結果、翌34年4月には、内務省が滝川の『刑法読本』、『刑法講義』を発禁処分にした。さらに5月には斎藤内閣が、京都大学の反対にもかかわらず、滝川を休職処分にさせた。

  この滝川事件の真最中の1933年4月、政府内に、危険思想を取り締まり、国民教育で天皇崇拝に基づく日本精神の普及を徹底させ、社会改善を図るための「思想対策協議会」が設置された。同じ目的で、34年6月には文部省内に「思想局」が設置された。ちなみに、「危険思想」とは、国体(天皇制に基づく政治体制)変革や私有財産制度否定を唱えるマルクス主義とそれに類似した思想のことを指していた。弾圧のための具体的手段としては、特高(政治犯、思想犯取締り専門の「特別高等警察」の略。容疑者尋問中に様々な残虐な拷問を行った)の強化充実、保護観察制度、予防拘禁制度、出版物取り締まりなどが利用された。1935年2月には、天皇機関説(国家統治権は法人である国家に属し、天皇は統治総攬の一機関としてのみ統治権を行使するという学説)を唱え、治安維持法改悪に反対し、軍部をしばしば批判していた東大名誉教授で貴族院議員の美濃部達吉が、衆議院本会議で攻撃目標とされた。その数日後に、美濃部は不敬罪(天皇や皇族に対し、その名誉や尊厳を害する不敬行為の実行によって成立する犯罪)でも告発された。同年4月9日、政府は、美濃部の著書『逐条憲法精義』、『憲法撮要』などを発禁処分にした。9月に、不敬罪は起訴猶予とされたが、彼は貴族院議員を辞任させられた。

  このようにして、1930年代には、軍部が政治や教育にますます介入するようになり、軍部ならびに民間右翼団体の動きを恐れる政治家たちは軍部の意向に沿うような発言・行動ばかりをとるようになったことで、もともと民主主義的とはいえない日本の議会主義・政党政治は機能しなくなり、短期間のうちにファシズム化していった。

  こうした状況の中で、陸軍内部の統制派との派閥争いで劣勢に立たされていた皇道派グループが、一挙に退勢挽回をはかり、政党政治を完全に否定したうえで、天皇親政に基づく軍部独裁政治を実現しようと、1936年2月26日の早朝に決起したのが、日本史上最大のクーデター「2・26事件」であった。皇道派青年将校たちが「昭和維新」と呼んだこのクーデターでは、青年将校たちに率いられた東京の歩兵連隊の一部である1,500名ほどの兵たちが、岡田啓介(退役海軍大将)内閣の首相官邸、閣僚重臣私邸などを襲撃。斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監を殺害し、鈴木貫太郎侍従長に重症を負わせた。岡田首相は官邸内の女中部屋の押入れに隠れたが、秘書の松尾伝蔵大佐が岡田と人違いされて殺害された(岡田は翌日脱出)。そのあと、クーデター部隊は、首相官邸、陸相官邸、陸軍省、国会議事堂、警視庁を占拠して永田町一帯を制圧。そのうえ、朝日新聞社を襲撃して新聞刊行を停止させ、その他の新聞社にも「蹶起趣意書」をばらまいた。しかし、クーデターを起こした青年将校たちの革命計画は全く具体性を欠いており、クーデターが成功した暁には、皇道派の真崎甚三郎を首相に、荒木貞夫を内大臣に、また彼らの思想的リーダーであった北一輝や西田税も閣僚にするという組閣構想以外には、あとは裕仁の「大御心(天皇の意思)」に従うというだけの極めて漠然としたものであった。
  裕仁は自分が信頼する重臣を殺傷されたことに激怒。その天皇に、陸軍内部で皇道派と対立する統制派と、岡田、斎藤、鈴木の3人の海軍大将を襲撃された海軍が一致協力する形で、戒厳司令部を設置して反乱部隊の鎮圧のために動いた。2日後の28日早朝には、反乱部隊撤退を命じる奉勅命令(天皇が裁可した命令)が出され、29日午前8時から、戒厳司令部が反乱軍鎮圧のための攻撃を開始。同時に、反乱軍兵士に対して、ラジオ、チラシ、アドバルーン、飛行機などを使って、投降を呼びかけた。その結果、29日午後2時までには下士官と兵士のほとんどが、呼びかけに応じて帰順。反乱を主導した青年将校たち、ならびに北一輝、西田税の両人も憲兵隊に逮捕された。1936年7月に行われた軍法会議(軍人・軍属の犯罪を裁く特別刑事裁判、すなわち軍事裁判)で、17人の青年将校と北一輝、西田税が死刑となった。
2・26クーデターに参加した兵隊たち

本来は、このクーデター事件は、岡田啓介が後年述べたように、「陸軍の政治関与を押さえる絶好のチャンス」であったのであるが、裕仁もそのような動きを一切とらなかったし、政治家たちも「軍に逆らうとまた血を見るという恐怖の方が強くなって、ますます思い通りのことをされるようになってしまった。」皇道派を排除した統制派は軍部の主導権を掌握し、総辞職した岡田内閣に変わって、裕仁から組閣の大命(天皇の命令)を受けた広田弘毅に、閣僚候補の幾人かを「自由主義的」だとして排除を要求するなど、いくつかの要求をつきつけた。しかし、その後の日本の歩みを決定づける上で最も決定的であったのは、1923年に一旦廃止された軍部大臣現役武官制(陸海軍省の両大臣は現役武官に限るという制度)を復活させたことである。この制度は、軍部が大臣を決定しなければ組閣ができないということを意味しており、大臣を出さないという方法で軍部の政治的発言権を著しく強めた。

  かくして、これ以降日本は、統制派が支配する陸軍を中核とする国家改造=総力戦体制確立に向けて突き進んでいくことになる。軍の要求をほとんど丸呑みにする広田内閣の下で、36年4月には支那駐屯軍兵力が3.26倍に増強され、8月には陸海軍の戦争構想である「ソ連の脅威」を除去し、英米との戦争に備えて満州・中国から東南アジアにまで「経済発展を策す」という方針を発表。36年度予算編成では、国家予算の47.2パーセントが軍事費を占めるという大軍拡予算となり、日本の経済は「準戦時経済体制」となった(38年度には76.%、44年には85.%という驚異的な割合にまで急

増)。さらに、37年11月には、日独伊三国防共協定が結ばれ、ますます英米仏などの列強諸国と対立するようになった。

  この時期の日本の歴史は、軍に対するシビリアン・コントロールが効かなくなると、国家社会全体がいかに急速に軍国化され、戦争に向けて突き進んでいくのを止められなくなるかを明確に我々に教えている。最近数年の安倍政権の下での自衛隊の様々な動きを見ていると、シビリアン・コントロールがますます効かなくなってきていることに、不安を感ぜずにはいられない。


 - 日中全面戦争への道 終わり -