反天皇制運動連絡会のニュースレター『Alert』9月号に寄稿した論考です。ご笑覧、ご批評いただければ幸いです。
九州の炭鉱労働者で秀れた作家でもあった上野英信(1923〜87年)は、「天皇制の『業担き』として」と題した短いエッセイの中で、次のような話を紹介している。
1944年、わたしが旧満州国に君臨する関東軍の山砲兵であった当時のこと。わたしたちの起居する兵舎のかたわらに、夜になると幽霊が出るといわれる厠があった。古参兵の話によれば、一人の兵卒が歩哨として営内をまわっている途中、その厠に入って首を吊って死んだのだという。おそらくひどい腹痛か下痢のために我慢ができなかったのであろう。その兵士は軍律違反とは知りながらも厠にとびこんだのである。
銃を厠の中にもって入ってさえいれば、たぶん彼は死ななくてすんだであろう。しかし、不幸にして、彼はそんな忠誠心のない兵隊ではなかった。彼は、畏くも大元帥陛下から授かった菊の紋章入りの銃を、厠の中にもちこむことはできなかった。彼は銃を厠の戸口に立てかけ、自分だけが中に入った。出てきてみれば、すでに銃は見当たらなかった。彼が厠に入っているあいだいに巡察の将校がきて、その銃をもちさってしまったのだという。
哀れな兵士は、やがて彼の身に襲いかかるであろう冷酷な運命をしりつくしていた。彼はふたたび厠の中に入っていった。そして帯革をはずして梁にかけ、みずからの若い生命を断った。それ以来、彼が首を吊った厠の中から、夜ごと「銃を返してください……」「銃を返してください……」という、たましいをふりしぼるような声がきこえてくるようになったということである。
上野は、この話を単なる「天皇制の犠牲」の一例として紹介したわけではない。「その犠牲者の痛恨をわがこととしてとらえる苦悩と悲哀がなければ、けっして死霊を目のあたりにすることはありえない」という、彼の極めて個人的な想いからであり、この話の背後には、日本人だけではなくアジア諸民族の「言葉につくせないほど陰惨な死が」無数にあったという絶望的な痛恨からであった。しかも、その「痛恨」には、自分自身もまた戦争責任、すなわち天皇制の「罪と罰」を担っているという強烈な意識が含まれていた。彼は、この意識を、天皇制の「業担(ごうか)き」(北九州地方の言葉で、「バチカブリ」あるいは、「さらにどろどろした、重い呪咀を担う」という意味)と称した。つまり天皇裕仁と戦争に駆り出された自分たちは、「犬死」した無数の「死霊の呪咀」を受けとめ、それを担って生きてゆくほかには道がないのだという、壮絶な叫びであった。
1969年1月2日朝の新年一般参賀で、皇居長和殿東庭側ベランダに立った裕仁を狙って、25.6メートルの距離から、ニューギニア戦線での生き残り兵であった奥崎謙三がパチンコ玉3発をまとめて発射、続いてもう1発を「おい、ヤマザキ、ピストルで天皇を撃て!」と大声で叫びながら投射。裕仁には1発も当たらなかったが、奥崎はその場で即座に逮捕された。なぜ「ヤマザキ」なのか?おそらく、その「ヤマザキ」は、ニューギニアでほとんどが餓死した独立工兵第36連隊の自分の仲間の一人であったのであろう。奥崎は、前日の1月1日に上京し、ニューギニア戦の戦友の一人に会って、「自分なりの方法で戦友に対する慰霊祭を行うために上京した」と述べている。奥崎のこの奇抜な行動は、まさに上野が称した「業担き」であったと私は考えている。(因みに、当時はバルコニーに防弾ガラスが入っていなかったのであるが、この事件以降から入れるようになったとのこと。)真面目であればある人間ほど、「業担き」から精神的に逃れきれず、死者の怨念にとらわれていったと言えるのではなかろうか。(実は、このパチンコ玉発射事件の2時間後には、同じく天皇制反対行動として2人が皇居内で発煙筒をたくという事件が起きているが、二つの事件は全く無関係で、偶然に同日に起きたものである。)
奥崎謙三のパチンコ玉事件については、ニューギニアでの日本軍隊内部での(とりわけ人肉食をめぐる)犯罪行為を徹底的に追求する彼の行動を追ったドキュメンタリー映画、『ゆきゆきて、神軍』(1987年公開)の中でも取り上げられ、周知のところである。ところが、パチンコ事件で逮捕された奥崎が、法廷でいかなる弁護主張を展開したかについては、残念ながら、ほとんど知られていない。
奥崎は身柄拘束のまま起訴され、1970年6月8日の東京地方裁判所の一審で、暴行罪を定めた刑法102条違反として、懲役1年6ヶ月の有罪判決を受けたが、奥崎側も検察側も控訴した。二審は、東京高等裁判所で行われ、1970年10月7日に、一審と同じ懲役1年6ヶ月の有罪判決を受けた。しかし、二審では、一審の未決勾留日数の算定方法と意見が食い違ったため、二審判決は、形の上では「原判決破棄」の上で新しく出された判決となり、その結果、即日釈放された。暴行罪の法定最高限は懲役2年であるのに対して、1年6ヶ月という重い実刑判決内容だっただけではなく、逮捕されてから1年6ヶ月(604日)の間、一度も保釈されずに身柄を拘束され続けたのも、通例の暴行事件と比較しても異例なことであった。しかも、一審中では、被告人の申請を受け入れて、裁判所が保釈許可の決定を下したにもかかわらず、高裁の決定で却下されたため、保釈はされなかったのである。これは暴力行為の対象が、通常の市民ではなく、「日本国の象徴」の「天皇」裕仁であったことからの特別の処置であり、その意味では憲法第14条に抵触していたのではないかと考えられる。
この点を東京地方裁判所の裁判官・西村法も憂慮してか、暴力行為そのものについては「天皇に対し敢行された周到に準備された計画的な犯行でありその犯行の態度からみて、実害発生の危険性がかなり高いものであることからいえば、被告人の刑事責任が相当重い」としながらも、「被告人のようないわば確信犯については、刑に予防拘禁的な機能を含ませてしまうことを保し難いといわなければならないのであって、被告人の本件犯行の動機・経緯及び態様等の本件犯行に直結する情状にかんがみ、なお憲法第14条の趣意をも参酌すると、前示累犯前科の点を考慮しても本件について検察官主張のような刑法第208条の法廷刑を超える刑を量定することは適当ではなく……主文掲記の刑を量定した」(強調:引用者)と述べた。ところが、「憲法第14条の趣意をも参酌すると」という意味が、具体的にはいったい何を意味しているのかについてはなんの説明もされていないのである。
しかも、一方で「天皇」に対する暴力行為の「刑事責任が相当重い」とも主張しているのであるから、この場合の「憲法14条の趣意」とは、「法の下の平等の趣意」から「天皇も一般国民と同様に扱うべきであり、特別な法的保護を与えるべきではない」ということを意味しているのではなさそうである。そうではなく、むしろ「被告人が天皇と天皇制に対して反対意見をもっているからといって、それ自体を問題にしてはならず、一般市民に対する暴行罪と同様に扱うべきである」と主張しているように思われる。
ところが、二審判決は、明らかに憲法第14条に抵触する内容となっているだけではなく、奥崎の行動は憲法第1条に対する「犯罪行為」であるとまで厳しく断罪し、裁判長・栗本一夫は次のように述べたのである。「検察官の主張をみるに、所論がその理由の第一として、本件が日本国憲法によって、日本国の象徴日本国民統合の象徴としての地位を有する天皇に対する犯行であって、極めて悪質であり、社会的影響も甚大であるとする点に対しては、もとより同調する……」(強調:引用者)。戦前戦中の「不敬罪」を想起させるような内容の判決文である。ところが、ここでも一審判決同様に、検察側の控訴要求は「暴力事件としては余りにも重きに過ぎる」として、同じ懲役1年6ヶ月の判決内容を量定した。つまり、明らかに判決内容に矛盾がみられるのである。天皇の存在には一般国民とは決定的に異なった特別の法的地位があり、したがって奥崎の行動が憲法第1条に対する由々しい犯罪行為であったと主張するなら、簡単に「一暴力事件」として処理することができないはずである。逆説的に言えば、奥崎の行動を一般国民に対する「一暴力事件」として取り扱うのであれば、天皇の存在に特別の法的地位を認めること自体に論理性がなくなるはずである。かくして、二審の判決では、一審判決が触れた憲法第14条には全く触れずに、この問題については意図的に言及を避けたように思われるのである。
ところが、私が最も重要だと思うのは、この二審判決を受けて奥崎が最高裁への上告のために準備した趣意書の内容である。それは、「極めて悪質であり、社会的影響も甚大な」、天皇に対する「犯罪」という二審判決に真っ向から挑戦した、見事な論理性をもった格調高い主張となっている。その主張の趣旨は、憲法第1章「天皇の規定」は、憲法前文の「人類普遍の原理」からして違憲無効の存在であるというものである。「人類普遍の原理」に言及する憲法前文の部分は、以下のような文章である。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。(強調:引用者)
いまさら説明するまでもないが、この前文を持つ現行憲法は、1946年10月29日に「修正帝国憲法改正案」として枢密院本会議で可決され、同日に裕仁が裁可し、11月3日に公布された。しかも、この公布日の11月3日には、裕仁が「日本国憲法の勅語」なるものを発表しているのである。つまり、憲法前文ではっきりと、「人類普遍の原理」に「反するいっさいの憲法、法令及び詔勅を排除する」と書かれた新憲法を発布するにあたって、この前文の内容を文字通り、あからさまに侵害する「詔勅」を裕仁が発表していたという、驚くべき事態があったことを我々はもう一度想起すべきであろう。
しかし、奥崎が上告趣意書で問題にしたのは「詔勅」ではなく、もっと根本的な「人類普遍の原理」と「天皇制」の関係である。奥崎いわく、
一、二審の判決と求刑をした裁判官、検察官は、本件の被害者と称する人物を『天皇』であると認めているが、現行の日本国憲法の前文によると、「人類普遍の原理に反する憲法は無効である」と規定しており、『天皇』なる存在は「人類普遍の原理」に反する存在であることは自明の常識であり、『天皇』の権威、価値、正当性、生命は、一時的、部分的、相対的、主観的にすぎないものであり、したがってその本質は絶対的、客観的、全体的、永久的に『悪』であるゆえに、『天皇』の存在を是認する現行の日本国憲法第一条及至第八条の規定は完全に無効であり、正常なる判断力と精神を持った人間にとっては、ナンセンス、陳腐愚劣きわまるものである。…… (強調:原文)
この奥崎の見事な喝破に反論するのは、ほとんど不可能のように思える。したがって、最高裁の上告棄却の反論が、全く反論の体をなしておらず、なんの論理性もない誤魔化しに終わっていることも全く不思議ではない。上告棄却は下記のようなごく短いものである。
被告人本人の上告趣意のうち、憲法一条違反をいう点は、被告人の本件所為が暴行罪にあたるとした第一審判決を是認した原判決の結論に影響がないことの明らかな違憲の主張であり、同法十四条、三七条違反をいう点は、実質は単なる法令違反事実誤認の主張であり、その余は、同法一条ないし八条の無効をいうものであって、いずれも刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。
つまり、憲法第1条と暴行罪は無関係であり、14条違反やその他の点に関する主張も、単なる「事実誤認」だと述べ、なぜ事実誤認なのかについての説明も一切しない。なぜなら、説明のしようがないコジツケだからである。
現行憲法の成立過程を見てみれば、憲法第9条は憲法第1章(1条から8条)で天皇制を守り維持するという、GHQと日本政府の共通の目的のために設置されたという当時の政治的背景があったことは否定できない。したがって、「人類の普遍原理」に基づく「憲法の理念」、それをある意味で具現化した「憲法9条」、それらと憲法第1章との間に根本的な矛盾があるのは当然なのである。この決定的矛盾を暴露するには、裕仁個人と(明仁を含む)天皇制自体の戦争責任をあくまでも追及する、市民の広範な「業担き」が不可欠であると私は強く信じてやまない。
田中利幸(歴史家、「8・6ヒロシマ平和へのつどい」代表)