先月末、このブログで、「軍性暴力被害者を『嘘つき』扱いする女性の思想心理をどう理解したらよいのか?」という問題で、みなさんにご意見を求めました。たくさんの人からご意見が寄せられるのではないかという期待が見事にはずれ、すでにいただいたご意見はわずか二つでした。その一つは、私の尊敬するカナダ在住の友人・乗松聡子さん、もうお一人は東京在住の女性(この人も私が尊敬する知人)ですが、ご意見の公表は希望されませんでした。もうこれ以上待っても、ご意見はいただけないと思い、ここに私自身の考えを公表させていただくことにしました。
ただし、この論考を書くにあたっては、私が尊敬するフェミニスト歴史学者の加納実紀代さんの多くのご著書と、加納さんとの個人メール交信で受けたひじょうに有意義なアドバイスに助けられたことを記して、深く感謝します。なお、上野千鶴子さんからは、北原みのり・朴順梨共著『奥様は愛国』とご自身の『女ぎらい:ニッポンのミソジニー』を読むようにとのご助言をいただきました。ありがとうございます。しかし注文したこれらの本がまだ手元に届いていないので、これらを読んだ後で、できれば、また下記論考の修正・拡大版の執筆を試みてみたいと思います。
以下、拙い論考ですが、ご一読いただき、ご批評いただければ幸いです。
「女性議員による元日本軍性奴隷バッシング」考
I 総力戦における合理性追及と軍性奴隷制
近代「総力戦」のおぞましい特徴の一つは、ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)や無差別爆撃大量殺傷に典型的に表れているように、「大量殺戮」です。「大量殺戮」とは、いかに数多くの(敵と見なす)人間をできるだけ少ないエネルギー消費で、短期間のうちに殺害するかという、(経済的)効率性を追及する集団的・組織的行為です。したがって、ホロコーストを担当したのが、ナチス親衛隊経済管理本部であったのも決して偶然ではありません。つまり「大量殺戮」とは、人命抹消にあたって徹底した「合理性」を追求する行為であり、単に「殺害」という行為の実行のみならず、この「合理性」の追求が、被害者からはもちろんのこと加害者からも「人間性」を剥奪するという恐ろしい現象を産み出します。なぜなら、この合理性追求は、最高権力によって設定された目的それ自体の善悪=倫理性は問題にせず、常に目的完遂のための手段=技術の効率性の良し悪しだけを問題にするからです。軍事組織という大規模官僚制の下での「大量殺戮」は、したがって、その計画・準備・実行にあたる多くの人間をして、軍に対する忠誠、義務、規律だけを重要視させ、目的達成のために自ら「人間性」を剥奪させ、最終的には破壊させることになります。大量殺戮を、犠牲者の総数という点ではなく、この「合理性追及」という面からのみ判断するならば、原爆無差別殺戮のほうが、ホロコーストよりはるかに徹底していたと私は考えます。なぜなら、1発の爆弾で一瞬にして数十万という人間を殺戮する方法は、ガス室で数百人を殺害することを繰り返し行ったり、日本軍が一カ所に集めた中国人を機関銃で銃殺したようなやり方よりは、はるかに効率的で合理的だからです。
しかし、総力戦による「効率性」、「合理性」追及という特徴は、実は「女性の性」の軍事的目的での搾取という面でも強く見られるものであると私は考えています。とりわけ日本帝国陸海軍による軍性奴隷制度(いわゆる「慰安婦制度」)は、一見極めて封建的で反近代的な制度のように見えながら、実は、この制度設置を計画し実際に導入を推し進めた軍上層部の指導者レベル、また実際にその制度を運営した各地部隊の兵站部のスタッフの目で見るならば、もっぱら日本軍将兵の戦闘行為における「効率性」を高めるための手段=技術としてとらえられていました。兵員の性病感染率をできるだけ低くし、戦闘での恐怖感と軍隊内での虐待から生まれる強度の憤懣を解消させ、性欲と一体となった他者への支配欲などを満足させることで、彼らの戦闘能力を高めるという「効率性」追及こそが、史上最も大規模な軍性奴隷制を設置した理由であり目的でもありました。
こうして女性の性を徹底的に利用する形での戦闘行為の「効率性」の追求は、被害者である女性の「人間性」を暴力的に剥奪すると同時に、直接の加害者である兵たちの「人間性」をも剥奪していきました。通常は極めてプライベートな自己の「性」を軍という一大暴力組織に完全にコントロールされる結果、女性の身体を自分の性欲ならびに様々な憤懣のハケグチとして見ることしかできなくなった兵=男は、本来は親密な人間関係を結び深めるためにある性行為によって、実は相手の女性を非人格化・非人間化し、奴隷化し、彼女との人間関係を破壊することでしかないという悲惨な結果をもたらしました。相互に歓喜をもたらす性行為が、状況によっては恐怖へと変貌するという「危うさ」を「性」は常に孕んでいるということを、私たちは、とりわけ男は、常に心にとめておく必要があります。さらに悲惨であったのは、多くの兵たちが、自分の性行為がそのように極度に破壊的になっていることを認識する能力を、戦争に駆り出されることですっかり奪われていたということです。その意味で、彼らは、戦争の加害者であり、同時に被害者でもありました。日本軍性奴隷制度は、人(被害者と加害者の両者)が、その極めて個人的な「性」を他者/組織に完全にコントロールされる、その結果の恐ろしさをまざまざと明示しています。
かくして、総力戦において「効率性」、「合理性」を追及することで人間を徹底的に非人間化するという点で、大量虐殺(Genocideジェノサイド)と女性の性の暴力的大量搾取(Gendercide ジェンダーサイド)
には、実は、根本的な同質性がみられるのです。これが、近代戦争という大規模暴力が必然的にもたらす実態なのです。ジェノサイドやジェンダーサイドは人類史上いつの時代にもありました。しかし、総力戦という近代戦争においては、これらを計画的、効率的に行うために、軍指導部がそのための手段の徹底した合理化を追及してやまないという現象がみられます。「合理化による非人間化」は近代社会の様々な局面で見られる現象ですが、このように近代戦争での殺戮や暴力行為にもその現象は如実に表れています。
II
「女性の性の二分化」と「性・民族・階級に関する複合的差別意識」
総力戦におけるこの「性の利用」を、戦時日本国という国家規模でみようとするならば、すでに加納実紀代氏が明示されているように、大まかには戦前から日本国内で確立されていた「性の二面性の分断化」に注目すべきでしょう。すなわち女性の性を「生殖=再生産」と「快楽」に分断し、再生産を「母」に、快楽を「娼婦(慰安婦)」に分担させるという二分化です。この女性の性の二分化は日本に特有のものではなく、様々な国に共通に見られる問題ではありますが、日本の場合には「市民革命」を通過せずして(イデオロギーを含む)封建制をそのまま引きずった形で明治国家という天皇制(家父長制)国家に移行したため、「性の二分化」の度合いがひじょうに強く且つ長期にわたって維持されてきましたし、現在もその傾向が継続していると言えるでしょう。戦前、女性は姦通罪で婚外交渉を禁止される一方、男には公娼制により性的自由が容認されていたことなどは、「性の二分化」を表す典型的な証左です。もちろん、この「性の二分化」には「階級制」が絡んでいることは明らかです。「良妻賢母」とは主として中産階級以上の婦人であり、「醜業婦」や「賎業婦」
と呼ばれた娼婦はほとんどが(被差別民を含む)貧困階層の出身でした。
総力戦ではこの「性の二分化」が、アジア太平洋各地の日本軍占領地にまで拡大されていきました。国内や満州においては「良妻賢母」に「優秀な国民の再生産」が求められ、国外=占領地・戦地においては、植民地朝鮮・台湾をはじめ軍占領地下の中国、フィリッピン、インドネシアなどから集められた「性奴隷=慰安婦」に「性的快楽の提供」を強制するという二分化です。すなわち日本女性=妻・母、アジア人女性=「慰安婦」という形で、「性の二分化」が「民族差別」という性質をもおびるようになりました。しかも、性奴隷にされたアジア人女性たちもその多くは貧困階層出身者が多かったということを考えると、「民族差別」と「階級差別」という二つの要素を重視する必要があります。つまり、日本軍性奴隷問題を議論するにあたっては、これまた加納氏や上野千鶴子氏が述べているように、「性」・「民族」・「階級」という三つの複合的視座にたってこの問題にアプローチする必要があります。
したがって、いわゆる「慰安婦バッシング」をやる人、つまり「慰安婦バッシャー」たちは、女であれ男であれ、「性」・「民族」・「階級」の三つの点でいまだに「差別意識」を克服できないでいる人たちであることが分かります。私は、この差別意識を「性・民族・階級に関する複合的差別意識」と呼ぶことにします。
「慰安婦バッシング」を検討する上で重要な問題の一つは、「慰安婦バッシャー」たちが、「慰安婦は売春婦だった」と繰り返し主張することです。この種の発言にも「性・民族・階級に関する複合的差別意識」が深く絡んでいることは明らかです。
総力戦中の日本帝国主義による「性の二分化」は、実は戦後も強固に維持されていました。日本の「伝統的家父長制イデオロギーに基づく資本主義」は、戦後も長年の間、女性を職場から排し、もっぱら男たちだけが中心的な企業集団メンバーとして働く企業によって支えられてきました。若い女性従業員は、お茶汲みなどの雑用一切をこなす「会社妻」の役割を果たすことを要求され、主婦には、「仕事場」という「前線」で闘う夫の「銃後の妻」として家庭をまもることが要求されました。アジア太平洋戦争で敗れ、「民主化」されたはずの日本資本主義ですが、実際には、その根本的な構造、とくにジェンダー差別構造の面ではほとんど変わらなかったのが現実です。1960年代後半から、こうした企業の「男集団」=企業戦士たちが海外進出の推進力となって、日本商品の市場制覇、資源獲得、安い労働力確保などを目的に、まずはアジア各地に飛びました。その過程で、1970年代初期から韓国、フィリッピン、タイをはじめ、様々な国への「セックス・ツアー」が頻繁におこなわれました。当時、「日本的経営」と賛美された企業経営方式の特徴の一つは、男性正社員たちによるこの「集団主義」であったのです。戦時中、日本軍将兵たちが集団で「慰安所」を訪れたのと同じように、企業戦士たちがアジア各地の売春宿に集団でおしかけたのです。1970年代半ば頃から、こうした「セックス・ツアー」が世界中で非難のマトとなると、今度は、アジア人女性を日本に「出稼ぎ労働」させる形で集め、半奴隷的な過酷な条件のもとで彼女たちに「性の提供」を強制しました。
したがって、「慰安婦は売春婦だった」という主張の背景には、「慰安婦」を戦後の「アジア人売春婦」の延長線でとらえているという重大な問題があります。すなわち、「慰安婦バッシャー」たちは、戦後も続いている「性の二分化」が孕んでいる「性・民族・階級に関する複合的差別意識」を克服できず、そのまま受け入れてきたわけです。畢竟、「慰安婦バッシャー」たちがこの複合差別構造を認識できないのは、日本のその特殊な男性支配主義的資本主義社会構造そのものの特徴を認識できないことと密接に関連しています。したがって、既存の日本経済社会構造を政治的に全面的に支えている自民党に所属する政治家は、女性であれ、「慰安婦バッシャー」になってしまうのも決して不思議ではないと言えます。そのうえ、現在の安倍政権は、既存の日本経済社会構造を政治的に全面的に支えているだけではなく、「戦後レジームからの脱却」というスローガンの下、1945年の敗戦前の帝国主義的極右イデオロギーを復活させ、その構造に埋め込もうと躍起になっています。帝国主義的極右イデオロギーを形成している重要な要素の一つは家父長制主義的天皇制思想ですので、当然、そこには「性差別」と「民族差別」が深く組み込まれていることも忘れてはなりません。「慰安婦バッシング」の背景には、こうした安倍政権の特殊性という問題もあるのです。
「慰安婦は売春婦だった」という発言は男性だけではなく、女性の「慰安婦バッシャー」にも共通して見られる現象ですが、これは明らかに「元慰安婦=軍性奴隷」に対してだけではなく、「売春婦」、とくに「アジア人売春婦」に対する差別発言なのです。つまり、「売春婦=醜業婦」という蔑視意識の延長として「慰安婦」をとらえているわけで、「慰安婦バッシャー」の本音は、「元慰安婦は売春婦=醜業婦だったのだから、蔑視されてしかるべきで、文句は言うな」という主張なのです。こうした非難に対して私たちはどう対処したらよいのでしょうか。これに対する私の応えは、売春婦も、根本的には「性奴隷」という側面を強くもっているのであり、その点では「慰安婦」も「売春婦」も男による性的搾取の対象とされる同じ犠牲者である、という主張です。売春婦は、たとえ短時間であろうと買春客に買われている時間内は、彼女の身体全体が客の所有物となり、彼女の身体と性が「商品」とみなされ物財化されます。その結果、彼女の人格的自律性は剥奪されます。こうして物財化=非人格化された彼女は、客に買われている間は、客に物理的に支配され従属させられているだけではなく、人格的にも支配されます。この意味において、売春婦と(性奴隷を含む)あらゆる形態の奴隷との間には根本的な共通性が存在する、というのが私の主張です。この問題については、私はすでに、「国家と戦時性暴力と男性性」(宮地尚子編『性的支配と歴史:植民地主義から民族浄化まで』大月書店・第2章)という論考で自分の考えを詳しく述べていますので、これを参照してください。下記アドレスからダウンロードできます。
III 自由民主党右翼女性議員の「性と女性」観念
さて、「民族差別」、「階級差別」に関してはあらためて説明する必要はないと思いますので、言及しません。ここでは、私は、女性の「慰安婦バッシャー」たちの「性差別」意識について考えてみたいと思います。
「慰安婦は売春婦だった」、「慰安婦は強制されなかった」という主張を安倍一派の男議員たちと一緒になって唱えている自民党の女性国会議員、稲田朋美、山谷えり子、高市早苗などの経歴を調べてみると、政治家になる前は、弁護士だったりテレビやラジオのニュース・キャスターなどを務めるなど、かなり活発に専門職をこなしていた、いわば安倍晋三の称する「輝く女性」であったことが分かります。
稲田朋美
例えば、稲田の場合ですと、「早稲田大学法学部在学中に、当時男女雇用機会均等法も無く就職先がほとんど無かったので、司法試験を受けようと考えた。1日約16時間ほど勉強して司法試験に合格し、弁護士になると5年間法律事務所の雇われ弁護士として法律の仕事を習得した」とのこと。子どもができたため一時仕事をやめていましたが、南京虐殺事件で多数の中国人を殺害(いわゆる「百人斬り競争」)した2人の士官の遺族が、この殺害事件を記事にした毎日新聞、朝日新聞、本多勝一氏を名誉毀損で訴える裁判を起こしたケースで、彼女は遺族側の弁護士を務めました。しかし、「裁判に負けたことで弁護士としての活動に限界を感じ、政治の場から取り組みたいと」考えたとのこと。2005年、小泉内閣の郵政解散の直前に、自民党本部で「『百人斬り競争』はでっち上げであるという内容の講演をする機会があり、これが聴講していた安倍晋三(当時は幹事長代理)の目に留まり、政治家にスカウトされることになった」そうです。
2013年5月に当時大阪市長だった橋下徹が「(第二次世界大戦)当時、世界各国の軍が従軍慰安婦制度を持っていた」と発言した時には、稲田は、一旦は「慰安婦制度は女性の人権に対する大変な侵害だ」と発言しているのですが、その後は、「慰安婦制度が戦時中は合法であったのもまた事実だ」と意見を変えています。おそらくは、安倍晋三という権力者に対するスリヨリの心理が働き、安部が当時の政治状況に照らして公的表明としての自分の意見をしばしば変えているのに合わせて、自分の公的意見も変えているように思われます。2015年2月には、高市や山谷と同じように、「慰安婦制度に強制性はなかった」と述べて「河野談話」を非難し、談話撤回を要求しています。最近は、彼女は「東京裁判」そのものを「検証」しなおそうという運動にも力を入れていますが、実際には「検証」というような客観的なものではなく、「否定」を目指していることは言うまでもありません。
さらに興味深いことは、自分が若い頃は男女雇用機会均等法も無く就職先がほとんど無かったと述べている稲田が、男女共同参画社会基本法に反対しており、見直すべきだと主張していることです。反対の理由として、彼女は、「おいおい気は確かなの?と問いたくなる」、「女性の割合を上げるために能力が劣っていても登用するなどというのはクレージー以外の何ものでもない」と述べています。つまり、「自分は自分の能力を活かして、男と競争して政治家としての今の地位を築いてきたのだ。したがって、女も男に負けないような能力を開発すべきである。それが『平等』というものだ」、「あんたたち、くやしかったら私のように頑張りなさいよ」という考えなのです。
山谷えり子
山谷えり子は、平和靖国議員連盟幹事長、神道政治連盟国会議員懇談会副幹事長というポストにあり、安倍の靖国神社参拝を求める運動を推進しています。2010年10月、米国ニュージャージー州のパリセイズ・パーク市に日本軍性奴隷の碑が設置されましたが、これに抗議するため2012年5月に訪米した自民党の「領土に関する特命委員会」の一員として市長に面会。「政府で調べたが、日本の軍や警察が強制連行した事実はなかった」と碑の撤回を市長に要求しましたが、「拉致があったのは事実だ」と拒否されています。
彼女は、2005年、当時の自民党幹事長代理・安倍晋三が座長となり立ち上げた自民党の「過激な性教育・ジェンダー教育実態調査プロジェクト・チーム」の事務局長にもなっています。このプロジェクト・チームは、そのホームページで以下のように述べています。「全国的な実態調査も行い、寄せられた 3,500もの実例を調査・分析した結果、『ジェンダーフリー』という名のもと、過激な性教育、家族の否定教育が行われていることがわかった。同時に、教育現場でこのような暴挙が堂々と行われている根拠が、男女共同参画基本計画を恣意的に解釈し、組合組織の活動方針としていることなども現場での調査で確認をした。」ところが、「過激な性教育」とは具体的にどういう内容の性教育なのかについての説明は、このホームページには全くなく、プロジェクト・チームが党に提出したはずの『男女共同参画基本計画改定に当たっての要望書』や『安倍晋三官房長官に申し入れ』などはホームページから削除されています。実は、この調査には、男女共同参画に反対するための(宗教右派団体などによる)故意の誇張や捏造情報が多く含まれており、実際にはそのような「過激な性教育」などはなく、右翼の自作自演であるとの厳しい批判が女性権利擁護団体や日教組などから出されたのです。したがって、上記資料のホームページからの削除は、こうした批判と関連していることは間違いないようです。
では、山谷が考える「性教育のあるべき具体的内容」とはどんなものなのでしょうか。彼女は「子供時代は、蝶々が飛んでいる姿、お花が綺麗に咲く姿、それで十分命の尊さを学んできた。具体的な性教育はすべきではない。(性教育は)結婚してから」と公言しています。結婚するまで性教育を受けないなら、結婚してから新婚夫婦は誰に性教育を受けるのでしょうか?蝶々とお花を卒業して、鳥さんやお馬さんからでしょうか?あまりにも現実離れしたバカバカしい発言ですが、なぜこのような愚鈍な発言が出てくるのでしょうか。それは、彼女が「性関係」というものをもっぱら単なる「肉体関係」あるいは「生殖」目的のための性交渉としてしか理解しておらず、「人間関係」として把握できていないからでしょう。
「性」行為は、互いの肉体的・精神的喜びを分かち合うことで、お互いの「生」、すなわち「生きているという喜び」を相互確認しあうという行為であり、相手の「生」を尊重することであるはず。そのためには、相手の気持ちと身体を大切にし、相手をよく知らなければならないという責任が自分に伴うことです。性行為とは、したがって、相互に深く信頼し合い、共感し合うという愛情のあるコミュニケーション行為であり、人間関係の親密化を深めていくと同時に、相手に対する責任を伴う行為であるということが深く認識されなければならないはずです。と同時に、そのような相互尊重の人間関係に立たない性行為、一方的な自己性欲解消のための性行為は、しばしば暴力を伴う、醜い残酷な行為になる危険性をはらんでいるということも、子どもたちは知るべきではないでしょうか。したがって、日本軍性奴隷問題を学校で子どもたちに教えると同時に、「性行為」のあり方についても議論し、自分たちであるべき姿の「性関係」について考えさせることが必要だと私は考えます。また、人には、異性愛の人だけではなく、性的マイノリティーと呼ばれるような同性愛の人や性同一性障害をもつ人など色々な人がおり、そのことによって差別し人権侵害をしてはならいことも教えられるべきでしょう。このように、「性」の問題を人間関係のあり方と密接に関連させ、多様な面から教え、考えさせることで、子どもたちの感情を豊かにし、人間性を深め、コミュニケーション能力を高めていくという教育を推進していく必要があります。それには学校教育のあり方はもちろん、大人たちの「性観念」も変革していく市民運動の展開の仕方を考える必要があります。しかし、最も早急に変革されなければならないのは、山谷えり子のような自民党女性国会議員のお粗末な「性観念」であって、ジェンダー・フリー教育ではありません。
2006年10月に安倍内閣が設定した「教育再生会議」なるものがあり、この「会議」は2008年1月末に最終報告を出して解散しています。2007年4月にこの「会議」は「親学に関する緊急提言」なる概要をまとめていますが、この提言は山谷らが計画・主導して作成したものです。(「親学」とは、「親になるための知識を学ぶ」という意味ですが、ちなみに「親学推進協会」という財団法人があり、会長は、私への個人攻撃もネットで展開している高橋史郎という人物で、この協会の顧問の一人に桜井よしこがいます。)提言の内容には、「子守歌を聞かせ、母乳で育児」、「授乳中はテレビをつけない」、「企業は授乳休憩で母親を守る」、「乳幼児健診などに合わせて自治体が『親学』講座を実施」などが含まれています。こうした提言に対しては、世田谷区長の保坂展人氏が以下のような的確な批判をしており、私も全く同意見です。
「母乳がいい」と思いながら、「母乳」が十分に出ないことで悩み苦しんでいる人たちのことをどう考えているのか。溢れるほどに母乳が出る人もいれば、いくら努力しても出ない人もいる。出ない場合は、「子守唄」に力を入れて「人工乳」を母乳のような気持ちで授乳させなさいとでも言いたいのだろうか。
「企業は授乳休憩で母親を守る」と言うが、「育児休業」の間違いではないのか。満員電車を赤ちゃんを連れて出勤し、仕事時間中に「授乳中」という札を立てて赤ちゃんに向き合い授乳するというイメージなのだろうか。たしかに仕事を休まずに企業内保育所に子どもを預けて、授乳したいという人もいると思う。そのためには、企業内保育所の整備が必要だし、また、仕事は休んで育児に専念したいという人に対して、企業が子育てを支援するのなら、「育児休業」をしっかり確保すべきではないだろうか。再生会議の面々は、国民に説教を垂れるではなくて、経済財政諮問会議に乗り込んで「企業の子育て支援」を手厚くさせくべきだろう。
「企業は授乳休憩で母親を守る」と言うが、「育児休業」の間違いではないのか。満員電車を赤ちゃんを連れて出勤し、仕事時間中に「授乳中」という札を立てて赤ちゃんに向き合い授乳するというイメージなのだろうか。たしかに仕事を休まずに企業内保育所に子どもを預けて、授乳したいという人もいると思う。そのためには、企業内保育所の整備が必要だし、また、仕事は休んで育児に専念したいという人に対して、企業が子育てを支援するのなら、「育児休業」をしっかり確保すべきではないだろうか。再生会議の面々は、国民に説教を垂れるではなくて、経済財政諮問会議に乗り込んで「企業の子育て支援」を手厚くさせくべきだろう。
高市早苗
高市早苗もまた、稲田、山谷と同じように、アジア太平洋戦争を日本の「侵略戦争」と見なすことを真っ向から拒否し、日本の戦争責任を認めないという意見をあちこちで表明していることは周知のところです。彼女はしばしば暴言を吐くことで悪名高い政治家ですが、それらの暴言を全てとりあげて批判している時間的余裕はないので、ここでは三つだけとりあげておきます。
その一つは、2013年6月17日、当時、政調会長だった彼女は、神戸市の自民党兵庫県連会合で原発事故に触れて、「事故を起こした東京電力福島第一原発を含めて、事故によって死亡者が出ている状況ではない」と述べたことです。原発事故が起きた2011年には、福島では10人が原発事故関連で自殺しています。翌年にはさらに13人。2013年には24人になり、事故後の原発事故関連自殺者総数は47人にまで増えています。(2015年末までの福島県の原発事故関連自殺者総数は80名で、内閣府の調査によると、自殺の動機<複数回答可で>最も多いのが健康問題<42人>で、経済・生活問題<16人>、家庭問題<14人>となっています。)また、福島県の周産期(妊娠22週から生後満1週間までの)死亡率、とりわけ高い放射能汚染に晒されている17市町村での周産期死亡率が、2011年以降急上昇し、2013年には全国第2位にまでなっています。(2015年4月には、福島県内の急性心筋梗塞による死亡率も男女とも全国最高に急上昇しています。) さらに、福島県内の子供の甲状腺ガン発生率も、事故後、急上昇していることは周知のところです。高市の他の暴言も検討してみると、彼女の「社会的弱者」に対する驚くほどの無神経さが目立ちます。原発関連死亡者や疾病者とその近親者のみならず、一時は16万人を超えた福島の避難民、そして今も故郷の我が家に帰れない多くの人々、家族離ればなれになって暮らすことを余儀なくされている人々など、他者の「痛み」に想像力を働かせ、その「痛み」を自分のものとして深く内面化するという能力に全く欠けていることが分かります。
2014年8月28日、自民党のヘイト・スピーチ対策検討プロジェクト・チームは、その初会合の席で、ヘイト・スピーチとは本質的に異なる国会周辺での街宣やデモを規制する対策についても同時に議論する方針を確認しました。その際、高市は「仕事にならない状況がある。仕事ができる環境を確保しなければならない」、「批判をおそれず、議論を進める」と述べています。国会周辺での騒音防止のために拡声器使用を規制する「静穏保持法」との関連で街宣やデモの規制のあり方を議論しようというのならまだ分かりますが、ヘイト・スピーチ規制に乗じて街宣やデモによる「表現の自由」まで規制してしまおうという考えは、あまりにも危険です。ヘイト・スピーチの本質は「人種差別」であり、「表現の自由」で保障されるべき類の行為でないことは明らかです。奇しくも、翌日の29日、国連人種差別撤廃委員会が日本のヘイト・スピーチと憎悪犯罪に関する勧告を行いました。その勧告の中では、「人種差別的ヘイト・スピーチへの対処に関する一般的勧告35(2013年)を想起し、当委員会は、人種差別的スピーチを監視し対処する措置は、抗議の表現を奪う口実として使われるべきではないことを想起する。しかしながら、委員会は、締約国(日本)に人種差別的ヘイト・スピーチやヘイトクライムから保護する必要のある社会的弱者の権利を擁護する重要性を喚起する」と述べています。これは、明らかに高市の発言を意識して書かれた警告と思われます。
2016年2月8日、衆議院予算委員会で奥野総一郎議員(民主党)が、「憲法9条改正に反対する内容を相当の時間にわたって放送した場合、電波停止になる可性があるか」と質問したのに対し、高市は総務大臣として、放送局が政治的公平性を欠く放送を繰り返せば、放送法4条違反を理由に電波法76条に基づき停波を命じる可能性があると答弁し、物議をかもしました。「憲法改悪」に反対する意見を放送することが「公平性」を欠くという意見は、まさに安部政権が最近ますます強く押し出しているもので、これまた「表現の自由」を抑圧し、メディアの発信情報内容をコントロールしようという意図が明らかです。これまで安部政権に批判的な意見をしばしば放送してきた3つのテレビ・ニュース番組のニュース・キャスターが、2016年3月末でいずれも辞めているのは、まさにこうした抑圧政治の表れであることは誰の目にも明らかなことです。高市の答弁は、明らかに安倍晋三の意見と政策をそのまま代弁したものなのです。高市の発言は、現行憲法99条の「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員はこの憲法を尊重し擁護する義務を負う」との規定に明らかに反する、違憲行為です。
この類の暴言から明らかなことは、高市には、「表現の自由」が健全な民主主義社会を維持するためにどれほど重要であるかという認識、政治家にとって不可欠の認識が全く欠如していることが明らかです。しかしそれだけではなく、こうした暴言から明らかになるさらに重大な問題は、彼女が市民を「支配の対象」とみなしているということです。人間関係をもっぱら「支配・非支配の関係」から見ており、「政治家の自分には市民を支配する権利がある」という強い驕りを抱いていることが、彼女の他の暴言からも明らかとなります。人間関係をもっぱら「支配・非支配の関係」から見る人間は、自分より政治権力の面で弱い立場にある他者に対しては支配意識をモロに誇示する一方で、自分より強い権力を保持している人物には徹底的に従順な態度をとります。もちろん、これは女性に限らず男性にも当てはまる現象ですが、後述するように、日本の女性議員の場合にはその傾向がとりわけ顕著になるように思えます。
IV: ジェンダー論から見る右翼女性議員たちの「女性像」問題
こうして、「慰安婦バッシャー」である自民党の女性国会議員の言動を分析して明らかになることは次のような特徴です。
(1)女性である自分たちが、男が支配する政治社会の中で自分たちなりに奮闘努力した結果、男の政治家に負けないような地位と権力を現在握ったのであるという強い誇りを持っていること。
(2)それゆえ、現在の男性支配的な経済社会制度とイデオロギーを、真のジェンダー論的な意味での「平等」なものに変革する必要性を痛切には感じておらず、現在の社会状況に対して不満がある女性は、彼女たちと同じように現行制度のもとで地位と権力を獲得するように努力すべきであると、基本的には考えていること。したがって、ジェンダー論的視点から日本の歴史や経済社会を批判するフェミニストたちを敵視していること。
(3)このような高いプライドを持っていることから、同性の女性であっても、社会的「弱者」に対しては極めて冷淡で、とりわけ貧困ゆえに売春(現在ではいわゆる「風俗業」)をしなければ生きていけないような困窮状態にある女性を、(公の場で批判することはなくても)本心では蔑視していると推察されること。すでに述べたように、「弱者」の「痛み」に対する驚くほどの想像力の欠如は、主としてこのプライド=驕りに原因するものと思われること。
(4)男性支配的な日本の政治社会、とりわけ権力保持政党である自民党の中で、自分も男と同じように、あるいはそれ以上にその権力の一部を享受し一定の地位を獲得し維持し続けていくためには、現在最も強い権力を保持している安倍晋三の権力の傘下に入り、安倍に気に入られるような言動を人一倍強く公の場所で表明する必要があると感じていること。政治世界でマイノリティーである女性であるという「弱み」ゆえ、なおさら目上の権力者と党への忠誠心を、男性議員たちより一層強く表明する態度をとる傾向があることは、彼女たちの発言にはっきり現れていること。
(5)したがって、「慰安婦」問題はもちろん、「侵略戦争」、「東京裁判」、「戦争責任」などの歴史問題でも、自民党タカ派のどの男性議員よりも彼女たちの言動のほうがよほど反動的で、安倍晋三が大いに喜ぶような内容になっていること。
(6)その結果、当然、女性の「性」問題一般に関しても、安部ならびに彼を支える男性議員や男性右翼活動家たちの伝統的・家父長制的「性観念」を、なんら批判的に検討することなく、そのまま自己の考えとしてしまっていること。つまり、「性の二分化」、すなわち「良妻賢母」対「性の快楽=風俗嬢」という性観念を受け入れているだけではなく、すすんで提唱していること。
以上の特徴の中で、さらに三点について、もう少し詳しく批判を展開してみたいと思います。
(A)「男なみ平等」は真の「平等」ではない
上野千鶴子氏はフェミニズムが内包する思想の一面を次のように説明しています。「フェミニズムはあくまでもマイノリティの思想であったと私は思っています。マイノリティというのは、この世の中でワリを食った、差別を受けた、弱者の立場に立つ人々のことです。フェミニズムは『女も男なみに強者になれる』と主張してきた思想ではなく、『弱者が弱者のままで尊重される思想』だったはずで」、「ジェンダー平等のゴールは、理論的にも『女が男なみになる』『男に似る』ことではありえず、ジェンダーの差異そのものの解体でしかない」のであり、「制度の差別性を温存したまま、女がそこに男並みに参入していくことがフェミニズムのゴールではない」と。私はこの意見に全く賛成です。これは「民主主義」の定義と合致します。どのような弱者も、弱者としてその人の権利と思想が尊重されるような社会が真の「民主主義社会」であり、フェミニズムとは、この「民主主義思想」をジェンダー視点から提唱しているものだと私は考えます。あえて上野氏の説明を補足するなら、「制度の差別性」だけではなく「イデオロギー上での差別性」も私はひじょうに重要だと思います。なぜなら、「制度上の差別性」が廃止されても、その制度を使う人間が「イデオロギー上で性差別意識」を持っていれば、制度は決してうまく活用されません。
これとは全く対照的に、稲田、山谷、高市らの「ジェンダー意識」は、「弱者を弱者のままに差別する」意識であり、男の世界に参入して、男よりもっと「男に似た」女性となっています。(この種の最も典型的な女性政治家の一人が、「鉄の女」と言われた、英国首相マーガレット・サッチャーでした。彼女が残した格言のなかに「敗北?私はそんな言葉の意味が分からない
Defeat?
I do not recognize the meaning of the word.」という興味深いものがあります。)
(B)権力と自己の同一化
すでに別なところで私は書いておきましたが、権力に自ら服従する人間を批判する描写として、しばしば「権力に媚びる」という表現を私たちは使いますが、この表現は正確ではありません。「媚びる」のではなく、フランクフルト学派の哲学者、テオドール・アドルノが述べているように、彼らは「権力と自己を同一化させる」のです。安倍の権力と自己を同一化することで、あたかも自分が権力を握ったかのような幻想を持ち、それゆえ、安倍には絶対に服従する一方で、目下の者には自分に絶対服従を要求するのです。同時に、そうした人間には確固たる個人の信念に基づく「自律」が欠落しているため、権力集団に密着同調し、その集団からの援護がないと生きていけない。稲田、山谷、高市らの言動からは、アドルノが解説したこの「権力と自己の同一化」現象がはっきり読み取れます。
しかも、すでに述べたように、彼女たちには「権力と自己の同一化」への執着が、男性議員たちより強く現れています。こうした「権力と自己の同一化」現象が日本社会を隅々まで覆っていたのが、日本では戦時中の天皇制=軍国主義的全体主義の時代であり、ドイツではナチス政権時代だったのです。ところが、日本では、この集団同調主義(竹内芳郎氏が「天皇教」と呼ぶもの)がいまだに脈々と息づいているのです。稲田と高市が西田昌司参議院議員も加えて、ネオナチ団体である国家社会主義日本労働党の代表と嬉々として記念写真におさまっており、そのうえ、高市が20年ほど前に自民党広報部長が出版し、その後絶版、回収となったヒトラーを賛美する書籍に推薦文を書いていたことが2014年9月に明らかとなりました。この事実ほど、彼女たちがまさしく「天皇教」の信奉者であることをこれほど明らかに証明している具体例はありません。
(C)「母性賛美」と「良妻賢母」
山谷が、「子守歌を聞かせ、母乳で育児」というような「親学」を推進していることはすでに述べました。この推進で山谷が提唱しているのは、結局は「母性賛歌」であり、この場合の「母性」とは、加納実紀代氏の表現を借りれば「自己犠牲と無限抱擁」、つまり「母たるものは、子のためには我が身を犠牲にすることもいとわない、子がなにをしようと無限に許し、見守る存在」ということになります。「母性賛歌」は世界中どこにも多かれ少なかれ見られる現象(例えばマリア崇拝)ですが、日本の場合には、それが「良妻賢母」という女性の理想像を作り出し、「自己犠牲と無限抱擁」という天皇制イデオロギーとも深く絡みあって、女性に「無我と献身」を要求することにつながっています。とくに、男のための「自己犠牲」、「無限抱擁」、「献身」が美徳とされるようになりました。戦時中は、この作られた「母心」(例:知覧の「特攻おばさん」の「母心」)が「総力戦」のために大いに活用され、多くの若者を全く無意味な犬死へと追いやることに利用されました(その詳細については、加納氏の著書『天皇制とジェンダー』を参照してください)。
「権力と自己の同一化」に激しい執着心をみせている彼女たちが、その一方でこのような「自己犠牲と無限抱擁」の「母心」を提唱することは一見矛盾のように思えます。しかし、権力保持者=男に対する「自己犠牲と無限抱擁」というロマンチシズムによってこそ、「権力と自己の同一化」を自己正当化することができ、自分もまたその権力のオコボレを享受できるというわけです。同時に、そのような「母心」を持っている自分だからこそ、他者(とくに男)は自分をどこまでも敬愛すべきだという論理になります。したがって、「権力と自己の同一化」と「母性賛美」は、彼女たちの思考の中では決して矛盾していないのです。だからこそ、これまた「天皇教」と深く強く繋がっている危険なイデオロギー要素なのです。
V:
結論に代えて
加納氏が指摘された日本に特有な「女性の性の二分化」は、敗戦の1945年の後も根本的には変わらず日本社会に深く根を張ってきたことはすでに見た通りです。しかし、安部政権の下で、この「女性の性の二分化」に、これまで見られなかったような変化、性差別という意味では「さらなる悪化」と呼ぶべき現象が起きているのではないかと私は考えています。
この数年、戦後長年続いているあまりにも女性差別的な既存の日本の社会経済構造や男性支配的イデオロギーのうえに、日本軍性奴隷問題をめぐる安部晋三の虚言虚妄と悪質なメディア操作のために、国連の女子差別撤廃委員会その他の人権関連諸委員会をはじめ海外の様々な人権団体やメディアから、日本政府は厳しい批判を受けています。これに対抗しようと、安部政権は2014年に「女性活躍・すべての女性が輝く社会」という政策を打ち出しました。ところが、この政策は、基本的には、既存の女性差別的で男性支配的な様々な社会経済制度を改革するどころか、ますます労働者の権利を奪い貧富の格差を拡大させておきながら、男社会の中で男なみに「活躍する」少数のエリート女性層を創出しようという政策に他なりません。そのようなごく少数のエリート女性層を創出することで、あたかも日本社会が女性に対して「平等」な社会であるかのように見せかけるという、これまた安部の虚妄政策なのです。
この矛盾を鋭く突いた批判の一つが、2016年2月、ある女性が匿名ブログに出した「保育園落ちた 日本死ね!!」でした。共働きしないと生きていけない苦しい状況の中、しかも女性はほとんどがアルバイトなど低賃金での非正規労働にしか従事できないような経済状況の中で、子供をあずけることができる保育園設備すら十分に整っていない。そんな状況の中で、いったいどうやって女性は「活躍」し「輝く」ことができるというのか、という叫びです。この女性の本音をモロにぶちまけたブログでの叫びは、多くの女性の共感を呼びました。安部のこの「女性活用」の虚妄について、詳しくは下記の私の拙論の中の「深刻化する女性貧困問題と『女性活用』政策の本質」の欄を参照していただければ幸いですが、https://drive.google.com/file/d/0B6kP2w038jEAYmlvUWw0OTRxMHc/view?usp=sharing
ここで私は次のように書きました。
つまり、安倍政権が推進している「女性の活用」とは、主として大企業で男並みに働く優秀な「企業女戦士」を引き上げ、それ以外の女性は、家事・育児・介護をさせながら低賃金の非正規労働者としてこれまで通り搾取するという政策である。女性労働者の60%の非正規労働者の状況をそのままにしておきながら、正規労働者の女性管理職比率だけを引き上げても、ますます女性労働者間での格差が広がるばかりである。これが安倍の「アベノミクス」と「ウーマノミクス」の実態なのである。
この結果、安部政権の下で、現在、日本の女性の「性の三分化」が推進されているのではないでしょうか。それは、貧富格差拡大、とりわけ「女性の貧困化」の中で、女性が、「少数のエリート企業女戦士」、「大多数の非正規労働者」、「性サービス業従事者」という三つのグループに分化しつつあるのではないかというのが私の印象です。しかも、非正規労働者である多くの主婦やシングルマザーたちの中には、家庭内(あるいは元の夫による)暴力、いわゆるDVの被害者が急増しつつあることも周知の通りです。これは、男たちの職場での労働条件の悪化と貧富格差拡大により、男たちがその不満のハケグチを女性に向けるということ、つまり職場で自分が「支配、抑圧されている」鬱憤を、職場外での弱者=女性に対する「支配力誇示」という形で解消するということの表れでしょう。この「支配力誇示」は、通常の「非正規労働」にも就けないため「性サービス業」という生存の道を選んだ女性の「性の搾取」という形でも、日本社会では広範に見られる現象です。さらに、この「支配力誇示」がますます直接的暴力の形をとるようになってきており、強姦などの性犯罪やストーカーの結果としての傷害、殺人も急増しているというありさま。つまり貧困化という構造的暴力が直接的暴力を必然的に生み出し、その多くの場合、弱者である女性が被害者にさせられているのが現状です。したがって、このような「弱者を弱者として差別し、暴力の対象とする」社会を平気で作り出している安部政権が、「慰安婦バッシング」を恥ずかしくもなく公然とやっているのは、少しも不思議ではないのです。よって、「慰安婦問題の解決」は単に歴史認識の仕方と戦争責任のとり方の問題のみならず、日本のこうした憂うるべき社会現状と深く関わっている問題です。「性差別」が既存の社会経済制度とイデオロギーに強烈な形で組み込まれている日本の社会現状の根本的改革なくして、「慰安婦問題の最終的解決」はありえない、と私は考えています。悲惨なのは、自民党女性議員がこの「慰安婦バッシング」に加わり、元「慰安婦」に対する「加害者」となっていることです。
以上は、男の私の分析ですので、どこまで女性国会議員である「慰安婦バッシャー」の心理思考や「女性差別問題」が的確に把握されているか、あまり自信はありませんが、みなさんのご批評をいただければ幸いです。忌憚のないご批判をいただければ嬉しいです。「これは男の独りよがりだ」というような厳しいご指摘でも構いません。
しかし、ここで試みたのはごく少数の女性国会議員だけを分析対象としたもので、もちろん政治家ではない女性のなかにも「慰安婦バッシャー」は多々います。この人たちの心理思考を分析するのは、今後の課題で、そのためには、まだまだ私には勉強しなければならないことがたくさんあります。
しかし実は、詳しく説明している時間的余裕は今はないのですが、女性による「慰安婦バッシング」を男が批判することと女性が批判することは、根本的に違っていると私は考えています。女性の「加害性」を「被害性」と同時に女性自身が問うことが本来のフェミニズムであって、「女性の被害性」だけを問題にするアプローチの仕方はフェミニズムとは言えなのではないか、と。他方、男は男の立場から「女性に対する暴力」の「加害者」として自己分析的な視点から「加害性」を批判的に分析することができるはずですし、同時にそうしなければならない倫理的責任が男にはあると思います。長くなりすぎましたので、この方法論の性的差異の問題については、また別の機会に論じてみたいと思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。
田中利幸