2015年9月25日金曜日

反骨精神で優れた写真を撮り続けた福島菊次郎さんに、心から感謝


私の尊敬する写真家、福島菊次郎さんが昨日、他界されました。
山口県柳井市の福島さんの御自宅である、8畳一間ほどの狭いアパートに幾度かお邪魔して、愛犬を抱える福島さんから様々なお話を伺ったことが、つい先日のように思い出されます。本当に気骨のある、すばらしい人でした。写真撮影技術は独学であったため、写真専門学校で学んだような優等生のプロ写真家の眼からすれば、技術的には優れた作品とは評価されなかったもしれません。しかし、そんな小手先の技術など、福島さんの写真作品から受ける強烈なインパクトの前では、全く気になりません。福島さんのあの強烈な精神力が、レンズを通過して被写体を確実につかみとらえて離さず、捉えた映像で「これを見ろ!」と私たちに迫ってくるその迫力。こんなすごい写真は、福島さんだからこそ撮れた映像でした。福島さんの作品は、四國五郎さんの絵画と同様、どこかケーテ・コルビッツにつながるような印象を与える、すばらしい芸術作品です。それは、福島さんもまた、社会の最底辺で苦しむ人、差別される人、戦争被害者、権力に抑圧される人たちの「痛み」にレンズのフォーカスを当て、「痛みを芸術に変える創造力」で写真を撮り続けたからではないでしょうか。

福島さん、すばらしい作品で感動を与え続けていただいたことに、本当に感謝します。ご冥福を祈ります。

福島菊次郎さんの生きざまと作品を紹介した、私の英語論考です。

福島さんの霊に、今、我が家の庭で満開の枝垂桜と蘭の花の写真を捧げます。
今、オーストラリアは初春です

安倍晋三に向けて、市民から「三本の矢」を射よう!



金融緩和・財政出動・成長戦略を「三本の矢」とするアベノミクスなるものがすでに破綻していることは誰の目にも明らか。このことを誤魔化し、さらには明らかな違憲である安保法制=戦争法案をこれまた無法にも強行採決したため、全国からあがっている強い批難の声をなんとか逸らそうと、安倍は、またまた虚妄に満ちた「新三本の矢」なる政策を打ち出しました。安倍が主張する「強い経済」・「子育て支援」・「社会保障」が、安倍政権下では実現不可能であるどころか、全くの嘘八百であることは、これまた明白。日本の債務残高=借金が1053兆円(20153月末現在 国民一人当たり830万円)にもかかわらず、相変わらずの国債発行で借金を増やし続ける政策では、遅かれ早かれ財政破綻が日本を襲うことは避けられません。金がないのに嘘でかためた「平和主義」のためには大判振る舞い。防衛予算は2013年以来4期連続の増額で、来年度予算は2.2%増額の過去最高の5兆円。一方、社会保障や子育て支援は減る一方で、とりわけ孤老と母子家庭は文字通り「貧困状態」。

こうした欺瞞と虚妄に満ちた安倍を一刻も早く政権から引きずり降ろすためには、市民の側から「三本の矢」を放ち続け、安倍に政治的致命傷を与えることが必要です。その「三本の矢」とは、言うまでもなく「戦争法破棄」、「原発再稼動阻止」、「沖縄辺野古新基地建設阻止」の「三本の矢」です。

ちなみに、安倍の「輝く女性政策」もまた、いかに虚妄に満ちたものであるかは、「日本軍性奴隷問題」に対する彼の長年にわたる「元慰安婦バッシング」の経歴をみてみれば明らか。もう、これについては様々な情報がすでに出ていますので、いまさらあらためて情報提供するまでもないかもしれませんが、拙著論考「安倍晋三と日本軍性奴隷問題
– 虚言に満ちた<慰安婦バッシング>とその日本社会的背景」を参考にしていただければ光栄です。

下記アドレスからダウンロードできます。
https://drive.google.com/file/d/0B6kP2w038jEAYmlvUWw0OTRxMHc/view?usp=sharing
 



2015年9月19日土曜日

どうする、日本の「民主主義」?


みなさん、連日のデモ行動、本当にご苦労様でした。残念ながら、明らかな憲法違反である安全保障関連法=戦争法が、欺瞞・虚偽・脅かしなど様々な悪どいマフィヤ手法を使う安倍と彼をとりまく政治屋たちの共同謀議=犯罪行為で採決されてしまいました。しかし、この数週間の全国での市民の反対運動、若者たちの熱気あふれる活動は、「市民の底力」をまざまざと政治屋たちに知らしめたことは明らかです。その一方、日本政府による今回のあからさまな憲法違反行為は、言うまでもなく、単なる安倍政権の問題ではなく、アジア太平洋戦争敗戦以降のこの70年の間、日本の「民主主義」が、いかに「(自国のみならず他国の)市民の人権」をないがしろにする「民主否定主義」であったか、その70年のツケが一挙に噴き出した形のものであるかを、私たち市民にもろに知らしめました。



昨日、国会で山本太郎議員が、「自民党は死んだ」というメッセージを出すため、喪服で葬式パフォーマンスをやりました。私にはこのパフォーマンスが、「日本の民主主義の死」を象徴しているように思えました。この機会に、日本の「半死状態」とも言える「民主主義」をどうすべきかを根本的に再検討し、「市民のビジョン」でいかに強固な「民主主義」を打ち立てていくか、いかにその道筋を作る具体策をたてるかを、みんなで議論すべきだと考えます。今回わたしたちが見せた「市民の底力」で、それを成し遂げなければ、わたしたちと日本の子供たちに「未来」はありません。



私自身は、「<過去の克服>なしに民主主義構築は不可能」という考えです。今年の226日に横浜で長時間にわたって持論を述べる機会を与えられました。それは、前田朗さんが企画する「平和力フォーラム」というもので、その場でも、その持論を述べておきました。このような機会を与えていただいた前田さんに心から感謝します。長時間にわたる話ですので、全部を観ていただく時間はないかと思います。最初の123分は前田さんのイントロ、そのあと、2時間ほど私がしゃべりまくっています(苦笑)。お時間のない人は、2時間20分目あたりからの質疑に対する私の応答だけでも観ていただければ光栄です。そこで、「民主主義」と「過去の克服」について簡潔に持論を述べたつもりです。

下記アドレスをご参照ください。



「平和力フォーラム」


2015年9月1日火曜日

アンジェリーナ・ジョリー監督製作映画と人肉食問題: 戦争の「狂気」と民主主義を考える

一昨日の東京をはじめ全国250ヶ所ほどの場所での安保法案抗議と安倍退陣要求デモには感動します。1年前には考えられなかったような全国民的広がりでの問題意識の高揚、とりわけ若者たちの熱心な参加に嬉しい驚きを感じます。この勢いで、ぜひとも安倍内閣を打倒したいものです。

ただ、根本的な問題は、本来ならば、安倍のような低劣な政治家が首相には絶対になれないような、もっとしっかりした民主主義を日本社会にこれまで我々が築いてこなかったことです。したがって、こうした活動が一過性に終わらず、これを機会に、若者たちが、地道で堅固な「民主主義構築」活動を続けていくことを期待します。「民主主義構築」のためには、いまさら改めて言うまでもないと思いますが、私たち自身が、過去から深く学んだ重厚な歴史認識を持つことが必須条 件です。そうした堅固な歴史認識を持たない人間は、現在の問題に対する分析力の点でも、自分たちのあるべき未来像を描く点でも、極めて貧困にならざるをえないことは、安倍晋三という人間の言動を見てみれば一目瞭然です。

歴史認識と言えば、日本人の中のいわゆるネトウヨと呼ばれる連中の深く歪んだ、劣悪な歴史感覚については、もう議論するまでもないのですが、ある問題で、私への個人攻撃が今年の前半にかなり激しくネトウヨから出されたようですので、ここでそれに対する応答を簡単に述べておきます。実は、攻撃内容があまりにも 低劣きわまりないので、こんなバカバカしいことに反論するためにエネルギーと時間を無駄にはしたくないと思い、今まで無視してきました。しかし、ネトウヨの連中を信じる若者もいるかと思い、今回一度だけ、反論しておきます。と同時に、それに関連した戦争の「狂気」についての持論を述べておきます。時間が もったいないので、二度と繰り返しはしませんが。

その問題とは、実は、かの有名なアンジェリーナ・ジョリーが初監督・製作した映画『アンブロークン』と密接に関連しています。201411月にオーストラリアで世界初封切りとなったこの映画は、2010年に出版された、ローラ・ヒレンブランド著の、ノンフィクション『Unbroken: A World War II Story of Survival, Resilience, and Redemption』という本に基づいて製作されました。本の内容は、第2次世界大戦中に日本軍の捕虜となった米軍爆撃機搭乗員のルイス・ゼンペリーニの捕虜体験記『Devil at My Heels』と、彼からの聴取り調査をもとにしており、映画では日本軍による捕虜虐待の実態がまざまざと描写されています。ゼンペリーニは、1936年ベルリン・オリンピックのアメリカ代表の中距離ランナーとしてかなり名を知られた人でした。

下記サイトは映画の紹介です:

ゼンペリーニは、日本軍による捕虜収容所での様々な虐待にもかかわらず、戦後は日本人に対する深い憎悪心を克服して、その後、数回日本を訪問して多くの友人を作っています。1998年の長野冬季オリンピックでは聖火ランナーとして、自分が収容された直江津捕虜収容所のあった上越市内を走っています。残念ながら、映画が封切られる前の201472日に97歳 で彼は亡くなっています。下記は彼の生涯に関するドキュメンタリー・フイルムです。説明は英語ですが、このフィルムの最後に、彼が聖火ランナーとして走っている映像が含まれています。この映像は、映画『アンブロークン』の最後でも使われています。私はオリンピック反対論者ですが、このシーンには感動します。

(ちなみに私のオリンピック反対論については下記サイトをご笑覧ください。

なお、この映画についてはすでにいくつもレヴューが書かれていますが、私の友人、乗松聡子さんも『週刊金曜日』(2015123日号)に書いています。

問題はこの映画ではなく、映画の原本となった本の執筆者であるヒレンブランドが、私の英語の本『Hidden Horrors :Japanese War Crimes in World War II』を情報源として、以下のような文章を書いていることから起きています。

Thousands of other POWs were beaten, burned, stabbed, or clubbed to death, shot, beheaded, killed during medical experiments, or eaten alive in ritual act of cannibalism. 他の何千人もの捕虜が、叩かれ、焼かれ、刺され、こん棒で死ぬまで殴られ、撃たれ、斬首され、医学実験で殺され、人肉食の儀式として生きたまま食われた。」

ネトウヨたちは、捕虜が「叩かれ、焼かれ、刺され、こん棒で死ぬまで殴られ、撃たれ、斬首され、医学実験で 殺された」ことについては、あまり問題にしていない、というよりは、こうした捕虜虐待の史実については多くの資料や出版物もあって、すでに一般的な知識と なっているため、問題にできないようです。ところが「人肉食の儀式として生きたまま食われた」という表現に注目して、その言葉をあたかも私がそのまま述べ たかのように受け取り、私を「大嘘つき」と批判しているわけです。日本兵が人肉食をやったなどという証拠は全くなく、ましてや「儀式」としてやったなどという大嘘をつく「アカ脳歴史学者」の田中は許せないというわけです。ネトウヨの中には、ここからもっと妄想が拡大して、「田中は、日本軍兵が慰安婦を殺害 して、その肉を食べたとまで主張している」などという、メチャクチャなデマ攻撃をしている者まで現れました。

映画の中には「人肉食」の話は一切出てきませんが、この文章だけを大問題にして、したがって、この本を元に製作された映画そのものが大嘘であり、反日プロパガンダ以外の何ものでもないし、アンジェリーナ・ジョリーも反日イデオロギーに染まったけしからぬアメリカ人、という短絡な論理をネトウヨたちは展開したわけです。実際に映画を観てみればお分かりだと思いますが、内容は全く反日などではなく、残虐行為を受けた人物 が、いかに困難を乗り越え、最終的には敵に対する憎悪をも克服したかという、戦争に駆り出された若者の勇気ある体験を描き出したものです。にもかかわらず、実際には映画を観てもいないネトウヨたちがデマ攻撃をやり、これを週刊文春や産経新聞がさらに煽ったため、この映画は、日本では、公開見送りにまでなりました。

とにかく、「人肉食の儀式として生きたまま食われた」という表現が、なぜ私の本を元に出てくるのか、そのことについて説明します。ここには3つの問題があります。
1)日本軍は人肉食を行ったのか?
2)人肉食を「儀式」として行ったのか?
3)捕虜を生きたまま人肉食の対象としたのか?

1)まず第1の問題ですが、これについては私があらためて学術的論文を書くまでもなく、実際にニューギニアやフィリッピンの戦場に送りこまれ、飢餓と熱帯病と闘いながら なんとか生き延びた生存者が、戦後著した多くの体験記の中で触れています。例えば、もうとっくに亡くなられましたが、ニューギニアで生き延びた兵の一人、 尾川正二さんの著書『極限のなかの人間:「死の島」ニューギニア』、『東部ニューギニア戦線:棄てられた部隊』には、おぞましい人肉食の実態があからさま に書かれています。また、小説という形はとっていますが、ほとんど自分の実際の体験記である、大岡昇平の『野火』の中では、兵隊が「猿の肉」をとるために 仲間の兵を殺害するという形で、人肉食が暗示されています。さらに、これまたニューギニア戦線の生残り兵である奥崎謙三という稀有な人物に焦点を当てたドキュメンタリー映画『行き行きて神軍』の中でも、昔の同僚兵たちが、人肉食が頻繁に行われていたことをはっきりと告白しています。

ただ、こうした事実が広く知られていたにもかかわらず、この事実を公式な軍書類として裏付けるような資料は、私がオーストラリア国立公文書館ならびに戦争博 物館所蔵の大量の関連資料を見つけるまでは、ほとんどその存在が知られていなかったのです。「発見した」という表現は、実は正確ではありません。「偶然に 資料に出会った」と言ったほうが適切でしょう。実は、199192年頃、私は日本軍が犯した様々な戦争犯罪に関する豪州軍作成書類について調査しており、公文書館と戦争博物館に足しげく通っていました。そのとき、偶然「日本軍戦争犯罪関連秘密文書:公開禁止」という書類に出会ったのです。そこで、この書類の秘密を解除して読めるようにしてくれるよう、申請を公文書館に提出 しました。そのことをすっかり忘れていた半年ほど後に、公文書館から「秘密文書を公開する」という連絡を受けたので、早速公文書に出かけて書類を読んでみ て、本当に驚きました。これが、ニューギニアにおける日本軍の人肉食の、あるケースに関する詳細な報告書だったのです。驚いた私は、同じような書類がもっとあるはずだから、関連書類を公開してくれるよう申請したところ、公文書館も戦争博物館も次々と非公開の関連資料の秘密を解除したのです。おそらくは、1990年代に入って、「もうこの類の書類は公開してもよい」という豪州政府側の決断によったのではないかと想像します。おかげで、私は大量の関連報告資料(ほとんどがニューギニアでのケース)を入手した最初の研究者になったというわけです。これらの資料を分析した結果を、1993年に出版した日本語の著作『知られざる戦争犯罪:日本軍はオーストラリア人に何をしたか』の第4章「ウエッブ裁判長と日本陸軍の人肉食罪:『人肉食』に関する豪州軍資料を中心に」で発表しました。1994年には米国の国立公文書館で、フィリッピンでの日本軍人肉食に関する米軍の調査報告書を数多く見つけ(米国の場合はこの関連の書類は秘密扱いにはなっていませんでした)、豪州軍と米軍の両方の資料を使って書いた論考を、1996年に出版した上記の英文拙著Hidden Horrors の中の1章として入れました。ニューギニアに関する豪州軍資料では、その被害者の多くが豪州軍兵士ですが、地元住民や捕虜が被害者となったケースの報告もあります。フィリッピンでの米軍調査報告書の場合は、被害者は主として米軍兵でした。

2)次は「儀式」として行ったのか、という問題です。豪州軍報告資料が公開になるまでは、元日本兵の告白や自伝からの限られた情報しかなかったため、私たち研究者が推測していたのは、人肉食は飢餓状態という極限状況に追いやられた兵隊たちの中に、場当たり的突発的に、殺害した敵兵の肉を削いで料理したり、仲間の兵を犠牲者にして人肉食を行った者が出たのではなかろうか、ということでした。ところが、大量の豪州軍報告資料を分析してみて明らかになったことは、日本軍の兵隊たちが(小隊、中隊といった)グループで、組織的に、 殺害した敵兵の身体を自分たちの陣地に運び込んで、解体し、料理して、食しているということが分かりました。当然、こうしたグループ行動に参加しなかった 兵たちがいたわけですが、こうした兵たちは、仲間外れにされただけではなく、殺害されたケースが多々あったように思われます。例えば、『行き行きて神軍』 のフィルムでは、「敵前逃亡」の罪で2人の兵士が射殺されたことを戦後になって知った奥崎が、処刑した上官5人を訪ね歩き、彼らをとことんまで追求し、当時の生々しい状況を聞き出していくわけです。結局は、射殺された2人は「人肉食」に参加しなかった者たちであったことが、このフィルムでは暗示されています。その上、敵軍兵士の人肉をグループで食すことで、グループの結束を強めると同時に、「敵への支配力」を相互確認しあうという心理的作用も働いていたのではないか、というのが私の推測でした。こうした「組織的行動」「グループ心理」に関する私の分析を、ヒレンブランドが「儀式」という言葉で言い換えたわけで、ここに誤解が生じたのです。「儀式」という言葉が、あたかもなにか特別なセレモニーでもやりながら人肉食を日本兵がやったかのような印象を与えてしまっています。ひじょうに不適切な表現だと思いますし、原著者の私としては、そのように私の分析を言い換えたことに強い不満を感じます。この点、誤解がないようにしていただくには、私の著書『知られざる戦争犯罪』を実際に読んでいただくのが最も理想的です。 残念ながらこの著書は絶版になっていますが、図書館にはありますので、ご興味のある方はぜひご一読くだい。また、全く私の知らない人が、自分のブログで、 私のこの著書の内容を紹介しており、この紹介文でも第4章の「人肉食」をとりあげて、私の分析について、ほぼ正しく、簡潔に説明しています。下記がそのサイト・アドレスです。

3)「生きたまま人肉食の対象とした」という問題。この問題については、まず、拙著『知られざる戦争犯罪』の22930ページから書き出した下記の証言を読んでください。この証言は、日本軍にニューギニアに連行されましたが、殺される寸前に逃亡してオーストラリア軍に救助された、パキスタン人捕虜ハタム・アリ上等兵がニューギニアでの体験を証言したものです。

「われわれはここから300マイルほど離れた場所に連れていかれ、毎日12時間という重労働に従事させられましたが、食糧はごくわずかしか与えられませんでした。医薬品もまったくもらえず、病気で倒れる捕虜はみんな即座に日本兵に殺されました。その後、連合軍の攻撃活動が激しくなったため、日本兵たちの食糧も底がついてしまいました。われわれ捕虜は草や葉っぱを食べさせられ、あまりのひもじさから蛇やカエル、そのほか虫さえ食べました。このころから、日本兵たちが捕虜の中から毎日一名を選んで連れ出し、殺害して食べることを始めました。私自身、これが行なわれるのを目にしました。この場所では100名ほどの捕虜が日本兵によって食べられてしまいました。残りの捕虜はそこから15マイルほど離れた場所に連れていかれ、ここで10名の捕虜が病気でなくなりました。 この場所でも日本兵は捕虜を選んで食べ始めました。選ばれた捕虜は小屋の中に連れていかれ、生きたまま身体から肉が切り取られました。そして、生きたまま地面に掘ったくぼみに投げ込まれ、そこで死んでいきました。肉がそぎ取られるとき、選ばれた捕虜は恐ろしい泣き声と金切り声の悲鳴をあげ、投げ込まれたくぼみの中からも同じような声が聞こえてきました。その泣き声はその不幸な捕虜が死んでいくにしたがいしだいに弱々しい声に変わっていきました。われわれ捕虜は、このくぼみに近寄ることを許されませんでした。しかし身体に土がかけられなかったため、ひどい悪臭が漂ってきました。」

私はこの証言について「この恐るべき証言がはたしてどこまで真実であるかは、今となっては確認のしようがない」と書きました。しかし、もしこれが真実だとすれば、「捕虜を殺さずになるべく長く生きながらえさせれば、それだけ長く『食糧』が腐敗しないで『自然保存』できる」という、「食糧保存のための段階的殺戮」であったのではないか、とも書きました。

再度述べておきますが、この証言が真実であるかどうか、私には確信が持てないのです。しかし、ニューギニアやその近辺の島々に、多くのインド人捕虜や朝鮮人 労務者が、飛行場建設やそのほかの日本軍施設の建設現場での強制労働のために連行されていき、彼らの多くもまた、飢餓と熱帯病で死んでいったことは、豪州軍の戦争直後の詳しい調査報告書から明らかなところですし、インド人捕虜が日本軍の人肉食の犠牲になったケースについては他にも豪州軍の報告があります。 オーストラリア戦争博物館には、当時、豪州軍に保護された、痩せてガリガリになったインド人捕虜たちの姿が映されている写真やフィルムの映像もたくさん所 蔵されています。しかし、問題は、たとえ真実であったとしても、この例外的とも言える人肉食ケースが、あたかも一般的であったかのようにヒレンブランドが表現していることが問題です。私が豪州軍、米軍の関連報告資料を分析した数多くの「人肉食」ケースで、「生きたまま」のケースは、これ1件で、他には例がありません。
以上が、私の「人肉食の儀式として生きたまま食われた」という点に関するコメントで、同時にネトウヨの批判に対する応答です。ネトウヨの連中は、実際に映画も観ていないし、私の著書も読まずに、「反日、反日」と騒いでいるわけです。

結局のところ、結論として私が言いたいことは以下のような点です。
1)日本軍将兵は、とりわけ食糧や医薬品、兵器弾薬も十分与えらないままに熱帯のジャングルという戦場に送り込まれた将兵たちは、飢餓と熱帯病でバタバタと死んでいきました。東部ニューギニア戦線に送られた日本人将兵の数は158千人弱でしたが、その94パーセントが亡くなっており、そうした死亡者のほとんどが餓死または病死です。この人たちは文字通り、天皇裕仁と日本政府に棄てられた「棄民」であり、「犬死」させられた人たちです。

2)飢餓で死んでいくことを避けるための極限的な手段として、彼らは、往々にして「人肉食」を行いました。そして、その「人肉食」を部隊で組織的に行うところまで彼らは追い詰められていったのです。私はこれを、「極限状況で強いられた集団狂気的行動」 と表現したいと思います。「集団狂気的行動」に参加できなかった、かろうじて「正気」を保っていた兵は、しばしば「狂気集団」によって抹殺されました。こうした集団のメンバーにとっては、自分たちが「正気」であり、「正気」をなんとか保っていた人たちが「狂気」だという「妄想」に捉われました。これが、戦争が産み出す「狂気」のなんとも恐ろしい、おぞましい実態なのです。「戦争」という問題を考えるとき、私たちは、戦争が産み出すこの厳然たる非情な狂気=現実を直視することを忘れてはなりません。

3)その上でもう一つ忘れてはならないことは、このような「狂気」を産み出した責任は誰にあるのか、という「日本の戦争責任問題」です。奥崎謙三は、1969年の一般参賀で、15メートルという近距離から裕仁に向けてパチンコ玉3発を発射しました。さらにもう1発を、「ヤマザキ、天皇をピストルで撃て!」と叫びながら発射。1発も当たりませんでした。(当時はバルコニーに防弾ガラスが入っていなかったのですが、この事件以降から入れるようになりました。)天皇であれ誰に対してであれ、パチンコ玉を狙い射つことに私は断固反対しますが、奥崎の気持ちは十分理解できます。奥崎の行動は、奥崎と彼の殺された仲間達にとっての「戦争=狂気」を産み出した張本人に対する「狂気的行動」であったと言えるのではないでしょうか。「狂気」に対して本気で立ち向かうことは、往々にして自分が「狂気」に陥らざるをえないという危険性が伴うことを私たちは自覚しておく必要があります。

4)しかし、こうした「狂気」は、戦争期だけに発生するものではありません。実は、戦争で起きる様々なおぞましい事件は、そのほとんどが、平和時の我々の日常 生活のなかに隠れている人間行動現象であって、それが戦争という集団暴力蔓延状況の中で、モロに本質を露呈するわけです。例えば、現在の安倍政権にもその 現象が見られます。明らかに憲法違反である安保法制案=戦争法案を、欺瞞で塗りたくって国会を通過させようとする行動を、安倍自身はもとより閣僚や安倍を とりまく連中は「欺瞞」とすら考えていません。これは、ある種の「狂気」、しかも安倍をとりまくグループの「集団狂気」と称してよいと私は思います。したがって、私たちは、常日頃から、日常生活のなかに隠れている「狂気現象」を、具体的な「狂気行動」にまで発展させないという「民主主義運動」が必要です。 これを許せば、最終的には、私たち自身が戦争という「狂気行動」の極限状況にまで駆りやられてしまうわけです。「人肉食」問題は、「戦争の狂気」を考える 上での、ひじょうに貴重な歴史教材だと私は考えています。

日本軍の人肉食については、他にも情報がありますので、参照してください。