読書感想
井上俊夫著『初めて人を殺す 老日本兵の戦争論』(岩波現代文庫)
目下、国会では安全保障関連法案=戦争法案についての集中審議が行われているが、安倍晋三首相と閣僚の答弁は、予測していた通り、嘘と誤魔化しの連続で、なにがなんでもこれらの法案を通してしまおうというかたくなな意地がもろに見える。これは、ナチス政権がやったのと全く同じ「憲法棚上げ」を、堂々と首相自らが行うという犯罪行為そのものである。しかも、自分に反対する意見には全く耳を貸そうとはせず、口汚くやじるという、一国の首相としてはもちろん、一個人としても、民主主義の基本的手法と人間としての品格を欠くテイタラクぶりを露呈している。実は、安倍が猛烈に進めている集団的自衛権行使容認、戦争法設置、壊憲などの動きは、すべてA級戦犯容疑者であった彼の祖父・岸信介が目論んでいたことであり、安倍にはなんらの政治哲学や思想といったものはなく、根本的には、動機は単なる「お爺ちゃんコンプレックス」にあると私は考えている。その詳細な説明については別の機会にゆずるが、集中審議の内容を報道する新聞にも違和感を感じる点があるので、この点と関連させて、最近読んだ一つの著書に関する感想を述べておきたい。
違和感を感じるというのは、これらの法案が国会を通り、自衛隊が海外での戦闘行為に駆り出されれば、自衛隊員に多数の犠牲者=死傷者が出るという危険性に関する記事や報道は出るのであるが、自衛隊員が他国の兵員を殺傷するだけではなく、市民をも殺傷する危険性が格段と高まることに言及する報道がほとんどないことである。もっぱら自分たちを「戦争被害者」としてのみとらえる日本人の意識が、ここにも大きく反映されており、多くの日本人には、自衛隊員が「他者を殺害する」ということに想像力が働かないらしい。言うまでもないことであるが、ベトナムやイラクで米軍兵員が市民を殺害するという戦争犯罪行為がひじょうに多かったことは周知のところである。敵が誰か分からないという状況では、いつ攻撃されるか分からないという恐怖心から、無差別に市民を殺害してしまう。「殺られる前に殺る」という心理である。言うまでもなく、これは米軍に限った現象ではない。実はこれは、アジア太平洋戦争では、日本軍も各地で犯した戦争犯罪行為であった。その最も極端で典型的な例が、主として中国華北で日本軍が展開した「三光作戦」である。抗日ゲリラ活動が激しかったこの地域では、抗日ゲリラを支援していると少しでも疑われた村落住民は、「殺し尽くし、奪い尽くし、焼き尽く」されるという日本軍の燼滅作戦の犠牲となった。いわゆる平和時には他人を傷つけることすら躊躇してしまう普通の我々一般人が、戦争に駆り出されると、いったいなぜゆえにこのような残虐行為を犯すことができるようになるのか。この問題意識にたった上で、「自衛隊の戦闘参加」で何が起きうるのかという問題を考える必要があるが、日本のメディアならびに一般市民にはこの視点が決定的に欠落している。
そこで、兵が人を殺すようになるその心理過程について、体験者として正直にその詳細を自己分析している著書、その題名も『初めて人を殺す』を紹介したい。著者の井上俊夫は1922年に大阪近郊の農家に生まれ、1942年に徴集されて中支に派遣され、捕虜生活を含め足掛け5年の間、日中戦争に従軍し、46年に帰国。戦後は野間宏、小野十三郎に師事して詩人となり、大阪文学学校や帝塚山学院短期大学などで教えた。1957年に出した詩集『野にかかる虹』で第7回H氏賞受賞。その後も数多くの詩集やエッセー、随筆を出しており、2008年に亡くなっている。実は、正直なところ、恥ずかしながら私もこの著書をつい最近読むまで、こんな本が2005年に岩波現代文庫として出版されていることを知らなかったし、井上俊夫氏という人物についても全く知らなかった。この著書は、井上氏が1990年代初期から晩年の2000年代半ばまでに発表した戦争体験に関する幾つかのエッセーを集めたものを文庫本として纏めたものである。
戦争で中国兵のみならず一般市民をも殺害した様々な残虐行為に関しては、中帰連(中国帰還者連絡会)のメンバーである元日本軍兵たちの証言録に詳しく書かれているので、それほど目新しいことではない。約1千名の日本軍兵士が、戦争直後、中国の撫順戦犯管理所に戦争犯罪人として抑留され、中国で自分が行った戦争犯罪行為について自己分析と自己反省を長年にわたって繰り返し行うことを要求され、最終的には全てを正直に告白し、1956年に中国共産党が開いた戦犯裁判でほぼ全員が起訴免除・即時釈放となり帰国した。これらの元日本軍兵たちの一部が、帰国後、1957年に創立した組織が中帰連で、彼らはその後これまで長年「反戦平和運動」や「日中友好運動」を展開してきた。今では、高齢のためメンバー数がひじょうに少なくなったが、現在も活動を続けている。戦争加害者として自分たちの責任を証言活動という形で果たそうと努力している彼らの行動には頭が下がる。彼らの証言内容が真実であることにはほとんど疑いがない。しかし、その証言の多くが、自分たちが犯した残虐行為の詳細を極めて客観的に描写し、その責任をはっきりと認めてはいるのであるが、個人としての複雑な「心の葛藤」の描写がひじょうに少ないことに私はなぜか不満を感じるのである。その原因は、撫順戦犯管理所で彼らが繰り返し自分たちの残虐行為について詳しく自己分析することを繰り返し課された結果、個人的な「心の葛藤」に関する描写はなるべく削除し、犯罪行為だけをできるだけ厳密に且つ客観的に描写するようになった結果かもしれない。その意味で、私は、中帰連メンバーの証言には、ある種の「物足りなさ」を常に感ぜざるを得ないのが正直な思いである。残虐行為を犯した人間に複雑な「心の葛藤」がないはずはない。その「心の葛藤」を知らなければ、「人を殺す」ことの心理的問題の根本を知ることはできないのではないか、というのが私の思いである。
これに比較し、井上俊夫の『初めて人を殺す』には、井上個人の「心の葛藤」、すなわち残虐行為に対する罪意識と、同時にその罪意識を抑圧し閉じ込めてしまおうとする「心理的な揺れ」が正直に書き連ねてある。彼は、1943年の中国の江西省南昌から40キロほど離れた田舎町での駐屯部隊内での初めての外地での軍隊生活、すなわち、上官のすさまじい暴力行為に毎日さらされる初年兵の辛い日常生活について詳しく語る。その内容は、五味川純平が『人間の条件』の中で描写している軍隊内の激しい暴力状況を彷彿とさせる。その初年兵の生活描写の最後に、井上を含む23名の初年兵が中国人捕虜1名を銃剣で突き刺す刺殺訓練をさせられた状況が詳しく述べられている。捕虜を初年兵の刺殺訓練に使うことは、中国では頻繁に行われていたことで、井上の所属する部隊に限られていたことでないことは言うまでもない。
井上は書く:
《えらいことになったぞ。誰もこの場から逃げることは出来ないんだ。俺も人殺しをやらねばならないのだ。しかし、これも俺が男らしい男になるための、試練に違いない。こんな経験を積む機会はめったにあるもんじゃない》
私はこのように自分に言い聞かして、順番が回ってきた時、銃剣をもって型通りの突進をした。しかし、五体を蜂の巣のように突かれて朱に染まった軍服から内臓をはみ出していた
リュウ(捕虜の名前)は、既に死んでしまっているのか、それとも息があったのか。無我夢中で銃剣を突き立てた私には、なにか豆腐のようなやわらかい物を突いたという感触しか残らなかった。
最後になって無理矢理前へ引き出された馬場二等兵は、どうするかと思っていると、「かんにんしとくなあれ、かんにんしとくなあれ」
しきりに哀願する馬場に亀岡兵長が激しいビンタを食らわした上、生駒上等兵と二人がかりで馬場にむりやり銃剣を構えさせ、なんとかリュウを突く真似をさせた。
(カッコ内は田中による付加)
井上は、なぜ「善良な市民」であるはずの自分たちが、このような残虐行為を犯すことができるようになってしまうのかを、以下のように、自問しながらも、ある意味で自虐的に正当化しようと試みるが、結局は正当化できないという複雑な心境を吐露している。
「日本人として善良な市民」は、兵士になっても戦場に投げ込まれても、どこまでいっても日本人として善良な市民であった。………
ではなぜ兵士は残虐行為がはたらけたのか。兵士の背後に「大日本帝国」があったからだ。兵士が所属する帝国が、敵国とみなした国に侵略し、その国の軍隊と戦い。敵兵を殲滅せよと命じていたからだ。時と場合によっては、敵国の非戦闘員を殺傷しても構わないとしていたからだ。
恐ろしいことだが、兵士は一度残虐行為がもたらす愉快を覚えてしまうと、もう病みつきになり何度でもやりたくなってくるのだ。殺人だけではない、略奪然り、放火然り、強姦然りである。
そして、こういうことをいくらやっても、大日本帝国という後ろ盾がある以上、兵士はちっとも怖くないのである。罪の意識など全然感じる必要はないのである。
それどころか、日本が戦争に負けて大日本帝国が崩壊しても、戦後何十年たっても、帝国時代に兵士としてやったことはなんら反省する必要はないのである。日本人として善良な市民とは、そういうものなのだ。
このように書いた後、井上はすぐに次のように続ける:
仮に若者から「そもそもあんたがたに戦争に反対する資格があるのかよ」と言われたら私には一言もないのである。………
いくら国家の強権が背後にあったとはいえ、いくら幼少の頃から皇国史観と軍国主義による徹底した教育を受けていたとはいえ、たやすく兵士となり、たやすく戦場に赴き、侵略戦争の忠実な尖兵として働いてきた私には、もともと戦争に反対する資格がないのだ。
自分が生き延びるためには、自分が殺られる前に相手を殺さなくてはならない。そのためには、殺す相手の人間性はもちろん、自分の人間性をも否定しなければならない。敵から人間性を剥奪し、同時に自分の人間性を徹底的に否定する訓練を、日本帝国陸軍は抵抗手段を完全に奪われた「捕虜」を刺殺するという犯罪行為を通して行うことを日常化させた。捕虜刺殺という極端な訓練方法はとらないとしても、様々な方法を駆使して「敵」を殺せるようになるような訓練、すなわち敵兵から人間性を剥奪することで敵を殺せるようになるように自己の人間性を否定する訓練を兵隊たちにほどこすのは、いかなる国の軍隊であろうとも同じである。一旦人間性を奪われた新兵が、激しい戦闘に投げ込まれ、敵兵だけではなく「敵軍に属する市民」と考えられる人間の人間性を奪い、殺傷することを繰り返すことを余儀なくさせられることで、自己をますます残虐化させ、ますます人間性を失っていく。かくして、他者の人間性剥奪、その結果としての自己の非人間化と自己残虐化は、必ず悪循環して激化していく。これが戦争の、誰にも避けられない、必然的な結果である。自衛隊員も、戦闘に直接参加するようになれば、当然、「人殺し」ができるような、このような訓練をますます受けるようになることは避けられないであろう。「人殺し」という罪意識を排除し、正当化するために、「国を守るため」の「防衛活動」というおざなりのタテマエ=口実が用意されている。アジア太平洋戦争では「兵士の背後に皇国『大日本帝国』の防衛があった」ように、ベトナムやイラク戦争では「米国兵士の背後に『正義の戦争を行うアメリカ合衆国』があった」のであり、将来の自衛隊の戦闘員には「平和な日本の防衛」というタテマエがすでに用意済みである。自衛隊員は、あくまでも「善良な市民」として「人殺し」をするようになるのであり、井上が主張したように「罪の意識など全然感じる必要はない」はずなのである。では、ベトナムやイラクで「人殺し」をして帰国した米兵たちの中に、なぜ、かくも多くの自殺者が多いのであろうか。このことを、現在審議されている安全保障関連法案=戦争法案との関係で、我々はもっと真剣に考えてみるべきである。
話を井上の著書に戻そう。残虐行為に対する罪意識と、逆になんとかそれを自己正当化したいという気持ちの間で揺れる心理的葛藤は、「慰安婦」に対する井上の態度の描写にも如実に表れている。戦後55年も経て、偶然にも、日中戦争従軍時代の上官でもあり戦友でもあった滝口弥三郎という人物から井上にメールが送られてきた。それを機会に、滝口が亡くなるまで、井上は滝口とのメール交信を数年にわたって続け、戦争体験に関するさまざまな意見交換を行ったのである。その交信の中で、井上が、中国の武昌の「慰安所」にいたある中国人の姑娘(クーニャン)=「慰安婦」を好きになり通い詰めたことが話題にのぼった。しかし、井上は、転属になることが分かったため、彼女との別れを惜しんで「涙」と題した詩を当時作ったことを滝口に説明した。その姑娘が井上と別れるのはいやだといって泣きじゃくったと、井上はその詩の中で書いているのである。しかし、本当に彼女がそう思っていたのか、それとも井上の勝手な解釈であったかどうか、55年も経った今では彼自身にもあまり自信がないと述べる。これをきっかけに、井上と滝口は「慰安婦」問題で長々と意見を交わすが、以下はその中からの抜粋である。
滝口:俺もお前も若い時は国家権力によって戦場に引っ張り出された無知で哀れな大日本帝国陸軍の兵士だった。その哀れな兵士をなぐさめてくれたのは、ほかならぬ俺たちよりもいっそうみじめで哀れな異国の女たちだった。つまり哀れな者と哀れな者同士が力いっぱい抱き合ってみた夢。それがお前の「なみだ(涙)」という詩の世界だったんだ。………
だが、井上よ。韓国の元慰安婦の証言によれば、彼女たちは日本の敗戦により辛うじて祖国に帰還できたのに、自分を「汚れた女」としか見てくれない周囲の無理解に苦しめられてきたというじゃないか。………
井上:そうだ滝口よ。そこが元慰安婦と俺たちが決定的に違うところなんだ。俺たちは中国でさんざん中国の民衆の怒りと侮蔑を買うようなことをして、祖国へ引き揚げてきた。しかし俺たちは、人殺しをやり強姦をやり、慰安婦と寝てきた「汚い男」だというふうに見られる恐れはなかった。俺たちはいとも簡単に軍服を脱ぎ捨て、「私はなにも悪いことはしておりません。善良な市民です」という顔つきで戦後の社会に、易々と潜り込むことができた。けれども韓国の元慰安婦たちは「従軍慰安婦という日本軍にむりやり着せられた制服」を容易に脱ぐことは出来なかったのだ。その制服を脱ぐのに何十年もかかっているのだ。………
滝口:……… 戦場に兵士として駆り出された俺たちも、慰安婦にされた女たちもひとしく「侵略戦争を遂行しようとした国家的権力」が構えた大きな罠の中に、すっぽりとはめられていたという気がするんだ。
井上:……… 完全に自由を奪われ、一日に何人もの兵士と寝なければならない境遇におとしいれられた従軍慰安婦たちは、たしかに性的奴隷と言えるだろう。しかし、奴隷というからには、それをこき使った主人というものがなければならない。それは慰安婦と寝た俺たち兵士なのか。俺たちが彼女たちを奴隷にしていたのか。そんなはずはない。俺たち兵士も国家権力により強制的に戦場に引っ張り出され、一切の自由を奪われ、命懸けで敵軍と交戦させられた奴隷兵士ではなかったのか。いずれにせよ、この「性的奴隷」という言葉は、慰安婦と一度でも寝たことがある者にとって、強烈な響きを持って迫ってくる。………
滝口:井上よ、そんなに自分を責めることはないぞ。詩も残しておけ。お前が抱いた女はお前にとって決して「性的奴隷」なんてものじゃなかった。ましてお前は「強姦」なんかしたのじゃない。戦争に行ったこともなければ、従軍慰安婦の姿を一度も見たこともない研究者の書くことなんか、俺たちは気にする必要がないと思うんだ。研究者と俺たちの認識の間にも、埋めがたい落差があるのだ。(強調:田中)
ここには「慰安婦」を自分たちの「慰み者」にしたという罪意識が一方でありながら、しかし、結局は自分たちも彼女たちと同様に「戦争奴隷」という犠牲者だったのだ、という一種の怨念がある。そのため、彼女たちへのある種の責任を感じながらも、自分たちは決して「性的奴隷」の主人としての責任などはないのだと責任逃れしたい気持ちとの間での激しい葛藤に、井上も滝口も悩まされ続ける。そして最後には、「戦争体験もない戦後生まれの研究者になにが分かるか」と叫ぶことで、自分たちの議論を終わらせている。
この批判には、「慰安婦」問題で著書のある、戦後生まれの研究者の一人である私としては、答えようがないというのが正直な思いである。加害と被害の心理的な重層性=複雑さの厳しい実相をまざまざと教えられるメール交信記録である。当事者ではない私には、確かに、井上や滝口を批判する資格もないし、批判しようとも思わない。むしろ、満州に出兵させられた関東軍中尉であった父をもつ私としては、父の世代のこのような「戦争加害と被害の複雑な重層性」の実相をできるだけ深く知った上で、「戦後生まれ」の私としての責任は何か、ということを考えること。そして、その「戦後責任」(実は、私は「戦後」という言葉を使うことにひじょうな違和感があるのだが、このことについては別の機会に説明したい)をいかに自分は果たすべきか、ということに思考と行動を集中させることが、井上や滝口に対する「答え」であるとしか言えないのである。
この著書は、戦争体験を強いられた一人の日本人兵士が、いかなる精神的葛藤を舐めさせられたかを知り、その知識を、近い将来、自衛隊員が戦争に送り出されるならば必ずや経験させられるであろう精神的葛藤について想像して見る上で、ひじょうに貴重なエッセー集だと私は思う。
最後に、この著書の冒頭に井上が載せた「日中戦争で戦死した大阪生まれの英霊の声:今は亡き昭和天皇が、臨終の床にあった時に作れる歌」からの抜粋を紹介して、この感想文を終えることにする。
先日来、天皇陛下が重態に陥られ、八十七歳の玉体のなかに、あろうことか、おびただしい人民の血潮をながしこみ、体内の血液が全部入れ替わってしまうという、医学上、例をみない奇怪千万な治療をお受けになりながら、いくばくもない余命にひたすらすがりついておられるということも、よう存じております。
ああ、これが、わいら兵士に「義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」、つまり「お前たち兵士は桜の花びらのように潔く散れ」と論された天皇の、最後のお姿なのでおますか。なぜ、
「わたしはもう輸血はいらない。貴重な血液をどうか人民のいのちを救うためにつかってほしい」
と仰せにならないのでおます。
わいらのように、一滴の輸血もうけられずに戦場で散りはてた者からみて、陛下のお姿はまことに浅ましい限りでおます。
合掌