昨年12月11日に<日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワーク>の主催で行ったオンライン講演会でのお二人の講演者、梶村道子さんとレギーナ・ミュールホイザーさんの講演ノートを、お二人の許可をいただき、ここに公開いたします。
ベルリン・ミッテ区モアビット〜地元市民が受け入れた「平和の像」
梶村道子さん |
梶村道子
ベルリン・ミッテ区に平和の像が設置されて2年が過ぎた。2022年の秋、ミッテ区区議会の教育・文化委員会の席で、しばらく前に就任した新区長が、設置認可をさらに2年延長するつもりだと発言した。* こうした展開が、コリア協議会によるこの2年間の精力的なイベントやキャンペーンの成果であることはいうまでもない。が、像を積極的に受け入れたドイツの市民たちがそこにいたことも忘れてはならない。なぜミッテ区が像の受容に成功したのか、ドイツの他の地域で不可能であったことを可能にしたその背景とは何かについて、さらに、像の設置者コリア協議会の地域における日常活動と、像の設置後の様々な展開を、地元ミッテ区モアビットから報告する。
*20023年1月現在、像の設置者であるコリア協議会にはまだ公式通知がないそうだ。だがこの発言通りに認可が延長されれば、日本政府の執拗な介入にもかかわらず、像は設置以来少なくとも4年間は確実にモアビット地区にとどまることになる。周知の通り、区議会は像の恒久的な設置を目指している。
現在までの経緯
平和の像は、ミッテ区の「都市空間のアート」プログラムの特別利用認可枠で、1年の設置が認められた。しかし区は、設置後わずか10日目に突然認可を取り消し、1週間以内の像の撤去を、設置者のコリア協議会に命じた。
この撤去命令に対するベルリン市民社会の対応は目覚しかった。
ベルリンのプリントメディアは、早速、「ベルリン州政府は、日本大使館とミッテ区との間で対話を進め、速やかな解決を図った」との州政府報道官の発言を報じ、その後も日本政府の介入と州政府の関与を徹底して追及した。進歩的3政党−社会民主党、緑の党、左派党−のミッテ区支部は、相次いで像の支持声明を発表し、日本政府や、ドイツ外務省の意を汲んだベルリン州政府による区行政への介入を批判した。コリア協議会による行政裁判所への仮処分申請、オンラインでの抗議署名、区役所前での集会などの矢つぎ早の抗議行動に押されるように、地元の市民グループや個人からも、メールや区長宛て公開書簡などで、次々と抗議の声が上がった。その結果、区議会は1ヶ月後の11月5日に像の設置支持宣言を採択し、12月1日には、区に対して像の恒久設置要求を決議する。
その区議会決議で重要なのが、恒久設置という新たな目標を、区議会のイニシアティブで決めたこと、そして、今後の協議への区議会の関与を宣言したという2点だ。この決議により、ミッテ区の緑の党、社会民主党、左派党は、像の恒久設置を自らの課題として引き受けたのである。彼らを、そこまで動かしたのは、「ベルリンはナチ時代の首都だった。ミッテ区とベルリン市、そしてその市民社会は、そのベルリンの歴史の上に築かれている。そのことを私たちは自覚している」という歴史認識、そして、「平和の像が、武力紛争時や平時の性暴力に関する議論を呼び起こす」だろうという確信である(ともに決議案の提案理由)。また、3党の抗議声明にあるように、区の行政への介入は許さないという地方自治への強い自負が区議たちにあったことも、確認しておきたい。
像を取り巻く環境
「平和の像」が立つミッテ区のモアビット地区は、19世紀後半から労働者用の住宅街として発展し、戦後の経済復興期以降は、外国人労働者が多く住むようになった地域で、2020年の場合、移民のルーツを持つ住民が52 %を占める。したがって、移民系の人たちによる自助活動や、彼等をサポートする社会運動が盛んな地域でもある。モアビットの住民にとって、ここに事務所を置くコリア協議会は外来の客ではなく、「我が街」の移民系団体*の仲間なのである。そして区議会決議にみるように、この地域には、自己の歴史と取り組み続ける市民社会が存在する。そこには、ユダヤ系市民の強制移送を記憶するモニュメントがあり、連行され殺害されたかつての市民たち一人一人を想起する「躓きの石」が埋めこまれた歩道が続き、区役所内には、ナチ時代の地区の歴史を刻んだ二つの展示、『加害の場所と記憶の場所としてのティアガルテン区役所』と、『彼ら**が最後に通った道』が常設されている。そのような地域の「記憶の風景」のなかに、平和の像は置かれたのである。
*ドイツの韓国系コミュニティーは、1960年代後半から70年代にかけてドイツに来た人たちを基盤に形成されてきた。大半の人たちは、契約労働者(女性は看護士、男性は炭鉱労働者)として来独したが、同時期に少数だが朴正煕独裁政権を逃れて国を出た人たちも存在した。ドイツの韓国系コミュニティーは、トルコ系コミュニティーなどと同様に労働移民としての集合的記憶を有すると同時に、イラン系コミュニティーのような政治難民としての歴史も共有する住民集団である。コリア協議会もその二つの歴史を背景にもつ。
** 強制移送されたユダヤ系市民。
ベルリンでは1992年以来、「慰安婦」問題に関して、日韓の女性グループや教会関係者らにより、多様な活動が続けられてきた。2008年から「慰安婦」問題と取り組み、とりわけ移民系の女性団体との連携を深めてきたコリア協議会は、近年は、地域での活動に力を入れ、「慰安婦」ミュージアムの開設と青少年を対象とする教育活動を通して、戦時性暴力に対する啓発活動を進め、地元モアビット地区に根をおろしている。
2019年にコリア協議会の事務所に開設された「慰安婦」ミュージアムでは、同年9月から「無言・多言」というタイトルの常設展が始まり、さらに12月には、フィリピンの女性団体「ガブリエラ」のドイツ支部、日本人のグループ「ベルリン女の会」とコリア協議会の共催による絵画展「心に受けた傷」が開かれた。このミュージアム活動が、後述する各地のミュージアムとの連携のきっかけになる。以降、「慰安婦」ミュージアムは、映画の上映会や、講演会、討論会など、人の集まる空間として定着してきた。次に紹介する教育活動も、このミュージアムが教室になり、その展示が教材になっている。なお常設展は、その後青少年向けのコンセプトに基づいてリニューヤルされ、2022年10月に再スタートした。
もう一つの柱である教育活動は、2019年の秋に始まった。モアビット地区内にあるテオドール・ホイス校と提携し、倫理の授業の一環として「慰安婦」問題をテーマに、性暴力を扱う学習コースが提供されたのである。初回コースには、中学生に当たる年齢の女子生徒たち10人が参加した。移民ルーツの家庭で育った生徒たちの多くは性に関する悩みを話す機会がほとんどなく、授業は、彼女らのそうした欲求を満たす場にもなったという。初回コースの生徒たちは、学んで感じ、考えたことを、ビデオや切り紙などで表現して、区役所前のショーケースで公開している。自分の名前やハクスン、サリノグ、ロザリン、ジャンなどの「慰安婦」制度の被害者の名前を書いたカードと平和の像のミニチュアを組み合わせた展示や、ショーケースのガラスに白いペンキで記された金学順さん、万愛花さん、ジャン・ラフ・オハーンさん、城田すず子さんの証言は、生徒たちからアジアのサバイバーたちへの共感のメッセージになっていた。
校内でも好評だったこのコースには、次学期には男子生徒も加わった。ところが3学期目の授業は、日本大使館の介入により中止を余儀なくされた。ドイツでは、教育行政は州の管轄で、教育法の制定もカリキュラムの策定も州が権限を有する。そのうえ、個別の授業に際しては教師に大きな裁量権がある。にもかかわらず、他国の公教育の学校で行われるわずか一コマの授業の内容が日本政府の立場にそぐわないとして、学校の管理職に苦言を呈する。常識では理解しがたいことだが、これが日本国外務省の業務だ。しかし、ベルリン市内の学校の生徒や先生たちの「慰安婦」ミュージアムへの関心は、その後も衰えることはなく、展示のリニューアル後は、学校関係者による問い合わせや訪問が増えていると聞いた。
像の設置後 — 広がる共感と支援
2020年9月28日の像の除幕式後、平穏に経過した10日間は、日本政府の介入により一転する。日本政府は、「権威に弱い」地方行政の懐柔は容易だと踏んでいたのかもしれない。しかし、事態は先述したように、像の恒久的設置を要求する区議会決議へと発展した。ベルリンの新聞はこの展開を、「日本の右翼政治家たちは、自殺ゴールにまだ気がついていない」と揶揄したが、日本政府の思惑とは裏腹に、その後も平和の像への共感と支援は、各地に広がって行った。
例えば、「右翼に対抗するおばあちゃんたち」と「クラージュ」という、二つの女性団体の地元支部の人たち。像の撤去命令以来、言い換えれば日本政府の介入以来、彼女らは強力な像の支援者として立ち現れた。「右翼に対抗するおばあちゃんたち」は、早くも11月と12月の区議会に、議場前で抗議デモを繰り広げ、決議案を支持する区議たちの応援に回った。彼女たちは、その後も、毎月の最後の金曜日に像の前で集会を続けている。取り上げるテーマは、西ドイツのハーナウ市で起きた移民系市民へのテロだったり、ミッテ区で一年間に起きたヘイト事件の統計数字だったり、フェミサイドについてだったりと、毎回異なるが、そのどれもが、平和の像を支持するメッセージで結ばれる。「クラージュ」は、翌2021年の国際女性デーに、早速像の前の広場で集会をし、それ以来、各種の支援行動の常連だ。
支援は、さらに州境を超えて、文化・学術分野にも飛び火した。
ザクセン州にあるライプツィッヒ大学の日本学科は、2022年夏季学期に「慰安婦」問題を中心テーマに据えた連続セミナーを開催した。「ポストコロニアルの記憶作業と国境を超えたフェミニズム」と題するこのセミナーでは、社会学や歴史学や法学の研究者たちが、7回にわたり講義した。また、同大学の日本学科と演劇学科の学生たちは、このセミナーに合わせて、ライプツィッヒ市の女性サマーフェストで「軍『慰安婦』— ライプツィッヒの平和の像」というパーフォーマンスを行っている。日本学科の学生たちは、2021年10月にベルリンで行われた第1500回水曜デモにも参加し、それをきっかけに、コリア協議会の「慰安婦」問題グループに参加している学生もある。
ヘッセン州にあるカッセル大学では、学生自治会が、大学構内に像を設置する企画をたて、コリア協議会に協力を求めてきた。学生たちの意図は、像を通して性暴力に対する認識を社会にもたらしたいというもので、2022年7月に、大学キャンパス内の学生会館前に「平和の像」が設置された。自治会と大学当局との間で像の恒久設置は了解事項だったはずが、大学当局・教授会と自治会の間でなおも折衝が続いていると聞く。
ベルリンに平和の像が建ってのち、ドイツの二つのミュージアムで、平和の像が展示された。ザクセン州ドレスデン市にある州立ドレスデン・エスノロジー・ミュージアムは、2021年4月から8月まで、「言葉にならないことー大声の沈黙」展を開催したが、その際、コリア協議会の「『慰安婦』ミュージアム」を出展者として招待して、その活動を紹介した。植民地支配の収奪品である民族博物館の所蔵品と現代アートを、ホロコーストの記憶という縦糸でつないだこのユニークな展覧会で、写真家の矢嶋宰さんによるナヌムの家のハルモニたちの声と写真のポートレート(「多言・無言」展の展示品)と、韓国の姜徳景さんの絵「責任者を処罰せよ」とフィリピンのレメディオス・フェリアスさんのキルト作品「私の戦争体験」(ともに「心に受けた傷」展)は、平和の像とともに、被害者が自ら声を発した稀なケースの表現として特異な位置を占めていた。
2022年7月から2023年1月までニーダーザクセン州のヴォルフスブルク市にあるヴォルフスブルク美術館の「エンパワーメント」展には、50カ国の女性アーティストの作品100点が集められたが、「平和の像」はその中の„Desired & Violated Bodies“ というパートで展示された。
この二つのミュージアムと「慰安婦」ミュージアムの提携には、日本軍がフィリピンで振るった性暴力の歴史が関わっている。ドレスデン・エスノロジー・ミュージアムの「言葉にならないことー大声の沈黙」という展示コンセプトと「慰安婦」ミュージアムの常設展の「無言・多音」というタイトルとの類似性、そして絵画展「心に受けた傷」のレメディオス・フェリアスさんのキルト作品にキューレーターが強い印象を受けたことが、同博物館とコリア協議会をつなぐきっかけになったのだ。ヴォルフスブルク美術館の場合は、レメディオスさんの作品を知るフリーのキューレーターが、「ベルリン女の会」の会員に出展を薦めたのがことの始まりで、レメディオスさんの作品と平和の像の2点が美術館に推薦された。だが、前者は2000年以前の作品であることから選考基準を満たさず、結果的には平和の像のみが展示された。
日本政府は、2015年の日韓合意を以って、「慰安婦」問題を日韓の外交問題に矮小化し、日本の世論から排除し、他のアジア諸国の被害者を不可視化した。しかしベルリンでは、フィリピン系の女性たちと韓国系の女性たちが繋がり、フィリピンの被害者の縫い上げたキルトが、韓国発の平和の像を後押ししている。金学順さんの証言に始まり、アジアのサバイバーや活動家たちの間で生まれて今に至るこうした連帯の絆を見ようとしないのは日本社会だけであろう。なお、ドイツのキューレーター2人を感動させたレメディオスさんのキルトは、最近日本に戻ってきた。存命する被害者が極めて少なくなった今だからこそ、レメディオスさんが一針一針縫い上げたこの貴重な証言アートは、日本でもっと知られて良いものである。
地域での活動と支援は続く
設置後間もない頃は住民の注意を引いた平和の像だが、今ではすっかり街の風景に溶け込んでいる。通りかかった人が、写真を撮り、碑文を読んでいくこともある。筆者はこんな経験をした。像の前で待ち合わせをしていると、サッカーボールをかかえた10歳ぐらいの男の子が声をかけてきて、「この女の子はレイプされたの?」と訊ねる。「どうして知ってるの?」と聞き返すと、「僕、碑文を読んだよ」と言う。像は、地域の子供たちにとっても、性暴力への気づきのきっかけになっている。
コリア協議会とテオドール・ホイス校との共同の教育活動は、日本政府の介入により中断したが、青少年を対象とする地域活動は、別の形でも始まった。学校の休暇時期に青少年に提供されるワークショップがそれで、第一回は2021年の夏休みを利用して開かれた。このワークショップ「私のとなりに座って!」には、「カラメ協会」、「ユーベル3 手話の会」、女の子たちの集会所「ドニャ」、「ドイツ社会主義青少年 ファルケ」のノイケルン区支部の4グループが参加したが、そのうちの「カラメ協会」と「ドニャ」は、移民系住民によるモアビット地区の社会運動で、日常的に移民系の子供たちの余暇活動をサポートしている。このような青少年グループを対象としたワークショップは、その後も続いている。
コリア協議会によるこうした教育活動は、モアビット地区の社会運動として、行政関係者からも評価されつつある。2022年3月のモアビット地区のタウンミーティング「我が街散策」の訪問地点の一つに、平和の像の建つ交差点広場が選ばれた。「我が街散策」は、ベルリンの各行政区が実施しているプログラムで、区の都市計画や文化・社会政策の上で検討すべきテーマを選んで、政策担当者が市民と一緒に街を回る。この日は、区の都市計画担当責任者でもあるゴーテ副区長が、区民とともに5箇所のテーマポイントを廻ったが、そのうちの3ポイントが移民系区民による活動である。プログラムの中で、コリア協議会はこの地域で反レイシズムと教育活動を行う団体として紹介されている。
地元市民による「平和の像」支持の層の厚さを実感したのが、2022年の夏、韓国の右翼団体が平和の像の前で4日間デモを行った際のカウンター行動だった。4日間続いた抗議集会の初日には地元やベルリン市内各地から延べにして100人ほどが駆けつけ、その後も連日4、50人の市民が集まったのである。
2022年の11月、ミッテ区のレムリンガー新区長は、「ウクライナで戦時性暴力の被害者が出ている今、像はますます重要になっています」と、区議会の教育・文化委員会で述べた。ミッテ区は、平和の像から始まった性暴力に関する議論を社会に発信するためのモニュメントの設置をベルリン州政府に提案していると聞く。その協議が平和の像を取り込んだ形でどのように展開されていくのかが、注目される。ミッテ区の進歩的3政党の区議たちは、「2020年12月の区議会決議は必ず実現させる」「像は、私たちに戦時性暴力の問題を気づかせてくれた。そのことに感謝する。これは私たちの像だ」と、コリア協議会に彼らの変わらない意志を伝えている。
像の設置に伴い起こった地元やドイツ各地での動きは、以上見て来たように、それぞれの組織や人々の自立した活動である。人々は「平和の像」に触発され、像に自分たちの抱く理念を重ね、その実現に向けて動いている。像が、そうした人々の支持を得ながら、今後もミッテ区モアビットに定着していくであろうことを期待したい。
幾つもの意味を持つ一つの像
レギーナ・ミュールホイザー |
レギーナ・ミュールホイザー
「平和の像」が登場し、ドイツのフェミニスト界で議論されたとき、大多数の意見はその像に批判的でした。伝統的な韓国服を着た少女の姿は、無邪気で純粋な女性の象徴のように見えるからです。私たちの考えでは、したがって、この像には問題があると思ったのです。年配の女性、性体験のある女性、バーや売春宿で働いていた女性、あるいはその疑いのある女性たちはどうなのだろうか。彼女たちは「慰安婦」制度の犠牲者ではないのか?この像は、こうした女性たちを見えなくしているのではないだろうか。
「汚れのない処女の乙女」として理想化された女性被害者像は、家父長制や民族主義の声によって容易に利用されることも、フェミニストの研究は指摘しています。「無実の被害者」は「非道徳的で非人道的な加害者」の対極に位置づけられるのです。その結果、より深く、より複雑な問題-例えば、性的暴力の本質について、あるいは、なぜこの暴力の加害が戦争や武力紛争の時に軍人にとって容易に利用できる選択肢であるのか-という問題はぼやかされてしまいます。
しかし、にもかかわらず、私はこの像の良さを理解するようになりました。なぜなら、美しく、穏やかで、力強く前を見つめるその姿は、訪れる人々に共感を呼び、問題がどのようなことであるのかについて考えさせるきっかけを与えてくれるからです。その姿の美しさ、純粋さこそが、訪れる人々が彼女の隣に座って写真を撮る可能性を開くのだと思われます。そして、多くの人々が、この像の背後にある物語についてより詳しく知ろうと心を開くのです(おそらく、拳を振り上げた年配の女性を描いた像であれば、人々は尻込みするだろうし、抽象的な形の像であれば見過ごしてしまうでしょう)。
また、「平和の像」に特徴的なことは、それが幾つも存在し、世界中のさまざまな場所で見ることができることです。例えば、現在カッセル大学にあるブロンズには99という番号数字が記されています。現在、ドイツには、1)ベルリン・モアビットの路上の公共スペース、2)カッセル大学構内のセミ・パブリック・スペース、3)ヴィーゼントのネパール・ヒマラヤ公園のプライベート・スペース、4)フランクフルトの韓国福音教会コミュニティのプライベート・スペースに常設されています。5)また、ヴォルフスブルク美術館で開催中の「エンパワーメント」展に出品中のブロンズ像も一時的に展示されています。6)さらに、現在ベルリンの韓国協会の「慰安婦」博物館の入り口付近にはプラスチックに色塗りされた2つの可動式の彫刻があり、7) ミュンヘン近郊のプライベートスペースにも一つあります。
これらの彫像は、ミュンヘン、ドレスデン、フランクフルト、ハンブルク、ライプツィヒなどの教育機関、博物館、大学、ギャラリー、また50cmのミニチュアとしてラーベンスブリュック女子強制収容所記念館などで、これまでにも一時的に展示されたことがあるものです。
私が注目するのは、この像がどこに置かれても、この像について発言する場所や政治的な立場によって、異なる経験や知識が呼び起こされることです。このように、彫像は彫像が持つ意味の層を重層化しているように見えます。私が言いたいことをよりよく理解してもらうために、4つの例を挙げてみましょう。
第Ⅰ層:ナチス犯罪の生存者(女性、男性)が求める、自分たちが強いられた経験の可視化と認識、さらには補償を獲得する闘い。
私たちは、人々が「平和の像」をナチスの犯罪の犠牲者/生存者と結びつけていることを何度も観察することができます。例えば、昨年夏にカッセルでこの像が除幕されたときには、ナチスの犠牲者協会(Vereinigung der Verfolgten des Naziregimes; VVN)の代表は、1990年代から認知と補償を得ようとする地元のナチスの強制労働の生存者の長い闘いに(「慰安婦制度」犠牲者の闘いが)類似していることを説明しました。
同じように、今年の春、シュテフィ・リヒターとドロテア・ムラデノヴァが企画した一連のイベントで、この像がライプツィヒ大学に一時的に置かれ、講義室に鎮座したときにも、ナチスの犠牲者の闘いについて繰り返し言及がありました。たとえば、歴史家のクレメンス・マルティン・ヴィンターは、ライプツィヒ強制労働収容所HASAGの「忘れられた歴史」、とりわけ女性の状況について講演を行いました。
日本の研究者同僚たちはドイツの過去への対処の仕方と日本の状況を比較し、しばしばドイツははるかに良い方法で戦争責任と向き合っているという印象を持ちます。そして実際、今日に至るまで、ナチス政権、第二次世界大戦、ホロコーストにおけるドイツの犯罪を認めるという社会的合意が(少なくとも現時点では)ドイツでは存在しています。しかも、それに応じて、教育や追悼の活動もある程度支援されており、たとえば強制収容所の記念碑や教材もつくられています。
しかし同時に、「われわれドイツ人はもう十分やってきた」「この部分の歴史を取り扱うことに終止符を打つべき」と考える人も少なくありません。一般に、特に若い世代では、ナチスの歴史に対する関心は1990年代よりもかなり低くなっているように思えます。それに呼応して、ナチズム、第二次世界大戦、ホロコーストに関する歴史研究・記憶プロジェクトに対する資金援助も減少してきています。
さらに、今日に至るまでドイツは被害者に十分な補償をする気がないことも事実です。例えば、ギリシャやイタリアではSS(ナチス親衛隊)による虐殺の生存者の法的紛争が続いていますが、ドイツ政府は補償を拒否しています。そして実際、その法的論拠は日本政府とほぼ同じであす(この問題はギリシャやイタリア政府への戦後支払いですでに解決済み、個人請求は不可能、など)。
ですから、市民社会の活動家たちが「慰安婦」生存者の闘いとナチスの犯罪の生存者の間の類似性を描くとき、それは生存者の長く厳しい闘いへの連帯のしるしとして - ここでもそこでも -、さらに、正義のためのグローバルな闘いにおける身振り(活動形態)として理解することができるのです。しかし、問題なのは、「慰安婦」事件は、女性に対するジェンダーに特化した犯罪であり、性的暴力、すなわち、歴史の中で繰り返し見過ごされ無視され、最近まで不正義と認識されなかった暴力形態についての特殊性があることです。ある意味で、慰安婦の闘いをナチスの犯罪の生存者の闘いと混同することは、「慰安婦」の苦境を矮小化し、脱男性化する危険をはらんでいるのです。
第II層: ドイツ国防軍と親衛隊による性的暴力
ドイツにはナチスの犯罪を記憶する文化が(多かれ少なかれ)あると断言できる一方で、SS(親衛隊)や国防軍の兵士による性的暴力は、公共の議論、政治、法律において、ほとんど知られていないことも認めなければなりません。1998年、ドイツ軍のソ連殲滅戦におけるセクシュアリティと暴力の絡み合いについて研究し始めたとき、私は何人かの男性同僚に助言を求めました。彼らは、性的暴力が蔓延していたことを少しも疑っていませんでしたが、出典(資料的根拠)がないと主張していました。今にして思えば、彼らには性暴力の加害があまりにも自明であったため、その形態や原因をより深く調査する必要がないと考えたのだろうと思います。あまりにも身近なことなので、気づかなかったのでしょう。
1990年代半ば以降になって初めて、「慰安婦」事件や旧ユーゴスラビア、ルワンダでの戦争中の大規模な性暴力が国際的に注目されるようになり、このテーマが検討されるようになりました。現在では、以下のような研究が進んでいる「ます。ドイツ兵やSS(親衛隊)、そしてその協力者たちは、占領下の国々でさまざまな形態の性的暴力を行ったこと。彼らは女性や少女、時には少年や男性に服を脱ぐことを強制し、彼らの意思に反して身体に触れ、性器を叩き、性的に拷問し、性器実験を行い、レイプし、性的に奴隷にしたのです。さらに、日本軍と非常によく似た論理で、ドイツ国防軍もすべての占領地に兵士のための売春宿を設置しました。
しかし、この歴史の部分に関する知識や議論は、主に特定の学術研究分野に限定されており、ドイツの公共的な場で表面化することはほとんどありません。現在に至るまで、被害者としての権利を主張する原告はおらず、そのためこの話題は学問の象牙の塔にとどまっています。
これに対抗するため、「平和の像(慰安婦像)」がドイツのフェミニストたちを刺激して、日本とドイツの比較を描き出し、第二次世界大戦中にドイツ兵が占領地で女性に何をしたのかという問題にドイツ人を敏感にさせようとしています。実際、この像が除幕される場所では、ドイツ国防軍や親衛隊による性的暴力についても言及されています。例えば、ベルリンでの除幕式では、Omas gegen Rechts、Medica Mondiale、Ravensbrück記念館の代表者が、異なる視点から(「慰安婦問題」との)関連性を指摘しました。ミュンヘン、ドレスデン、ライプツィヒ、カッセルなど、この像が展示された他の場所でも、主催者はインザ・エシェバッハや私のような学者を招き、国防軍やSS(親衛隊)による性的暴力について講演会や討論会を開きました。
(田中による追加説明追加:
Omas gegen Rechts=「極右に対抗するおばあちゃんたち」というオーストリアとドイツの反極右運動組織
Medica Mondial=性暴力の被害を受けた女性や少女のための医療、心理、法律、社会的支援、政治活動を行うケルンの組織
Ravensbrück=ラーフェンスブリュック強制収容所<主に女性を収容していたドイツ東部ブランデンブルク州の収容所で、12万人以上の女性が収容され、6万人以上が死亡したと言われている>記念館)
このように、ドイツの「平和の像」は、私たち自身の歴史に関する記憶と疑問を呼び起こします。また、ドイツとヨーロッパの歴史のこの部分に関する歴史的知識を広めるために、この像が意図的に使用されることもあります。さらに、このアプローチは、「慰安婦」というトピックがなぜ自分たちと関係があるのかをドイツ人に理解させることも目的としています。
しかし、「慰安婦像」を国防軍や親衛隊による性暴力と混同することで、「慰安婦」体験の歴史的特殊性を見失ってしまう危険性があります。第二次世界大戦末期に連合軍兵士、特にソ連赤軍兵士がドイツ人女性に対して行ったレイプの記憶を「慰安婦像」を訪れる人が呼び起こすとき、このリスクはさらに目につくようになります。
例えば、日本政府や日韓の歴史修正主義団体が反対運動を始めた当初は、(ミッテ区内の美術品の配分配置に責任を持つ)ミッテ区議会の一部の議員たちは、この像があまりにも微妙な話題で、日韓の「歴史論争」に過ぎないとして、撤去に賛成していました。そこで自由民主党(FDP)は、「平和の像」を撤去し、代わりに第二次世界大戦中の性的暴力の犠牲者全員、さらにはそれ以降今日に至るまでの犠牲者を記念する共通の像を作ることを提案したのです。
しかし、こうした一般的な像では歴史的な特殊性は失われてしまいます。結局のところ、このような記念像は、性的暴力が行われたときに誰が誰に何をしたのか、そしてその歴史がいつどのように語られ、黙殺されたのかを、像を見学に来る人が理解する助けにはならないだろうと私は思います。それどころか、レイプ被害者に対する単に一般的な共感を生むだけの記念像になってしまうでしょう。フェミニストの記憶活動は、従って、「慰安婦」像が恒久的な場所になるようにロビー活動を行い、同時に、他の歴史的構成要素に関する像をもっと建てるべきだというのが、私の主張です。
第III層:戦時・平時における性暴力被害者のための一般的な啓発活動
ベルリンでの「平和の像」の開幕セレモニーのために、韓国協会は報道関係者向けに参考資料集を作成しました。その中では次のように述べられています。
「平和祈念像の設置は、これまで満たされなかった(「慰安婦制度」の)生存者の認識、再評価、謝罪の要求と、武力紛争と平時における女性に対する性暴力の連続性に注意を向けることを意図しています。「慰安婦」の歴史は単に過去に属するものではなく、現在に至るまで続いていることを強調することが目的です。」
実際、この像の前で講演する人は、まったく異なる最近の性的暴力の事例にも繰り返し言及しています。例えば、ベルリンでのオープニングでは、政治学者のKein Nghi Haが、ベトナム戦争中の韓国人兵士によるベトナム人女性への性暴力に注目しました。この講演者を招待することで、韓国協会は、被害者としての韓国人女性だけでなく、加害者としての韓国人兵士も重要な問題であると考えていることを指摘しました。さらに、(イラクに住む少数民族)ヤジディ教徒の女性評議会のヌジャン・ギュネイ氏は、「慰安婦」の運命とISIS(イスラム国)によるヤジディ教徒の女性への迫害を結びつけました。
(田中による説明追加:
イスラム国は2014年8月以降、イラクのヤジディ教徒の子供や女性たち6千人余りを戦利品として誘拐し、シリアへ移送して奴隷として売り飛ばした。その中には、一人あたり1000ドル<約10万円>で売られ、イスラム教へ改宗させられたうえに結婚を強いられた女性たちもいる。さらに、高齢者や男性など数千人が殺害されたとする報告もある。)
カッセルの「平和の像」の開幕式では、クルド出身の女子学生が多く活動している学生会の「外国人部門」の代表が、トルコの刑務所でのクルド人女性に対する性的拷問について発言した例も紹介されています。
2月にロシアによるウクライナ全土への戦争が始まって以来、「平和の像」を訪れた人たちから、「こんなことがまだ続いているなんてひどい」という声も繰り返し聞いています。また、8月にブランデンブルク門前で行われた「慰安婦記念日」では、講演者がウクライナの女性たちとの連帯を表明していました。
全体として、「慰安婦」は、世界中で戦時中の性暴力の犠牲者を想起させる試金石となりつつあるように思えるのです。さらに、韓国協会のナタリー・ハン氏とその協力者たちは、この像を用いて、学校、特に女子生徒のグループに対する教育活動をしています。その際、男女関係における権力と暴力について、少女たち自身の体験に場所を与えることに重点を置いています。この文脈で、「平和の像」はもう一つの教育的機能を獲得し、社会福祉と女児の自信強化の方向へと向かっています。
第Ⅳ層:ドイツにおける脱植民地化と移民・難民の可視化をめぐる闘い
2021年夏、ドレスデン市立博物館は、「言葉にならないことー大声の沈黙」と題する展覧会を開催しました。展覧会の告知は、次のように述べています。
戦争、大量虐殺、迫害、追放、移住といった集団的トラウマは、共同体の(集合的)記憶に深い痕跡を残します。そうした記憶は、人々がどのように感じ、考え、社会的に行動するかに深い影響を及ぼしています。彼ら(戦争被害者)に共通しているのは、経験したことを言葉にするための言葉を探していることです。一見、言葉にならないものについて、どのように語ればよいのでしょうか。喪失と暴力の経験の後、社会はどのように言葉を失う状態を克服するのでしょうか。(中略)この展覧会の中心的な関心は、植民地時代の遺産、不正義、収奪、そして出身共同体の回復と返還を求める努力を可視化することなのです。
この展覧会の学芸員が韓国協議会の参加を招聘しました。韓国協議会は、ブロンズ像を美術館の前に設置し、さらに、かつて植民地であった日本に正義を求める女性たちの闘いに焦点を当てた展示空間をデザインしました。このスペースには、「平和の像」のブロンズ像のプラスチック版も展示されました。このように、この像は脱植民地化と過去との折り合いをつけるための闘いの象徴として描かれたのです。
韓国協議会は、「ブラック・ライヴズ・マター」運動をきっかけにベルリンで結成されたさまざまな移住の背景を持つ人々の同盟の一部でもあり、彼らの経験や歴史をドイツの公共空間に含め、その経験や歴史を誰にでも分かりやすくすることを要求しています。そしてこれまでに、平和の像は彼らの闘いの一部となったのです。たとえば、2020年11月25日にベルリンのジャンダルメンマルクトにて開催された「We are the statue of peace(私たちが「平和の像」だ)」と題された集会で、登壇者の一人ニヴェディタ・プラサードが明らかにしたように、ドイツには移民の存在を証言する記念碑はごくわずかしかないことを指摘したのです。
ベルリン・ケーペニックには、ドイツ人男性アーティストによる1970年代の「ベトナム人の母と子」像もあり、この像は、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)にやってきたベトナム人ボートピープルの運命を思い起こさせるはずです。しかし、これらの像には説明のプレートがなく、なんのための像なのか分かりにくいです。
さらに、2012年4月5日に公道で射殺されたブラク・ベクタスの追悼碑があります。この事件は、ドイツに住む有色人種であれば誰にでも起こりうることですし、現在でもそう考えられています。2020年からは、ノイケルンのオラニエン・プラッツにも、人種差別と警察による暴力の犠牲者を追悼する石碑が建てられています。
これらに加えて、現在ベルリンでは、トルコ軍が1万3千人人以上の市民を殺害した1937/38年のデルシム虐殺を記念する記念碑建設が計画されています。この虐殺は、(クルド人のトルコ)移住によって起きたもので、ベルリンのクルド人の集合的な記憶にも焼き付いています。「このような集合的な経験は、何世代にもわたって反響し続け、世代間の記憶やトラウマに対処するために、認識や記念が重要な手段になり得ることを、私たちは知っています」とプラサードはコメントしました。
(田中による説明追加:
「デルシムの大虐殺」=1930年代の新生トルコ政権はトルコ民族主義の立場から他の民族に冷淡な姿勢をとり、とりわけ東部に住む「国家なき最大の少数民族」であるクルド人には参政権剥奪などひじょうに厳しい姿勢をとった。軍部を筆頭とする世俗勢力は1936〜39年にかけて南東部デルシムで自治を求めた1万4千人近いクルド人を虐殺した。これは、第一次大戦時に発生したアルメニア人の大量虐殺に次ぐ大規模なトルコにおける虐殺事件。)
ドイツは何十年もの間、移民と難民の国でした。ここで明らかになるのは、この5つの記念碑が、決してここドイツに住む人々の経験を代表しているわけではないということです。この文脈で、この像は、ドイツにおける韓国系、あるいはアジア系のコミュニティの歴史と経験を表すものでもあるのです。
結論
ある文脈で作られた彫像を、その文脈から外して別の場所に置くと、それを見たり理 解したりするために、再度位置づけなければなりません。意図的に、あるいは意図せずとも、新たな意味の層が生まれ、他の出来事や経験との接点が開かれます。このことは、連続性を可視化し、連帯を可能にするというプラスの効果をもたらします。しかし、「慰安婦」事件の特殊性が失われる恐れがあり、また、他の問題のために道具化される危険性もあるため、負の効果も持ちうるわけです。
このことをよりよく理解するためには、像が建立され、受け入れられているそれぞれの(国家的/政治的/地域的)空間において、像がどのように理解され、取り扱われているのか(守られているのか、あるいは軋轢の原因となっているのか)を文脈化することが有用であろうと思われます。
(田中利幸 訳)
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