一昨日の東京をはじめ全国250ヶ所ほどの場所での安保法案抗議と安倍退陣要求デモには感動します。1年前には考えられなかったような全国民的広がりでの問題意識の高揚、とりわけ若者たちの熱心な参加に嬉しい驚きを感じます。この勢いで、ぜひとも安倍内閣を打倒したいものです。
ただ、根本的な問題は、本来ならば、安倍のような低劣な政治家が首相には絶対になれないような、もっとしっかりした民主主義を日本社会にこれまで我々が築いてこなかったことです。したがって、こうした活動が一過性に終わらず、これを機会に、若者たちが、地道で堅固な「民主主義構築」活動を続けていくことを期待します。「民主主義構築」のためには、いまさら改めて言うまでもないと思いますが、私たち自身が、過去から深く学んだ重厚な歴史認識を持つことが必須条
件です。そうした堅固な歴史認識を持たない人間は、現在の問題に対する分析力の点でも、自分たちのあるべき未来像を描く点でも、極めて貧困にならざるをえないことは、安倍晋三という人間の言動を見てみれば一目瞭然です。
歴史認識と言えば、日本人の中のいわゆるネトウヨと呼ばれる連中の深く歪んだ、劣悪な歴史感覚については、もう議論するまでもないのですが、ある問題で、私への個人攻撃が今年の前半にかなり激しくネトウヨから出されたようですので、ここでそれに対する応答を簡単に述べておきます。実は、攻撃内容があまりにも
低劣きわまりないので、こんなバカバカしいことに反論するためにエネルギーと時間を無駄にはしたくないと思い、今まで無視してきました。しかし、ネトウヨの連中を信じる若者もいるかと思い、今回一度だけ、反論しておきます。と同時に、それに関連した戦争の「狂気」についての持論を述べておきます。時間が
もったいないので、二度と繰り返しはしませんが。
その問題とは、実は、かの有名なアンジェリーナ・ジョリーが初監督・製作した映画『アンブロークン』と密接に関連しています。2014年11月にオーストラリアで世界初封切りとなったこの映画は、2010年に出版された、ローラ・ヒレンブランド著の、ノンフィクション『Unbroken: A World War II Story of Survival, Resilience,
and Redemption』という本に基づいて製作されました。本の内容は、第2次世界大戦中に日本軍の捕虜となった米軍爆撃機搭乗員のルイス・ゼンペリーニの捕虜体験記『Devil at My Heels』と、彼からの聴取り調査をもとにしており、映画では日本軍による捕虜虐待の実態がまざまざと描写されています。ゼンペリーニは、1936年ベルリン・オリンピックのアメリカ代表の中距離ランナーとしてかなり名を知られた人でした。
下記サイトは映画の紹介です:
ゼンペリーニは、日本軍による捕虜収容所での様々な虐待にもかかわらず、戦後は日本人に対する深い憎悪心を克服して、その後、数回日本を訪問して多くの友人を作っています。1998年の長野冬季オリンピックでは聖火ランナーとして、自分が収容された直江津捕虜収容所のあった上越市内を走っています。残念ながら、映画が封切られる前の2014年7月2日に97歳 で彼は亡くなっています。下記は彼の生涯に関するドキュメンタリー・フイルムです。説明は英語ですが、このフィルムの最後に、彼が聖火ランナーとして走っている映像が含まれています。この映像は、映画『アンブロークン』の最後でも使われています。私はオリンピック反対論者ですが、このシーンには感動します。
(ちなみに私のオリンピック反対論については下記サイトをご笑覧ください。
なお、この映画についてはすでにいくつもレヴューが書かれていますが、私の友人、乗松聡子さんも『週刊金曜日』(2015年1月23日号)に書いています。
問題はこの映画ではなく、映画の原本となった本の執筆者であるヒレンブランドが、私の英語の本『Hidden Horrors :Japanese War Crimes in World War II』を情報源として、以下のような文章を書いていることから起きています。
「Thousands
of other POWs were beaten, burned, stabbed, or clubbed to death, shot,
beheaded, killed during medical experiments, or eaten alive in ritual act of
cannibalism. 他の何千人もの捕虜が、叩かれ、焼かれ、刺され、こん棒で死ぬまで殴られ、撃たれ、斬首され、医学実験で殺され、人肉食の儀式として生きたまま食われた。」
ネトウヨたちは、捕虜が「叩かれ、焼かれ、刺され、こん棒で死ぬまで殴られ、撃たれ、斬首され、医学実験で 殺された」ことについては、あまり問題にしていない、というよりは、こうした捕虜虐待の史実については多くの資料や出版物もあって、すでに一般的な知識と
なっているため、問題にできないようです。ところが「人肉食の儀式として生きたまま食われた」という表現に注目して、その言葉をあたかも私がそのまま述べ たかのように受け取り、私を「大嘘つき」と批判しているわけです。日本兵が人肉食をやったなどという証拠は全くなく、ましてや「儀式」としてやったなどという大嘘をつく「アカ脳歴史学者」の田中は許せないというわけです。ネトウヨの中には、ここからもっと妄想が拡大して、「田中は、日本軍兵が慰安婦を殺害
して、その肉を食べたとまで主張している」などという、メチャクチャなデマ攻撃をしている者まで現れました。
映画の中には「人肉食」の話は一切出てきませんが、この文章だけを大問題にして、したがって、この本を元に製作された映画そのものが大嘘であり、反日プロパガンダ以外の何ものでもないし、アンジェリーナ・ジョリーも反日イデオロギーに染まったけしからぬアメリカ人、という短絡な論理をネトウヨたちは展開したわけです。実際に映画を観てみればお分かりだと思いますが、内容は全く反日などではなく、残虐行為を受けた人物
が、いかに困難を乗り越え、最終的には敵に対する憎悪をも克服したかという、戦争に駆り出された若者の勇気ある体験を描き出したものです。にもかかわらず、実際には映画を観てもいないネトウヨたちがデマ攻撃をやり、これを週刊文春や産経新聞がさらに煽ったため、この映画は、日本では、公開見送りにまでなりました。
とにかく、「人肉食の儀式として生きたまま食われた」という表現が、なぜ私の本を元に出てくるのか、そのことについて説明します。ここには3つの問題があります。
1)日本軍は人肉食を行ったのか?
2)人肉食を「儀式」として行ったのか?
3)捕虜を生きたまま人肉食の対象としたのか?
1)まず第1の問題ですが、これについては私があらためて学術的論文を書くまでもなく、実際にニューギニアやフィリッピンの戦場に送りこまれ、飢餓と熱帯病と闘いながら
なんとか生き延びた生存者が、戦後著した多くの体験記の中で触れています。例えば、もうとっくに亡くなられましたが、ニューギニアで生き延びた兵の一人、 尾川正二さんの著書『極限のなかの人間:「死の島」ニューギニア』、『東部ニューギニア戦線:棄てられた部隊』には、おぞましい人肉食の実態があからさま
に書かれています。また、小説という形はとっていますが、ほとんど自分の実際の体験記である、大岡昇平の『野火』の中では、兵隊が「猿の肉」をとるために 仲間の兵を殺害するという形で、人肉食が暗示されています。さらに、これまたニューギニア戦線の生残り兵である奥崎謙三という稀有な人物に焦点を当てたドキュメンタリー映画『行き行きて神軍』の中でも、昔の同僚兵たちが、人肉食が頻繁に行われていたことをはっきりと告白しています。
ただ、こうした事実が広く知られていたにもかかわらず、この事実を公式な軍書類として裏付けるような資料は、私がオーストラリア国立公文書館ならびに戦争博
物館所蔵の大量の関連資料を見つけるまでは、ほとんどその存在が知られていなかったのです。「発見した」という表現は、実は正確ではありません。「偶然に 資料に出会った」と言ったほうが適切でしょう。実は、1991〜92年頃、私は日本軍が犯した様々な戦争犯罪に関する豪州軍作成書類について調査しており、公文書館と戦争博物館に足しげく通っていました。そのとき、偶然「日本軍戦争犯罪関連秘密文書:公開禁止」という書類に出会ったのです。そこで、この書類の秘密を解除して読めるようにしてくれるよう、申請を公文書館に提出
しました。そのことをすっかり忘れていた半年ほど後に、公文書館から「秘密文書を公開する」という連絡を受けたので、早速公文書に出かけて書類を読んでみ て、本当に驚きました。これが、ニューギニアにおける日本軍の人肉食の、あるケースに関する詳細な報告書だったのです。驚いた私は、同じような書類がもっとあるはずだから、関連書類を公開してくれるよう申請したところ、公文書館も戦争博物館も次々と非公開の関連資料の秘密を解除したのです。おそらくは、1990年代に入って、「もうこの類の書類は公開してもよい」という豪州政府側の決断によったのではないかと想像します。おかげで、私は大量の関連報告資料(ほとんどがニューギニアでのケース)を入手した最初の研究者になったというわけです。これらの資料を分析した結果を、1993年に出版した日本語の著作『知られざる戦争犯罪:日本軍はオーストラリア人に何をしたか』の第4章「ウエッブ裁判長と日本陸軍の人肉食罪:『人肉食』に関する豪州軍資料を中心に」で発表しました。1994年には米国の国立公文書館で、フィリッピンでの日本軍人肉食に関する米軍の調査報告書を数多く見つけ(米国の場合はこの関連の書類は秘密扱いにはなっていませんでした)、豪州軍と米軍の両方の資料を使って書いた論考を、1996年に出版した上記の英文拙著Hidden Horrors の中の1章として入れました。ニューギニアに関する豪州軍資料では、その被害者の多くが豪州軍兵士ですが、地元住民や捕虜が被害者となったケースの報告もあります。フィリッピンでの米軍調査報告書の場合は、被害者は主として米軍兵でした。
2)次は「儀式」として行ったのか、という問題です。豪州軍報告資料が公開になるまでは、元日本兵の告白や自伝からの限られた情報しかなかったため、私たち研究者が推測していたのは、人肉食は飢餓状態という極限状況に追いやられた兵隊たちの中に、場当たり的、突発的に、殺害した敵兵の肉を削いで料理したり、仲間の兵を犠牲者にして人肉食を行った者が出たのではなかろうか、ということでした。ところが、大量の豪州軍報告資料を分析してみて明らかになったことは、日本軍の兵隊たちが(小隊、中隊といった)グループで、組織的に、 殺害した敵兵の身体を自分たちの陣地に運び込んで、解体し、料理して、食しているということが分かりました。当然、こうしたグループ行動に参加しなかった
兵たちがいたわけですが、こうした兵たちは、仲間外れにされただけではなく、殺害されたケースが多々あったように思われます。例えば、『行き行きて神軍』 のフィルムでは、「敵前逃亡」の罪で2人の兵士が射殺されたことを戦後になって知った奥崎が、処刑した上官5人を訪ね歩き、彼らをとことんまで追求し、当時の生々しい状況を聞き出していくわけです。結局は、射殺された2人は「人肉食」に参加しなかった者たちであったことが、このフィルムでは暗示されています。その上、敵軍兵士の人肉をグループで食すことで、グループの結束を強めると同時に、「敵への支配力」を相互確認しあうという心理的作用も働いていたのではないか、というのが私の推測でした。こうした「組織的行動」と「グループ心理」に関する私の分析を、ヒレンブランドが「儀式」という言葉で言い換えたわけで、ここに誤解が生じたのです。「儀式」という言葉が、あたかもなにか特別なセレモニーでもやりながら人肉食を日本兵がやったかのような印象を与えてしまっています。ひじょうに不適切な表現だと思いますし、原著者の私としては、そのように私の分析を言い換えたことに強い不満を感じます。この点、誤解がないようにしていただくには、私の著書『知られざる戦争犯罪』を実際に読んでいただくのが最も理想的です。
残念ながらこの著書は絶版になっていますが、図書館にはありますので、ご興味のある方はぜひご一読くだい。また、全く私の知らない人が、自分のブログで、 私のこの著書の内容を紹介しており、この紹介文でも第4章の「人肉食」をとりあげて、私の分析について、ほぼ正しく、簡潔に説明しています。下記がそのサイト・アドレスです。
3)「生きたまま人肉食の対象とした」という問題。この問題については、まず、拙著『知られざる戦争犯罪』の229〜30ページから書き出した下記の証言を読んでください。この証言は、日本軍にニューギニアに連行されましたが、殺される寸前に逃亡してオーストラリア軍に救助された、パキスタン人捕虜ハタム・アリ上等兵がニューギニアでの体験を証言したものです。
「われわれはここから300マイルほど離れた場所に連れていかれ、毎日12時間という重労働に従事させられましたが、食糧はごくわずかしか与えられませんでした。医薬品もまったくもらえず、病気で倒れる捕虜はみんな即座に日本兵に殺されました。その後、連合軍の攻撃活動が激しくなったため、日本兵たちの食糧も底がついてしまいました。われわれ捕虜は草や葉っぱを食べさせられ、あまりのひもじさから蛇やカエル、そのほか虫さえ食べました。このころから、日本兵たちが捕虜の中から毎日一名を選んで連れ出し、殺害して食べることを始めました。私自身、これが行なわれるのを目にしました。この場所では100名ほどの捕虜が日本兵によって食べられてしまいました。残りの捕虜はそこから15マイルほど離れた場所に連れていかれ、ここで10名の捕虜が病気でなくなりました。 この場所でも日本兵は捕虜を選んで食べ始めました。選ばれた捕虜は小屋の中に連れていかれ、生きたまま身体から肉が切り取られました。そして、生きたまま地面に掘ったくぼみに投げ込まれ、そこで死んでいきました。肉がそぎ取られるとき、選ばれた捕虜は恐ろしい泣き声と金切り声の悲鳴をあげ、投げ込まれたくぼみの中からも同じような声が聞こえてきました。その泣き声はその不幸な捕虜が死んでいくにしたがいしだいに弱々しい声に変わっていきました。われわれ捕虜は、このくぼみに近寄ることを許されませんでした。しかし身体に土がかけられなかったため、ひどい悪臭が漂ってきました。」
私はこの証言について「この恐るべき証言がはたしてどこまで真実であるかは、今となっては確認のしようがない」と書きました。しかし、もしこれが真実だとすれば、「捕虜を殺さずになるべく長く生きながらえさせれば、それだけ長く『食糧』が腐敗しないで『自然保存』できる」という、「食糧保存のための段階的殺戮」であったのではないか、とも書きました。
再度述べておきますが、この証言が真実であるかどうか、私には確信が持てないのです。しかし、ニューギニアやその近辺の島々に、多くのインド人捕虜や朝鮮人
労務者が、飛行場建設やそのほかの日本軍施設の建設現場での強制労働のために連行されていき、彼らの多くもまた、飢餓と熱帯病で死んでいったことは、豪州軍の戦争直後の詳しい調査報告書から明らかなところですし、インド人捕虜が日本軍の人肉食の犠牲になったケースについては他にも豪州軍の報告があります。
オーストラリア戦争博物館には、当時、豪州軍に保護された、痩せてガリガリになったインド人捕虜たちの姿が映されている写真やフィルムの映像もたくさん所 蔵されています。しかし、問題は、たとえ真実であったとしても、この例外的とも言える人肉食ケースが、あたかも一般的であったかのようにヒレンブランドが表現していることが問題です。私が豪州軍、米軍の関連報告資料を分析した数多くの「人肉食」ケースで、「生きたまま」のケースは、これ1件で、他には例がありません。
以上が、私の「人肉食の儀式として生きたまま食われた」という点に関するコメントで、同時にネトウヨの批判に対する応答です。ネトウヨの連中は、実際に映画も観ていないし、私の著書も読まずに、「反日、反日」と騒いでいるわけです。
結局のところ、結論として私が言いたいことは以下のような点です。
1)日本軍将兵は、とりわけ食糧や医薬品、兵器弾薬も十分与えらないままに熱帯のジャングルという戦場に送り込まれた将兵たちは、飢餓と熱帯病でバタバタと死んでいきました。東部ニューギニア戦線に送られた日本人将兵の数は15万8千人弱でしたが、その94パーセントが亡くなっており、そうした死亡者のほとんどが餓死または病死です。この人たちは文字通り、天皇裕仁と日本政府に棄てられた「棄民」であり、「犬死」させられた人たちです。
2)飢餓で死んでいくことを避けるための極限的な手段として、彼らは、往々にして「人肉食」を行いました。そして、その「人肉食」を部隊で組織的に行うところまで彼らは追い詰められていったのです。私はこれを、「極限状況で強いられた集団狂気的行動」 と表現したいと思います。「集団狂気的行動」に参加できなかった、かろうじて「正気」を保っていた兵は、しばしば「狂気集団」によって抹殺されました。こうした集団のメンバーにとっては、自分たちが「正気」であり、「正気」をなんとか保っていた人たちが「狂気」だという「妄想」に捉われました。これが、戦争が産み出す「狂気」のなんとも恐ろしい、おぞましい実態なのです。「戦争」という問題を考えるとき、私たちは、戦争が産み出すこの厳然たる非情な狂気=現実を直視することを忘れてはなりません。
3)その上でもう一つ忘れてはならないことは、このような「狂気」を産み出した責任は誰にあるのか、という「日本の戦争責任問題」です。奥崎謙三は、1969年の一般参賀で、15メートルという近距離から裕仁に向けてパチンコ玉3発を発射しました。さらにもう1発を、「ヤマザキ、天皇をピストルで撃て!」と叫びながら発射。1発も当たりませんでした。(当時はバルコニーに防弾ガラスが入っていなかったのですが、この事件以降から入れるようになりました。)天皇であれ誰に対してであれ、パチンコ玉を狙い射つことに私は断固反対しますが、奥崎の気持ちは十分理解できます。奥崎の行動は、奥崎と彼の殺された仲間達にとっての「戦争=狂気」を産み出した張本人に対する「狂気的行動」であったと言えるのではないでしょうか。「狂気」に対して本気で立ち向かうことは、往々にして自分が「狂気」に陥らざるをえないという危険性が伴うことを私たちは自覚しておく必要があります。
4)しかし、こうした「狂気」は、戦争期だけに発生するものではありません。実は、戦争で起きる様々なおぞましい事件は、そのほとんどが、平和時の我々の日常
生活のなかに隠れている人間行動現象であって、それが戦争という集団暴力蔓延状況の中で、モロに本質を露呈するわけです。例えば、現在の安倍政権にもその 現象が見られます。明らかに憲法違反である安保法制案=戦争法案を、欺瞞で塗りたくって国会を通過させようとする行動を、安倍自身はもとより閣僚や安倍を
とりまく連中は「欺瞞」とすら考えていません。これは、ある種の「狂気」、しかも安倍をとりまくグループの「集団狂気」と称してよいと私は思います。したがって、私たちは、常日頃から、日常生活のなかに隠れている「狂気現象」を、具体的な「狂気行動」にまで発展させないという「民主主義運動」が必要です。
これを許せば、最終的には、私たち自身が戦争という「狂気行動」の極限状況にまで駆りやられてしまうわけです。「人肉食」問題は、「戦争の狂気」を考える 上での、ひじょうに貴重な歴史教材だと私は考えています。
日本軍の人肉食については、他にも情報がありますので、参照してください。
3 件のコメント:
中国でも日本兵の人肉食の話が伝えられています。私は1999年、北京、盧溝橋にある抗日戦争記念館を参観した時、人肉食を示す2枚の写真の展示を見て、たいへんな衝撃を受けました。中国で買った本(探したら出てくると思います)にも同じ写真が出ていました。この件は日本ではもちろん中国でも知られていないようで、本の中でも著者が「日本兵が人肉を食べた」と言った時、親か誰かが「いくら日本鬼子でもそこまではしないだろう」と言ったとか。この話を日本で発表しようとした人が家に火をつけられたという話も読んだ記憶があります。ただ、2枚の写真には状況説明が不足しており、証拠として採用できるかどうかはわかりません。松本栄好という中国で「慰安婦」の検査をしたという戦争証言者に聞いたところ、中国の日本兵は食糧がたくさんあったから、人肉を食べる必要はなかったのではないか、ということでした。というわけで、これが本当に起こったことなのか、私にはわかりません。またこれを公表した場合、右翼から、中国人は昔から人肉を食べていた、孔子がどうの、水滸伝にも書いてあるではないか等と言われて、建設的な議論にならない可能性があります。(九条の会ヒロシマ会員)
はじめまして。カナダ・トロント在住の日系一世で山田修と申します。実は先生の著作「知られざる戦争犯罪」もう15年くらい前、トロント大の図書館で偶然見つけ何度も借りて読みました。特に衝撃的だったのは豪軍戦死兵を解体して料理していた日本兵が逃亡した後、飯盒などで煮られていた生々しい跡が残されていた場面の描写は、生涯忘れられません。人肉喰いと俘虜虐待の実態、軍律や習慣、文化の相違からきた理解の相違が生んだ悲劇の数々も胸を打たれました(陸軍式ビンタの懲罰、「軍法会議」や「軍律裁判」などを面倒を省くため2、3発殴ってすます「温情?」が理解できない欧米の軍隊また、「契約」に署名しなければ無効と考えた豪軍を日本軍は「内容を守る」と了解したと理解した難しさ。それにより炎天下「檻」に閉じ込められ俘虜の体力を無視した急行軍で病兵が次々落伍していく、そっと握手をして立ち去る俘虜達、涙を流しました。大分、忘れてしまったので映画鑑賞と一緒に借りてもう1度ノートをとりながらじっくり読んでみたいと思っています。https://www.youtube.com/watch?v=JK_mqJLSV2g大岡昇平自作を語る・全三篇https://www.youtube.com/watch?v=7YkCryWjpuMゆきゆきて神軍(中学の頃みましたが、凄惨極まる内容で参りましたが、今度50歳近い大人の目でもう一回みてみます。あと教授の名前は忘れてしまったのですけど、今「BA」を5単位追加(2・5終了)し「Hon・BA」にアップグレード中で5年ほど前に最後に受けた「豪州現代史」の課目で、はじめに教授から「なぜこの課目を選んだか」理由をそれそれ宿題にされたですが、私は日本帝国主義の侵略戦争により最も酷く長期間、大規模な残虐行為に曝され2千万の無辜の人々の命が失われ国土が荒廃した中国を筆頭に「何をしたか?」知れる限り全てを知りたい、と思い地道に研究してきました。また朝鮮・台湾植民地支配を含むアジアへの侵略を幼少時から知っており、取り組んできましたが、ビルマ・インドネシア・イギリスとオランダを追い出してくれた解放軍として歓呼をもって迎えられた日本軍が、実は単なるもう一つの「侵略者」に過ぎなかったと失望に変わり、「ロームシャ」を強制労働で酷使したのはもちろんのこと、連合軍の膨大な俘虜を国際協定を守らず劣悪な条件下、虐待し大量の死者を出し戦後、「戦争犯罪については日本人とみなす」とされた朝鮮・台湾人がBC級戦犯で「日本人」として多く処刑され、日本政府は無常にも国籍を失った「外国人」として冷ややかに扱い何の援助もしなかった、内実に日本人の一人として憤慨し、私にも他残虐行為も含めて同じ血が流れ同じ土壌で生まれたものだ、「戦後世代」なんて「アリバイ」でもなんでもない、問題は戦中と連続している戦後、むかしのことではなく「今の」ことに責任を持っている、のを自覚して生きてまいりました。私は別れた家内がオーストラリア・メルボルンの小学校に6年住んでいた帰国子女でして、以前から豪州に興味を持ってその教授にも伝えました。日本人企業・商社の日系コミュニティーがパースなどの西海岸にもあるなどおもしろい話をありがとう、と返事を頂きました。しかし最後に、yeah wartime, those people, they are not happy about that. で返信は締めくくられていました。
最後に井上豊さんが紹介していらっしゃった「中国戦線」でも元兵士の証言は手持ちにありますので、また参照させてください。大岡氏が「俘虜記」「レイテ戦記」で語っていたのと、撫順戦犯管理所内の担白書に元戦犯容疑者が綴った人肉喰いの証言も何個かメールでバンクーバーの会へ送ったのですが、内容が長文であったので高度に関心がある人以外は読まないだろうから、「ブログ」で発したら?とありがたいご提案を頂いたので、現在、オンボロPCを新調し機械はかなり苦手ながら周囲の友人に聞いて見ます。先生のブログに書かれているものはほとんど読ませていださきました。安部晋三はじめまとわりついてる連中(ヨトウヨも同じ)に共通することは、歴史全般、南京事件や性奴隷制度はおろか、「日本軍」の成り立ちや50年戦争と大東亜戦争について関心も興味もなく正確な知識も持っていないことがほとんどで、それ自体に疑問を感じる能力すらない下劣な愚昧ぶり、なんでこんな欺瞞と嘘、その矛盾すら察知できないほど無能なのがまだまだ支持を完全には失っていない・・・でも先生と同じく私も「若者」が中心になって「反原発反戦争平和」を訴えてがんばっている活動には励まされています。それでは駄文、長くなりお時間とらせてしまい恐縮ながらそろそろ失礼されて頂きます。簡単に自己紹介を山田修(1968年東京都目黒区出身・18歳でアメリカに発ちカナダももう27年目に入りました。トロント大学歴史学部卒業専攻ソ連・中国現代史・東アジア研究。ここ5年は、職業である医療関係の浪人が続いてまして、何とか成し遂げ、後方の憂いなく、ここでうたったことに全力で取り組める環境を作り出したい、偶然から苦手な「理数系」「化学」が期間の治療師・・・悪戦苦闘で自信喪失の氷河期ながら、今こそ真の「日本男児」の本懐「大和魂」誰のためでもない、自分のために奮起させねばいけない正念場です。
山田(サミー)修 2016年 2月15日 トロント
大岡昇平氏の著作から紹介させていただきました。
「俘虜記」から、
・・・私の上官である。私が彼等を見て駆け寄ると、黒川という軍曹は横を向いて「大岡、この戦争は負けだな」といった。「俺が俘虜になるくらいだから」という意味らしい(中略)・・・太平洋の敗兵が誰でも経験した所謂木の実を喰べ、草の根をかじっての難行軍で、幾度か食物を求めて海岸地方に出ては、比島人に追われて山中に逃げ込み、遂にカバラン背後の山中にかかった頃(無論地図も磁石も持たない一行はどの辺か知らなかった)、黒川軍曹が、今度比島人を見つけ次第殺して食おう、といい出した。最初冗談かと思って聞き流していたが、しつこく繰り返すので、顔を見ると眼の色が変わっているのでぞっとした。と亘はいっている
・・・(中略)、この人肉喰いの提唱の事実を知って以来、私は彼を見るのがいやになった。人肉喰いは人類創造以来、人肉と共に人間の精気を摂取するという信仰に基づく未開人のカー二バリズムから(現代の日本でも田舎で焼場の設備がなく、村人が墓場に蒔を積んで死体を焼く場合、焼け残りの肉を万病の薬と称して食べるところがある)漂流船上における最後の必要から来るそれに到るまで、幾多の要する飽食した我々には、何もいう権利のない実例を現している。
しかし私が黒川軍曹に嫌悪を感じたのは、他に冗談だと思う者がいたほど切迫していなかった事態において、彼だけがそれをいい出したことにある。メデュース号の筏上の悲劇は非難し得ないが、俘虜の肉を会食した日本の将校は非難されねばならぬ。単に俘虜取扱に関する国際協定に反するばかりでなく、贅沢から人肉を食うという行為が非人間的だからである。それは彼等が陣中美食の習慣と陰惨な対敵意識に発した狂行である。
同様にわが黒川軍曹が同じ条件の下に飢えていた部下より先に、比島人を食うという観念を得たのは、明らかに彼が日華事変中に得た「手段を選ばず」流の暴兵の論理と、占領地の人民を人間と思わない圧政者の習慣の結束であった」(「俘虜記」・大岡昇平、1952年・中公文庫、pp193-194)
*「レイテ戦記」から、
・・・レイテ戦末期で最も怖ろしい人肉喰いのうわさが発生するのは、この辺からである。米軍やフィリピン人には殆ど会わないのだから、日本人同士喰い合うほかはない。徒党を組んで輜重兵の負荷をうかがう追剥ぎが、ブラウエン作戦の段階から出ていたが、作戦終了と共にそんな獲物もなくなった。
その時孤立した兵士を殺し、人間自体を喰ったと信じられている(中略)・・・多くの者が「あぶない」と思わせる人相の悪い兵士の一団に会った記憶を持っている。必ず二、三人連れ立って歩き、行き会った時は「こっちにはまだ力があるぞ」ということを示すために、「おう」と声をかけてすれ違ったという。夜の一人歩きは絶対に禁物であった。同じようなことがルソン、ミンダナオ島でも語られている。
ある十六師団の兵士が同年兵にめぐり会った。ほかの中隊の下士官がいっしょだった。猿の肉と称する干し肉をすすめられたが、気味が悪くやめた。その夜同年兵から秘密を打ち明けられた。下士官を殺して食糧を作り、米軍の陣地を捜して投降しようと誘われたが、気味が悪くなって逃げ出した。
これは筆者が「野火」という小説にした挿話である。この十六師団の兵士は生還している。しかしこの場合も彼の行為はすべて「未遂」であり、実際に行われたことについては伝聞しかない。
しかし終戦間際のルソン島北部の山中では、中隊単位で報復的に喰い合った話が伝えられる。「指がついた」人間の腕をかじる病兵を目撃した兵士の証言がある。フィリピンの女の解体された死体を見たという。しかしこの微妙な問題については、また後で触れなければならない(「レイテ戦記」・大岡昇平、中公文庫(1974)、「下」巻、pp209-210)。
・・・人肉喰いの話はこの地区にも伝わっている。三月上旬渡航した軍通信隊の村川中尉もそのうわさを聞いていた。みな伝聞によることは、脊梁山脈中と同じである。兵隊は腹が減ると大抵食い物の話ばかりするものである。人肉喰いは中でも最も刺激的な話題なので好んで語られるのである。
ビリヤバの町のフィリピン人の間に、カンギポット北方の谷間にあった若い兵士の死体に、臀と股の肉がなかったという記憶が残っている。この時期に捉えられた兵士が、黒焦げの人間の腕を持っていた。といううわさがパロの俘虜収容所で語られた。
これも伝聞であるが、ルソン島北部の生還者には、解体されたフィリピン人の女の死体を目撃している者がいる。ミンダナオ島で臀肉のない将校の死体が目撃され、報復と信じられている。しかし餓兵のすべてが、この種の行為に出たわけではない。道徳的制約を越えるについては個人差があって、同じ状況にあっても、人肉喰いをする者と、しない者がいるのである。
喰った者の顔には、なんともいえない不気味な艶があってすぐわかったといわれる。しかしこれは人肉という神秘的な食物を摂ったために現れる特殊な現象ではない。含水化物ばかり摂取していた人間が、不意に蛋白質を摂るから皮膚に艶が出るのである。
人肉喰いは太平洋戦争でわれわれが残した最も むべき行為の一つである。ニューギニアの敗兵は原住民から怖れられた。レイテ島においても警戒されたので、それもこの地区から生き残った者の少ない理由に入るかもしれない(「下」巻、pp285-286)
*中国戦線での人肉喰いについて、もう一つ撫順戦犯管理所での元戦犯の証言も添えました(「戦争と罪責」・野田正彰、1998年、岩波書店)。私は19歳の娘がいます。それを思えば生きているのが嫌になるような、凄惨極まりない内容ですが。
「私は二日前から一八歳ぐらいの中国の娘を連行させていた。自分の慰みものにしていたのだが、いずれは何とか処置しなければならぬことは分っていた。このまま殺してはつまらない。私は一つ考えを思いつき、それを実行した。私は娘を裸にして強姦し、その後、包丁で刺し殺し、手早く肉を全部切りとった。それを動物の肉のように見せかけて盛り上げ、指揮班を通じて全員に配給したのである。兵隊たちは人間の肉とも知らずに、久しぶりの肉の配給を喜び、携行していた油で各小隊ごとに、揚げたり焼いたりして食べた」(「戦争と罪責」・野田正彰、1998年、岩波書店、p112)。
*第十三章:「良識」に出てくる元軍曹の証言です。彼は一人残虐行為にも強姦にも加わらず、中国戦線からフィリピン(バターン、コレヒドール、ネグロスと転戦し、1945年南部仏印進駐後のベトナムでもフランス人俘虜に暴力の代わりに「たばこ」や「食糧」を与えてどこでも喜ばれたまさに「良識」を失わなかった少ない兵士でした。敗戦を向かえべトミンに釈放され帰国した兵士で「戦犯」ではありませんでした(ちなみに「軍人恩給」を死ぬまで拒否し、公安を筆頭に大新聞、官民一体の嫌がらせにも屈せず近年、逝去しました)。それでも1度、ネグロスで上官の命令に逆らえずフィリピン人の俘虜を一人射殺し、ビサヤで彼が「死にたくない」といった言葉が生涯耳から離れなかったと「戦争犯罪」を背負って生涯をまっとうした人でした。
「私の一年先輩の一等兵が寝床をつくろうと思って、麦がらを探しに、ある中国人の家に行きました。家の入口に麦がらが積んである。これはいいと思って、そのまま抱えて持ってこようとすると、中に重いものがある。何だろうと中をみてみると、六十年輩の女の人が殺されていたというんです。初めは単純に婦女子に対する暴行か、と思ったんですが、見たら、頭がパカンとはぐれている。中がない。その兵はびっくりして、そのまま埋け込んできた。
付近にサツマイモ畑があり、私たちは芋を焼いては食べておりました。先ほどの先輩が芋を食べようと灰の中をほったところ何か紙にくるんだ物がでてきて、破れたところからなんか息のたつようなものがみえる。それをみた、火の近くに寝そべっていたひとりの兵隊が起きあがって、ものすごい権幕でその人をどなりつけた。「なにするんだ。それは俺のだ」と」。
後日わかったんですけども、梅毒にかかった兵隊が、地方にはそんな言い伝えがあるんでしょうか。脳みそを焼いて食えば治るという迷信をあてにして、中国農民を殺して、そういうことをしていたのです」(pp、285-285)。
山田(サミー)修 トロント
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