2025年12月21日日曜日

豪州で横行闊歩する「反ユダヤ主義」という言葉

ボンダイ・ビーチ・テロ事件の真の原因を問わない摩訶不思議な豪州政府批判 

ボンダイ・ビーチ公園テロ事件は「反ユダヤ主義」蔓延のゆえ?

12月14日夕方以来、オーストラリアでは「antisemitism 反ユダヤ主義」 ユダヤ人に対する偏見、憎悪、差別、迫害 という言葉が突然に横行闊歩するようになった。

それは、シドニー郊外のひじょうに人気のあるボンダイ・ビーチの公園で、そのとき行われていたユダヤ教の祭典ハヌカの集まりに参加していた大勢のユダヤ人たちを狙った銃撃射殺事件が起き、15名の市民が死亡し、40名以上が負傷したことに起因する。犯人は、過激派組織「IS=イスラム国」のメンバーと見られる親子二人で、ユダヤ人の無差別殺戮を狙ったテロ行為であることは明白である。この親子は、親(50歳)がパキスタンからの移民、息子(24歳)はオーストラリア生まれの豪州市民である。

ユダヤ人殺戮を狙ったこのような銃殺テロ行為は、2023年10月7日のハマスによるイスラエル民間人殺戮と人質捕獲、それに続くイスエル軍の報復によるガザのパレスチナ住民大量殺戮の開始以来、オーストラリアでは初めてのケースである。したがって、オーストラリアのユダヤ系市民にとってはもちろん、多くの豪州市民にとって強烈なショックであることは言うまでもない。多くのユダヤ系市民は、我々は「反ユダヤ主義」というヘイト犯罪の標的になっているのに、そのような犯罪の防止政策の実施を政府は怠ってきたと怒りをあらわにしている。

事件発生以来、この「反ユダヤ主義」に対する非難がすぐに政治的に利用されるようになり、とりわけ連邦議会で野党である自由党側が、ユダヤ市民の不安をさらに煽るが如く、毎日、繰り返し大声でこの言葉をメディアに向けてあげ続けている。例えば、元首相であるジョン・ハワードをはじめ多くの自由党議員、とりわけ前回の選挙で落選した元財務大臣のユダヤ系のジョシュ・フライデンベルグなどは、ボンダイ・ビーチ殺戮が起きたのは、アンソニー・アルバニーゼ首相が「反ユダヤ主義」の蔓延防止と除去に失敗したからであり、「反ユダヤ主義」をのさばらせた首相の責任とモラルが問われるべきで、こんな情けない人物に首相をつづけさせるべきではないなどと、次々と個人攻撃を加えている。同族のユダヤ系市民の不幸をできるだけ政治的に利用して、次回選挙ではぜひとも当選して政界に返り咲きたいという政治家のこのような醜態を見せつけられると、人間とはなんとも浅ましく哀しい生き物であるかと思わざるをえない。

オーストラリアでは、2023年10月以前には「反ユダヤ主義」によるヘイト犯罪はほとんど起きなかったし、ユダヤ系市民が労働党政権を目の敵にするようなことはなく、むしろ関係は良好といえるものであった。よって、誰の目にも明らかであるが、「反ユダヤ主義」によるヘイト犯罪が急激に起きるようになったのは、イスラエルのネタニヤフ政権がガザの徹底的破壊とパレスチナ住民に対する無差別大量殺戮を開始してからである。豪州首相の「反ユダヤ主義」に対する対処能力がどのようなものであるかという問題と、「反ユダヤ主義」をオーストラリアだけではなく世界各国で引き起こしている根本的原因とは直接関係はない。ところが上に述べたような保守政党のこの事件の政治的利用に同調して、ユダヤ系市民の中には総督に首相を罷免せよという要求を出している人たちも出てきている。

ガザ無差別大量殺戮反対運動は「反ユダヤ主義」を煽る それは本当か?

オーストラリアで俗に言われる「パレスチナ派」 この言葉はしばしば「反ユダヤ主義」のグループという意味を暗示する政治的目的でも使われるが の市民がイスラエル政府を批判するデモを開始したのは、ガザ紛争が勃発した2日後の2023年10月9日の(シドニー時間)夜が最初であった。シドニー市内からオペラハウスまで1000人ほどがデモ行進を行い、豪州政府のイスラエル支持停止を訴えた。これに続き、メルボルン、アデレード、ブリズベン、パースなどの州都でも次々と政府にイスラエル支持停止を訴えるデモが行われるようになった。

10月31日には、ユダヤ系市民の反戦平和グループが、ビクトリア州のジロング市内にある防衛大臣リチャード・マーレスの選挙区事務所におしかけ、イスラエルへの軍事支援停止を訴えて、事務所を一時占拠した。また、その後まもなく、各都市の大学キャンパスでも、イスラエル軍のガザ住民無差別大量殺戮を非難し、豪州政府にイスラエル政府支持の停止を求める学生集会が開かれるようになった。こうしたデモや集会はオーストラリア各地で2年以上、ねばり強く続けられている。

初期の反戦デモや集会 例えば上述のシドニーでの最初のデモ では、「ユダヤ人をガスで殺せ」という「反ユダヤ主義」のスローガンを叫ぶデモ参加者がいたと主張する見物人がいたそうである。これを受けて、ニューサウスウェールズ州の州知事クリス・ミンズ(労働党)は「シドニー・オペラハウスには人種差別的な罵声を浴びせる人々が押し寄せ、憎悪が渦巻いていた」と、あたかも自分が見てきたかのようにデモを批判。しかし警察が記録した動画に写っていたのは「ユダヤ人はどこにいるのだ」という言葉で、「デモにユダヤ人も参加せよ」と間接的に呼びかける内容と思われる発言だけであったとのこと。デモが増えるにつれて、アルバニーゼ首相も、デモ参加者が暴力的になり「反ユダヤ主義」を煽っている懸念があると批判的な見解を繰り返し表明するようになった。

2023年11月12日には、再び、シドニー、メルボルン、ブリスベンを含むオーストラリアの複数の都市で、即時停戦を求める数千人が参加する親パレスチナ派集会が開催された。さらにシドニーとメルボルンでは、ハマスに拘束された人質の解放と反ユダヤ主義への反対を求める、親イスラエル派集会も開催された。11月16日には、停戦を求める4万人の医療専門家の署名入り請願書が連邦議会に提出された。これらのどれにも「反ユダヤ主義」の表明は全く見当たらない。

確かに、2024年9月11日のメルボルン市内のデモは暴力騒動になった。この日は、オーストラリアで最大規模の陸軍兵器博覧会が、豪連邦政府とビクトリア州政府の強力な支援の下、「メルボルン会議・展示センター」という大会場で開催された日であった。この兵器博覧会には31カ国の兵器製造会社が自社の様々な新兵器を展示し、数百万ドル、あるいは数十億ドル規模の取引が行われたのである。オーストラリア政府は2016年から2023年にかけて、イスラエル向け軍事装備および軍民両用装備の輸出許可を322件承認しており、同期間におけるオーストラリアのイスラエル向け「武器・弾薬」輸出総額は1550万豪ドル(約1010万米ドル)にのぼった。

会場周辺には、1800人余りの警察官が配備されていた。この兵器博覧会を妨害しようと多くの学生を含む5千人ちかいデモ参加者が11日の早朝から会場近くにおしかけ、会場への入場者を実力で道路封鎖しようとした。これを阻止しようと、警察官はゴム弾や閃光手榴弾、唐辛子スプレーなどを使った。これに対し無防備のデモ参加者たちは、石や卵、腐ったトマト、警察馬が道路に落とした糞などを投げつけて応酬。ニュース報道によれば、デモ参加者の100人余りが、警察側の「過度な武力」で負傷するという結果になったというのが実際の経緯であった。このデモでも、「反ユダヤ主義」のキャンペーンは全く使われていない。


 

実際の「反ユダヤ主義」のヘイト犯罪については、2024年12月6日早朝、2人の20歳のイラン系豪州国籍の若者が、メルボルン郊外のユダヤ系住民地区にあるシナゴーグ(ユダヤ教会堂)に放火し、会堂は半壊状態になったという事件がある。盗難車で会堂に乗りつけた犯人たちは、事件後間もなく逮捕された。しかし、この2人がイスラエルのガザ住民無差別大量殺戮を非難する集会やデモに参加したという情報は、私の知る限りない。

私自身も、メルボルン市内中心部の州立図書館前でこの2年あまり頻繁に開かれている集会に幾度か参加している。この集会では、毎回、中近東出身あるいはその2世であると思われる若者たちが、次々と壇上に上がり、長期にわたるイスラエルのガザ住民に対するあまりにも残虐な殺戮行為、医薬品や食糧支援物資搬入封鎖による病死や餓死の状況を詳しく報告し、イスラエル政府の非人道的行為に対して何ら非難や停戦要求を出さない豪州政府を厳しく糾弾する。しかし、彼/彼女たちのスピーチで、「ユダヤ人」全般を批判する言葉を私自身は全く聞いたことがない。この問題で「ユダヤ人」を批判することが無意味であるどころか逆に人種差別につながることを、デモや集会参加者は百も承知しているからであろうと思われる。

無差別大量殺戮の被害者よりネタニヤフや米国大統領の顔色を窺う豪州首脳たち

よって、この種のデモや集会が、即「反ユダヤ主義」につながるという労働党首脳たちの懸念は、全く現状を理解していないか、あるいは現状を知りたくないからか、そのどちらか(おそらく後者)であろうと私は思う。彼らの顔はイスラエル政府のほうにいつも向けられており、後述するように2025年8月3日までは、ネタニヤフ政権の顔色を窺ってきたというのが実情なのである。

それはまた、ネタニヤフ政権を強力に支持してやまない米国のジョー・バイデンやドナルド・トランプの顔色を窺ってきたことと密接に絡んでいることは言うまでもない。バイデンは、大統領在任中に「イスラエルは自国を防衛する権利がある」と常に述べて、ネタニヤフ政権のガザ住民ジェノサイドという「人道に対する罪」を問わない姿勢をあくまでも崩さなかった。トランプも同じであることは、言うまでもない。

豪州首相アルバニーゼと外相ペニー・ワンの二人も、いつまでも止まないネタニヤフのガザ住民無差別大量殺戮という強硬態度をどう考えるのか、豪州政権の基本的対応方針についてプレス会議で質問されるたびに、「イスラエルは自国を防衛する権利がある」という応答を繰り返すことだけを続けてきた。そして同時に、イスラエル政府批判のデモや集会は「反ユダヤ主義」を煽るものであると、否定的な態度をとり続けてきた。国内世論を決定的に読み誤り、米国の親イスラエル政策に全面的に追従した豪州政府首脳たちへの酬いは、後述するように、つい先日の12月14日のボンダイ・ビーチでのテロ事件で突然やってきたのである。

情けないのは、アルバニーゼやワンだけではない。ジャーナリストの中に、「それではガザ住民の人権は誰が守るのですか?」という質問をする者がいつまでたっても現れなかったことである。豪州の公共放送ABCのニュース特集番組でも、こうした質問を首相や外相に直接ぶっつけたジャーナリストは、私が知る限り一人もいない。このことに私は怒りを感じると同時に、「他人の痛み」に倫理的想像力を働かせることができないのは政治家だからなのか、それとも私たち人間の性(さが)なのかと、なんとも哀しくなる。

2025年5月19日になってようやく、英国、フランス、カナダの3カ国首脳が、イスラエル政府の食糧・医薬品などの支援物資の長期にわたるガザ搬入封鎖のゆえにガザ住民に餓死者が急増しており、しかも無差別空爆殺戮をいまだに続けていることから、非難の声をあげる共同声明を発表した。あまりにも遅い反応であったが、「我々は常に、イスラエルがテロリズムからイスラエルを守る権利を支持してきた。しかし、この(ガザ攻撃の)エスカレーションはまったく不均衡である」と主張し、イスラエルの活動によって引き起こされた恒久的なパレスチナ人強制移住は「国際人道法に違反する」とまで宣言した。さらに、「イスラエルは、パレスチナ国家の存続可能性およびイスラエル人およびパレスチナ人の安全保障を損なう違法な(ヨルダン川西岸地区への)入植地を停止しなければならない」と主張。そして結論では、この「地域で長期的な安定を確保する唯一の方法はイスラエルとパレスチナの二国家解決の実現」であり、この実現に向けて3カ国は他国と協力する用意があると述べている。ところが、この共同声明にはオーストラリアは参加していない。豪州政府には、署名参加要請すらなかったのであろうか。(ちなみに7月21日に発表された28カ国によるガザ地区での即時停戦を求める共同声明には、オーストラリアも日本も署名しているが、内容は英仏加3カ国共同声明の内容と比べれば軟弱である。)

労働党首脳たちの態度を変更させた8・3シドニー大規模デモ

2025年8月3日、シドニー湾にかかっている大規模な橋、ハーバー・ブリッジ(長さ1キロ以上、幅約50メートル)をデモ参加者で埋め尽くすという、これまでにオーストラリアでは見られなかった一大イベントが行われた。目的は、パレスチナ住民への支援表明、ガザの状況に対する意識向上、イスラエルに政治的制裁を与えるように豪州政府に圧力をかける、この3つであった。少なくとも5万人が参加すると推測された情報から、警察側は「主要道路の遮断になるデモは違法」という主張で、州最高裁にデモ禁止許可を訴えた。ところがベリンダ・リッグ判事は「平和的抗議行動が他人の迷惑になるのはあたりまえのことで、なぜこの抗議行動が必要なのかについての当事者側の理由説明は尊敬に値する」という素晴らしい判断で、警察の訴えを斥けてしまった。

あいにくと当日は雨で寒かったが(オーストラリアの8月は冬)、それでも、ある群衆安全管理専門家の推定によると、22万5千人から30万人という驚くべき数の参加者が、橋の全長を埋め尽くしてしまった。参加者の中には、ウィキリークス創設者でスパイ容疑で長年イギリスの刑務所に収監されていたジュリアン・アサジをはじめ、労働党や緑の党の複数の州議会議員や連邦議会議員、シドニー現市長など多くの政治家たちの顔も見受けられたし、アムネスティー・インタナショナルやオーストラリア・ユダヤ人協会、労働組合や海外難民支援団体などの組織からも強い支持表明があった。同日、メルボルンでも州立図書館前での集会に2万5千人が集まり、市内をデモ行進した

デモ参加者数の多さに驚き慌てふためいたのであろう、デモ当日前までは反対していた州知事クリス・ミンズは「抗議活動の意図は正しいし、デモも警察の指示に従う平和的なものであった」というコメントを出さざるをえなかった。同じように、アルバニーゼ首相とワン外相も、「オーストラリアの人たちがガザで起きていることに心を痛め、同時に怒りを感じていることがよく分かる、平和的なデモ」であったと賞賛し、それまで言い続けていた「反ユダヤ主義」についての懸念には全く言及しなかった。そしてガザへのこれまでの人道的支援に2千万豪ドルを追加すると発表して、デモ参加者や支援団体からの批判をなんとか躱そうとしたのであった。

さらには、9月に開かれる国連総において英国、フランス、カナダをはじめパレスチナ国家を承認する国が圧倒的に多くなるであろうことをすでに知っていたので、この大規模デモの1週間後の8月11日に、アルバニーゼ首相は「オーストラリアは9月に開かれる国連総会第80回会期においてパレスチナ国家を承認し、二国家解決に向けた国際的な機運、ガザでの停戦、人質解放に貢献する」という声明を発表し、ようやくネタニヤフ政権の顔色を窺うことに見切りをつけたのであった。

この8・3大規模デモ前まではアルバニーゼ政権を一応支持してきたユダヤ系諸団体は、「パレスチナ国家承認」という発表に反発して、反アルバニーゼ政権へと決定的に転換。それから4ヶ月後の12月14日のボンダイ・ビーチでのテロ事件が、ユダヤ系諸団体の反アルバニーゼに対する憤懣に火をつけた形となり、「反ユダヤ主義」というヘイト犯罪の防止政策実施を政府は怠ってきたと怒りをあらわにしたというわけである。

ネタニヤフも、ここぞとばかり、アルバニーゼを個人的に以下のような言葉で糾弾した。「(豪州政府の「パレスチナ国家承認」予定の発表の6日後の)8月17日のアルバニーゼ首相宛への手紙で、私は、豪州政府の政策が反ユダヤ主義を煽っているという警告を(次のように)促しておいた。貴殿のパレスチナ国家設立の呼びかけは、反ユダヤ主義の炎に油を注ぐものである。それはハマスのテロリズムに報酬をもたらすものとなる。オーストラリアのユダヤ人を脅かす者たちを大胆にし、今や貴国の街を徘徊するユダヤ人憎悪を助長する。……… 貴国政府はオーストラリアにおける反ユダヤ主義の蔓延を阻止するため、何らの措置も講じなかった。貴殿は何の行動も取らず、この病が蔓延するのを放置した。その結果が、本日我々が目の当たりにした(ボンダイ・ビーチでの)ユダヤ人に対する恐るべき襲撃である。」

オーストラリアのユダヤ系諸団体のアルバニーゼに対する批判は、まさにこのネタニヤフのアルバニーゼ個人攻撃と全面的に一致する内容となっている。ネタニヤフは「反ユダヤ主義の炎に油を注ぐ」自分の重大責任をタナにあげて、他国の首相に全責任を負わせる独善的、というよりは偏執的とも言える個人糾弾に終止した。反ユダヤ主義という病の蔓延があるとするなら、それをもたらしたのは自分に直接の責任がある7万人を超えるパレスチナ人の殺戮であるが、それには想いもいかないという人間 そんな哀しい人間を産みだしてしまった歴史的、文化的背景とは何だったのだろうか。

結論:政治モラルが問われているのは首相だけなのか?

冒頭で述べたように、野党の保守政治家や一部のユダヤ系オーストラリア人の中には、ネタニヤフ同様に、「反ユダヤ主義」をのさばらせた首相の責任とモラルが問われるべきであるとアルバニーゼを激しく糾弾する者たちがいる。真に問われるべき首相のモラルは、「反ユダヤ主義」をのさばらせたことではなく すでに述べたようにそんな責任は首相にはない 、イスラエル政府、とくにネタニヤフ首相のガザ住民に対する無差別大量殺戮(ジェノサイド)という重大な犯罪に目を瞑り、「イスラエルには自国を防衛する権利がある」という言葉でネタニヤフの犯罪行為の隠蔽に事実上加担したこと、その政治モラルの欠如である。しかしながら同じモラルの欠如は、首相を糾弾する野党の保守政治家や一部のユダヤ系オーストラリア人にも厳然としてあることに、彼ら自身がなぜゆえに気がつかないのであろうか。本当に気がついていないとすれば、これまた哀しいことである。

殺害 すなわち人の命を奪うこと この罪を犯す人間はユダヤ人であれパレスチナ人であれ、どんな人種の人間であれ、また被害者がどんな人種の人間であれ、犯罪者であることは言うまでもない。ところが、この言うまでもないことを、堂々としかも大量に「自己防衛」という立前で現在行っているのがイスラエルのネタニヤフ政権なのである。2023年10月7日のハマスによるイスラエル民間人殺戮と人質捕獲も、明らかに犯罪であることは述べるまでもない。イスラエルはこれをテロと見做し、テロ壊滅作戦と称して幼児や子どもを含む多くのパレスチナ一般住民を大規模軍隊で無差別殺戮する自分たちの国家テロは、正当な「自己防衛」と主張する。ちなみに、ナチスも侵略戦争を「自己防衛」という立前で行ったことを我々は思い出すべきである。周知のように、国際司法裁判所も国際刑事裁判所も、イスラエルのガザ攻撃は国際法違反であると明確に判断している。

一国の首相という政治家であるなら、一人の人間としてこの最も根本的なモラルに元づいて、ネタニヤフ政権に対し、最初から「ガザ住民の無差別大量殺戮は即刻停止すべきであり、パレスチナを国家として承認すべきである」という強い要求を出すべきだったのである。これは政治的判断や世論の動向の問題では決してない 人の命に関わる人間として最も根本的な問題であり、政治的判断も、あくまでもこの「人間としてのモラル」の問題にしっかりと根拠をおいていなければならないはずである。

ユダヤ系豪州市民の中には、このような要請に対しては猛烈に反対する熱烈なユダヤ民族主義者であるシオニストたちがいることは、私も十分承知している。しかし、そのような人たちに対してこそ、一人の人間として、いかなる民族に属する他者の生命をもあくまでも尊重することの重要性を説き、罪のない子どもたちを含む多くの多民族の一般市民を無差別大量殺戮しているイスラエル政府を支持することが、結局は自分たちの安全と生命を脅かす「反ユダヤ主義」につながっていく この極めて明解な道理を、忍耐強く、繰り返し伝えていくべきであろう。(ちなみにネタニヤフ政権糾弾のデモや集会には、数は少ないが、しばしばユダヤ系の市民活動家たちをみうける。決してユダヤ系市民の全てがユダヤ民族主義者ではないことを明記しておきたい。)

しかし、その道理を受け入れてもらうには、その道理を単なる知識としてだけではなく、心に刻み込む情念として受けとってもらう必要がある。そのためには、イスラエル民族が辛酸を嘗めたホロコーストという凄まじい体験記憶の自分たちの「痛み」を、倫理的想像力として、パレスチナ民族や他のイスラム系民族に対するイスラエルの殺傷行為の被害者の「痛み」を知るために活用し、他者の「痛み」をも自分の「痛み」と同様に自分の心の中に深く内面化するというプロセスが必要であろう。ユダヤ系民族とイスラム系民族の相互の「痛みの分かち合い」から信頼できる人間関係を徐々に築き上げていくこと、そこから始めていくことで未来が見えてくるのではないだろうか。これはもはや単なる政治の問題ではなく、そのような情念を涵養することができる新しい文化の創造の問題であり、言うまでもなく決して容易なことではない。とりわけシオニストたちの思考観念を変革することは並大抵ではなく、ユダヤ系だけではなく、オーストラリアの様々な民族背景をもった大勢の市民の忍耐強い協力が必要となってくるであろう。

しかし、12〜15万人のユダヤ系住民と80〜90万人のイスラム系住民が住むオーストラリアでの、ユダヤ系民族とイスラム系民族の平和的共存のための新しい文化の創造は、決して不可能ではないと私は考える。幸にして、オーストラリアには先住民と第2次世界大戦後、さらにはベトナム戦争後に移民してきた様々な民族が共存できるような「多文化主義政策」が1970年代から推進されてきた。最近、この「多文化主義」にもいろいろ問題は出てきているが、基本的には「平和的共存多文化主義」がすでに伝統としてこの国には根づき維持されている。したがって、ユダヤ系民族とイスラム系民族の平和的共存のための基礎は用意されているのであり、今後、具体的にどのように両民族の「平和的共存文化」を構築していくか、その様々な方法が議論され具体的に実践していける可能性は十分にあるはずだ。その方法の一つとして、「痛みの分かち合い」が是非とも検討されることを祈ってやまない。

この「痛みの分かち合い」という方法は、もっぱら原爆を含む無差別爆撃大量殺戮という戦争被害の自分たちの「痛み」だけを常に主張しながら、その一方で日本軍がアジア諸国で犯した様々な残虐な戦争犯罪の被害者の「痛み」には目を向けようとしない多くの日本人と日本政府にとっても、決して他国の問題ではないはずである。その点で、日本人には、オーストラリアの現状からも学ぶべきことが多々あるはずだと私は考える。

 

 

2025年11月5日水曜日

天皇はいかにして「敗戦国ナショナリズムの象徴」となったのか(下)

― いかなる経緯で「敗戦国ナショナリズム」は蔓延ったのか ―

 

田中利幸(歴史家)

(この論考は『反天ジャーナル 天皇制を知る・考える』 202511月号に掲載されました。https://www.jca.apc.org/hanten-journal/ )

 

目次:

1)「敗戦国ナショナリズム」によって隠蔽されている天皇裕仁の戦争加害責任

2)米日両国による「原爆神話」の捏造天皇裕仁を「戦争被害の象徴」に変身させた発端

3)「敗戦国ナショナリズムの象徴」としての天皇の「慰霊の旅」はすでに裕仁から始まっていた

4)結論:「敗戦国ナショナリズム」の「国家防衛ナショナリズム」への大転換の危険性にいかにすれば対抗できるか

 

1)「敗戦国ナショナリズム」によって隠蔽されている天皇裕仁の戦争加害責任

前回の論考では、いかに日本がアジア太平洋戦争で大被害を被った戦争被害国であったのか ― それは確かに歴史事実の一面ではるが ― を専ら強調するために、天皇の「象徴権威」をフルに活用する天皇夫婦による「慰霊の旅」を、最も有効な方策として日本政府が利用している事実について議論した。その政治的目的が、侵略戦争をはじめとする様々な残虐な戦争犯罪行為を犯した日本の加害責任を隠蔽することにあることは、あらためて言うまでもない。

 

しかし、天皇夫婦の「慰霊の旅」には、もう一つ重要な機能があることが包み隠されている ― それは天皇裕仁自身の戦争加害責任の隠蔽である。裕仁の戦争加害責任には、アジア太平洋地域諸国の多くの人々に対してだけではなく、日本国民に対する加害責任もあるが、この歴然たる事実が、天皇が「敗戦国ナショナリズム」の象徴として祀りあげられることで、すっかり日本国民に忘れ去られているのである。なぜこのようなことが起きたのか、その歴史的背景を今回はごく簡略に議論しておきたい。この問題は、日本の民主主義の「質」と深く関わっている重要な問題でもある。

 

天皇裕仁を大元帥と仰ぐ日本帝国陸海軍は、1931年9月から45年8月までの15年という長年にわたって、中国、東南アジア、太平洋各地で中国軍、連合国軍と甚だしく破壊的な戦闘をくりひろげた。とりわけ中国に対する日本の戦争は、初めから終わりまで一貫して残虐極まりない侵略戦争であり、被害者の数は2千万人と言われている。日中戦争の状況を詳しく報道した米国のジャーナリスト、エドガー・スノーは、日本軍の中国での蛮行を「近世において匹敵するもののない強姦、虐殺、略奪、といったあらゆる淫乱の坩堝を泳ぎ廻っていた」戦闘と表現した。こうした中国での被害者の他に、このアジア太平洋戦争の被害者は、インド(150万人)、ビルマ(15万人)、ベトナム(200万人)、マレーシア・シンガポール(10万人)、フィリピン(111万人)、インドネシア(400万人)、その他にも多くの太平洋の島々の住民被害者を合わせると、おそらく1千万人に近い人たちが死亡したと考えられる。さらに、約35万人の連合軍捕虜のうち約2万人が、強制労働などの虐待、病気や飢餓などで死亡している。

 

ホロコーストの推定被害者数は、580万人から600万人と言われている。第二次大戦中の5年ほどの間における、主としてユダヤ人という一民族の計画的な大量虐殺と、場当たり的で、どちらかと言えば無計画な15年にわたるアジア多民族の直接的・間接的殺害の総数とを単純には比較できない。しかし、それでも絶対数だけからすれば、日本軍残虐行為の被害者数はホロコーストをはるかに超えるものであったと言えよう。また、日本軍兵士・軍属の死亡者数は(朝鮮・台湾の植民地出身者約5万人を含む)230万人で、その6割が戦病死・餓死者である(ちなみに、上記のアジア太平洋地域の被害者の中にも餓死者が極端に多いことが一つの特徴である)。これに、原爆を含む空襲の被害者と沖縄や満州などでの一般邦人被害者数80万人を合わせると、約310万人の人命が失われた。強制疎開で取り壊された住宅は310万戸、約1500万人が家を失い財産を空襲・原爆で焼かれた。

 

戦後、裕仁は、戦争が起きたのは、大元帥である自分の意志を無視して軍部が独走したからだと主張し、責任を回避した。しかし、防衛庁防衛研究所戦史部が編纂した膨大な戦史叢書を読んでみると、彼が統帥部の上奏に対する「御下問」や「御言葉」を通して戦争指導・作戦指導に深く関わっていたことは否定しがたい事実であることがよく分かる。とりわけ、1941年12月の対連合国開戦の決定過程では、裕仁が最終的には決定的に重要な役割を積極的に果たしたことは、当時の内大臣であり、裕仁と毎日顔を合わせて緊密に助言を行なっていた木戸幸一の日記を見るだけでも一目瞭然である。

 

戦後の極東軍事裁判(いわゆる「東京裁判」)で、元首相・東条英機が、米占領軍と日本政府の政治的圧力から、裕仁が開戦決定をしたのは「私の進言、統帥部、その他責任者の進言によってシブシブ御同意になった」からだと、事実に反する証言をした。しかし、たとえ「シブシブ」というのが本当であったとしても、それに同意し、「宣戦の詔勅」に署名したことは事実である。裕仁に開戦の意志が全くないのに署名できたということ自体がおかしいのであるが、いずれにせよ帝国陸海軍の統帥権保持者として署名した限り、その最終責任が彼にあったことは否定できない。ところが、1946年4月29日(裕仁の誕生日)に28名の軍人や政治家たちがA級戦犯容疑者として起訴され、1948年12月23日(明仁の誕生日)に、そのうちの7名(板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東条英機、武藤章、松井石根、広田弘毅)の死刑が執行され、これで戦争責任問題は解決済みとされてしまった。

 

このように裕仁の重大な罪と責任をうやむやにしたのは、日本占領政策へのソ連の介入を避け、米国が日本の占領をスムーズにすすめ、且つ日本をアメリカの軍事力の支配下に永続的におくために、天皇の「象徴権威」を徹底的に利用するという戦略の結果であった。そのため、占領軍司令官マッカーサーは、東京裁判が開廷される前のA級戦犯容疑者リスト作成の段階で裕仁の「不起訴=免罪・免責」を確定しておくために、裕仁は本来「平和主義者」であるという神話を強く打ち出した。これに歩調を合わせる形で当時の幣原内閣も、1945年11月15日に「戦争責任に関する件」という閣議決定を行い、裕仁には一切戦争責任がないという政府見解を明示した。この閣議決定において、裕仁はあくまでも平和を希求していたのだが、軍部や政府が決定したことに従わざるをえなかったという神話を幣原内閣は作り上げ、これを公式決定としたのである。こうして日米共謀で、天皇裕仁は軍部に利用された平和主義者=戦争被害者であるという神話が、戦争直後から日本国民に流布されたのである。

 

1961年、渡辺清という元水兵が、裕仁に対して公開書簡を送った。渡辺は、1944年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦「武蔵」の2400名ほどの乗組員のうち、1400名ほどの生き残り海軍兵の一人であった。彼は、その書簡の中で次のように書いている。(ちなみに、1946年4月、渡辺は戦時中に海兵団員として受け取った俸給、食事代、被服費などを合計して、4282円を裕仁に返却し<おそらく宮内省宛で送ったものと思われる>、「私は、これでアナタになんの借りもありません」と、その返金に添えた書簡の最後で述べている。人間として失格者である裕仁とは決別するという、彼の強烈な意志がここに見られる。)

 

自分の命令でそれだけの人々が死んだという事実を考えただけでも、あたりまえの人間なら、傷心きわまり、それこそいても立ってもいられないはずだと私は思います。それがあたりまえの人間の心であり、あたりまえの人間の感覚なんだろうと私は思います。

したがって、もしそういうあたりまえの感覚がないとすれば、それは心ない人間なんだと思います。人間であって人間でない、人間という名をかむったまったく別のなにかなんだと思います。どう考えても私にはそうとしか思えません。

………

1946年(昭21)の元旦、あなたは詔書を発布して……自ら「神格」を否定されました………

自分の命令で多くの人を死地に追いおとしておいて、いまさら「信頼」だの「敬愛」だのといっても、余人はいざ知らず、私はもうそんなすらごとは一切信じません。騙されません。とにかく元旦の詔勅にはあなたの責任意識の片鱗だに見出すことができませんでした。

敗戦時の詔書にも同じことがいえます。国民はいうにおよばず、深刻な被害を加えた中国や東南アジアの国々にたいしても、あなたは“戦争は私の責任である、申訳なかった”と、ただのひと言も謝罪していません。そればかりでなく、戦後のどの詔書にもそのことにはひとことも触れてはいません。

こうして日米両政府の共謀によって「戦争被害の象徴」に祀りあげられた天皇裕仁は、誰一人に対しても「申し訳なかった」という一言さえ、口にしたことはなかった。渡辺が喝破しているように、「敗戦の詔勅」においても、自分の責任を認め国民やアジア太平洋地域住民に謝罪するような表現は全く使われていない。それどころか、この「敗戦の詔勅」を注意深く読んでみれば、日本国が原爆という新型爆弾による破壊的被害を被ったと主張することで、その日本を象徴する「国体=生き神」である裕仁自身が自己免罪・免責をしようという画策が、すでに敗戦の8月15日の段階で行われていることが明らかに分かるはずである。

2)米日両国による「原爆神話」の捏造天皇裕仁を「戦争被害の象徴」に変身させた発端

1945年8月6日、広島への原爆攻撃の16時間後、トルーマンはアメリカ国民向け声明をラジオ放送で次のように述べた。「世界は、最初の原爆が軍事基地である広島に投下されたことに注目するであろう。それは、われわれがこの最初の攻撃において、民間人の殺戮をできるだけ避けたかったからである。もし日本が降伏しないならば、……不幸にして、多数の民間人の生命が失われるであろう。原爆を獲得したので、われわれはそれを使用した。」その後アメリカはまもなく、「原爆を使わなかったならば戦争は長引き、そのためさらに数百万人という犠牲者が出たはずである」という原爆無差別大量殺戮の正当化のための神話を作り上げ、現在もその神話が世界の大多数の市民の間に深く広く且つ強く浸透している。

この神話の問題の本質は、原爆攻撃の真の目的がソ連の対日戦争参加を阻止するためという極めて政治的なものであり、しかも日本政府が米国の原爆使用を自ら招くような形にするよう米国側が画策した「招爆画策」の結果として行われたという事実を隠蔽するために、このような「正当化論」を作り上げ、それを自国民はもちろん、世界中の人々に信じこませたという「神話化」にこそある。すなわち、この米国の「原爆使用正当化論」は非論理的だけではなく、実は虚妄以外のなにものでもないということ、このことこそを我々は問題にすべきなのである。米国政府はアジア太平洋戦争終結以来ずっとこの虚妄の正当化を主張し続けている。最近話題になった映画「オッペンハイマー」も、実は、この虚妄の正当化を観客が無意識のうちに受け入れてしまうように巧妙な形で制作されている。(この米国側の「招爆画策」の詳細については、拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』第2章を参照されたし。映画「オッペンハイマー」批評については下記のブログ記事を参照されたし。https://yjtanaka.blogspot.com/2023/11/blog-post.html )

一方、日本側も原爆無差別大量虐殺の被害を政治的に利用する独自の「神話」を創り出した。8月15日に裕仁が発表した「敗戦の詔書」は、日本が原爆無差別大量虐殺を被ったために日本が降伏したかのような印象を与えるために作られた。裕仁と日本の軍事指導者たちにとっては、最大の関心事は原爆被害ではなく、日本がソ連軍に侵略される危険性であり、その結果、天皇裕仁が戦争犯罪人として裁かれ天皇制も廃止される可能性だったという事実を、原爆を利用して隠蔽しようと謀ったというのが真実なのである。

よって、「敗戦の詔書」の原案では、原爆についてはまったく触れられていなかったのも、なんら不思議ではないのである。なぜなら、裕仁や閣僚、戦争指導者たちにとっては、原爆が降伏の決定的要因などとは考えてもいなかったのであるから、当然である。ところがその原案草稿が、高名な2人の学者(川田瑞穂と安岡正篤)の、あるいはそのうちのどちらか1人の提案によって修正され、以下のような言葉が加えられた。「敵は新たに残虐なる爆弾を使用してしきりに無辜を殺傷し、惨害の及ぶところ真にはかるべからざるに至る。しかもなお交戦を継続せんか、ついにわが民族の滅亡を招来するのみならず、ひいて人類の文明をも破却すべし。」(敵は新たに残虐な爆弾<=原子爆弾>を使用して、罪のない人々を殺傷し、その被害ははかり知れない。それでもなお交戦を継続すれば、ついにわが民族の滅亡を招くだけでなく、それから引き続いて人類文明をも破壊することになってしまうだろう。)このようにして、日本もまた、独自の原爆神話を作り上げたのである。

裕仁は、降伏の決断を先延ばしにすることで、アメリカの原爆攻撃を招いてしまった責任の一端を担っていた。彼は、自らの命と地位と天皇制を維持するための条件付き降伏を求めて戦っていたのである。もちろん、ソ連軍が日本の本土に侵攻してくれば、それは不可能だった。彼は戦犯裁判にかけられ、処刑になることを恐れていたのである。最終的に、降伏に際して裕仁は、日本の侵略戦争、軍隊による数々の残虐行為、日本の植民地の朝鮮人や台湾人に対する搾取に対する自らの責任を隠蔽するためにも、原爆を利用したのである。アメリカは日本の条件付き降伏を受け入れ ― 実は最初から天皇を戦後の日本占領のために存続させ、政治的に利用するつもりであったゆえ ― 天皇制は維持された。

すでに述べたように、終戦直後、日本政府とGHQは、「平和主義」の裕仁は、戦時の軍指導層に操られていた戦争被害者であったかのように偽装し、裕仁の戦争犯罪と責任を隠蔽した。その上で、新憲法であたかも天皇が平和の象徴に戻ったごとく装った。かくして、日米両国は互いの二枚舌を黙認し合い、それぞれの戦争犯罪と責任を拒否し無視することを互いに受け入れた上で、戦後が始まったことになる。さらには、この政治的詐欺のせいで、日本もアメリカも、過去の悪行に対して責任を取るような倫理的想像力を働かせることに完全に失敗した。同時に、過去を厳密に自己検証することがなかったため、より人道的で創造的な未来を構想することもできなかった。

日米両国が、いかに都合よく各々の戦争責任を隠蔽するために、それぞれ独自の虚妄の「原爆神話」を創り上げたのか、我々はその歴史事実をもっと広く世界に普及させる運動を反核反戦市民運動の一環として行っていく必要がある。

政治家の嘘について、ハンナ・アーレントは以下のように述べている。「事態がまさしく嘘を語る者が主張するとおりであるかもしれないので、欺瞞はけっして理性と対立するようにはならない。嘘を語るものは聴衆が聞きたいと思っていることや聞くだろうと予期していることを前もって知っているという非常に有利な立場にいるので、嘘はしばしばリアリティよりもはるかにもっともらしく、理性にアピールする。嘘をつく人は公衆が信用してくれるように注意深く目配りしながら物語を用意するが、リアリティはわたしたちが受け入れる準備のできていない予期せぬものを突きつけるという困った習性をもっている。」(ハンナ・アーレント『真実と政治/政治おける嘘』より)

結局、戦争は常に、戦争中はもちろん戦後においても、戦勝国にも敗戦国にも真実を偽らせる。その意味では、戦争被害を被るのは人間だけではなく、「真実」も「虚偽」という戦争被害に晒されるのが、戦争のもつ必然性であると言えよう。戦争は、どんな形で行われ、どんな形で終結されようとも、結局は反民主主義的な国家原理(=「国益」のために「他者を殺し、自分も殺される」ことを国家が国民に強制する原理)で貫かれるのである。なぜなら、「人を殺す」ということは、いかなる理由があるにせよ、民主主義的な行動ではありえないからだ。

繰り返し述べておくが、最初は「敗戦の詔勅」で原爆に全ての責任を負わせる形で、天皇裕仁が自己自身を「戦争被害の国家的象徴」として打ち出し、それを引き継ぐような形で、今度は米国が天皇の「象徴権威」を日本占領政策に利用するために、日本政府と結託して、「軍に利用された平和主義者」=「戦争被害の象徴」として裕仁を祀りあげるという、まさに「虚妄の神話」を創り上げたのである。そして今や、その嘘が、リアリティよりもはるかにもっともらしく、我々にアピールしているのである。

3)「敗戦国ナショナリズムの象徴」としての天皇の「慰霊の旅」はすでに裕仁から始まっていた

このように1945年8月15日から早くも始まった原爆無差別大量殺戮の政治的利用は、敗戦後、日本の政治社会体制が「民主化」された後も、違った形で続いた。

1947年12月7日、広島は、原爆被害を国家被害のシンボルとすることで国家原理の中に取り込み、「戦争被害国家幻想」を作り出した張本人である裕仁の訪問を受けた。その日、天皇を迎え、爆心地の市民広場に約5万人の市民が集まったとのこと。この時の状況を中国新聞は、次のように報道している。5万人の国歌大合唱が感激と興奮のルツボからとどろき渡る。陛下も感激をに表され、ともに君が代を口ずさまれた。感極まって興奮のが会場を包んだ。」感激にむせぶ群衆に向かって、裕仁は、「犠牲を無駄にすることなく平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と、あたかも他人ごとのような言葉を発した。


 

このとき、裕仁が被爆者の健康について楠瀬常猪広島知事に質問したのに対し、知事は「人体の健康はまったく心配なく、植物が学問的にいえば多少の影響を残している程度で決してご心配はいらない」と述べている。裕仁の東京大空襲被害状況視察にあたって被害者の屍体がきれいに片付けられ、裕仁の目には触れられないようにしたのと同様に、広島でも再び被害の実相は裕仁には伝えられず、真の戦争被害者の姿は、「戦争被害の国家的象徴」である「天皇」の前からは消滅させられたのである。こうして、原爆ならびに焼夷弾無差別大量殺戮に対する責任を部分的に負っていた日本陸海軍大元帥=天皇である裕仁に、責任の自覚を被害者の側から促すことすらなかったというのが実態であった。

裕仁のこの広島訪問は、1946年2月から1954年8月まで、沖縄を除く日本全国各地を裕仁が巡り、天皇が国民に深い「慈愛」を表明する「巡幸」の一環として行われた。戦前・戦中は、皇室「慈愛」の象徴的活動は主として皇后、皇太后や女性の皇室メンバーに依拠しており、天皇は、どちらかと言えば「家父長」的な厳格な存在であり、帝国陸海軍大元帥という威厳のある権力保持者=父としてのイメージが国民に提示される傾向が強かった。にもかかわらず、「大御心(おおみこころ=天皇の心)は母心」というような表現もしばしば使われたように、「赤子」に対して「母性的なやさしさ」を兼ね備えている存在としても国民には知らしめられていた。戦後は、天皇の性格としてはそれまでは副次的性格であったこの「母性的なやさしさ」がにわかに強調されるようになり、皇后ではなく天皇がその「慈愛」の主体として、突然「おやさしい」存在として公的場所に現れるようになった。

こうして、「おやさしい」裕仁は、天皇制存続をかけて、戦災者激励、戦災復興状況視察、引き揚げ者援護状況視察に焦点を当てる形で全国各地を巡り、大衆に「慰めと激励の言葉」をかけ続けたのである。「慰めと激励」とは言っても、「食糧は足りているか」、「家族は無事だったか」といった類のごく形式的な、単調で無感情な言葉にすぎなかったが、新聞報道は「天皇の御高格を身近に拝し、其の厚き御仁愛を親しく直々に感受」(『静岡新聞』1946年6月19日)とか、「陛下のどちらかといえば女性的なやさしい態度こそ実に、平和国家日本の象徴」(『東奥日報』1947年8月29日)という表現で、その「慈愛」深さと「平和的性格」を強調した。

 

明仁・美智子夫婦、徳仁・雅子夫婦の「おやさしい」被災地訪問や「慰霊の旅」の原型は、したがって、すでにこの裕仁の「巡幸」で堅固に創り上げられていたことが分かる。それにしても、当時の新聞報道による裕仁絶賛と、その後の明仁・美智子夫婦、徳仁・雅子夫婦のメディアによる絶賛の仕方が全く同じであることには啞然とせざるをえない。メディアの皇室報道での不甲斐なさは、この80年、なにも変わっていないのである。

 

「慈愛」に裏付けられた「象徴権威」は、しかしながら、「巡幸」でその「象徴権威」が高まれば高まるほど、戦災を引き起こしたことに最も責任のある人物の一人であり、まさに「象徴権威」の保持者本人である天皇裕仁の「罪と責任」を見えなくしてしまうという、隠蔽作用が働いた。しかも「象徴権威」は、そのような隠蔽作用だけではなく、皮肉なことには、その「戦争加害者・責任者」を逆に「被害者」の「象徴」として祀りあげてしまうという劇的な「逆転幻想効果」をも働かせたのである。なぜなら、論理的には、「慈愛」を施す「神聖な」主体である「象徴的人物」が、残虐な戦争犯罪を犯す加害者ではありえないからである。「おやさしい」性格であるからこそ、彼は軍人や政治権力者に利用された「戦争被害者」だということになる。「慈愛」は、本来「癒しの心」であり、それはもっぱら被害者向けであって、加害者にはそぐわない。戦争で肉体的にも精神的にも傷ついた多くの国民が渇望していたのは、食糧だけではなく、まさに「癒し」を与えてくれる「おやさしい権威者」であった。かくして、皮肉なことには、戦争を引き起こし、その結果、肉体的・精神的傷害を自分たちに与えただけではなく、その上に食糧難を産み出したことにも重大な責任を持つ人間を、「癒し」の「象徴」と見なすという大逆転の幻想に国民の多くがとりつかれてしまったのである。

 

敗戦直後には、東久邇宮内閣が「一億総懺悔」を唱え、戦争で敗けたことを全国民が天皇裕仁に懺悔する必要があると主張した。ところが、それから半年後の1946年2月から始まった「巡幸」では、「戦争被害の象徴」である「おやさしい」裕仁が、「敗戦に責任のある国民」に直接会って言葉をかけることで、彼らの「天皇に対する責任」が赦された。よって、「一億総懺悔」はすぐに忘れさられ、自己と天皇を戦争被害者として一体化する「一億総被害者」意識へと変転していったのもなんら不思議なことではなかったのである。言うまでもなく、「一億総被害者」意識は、日本という国そのものが戦争被害国であったという「戦争国家被害幻想」=「敗戦国ナショナリズム」を作り出し、それゆえ自分たちの加害責任を問わないという「一億総無責任」へと即刻直結したのである。

 

かくして、日本国民は天皇をまさに自分たちの戦争被害体験の象徴と見なすようになり、日本人だけが被害者という「一億総被害者意識」からは、それゆえ他のアジア人である日本軍の残虐行為の被害者は完全に排除されてしまい、朝鮮人被爆者ですら長年の間「被爆者」とは見なされなくなり、今もってその差別は続いている(例えば、昨年の日本被団協のノーベル平和賞授与式には、韓国・朝鮮の被爆者たちは招かれなかった)。その一方で、日本人は、その加害の張本人であるアメリカ政府の責任を追及することもせず、日本人がアジア太平洋各地で繰り広げた残虐行為の加害責任を問うこともしないという、甚だしく奇妙な「加害者不在の被害者意識」にとらわれるようになったのである。

 

4)結論:「敗戦国ナショナリズム」の「国家防衛ナショナリズム」への大転換の危険性にいかにすれば対抗できるか

では、「敗戦国ナショナリズム」に浸りきっている日本の現状を変革するには我々はどうしたらよいのであろうか?

日本の戦後ナショナリズムは、実は、戦争加害責任を逃れるために、専ら自分たちが受けた被害だけに焦点を当てる「慰霊」を、天皇の象徴権威を強力な媒介にして執り行うという、「敗戦国ナショナリズム」の形態で、つまり、ナショナリズムが剥き出しではない形で、それゆえ国民の多くがそれをナショナリズムとは意識しない形で表象化され、日本社会に広く深く浸透してきた。「慰霊の旅」を続ける天皇夫婦を絶賛し、「提灯奉迎」に参加して感激する多くの一般市民は、自分たちが、例えば「日本会議」のメンバーのような右翼などではないと思っているであろう。

しかし、天皇の「象徴権威」を強固な中心軸にして多くの日本人の情念に強烈に影響を与え続けるこの「敗戦国ナショナリズム」は、前回の論考でも少し述べておいたように、「悲しい犠牲を再度出さないための国家防衛」という「国家防衛ナショナリズム」にいとも容易く転換させられる危険性を常に孕んでいる。「おやさしい、慈愛あふれる天皇」を、国民を衞ために、再度「厳格で威厳のある父親的な権威」を発揮する象徴天皇へと逆戻りさせることは、為政者にとってはいとも簡単である。なぜなら、天皇崇拝は理性ではなく、理性をあくまでも拒否する情念 それが「天皇制イデオロギー」の本質的な性格だからである。例えば、戦争を遂行するためには、理性を拒否する情念の一種である敵国人種・民族に対する差別や憎悪が煽られるのが常である。この「(在日を含む)外国人差別」の点でも、日本はすでに「国家防衛ナショナリズム」への転換への危険性を大いに孕んでいる。

それと並行して、国家原理(=「国益」のために「他者を殺し、自分も殺される」ことを国家が国民に強制する原理)もまた、憲法9条ゆえに、その原理を剥き出しで露呈することは難しいため、戦後長年にわたって「平和を守る」というお題目で、つまり糖衣をかける形で軍事力の強化をすすめてきた。そしていまや、現在の日本の軍事力は猛烈な勢いで進む自衛隊の「敵地攻撃能力」強化と憲法9条の実質的な無効化、米軍への全面的追従に基づく沖縄、岩国をはじめ日本各地の軍事要塞化などから「<平和を守る>国家防衛の最も強力な手段は、敵地攻撃能力の保持・強化」という戦略に沿うものへと急速に転換しつつある。

この謂わばハードウェアー面で急速に変化する状況を、ソフトウェアーである国民の情念=天皇の「象徴権威」崇拝によっても支える必要があると考える為政者たちが、「敗戦国ナショナリズム」の象徴である天皇を、「国家防衛ナショナリズム」の象徴へと転換させる危険性は、もうすぐそこまで迫ってきている。おそらく、その手始めとして、もう数年もすれば、自衛隊の閲兵式は、首相ではなく天皇が行うようになるのではなかろうかと私は懸念する。

では、最初の問いに戻るが、「敗戦国ナショナリズム」に浸りきっている日本の現状を変革するには我々はどうしたらよいのであろうか?

残念ながら、これまでの市民運動のやり方では、とうていこの問題に対処していくことは無理であると私は考える。なぜなら、我々の相手は、単なる政治的な問題ではない。我々の敵対者は、日本社会の隅々にまで沁み渡っている「天皇制イデオロギー」という怪物、理性を喰い殺す大怪物である「日本の情念文化」だからである。日本の国家原理もまた、この「日本の情念文化」に支えられている。これに我々が対抗していくためには、理性に訴える市民運動で理性をあくまで拒絶する情念文化に立ち向かっても、ほとんど何の効果もないであろう。よって、こちら側も全く違った形での「情念文化」 「天皇制イデオロギー」を喰い殺すことができるような 謂わば人類普遍的な「人道的情念文化」と称することができる文化の構築運動を展開していくより他には道はないのでは、と私は考えている。

その詳しい議論は、またの機会があればと願っているが、結びとして、加藤周一の言葉で、この2回にわたる論考を一応終わらせていただく。

「天皇制は何故やめなければならないのか。理由は簡単である。天皇制は戦争の原因であったし、やめなければ又戦争の原因となるかも知れないからである。」

 

― 終 ―