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2025年11月5日水曜日

天皇はいかにして「敗戦国ナショナリズムの象徴」となったのか(下)

― いかなる経緯で「敗戦国ナショナリズム」は蔓延ったのか ―

 

田中利幸(歴史家)

(この論考は『反天ジャーナル 天皇制を知る・考える』 202511月号に掲載されました。https://www.jca.apc.org/hanten-journal/ )

 

目次:

1)「敗戦国ナショナリズム」によって隠蔽されている天皇裕仁の戦争加害責任

2)米日両国による「原爆神話」の捏造天皇裕仁を「戦争被害の象徴」に変身させた発端

3)「敗戦国ナショナリズムの象徴」としての天皇の「慰霊の旅」はすでに裕仁から始まっていた

4)結論:「敗戦国ナショナリズム」の「国家防衛ナショナリズム」への大転換の危険性にいかにすれば対抗できるか

 

1)「敗戦国ナショナリズム」によって隠蔽されている天皇裕仁の戦争加害責任

前回の論考では、いかに日本がアジア太平洋戦争で大被害を被った戦争被害国であったのか ― それは確かに歴史事実の一面ではるが ― を専ら強調するために、天皇の「象徴権威」をフルに活用する天皇夫婦による「慰霊の旅」を、最も有効な方策として日本政府が利用している事実について議論した。その政治的目的が、侵略戦争をはじめとする様々な残虐な戦争犯罪行為を犯した日本の加害責任を隠蔽することにあることは、あらためて言うまでもない。

 

しかし、天皇夫婦の「慰霊の旅」には、もう一つ重要な機能があることが包み隠されている ― それは天皇裕仁自身の戦争加害責任の隠蔽である。裕仁の戦争加害責任には、アジア太平洋地域諸国の多くの人々に対してだけではなく、日本国民に対する加害責任もあるが、この歴然たる事実が、天皇が「敗戦国ナショナリズム」の象徴として祀りあげられることで、すっかり日本国民に忘れ去られているのである。なぜこのようなことが起きたのか、その歴史的背景を今回はごく簡略に議論しておきたい。この問題は、日本の民主主義の「質」と深く関わっている重要な問題でもある。

 

天皇裕仁を大元帥と仰ぐ日本帝国陸海軍は、1931年9月から45年8月までの15年という長年にわたって、中国、東南アジア、太平洋各地で中国軍、連合国軍と甚だしく破壊的な戦闘をくりひろげた。とりわけ中国に対する日本の戦争は、初めから終わりまで一貫して残虐極まりない侵略戦争であり、被害者の数は2千万人と言われている。日中戦争の状況を詳しく報道した米国のジャーナリスト、エドガー・スノーは、日本軍の中国での蛮行を「近世において匹敵するもののない強姦、虐殺、略奪、といったあらゆる淫乱の坩堝を泳ぎ廻っていた」戦闘と表現した。こうした中国での被害者の他に、このアジア太平洋戦争の被害者は、インド(150万人)、ビルマ(15万人)、ベトナム(200万人)、マレーシア・シンガポール(10万人)、フィリピン(111万人)、インドネシア(400万人)、その他にも多くの太平洋の島々の住民被害者を合わせると、おそらく1千万人に近い人たちが死亡したと考えられる。さらに、約35万人の連合軍捕虜のうち約2万人が、強制労働などの虐待、病気や飢餓などで死亡している。

 

ホロコーストの推定被害者数は、580万人から600万人と言われている。第二次大戦中の5年ほどの間における、主としてユダヤ人という一民族の計画的な大量虐殺と、場当たり的で、どちらかと言えば無計画な15年にわたるアジア多民族の直接的・間接的殺害の総数とを単純には比較できない。しかし、それでも絶対数だけからすれば、日本軍残虐行為の被害者数はホロコーストをはるかに超えるものであったと言えよう。また、日本軍兵士・軍属の死亡者数は(朝鮮・台湾の植民地出身者約5万人を含む)230万人で、その6割が戦病死・餓死者である(ちなみに、上記のアジア太平洋地域の被害者の中にも餓死者が極端に多いことが一つの特徴である)。これに、原爆を含む空襲の被害者と沖縄や満州などでの一般邦人被害者数80万人を合わせると、約310万人の人命が失われた。強制疎開で取り壊された住宅は310万戸、約1500万人が家を失い財産を空襲・原爆で焼かれた。

 

戦後、裕仁は、戦争が起きたのは、大元帥である自分の意志を無視して軍部が独走したからだと主張し、責任を回避した。しかし、防衛庁防衛研究所戦史部が編纂した膨大な戦史叢書を読んでみると、彼が統帥部の上奏に対する「御下問」や「御言葉」を通して戦争指導・作戦指導に深く関わっていたことは否定しがたい事実であることがよく分かる。とりわけ、1941年12月の対連合国開戦の決定過程では、裕仁が最終的には決定的に重要な役割を積極的に果たしたことは、当時の内大臣であり、裕仁と毎日顔を合わせて緊密に助言を行なっていた木戸幸一の日記を見るだけでも一目瞭然である。

 

戦後の極東軍事裁判(いわゆる「東京裁判」)で、元首相・東条英機が、米占領軍と日本政府の政治的圧力から、裕仁が開戦決定をしたのは「私の進言、統帥部、その他責任者の進言によってシブシブ御同意になった」からだと、事実に反する証言をした。しかし、たとえ「シブシブ」というのが本当であったとしても、それに同意し、「宣戦の詔勅」に署名したことは事実である。裕仁に開戦の意志が全くないのに署名できたということ自体がおかしいのであるが、いずれにせよ帝国陸海軍の統帥権保持者として署名した限り、その最終責任が彼にあったことは否定できない。ところが、1946年4月29日(裕仁の誕生日)に28名の軍人や政治家たちがA級戦犯容疑者として起訴され、1948年12月23日(明仁の誕生日)に、そのうちの7名(板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東条英機、武藤章、松井石根、広田弘毅)の死刑が執行され、これで戦争責任問題は解決済みとされてしまった。

 

このように裕仁の重大な罪と責任をうやむやにしたのは、日本占領政策へのソ連の介入を避け、米国が日本の占領をスムーズにすすめ、且つ日本をアメリカの軍事力の支配下に永続的におくために、天皇の「象徴権威」を徹底的に利用するという戦略の結果であった。そのため、占領軍司令官マッカーサーは、東京裁判が開廷される前のA級戦犯容疑者リスト作成の段階で裕仁の「不起訴=免罪・免責」を確定しておくために、裕仁は本来「平和主義者」であるという神話を強く打ち出した。これに歩調を合わせる形で当時の幣原内閣も、1945年11月15日に「戦争責任に関する件」という閣議決定を行い、裕仁には一切戦争責任がないという政府見解を明示した。この閣議決定において、裕仁はあくまでも平和を希求していたのだが、軍部や政府が決定したことに従わざるをえなかったという神話を幣原内閣は作り上げ、これを公式決定としたのである。こうして日米共謀で、天皇裕仁は軍部に利用された平和主義者=戦争被害者であるという神話が、戦争直後から日本国民に流布されたのである。

 

1961年、渡辺清という元水兵が、裕仁に対して公開書簡を送った。渡辺は、1944年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦「武蔵」の2400名ほどの乗組員のうち、1400名ほどの生き残り海軍兵の一人であった。彼は、その書簡の中で次のように書いている。(ちなみに、1946年4月、渡辺は戦時中に海兵団員として受け取った俸給、食事代、被服費などを合計して、4282円を裕仁に返却し<おそらく宮内省宛で送ったものと思われる>、「私は、これでアナタになんの借りもありません」と、その返金に添えた書簡の最後で述べている。人間として失格者である裕仁とは決別するという、彼の強烈な意志がここに見られる。)

 

自分の命令でそれだけの人々が死んだという事実を考えただけでも、あたりまえの人間なら、傷心きわまり、それこそいても立ってもいられないはずだと私は思います。それがあたりまえの人間の心であり、あたりまえの人間の感覚なんだろうと私は思います。

したがって、もしそういうあたりまえの感覚がないとすれば、それは心ない人間なんだと思います。人間であって人間でない、人間という名をかむったまったく別のなにかなんだと思います。どう考えても私にはそうとしか思えません。

………

1946年(昭21)の元旦、あなたは詔書を発布して……自ら「神格」を否定されました………

自分の命令で多くの人を死地に追いおとしておいて、いまさら「信頼」だの「敬愛」だのといっても、余人はいざ知らず、私はもうそんなすらごとは一切信じません。騙されません。とにかく元旦の詔勅にはあなたの責任意識の片鱗だに見出すことができませんでした。

敗戦時の詔書にも同じことがいえます。国民はいうにおよばず、深刻な被害を加えた中国や東南アジアの国々にたいしても、あなたは“戦争は私の責任である、申訳なかった”と、ただのひと言も謝罪していません。そればかりでなく、戦後のどの詔書にもそのことにはひとことも触れてはいません。

こうして日米両政府の共謀によって「戦争被害の象徴」に祀りあげられた天皇裕仁は、誰一人に対しても「申し訳なかった」という一言さえ、口にしたことはなかった。渡辺が喝破しているように、「敗戦の詔勅」においても、自分の責任を認め国民やアジア太平洋地域住民に謝罪するような表現は全く使われていない。それどころか、この「敗戦の詔勅」を注意深く読んでみれば、日本国が原爆という新型爆弾による破壊的被害を被ったと主張することで、その日本を象徴する「国体=生き神」である裕仁自身が自己免罪・免責をしようという画策が、すでに敗戦の8月15日の段階で行われていることが明らかに分かるはずである。

2)米日両国による「原爆神話」の捏造天皇裕仁を「戦争被害の象徴」に変身させた発端

1945年8月6日、広島への原爆攻撃の16時間後、トルーマンはアメリカ国民向け声明をラジオ放送で次のように述べた。「世界は、最初の原爆が軍事基地である広島に投下されたことに注目するであろう。それは、われわれがこの最初の攻撃において、民間人の殺戮をできるだけ避けたかったからである。もし日本が降伏しないならば、……不幸にして、多数の民間人の生命が失われるであろう。原爆を獲得したので、われわれはそれを使用した。」その後アメリカはまもなく、「原爆を使わなかったならば戦争は長引き、そのためさらに数百万人という犠牲者が出たはずである」という原爆無差別大量殺戮の正当化のための神話を作り上げ、現在もその神話が世界の大多数の市民の間に深く広く且つ強く浸透している。

この神話の問題の本質は、原爆攻撃の真の目的がソ連の対日戦争参加を阻止するためという極めて政治的なものであり、しかも日本政府が米国の原爆使用を自ら招くような形にするよう米国側が画策した「招爆画策」の結果として行われたという事実を隠蔽するために、このような「正当化論」を作り上げ、それを自国民はもちろん、世界中の人々に信じこませたという「神話化」にこそある。すなわち、この米国の「原爆使用正当化論」は非論理的だけではなく、実は虚妄以外のなにものでもないということ、このことこそを我々は問題にすべきなのである。米国政府はアジア太平洋戦争終結以来ずっとこの虚妄の正当化を主張し続けている。最近話題になった映画「オッペンハイマー」も、実は、この虚妄の正当化を観客が無意識のうちに受け入れてしまうように巧妙な形で制作されている。(この米国側の「招爆画策」の詳細については、拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』第2章を参照されたし。映画「オッペンハイマー」批評については下記のブログ記事を参照されたし。https://yjtanaka.blogspot.com/2023/11/blog-post.html )

一方、日本側も原爆無差別大量虐殺の被害を政治的に利用する独自の「神話」を創り出した。8月15日に裕仁が発表した「敗戦の詔書」は、日本が原爆無差別大量虐殺を被ったために日本が降伏したかのような印象を与えるために作られた。裕仁と日本の軍事指導者たちにとっては、最大の関心事は原爆被害ではなく、日本がソ連軍に侵略される危険性であり、その結果、天皇裕仁が戦争犯罪人として裁かれ天皇制も廃止される可能性だったという事実を、原爆を利用して隠蔽しようと謀ったというのが真実なのである。

よって、「敗戦の詔書」の原案では、原爆についてはまったく触れられていなかったのも、なんら不思議ではないのである。なぜなら、裕仁や閣僚、戦争指導者たちにとっては、原爆が降伏の決定的要因などとは考えてもいなかったのであるから、当然である。ところがその原案草稿が、高名な2人の学者(川田瑞穂と安岡正篤)の、あるいはそのうちのどちらか1人の提案によって修正され、以下のような言葉が加えられた。「敵は新たに残虐なる爆弾を使用してしきりに無辜を殺傷し、惨害の及ぶところ真にはかるべからざるに至る。しかもなお交戦を継続せんか、ついにわが民族の滅亡を招来するのみならず、ひいて人類の文明をも破却すべし。」(敵は新たに残虐な爆弾<=原子爆弾>を使用して、罪のない人々を殺傷し、その被害ははかり知れない。それでもなお交戦を継続すれば、ついにわが民族の滅亡を招くだけでなく、それから引き続いて人類文明をも破壊することになってしまうだろう。)このようにして、日本もまた、独自の原爆神話を作り上げたのである。

裕仁は、降伏の決断を先延ばしにすることで、アメリカの原爆攻撃を招いてしまった責任の一端を担っていた。彼は、自らの命と地位と天皇制を維持するための条件付き降伏を求めて戦っていたのである。もちろん、ソ連軍が日本の本土に侵攻してくれば、それは不可能だった。彼は戦犯裁判にかけられ、処刑になることを恐れていたのである。最終的に、降伏に際して裕仁は、日本の侵略戦争、軍隊による数々の残虐行為、日本の植民地の朝鮮人や台湾人に対する搾取に対する自らの責任を隠蔽するためにも、原爆を利用したのである。アメリカは日本の条件付き降伏を受け入れ ― 実は最初から天皇を戦後の日本占領のために存続させ、政治的に利用するつもりであったゆえ ― 天皇制は維持された。

すでに述べたように、終戦直後、日本政府とGHQは、「平和主義」の裕仁は、戦時の軍指導層に操られていた戦争被害者であったかのように偽装し、裕仁の戦争犯罪と責任を隠蔽した。その上で、新憲法であたかも天皇が平和の象徴に戻ったごとく装った。かくして、日米両国は互いの二枚舌を黙認し合い、それぞれの戦争犯罪と責任を拒否し無視することを互いに受け入れた上で、戦後が始まったことになる。さらには、この政治的詐欺のせいで、日本もアメリカも、過去の悪行に対して責任を取るような倫理的想像力を働かせることに完全に失敗した。同時に、過去を厳密に自己検証することがなかったため、より人道的で創造的な未来を構想することもできなかった。

日米両国が、いかに都合よく各々の戦争責任を隠蔽するために、それぞれ独自の虚妄の「原爆神話」を創り上げたのか、我々はその歴史事実をもっと広く世界に普及させる運動を反核反戦市民運動の一環として行っていく必要がある。

政治家の嘘について、ハンナ・アーレントは以下のように述べている。「事態がまさしく嘘を語る者が主張するとおりであるかもしれないので、欺瞞はけっして理性と対立するようにはならない。嘘を語るものは聴衆が聞きたいと思っていることや聞くだろうと予期していることを前もって知っているという非常に有利な立場にいるので、嘘はしばしばリアリティよりもはるかにもっともらしく、理性にアピールする。嘘をつく人は公衆が信用してくれるように注意深く目配りしながら物語を用意するが、リアリティはわたしたちが受け入れる準備のできていない予期せぬものを突きつけるという困った習性をもっている。」(ハンナ・アーレント『真実と政治/政治おける嘘』より)

結局、戦争は常に、戦争中はもちろん戦後においても、戦勝国にも敗戦国にも真実を偽らせる。その意味では、戦争被害を被るのは人間だけではなく、「真実」も「虚偽」という戦争被害に晒されるのが、戦争のもつ必然性であると言えよう。戦争は、どんな形で行われ、どんな形で終結されようとも、結局は反民主主義的な国家原理(=「国益」のために「他者を殺し、自分も殺される」ことを国家が国民に強制する原理)で貫かれるのである。なぜなら、「人を殺す」ということは、いかなる理由があるにせよ、民主主義的な行動ではありえないからだ。

繰り返し述べておくが、最初は「敗戦の詔勅」で原爆に全ての責任を負わせる形で、天皇裕仁が自己自身を「戦争被害の国家的象徴」として打ち出し、それを引き継ぐような形で、今度は米国が天皇の「象徴権威」を日本占領政策に利用するために、日本政府と結託して、「軍に利用された平和主義者」=「戦争被害の象徴」として裕仁を祀りあげるという、まさに「虚妄の神話」を創り上げたのである。そして今や、その嘘が、リアリティよりもはるかにもっともらしく、我々にアピールしているのである。

3)「敗戦国ナショナリズムの象徴」としての天皇の「慰霊の旅」はすでに裕仁から始まっていた

このように1945年8月15日から早くも始まった原爆無差別大量殺戮の政治的利用は、敗戦後、日本の政治社会体制が「民主化」された後も、違った形で続いた。

1947年12月7日、広島は、原爆被害を国家被害のシンボルとすることで国家原理の中に取り込み、「戦争被害国家幻想」を作り出した張本人である裕仁の訪問を受けた。その日、天皇を迎え、爆心地の市民広場に約5万人の市民が集まったとのこと。この時の状況を中国新聞は、次のように報道している。5万人の国歌大合唱が感激と興奮のルツボからとどろき渡る。陛下も感激をに表され、ともに君が代を口ずさまれた。感極まって興奮のが会場を包んだ。」感激にむせぶ群衆に向かって、裕仁は、「犠牲を無駄にすることなく平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と、あたかも他人ごとのような言葉を発した。


 

このとき、裕仁が被爆者の健康について楠瀬常猪広島知事に質問したのに対し、知事は「人体の健康はまったく心配なく、植物が学問的にいえば多少の影響を残している程度で決してご心配はいらない」と述べている。裕仁の東京大空襲被害状況視察にあたって被害者の屍体がきれいに片付けられ、裕仁の目には触れられないようにしたのと同様に、広島でも再び被害の実相は裕仁には伝えられず、真の戦争被害者の姿は、「戦争被害の国家的象徴」である「天皇」の前からは消滅させられたのである。こうして、原爆ならびに焼夷弾無差別大量殺戮に対する責任を部分的に負っていた日本陸海軍大元帥=天皇である裕仁に、責任の自覚を被害者の側から促すことすらなかったというのが実態であった。

裕仁のこの広島訪問は、1946年2月から1954年8月まで、沖縄を除く日本全国各地を裕仁が巡り、天皇が国民に深い「慈愛」を表明する「巡幸」の一環として行われた。戦前・戦中は、皇室「慈愛」の象徴的活動は主として皇后、皇太后や女性の皇室メンバーに依拠しており、天皇は、どちらかと言えば「家父長」的な厳格な存在であり、帝国陸海軍大元帥という威厳のある権力保持者=父としてのイメージが国民に提示される傾向が強かった。にもかかわらず、「大御心(おおみこころ=天皇の心)は母心」というような表現もしばしば使われたように、「赤子」に対して「母性的なやさしさ」を兼ね備えている存在としても国民には知らしめられていた。戦後は、天皇の性格としてはそれまでは副次的性格であったこの「母性的なやさしさ」がにわかに強調されるようになり、皇后ではなく天皇がその「慈愛」の主体として、突然「おやさしい」存在として公的場所に現れるようになった。

こうして、「おやさしい」裕仁は、天皇制存続をかけて、戦災者激励、戦災復興状況視察、引き揚げ者援護状況視察に焦点を当てる形で全国各地を巡り、大衆に「慰めと激励の言葉」をかけ続けたのである。「慰めと激励」とは言っても、「食糧は足りているか」、「家族は無事だったか」といった類のごく形式的な、単調で無感情な言葉にすぎなかったが、新聞報道は「天皇の御高格を身近に拝し、其の厚き御仁愛を親しく直々に感受」(『静岡新聞』1946年6月19日)とか、「陛下のどちらかといえば女性的なやさしい態度こそ実に、平和国家日本の象徴」(『東奥日報』1947年8月29日)という表現で、その「慈愛」深さと「平和的性格」を強調した。

 

明仁・美智子夫婦、徳仁・雅子夫婦の「おやさしい」被災地訪問や「慰霊の旅」の原型は、したがって、すでにこの裕仁の「巡幸」で堅固に創り上げられていたことが分かる。それにしても、当時の新聞報道による裕仁絶賛と、その後の明仁・美智子夫婦、徳仁・雅子夫婦のメディアによる絶賛の仕方が全く同じであることには啞然とせざるをえない。メディアの皇室報道での不甲斐なさは、この80年、なにも変わっていないのである。

 

「慈愛」に裏付けられた「象徴権威」は、しかしながら、「巡幸」でその「象徴権威」が高まれば高まるほど、戦災を引き起こしたことに最も責任のある人物の一人であり、まさに「象徴権威」の保持者本人である天皇裕仁の「罪と責任」を見えなくしてしまうという、隠蔽作用が働いた。しかも「象徴権威」は、そのような隠蔽作用だけではなく、皮肉なことには、その「戦争加害者・責任者」を逆に「被害者」の「象徴」として祀りあげてしまうという劇的な「逆転幻想効果」をも働かせたのである。なぜなら、論理的には、「慈愛」を施す「神聖な」主体である「象徴的人物」が、残虐な戦争犯罪を犯す加害者ではありえないからである。「おやさしい」性格であるからこそ、彼は軍人や政治権力者に利用された「戦争被害者」だということになる。「慈愛」は、本来「癒しの心」であり、それはもっぱら被害者向けであって、加害者にはそぐわない。戦争で肉体的にも精神的にも傷ついた多くの国民が渇望していたのは、食糧だけではなく、まさに「癒し」を与えてくれる「おやさしい権威者」であった。かくして、皮肉なことには、戦争を引き起こし、その結果、肉体的・精神的傷害を自分たちに与えただけではなく、その上に食糧難を産み出したことにも重大な責任を持つ人間を、「癒し」の「象徴」と見なすという大逆転の幻想に国民の多くがとりつかれてしまったのである。

 

敗戦直後には、東久邇宮内閣が「一億総懺悔」を唱え、戦争で敗けたことを全国民が天皇裕仁に懺悔する必要があると主張した。ところが、それから半年後の1946年2月から始まった「巡幸」では、「戦争被害の象徴」である「おやさしい」裕仁が、「敗戦に責任のある国民」に直接会って言葉をかけることで、彼らの「天皇に対する責任」が赦された。よって、「一億総懺悔」はすぐに忘れさられ、自己と天皇を戦争被害者として一体化する「一億総被害者」意識へと変転していったのもなんら不思議なことではなかったのである。言うまでもなく、「一億総被害者」意識は、日本という国そのものが戦争被害国であったという「戦争国家被害幻想」=「敗戦国ナショナリズム」を作り出し、それゆえ自分たちの加害責任を問わないという「一億総無責任」へと即刻直結したのである。

 

かくして、日本国民は天皇をまさに自分たちの戦争被害体験の象徴と見なすようになり、日本人だけが被害者という「一億総被害者意識」からは、それゆえ他のアジア人である日本軍の残虐行為の被害者は完全に排除されてしまい、朝鮮人被爆者ですら長年の間「被爆者」とは見なされなくなり、今もってその差別は続いている(例えば、昨年の日本被団協のノーベル平和賞授与式には、韓国・朝鮮の被爆者たちは招かれなかった)。その一方で、日本人は、その加害の張本人であるアメリカ政府の責任を追及することもせず、日本人がアジア太平洋各地で繰り広げた残虐行為の加害責任を問うこともしないという、甚だしく奇妙な「加害者不在の被害者意識」にとらわれるようになったのである。

 

4)結論:「敗戦国ナショナリズム」の「国家防衛ナショナリズム」への大転換の危険性にいかにすれば対抗できるか

では、「敗戦国ナショナリズム」に浸りきっている日本の現状を変革するには我々はどうしたらよいのであろうか?

日本の戦後ナショナリズムは、実は、戦争加害責任を逃れるために、専ら自分たちが受けた被害だけに焦点を当てる「慰霊」を、天皇の象徴権威を強力な媒介にして執り行うという、「敗戦国ナショナリズム」の形態で、つまり、ナショナリズムが剥き出しではない形で、それゆえ国民の多くがそれをナショナリズムとは意識しない形で表象化され、日本社会に広く深く浸透してきた。「慰霊の旅」を続ける天皇夫婦を絶賛し、「提灯奉迎」に参加して感激する多くの一般市民は、自分たちが、例えば「日本会議」のメンバーのような右翼などではないと思っているであろう。

しかし、天皇の「象徴権威」を強固な中心軸にして多くの日本人の情念に強烈に影響を与え続けるこの「敗戦国ナショナリズム」は、前回の論考でも少し述べておいたように、「悲しい犠牲を再度出さないための国家防衛」という「国家防衛ナショナリズム」にいとも容易く転換させられる危険性を常に孕んでいる。「おやさしい、慈愛あふれる天皇」を、国民を衞ために、再度「厳格で威厳のある父親的な権威」を発揮する象徴天皇へと逆戻りさせることは、為政者にとってはいとも簡単である。なぜなら、天皇崇拝は理性ではなく、理性をあくまでも拒否する情念 それが「天皇制イデオロギー」の本質的な性格だからである。例えば、戦争を遂行するためには、理性を拒否する情念の一種である敵国人種・民族に対する差別や憎悪が煽られるのが常である。この「(在日を含む)外国人差別」の点でも、日本はすでに「国家防衛ナショナリズム」への転換への危険性を大いに孕んでいる。

それと並行して、国家原理(=「国益」のために「他者を殺し、自分も殺される」ことを国家が国民に強制する原理)もまた、憲法9条ゆえに、その原理を剥き出しで露呈することは難しいため、戦後長年にわたって「平和を守る」というお題目で、つまり糖衣をかける形で軍事力の強化をすすめてきた。そしていまや、現在の日本の軍事力は猛烈な勢いで進む自衛隊の「敵地攻撃能力」強化と憲法9条の実質的な無効化、米軍への全面的追従に基づく沖縄、岩国をはじめ日本各地の軍事要塞化などから「<平和を守る>国家防衛の最も強力な手段は、敵地攻撃能力の保持・強化」という戦略に沿うものへと急速に転換しつつある。

この謂わばハードウェアー面で急速に変化する状況を、ソフトウェアーである国民の情念=天皇の「象徴権威」崇拝によっても支える必要があると考える為政者たちが、「敗戦国ナショナリズム」の象徴である天皇を、「国家防衛ナショナリズム」の象徴へと転換させる危険性は、もうすぐそこまで迫ってきている。おそらく、その手始めとして、もう数年もすれば、自衛隊の閲兵式は、首相ではなく天皇が行うようになるのではなかろうかと私は懸念する。

では、最初の問いに戻るが、「敗戦国ナショナリズム」に浸りきっている日本の現状を変革するには我々はどうしたらよいのであろうか?

残念ながら、これまでの市民運動のやり方では、とうていこの問題に対処していくことは無理であると私は考える。なぜなら、我々の相手は、単なる政治的な問題ではない。我々の敵対者は、日本社会の隅々にまで沁み渡っている「天皇制イデオロギー」という怪物、理性を喰い殺す大怪物である「日本の情念文化」だからである。日本の国家原理もまた、この「日本の情念文化」に支えられている。これに我々が対抗していくためには、理性に訴える市民運動で理性をあくまで拒絶する情念文化に立ち向かっても、ほとんど何の効果もないであろう。よって、こちら側も全く違った形での「情念文化」 「天皇制イデオロギー」を喰い殺すことができるような 謂わば人類普遍的な「人道的情念文化」と称することができる文化の構築運動を展開していくより他には道はないのでは、と私は考えている。

その詳しい議論は、またの機会があればと願っているが、結びとして、加藤周一の言葉で、この2回にわたる論考を一応終わらせていただく。

「天皇制は何故やめなければならないのか。理由は簡単である。天皇制は戦争の原因であったし、やめなければ又戦争の原因となるかも知れないからである。」

 

― 終 ―

2025年9月8日月曜日

Australia's first Chinese comfort woman statue recalls “silent, unspeakable humiliation” | ABC NEWS

オーストラリア初の中国人「慰安婦像」が「沈黙の、言葉で表せない屈辱」を想起させる(オーストラリア放送協会ABCニュース)

英語のYoutube放送で日本語の字幕はついていませんが、ご視聴いただければ嬉しいです。

As Australia's Chinese community marks the end of World War II, a bronze statue honouring Chinese comfort women is finding a permanent home in Melbourne. Hailed as "a beautiful call for peace," it has spent a year in storage. This story was reported by the ABC Chinese team.

オーストラリアの中国系住民が第二次世界大戦の終結を記念する中、中国大陸の日本軍性奴隷制度(いわゆる「慰安婦制度」)の犠牲者に敬意を表するブロンズ像のメルボルンにおける恒久的な設置場所を現在探しています。「美しい平和の呼びかけ」と称賛されるこの像は、これまで1年間保管庫に収められていました。オーストラリア放送協会ABC中国語チームによる報道です。

https://www.youtube.com/watch?v=9uyf2ohpLC4

 


 



2025年9月5日金曜日

天皇はいかにして「敗戦国ナショナリズムの象徴」となったのか(上)

― 戦争責任を問わない「慰霊の旅」による「平和の祈り」の荒唐無稽 ―

 

田中利幸(歴史家)

(この論考は『反天ジャーナル 天皇制を知る・考える』 20259月号に掲載されました。https://www.jca.apc.org/hanten-journal/ )

 

一面的で虚飾に満ちた戦後50年と80年の「慰霊の旅」

 

天皇徳仁と皇后雅子は202547日の硫黄島訪問を皮切りに、6月4〜5日には長女の愛子を伴って沖縄へ、61920日には広島に、さらに91214日には再び愛子を連れて長崎への、「戦争犠牲者に寄り添う」と称する「戦後80年の慰霊の旅」を続行中である。実際にはこの「慰霊の旅」は、徳仁の両親である明仁と美智子(現在の上皇と上皇后)が「戦後50年の慰霊の旅」として1994年から95年にかけて訪問した硫黄島、長崎、広島、沖縄という訪問地を、順番は異なっているが、大枠ではそのままなぞる変わり映えのしない旅である。

あらためて言うまでもないが、これらの場所は15年戦争という長期にわたるアジア太平洋戦争の末期1945年の2月から8月にかけて大量の死傷者を出した場所であった。硫黄島戦では日本軍2万2千人の死者と米軍7千人の死者を出し、沖縄戦では住民94千人、(沖縄出身者を含む)日本軍が同じく約94千人、その上に米軍側が1万3千人近い、合計20万人もの死者を出した。米軍による広島・長崎の原爆無差別大量殺戮では1945年末までに合計21万人が死亡、そのうち朝鮮人は4万人余りであった(数は少ないが被爆者の中には数十名の台湾人もいた)。

「戦後50年の慰霊の旅」でも今回の「戦後80年の慰霊の旅」でも、天皇・皇后による慰霊の対象はもっぱら日本人の戦争被害者であって、実質的には敵軍将兵や外国人市民はもちろん、戦時中は「国籍が日本」であった朝鮮人や台湾人の死亡者ですら国家追悼行事の対象には含まれない。

そのほかに、今回、これまでになかった訪問先として、78、天皇夫婦がモンゴル訪問中に訪れた首都ウランバートル郊外に設置されている「日本人死亡者慰霊碑」が加わった。この慰霊碑は、戦後旧ソ連シベリアに抑留された日本人捕虜のうち1万4千人がモンゴルに移送されたが、そのうち重労働や伝染病で亡くなった1700人ほどを追悼する慰霊碑である。ここでも慰霊の対象は、あくまでも日本人である。

明仁・美智子たちは天皇・皇后在位中の2005 ~16年の間に3回の海外への「慰霊の旅」を行った。訪問先は サイパン、パラオ、ペリリュー島、フィリッピンであったが、これらの場所でも、慰霊の対象はあくまでも日本軍将兵と日本人市民であって、敵軍将兵や地元住民、それに強制労働目的や軍属としてこれらの地域に送り込まれた朝鮮人や台湾人は、天皇・皇后の「国民への慈愛あふれる寄り添い」の対象からは排除されている。

フイリッピンでの米軍との激しい戦闘は、レイテ島、ルソン島、フィリッピン中央部・南部の全土にわたって194410月から45815日まで続き、日本軍側は34万人近い死亡者を、米軍側は14万人の大量の死亡者を出した。しかし、この戦闘で最も多くの被害者が出たのはフィリッピン住民で、その死亡者数は約100万人といわれている。中でも、マニラ市街地では、日米両軍の間に挟まれて逃れることができなくなった市民が、日本軍には虐殺され米軍には無差別砲撃によって殺戮されて、10万人を超える死者を出した。

明仁は、2016126日のフィリッピンへの「慰霊の旅」出発に当たっての公式メッセージの中で、このあまりにも多いフィリッピン人死亡者数に触れないわけにはゆかず、以下のような文章を読み上げた。「フィリピンでは、先の戦争において、フィリピン人、米国人、日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています。旅の終わりには、ルソン島東部のカリラヤの地で、フィリピン各地で戦没した私どもの同胞の霊を弔う碑に詣でます。この度の訪問が、両国の相互理解と友好関係の更なる増進に資するよう深く願っております。」

ところが驚くべきことには、これだけ多くの住民殺害に対する「謝罪」は、日本国と日本国民統合の象徴である天皇明仁のメッセージの中には一言もない。「日本人同胞の慰霊」が目的で私は行くとだけ述べて、破廉恥にも自国の責任を完全に無視しながら、「両国の相互理解と友好関係の更なる増進」を願うという極めて身勝手な言葉で「お言葉」を締めくくっている。ここには、無数の「無辜のフィリピン市民犠牲者」が舐めた艱苦に、一人の人間として倫理的想像力を働かせてみようという想いすら天皇には欠けていることが分かる。

 

「慰霊の旅」の特質性

 

こうして明仁、徳仁の二世代夫婦にわたる「慰霊の旅」を見てみると、以下の2つの特徴があることが分かる。

(1)          慰霊の対象が日本人だけであり、天皇・皇后が戦争の被害者や遺族者の代表らとの会見で呼びかける言葉は、「たいへんでしたね」、「ご苦労されたのですね」、「つらい思いをされましたね」「これからも頑張ってください」といった類いの、ごく月並みのなんの変哲も無いものにしか過ぎない。これらの言葉からは、被害者の「痛み」を自分の「痛み」として内面化してみようという個人的情感が少しも伝わってこない。ところが、メディアは常にこれらを「被害者の心に寄り添う」、「慈愛あふれるお言葉」と褒めあげる。戦争被害者や遺族のほうもまた、お決まりの「とてもおやさしいお言葉をかけていただき、感激しました」といった具合の天皇・皇后賛美を繰り返す。

 

徳仁も、天皇家における「悲惨な戦争の記憶の継承」のために、今回初めて「慰霊の旅」に同行させた愛子について談話でコメントし、「初めて訪れた愛子も、苦難の道を歩んできた沖縄の人々の歴史を深く心に刻んでいました」と述べた。しかし、いったいどのような歴史的背景から、何のために、誰によって沖縄が戦場にされたのか、その究極的責任は誰にあるのかを学ばずに、日本人被害者がどれほど酷い艱難辛苦を舐めたのかだけに耳を傾けるだけの極めて浅薄な「お勉強」を天皇家が何世代続けたとしても、そこから具体的な平和構築の展望が果たして少しでも見えてくるのか。同じことが、原爆無差別大量虐殺についても言える。いったい、どのような歴史的背景からアジア・太平洋戦争の最終段階で米国がこのような凄まじい「人道に対する罪」を犯すに至ったのか、なぜ米国はその責任をいつまでたっても認めないのか、またそこまで戦争を悪化させてしまった日本の責任は誰にあるのか ― それらを問うことなく、日本国と日本国民統合の象徴である天皇が「(朝鮮人・台湾人を排除して)日本人被害者だけを慰霊」することの意味はいったい何なのか。「記憶の継承」にとって最も根本的なこれらの問いが、「慰霊の旅」をする天皇夫婦だけではなく、彼らの「慰霊の訪問」を大歓迎する市民の側にもスッポリと抜け落ちているのである。

 

(2)          すでに指摘したように、天皇・皇后の「国民への慈愛あふれる寄り添い」は、極めて形式的なものにせよ、日本人の戦争被害者にのみ向けられる。日本軍の残虐な加害行為の犠牲となった中国人をはじめとする多くのアジア太平洋地域の住民と連合軍捕虜、それに当時の植民地であった朝鮮・台湾から「日本人」として動員させられ、日本人と同じように残虐な戦争犯罪の加害者とも被害者ともなることを強いられた朝鮮人・台湾人たちには、天皇・皇后の「慈愛」が注がれることはないのである。よって、各訪問地で天皇夫婦が直接会談する戦争被害者や遺族に、在日朝鮮人・台湾人が含まれることは全くない。

したがって、天皇夫妻の旅は、結局、日本人の「戦争被害者意識」を常に強化する働きをしているが、日本軍戦犯行為の犠牲者である外国人とその遺族の「痛み」に思いを走らせるという作用には全く繋がらない。すなわち、日本人の「加害者意識」の欠落を糺し、戦争被害を加害と被害の複合的観点から見ることによって、戦争の実相と国家責任の重大さを深く認識できるような思考を日本人が養うことができるような方向には、「慰霊の旅」は全く繋がっていないのである。こうして、「日本国、日本人は戦争被害者でこそあれ加害者などではない」という国家価値観が作り上げられ、それが今も国民の間で広く強固に共有されている。そればかりではなく、非日本人の戦争被害者、とりわけ日本軍の残虐行為の被害者には目を向けないという排他性が、日本人の他民族差別と狭隘な愛国心という価値観を引き続き産み出す、隠された原因ともなっているのである。

 

敗戦国ナショナリズムの象徴としての天皇

 

日本国と日本国民統合の象徴としての天皇の「慰霊の旅」が果たしている以上のような政治的機能から「象徴」の意味をいま一度再考してみるならば、この天皇の「象徴性」には「戦争被害国日本と戦争被害者日本国民の統合の象徴」という重要な特質が含まれていることが分かる。しかも、この「象徴」には実は「日本国と日本人ほど悲惨極まりない戦争の被害(特に原爆を忘れるな!)を被った国家・国民はない」という「日本人特殊論意識」― いわば「敗戦国ナショナリズム」と称することができる ― 隠された「ナショナリズム」が無意識のうちに国民の中に植えつけられてきているのである。実は日本政府の常套セリフ「唯一の核被害国」の裏にも、同じようにこの「敗戦国ナショナリズム」が隠されているのである。こうして、国民の間に「私たちはみな戦争被害者だ」という国家幻想=「幻想の共同性」をもたせる働きを、天皇の「象徴性」は強力に果たし続けている。ナショナリズムは通常は戦勝国が誇示するものであるが、敗戦国もまた、このような複雑に歪曲した形で政治的に狡猾に利用することを、私たちは忘れてはならない。

そのような「敗戦国ナショナリズム」=国家幻想の価値観を共有することが国民の知らないうちに強制されていくという、「国家価値規範強制機能」が天皇の「象徴権威」にはあるのである。天皇夫婦のこうした「慰霊の旅」のパターンと「象徴権威」の機能は、そのまま上皇夫婦から天皇夫婦にも受け継がれてきているのである。「天皇の象徴活動」は、このように、実際には極めて政治的な意味を強く且つ深く内在させているものなのである。それは戦前・戦中の天皇制「国体構成要素」の1つである天皇の「象徴権威」を巧妙に活用する国民支配機能、すなわち被支配者に「支配」を「支配」とは感じさせない国民支配機能であり、権力支配者側にとっては極めて都合の良い政治機能なのである。天皇の政治性を全く否定したかのように映る8条からなる憲法第1章は、実はこのように、国民の社会政治意識支配という面で、並々ならぬ影響力を深く内在させているのである。

 

再度述べておくが、「慰霊の旅」を報道する日本のメディアは、天皇家一族の「慈悲深さ」をこぞって絶賛し続ける。同時にほとんどの日本国民が、そうした報道をなんの疑問も感ぜず全面的に受け入れ、天皇夫婦を深く尊敬し、二人の慈愛活動をいたくありがたがる。「このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います」と毎年繰り返される天皇の言葉を真に実践し、「戦争の尊い犠牲」という一種の美辞で呼ばれる被害者にさせられた人間のことを記憶に留め、同じような歴史をくり返さないようにするために絶対不可欠なことは、日本人は「なぜゆえに、このような悲しい歴史を歩まなければならなかったのか」、「そのような悲しい歴史を作り出した責任は誰にあるのか」という問いである。ところが、天皇の「ありがたいお言葉」には、「悲しい歴史」を作り出した「原因」と「責任」に関する言及は、どの「慰霊の旅」でも、また例年の「終戦の日」の「戦没者追悼式」での「お言葉」でも、常に完全に抜け落ちている。最も重大な責任者であった上皇の父親であり天皇の祖父である、裕仁の責任をうやむやにしたままの「慰霊の旅」は、結局は裕仁の責任を曖昧にすることで、国家の責任をも曖昧にする。つまり、換言すれば、天皇夫婦の「慰霊の旅」は、本人たちの意識にかかわらず、裕仁と日本政府の「無責任」を隠蔽する政治的パフォーマンスなのであるが、この本質を指摘するメディア報道は文字通り皆無である。それどころか、日本国家には戦争責任があるという明確な意見を持っている進歩的知識人と呼ばれる者たちの中にさえ、こと天皇の「慰霊の旅」については、この本質を見落とし、天皇・皇后尊敬の念を表明する人間が少なくない(例えば、半藤一利や保坂正康)。

 

「慰霊の旅」と並んで進む天皇神格化

 

「敗戦国ナショナリズム」の象徴として天皇の今回の「戦後80年の慰霊の旅」では、30年前の「慰霊の旅」より一層、天皇の「神格化」を急速に高める傾向が強まっている。沖縄でも広島でも5千人ほどの市民が、天皇夫婦と愛子が宿泊するホテルに近い広場に集まり、提灯と日の丸小旗を宿泊先のホテルの一室から見下ろす天皇一家に向かって掲げて振り、「天皇陛下万歳」を三唱し、これに応えて天皇一家も提灯を振るという「提灯奉迎」が行われた。長崎でも同じような「提灯奉迎」が912日に予定されている。まさに戦時中の北京、上海、南京などの攻略のたびに、さらには真珠湾攻撃の際にも、皇居に向けてだけではなく日本全国各地で大々的に行われた「陥落祝い 提灯行列」を想起させる。広島での「提灯奉迎」を主宰したのは「天皇陛下奉迎広島委員会」で、その名誉会長:湯崎英彦(広島県知事)、会長:池田晃治(広島県商工会議所連合会会頭)、後援:広島県・広島市・広島県教育委員会・広島市教育委員会となっている。しかし実質的には極右政治団体「日本会議(広島)」が企画し、提灯や小旗も無料で配布し、小学生200名には記念品も配布したようである。

 

1937年12月南京陥落祝賀提灯行列

 

2025年6月19日広島 提灯奉迎

また59日、広島市秘書課は、両陛下の訪問にあたって社会科で天皇の地位について学習する機会があることを踏まえて、「御視察の様子を間近で見ることで、学習内容に対する理解等を深めるきっかけになる」という詭弁としか思えない説明で、平和公園近隣の市立本川小学校、中島小学校の校長宛てに「お出迎えを行うに当たり、次世代を担う若い世代にその役割をお願いしたい」と、6年生の児童の参加を求めた。さらに516日、広島市は広島県からの指示を受け、「警備目的で宮内庁と共有するため」という理由で、両校に児童の名簿の提出を要請した。しかし、保護者からは個人情報の使用目的が不明確だという疑問が寄せられ、市民団体からも児童に「お出迎え」に参加させること自体が「思想・良心の自由に配慮していない」という批判の声があがった。そのため、69日の記者会見で、松井一実市長は名簿提出について問われると「(県から)不要だと返事がきたので扱いを変えた」と説明し、「撤回」という表現は避けて「不要になった」ということでこの問題を決着させた。

その松井市長は2012年から毎年、市職員向けの研修で「教育勅語」の一部を「民主主義的な言葉が並んでいる」、「先輩が作り上げたもので良いものはしっかりと受け止め、後輩につなぐことが重要」などと主張して、紹介していたことが2023年になって初めて報道され、多くの市民からの批判がいまもよせられている。にもかかわらず、その後も市長は毎年の研修で「教育勅語」を研修資料として使い続けている。

国民道徳の基本と教育の根本理念を明示する目的で1890年に発布された「教育勅語」には、12の「徳目」が入れられており、その中には親孝行、夫婦相和、朋友相信、博愛など儒教主義道徳教育が提唱した徳目も使われている。しかし問題は、「教育勅語」ではこれらの徳目が、天皇を神聖なる父と仰ぎその父に絶対的服従を誓う臣民を赤子とみなす「家父長制家族国家」という天皇制イデオロギーの正当化のために、明瞭には見えない形で利用されているということである。そのことは、12の徳目の中では、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ)」が最重要視されていることから明らかである。つまり「天皇のためにはいつでも一命を捧げよ」が、最も重要な徳目なのである。

かくして、この「教育勅語」が全国の学校で徹底して教え込まれることで、「神話的国体観」や「神聖君主絶対服従」の思想が全国民の思考の中に浸透させられていった。その無知と傲慢の結果が、朝鮮人・中国人をはじめとする多くのアジア民族の蔑視に繋がり、ひいては朝鮮・台湾植民地化、満州支配、中国への侵略戦争、そして最終的には壮絶な太平洋戦争へと突入し、自国民を焼夷弾・原爆無差別大量殺戮の大悲劇へと追いやり、国内外のアジア太平洋全域で数千万人という膨大な数の多民族の人命を失わせた。この厳然たる歴史経緯を忘れて、「教育勅語には民主主義的な言葉が並んでいる」などという愚鈍な発言を恥ずかしくもなく発することのできる人間が、いまや自称「平和文化都市」を名乗る広島市の市長を務めているのである。

さらにまた、広島市教育委員会は2023年度から、世界各地で愛読されている、戦争と核兵器の恐ろしさ、命の大切さを強力な視覚メッセージで伝える名作漫画、「はだしのゲン」を平和学習教材から削除してしまった。同時に日本各地では小学校の段階で、憲法9条を教える前に、自衛隊の「わが国の平和と安全を守る重要な防衛の役割」について、いろいろな形で教え込む手段がすでにとられるようになってきている。

このように、天皇の「象徴権威」を巧妙に活用する国民(意識)支配機能が、「敗戦国ナショナリズム」の象徴としての天皇の「慰霊の旅」と並行する形で、国民の気がつかない間にジワジワと強化され、最近はますますその速度が速まっているのが現状である。自分たちの戦争加害と被害がどのように絡み合っているのかを深く理解しながら、自他両方の戦争責任問題を追求していくという確固たる姿勢を持続していくことなしには、真の意味での平和構築は不可能である。なぜなら、平和構築とは、言うまでもなく他国との国際関係の問題である。一方的に「敗戦国ナショナリズム」にのみ依拠しながら「戦争の尊い自国の犠牲者」の「痛み」のみを強調することだけで、他国の戦争犠牲者を無視し続けることからは健全な国際関係が成り立つはずがない。

成り立たないどころか、「敗戦国ナショナリズム」は、「悲しい犠牲を再度出さないための防衛」という「防衛ナショナリズム」にいとも容易く転換させられる危険性を常に孕んでいるからである。この転換の危険性がもうすぐそこまで迫ってきていることは、現在の日本の状況 ― 猛烈な勢いで進む自衛隊の「敵地攻撃能力」強化と憲法9条の実質的な無効化、米軍への全面的追従に基づく沖縄、岩国をはじめ日本各地の軍事要塞化など ― から明らかである。

 

結論:戦争責任問題にとって不可欠な「惻隠の情」

 

孟子の教えに『四端・不忍人之心』というのがある。その教えの中で彼は、「人には皆、他人の不幸を見過ごせない<忍びざる心>がある。昔の聖王は、人の不幸を見過ごせない<忍びざる心>を持って、人の不幸を見過ごさない(思いやりのある)政治を行った。人の不幸を見過ごせない<忍びざる心>で、人の不幸を見過ごさない政治を行うならば、天下を治めることは、手のひらに物をのせて転がすように(たやすく)できる」と述べている。この「忍びざる心」を孟子は、「もしも今、人が急に幼児が井戸に落ちそうになっているのを見たならば、誰もがはっと驚いてかわいそうに思う心を持つだろう。そして、助けようとするだろう」と説明し、それは自然と人の心に生まれる「あわれみの心」であり、これを「惻隠の情」と彼は呼んだ。「惻隠の情(あわれみの心)」は仁の端(芽生え)でもあると孟子は説明している。さらに孟子は、「惻隠の情」を持って仁の政治を行わない皇帝や王は排除すべし、という易姓革命の思想を唱えた。

この孟子の言葉を読むたびに私は、政治家はもちろん、ごく普通の市民個々人にとっても戦争責任問題を考える場合、「惻隠の情」で被害者の「痛み」を自分の「痛み」として内面化すること、そのためには「仁の端」=「倫理的想像力を芽生えさせる」ことが必要であると考えさせられる。同時に、なぜ日本の天皇や政治家だけではなく一般市民も、自分たちの父や祖父の世代の男たちが日本軍将兵として海外で犯した残虐行為の被害者やその遺族の「痛み」に、「倫理的想像力」を働かせて、その「痛み」を自分の「痛み」として心のうちに深く強く内面化することができないのであろうか、と考えざるをえないのである。「敗戦国ナショナリズム」を崩すには、単に政治・社会・歴史などの理論的学習だけでは到底不可能であり、戦争責任問題でこの「惻隠の情」を如何に日本人の心に芽生えさせるかという、「精神文化の構築」の問題として取り組むことが必要不可欠だと私は考える。戦後80年という長い年月、日本人は「惻隠の情という精神文化の構築」をいたく蔑ろにしてきた ― そしていまそのツケが我々の日常生活に回ってきつつあるとも私は考えている。これは極めて大きな問題なので長い時間をかけて議論する必要がある。

それとは別に、この80年の間、なぜゆえに日本は自国の戦争加害にこれほどまでに感知不能となってきたのか、その原因と歴史的経緯を簡単に次回の論考で辿ってみたい。

 

関連ニュース:

「人間がやることではない」日本軍が東南アジアで行った華僑粛清その実態【報道ステーション】(2025811)

https://www.youtube.com/watch?v=mwQT196hTc0

 

戦後80年 謝罪求め政府に請願書 「細菌戦」などの被害訴える中国人らが来日

https://news.yahoo.co.jp/articles/11a83fa582adebbfd9802a37e0a15812ea652567

被害訴えるために来日した中国の人たちに関するニュースでは、請願書提出に立ちあった畏友・増田都子さんから以下のようなメールをいただきました。

「応対したのは外務省の二人の若いお役人。新聞にあるように「持ち帰り検討させていただきます」と何度も何度も言われるのですが、80年経っても「これから検討する」!? で、その回答もわかっています。「政府部内に資料が見当たりませんでした」!?

  添付森さんの資料にあるように、最高裁も「731部隊、1644部隊が人体実験を行い、細菌兵器を製造し細菌戦を行った」と認定していますし、共産党山添拓議員の国会質問でも防衛研究所にある公文書を示しているのに日本政府は事実を認めようとしません。添付資料にあるように、2011年には国会図書館でに「1943年12月14日『陸軍医学校防疫研究報告』第一部60号」にある、細菌兵器作戦としてペスト菌を投下しての報告も発見されているにもかかわらず

  これは細菌戦だけでなく、大日本帝国が国家として行った反人道犯罪である関東大震災における朝鮮人・中国人大虐殺、従軍慰安婦等々、全てにおいて、れっきとした公文書があるにもかかわらず日本政府は「見当たらない」と厚顔無恥な回答を出し続けています

 請願者代表の鐘恵明・中国抗日戦争歴史史実維護会会長が「安倍談話でも『反省』と『お詫び』という言葉が入っていましたが、本当に反省しているというなら、どうして、サンフランシスコ条約第11条で『東京裁判を受け入れる』と約束して国際社会に復帰できたのに(戦争犯罪の最高責任者の極悪人として絞首刑となったA級戦犯を神と崇める)靖国神社に国会議員達がたくさん参拝できるんですか? 『反省』しているのに、なぜ『謝罪』ができないんですか?」と発言されました。心が痛いですね

 新聞にある馬燕さんは牧師さんとのことでしたが「日本に初めて来ました。街はどこもとても綺麗でした。でも、政府の人の心は黒く汚れているのではないしょうか?」

ん~~ため息。」