昨年末の日本軍性奴隷問題に関する「日韓合意」では、日本政府は「責任を痛感している」と表明し、日本側が10億円という資金を提供することで「最終的かつ不可逆的に解決」するという形で合意したと発表。ところが、安倍政権が「最終的かつ不可逆的に解決」という表現で具体的に要求したことは、10億円を受け取る韓国側が、これ以降、この問題を再び取り上げないという約束をまもり、且つ、ソウル日本大使館前に置かれている「慰安婦少女像」も移転させるということであった。「責任を痛感している」はずの安倍政権が、本来の被害者であるハルモニたちに対しては直接に「謝罪」表明は全くしないどころか、結局は「10億円出すから今後はこの問題については黙れ」と言っているわけである。こうした安倍政権に対する様々な批判はすでに出揃ったように思うし、近く出版されるこの問題に関する前田朗氏による編集本には、私も1章を担当しているので、ここでは詳しく議論することは避け、簡潔に要点だけを箇条書きにする。
(1) すでにほとんどの批評者が指摘しているように、この「日韓合意」は直接の被害者を完全に無視して行われたという点で、被害者の「人権」の無視、「人権の再侵害」とも言える。
(2) 日本軍性奴制の被害者は韓国人だけではなく、アジア太平洋全域にわたっているにもかかわらず、韓国以外の被害者の存在は完全に無視。安倍晋三が本当に「責任を痛感している」ならば、韓国以外の被害者に対する「謝罪」についても具体的にどのような形で「謝罪」するのかの説明をするのが当然。ところが、この「日韓合意」発表があった数日後には、台湾政府が、台湾の元日本軍性奴隷に対して日本政府が謝罪と倍賞を行うことを要求する方針を発表したが、官房長官・菅義偉は、日本政府はこの台湾の要求には応じないと答えている。「責任を痛感している」というのは、いつもの安倍流の真っ赤な嘘であることがこれで明らか。
(3) 日本軍性奴隷問題は「政治決着」できるような性質のものではなく、由々しい「人権問題」であり、いかにすれば被害者の「人権回復」につながるのかという視点からのアプローチが必要であるという根本的認識が、安倍や岸田、それに飼い犬が主人にいつも尻尾を振って媚びているような稲田朋美や高市早苗ら「禍我厄(カガヤクの文字化けです<笑>)女性閣僚」には最初から欠落している。
(4) 結論的に言えることは、日本の法的責任も認めない「最終的、不可逆的な解決」とは、結局、10億円という金で日本軍性奴隷の存在という歴史事実に関する記憶(本来は金では買えない記憶)を買い取り(買い取ったという形にして)、その記憶を抹消することなのである。「最終的、不可逆的な解決」とは、実にあさましい、人間として恥ずべき、低劣極まりない政治行為であることを私たちははっきりと認識しておく必要がある。
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ハンギョレ新聞2015年12月30日掲載漫画 |
日本軍性奴隷問題を考える上で忘れてはならないことは、なぜゆえに韓国人(もっと正確な表現は「朝鮮人」であろう)に被害者が多いのかという問題である。すなわち、日本による「朝鮮植民地支配」という構造自体の中で、とりわけ「植民地女性の性の搾取」という枠組みの中でこの問題をとらえないと、日本軍性奴隷に対する「日本の責任」という問題を真に理解することにはならない。同時に、日本軍性奴隷問題は、日本の「侵略戦争」という枠組みの中でとらえられなければ、その本質を理解することはできないのである。つまり、日本軍性奴隷に対する責任問題は、被害者一人一人に対する責任問題であると同時に、究極的、本質的には「植民地支配」と「侵略戦争」に対する責任問題なのである。
日本軍性奴隷への責任否定は、したがって「植民地支配」と「侵略戦争」への責任否定と直結するのは当然なのである。このことはすでに説明するまでもなく明瞭なことなのであるが、そのあまりにも自明なことが日本の首相である安倍晋三には理解できないことが、日本にとって、日本の市民にとって、ひじょうに不幸なことである。
「植民地支配」に対する責任という点では、日本軍性奴隷以外の問題では、「強制連行・強制労働」に対する責任問題も重大である。この「強制連行・強制労働」問題は、とりわけ広島の市民にとっては重要である。広島への朝鮮人の流入は、広島県全体でみてみると1930年代後半から急増しており、1938年段階で2万5千人近かった人口数が、1945年段階では8万5千人と3.4倍に急増した。その理由は、戦争末期における日本の労働力不足を補うため、日本政府が植民地・朝鮮から、「国民徴用」という形で、多くの朝鮮人若者を日本各地に強制的に送り込んだからであり、中国地方全体でみると、広島県は山口県(1945年段階で14万4千人余りの朝鮮人人口)についで朝鮮人の人口流入が多かった県である。その中には、広島市内の三菱重工業広島造船所や東洋工業(現在のマツダ)で強制労働に従事されられた青年たちが多くいた。とくに、三菱重工業広島造船所の観音工場と江波工場では、(1945年7月末時点)総労働人員1万1833人のうち2800人が、つまり4人に1人が朝鮮人徴用工であった。
したがって、広島での原爆無差別大量虐殺の被害者のなかに朝鮮人が多くいたこと(総被爆者数5万人)は不思議ではなく、1945年末までの朝鮮人被爆者の推定死亡者数としては3万人という数字があげられている。すなわち、広島の16万人という全死亡者数の2割近くが朝鮮人であった。そのうえ、全被爆者の平均死亡率が37.9%であるのに比べて、朝鮮人被爆者の死亡率が60%と極めて高いことが特徴的である。
周知のように、三菱重工業広島造船所の観音工場や江波工場、東洋工業など、広島市の大規模工場はほとんどが市内中心部(すなわち爆心地)から4〜6キロ離れた郊外地域にあったため、建物被害や機械設備の被害はそれほど大きなものではなかった。したがって、徴用工たちの間でも被爆被害者は少ないはずである。ところが、実は、当時8月の段階では、市内の建物強制疎開作業に、多くの市民や学生と同じように、朝鮮人徴用工が駆り出され、彼らも市内中心部にいたため被害者が多く出たのである。原爆攻撃直後に仲間の救出のために市内に入った多くの朝鮮人たちも放射能被曝(入市被曝)という被害を受けた。
当時20歳台前半の若者(=家族の生活を支える主要な労働者)が大半であった朝鮮人徴用工たちは、家族と無理やり引き離されて故郷から広島の地へ送り込まれ、長時間の過酷な労働に従事させられ、そのうえ原爆無差別殺傷という凄まじい体験を舐めさせられたわけである。幸運にも生き延びて故郷に帰っても、放射能被曝が原因で様々な疾患に苦しみ、貧窮生活を長年強いられるという苦渋の人生をおくらなければならなかった人たちが多い。ところが、日本政府も日本企業も、強制連行・強制労働・原爆被爆に対する償いと未払い賃金の払い戻し要求を、長年の間、拒否続けてきた。長年の裁判闘争の結果、多くの被害者がすでに亡くなっているつい最近になり、ようやく日本政府は朝鮮人を含む在外被爆者の「被爆者としての権利」を一部認めるようになったが、ほとんどの企業はいまだに「責任の認知」さえ拒否しているありさまである。こんな無責任な政府と企業をもった国の首相が、厚顔無恥にも、自国を、「民主主義の原則と理想を確認している」国家であると、2015年4月には堂々と米国議会で演説しているのである。恥を知らないということは、実に恐ろしいことである。
朝鮮人被爆者たちの苦闘の人生については、すでに幾つものルポタージュや研究書、関連資料が出版されているので、ご興味のある方はそれらを参照していただきたい。とくに元中国新聞記者であり広島市長職も務められた平岡敬氏の著作『偏見と差別:ヒロシマそして被爆朝鮮人』や『無援の海峡:ヒロシマの声 被爆朝鮮人の声』、市場淳子氏の『ヒロシマを持ちかえった人々』などは必見の書である。
実は、つい最近、私は、これまで手元にありながら全く目を通していなかった朝鮮人被爆者に関するある資料を読んで新しい発見をしたと同時に、その事実を知らなかったことにたいへん恥ずかしい思いをした。その資料とは、広島の在日韓国人有志グループが編集し、1989年8月に出版した『資料・韓国人原爆犠牲者慰霊碑』という資料集である。私は、これを読むまで、平和公園内にある「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」に刻まれている碑文の内容がどんなものであるのか全く知らなかった。碑文はハングル語で書かれており、日本語訳がつけられていないので(私が記憶している限り、慰霊碑の真下には「慰霊碑の由来」という説明はあるが、碑文の日本語訳はなかったはず)、慰霊碑の前を通るたびに、碑文の内容がどんなものであるのか気にはなっていたのであるが、真剣に調べてみようとはしなかった。本当に恥ずかしい次第である。
この慰霊碑がもともとは太田川を挟んで平和公園とは対岸側の本川橋のすぐそばに1970年4月10日に設置されたこと、その後長年、この慰霊碑の平和公園内への移設要望を韓国人・朝鮮人被爆者団体が市側に幾度も出したにもかかわらず認められなかったこと、そして、ようやく1999年7月になって平和公園内の現在の場所への移設を市側が認めたという経緯については私も知っていた。しかし、碑文が、当時、ハングル学会理事でソウル大学教授であった韓甲洙氏によって書かれたものであり、ひじょうに格調高い名文であることについては、この資料集を読んで初めて知った。下に、その碑文の日本語訳の一部を抜粋する。なお、翻訳は滝川洋氏によるもので、上記の『資料・韓国人原爆犠牲者慰霊碑』に全文が載せられている。
「悠久な歴史を通じ、わが韓国民族は他人の物をほしがらなかったし、他民族に害を加えようとはしなかった。
(中略)
しかし五千年の長久な民族史を通じ、ここにまつった二万余の霊が経験したような、悲しく嘆かわしいことはかつてなかった。
韓民族はこの太平洋戦争を通じ、国家のない悲しみを骨身にしみるほど感じ、その絶頂が原爆投下の悲劇であった。国を失った王孫であたっため、人知れぬ悲しみと苦痛が一層大きかった李鍝公殿下を始め、名分のない戦争で、名分もなく死ななければならなかった同胞軍人、クワとカマをとって牛馬のように働かされた同胞徴用者たちは、離れ離れになって生を求め、同胞男女、少なくとも五万には達すると見られる哀れな人々、彼らは広島市民とともに、戦争の最終段階の息苦しい一九四五年八月六日、人類最大の悲劇がここに展開されたのである。
(中略)
願わくば二万餘余柱の御魂よ、すべての怨恨と憎悪をすべて忘れ、安らかに眠りたまえ。今後はこのような悲劇の種をまくものも、これを受けるものもないようにし、侵略の罪を犯すものも、侵略の悲しみを受けるものもないようにし、遠い国とも近い隣となり、永遠にお互い助け合い、親しく仲良く暮らせるようお守りください。
平和を愛し、侵略と殺りくを憎むすべての人類は、ここにまつった御魂の犠牲を心から悲しみ、永遠のめい福を祈ります。また韓国民の熱い愛情はいつまでも御魂とともにある。」(強調;引用者)
少し余談になるが、この碑文の中の「李鍝公殿下」とは、大韓帝国皇帝高宗の孫にあたる人で、日本の陸軍士官学校、陸軍大学を卒業し、1945年8月6日当時は広島の第二総軍教育参謀中佐であった。彼は、馬に乗って本部に向かう途中、爆心地から710メートルの福屋百貨店付近で被爆し、全身創痍の火傷で苦しみながらも、本川橋近くまで逃げたところで力尽きて倒れ、うずくまっているところを当日夕方に発見されたと言われている(「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」が、最初、本川橋西詰に建てられたのはこの故である)。救出したのは、当時は憲兵兵長で現在はブラジルのサンパウロに住んでおられる森田隆氏を含む数名の兵士たちであった。森田氏から私が直接伺った証言によると、発見場所は本川橋西詰ではなく、相生橋西詰であったとのこと。陸上輸送で李鍝公殿下を市外地の病院まで搬送するのは到底無理と森田氏らは判断。そこで、相生橋下を上流に向けて逃れていく小舟を止め、乗っていた家族一家を降ろしてその小舟を押収し、それに李中佐を乗せて、両岸で無数の被爆者が重なり合って助けを求めている壮絶な状況にあった川を宇品に向けて下った。途中で出会った暁部隊の二艘の上陸用舟艇のうちの一艘に乗り換え、宇品の病院まで運び込んだとのこと。皮肉にも、小舟を押収された家族は朝鮮人一家であったとのことであるが、李中佐は翌日亡くなった。(森田氏の被爆証言には、この他にもひじょうに興味深いエピソードがたくさん含まれているが、また別の機会に紹介したい。)
話を碑文の内容に戻す。この碑文では、自分たち朝鮮人は、日本の侵略と植民地支配の犠牲者であったという事実を明確に述べており、自分たちが原爆無差別殺戮の犠牲者になったとのはその結果なのであると指摘している。興味深いことは、原爆無差別殺戮という犯罪を犯した米国の責任については一切言及していない。日米戦争という「名分のない戦争」、自分たちには関わりのない戦争のために、日本=侵略国によって「クワとカマをとって牛馬のように働かされた」のであり、その結果として、「原爆投下の悲劇」を体験させられたと、あくまでも「日本の責任」を問題にしているのである。すなわち、誰が加害者であるかを明確にした上で、「怨恨と憎悪をすべて忘れ」、「今後は……侵略の罪を犯すものも、侵略の悲しみを受けるものもないように」という強い願いを表明している。「怨恨と憎悪」とは、言うまでもなく、日本、日本人に対する「怨恨と憎悪」のことである。「怨恨と憎悪」を「忘れる」ことなどはできないであろうが、この文意は「加害者を赦そう」ということである。こうした「朝鮮人被害者」の想いに私たちは、この70年間、いったいどのような態度をとってきたのか。「赦してもらえる」ような責任のとりかたをしてきたであろうか。それを深く自問してみる必要がある。
韓国人原爆犠牲者慰霊碑のこの碑文と比較すると、原爆死没者慰霊碑(公式名は広島平和都市記念碑)の碑文、「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」が、いかにマヤカシであるかが明らかとなる。広島市は、「碑文の中の『過ち』とは一個人や一国の行為を指すものではなく、人類全体が犯した戦争や核兵器使用などを指しています」と説明する。原爆無差別殺戮で多くの市民を殺傷した責任は「人類全体」などにではなく、「アメリカ政府(特にトルーマン大統領)」と同時に「日本政府と天皇・裕仁」にあることは明らかなこと(詳しくは、このブログに載せてある拙論「『招爆論』から『日米共犯招爆論』へ」を参照されたし)。「人類全体」などという表現は一見ひじょうに高尚に思えるが、実はこうした表現を使うことで「責任の所在」をウヤムヤにしてしまい、結局は誰も「責任をとらない」ことにしてしまうのである。しかも、この表現では、加害者だけではなく、被害者が誰であったのかもウヤムヤにされている。敗戦直後に、日本政府が「一億総懺悔」ということを主張し、敗戦の責任は「日本全国民にある」ということにして、結局は裕仁や戦争指導者たち(その中には安倍晋三の祖父、岸信介も含まれる)の責任をウヤムヤにしてしまった論法と全く同じで、ゴマカシなのである。そして、この米国の戦争犯罪責任のゴマカシが、日本がアジア太平洋諸国民に対して犯した様々な戦争犯罪のゴマカシと表裏一体になっていることは、すでに私は詳しく論じているので、ここでは繰り返さない。
韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和公園内への移設要望を韓国人・朝鮮人被爆者団体が市側にたびたび出していたことについてはすでに述べたが、実は、京都在住の大西正之という人が、1986年から87年にかけて、当時の荒木武市長に対して、幾度もこの件で要求書を出しているのである。(大西正之という人は平和活動家であったようだが、詳しいことを私は知らない。「韓国の原爆被害者を支援する会・広島支部」代表の豊永恵三郎先生が、当時、大西氏と文書交換をされていたようなので、次回豊永先生にお会いした時に詳しいお話を伺いたいと思っている。)その大西氏の要求書の文章も見事に核心をついているので、下記に抜粋する。
「朝鮮人被爆者の慰霊碑へ参りましたが、どうしたことでしょう。慰霊碑は広々とした平和公園内にではなく、平和公園の外、即ち本川橋を渡った西詰に建てられているではありませんか。正直言って驚きと怒りの気持を押さえることはできませんでした。死者までも差別するのか、同じ原爆による犠牲者までも差別するのか、あまりにも非常識な広島市の処置に心の底からの怒りを禁じえませんでした。
(中略)
『安らかに眠ってください、過ちは繰返しませぬから』と言いながら、「朝鮮」・「韓国人」被爆者慰霊碑の建立について広島は、民族差別という過ちをすでにおかしております。こんな不当な処遇を受けながら、朝鮮人被爆者がどうして安らかに眠ることができるでしょうか。………」
(強調:引用者)
ハングルの「恨(ハン)」という文字は、日本語の「恨(うら)み」とは異なり、「不正義に対する怒り、無念さ、悲痛さ」といった意味を持つとのこと。韓国人原爆犠牲者慰霊碑の碑文には、この「恨」という想いが強烈に込められている。大西氏の広島市長への抗議文も、まさに「恨」そのものである。
日本軍性奴隷、強制連行・強制労働に対する安倍晋三と彼の一党たちの「不正義」に対して、いやそれだけではなく、沖縄市民に対する「不正義」、戦争法導入と壊憲に向けての「不正義」、その他様々な彼らの「不正義」に対して、今、私たち日本の市民も「恨」という文字を安倍政権に突きつけ、1日でも早く安倍政権を打倒しなければ、日本は、世界中から、「不正義国家」の最も典型的な国と見なされるであろう。