パレスチナ人民は、「抵抗権」を有し、「自衛権」を行使する
金沢の市民団体「非核・いしかわ」の代表世話人で、「憲法9条を広める会」の共同代表もされている畏友・五十嵐正博さんが、それぞれの団体のニュースレターの最新号のために書かれた論考を、ご本人のお許しを得てここに転載させていただきます。
五十嵐さんはメルボルンのモナシュ大学法学部で1993年に国際法で博士号を取得されましたが、当時、私はメルボルン大学政治研究学科で講師を務めていました。その頃から親しくさせていただいています。2012年に亡くなられた国際人道法の大家、藤田久一先生から私は個人的に多くを教えられましたが、五十嵐さんも藤田先生と親しくしておられました。五十嵐さんは、その後、金沢大学法学部教授、神戸大学大学院国際協力研究科教授を務められ、2013年に定年退職し、金沢に戻られて市民活動を精力的に続けられています。お連れ合いは元石川テレビドキュメンタリー制作者の赤井朱美さんで、珠洲原発設置に反対する漁師らの暮らしや電力会社、国の原発推進政策の実態を追った「能登の海 風だより」、国策として行われた戦後移民政策を批判した「流転~南米へ渡った民の記録」、金森俊朗先生が担任するクラスの2年間を追った「いのち輝いて」など、素晴らしい番組を制作された、名物ドキュメンタリー制作者です。
1)年頭所感2024 非核の政府を求める石川の会
私たちは災害列島に住んでいる
五十嵐正博
2024年1月3日、珠洲市から、八時間かけて金沢に戻りました。安堵感、虚脱感、「地獄絵図」を目前にして、何も手伝うことができなかった無力感、惨状から「脱出」してきた「後ろめたさ」、それらが今も交錯しています。本稿は、本年を展望し、希望を記す「年頭所感」ではなく、大災害に遭遇した一人の記録です。
能登半島地震に遭遇する
年末年始を珠洲市の友人の「宿」で過ごすのが、ここ数年の習わし。大晦日、皆で「餅つき」をし、その後「そば打ち」、ひと風呂浴びて夕食、ゲストハウスにある銅鑼の音を除夜の鐘代わりに聞きながら、年越しそばを食べて新年を迎えます。「今年こそ、世界中が平和になりますように」と。
元旦、「おせち」を食べ、昼過ぎに「初詣」。三崎町寺家にある「須須神社」へ。宿に戻り、お屠蘇に使った輪島塗の猪口(ちょこ)を戸棚にしまい、厨房にいた午後4時6分。「緊急地震速報」が鳴ることなく、突然の激しい揺れ(震度5強)、ガラス瓶一つが床に落下。余震が来てもこれ以下の震度に違いない、勝手な思い込みは瞬時に大暗転。「ドカン」という音とともに家全体が崩れるかと思われる激震(震度6強)、とっさに近くにあった手すりにしがみつき、身をかがめるのが精いっぱい。目前で薪ストーブが倒れ、中から燃える薪が飛び出し、煙突がはずれて落下。とっさに「水」と叫び、そばにいた人が水をかけ、大事にならずに済みました。「早く揺れが止まってほしい」と念じつつ、ウクライナ、ガザで、ミサイルがいつ、どこから落ちてくるかもしれない恐怖を共有した瞬間があったような気がします。「死」を覚悟することはなかったでしょうが、わが人生でもっとも恐ろしい、二度と経験したくない出来事でした。
避難所へ、そして金沢に帰る
皆で庭に飛び出したものの、次の心配は「津波」、宿の横にある山に登ろうとしましたが、津波は最高で5メートル程度との情報が入り、山に登らなくても大丈夫と判断し、近くの高台にある「消防署」に避難し、車中泊。車のエンジンをかけたり止めたりして(ガス欠を防ぐため)寒さをしのぎました。
翌日(2日)明け方、明かりのついた消防署の建物の片隅でしばし体を休め、携帯の充電もできました。宿の様子を見るため、宿に戻りました。建物の外観は無事、散乱した食器などの掃除をし、備えてあった食材を玄関に集めました。大きな「薪ガマ」は無事で、客の一人(イタリアンシェフ)の手になるリゾットを庭で立って食べました。
ぼくたち夫婦と金沢から来たもう一人の3人で、避難所に指定されている近くの「上戸小学校」に行くことに。幸い、教室の片隅に一人当たり「座布団3枚と毛布1枚」を与えられ、小さなおにぎり一個、わずかの煮物が夕食。自宅の様子をも顧みないで献身的に救援にいそしむ地元の人々。水も電気もない、暖は灯油ストーブだけの一夜を過ごしました。
30年前、原発建設に反対して闘った珠洲の友人たちの安否が心配されました。定宿の主人は、反対運動に関わった友人。被害が特に大きかった高屋、三崎地区、電力三社は、ここに原発4基の建設を強行しようとし、住民が、市役所内に泊まり込んでまで建設を阻止しようとした闘いでした。原発が建たなくて本当に良かった、決して大げさではなく、「この国を救った歴史的な闘い」として記憶されなければなりません。
夜中(2時半ころ)震度5弱の地震。夜が明け、避難所で隣になった家族が、「金沢まで行けるらしい」と準備を始めました。もともと地元の方らしく、土地勘もありそうなので、付いていくことに。7時半出発。道は、陥没、地割れ、隆起、土砂崩れ、倒木がいたるところに。そして渋滞。対向車線は、緊急援助に向かう他府県からの、それぞれ数十台の車列が続いていました。
「普通に生きられること」の大切さ:平和に生きる権利
私たちは「災害列島」に暮らしています。「災害は忘れたころにやってくる」どころか、次々に襲う台風、水害、地震。人間が自ら作り出す「地球環境破壊」。戦争は、「悠久の歴史のなかで、人間がごく『最近』創り出したもの」であるから、人間が戦争を止めさせることができます(佐原真『戦争の考古学』)。しかし、
人知で地震を防ぐことはできないとすれば、事前事後の体制が問われます。地震予知研究の進展、発生後の救援体制の整備。フクシマなどの教訓が活かされたのか否か、たった二晩の避難所生活をしただけでも、私たちは、どう生きるべきか考えさせられました。一言でいえば、「普通に生きられることの大切さ、ありがたさ」です。「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が保障される毎日です。「自己責任」を優先し、「合理化・効率化」の名のもとに「格差社会の拡大」を推し進める「新自由主義」が生み出してきたのが「普通に生きられない社会」ではなかったか。「経済成長」を求めることをやめなければなりません。「身を切る改革」でなく、「無駄を大切にし、何事にも余裕をもたせる」、「無駄と思われる多様な選択肢を用意しておく」。「無駄」という言葉に否定的なニュアンスがあるとすれば、「今、必要ないこと」と置き換えてもいいでしょう。度重なる災害の教訓、「今は必要ないライフライン」の整備がいかに大事か分かっていたはずです。
軍事同盟を解消し、あくまで「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」する平和外交を展開、追及することが「日本国憲法」の要請です。軍拡でなく、軍備の削減、廃棄を追及し、莫大な「(人殺しのための)軍事費」を、「皆が普通に生きられる社会」造りに転用しなければなりません。被災者の方々に心を痛めるしかできない今、自己嫌悪するばかりです。
2)憲法九条を広める会『会報5号』(2024年1月)
パレスチナ人民は、「抵抗権」を有し、「自衛権」を行使する
五十嵐正博
私にとって、2024年は大惨事に遭遇する幕開けとなりました。能登半島地震発生時、珠洲市に滞在し、車中泊、避難所泊をしました。いつ起こるとも知れない地震、「早く揺れが止まってほしい」と念じつつ、ウクライナ、ガザで、ミサイルがいつ、どこから落ちてくるかもしれない恐怖を共有した瞬間があったように思います。
私が金沢大学に赴任した1984年、同僚の中東研究者は、「誰がアンネを見殺しにしたのか」と題する論文で、驚くべき説を展開しました。(第二次大戦中)シオニスト指導部は、ナチの『ホロコースト』を、ユダヤ人への同情を獲得し、パレスチナにユダヤ国家を設立するため、同胞ユダヤ人の犠牲を利用したのだと。「イスラエル・パレスチナ紛争」という問題設定自体、本質は「植民地主義」だという実態を覆い隠すものだとの説に説得力があるように思います。
人間は、「愛し、慈しみ、感動し、悲しみに共感する」一方で、「憎み、差別し、排除し、(人を効率よく殺す)兵器開発に邁進し(その最たるものが核兵器)、「民族的、種族的、人種的又は宗教的集団」の全部または一部を破壊する意図をもって行われる行為(ジェノサイド)をするなどの残虐性、おぞましさをも持ち合わせています。他所で行われている迫害・暴虐・非道に「無関心・見て見ぬふりをする」。「(ありもしない)敵愾心をあおり、戦争を創り出す」。しかし、人間は、「武力」ではなく、「交渉」などの平和的手段により「国際紛争」を解決しなければなりません(国連憲章)。第二次大戦の惨禍を経てたどり着いた「確信」でした。人類が生まれてから4万5千年、「人権」、「個人の尊厳」が尊重されなければならないと考えられ、その実現のための行動が始められたのは、1945年国連が創設されてからです。
1948年5月14日の「イスラエル独立宣言」以来、国連総会・安保理における「イスラエル関連決議」は多数あります。早くも、第一回総会で、「大量殺戮」のような非人道的な行為を二度と繰り返さないとの決意からジェノサイドを国際法上の犯罪であると宣言し(46年12月11日)、「ジェノサイド条約」(48年12月9日)を、翌10日「世界人権宣言」を採択しました。イスラエルは、1967年「第3次中東戦争」でヨルダン川西岸、ガザ地区を占領し、以来、歴代政府は「入植政策」を進めてきました(特に1977年リクード政権の誕生が加速させた)。安保理決議を一つ、1980年の決議465は、「イスラエルの政策と措置は、戦時における文民の保護に関するジュネーブ第四条約に対する重大な違反」であり、「既存の入植地の撤去」、すべての国に占領地における入植地に関し、利用されうるいかなる援助もイスラエルに与えないよう要請しました。2007年、ハマスがガザを武力制圧、2008年、イスラエルはガザの境界を完全封鎖し、「天井のない監獄」が作られました。以来、パレスチナ人民は、イスラエルにより「鉄鎖につながれて」います。国連は、南アへの「武器輸出を禁止」し、「経済制裁の実施」などの措置をとり、「アパルトヘイト」を廃止させました。イスラエルに対する対応となんと対照的なことでしょう。
「抵抗権」の考えは中世以前からありますが、人民の「圧政に対する抵抗」の確認は、「アメリカ独立宣言」(1776年)「フランス人権宣言」(1789年)によって行われました。「圧政・抑圧に対する人民の最後の拠り所は抵抗権の発動しかない」との考えです。しかし、第二次大戦後、植民地支配その他の抑圧を受けている民族または人民が、平和的手段によって自決を達成できないと考え、その解放や独立達成のために「武力」に訴えました。「民族解放戦争」です。国連は、歴史的文書「植民地独立宣言」(60年)で、従属下の人民に向けられたあらゆる武力行使が停止されるとし、さらに「一切の必要な手段を用いて」自決権を行使する人民の闘争のために武力の適用を再確認しました(73年)。「民族解放戦争」は「自衛権」の行使として説明する立場が有力です。パレスチナ人民は、イスラエルの圧政に抵抗する「解放戦争」としての「自衛権」を行使しています。もっとも、イスラエルによるガザ攻撃をすぐにでも止めさせ、平和的な交渉に移すことが急務であることに疑いはありません。
ここまで、国際法を生業としてきた者として記述しました。が、私の常識とは次元の違う「何か」があるのでは、と思い始めました。そう考えなければ、この稀代の蛮行・暴虐は説明できない。ネタニヤフは、「旧約聖書」に「ネタニヤフの(預言)書」とでもいうべき「物語・神話」を加える妄想にとらわれてきたのではないか、この歴史に刻まれるべき暴虐を止めさせなければなりません。
0 件のコメント:
コメントを投稿