― ヒロシマを抱きよせる米国、抱きしめられたい広島と日本 ―
第5回:抱きしめられたい広島と日本(その1)
広島市の平和教材と『はだしのゲン』削除問題から考える
(1)「はだしのゲン」削除は、生徒たちから「正義とは何か」を問う機会を奪った
(2)被害者は「加害者に共感すべき」というメッセージ、はたして正気か?
(3)『ひろしま平和ノート』における核兵器問題の取り上げ方の変化 ― 生徒に独立思考力=批判的精神力の開発を許さない「平和教育」
(4)『ひろしま平和ノート』と『ひろしまレポート』の同列的低質性
(5)結論:『ひろしま平和ノート』改悪の背後にいるのは誰か?
広島市内の市立小中学校と高校が行っている平和教育プログラムでは、『ひろしま平和ノート』と題された教材が使われている。『ひろしま平和ノート』は、生徒の発達段階に即して、プログラム毎に小学校1〜3年用、小学校4〜6年用、中学校用、高等学校用の4部で構成されており、2013年度から生徒に無償配布されている。
昨年2023年2月、広島市教育委員会は、突然、翌年度(2023年4月)から、この『ひろしま平和ノート』のうち、小学3年生向けの教材に掲載されている漫画「はだしのゲン」の掲載をとりやめ、別の内容に変更すると発表。さらには、1954年にアメリカによるビキニ環礁での水爆実験で被曝した「第五福竜丸」の記述についても、中学3年生向けの教材から掲載をとりやめる方針を決めた。こうした市の決定に対して、多くの市民団体から厳しい批判の声があがり、オンライン署名change.orgによる削除反対運動では、20日間ほどで5万6千人以上の署名が寄せられた。にもかかわらず、広島市教育委員会は削除を強行した。
『ひろしま平和ノート』がどのように変更されたかを少々詳しく検証してみれば、問題は漫画『はだしのゲン』と「第五福竜丸」の記述の削除の2点にとどまるものではないことが明確となる。そこで、今回は、『ひろしま平和ノート』が平和教材としてどのような問題を抱えているのか、そしてそのような削除や変更が米国の核兵器に「抱きしめられたい広島と日本」とどのように絡み合っているのかについて考察してみたい。
1. 「はだしのゲン」削除は、生徒たちから「正義とは何か」を問う機会を奪った
小学3年生向けの教材で漫画『はだしのゲン』から使われている部分は、ゲンが①貧しい家計を支えるために路上で浪曲を歌って小銭を稼ぐ、②身重の母親に食べさせようと池のコイを盗む、③原爆の火の手が迫る中、家の下敷きになった父親がゲンに逃げるように叫ぶの3場面で、「家族の絆」を学ぶことが目的とのこと。この6ページにわたってマンガを引用している部分を、広島教育委員会は「児童の生活実態に合わない」、「誤解を与える恐れがある」というなどの理由から教材から削除したとのこと。
この広島教育委員会の説明に対しては、広島文学資料保全の会の池田正彦氏に、昨年3月、この私のブログのために書いてもらった「漫画『はだしのゲン』削除問題を考える」で、すでに適確な批判をいただいている。よって、今はその一部を下に引用するだけに留めておきたい。
http://yjtanaka.blogspot.com/2023/03/blog-post.html
削除理由も不思議である。部分的に「浪曲の場面は実態に合わない」「コイを盗む描写は誤解を与える」など、市教委の言い分が報道されているが、「ゲン」は全10巻になる長大な作品である。選んだ箇所に問題があるとするならば、別の個所を引用することは可能だろう。自ら選んだ箇所が問題なので削除する、というのはあまりに短絡的である。市教委は削除する前に掲載へ向けた努力したのかはなはだ疑問である。
さらに問題なのが、「ゲン」に替わって掲載される予定の「いわたくんちのおばあちゃん」(主婦の友社)との比較論だ。後者が素晴らしい作品だから「ゲン」削除を容認する意見は、愚論でしかない。素晴らしいなら「ゲン」とともに掲載したら良い話だからだ。スペースに問題があるなら、頁数を増やすなど工夫をすれば良いだけだ。被爆者が年々減ってゆき、家庭内や身の回りで被爆の実相を継承する機会がなくなっていく中で、平和教育における学校の立ち位置は、年々重くなっている現実を忘れてはならない。
「はだしのゲン」削除問題でさらに重要な点は、旧版・高校用『ひろしま平和ノート』でも、高校1年生用の教材として「学習3:被爆体験者が伝えること〜中沢啓治さんからのメッセージ」というセクションが設けられていたが、その部分が大幅に削られたことである。全面的に削除されたわけではないからか、メディアもこの部分の変更についてはほとんど報告していないようである。旧版の中沢啓治のメッセージには、原爆殺戮の残虐な実相と、被爆が被害者の身体にもたらした酷い結果(被爆した母親の火葬の結果は、骨すら残らない)や被爆者差別(放射能は感染する)など、「正義に反する」非人道的な人間行為に対する激しい怒りが、「はだしのゲン」の漫画の数コマを入れて、2ページにわたって ― 十分とは言えないまでも ― 極めて簡潔に紹介されていたのである。
「平和」を築き上げるためには様々な努力が必要であるが、その一つは、「正義に反する」いかなる非人道的な人間行為に対しても、私たちは怒りをもって立ち向かうことである。「正義に反する」行為に私たちが怒りを感じなくなれば、最終的には、それは民主主義崩壊へとつながる ― この点で、日本の民主主義が機能麻痺しているような情けない現状は、「正義に反する」行為に対する怒りが多くの日本市民には萎えてしまっていること、そのことと深く関連していることを指摘しておきたい。
よって、当然ながら、その怒りは、非人道的な行為を犯した人間の責任追求へと繋がってくるはずである。『はだしのゲン』全10巻を注意深く読んでみれば「正義に反する行為への怒り」と「不正に対する責任追求」という2つの ― 人間性の追求にとって極めて重要な ― 要素が常に漫画のストリーの基調になっていることが理解できる。旧版のこの部分を読んだ高校生たちに、図書館で『はだしのゲン』を実際に読んでみようという興味を起こさせ、自分たちで「正義とは何か」を議論し、考えさせるようにすることこそが、教育委員会の任務であるはずべきだ。
ところが、新版・高校用『ひろしま平和ノート』での中沢メッセージは半分に削られ、しかも「はだしのゲン」の漫画は全てカット。その結果、旧版に見られた<「正義に反する」非人道的な人間行為に対する激しい怒り>はほとんど消え去っている。よって責任追求へと繋がっていくような展望は、もちろん完全に消滅している。単に「反核=平和」という、広島では言い古された、いたって凡俗なメッセージに変えられてしまっているのである。これは、意図的に漫画『はだしのゲン』の凋萎化をはかったものであるとしか私には思えない。
なぜこのような狡猾で奸悪ともいえる工作が行われたのか?それは、今や世界中で読まれ広く知られている『はだしのゲン』からの漫画引用と、作者の力強いメッセージを全て削除するなら、猛烈な批判を受けることは目に見えているからである。このことは2012〜2014年に、松江市、大阪泉佐野、東京(中野区、足立区)など全国数多くの自治体に、「間違った歴史認識を植えつける」として学校図書室から撤去を求める陳情が右翼団体から出されたが、結局は多くの市民からの批判を受けて、どの自治体も閲覧制限はしないことになったことからも明らかである。こうした事態を避けるために、旧版の「はだしのゲン」の部分は半分に削りながらも、内容は萎縮化させることをはかったものとしか考えられないのである。
1. 被害者は「加害者に共感すべき」というメッセージ、はたして正気か?
一方、新版では、旧版には全くなかった学習2「原子爆投下後のヒロシマ」という新しいセクションが作られ、美甘章子著『8時15分 ヒロシマで生き抜いて許す心』(講談社エディトリアル 2014年)に含まれている、美甘の父である美甘進示の被爆前や被爆直後の個人的な体験、被爆で受けた耐え難い激痛や病気発症などについての詳しい証言の長い引用が紹介されている。しかし、この証言には<「正義に反する」非人道的な人間行為に対する激しい怒り>というものは完全に欠落している。そのかわり、被爆による被害がいかに惨たらしいものであったかという、もっぱら自分の被害状況の強調と、親切に介護に当たってくれていた婦人会の一人が、途中からいなくなったことに対して「裏切られた」という思いからの、その女性への強烈で一方的で ― 正当で良心的とはとても言えない ― 身勝手な憎しみが繰り返し語られている。手当を受けていた被爆者は自分だけではなく大勢がおり、介護に当たっていた人たちも必死になっていたであろうことに想いもつかないこの証言には、よって中沢が自己の漫画作品で問う「正義とは何か」という ― 人間にとっての根本的で普遍的な ― 問いかけがどこにもない。それゆえ「個人的な憎悪」だけを読まされる読者にとっては、非常に後味の悪い暗い気持ちにさせられる。一人一人の命を尊厳する人間性追求という観点から考えるならば、このようなネガティブな内容の証言を、誰が、なぜ「平和教育」の教材として選択したのか、その理由が私には全く分からない。
新版・中学用『ひろしま平和ノート』の学習2「国際平和に向けての取組」では、「原爆を落とした米国人を恨むな。平和の懸け橋になれ。」と題した美甘章子へのインタヴューが新しく載せられており、その中で彼女は、父からの教えとして以下のように述べている。
戦争ではどの国もひどいことをしていたし、日本も例外ではない。アメリカが悪いのではなく戦争が悪いのであって、立場の違う人たちのことを理解しようとしない、もしくは自分の利益追求に走ってしまう人間の弱さが戦争につながる。どちらが悪いという考え方は全く意昧がないとたびたび説かれ、橋渡しをする人間になるようにと育てられました。『そのために英語をしっかりと学びなさい』と小さい頃からずっと言われて育ちました。
「戦争ではどの国もひどいことをしていたし、日本も例外ではない」という戦争残虐行為の「批判」 ― 実際にはマヤカシの正当化 ― は、珍しくはない。戦争では他国も残虐行為を犯したから、自分たちも同じような残虐行為を他国民に対してやっても許されるというのであれば、誰も他者に対する自己の残虐行為の責任を負わなくなる。さらには、他者が自分たちに対して犯した残虐行為の責任を追求することもできなくなる。その結果は、戦争での殺戮はいかなる形であれ許容されることになり、誰もその責任を問われることはなくなる。
再度述べておくが、戦争による大量虐殺 ― とりわけ原爆のような大量破壊兵器による、明らかに「正義に反する」市民の無差別大量虐殺 ― を防止するためには、そのような由々しい「人道に対する罪」を犯した人間の責任を徹底的に追求することが最も重要である。罪の責任を追求することと、罪を犯した人間を個人的に憎むか憎まないかは全く別のレベルの問題である。「戦争ではどの国もひどいことをやる」のだからと責任追求を放棄することは、犠牲者が自国民であれ他国民であれ、また加害者が自国民であれ他国民であれ、再び同じ残虐な戦争犯罪を人間が犯すことを防止すべき、人間としての我々の責任を放棄したことになる。畢竟、「戦争ではどの国もひどいことをしていたし、日本も例外ではない」などとノタマウのは、人間として失格者だということに尽きるのである。
また、『ひろしま平和ノート』の中では使われていないが、美甘章子は上記の自著の「あとがき」で以下のような文章を記している。
カリフォルニア心理学専門大学院(現アライアント国際大学)サンディエゴ校の博士課程で私が学んでいたとき、精神力動学的心理療法の教授が、〈同情〉と〈共感〉の違いについて心理学的見解を教えてくださいました。教授は次のように述べたのです。「〈同情〉とは、その人が感じている感情と同じか似た気持ちに自分もなることです。もし、誰かが悲しんでいたら、あなたも自分がその立場にいるかのように悲しい気持ちになり、その人を気の毒に思うのが〈同情〉です。でも〈共感〉は違います。その人と全く違う感情や意見を持っていても、その人に共感することはできるのです。共感しながら、逆の意見や逆の感情を持つことさえ可能です。……
たとえば、ホロコーストの生存者がアウシュビッツの司令官であったルドルフ・ヘスに共感することが可能です。ヘスの行ったことに同意もしないし、心底から湧き出る怒りや憤りの感情をたとえ持っていたとしても。ルドルフ・ヘスに与えられていたプレッシャーや、ナチのオペレーションの中でどのような環境にいたかを理解しようとし、ヘスがなぜあのような行動をとったのか見えるかを理解しようとするのが〈共感〉なのです。」……
共感と許す心こそが、真の意味での癒やしに通じる道なのです。共感することや許すことができる人は、自分の感情の奴隷となることなく、より自由な物事の捉え方をすることができます。(強調:田中)
この「あとがき」の青字で私が強調した部分から明らかになるように、彼女はこの文脈で使われている「共感」を「許す心」に直結するものと全く誤解している。アメリカの精神力動学的心理療法の教授が使った「共感」がどのような英語の単語なのか、この日本語の文章からでは分からない。しかし、ここで教授が使っている「共感」の意味は、私が引用者として赤字で強調しておいたように、加害者である人間がどのような状況からそのような残虐な行為を犯すことができるようになったのか、その心理的プロセスを被害者も「理解」できるようになる、という意味で使っている。理解できるけれどもそれを「赦す」ことができる、とはこの教授は言っていない。(「同情 sympathy」と違って、通常「共感」にあたる英語は「empathy」である。しかし、ここで教授が言っている説明からするならば、それは「empathy」ではなく、「comprehend=理解する」または「grasp=把握する」という単語のほうが正確である。よって、「共感」という日本語の言葉をこの文脈で使うことは間違っている。その間違いが美甘による翻訳の間違いなのか、それともこの教授の言葉の使い方自体の間違いによるものなのかは、英文の原文を見てみないとわからない。)
注意しなければならないのは、加害者の心理を「理解」できることと、その加害者の加害行為責任を問わないこととは全く別問題であることだ。加害者がなぜそのような残虐行為を犯したのかを、被害者あるいは第三者が「理解」することは、決してその犯罪行為を認め、且つ「赦す」ことに直結するものではない。よって、加害者の責任追求を放棄するものでもない。一人の人間がどのようなプロセスを経て残虐行為を犯す犯罪人になったかを理解することは、その人間がどのような社会構造の中で育ち、どのようなイデオロギーの影響を受けて残虐化していったかなど、様々な社会背景を知る上で、被害者にとってだけではなく、「人間の残虐化」防止を望むあらゆる人間にとって重要なことである。念のため再度述べておくが、よって、理解することと共感することは、決して同じではない。
したがって、加害者の責任追求をやめて、加害者に「共感し許す」ということは、加害行為そのものを許すことになり、被害者の「真の意味での癒やしに通じる道」になど、つながるはずはない。
被害者の「真の意味での癒やし」は、加害者が、自分が犯した残虐行為の被害者の「痛み」を深く理解し、その「痛み」を自分の「痛み」として自己の心の中に内面化し植えつけることによってのみ、達成できることである。なぜなら、それこそが真の「謝罪」であるからだ。そこでこそ、被害者と加害者の間での「痛みの共有=共感empathy」が初めて可能となり、被害者と加害者が和解できるようになるのである。加害者による被害者の「痛み」の共有なしに、被害者が加害者に一方的に加害者の心理に「共感」して、和解し、平和的関係を築きあげるなどということは、全くありえない。こんな簡単なことが、この心理学博士には理解できないようである。この人は、いったい、心理学の何を勉強したのであろうか。
考えてもみたまえ。日本軍性奴隷(いわゆる「慰安婦」)にさせられ、日本軍将兵の性暴力で人間性を徹底的に否定された朝鮮人、中国人をはじめ東南アジアやオランダの女性たちに、「日本軍将兵だった日本の男たちに共感し、彼らを許すことで、あなたは真の意味での癒やしを得ることができます」などと言えるか?また、現在、文字通り毎日、イスラエル軍による爆撃で殺戮の対象になっている大勢のパレスチナの子どもたちに、「イスラエルに対して共感と許す心こそが、あなたたちにとって真の意味での癒やしに通じる道なのです」などと言えるであろうか?「イスラエルに共感せよ」とは、「イスラエル軍のパレスナ人ジェノサイドに、パレスチナ人として共感せよ」ということである。こんなことをガザのパレスチナの人々や元「慰安婦」の女性たちに言えるとしたら、それはもはや正気の沙汰ではない、狂気である。そうでなければ、ハッキリ言うが、被害者を馬鹿にしているとんでもない愚言で、愚劣そのものである!
一方、被害者が加害者に対して怨讐を持ち続けること、憎み続けることは、確かに、被害者自身の人間性を奪うことにもなる。憎しみによってその人間の心は荒み、自分自身を残忍化し、自分が人間性を失うからである。自己の人間性を破壊するような他者に対する個人的な怨讐をなくすためには、相手が加害者でなくても、被害者である自分の「痛み」に真に「共感」できるような人であれば、誰とでも親密な関係を作り、そうした平穏な人間関係の輪のコミュニティーを広げていくことによって可能である。
しかし、もちろん、同時に加害者側が被害者の「痛み」を強く認識し、深く「共感」できるような努力も続けていく必要がある ― とりわけ加害者側の共同社会に属する人々(例えば加害者の2世や3世など)が、被害者側の痛みに深く「共感」できるように自己精神改革を行なっていくことが必要である。このことは、アジア・太平洋戦争で中国人、朝鮮人をはじめ多くのアジア人に対して様々な残虐行為を犯してきた我々日本人も、責任問題を考える上で深く自覚しなければならない。ところが、『ひろしま平和ノート』には、そのような自覚を生徒たちに促すような教材は皆無である。
高校生用新版『ひろしま平和ノート』には、新しく「ヒロシマで活動を続けた沼田鈴子さん」という欄が作られ、被爆者としての彼女が自分の活動を通して、数多くの国々を訪問したことが、彼女自身の言葉を引用して紹介されている。「国と国が理解し、民族と民族が信頼し、愛し合えば、心と心は通じあうのではないでしょうか」という彼女の言葉も引用されてはいる。しかし、彼女が多くの国々の人たちと親しく交流できるようになった、その最も決定的な理由は、彼女が戦争被害者、とりわけ日本帝国陸海軍の残虐行為の犠牲者ならびのその親族の人たちと直接会い、その人たちの「痛み」を彼女自身の「痛み」として常に内面化することにひじょうに努力した、その結果であったのだ。
彼女が自分の平和活動の指針としたのは、「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」の3つであった。しかし、彼女の最も重要なこのメッセージは、『ひろしま平和ノート』にはどこにも記載されていない。新版の中沢啓治のメッセージと同じように、沼田鈴子のメッセージもまた、あまりにも凡庸なものに、ひどく萎縮化されてしまっている。沼田は、米国の原爆無差別大量殺戮の責任を常に追求すると同時に、被害者との「痛みの共有」という方法で、日本軍の戦争責任を自分なりにとり続けようと努力した稀有な被爆者であった。沼田鈴子の生前の活動については、私のブログ記事「国家主義を突き破る人道主義」を参照してもらえれば光栄である。
http://yjtanaka.blogspot.com/2018/08/blog-post_30.html
したがって、我々が原爆無差別大量殺戮を犯したアメリカに対してなすべきことは、アメリカの政治家や市民が、広島・長崎の被爆者が長年辛酸を舐めてきたその表現し難い苦痛を、自分たちの「痛み」として内面化し、真の意味で「共有」ができるように仕向けるその方法を考え、様々な方法を実践してみることである。(私自身は、その最も有効な方法は芸術文化運動であると考えている。)そのことが、究極は核廃絶という目的を日米両国の市民で共有することにも繋がってくるのである。
ところが、美甘章子は自著の「あとがき」で「想像を絶する苦痛と苦悩を講じたあの戦争で敵同士であった二つの国が、今は最強のパートナーとなり協力体制にあることで、平和と調和が確立されている」のであり、だからこそ広島、日本は、加害国アメリカに「共感」し「許す」ことが大切であると言うのである。「最強のパートナーの協力体制」とは、「核兵器を抱きしめている」米国と、その米国の核抑止力に「抱きしめられたい」日本の間の軍事同盟 ― 実際には米国による日本の軍事支配 ― であり、そこでの「平和」もまた「アメリカ軍事支配下による平和Pax Americana」のことであり、この「米軍事力による支配=平和維持」のために最も犠牲になっているのが、言うまでもなく沖縄市民である。
以上見てきたように、中学・高校生用新版『ひろしま平和ノート』における美甘章子の著書からの長文にわたる引用 ― 原爆無差別大量市民虐殺を犯した加害国である米国に、被害者側の広島市民が「共感し許す」ことが必要であるというのがそのメッセージの中心 ― と、その他の部分の改悪は、明らかに、「核兵器を抱きしめている」米国に対し、「抱きしめられたい広島と日本」の精神的奴隷根性をモロに表明している。米国にとっては「なんともありがたいヘイワ教材」であり、エマニュエル大使の破顔が想像できる。
1. 『ひろしま平和ノート』における核兵器問題の取り上げ方の変化 ― 生徒に独立思考力=批判的精神力の開発を許さない「平和教育」
もう少し、『ひろしま平和ノート』の教材資料内容の他の問題点 ― 特に核兵器問題の取り上げ方 ― について検証してみよう。
冒頭でも述べておいたように、旧版・中学生用『ひろしま平和ノート』に載せられていた、1954年のアメリカによるビキニ環礁での水爆実験で被曝した「第五福竜丸」に関する3年生用の記述は、全て消去された。新版では、ビキニ環礁水爆実験の写真1枚になり、説明は「ビキニ環礁での核実験(1946年 マーシャル諸島)」という簡単なキャプションだけである。周知のように、「第五福竜丸」被曝事件は、原水禁世界大会開始を促した大きな原動力であり、その後の反核反戦市民運動にも様々な影響を及ぼしてきた点からも、極めて重要な歴史的事件である。
その「第五福竜丸」に関する記述をなぜ消去したかについて、市教育委員会の説明では「被爆の実相を確実に継承する学習内容となっていない」からだとのことである。「被爆の実相」とは具体的に何なのか、これについての説明を教育委員会はほとんど何もしていない。「第五福竜丸」被曝に関する資料は山ほどあり、それらの資料をいかに活用するかで「被爆の実相継承」も大きく変わってくる。また「第五福竜丸」被曝問題は、マーシャル諸島の島民をはじめ、その後世界各地 ― ネバダ、南太平洋、オーストラリア、セミパラチンスク、ロプノール、アルジェリアなど ― で長年にわたって核大国が行ってきた核実験で、いかに多くの地元住民たちが被曝の被害にあってきたかという、重要な「被爆の実相」を学ぶ機会を、生徒たちに与える端緒にもなる可能性を持っていた。それらのことを最初から無視して削除するというのは、「被爆の実相」という曖昧な言葉にカコツケた、言い訳としか思えない。何らかの政治的配慮から削除が行われたものとしか考えられない。
かわりに新版では、核兵器保有各国の核弾頭保有数と主な核実験場を示す世界地図が載せられ、国際原子力機関(IAEA)とNPT再検討会議に関する簡単な説明がつけられている。新版ではさらに、2017年に122カ国の賛成多数で国連で採択された「核兵器禁止条約」についての説明が1ページと、その採択運動に貢献した広島出身の被爆者・サーロ節子に関する情報に1ページが当てられている。この条約に加盟するように広島・長崎両市が日本政府に繰り返し要請しており、両市を筆頭に世界1700以上の都市が加盟している平和首長会議も強くこの運動を支持しているので、この条約に触れないわけにはいかないのだろう。
しかし問題は、「教科書問題を考える市民ネットワーク・ひろしま」が発行した<『はだしのゲン』が広島の平和教育に警鐘を鳴らした>と題する批判文でも指摘されているように、中学3年用の『ひろしま平和ノート』の教材資料からは、旧版で使われていた「核廃絶」という用語の多くが、「核軍縮」という用語に置き換えられている。
また、中学2年用の教材として、2016年5月に平和公園を訪れたオバマ大統領のニュースを大きくとりあげ、演説中のオバマ、オバマに文字通り「抱き寄せられた」被爆者・森重昭、オバマと歓談する日本被団協代表委員であった故・坪井直の3枚の写真が載せられている。説明では「オバマ元アメリカ大統領は、平和記念公園で核兵器ない世界の実現に向けたメッセージを発信しました」と記し、オバマ演説のごく一部も紹介している。オバマが「核兵器ない世界の実現に向けた」一体どんな具体的なメッセージを発したのか、それを生徒たちに検証させ、オバマの広島訪問の目的は一体何だったのかを議論させるような、生徒の独立した思考力を高めるような「学習のための配慮」といったものは、ここには何もない。ちなみに「独立した思考力」を涵養するためには、「冷静な判断力」を育むことが決定的に重要である。『ひろしま平和ノート』には、生徒たちの「判断力」と「独立した思考力」を養おうという熟慮が完全に抜け落ちている。ただ一方的に、「オバマ賛美」を発信しているだけである。
「冷静な判断力」と「独立した思考力」をつけるとても重要な青年期にある中学・高校の生徒たちに、演説の内容はほとんど紹介せずに「オバマ賛美」だけを提供する教材は、生徒たちを愚弄するもので、「平和教育」教材として完全に失格である。
畢竟、美甘章子の「あの戦争で敵同士であった二つの国が、今は最強のパートナーとなり協力体制にあることで、平和と調和が確立されている」という、批判力ゼロの暗愚なメッセージと何も変わらない。ここにも「米国の核兵器に抱きしめられたい」広島の卑屈な米国服従心が、瞭然と反映されている。
同時に、次ページでは、同じく中学2年用教材として、「日本政府の考え」という欄が新しく加えられ、外務省のウエッブサイトからそのまま転載した以下のような文章が紹介されている。
日本には、唯一の戦争被爆国として、核兵器のない世界の実現に向け国際社会の取組をリードしていく責務があります。
近年の国際的な安全保障環境は厳しく、また2017年7月に採択された核兵器禁止条約を取り巻く対応に見られるように、核軍縮の進め方をめぐっては、核兵器国と非核兵器国の間のみならず、核兵器の脅威にさらされている非核兵器固とそうでない非核兵器国の聞においても立場の遣いが見られます。このような状況の下、核軍縮を進めていくためには、核兵器の非人道性と安全保障の観点、を考慮し、核兵器国の協力を得ながら、現実的かつ実践的な取組を粘り強く進めていく必要があります。
(外務省websiteI軍縮・不拡散と我が国の取組(概観) 1 軍縮・軍備管理・不拡散とは (3) 核軍縮・不拡散の現状と日本の基本的考え方」から抜粋)
ここで使われている用語も「核軍縮」「不拡散」「軍縮・軍備管理」という用語ばかりで、「核廃絶」と言う言葉は一度も使われていない。かくして、「核兵器国の協力を得ながら、現実的かつ実践的な取組を粘り強く進めていく必要があります」という日本政府の方針を強調し、同時に「核廃絶」を「核軍縮」に置き換えることで、日本にとっても「最強のパートナー」である ― 大統領が平和公園にまで訪問してくれた親切な ― 米国の「核抑止力」が「平和維持」にとって必要であるという考えを、無識のうちに生徒たちに植えつけようという、広島市教育委員会の目論見が明らかである。
1. 『ひろしま平和ノート』と『ひろしまレポート』の同列的低質性
この私の連続論考「核兵器を抱きしめて」の第2回「ヒロシマを抱き寄せる米国(その1)」でも詳しく述べておいたように、「ヒロシマを抱きよせる」米国の戦略実行は、2016年のオバマの広島訪問時から始まっていたのである。しかし、「抱きしめられたい広島と日本」側からの動きは、実はそのずっと以前から始まっていた。ところが、そのことにほとんどの市民が ― 被爆者と反核反戦運動に深く関わっていた市民活動家たちも含めて ― 気がつかなかったし、ジャーナリストたちも全く注意を向けてこなかった。この点について、我々は深く反省し、今後の市民活動を展開していく上での重要な学習事項とすべきである。
「抱きしめられたい広島と日本」側からの動きが、かなり以前から始まっていたことの証左は数多くあるが、それらを詳しく紹介している時間的な余裕がないので、今は、一例だけをここで提示しておく。それは、広島県が行ってきた核軍縮に関わる活動である。
広島県は2011年10月に、「核兵器のない平和な国際社会の実現に向け、核兵器廃絶や復興•平和構築のため、世界の中の広島として果たすべき使命と役割等を『国際平和拠点ひろしま構想』として取りまとめた」と発表。2013年からは、その「国際平和拠点ひろしま構想」を具体化するための取り組みとして、毎年、「核軍縮に向けた各国の取組状況を分析・評価」する『ひろしまレポート』を作成。このレポートを「国内外に発信し、核軍縮に向けた各国の取組状況を広く示すことで、国際社会における核兵器廃絶のプロセスが一歩ずつでも着実に前に進むことを期待しています」と説明している。
広島県は、2009年以前は、核軍縮や平和問題はもっぱら広島市が取り組むべき課題であるという立場をとって、直接に核・平和問題に関わる活動はあまりしてこなかった。ところが2009年に広島知事選挙で湯崎英彦が当選してから状況は変わり、湯崎はその後4回連続当選して現在に至っている。湯崎の父、湯崎稔(1931〜1984年)は広島大学で教授を務め、爆心地の住民生活状況を含め、原爆被害の全体像を浮かび上がらせるために100人以上から聞き取り調査を行うなど、原爆被害の社会学的分析で貴重な貢献をした社会学者であった。そんな父親をもった湯崎が、父親の仕事を政治面で継承し、親孝行したいと考えたのであろう。知事になるや上記のような構想を打ち立て、熱心に核軍縮に関する様々なプログラムを推進してきたのである。
しかし、問題はその内容である。湯崎は元通産省官僚であり、選挙には無所属で立候補しているとはいえ、最初は県議会自民党最大会派の支持を受けているし、その後の選挙でも毎回、自民党と公明党、さらには民主党の推薦まで受けている。そんな背景から、彼の推進してきた核軍縮関連プログラムが、最初から外務省からの支援を受け、外務省の政策を色濃く反映するものであったことは全く不思議ではない。
このことは、「国際平和拠点ひろしま構想」策定委員会の委員9名(うち1名は知事本人)の顔ぶれを見ても明らかだ。明石康(1974年に国連職員から外務省に転じ、国際連合日本政府代表部参事官、公使、大使を歴任。1979年、国連に復帰し、事務次長を務めた)、阿部信泰(外務省官僚で経済局審議官、軍備管理・科学審議官などを歴任し、2014年〜17年には内閣府原子力委員会委員長代理も務め、当時は元外務省所管の公益財団法人・日本国際問題研究所の所長)、川口順子(元外務大臣、当時は参議院議員)の3名は、外務省と緊密に繋がっている人物。それに豪州政府の元外務大臣・ギャレス・エバンズ(豪州政府も米国の拡大核抑止政策を長年継続)。さらに米国の政治学者3名 ― ウィリアム・ペリー(元米国防長官でスタンフォード大学教授)、ジョン・アイケンベリー(元米国務省政策企画部官僚でプリンストン大学教授)とスコット・セーガン(スタンフォード大学教授で基本的に核抑止力支持者) ― に加えて、日本人学者の藤原帰一(東大名誉教授、これまた基本的には核抑止力支持者)という顔ぶれである。
この策定委員会に加えて、タスクフォースと呼ばれるグループがあり、この8名のメンバーは、策定委員の阿部信泰、ジョン・アイケンベリー、スコット・セーガン、藤原帰一の4名に加えて、水本和実(広島平和研究所副所長)、秋山信将(一橋大学准教授)、上杉勇司(広島大学准教授)、佐渡紀子(広島修道大学准教授)の4名である(なお、肩書は「構想」設置当時のもの)。ちなみに、水本、上杉、佐渡は、当時、広島在住の大学教員であるが(上杉は後に早稲田大学に転職)、実は秋山も2004年まで広島市立大学広島平和研究所講師であった。(ところが、当時の福井治弘所長の下での広島平和研究所の雇用条件 ― 定年退職までの在職権を得るためには博士号を取得しなければならない ― を秋山は満たすことができなかったため、解雇処分。外務省の紹介であろう、すぐに日本国際問題研究所の研究員となり、その後、一橋大学に移っている。)
よって、これらの4名は広島の政治状況と反核平和市民運動の動きについても、それなりの知識を持っている地元の「研究者」として、タスクフォースのメンバーに採用されたのであろう。関連ウエッブサイトの情報からだけではタスクフォースの具体的な任務は何なのかよく分からないが、しかし採用にあたっては、それだけではなく、もちろん外務省の核政策を基本的に支持する意見の持ち主であるという条件も要求されたに違いない。
畢竟、策定委員会にせよタスクフォースにせよ、そのメンバーに選ばれる学者先生は、佞儒(ねいじゅ)でなければならない。私が広島平和研究所の同僚として個人的に知っていた水本と秋山も ― とくに秋山は ― お見事な佞儒である。
上に述べたように、「核軍縮に向けた各国の取組状況を分析・評価」する『ひろしまレポート』は2013年からこれまで毎年出されている。このレポートは、広島県から日本国際問題研究所(以下、「国問研」と略)が委託されて、毎年実施する「ひろしまレポート作成事業」の調査・研究の成果であるとのこと。その研究委員会は10名ほどのメンバーで構成されており、主査は当初は国問研の所長・阿部信泰で、メンバーの中には上記タスクフォースのメンバーでもある秋山と水本も含まれている。研究委員会のメンバーにはその後入れ替わりがあるが、水本、秋山は引き続き今もメンバーであり、主査は常に国問研の軍縮科学・科学技術センター所長なる人物が務めている。(驚くべきことに、ピースボート代表の川崎哲もこの研究委員会のメンバーを、発足当初から現在までずっと続けている。)
レポートについて詳しく説明している余裕がないが、委託された国問研が元々外務省の外郭団体として設置され、理事長も外務省OB トップが歴任している研究機関 ― その研究機関のトップの一人が主査を務める研究会なので、その内容は言うまでもなく外務省の政策を基本的には反映するものとなっている。すなわち、一言で称するならば、「あくまでもNPT(核不拡散条約)の枠組みの中で『核軍縮』を進めていこう」という立場である。
例えば、最近問題にされるようになった「(拡大)核抑止力」について、毎年のレポートがどのように言及してきたのかを見てみれば、そのことが明瞭になるであろう。最初の2013年度版レポートの「拡大核抑止への依存」という欄には、以下のような説明が含まれている。
米国は2010年NPR(核戦略見直し)で、「拡大抑止の提供などを含めた同盟国・パートナーとの安全保障関係は、潜在的な脅威の抑止だけではなく、不拡散の目標に資するという点でも重要」だとしている。……
北東アジアでは、核兵器(能力)を保有する中国及び北朝鮮の動向により、安全保障環境が不安定化したため、日本及び韓国は、米国が提供する拡大(核)抑止の信頼性の維持、あるいは再保証への関心を高めている。……
2010年12月の(日本の)新防衛大綱では、「核兵器の脅威に対しては、長期的課題である核兵器のない世界の実現へ向けて、核軍縮・不拡散のための取組に積極的・能動的な役割を果たしていく。同時に、現実に核兵器が存在する間は、核抑止力を中心とする米国の拡大抑止は不可欠であり、その信頼性の維持・強化のために米国と密接に協力していくとともに、併せて弾道ミサイル防衛や国民保護を含む我が国自身の取組みにより適切に対応する」ことが改めて確認された。
その10年後の昨年、2023年度版レポートの「拡大核抑止への依存」欄では、ロシアのウクライナ侵略戦争でロシアが「事態によっては核兵器使用も辞せず」という意向を明らかにしたことを受けて、NATOが核抑止体制を維持することをいかに重要視しているか、同時に、これまで中立を続けてきたスェーデンとフィンランド両国が、ロシアの脅威のためにNATOの核抑止体制に入ることを望んで加盟を申請したことも、多くのページを割いて説明している。それに続き、日本と韓国に対する米国の拡大核抑止の説明に移り、以下のように記している。
日米間では拡大核抑止協議、また米韓間では拡大抑止委員会が、それぞれ拡大抑止に関する協議メカニズムとして設置されている。日本では、(2022年)2月に安倍晋三元総理が、米国の核兵器を自国内に配備して共同運用する核共有について、国内でも議論すべきとの認識を示した。他方、岸田総理は3月10日の参議院予算委員会で、「拡大抑止は不可欠であり、米国と密接に協議、協力していくことは重要」であり、「引き続き信頼性の維持・強化に向け、日米間でしっかり協議していく」と述べる……
バイデン米大統領は核を含むあらゆる種類の能力で裏付けられた日本防衛に対する米国の関与を改めて表明した」こと、並びに「米国の拡大抑止が信頼でき、強靭であり続けることを確保する重要性を確認した」ことが明記された。……
「……米国による拡大抑止の提供を含む日米同盟の抑止力と対処力を一層強化する」ことが再確認された。
このように、『ひろしまレポート』では米国政府や日本政府の説明をそのまま引用して、何らの批判も評価もしないまま、紹介している部分が多々ある。いや、多々あると言うよりは、正確には、レポートのほとんどが、「米国の拡大抑止力傘下にある日本政府」の観点からの、核兵器をめぐる様々な局面に関する「現状」を細かく紹介しているだけである。と言うことは、「核軍縮に向けた各国の取組状況を分析・評価」するのがレポートの目的だと称する広島県の主張とは異なり、実際には「分析・評価」はどこにも存在しない。本来、「分析・評価」のためには、「現状」を批判的に検討する姿勢と判断力が要求されるのであるが、そんな姿勢や鋭い分析はレポートのどこにも存在しないのである。長年私が繰り返し述べているように、(拡大)核抑止力は、ニュールンベルグ憲章第6条「戦争犯罪」(a)「平和に対する罪」に当たる重大な犯罪行為なのであるが、そのような判断の仕方があることすら、このレポートは言及しない。
『ひろしまレポート』の根本的な問題点は、日本政府の「NPT(核拡散防止条約)体制」重視政策をそのままレポート作成のための基本姿勢として、強固に維持していることである。周知のように。1970年に発効したNPTは、NPTに加盟している5カ国の核保有国に対しては「誠実に核軍縮を行う義務」を規定してはいるものの、何ら罰則はない。その一方で、加盟国のうち非核保有国には核兵器の製造・取得を禁止し、IAEAによる保障措置を受け入れることが義務付けられている。すなわち、人類を容易に破滅することができるほどの数の核弾頭を独占する5カ国のもとに、186カ国が自国の非核を約束して同じ条約に加盟しているという、この極端な不平等はどのような理由から正当化されているのか、NPTの条約そのものにはそのことを説明する条項は一切ない ― なぜなら、説明しようがないからである。数多くある国際条約の中で、これほど不平等で差別的な国際条約はないであろう。
その上、核保有国の間でも米露の保有核弾頭数がそれぞれ5千をはるかに超えているのに、中国は350、フランスは290、英国が220余りと、これまた不平等である。条約そのものが極端に不平等で、現実の核戦力が不平等であるので、「核兵器の不拡散」そのものを防止できるはずがなく、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮へと拡散し、イランが核開発を諦めていないのも、何ら不思議ではない。1970年のNPT発効以来半世紀以上過ぎているというのに、核をめぐる世界状況は、良くなるどころか悪化するばかりである。よって、そもそもNPTに核軍縮や「究極的な核廃絶」を期待すること自体がおかしいのである。「NPT体制を維持しながら核軍縮を図り、究極的な核廃絶を目指す」という日本政府の方針を常に代弁する佞儒たちは、自分たちがいかに情けない「不細工な弁解」を繰り返しているかにすら気がつかない。
再度述べておく。NPT体制は、不条理極まりない5カ国による核独占体制である。その不条理を『ひろしまレポート』は一切問うことなく、「核兵器を抱きしめている」米国やその他の核保有国の不条理をそのまま抱き込んで、「核軍縮に向けた各国の取組状況を分析・評価」する体裁を毎年取り続けているのである。
こうして『ひろしまレポート』の内容を検討してみて分かることは、『ひろしまレポート』は、一見、高尚な「核軍縮に向けた各国の取組状況を分析・評価」するような体裁をとってはいるが、現実には日本政府の政策を代弁するメッセージを一方的に発信している、無味乾燥で低質なものである。その意味では、小中学・高校生に向けて日本政府のメッセージを、子供向けにして、一方的に発信し、子どもたちに自分で考える機会=知的な喜びを全く与えない教材である『ひろしま平和ノート』と、同列に置くべきシロモノなのだ。ところが、知事の自己満足のこんなシロモノに、毎年の『ひろしまレポート』発行だけではなく、「国際平和拠点ひろしま構想」関連の国際会議をしばしば開き、多額の広島県民税を浪費しているのが現状である。
その湯崎知事が、昨年8月6日の平和式典の挨拶で、松井市長と同じように、「核抑止力」を批判する文章を読み上げたことをメディアは大きく取り上げた。しかし、湯崎が読み上げた挨拶をよく読んでみるならば、彼は決して「核抑止力」全般を問題にしているのではなく、以下のように、ある特定の「核抑止論者」をのみ批判しているのである。
……なお世界には、核兵器こそが平和の維持に不可欠であるという、積極的核抑止論の信奉者が存在し、(G7)首脳たちの示す目標に向けた意志にかかわらず、核軍縮の歩みを遅らせています。
私は、そのような核抑止論者に問いたい。あなたは、今この瞬間も命を落としている無辜(むこ)のウクライナの市民に対し、責任を負えるのですか。ウクライナが核兵器を放棄したから侵略を受けているのではありません。ロシアが核兵器を持っているから侵略を止められないのです。核兵器国による非核兵器国への侵略を止められないという現在の状況は、「安定・不安定パラドックス」として、核抑止論から予想されてきたことではないですか。
また、あなたは、万が一核抑止が破綻した場合、全人類の命、場合によっては地球上の全ての生命に対し、責任を負えるのですか。あなたは、世界で核戦争が起こったら、こんなことが起こるとは思わなかった、と肩をすくめるだけなのでしょうか。
誰が読んでも分かるように、「積極的核抑止論の信奉者」、「核抑止論者」という言葉で彼がここで示している人物は、ロシア大統領プーチンだけであって、バイデン大統領をはじめ他の核保有諸国の首長は含まれていない。それが証拠には、この挨拶には、以下のような文章も含まれていた。
被爆の実相に触れたG7首脳は、世界が、核戦力の強化か、あるいは核軍縮と最終的な廃絶かという二つの分かれ道に直面する中で、核軍縮と廃絶の道を選び、広島ビジョンとして力強く宣言し、芳名録に個人的な決意を記しました。G7の、また、同様に招待国の首脳たちの示した決意は、極めて歴史的であり、極めて重いものがあります。……
私たちには、次の世代に真の意味で持続可能な未来を残す責任があります。そのためには、全ての核保有国が核兵器を手放すことができるよう、従来の安全保障のあり方を見直すとともに、持続可能性の観点から、国際社会の一致した目標として核兵器廃絶を目指さなければなりません。
広島県は、日本政府をはじめ、外国政府や国連、市民社会と連携して、そのための取組を進めてまいります。
米英仏の核保有国を含むG7サミットが発表した「広島ビジョン」のいったいどこで、G7首脳たちは「核軍縮と廃絶の道を選び、……力強く宣言し」たと言うのであろうか?「広島ビジョン」では、自分たちの核戦略は棚に上げておきながら、ロシアと中国がNPT第6条の「軍備縮小に関する条約について、誠実に交渉を行うことを約束する」という義務を怠っていると批難している。さらに、この挨拶の最後の2段落では、「持続可能性の観点から」という婉曲表現で「NPT体制を維持しながら」を示唆し、日本政府とも連携しながら、究極的な「核兵器廃絶を目指す」と言っているのである。「(拡大)核抑止論」を一昨年まで一度も批判したことのない湯崎知事や松井市長が、昨年の平和式典挨拶で、突然、問題にしたのは、それを問題にしはじめた世論に対する風見鶏的な政治的対応であって、決して本心でないことは、この湯崎の挨拶文からも明白である。
かくして、米国の核に「抱きしめられたい広島と日本」側からの動きが、我々が考えていたよりずっと以前から始まっていたことは、広島県の「国際平和拠点ひろしま構想」一つを見てみるだけでも明白なのである。
昨年の『ひろしま平和ノート』の改悪は、実は、こうした動きと密接に絡み合って行われたという問題が持つ意味の重大性を、我々は深く考える必要がある。
1. 結論:『ひろしま平和ノート』改悪の背後にいるのは誰か?
さて、最後にもう一度『ひろしま平和ノート』に戻って、上記のような悪質とも言える教材の改悪への提案は、いったい誰が、いつ行ったのかという問題について、現段階で入手可能な情報について、ごく簡単に触れておきたい。
「教科書問題を考える市民ネットワーク・ひろしま」が広島市に対して行った要請に応えて、広島市は教育委員会関連の「平和教育プログラム改訂会議」と「平和教育プログラム検証会議」の一連の会議録、「平和教育プログラム改訂会議作業部会」作成資料のコピーを開示した。ところが、それらの会議録や作成資料には、会議メンバーのうちいったい誰が、いつ、どのような理由から『はだしのゲン』の削除や新しい教材の導入を提案したのかを明らかにしているような資料は、全く含まれていない。さらに、「既存教材の削除」や「新教材の選択」についてメンバーが合意したという記載もなく、複数の会議録では、途中から突然差し替え教材についての審議が始まっているのである。これはどう考えてもおかしな話で、意図的に広島市が開示しなかった関連記録があるのではないかという疑いがもたれる。
広島市教育委員会の「平和教育プログラム」や『ひろしま平和ノート』を議論する委員には、「平和教育プログラム策定委員」、「平和教育プログラム策定専門委員」、「平和教育プログラム検証会議構成員」、「平和教育プログラム改訂会議構成員」、「平和教育プログラム改訂会作業部会員」など合計で30名ほどがいるようである。その多くは、広島市立学校の現職または元教員のようである。しかし、その委員の中に、上記の広島県「国際平和拠点ひろしま構想」のタスクフォースの一員で、かつ2013年から始まった「ひろしまレポート作成事業」の研究委員会のメンバーを当初から現在まで務めている、水本和美が含まれている。しかも彼は、「平和教育プログラム策定委員」と「平和教育プログラム改訂会議構成員」の2つの委員を兼務していることから、広島市の「平和教育プログラム」や『ひろしま平和ノート』の内容決定に関してかなりの影響力を及ぼしていると推察できる。
昨年の3月28日の日本国際問題研究所主催の「ひろしまレポート」ウェビナーでは、水本は、『はだしのゲン』削除問題に関して起きている市民運動を「断罪型」として批判し、市民運動には以下のような方法を取ることを勧めている。
*批判より成果をアピールすること。
*要求を突きつけるより、対話のチャンネルをどう維持するかに主眼をもつこと。
*厳しい現実を告発するより、市民に広がる前向きな価値観をアピールすること。
*被爆体験継承の危機に警鐘を鳴らすのではなく、すでに実施している多様な取り組みを紹介すること。
*核兵器の被害の実態の告発より、世界各地の核被害者(グローバルヒバクシャ)同士の交流をアピールすること。
*「希望のメッセージ」を重視し、運動参加者にも希望をもたらすこと。
「核兵器を抱きしめている」米国に「抱きしめられたい広島と日本」の、これほど酷い現状に何の問題も感ぜず、こんな貧弱なアプローチ方法から「希望のメッセージ」が市民運動に産まれてくるなどと言えるのは、市民運動を愚弄侮蔑している脳天気な佞儒だけである。佞儒に市民運動に助言を与える資格はない ― 「恥を知れ!」とだけ述べておく。
― 終わり ―
次回 第6回:抱きしめられたい広島と日本(その2)
「広島の平和教育」への私的提言 ― 『ひろしま平和ノート』改悪を乗り超える展望を ―
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